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(増補版)554E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年3月~1892年3月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)554E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年3月~1892年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年3月1日、日本鉄道会社が、水戸鉄道会社を買収した
 (1891年説あり)
  1891年、水戸鉄道(現:水戸線小山駅~水戸駅間)を
 買収、途中駅である友部を分岐点として1895年11月4日に
 友部駅~土浦駅間の土浦線(現常磐線)北部区間、また、
 1896年12月25日に、土浦駅~田端駅間の同南部区間を開
 業した。
1892年3月4日 帝国大学教授・久米邦武が、「神道は祭天の
 古俗」の論文により休職。
  久米邦武が、「史海」に転載され発表した論文「神道
 は祭天の古俗」で反発を買い、東京帝国大学教授の地位
 を免官された。
  「神道は祭天の古俗」は、「神道は天(自然)を祭る
 古い習俗」という意味で・・、
  久米は、「神道は宗教に非ず」と言った。
  1891年1月に「神道ハ祭天ノ古俗」を『史学雑誌』に発
 表していた。
  そして、1892年に、転載されて、この時、初めて問題
 になったのは、「史海」の主宰者の田口卯吉が、以下の
 文を記し、神道家を徴発したからだった・・、
  「余ハ此篇ヲ読ミ、私ニ我邦現今ノアル神道熱心家ハ
 決シテ緘黙スベキ場合ニアラザルヲ思フ、若シ彼等ニシ
 テ尚ホ緘黙セバ余ハ彼等ハ全ク閉口シタルモノト見做サ
 ザルベカラズ」
1892年3月5日、(氷川清話)勝海舟、70歳の高齢につき御
 盃及び酒肴料下賜。
1892年3月11日、品川弥二郎内相が引責辞任した。
  第2回臨時衆議院議員選挙の干渉を指示した内務大臣・
 品川弥二郎が責任を取り辞職した。
1892年3月14日、服制を改正し、駅長・助役の帽子、小判形
 を大黒形に改める
1892年3月16日、読売新聞が、活躍する女性「16名媛」を
 読者に投票させた結果を発表した。 (3月18日説あり)
1892年3月19日、東京府が、各学校に御真影および教育勅語
 を校内一室の場所に奉置を通達した。
  「忠愛志操ヲ養成」で近代国家の建設がしたいが、そ
 の根幹であった。
  初め、十数校の官立学校に限る予定が、下付の申請が
 拡大し、約百校の府県立学校へと拡大した。
  よくNHKなどが偏見をもって言う「軍国主義」をつ
 くるためという目的ではなかった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカは、儲かるとなれば、昨日まで、言っていたことでも・・「コロリと変える」・・
.
紀元前2600万年、アフリカ大地溝帯の形成
  化石人骨が多数発見される「グレートリフト・バレー」
 と呼ばれる幅30㎞~60㎞の細長い窪地の列を「アフリカ
 大地溝帯」呼び・・、
  この「アフリカ大地溝帯」は、亀裂の縁と底の高低差
 が1000メートルにも達し・・、
  この大陥没滞は、南北6400㎞にも達している。
  アフリカの約60%は、標高500メートル以上の大地で、
 「アフリカ・プレート」と呼ばれる。
  この大地溝帯のアフリカ東部の台地の「裂け目」は、
 紀元前2600万年前からその形成が始まった。
.
紀元前500万年、アウストラロピテクス発見
  化石人骨の発掘によって最古の人類の祖先が、アフリ
 カのエチオピアのタンザニアで発見された。
  「アウストラロピテクス(ラテン語で南の猿の意味)」
 で背骨、骨盤、下肢などの形態から、直立二足歩行をし
 ていたことが明らかで・・、
  人類最古の祖先と見なされている。
.
紀元前1万年、最後の氷河期が去った。
  人類の出現は、約500万年前であるが・・、
  人類は、今まで、4回の氷河期などの気候激変期を生き
 抜いて来た。
  約1万年前に、最後の氷河期が去った。
  その後、地球が温暖化をして行くと、砂漠化・乾燥化
 が起きた。
  対流圏と呼ぶ地球規模の空気の循環で、広大な砂漠地
 帯が生み出された。
  赤道付近で上昇気流を起こした大気は、上空から南北
 の回帰線付近で下降し、乾燥空気となって下りて来た。
  その地域は、年間降雨量が250ミリ以下で、降雨量より
 も蒸発量が多く、乾燥化した。
  この地域は、人類が生活するするには極めて厳しく、
 人類は、約1万年前、この砂漠化地域から移住した。
  砂漠周辺の耐乾性の草が育つ「ステップ」に移住した。
  この地域は、年間降水量が、350~600ミリで、長さが
 50センチ以下の草でおおわれた草原。
  この頃の地球の人口は、約500万人。
  ステップで畑を作り、野生の麦など、イネ科の穀物を
 栽培し・・社会が形成され現れた。
  焼き畑農業を始めた。
  穀物を収穫するための道具(新石器)、新しい社会の
 仕組みも必要とした。
.
391年、キリスト教の愚行・・知的財産の焼却行為
  キリスト教は、愚かにも70万巻の蔵書を誇る世界有数
 のアレクサンドリア図書館を焼き払った。
  さらに、キリスト教の意に合わないと、グノーシス主
 義者・バシレイデスの全著書、哲学者・ポルフュリオス
 の著書36巻、神秘主義27派のパピルスの巻物、エジブト
 王プトレマイオス・フィラデルフォスが集めた27万巻に
 上る古代の文書もすぺて灰と化した。
  キリスト教徒が、長い時をかけて本や図書館を焼き尽
 くした後・・、
  ギリシア正教会の名高い教父・聖ヨハンネス・クリュ
 ソストモスは誇らしげにこう言った・・、
  「古代世界の古典哲学や文学は、この地上から跡形も
 なく消え失せた」
.
1930年、無私の奉仕行為:台湾国の開発と八田与一
  日本の統治下にあった台湾の嘉南(かなん)平野は、
 台湾の全耕地面積の6分の1を占めるほどの広さだが、悲
 惨な状態にあった。
  雨期の洪水と乾期の水不足に悩まされる不毛の土地に
 等しかった。
  日本の石川県に生まれて、東京帝国大学で土木技術を
 学んだのち、台湾総督府に赴任した八田与一(1886年~
 1942年)は、現地を調査して工事計画書を提出した。
  それは、嘉南平野の上流の川をせき止めてダムを作り、
 安定して水を供給する灌漑施設を作るというものだった。
  工事は困難をきわめた。
  ある日のこと、石油ガスの爆発がおこり、50人余りが
 死亡する大惨事となった。
  八田は、「もう私の言う事を聞いてくれる人は居ない
 だろう」と嘆いたが・・、
  台湾の人たちは、「事故は、あなたのせいじゃない。
  貴方は、私たちの為に、台湾の為に、命がけで働いて
 いる貴方なのです」・・と、逆に八田が励まされた。
  1930年、10年がかりの世紀の大事業は完成した。
  嘉南平野は、緑の大地に生まれ変わった・・耕作地が
 膨大に増えた。。
  アメリカの土木学会は、「八田ダム」と名付け、世界
 にその功績・偉業を紹介した。
  日本は、内地の日本と同様に、差別なく台湾や朝鮮の
 国づくりをしていた。
.
1937年12月7日、アメリカが参戦し、中国を支援する戦い
  アメリカ支援の中国との戦い・南京の戦いの大詰めの
 頃・・、
  この日、中国・国民政府支援のアメリカは、南京陥落
 直前の中国・国民政府の首都・南京から、中国トップの
 蒋介石夫妻を脱出させた。
  アメリカ兵の操縦する2機のアメリカ大型機による脱出
 だった。
  日本の攻撃の始まる前に脱出しようと、夜明け直前に
 決行された。
  側近も同乗した。
  アメリカは、どっぷり中国側へ浸かって、中国と共に、
 日本と戦っていた。
  しかし、卑劣にも、アメリカは、この事を秘密にして
 いた。
  第二次世界大戦へつながるこの戦いに、アメリカは、
 すでにどっぷり浸かって、日本と戦い、参戦していた。
  秘密にするぐらいなので、当然、アメリカは、日本に
 対して、「宣戦布告はしていない」。
.
1942年6月、日本軍が、フィリピンを激戦の末、制圧した。
  日本は、アメリカへ宣戦布告して、アメリカの植民地
 であり、また、アメリカ軍の居るフィリピンへ攻撃を加
 えた。
  そして、アメリカ軍との激戦の末、日本は、1942年6月
 までに、アメリカ軍を制圧し、アメリカ軍をフィリピン
 から撤退させた。
  日本は、アメリカ軍と戦ったのである。
  フィリピン軍と戦うという意思もなく、また、目的も
 皆無だった
  アメリカ軍のマッカーサー将軍は、「アイ、シャル、
 リターン(私は戻って来る)」という有名な言葉を残し
 て撤退した。
  そして、この2年4か月後の1944年10月、アメリカ軍の
 反抗で・・『レイテ沖海戦(1944年10月23日~1944年10
 月25日)』での日本の大敗など、フィリピンの地での激
 戦が、また、始められた。
  アメリカ軍は、卑劣にもフィリピンの方々へ「武器を
 渡した」。
  (日本は、この様に現地の人を、自国軍の兵隊などに
 して、自国軍と一緒に戦わさせていない・・
  自国軍の応援など一切させていない・・
  逆に、雇用していた現地の方々などを、戦争が始まり
 そうになると村へ返していた)
  アメリカは、自国軍へ味方するようにした。
  そして、フィリピンの方々を、軍人ではないフィリピ
 ンの方々を、巻き添えにした。
  この様な卑劣な手段をし講じて、巻き込んだ戦いをし
 た。
  日本は、戦いに巻き込まれたフィリピンの方々とアメ
 リカ軍に苦戦した。
  戦争に巻き込まれたフィリピンの方々の戦没者は、111
 万人となった。
  アメリカ軍の取り込みさえなければ死なないで済んだ
 方々だった。
  また、日本人の戦没者は51万8000人となった。
  戦争が終わって、戦後、日本は、フィリピンの方々へ
 謝罪し、サンフランシスコ講和条約を経て、1956年、日
 本とフィリッピンの「日比賠償協定が結ばれ」、
  1956年7月23日に発効し、
  日本は、フィリピンの方々へ、はっきり謝罪し、賠償
 して、国交が開かれ、正常化した。
  しかし、フィリピンの方々へ武器を渡す行為までして、
 戦争に巻き込んだアメリカの「フィリピンの方々への謝
 罪」の話は、また、賠償の話は、今まで、聞いたことが
 無い・・その様なことを一切しないアメリカである。
  ホッカムリしているアメリカである。
  日本の真珠湾攻撃の時、日本は、アメリカの「軍に対
 してしか攻撃をしなかった・・当然である」。
  まったく、アメリカの一般市民の方々への攻撃はして
 いない。
  無実の一般市民の方々への殺戮は「行っていない」。
  アメリカの一般市民の方々の死者が出ているのである
 が、これを調べると、アメリカ軍が、自国民を誤射して
 いるのである。
  サッカーで言えば「オウン・ゴール」である。
  戦争とはこの様なものであり、アメリカが、卑劣にも
 フィリピンの方々へ武器を渡して戦わせたのなら、それ
 でなくてもフィリピンの方々の死者が出るものを、戦争
 に巻き込んだら、多くの戦没者・犠牲者の方々が出るの
 は火を見るのも明らかである。
  アメリカは、自分たちのこの様な行為に関してまった
 く謝罪する意思はない。
  日本は、誠実に謝罪をし続けている。
  アメリカは、アン・フェアなアメリカとなっている。
  『マニラ裁判』をして、これを裁くべきである。
.
1945年9月12日、GHQのマッカーサー元帥が、記者会見で
 「日本は四等国に転落」と発言した。
  そして、「再び、世界の強国に復活することは不可能
 である」と発表。
  また、マッカーサーには、スイス公使に力説した次の
 言葉がある・・、
  「戦後日本は、国際社会で憐(あわ)れな地位を占め
 ることとなろう」・・、
.
1945年9月19日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、
 プレスコード(新聞編集綱領)を出した。
  (参考)プレスコード:占領軍総司令部が、日本の新
     聞に対して発令した規則で、卑劣な口封じ策だ
     った。
      占領政策への批判の取締りが目的だった。
      多くの強姦や殺人の報道が規制され、新聞報
     道ができなかった・・事実が隠された。
      1952年まで続き、講和条約発効によって失効。
  日本新聞遵則 (Press Code for Japan) を発令(発表
 は21日)
  このプレスコードによる卑劣な報道規制によって、ア
 メリカ軍などの占領軍の犯罪行為の報道が、日本のメデ
 ィアから消えた。
  あまりにも強姦・殺人などの犯罪が多かったために、
 報道するなとされた。
  卑劣にも、この検閲の存在そのものにも緘口令(かん
 こうれい、他の人にいう事を禁止すること)が敷かれた。
  またさらに、卑劣な事に、連合国軍兵士の凶悪犯罪は
 「大男」と記すことによって検閲を免れていたことが、
 暗黙の了解となっていた。
  GHQの資料・記録には、まったく少ない数(一桁)
 が書かれ、一目で「嘘つき資料」「誤魔化し記録」と分
 かる・・、
  日本の調達庁の資料では、7年の占領期間中にアメリカ
 軍兵士に殺された者が2536人、傷害を負った者が3012人
 とある。
  また、警察の資料では、アメリカ軍兵士が日本人女性
 を襲った事件は2万件と記録されている。
  世界記憶遺産に登録申請せよ!
.
1945年12月24日、生田警察署襲撃事件
  現在の兵庫県神戸市中央区にある生田警察署が襲撃さ
 れた。
  在日朝鮮人(当時は法的には朝鮮半島は日本の領土)
 からなる暴徒によって、1945年12月24日、および、翌年
 の1946年1月9日の2回続けて発生した。
  1945年12月24日午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒
 が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入した。
  署員を拳銃や日本刀・匕首(短刀)を突きつけて軟禁
 した。
  1946年1月9日の事件は、三宮ガード下で、賭博団が検
 挙されたことを怒り、30人~40人の朝鮮人が、犯人の奪
 還を目的に署内に侵入した。
  この当時、この様な朝鮮半島人による事件が多発して
 いた。
  日本の敗戦を受けて、日本の領土であった朝鮮半島人
 等の中には「戦勝国民」を自称する者が多く現れた。
  そして、出稼ぎ先の日本国内において数々の犯罪を犯
 した。
  組織的かつ広範囲に、警察を襲撃し、土地家屋や鉄道
 などの公共施設を強奪し、市民に暴行をふるい、闇市に
 関与した。
  市民社会でも、恒常的に、殺人、強盗、強姦事件が多
 発した。
  しかし、朝鮮人や中国人の犯罪の事実は、連合国軍最
 高司令官(マッカーサー)の検閲によって、削除される
 か、控え目な報道をするように命じられた。
  連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の資料による
 と・・、
  日本国内だけで、最低4000人の日本人市民が朝鮮人の
 犠牲となり殺害されたとある。
  これは、まったく少ない数字で、氷山の一角に過ぎな
 いという。
  あまりの酷さに・・吉田首相は、朝鮮人の犯罪傾向に
 ついて言及しつつ・・、
  「朝鮮人は、日本の再建に利さないため帰国させるべ
 き」とマッカーサーに書簡で訴え・・大半の朝鮮人を帰
 還させた。
  日本が去った朝鮮半島南部に建国されたばかりの大韓
 民国の李承晩は、「李承晩ライン」を引いて竹島を占拠
 した上で・・日本人漁民を殺害・抑留し、抑留者の返還
 と引き換えに重大犯罪を犯した朝鮮人472人を放免し、
  さらに、日本にとどまった朝鮮人に日本在留特別許可
 を与えるようにと要求した。
  日本を貶めてばかりいるNHKは、この様な事を放送
 しない。
  中国や朝鮮に味方ばかりするNHKは、この様な事を
 放送しない。
.
1952年2月10日、トカラ列島(下七島)が日本に復帰した。
  トカラ列島は、南西諸島のうち、鹿児島県側の薩南諸
 島に属する島嶼群。
  行政区域は、全島が鹿児島県鹿児島郡十島村。
  天気予報区分では、奄美地方の一部。
  地名の由来は諸説あるが、「沖の海原」を指す「トハ
 ラ」から転訛したという説が有力。
  今から1300年以上も前・・『続日本紀』に、699年8月
 19日(文武天皇3年七月辛未)に・・、多褹、夜久、菴美、
 度感の人が物を貢いだと記されていて、
  これらの地名はそれぞれ種子島・屋久島・奄美大島・
 トカラ(吐噶喇)にあたる。
  1946年2月2日に、GHQ(連合国総司令部)の宣言に
 より、北緯30度(トカラ列島)以南がアメリカ軍の軍政
 下に置かれ、
  そして、1952年のこの日、日本へ復帰した。
  おもな島は、口之島、中之島、臥蛇島(無人島)、小
 臥蛇島(無人島)、平島、諏訪之瀬島、悪石島、小島(
 無人島)、小宝島、宝島、上ノ根島(無人島)、横当島
 (無人島)
.
1960年2月、フランスが核保有国になった。
  ド・ゴール大統領が、「フランスの安全保障を、アメ
 リカの核の傘に依存せずに済むようにする」との信念で、
 通常兵力削減の代わりに、フランス独自の核兵器の開発
 を推進した。
  1960年2月には、サハラ砂漠のレガーヌ実験場で原爆実
 験に成功し、アメリカ、ソ連、イギリスに次ぐ核保有国
 となった。
  1963年の部分的核実験禁止条約には加盟せず、以降も、
 アルジェリアなどで核実験を繰り返した。
  このフランスのド・ゴール大統領(任期:1959年~1969
 年)は言った・・、
  「自分で自分の国を守ろうとしない国は、国家として
 のレジティマシー(正統性)は無い」・・と・・、
  それは、国民国家(ネーション・ステート)の最初の
 要件は『安全保障』である・・と・・
  16世紀~18世紀にかけて、世界の諸民族は、「自らを
 守る必要性のため」に、国民国家を作った。
  逆に言えば、自らの安全保障の義務を果たそうとしな
 い国家には、最初から、「レジティマシーが欠けている」。
  ホップスやモーゲンソーが指摘している・・、
  「人間の自然状態は、万人の万人に対する闘争」であ
 る。
  その中で、最終的に我々を「自然状態(=永続的な闘
 争)」から守ってくれるものは、国家である。
  もし国家が国民を守らないのなら、そんな国家に対し
 て国民は忠誠心を感じない。
  国家が、「国民を守る意思と能力」を示すからこそ、
 国民は、国家に対して忠誠心を持つ。
  はっきりと国民を守ろうとする意思を示さない国家は、
 無責任な国家だと言える。
  また、世界からも、当然、自国民からも尊敬はされな
 いし、信頼もされない。
  そういう意味で、北朝鮮は、必死に「自国民を守ろう
 としている」。
  ド・ゴールの言葉の主旨・・、
  「国は、国民を保護しなければならない。そうしなく
 なれば国家とは言えないし、国民に忠誠を求める事も出
 来ない」。
  「日本は、自国の独立を維持するために必要な『自主
 的な抑止力』が必要。
  『ミニマム・ディテランス』と呼ばれるごく少量の核
 兵器が必要。
  現状を維持するための核兵器が必要。
  攻撃のための核兵器ではなく、「殺されないための核
 兵器」。
  因みに、「核の持ち込み」では、真の核抑止力とはな
 らない。
  石破氏は、こんな事を言って国を惑わせているが「間
 違いだ」。
  因みに、「核の持ち込み」は、日本ですでになされて
 いる。
  北朝鮮も、中国も、ロシアも、そんなことは計算済み。
  見え見えの『非核三原則』はなされていない。
  『非核三原則』は、遠い過去の話・・、
.
1960年代、アメリカ国内における人権意識、公民権運動の
 高まりの中で、日系人はにわかに「模範的マイノリティ」
 として賞賛されるようになった。
  日本人の誠実さ、勤勉さ、努力家などが理解された。
.
1968年、核拡散防止条約(NPT)が締結された。
  この条約は、表面上は美しく見えるが、まったく欺瞞
 (ぎまん、人の目をごまかし、だますこと)に満ちた条
 約だ。
  一寸見(ちょっとみ、ちょっと見た様子)は美しく、
 且つ、良さそうに見えるが、
  そして、「世界の人々は、どこかで美しい事がなされ
 ているのだろうと期待して見ているが・・実態は、誤魔
 化されている・・実態はまるっきり違う」。
  アメリカのマクナマラ国防長官は・・引退をしたら、
 この「欺瞞の点」について口を開いた。
  さすが、現役で、仕事を盛んに携(たずさ)わってい
 る時には言えなかったことを、その職を退いた後には、
 良心の呵責からか、この条約の欺瞞性について、本当の
 心の内を語った・・、
  「アメリカの態度は不道徳だ」・・と、
  「アメリカの核拡散防止条約・NPTに対する態度は、
 単に、条約違反であるというだけではなく(その条約違
 反行為だけでも、不誠実この上ないが)、アメリカは不
 道徳そのものだ」・・と。
  (参考)良心(りょうしん)とは、自身に内在する社
     会一般的な価値観(規範意識)に照らして、こ
     との可否ないし善悪を測る心の働きのこと。
      英語ではconscienceと表記され、その語源に
     は日本語のような「良」を意味する部分はない 。
      ... 罪悪感が入り混じった複雑な感情の動きを
     良心の呵責と称される。
  日本は、この様な条約から脱退をするべきだ。
  第6条なんて「完全に履行されていない」。
  第6条は、「核保有国は、核兵器の廃絶をする」と約束
 されているが、完全に無視されている・・馬鹿々々しい
 状況である。
  アメリカは、依然として8000発~10000発の核弾頭を持
 っていて、そして、核の増産までしている。
  ロシアも、12000発~16000発の核弾頭を持っていて、
 ロシアも増産をしている。
  そして、卑劣な事に・・アメリカも、ロシアも、その
 増産は大規模に行われ続けている。
  まったく、条約なんてあったもんじゃない。
  さらに、数万発の核弾頭を生産しようと、その原料の
 プルトニウムや濃縮ウラニウムを、秘密裏に数か所の施
 設に隠し持っている。
  第6条を守ろうという「意思は、まったくない」。
  こんな裏切りを、「アメリカ」も、「ロシア」も、や
 っている。
  欺瞞だらけの裏切り行為の中にある条約なのだ。
  非核保有国の核武装の禁止にだけは、傲慢(ごうまん、
 高ぶって人をあなどり見下す態度であること)に、高飛
 車に、高圧的に、日本に押し付けてくる。
  君たちは何をしているのだと、アメリカに聞きたい。
  日本をターゲットにしている。
  アメリカは、新型核弾頭を「これから作って行こう」
 とさえしている。
  その為の生産施設や研究所を作っている。
  一向(いっこう)に止めようとはしていない。
  そんな気は、「爪の垢(あか)ほどもないアメリカ」
 である。
  馬鹿々々しいにも程(ほど)がある(「・・にも程が
 ある」の形で、程度・限度を超えている状態に対して、
 非難の意を込めて言っている)
.
1978年、デイビッド・ロックフェラーが、日本文化を伝え
 る非営利団体「ジャパン・ソサエティー」の名誉会長に
 就任した。
  来日した際、その時に、スピーチで嘆いた・・、
  「反日のアメリカ国会議員の、その反日姿勢を和(や
 わ)らげるため、また、緩和するために・・、
  日本の通産省は、そのアメリカ議員の応援を始める」
 ・・と、
  そして、「そのアメリカの反日議員に対してプレゼン
 トを与える」・・、
  それは、日本の企業(工場)を、そのアメリカの反日
 国会議員の選挙区に誘致する」
  「そのアメリカの反日国会議員は、息を吹き返し、落
 選が目の前であったのが当選し、元気になって、日本た
 たきに走り回っている」と・・そして・・、
  親日派のロックフェラー氏は、落選寸前だ・・と。
.
1997年、中国の環境汚染がひどい。
  中国は急速な経済発展をしているが、その陰の部分が
 ある・・公害問題である。
  中国の意識が環境対策に対して認識不足であることも
 問題を大きくしている。
  公害対策に当てている予算も日本の4分の1以下と少な
 い。
  環境汚染に対する紛争も激増している(1997年頃から
 出始め、2008年には約7倍となっている)
  中国の水銀汚染は、すごくて、怖い状況。
  黄河の水は汚染されていて「劣5クラス」で、「いか
 なる用途にも使えない」とされている。
  この水銀が、P2.5の様に日本に飛来して、日本を汚染
 しているという。
  琵琶湖のナマズから水銀が検出されたという。
  中国では、唐辛子、トウモロコシ、米などの作物の含
 有水銀量が高いと問題となっている。
  また、河川や土壌の含有水銀量も高い。
  1949年~1973年の「大躍進」「文化大革命」での盲目
 的な生産・増産が環境破壊的な生産だった。
  食品中の水銀含有が心配になっている。
  汚染物の垂れ流しで、排出抑制を必要としている。
  水銀含有の廃棄物の処理も問題になっている。
  中国政府も水銀、カドミウム、鉛、クロムなどの重金
 属汚染を2007年比で15%低減したいとしている。
  因みに、滋賀県立大学環境科学部は、2010年から、中
 国から偏西風によって飛んできた水銀が日本の内陸水域
 の魚類にどう影響するかを調べている。
  そこで発見されたのが、前記した琵琶湖のナマズから
 恐れていた様に水銀が検出された。
  この時、ショッキングな数値が出た。
  日本の国の魚介類に含まれる総水銀の暫定規制値を0.4
 PPMと定めているが、この琵琶湖のナマズはこの数値の約
 2倍の0.856PPMであった。
  規制値を2倍も超えるというショッキングな汚染度だっ
 た。
.
1999年、韓国が、世界の歴史学会で、「日本による日韓併
 合は侵略である」という主張を持ち出した。
  世界の歴史学者たちが議論をし、また、戦わせた。
  その結果、韓国側の主張は退(しりぞ))けられ、「
 日韓併合は、条約による併合であり、侵略ではない」と
 いう結論が出た。
  しかし、卑劣にも、韓国は、その後、同じ主張を繰り
 返し続けている。
  卑劣にも、アメリカ・メディアは、「日本による苛酷
 な植民地支配」という言葉が、枕詞的(まくらことばて
 き)に、韓国と一緒になって使っている。
.
2004年、盧武鉉(ノ・ムヒョン)韓国大統領が、「反民族
 行為者財産の国家帰属に関する特別法」、別名「親日派
 糾弾法」を出した。
  在米韓国人が、アメリカでも黒人の方々や、ヒスパニ
 ックの方々に対して差別を行なって、アメリカ国内で問
 題となっているが・・、
  韓国国内でも、親日家だった李完用を、売国奴として
 扱い。
  また、朝鮮戦争の英雄の白善燁(ペク・ソニョプ)将
 軍までも親日だとつるし上げた。
  嫌日から発する人権弾圧行為である。
  韓国は、遠い昔から、豊かな日本、文化の花咲く日本
 を逆恨みして、この様な態度を示して来た。
  恩を受けても、恩とせず、結局、その恩を仇で返す様
 なことを、歴史的にズーットして来た。
.
2006年3月、アメリカは、インドにゴマを摺(す)った。
  アメリカは、儲けの為にインドを無視できないと・・、
  2006年3月、核拡散防止条約(NPT)に加盟もしてい
 ないインドへ、「核開発に協力する」と言った。
  そして、ブッシュ大統領(子)が、インドを訪問した。
  インドのマンモハン・シン首相と会談し、「米印(ア
 メリカ・インド)平和原子力協力法」を締結した。
  アメリカ国内から、「核不拡散政策を転換するのか?」
 の批判の声が上がった・・が、しかし・・
  ブッシュ大統領(子)は、「時代は変わっているのだ」
 と答えた。
  そして、「過去に縛られるな。インドの原子力産業の
 発展は、我が国(アメリカ)の経済に資するのだ」と言
 い、
  また、「世界のエネルギー問題にも資するのだ」と言
 った。
  アメリカは、儲かるとなれば、昨日まで、言っていた
 ことでも「コロリと変える」・・
.
2012年8月10日、韓国の李明博大統領は、日本領の竹島に上
 陸した。
  韓国領だと主張したかった。
  韓国の現役大統領の竹島上陸は、今までの韓国大統領
 がやっていなかった愚挙を行なった。
.
2012年8月14日、天皇陛下への侮辱発言。
  韓国の李明博大統領が、日本の天皇陛下への侮辱発言
 をした。
  「天皇が足を縛って跪(ひざまづ)いて土下座するな
 ら、訪問してもいい」。
  この発言を日本メディアは報道しなかった。
  ただ「謝罪すれば」にした。
.
2016年7月24日、企業経営者で作家の河添恵子氏は、イギリ
 スの経済が復活するのか?と経済復活が難しいイギリス
 の事情を説明している。
  https://www.youtube.com/watch?v=-Bg24EOmQzk
  かつてのイギリスの栄光は、霧のかなたに消え去り、
 そして、埋没してしまった沈んだイギリスが今である・・
 と・・
.
2016年9月、アメリカのパイプライン建設工事に対して、裁
 判所が、「一時的な建設中止命令」を出した。
  NBCテレビ(長崎放送)が、「日本の実業家が、ク
 リントンの献金パーティーに出席していたことに対し、
 これは、選挙資金違反行為ではないか」と報道していた
 ・・しかし・・、
  ここに絡んで来るのが、中国の金をふんだんに使った
 プロパガンダ行為・・、
  中国は、アメリカで盛んに日本を貶(おとし)めるプ
 ロパガンダ行為を行なっているが・・、
  アメリカでは、前記の様な、日本を貶める行為がよく
 取り沙汰される。
  日本より中国の方が、日本より多くこの類の事をして
 いる・・しかし、日本は上記の様な事をアメリカでよく
 取り沙汰される。
  また、その一つ・・
  アメリカで、「ダコタの環境を破壊する開発」に、日
 本企業が出資していると、アメリカで取り沙汰された話・・、
  その「ダコタの環境を破壊する開発」とは・・、
  アメリカのノースダコタ州とイリノイ州を結ぶ約1,800
 kmの「ダコタ・アクセス・パイプライン」の建設のこと。
  ノースダコタ州のバッケン油田から、サウスダコタ州、
 アイオワ州を通過して、イリノイ州まで・・、
  バッケン地域に眠る74億バレルもあるともいわれてい
 る未採掘の原油を、1日あたり47万バレル輸送するという
 計画。
  建設ルートは、アメリカ・インディアンの方々の居留
 区は避けているが、近くに居留区があり、
  地元先住民の「スタンディングロック・スー族」の方々
 が、数週間にわたってキャンプを張って、抗議の座り込
 みを行った。
  (命の水である川の水の汚染に対する抗議)
  許認可権限を持つ米国陸軍工兵隊は・・、
  「居留区への影響は与えない」「環境汚染の心配もな
 い」と却下し・・パイプライン建設を認可した。
  このスタンディングロック・スー族の方々の貧困率は、
 全米平均の3倍以上の41%と、非常に高い状態となってい
 て、
  この様な生活状況に・・「聖なる水」の汚染問題が加
 わってもらいたくない・・という気持ちが存在する。
  良い生活環境下に居られない先住民の方々、それを改
 善できないというアメリカ行政の問題が・・その根っこ
 にある。
  また、アメリカの石油・ガスの掘削やパイプラインの
 漏出事故が「日常茶飯である」という現状が、この抗議
 の根本にもある。
  因みに、2006年~2015年の10年間に、事故が16万7000
 件も起きている(アメリカ運輸省パイプライン・有害物
 質安全庁の統計資料による)
  そして、この問題は、裁判問題にも発展し、
  また、国連も「先住民に対するこれ以上の人権侵害を
 避けるべき」と懸念を表明している。
  2016年9月に、連邦裁判所の判決が出て、「一時的な建
 設の中止命令」が出された。
.
2017年、キリスト教は、日本の国旗掲揚と国歌斉唱に反対
 しているが、この様に、あらゆる面で、日本を貶める行
 為をしている。
  杉原千畝の事例もそうである。
  杉原千畝はキリスト教徒であるので、キリスト教は、
 この杉原千畝を「広告塔に祭り上げた」。
  その祭り上げの論理の中で、日本は、貶められた。
  日本は、ナチス・ドイツと三国同盟をしていて、ナチ
 スはユダヤ人の方々を迫害していたが、その同盟関係に
 あった日本もまた、ユダヤ人を迫害していた・・という
 言い方で、キリスト教は日本を貶めた・・、
  キリスト教徒の杉原千畝は、ユダヤ人を救うビザを発
 給したと・・嘘の中でこの話をした。
  日本の反対を押し切って行った・・と、キリスト教は、
 嘘の美化をした。
  これは、まったく事実と反する。
  日本は、ユダヤ人の方々を「亡国の民」として「救う
 事を国是としていた」。
  キリスト教の言う事とまったく逆なのである。
  ナチスから共同行動をとってくれと言われても、「拒
 否していたのである」。
  キリスト教の言う事と、まったく逆なのである。
  杉原千畝は、ビザを発給できない立場の人間だった。
  それ故、「君は資格が無く、やれば、規則違反になる
 からできないよ」を問うていたのを・・、
  キリスト教は、杉原の足を引っ張っていたと嘘を言っ
 た。
  杉原は、外交官ではない、ただの外務省職員である。
  ビザの発給をしてはいけない立場なのである。
  日本は、上海や、満州などで逃れて来たユダヤ人の方々
 を受け入れ、保護し、また、日本への渡航も許し、日本
 の神戸などで受け入れ、しっかり手を差し伸べている。
  今・現在においても、キリスト教組織は、日本を貶め
 る行為をしている。
  また、このキリスト教組織と共同歩調をとる読売新聞
 や、NHKも、言い方も、まったくキリスト教と同じに、
 日本を貶める行為をするメディアとなっている。
.
2017年、多数の人たちが、心底から嫌悪を催すような特権
 者の振る舞いには、正統性は無い。
  その意味で、ほんの一握りの者たちが、アメリカで、
 富を独り占めしているが、
  そして、巨大な資本家となり、また、世界的な独り占
 めとなっているが、
  アメリカにおいては、その金の勢いで、政治を我が物
 として牛耳っている。
  そして、その超巨大国家・アメリカを動かし、また、
 世界での金儲けに、その超巨大国家・アメリカを動かし
 ている。
  そして、その富は、益々、その一握りの者たちに集中
 し、社会構造の最先端に上り詰め、格差は広がる一方と
 なっている。
  この様な状況を作り出すのがグローバリズムである。
  これは間違っている。
  金にまみれた巨大資本の多国籍企業が、地球大の規模
 で、戦略的な金儲け行動をする。
  その時、他国の規則を踏みにじり、自分のやりやすい
 様に替えて行く。
  それが正義なのだと押し付けて行く。
  資本調達、人員の雇用、生産、マーケティングなどを、
 一国経済を無視して、国を無視し超えて、自分の尺度で
 世界的規模で展開して行く。
.
2017年、アメリカの財政赤字を救ってあげているのが日本。
  「アメリカよ! もっと日本に感謝してくれ」と言い
 たい。
  少なくとも、「日本が引き受けている、アメリカの財
 政赤字を救っている米国債は、『円建て』にしてくれ」
  近い将来、暴落の危険があるという「米ドルのリスク」
 まで日本に取らせないでくれ!
  そんなところまで、日本におんぶにだっこの肩代わり
 をさせないでくれ!
  また、当然だが、『担保も付けてくれ』。
  「借りた金は絶対に返す・・という意気込みを見せて
 くれ」
  「万が一、金が返せなくなったなら、日本に、アメリ
 カの一州ぐらいは、担保として付けるから、その万が一
 の時は差し上げるから・・くらいの事は、言ってくれ」
  アメリカよ! 日本が、「アメリカ政府を支えている
 事と、国連分担金を支えている事・・この二つの重責を
 誠実に履行していることを、「重く理解してくれ」・・!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)553E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年2月~1892年3月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)553E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年2月~1892年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年2月、筑豊興業鉄道会社線が、直方駅~飯塚駅間、お
 よび、直方駅~金田駅間を着工した。
  筑豊興業鉄道会社が建設した筑豊本線の若松駅~飯塚
 駅間は、1893年7月3日に、全線開通した。
  若松は、筑豊炭田の石炭の積出し港があった。
  1907年に、国有化された。
  筑豊興業鉄道は、筑豊の炭坑主たちが発起した会社だ
 った。
  免許は、1889年7月21日に、交付された。
  麻生グループの麻生太吉は、6番目の株主だった。
  麻生太吉は、取締役として経営に参画し、筑豊炭田の
 発展に尽力した。
  また、筑豊の鉄道網の充実を図って行った。
1892年2月、田口卯吉・佐分利一嗣らが、渋沢栄一・益田孝
 らとともに、東京経済学協会を組織して、
  『東京経済雑誌』に、3283. 1kmにのぼる路線計画を発
 表した。
  明治政府の偉かったのは、明治早々の1869年10月に、
 鉄道施設の計画を立てたことだった。
  1874年には、工部省鉄道寮が外人・ボイルなどを雇っ
 て、東京~高崎~新潟の路線を詳しく調べた。
  1881年、日本初の私設鉄道、日本鉄道が設立され、日
 本鉄道株式会社が、上野駅~前橋駅間の鉄道を計画した。
  1882年5月、鉄道許可を申請した。
  1883年、井上勝は、工部卿宛てに意見書「私設鉄道に
 関する論旨」を提出した。
  この中で、鉄道の用途は国道と同様であって、これを
 民営に委ねるべきでないと原則論を主張した。
  日本鉄道が、政府の手厚い保護を受けていたこともあ
 り、好調な決算を発表した。
  すると、日本各地で私設鉄道設立ブームが起こった。
  1884年の阪堺鉄道、1887年の伊予鉄道を皮切りに、
 両毛鉄道、山陽鉄道、水戸鉄道(初代)、九州鉄道(初
 代)、大阪鉄道(初代)などが認可され、それまでの官
 設官営の原則が崩れた。
  1891年、井上勝は「鉄道政略に関する議」を上申した。
 この上申書では、従来からの鉄道国有論に加えて既設私
 設鉄道の買収を前面に押し出し、そのため、私設鉄道買
 収法の制定が必要であるとした。
  1892年、第三回帝国議会に、買収法案に大幅な修正を
 加えた鉄道敷設法が提出され、可決された。
  井上勝の鉄道国有論に対抗して、鉄道民営論を唱えた
 のは、渋沢栄一や田口卯吉、中上川彦次郎、三井や三菱
 などの財界の有力者たちであった。
  彼らは、資本主義の発展にともなって、鉄道経営が大
 きな利益をもたらすとともに、産業支配と鉄道支配との
 間に密接な関連性があることをよく認識していた。
  渋沢らが関わる東京経済学協会が、1891年に、発表し
 た「鉄道調査報告書」に掲載された佐分利一嗣の論文で
 は、鉄道国有化論に対する反証を一々あげて論じ、
  「将来の鉄道は、私設民営たるべし」という結論を導
 いている。
  (参考)井上勝:日本の鉄道の父と呼ばれる人。長州
     藩士。鉄道官僚、技術者。
      1863年、伊藤博文、井上馨らと密航してイギ
     リスへ渡り、ロンドン大学で学ぶ。化学・鉄道・
     鉱山関係の技術を学んだ。帰国して工部省に出
     仕。
1892年2月、東京・牛込東五軒町に、東京慈愛病院が設立さ
 れた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:ゴースト・ダンスを踊る日本・・核兵器に追い立てられる日本・・になる。

.
1945年3月10日、東京大空襲
  アメリカが、東京を焼夷弾で空襲し、この日だけで、
 10万人以上を焼き殺し、100万人以上が罹災した。
  アメリカは、最初から、東京の無実の一般市民を狙っ
 て殺戮しようとして行なった。
  そして、この東京だけではなく、日本のすべての都市
 をこの様にしようとした。
  アメリカは、最初は、精密爆撃を行なって軍需工場を
 爆撃していたが、とうとう本性が表れて、無実の人々を
 殺戮し始めた。
  1945年3月13日~14日には、大阪が、この卑劣な無差別
 爆撃をされた。
  この第二次世界大戦では、日本中の都市という都市が、
 卑劣な無差別爆撃で、市民が虐殺された。
  卑劣にも、ディズニーが、『この無差別爆撃をしろ』
 とけしかけていた。
  ディズニーは、この悲惨な無差別爆撃の肯定派で、「
 無差別爆撃をするべきだ」との考えで、1943年には、映
 画までを作って、アメリカ全土で上映し、アメリカの方々
 を洗脳し、無差別爆撃を推進していた。
  このディズニーの考え方は・・、
  「日本を占領することではなく、消滅させることだ」
 という考え方で、
  その為に、「日本の都市を、徹底的に空爆すべきであ
 る」という考え方だった。
  この考え方には、日本人に対する「強い人種差別意識」
 があった。
  このディズニーの映画のクライマックスには、無数の
 巨大なアメリカ軍の爆撃機が、無数に、日本上空に現れ
 るや、突然、それらは、鷲に変わり、(アメリカは、よ
 く、鷲に例えられる)
  一方、日本は、タコの様な奇妙なものに変わり、鷲の
 その鋭い爪で引き裂かれ、殺されるシーンとなっている。
  醜い姿の日本として描き・・そして、「美しいアメリ
 カ」という字幕と、
  「航空機の力で勝利する」という字幕が流れた・・
  これは、「ヒットラーの様な卑劣な残虐殺戮はするな」
 のアメリカの人々の声を消す役目をした。
  (因みに、ディズニーには、ベトナム戦争に於いても、
 同様な行為をしている・・アメリカ兵のベトナム侵攻を
 肯定し、描いた映画を作って、アメリカを煽っている)
  ディズニーランドは、よく、キリスト教の行事をやっ
 ているが・・、有色人種の蔑視観を持っている・・
  企業という公正であるべき立場なのに、「キリスト教
 という特定宗教の『巧妙なる伝道行為』をしている」。
  ディズニーの人種差別意識などともつながっている。
  因みに、ディズニーランドの様な、公正であるべき企
 業が、特定宗教・キリスト教の巧妙なる伝道行為は、
 ISO26000の違反行為となっている・・国際規約違反。
  そしてまた、アメリカには、驚くべき卑劣な計画があ
 った(日本人大虐殺計画である)
  1944年、東京・大阪・名古屋など、人口密集都市部に、
 毒ガスによる無差別空爆を行う計画があった。
  これで、1500万人という途方もない多くの日本人を虐
 殺しよう・・殺戮しようという計画があった。
  この様な事を考えるアメリカだった。
  使う毒ガスは「マスタード・ガス」と「ホスゲン」だ
 った。
  (参考)マスタードガス:化学兵器のひとつ。2,2'-硫
     化ジクロロジエチルという化合物を主成分とし、
     糜爛剤(皮膚をただれさせる)。
      常温で無色・無臭であり、粘着性の液体。
      実戦での特徴的な点として、残留性、および、
     浸透性が高い(特に、ゴムでも浸透することが
     特徴)。防御が不可能。
      曝露後すぐには被曝したことには気付かない。
      皮膚以外にも消化管や造血器に障害を起こす。
  (参考)ホスゲン:炭素と酸素と塩素の化合物。二塩
     化カルボニルなどとも呼ばれ、毒性の高い気体
     (窒息剤)。希薄なものは木材や藁の腐敗臭。
      早期に眼、鼻、気道などの粘膜で加水分解に
     よって生じた塩酸によって刺激症状が生じる。
      無症状の潜伏期を経て肺水腫を起こす。
      潜伏期は数時間から、場合によっては24時間
     以上。
      肺水腫が進んで潜伏期が過ぎると咳、息切れ、
     呼吸困難、胸部絞扼感、胸痛などの自覚症状が
     出て、低酸素症を引き起こす。
      また、体液が肺胞に流出することによって血
     液濃縮を起こし、心不全に進行する。
.
1994年(平成6年)、今(2017年)から23年前、アメリカと
 北朝鮮が、かなり危機的な状態となった。
  ビル・クリントン第42代アメリカ大統領の時・・、
  アメリカに、「(戦争を)やる」という話が出た。
  アメリカ海軍は、「トマホーク」を使えば、北朝鮮の
 原子燃料施設を破壊できる・・とした。
  トマホーク攻撃なら、アメリカ兵の犠牲も出ないと・・、
  そして、金もかからないと・・、
  「やる寸前」まで行った。
  しかし、北朝鮮が、アメリカを脅した・・、
  「もし、アメリカ軍が、トマホーク攻撃を仕掛けて来
 たら、地上戦で、ソウルを火の海にしてやる」と言った。
  作戦実行に、アメリカ陸軍が反対した。
  韓国に、アメリカ軍3万人が居る、それに加えて、その
 家族が3万5千人居る。
  将兵家族の引き上げの問題だった。
  そして、クリントン政権のペリー国防長官が、クリン
 トン大統領へ・・、
  「全面戦争になったら、100万人の死者が出る」と言っ
 た。
  また、「アメリカ人も、8万人~10万人が死亡する」。
  そして、「我が国が負担する軍事費用は、1000億ドル
 (11兆円)に上る」・・と報告した。
  クリントン大統領は・・屈した。
  この時が、北朝鮮の核施設を無くすチャンスだったと
 言われている。
  この時、「日本は何をするべきか?」の考え方がまと
 まってなかったと指摘されている。
  この時、日米で共同作戦を取っていれば、「日米安保
 体制は、ゆるぎないものになっていた」という意見があ
 る。
  「日本に、日本の安全保障には何を為すべきか?」の
 一本筋の通ったものが無かったという・・、
  「アメリカに、依存しすぎる日本があった」という・・、
  日本の安全保障であるのに、上から下まで「甘え構造
 の日本だった」という・・、
  これで・・日本は、生き残れるのか?
  北朝鮮は、北朝鮮なりに、必死に生き残りを求め、生
 き残りをかけている。
  (核のない北朝鮮で、アメリカと付き合って行くとい
 う路線を・・否定している)。
  日本も、必死に、この様に生き残りを問い、そして、
 努力する必要がある・・
  日本は、消え去る事になるかもしれない。
  アメリカは、最後まで、責任を取るのだろうか・・??
  ある程度まで・・??
.
2003年3月20日、イラク戦争が始まった(~2011年12月15日)
  正規軍同士の戦闘は、2003年中に終了したが、イラク
 を統合していたタガが外れて、イラク社会は不安定とな
 り、治安悪化となり、乱れに乱れた。
  そして、イラク国内の戦闘は続き・・、
  泥沼の戦いだった。
  軽はずみのアメリカの判断から始められたこの戦争、
 まったく、アメリカの思惑通りに進まない武力行使だっ
 た。
  アメリカは、イラクのトップのフセインさえいなくな
 れば、イラクの民衆は、民主主義を欲しているから、社
 会は安定するだろうと予測していた・・しかし・・
  それは、フセインを殺しただけだった・・そして、
  社会を不安定化させただけだった・・、
  アメリカの青年と、戦争にまったく関係のないイラク
 の方々が、ただただ、大勢、死ぬという結果だけだった。
  最初・・、
  アメリカのブッシュ大統領(子)のイラク戦を始めた
 理由は・・、
  「イスラム教原理主義者によるテロを阻止するために、
 イラクの核兵器製造を止めなければならない」だった。
  しかし、これは大間違いだった。
  イラクには・・核兵器のかけらもなかった。
  巨大な武力を持つアメリカ大統領の意思で、この巨大
 な武力が動き出すという怖さが『如実に見せられた』。
  無実の人々のイラクが、この一人の巨大な武力を持っ
 ている男によって殺戮させられ、消滅させられた。
  知識が無く、故にだから、間違いの判断をするこの様
 な男の悲惨な武力行使だった。
  誰も、この事を正す人が居ないというアメリカだった。
  正義が機能していないアメリカだった。
  法も何も機能していない、法もあったもんじゃ無いと
 いうアメリカだった。
  まったく感情に押し流された国際法違反の行動がなさ
 れた。
  明日(あした)また、この様な男が出るという恐ろし
 さを持つアメリカが・・、
  今度は、いったい何をやるのかの「無謀さと怖さ」を、
 まざまざと見せつけられた。
  アメリカ帝国主義は・・「明日、一体何をするのだ?」
.
2006年10月、北朝鮮の初めての核実験が行われた。
  ブッシュ大統領(子)(任期:2001年1月20日~2009年
 1月20日)が裏切った。
  アメリカ大統領は、よく日本を裏切るが・・、
  このブッシュ大統領(子)は、北朝鮮が、核実験を行
 なうと・・、
  何と! 国交樹立を議題に含めた『交渉を始めた』。
  今までは、「テロ支援国家」と、強硬に対立していた
 のが、馬鹿々々しくも、180度の転換をした。
  それも、『経済援助まで与えた』。
  また、北朝鮮の核兵器製造施設のアメリカの『査察を
 しない』こととし、
  また、北朝鮮の濃縮ウラニウムの製造施設の査察もし
 ないとし、
  そして、濃縮ウラニウムの生産施設を、北朝鮮は、新
 たに建設したが、『ここも査察しない』とした。
  そして、2008年には、テロ支援国家の指定から外して
 しまった。
  今の北朝鮮の状態は・・この時を遠因として・・出来
 てしまった。
.
2016年11月9日、アメリカ大統領選の一般投票が8日行われ、
 9日未明に、共和党候補のドナルド・トランプ氏が、第45
 代アメリカ大統領に当選確実となった。
  そして、勝敗が最後まで決まっていなかったミシガン
 州が、11月28日になって、州務長官がトランプ氏の勝利
 が『確定した』と発表した。
  トランプ氏は、合計306人の選挙人を獲得して、選挙人
 の過半数を得て勝利が確定した。
  各州の選挙人は12月19日、11月8日の一般投票の結果を
 踏まえて投票される。
  このアメリカ大統領選挙の・・、
  アメリカ大統領候補だったヒラリー・クリントンは、
 「中国との金の関係で怪(あや)しい人物だ」と・・非
 常に疑われている・・、
  それも、元大統領だった夫のクリントン氏と共に疑わ
 れている。
  この時から、繋(つな)がっているという。
  その様な中で、アメリカ・メディアは、こぞってトラ
 ンプ大統領候補の足ばかりを引っ張っていた。
  アーカンソー州知事だった夫のビル・クリントン・・、
 (この時、妻のヒラリー・クリントンは弁護士だったの
 だが・・)、この妻の方へ・・金が流れていた・・、
  この金は、中国の華僑の金だった(企業名:R社)
  「R社」は、鄧小平の息がかかっている企業だった。
  顧問料という形で、ヒラリー弁護士へ、金が支払われ
 るというところから始まった。
  ここに人民解放軍の工作員(スパイ)の人物がからn
 だ(ジョン・ホアン)、
  この「ジョン・ホアン」は、後に、ビル・クリントン
 政権の時に、政権の要職(商務省国際経済政策担当・次
 官補代理)に就いた。
  このジョン・ホアンの地位は、「CIAの機密文書」
 に接することが出来た。
  ジョン・ホアンは、1994年~1995年の2年間、たっぷ
 りとアメリカの機密文書に接した。
  当然、中国中枢へ報告された。
  このジョン・ホアン・・1983年に、クリントン夫妻と
 知己(ちき、知り合い)となり、ヒラリー・クリントン
 に気に入られる様になった。
  この様な・・中国がからむ話が・・クリントンの周り
 には一杯ある・・という状態で・・一つや二つという話
 ではなく・・
  この様に、中国は、アメリカ政権のまわりを「十重二
 十重(とえはたえ)と囲んで」・・工作している。
  この事を、アメリカ・メディアは知っていても、一切、
 報じない(何故なのか??)。
  このクリントンの金は、中国・江沢民系の金であると
 いう事まで分かっている。
  この江沢民を継いだのが鄧小平で・・、
  この鄧小平が、1990年代から、アメリカと非常に強い
 つながりを持って行った。
  1998年になると、ビル・クリントンは、アメリカの資
 本家(企業家)たちを連れて、中国を訪問した。
  9日間という長期間で、1200人のアメリカ企業人に対し
 て、中国は、金を儲けさせる仕掛けをした。
  アメリカも中国へ、利権を見返りに渡した。
  両方で、うまい話をやり合った。
  江沢民派は、アメリカへ、中国の利権をどんどん渡し
 た。
  中国の美味しい金が、アメリカへ流れ込む仕掛けがで
 きた。
  アメリカには、外国人が、政治献金をしてはいけない
 法律があるが・・がしかし・・その抜け穴として、中国
 は「帰化人を使った。
  中国系の金が、クリントン財団に流れ込んだ・・
  これが、1990年代に始まって、今・現代まで続いてい
 る。
  また、この江沢民派の集団は、アメリカのウォール・
 ストリートのアメリカのエスタブリッシュメントと言わ
 れる者たちとも繋がった。
  その一つ、アメリカを動かしているその一つのゴール
 ドマン・サックス財閥と強くつながった。
  中国系企業・アリババなどの上場もこの恩恵を受けた。
  中国は、この様に、アメリカの『政界』や『財界』に、
 根深く繋がり・・構築している・・
  そして、アメリカを繰っている。
  アメリカを動かしているウォール・ストリートにでさ
 え、中国は、金を流し続けていて・・『中国の意向が効
 く』状況となっている。
.
2017年8月27日、電磁パルス攻撃
  「電磁パルス攻撃」の脅威 上空の核爆発で日本全土
 が機能不全に・・(参考:産経新聞)
  北朝鮮が、核兵器や弾道ミサイルで挑発を続けるなか、
 もう一つの深刻な脅威として「電磁パルス攻撃」の可能
 性が指摘されている。
  上空で核爆発を起こし、広範囲で都市機能を破壊する
 もの・・、
  北朝鮮は、既に、攻撃能力を持つとみられるが、日本
 の対策はほぼ手つかずで、専門家からは懸念の声が上が
 っている。
  電磁パルス攻撃は、地上への核攻撃と違い、ミサイル
 の弾頭部分を大気圏再突入時の高熱から守る技術は『必
 要ない』。
  小型の核弾頭を搭載したミサイルを発射し、目標上空
 で起爆するだけ・・、
  (以上、産経新聞、2017/08/27を参考にした)
  電磁パルス(EMP)攻撃について・・、
  1958年に、高高度核爆発(こうこうどかくばくはつ)、
 高層大気圏における核爆発の実験が行われた。
  強力な電磁パルス(EMP)を攻撃手段として利用し、
 広範囲での電力インフラストラクチャーや通信、情報機
 器の機能停止をさせる事を目的とした爆発実験だった。
  爆発高度によって分類され、核兵器の種類や爆発規模
 などは問わない。
  1958年に、ジョンストン島上空で、ハードタックI作戦
 の核実験が行われた(3.8メガトン)
  高度100km~数100kmの高層大気圏における核爆発にお
 いて、大気が非常に希薄であるので、核爆発の効果にお
 いて、爆風はほとんど発生しない。
  核爆発のエネルギーは、電離放射線が多くを占める状
 態になる。
  核爆発によって、核分裂後10ps(10秒~11秒)以内に
 発生したガンマ線(X線)が、大気層の20㎞~40km付近の
 希薄な空気分子に衝突し、電子を叩き出し(コンプトン
 効果)、叩き出された電子が、地球磁場の磁力線に沿っ
 て螺旋状に跳び、10nsほどの急峻な立ち上がりで強力な
 電磁パルス(EMP)を発生させる。
  大気が希薄であることから、ガンマ線は、遠方まで届
 き、
  発生した電磁パルスの影響範囲は、水平距離で100km~
 1,000km程度にまで達する。
  この核爆発の影響は、電磁パルスによる電子機器障害
 がほとんどのため、大量破壊兵器の使用であると同時に、
 非致死性の性格もある。
  高高度核爆発の実験を行ったことが確認されている国
 は、アメリカ合衆国(ジョンストン島とアーガス作戦)、
 ソビエト連邦(カプースチン・ヤール)の2か国。
  これらの実験で、周辺での停電などの被害が発生した。
  攻撃目標までの精密誘導が必要な核ミサイル攻撃に対
 し、電磁パルス攻撃は、ミサイルを敵国の上空高高度で
 小規模の核爆発を起こして発生させるため、技術的にも
 比較的容易とされている。
  2017年9月3日、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の
 朝鮮中央通信は・・、
  6回目の核実験を行った、この日、「高空で爆発させ、
 広大な地域への超強力な電磁パルス攻撃まで加えられる
 多機能化された熱核弾頭」を保有している・・と発表し
 た。
  核兵器の高高度への実用的な運搬手段は、ロケット(
 ミサイル)で、
  高高度核爆発(HANE)は、敵国の上空やその近辺
 高空で爆発させる核兵器といえ、
  冷戦下の米ソは、互いに大陸間弾道ミサイル(ICB
 M)などを向け合い、ミサイル攻撃やミサイル防衛の開
 発競争の過程で、複数の核弾頭を高高度で爆発させ、こ
 の2国では、高高度核爆発に関するデータが得られてい
 た。
  例えば、アメリカが行った最初の高高度核爆発である
 1958年のネバダ州ユッカ(Yucca)での実験は、気球によ
 って高度26.2kmで爆発させた。
  ジョンストン島における(Teak実験)は、レッドスト
 ーンロケットで打ち上げられた核弾頭を高度76.8kmで爆
 発させた。
  その後、ソーミサイルやX-17ロケットが使われた。
  現在は、部分的核実験禁止条約(PTBT)により高
 層大気圏核実験が禁止されている。
  高高度核爆発用の運搬ミサイルは、数100km以上に及ぶ
 影響範囲の広さから、都市や軍事基地を物理的に破壊す
 るための地上攻撃ミサイルに求められる高い命中精度は
 必要ない。
  電磁パルスは、様々な周波数の強力な電磁波であり、
 波長の適合するあらゆる導体に誘導電流が瞬間的に引き
 起こされ・・、
  このため、必ず、すべて電子機器が障害されるとは限
 らないが、外部にアンテナ用の電線を持つものや、電磁
 シールドの無いもので、誘導されたパルス電流への耐圧・
 耐電流が不十分なものは損害・損傷・打撃を受ける。
  長さのある金属物すべてに、瞬間だけ雷が落ちたよう
 な状況や、電子レンジ内に入れた金属箔のような状況に
 なる。
  光ケーブルを除く有線・無線の通信回路、外部から商
 用電源を受け取っている電源回路、それらの周辺にある
 電流の抜けていく経路となる回路が、過電流や過電圧で
 破壊される。
  電磁パルスは、立ち上がりが急峻なので多くの避雷器
 は機能しない可能性が高い。
  高高度核爆発による電磁パルスのエネルギー密度は、
 約1ジュール/m2と大きく、半導体素子の損傷に必要な
 10μジュールから計算すれば数10dBの遮蔽が必要である。
  マクロな視点で被害を考えれば、あらゆる放送・通信
 は、長期に亘り機能を失い、
  工場での生産、交通・運輸・流通システム、送電、金
 融も大半が機能を失う。
  そして、すぐには回復できない状態になる。
  放射能とは違い、人間を含む生物への長期に亘る影響
 はほとんど無いが・・、
  核爆発が起きた瞬間の閃光を直視してしまうと、地上
 や低空での爆発と同様に網膜を焼く。
  人体も瞬間だけ電磁パルスによって電子レンジ内のよ
 うに少しは加熱されると考えられるが、詳しい予測は現
 状では出来ない。
.
2017年9月3日、アメリカのドナルド・トランプ大統領は、
 2017年8月29日の北朝鮮の中距離弾道ミサイル「火星12
 型」発射に対し、「全ての選択肢を検討中」と軍事行動
 を示唆した。
  北朝鮮が、大陸間弾道ミサイル(ICBM)搭載用水
 素爆弾の6回目実験を、2017年9月3日午後に行うと、
  国家安全保障会議の席上、ジェームズ・マティス国防
 長官に、軍事的選択肢につき、「一つひとつ」説明を求
 め、
  この「一つ」に、「電磁パルス(EMP)攻撃」や、
 「地中貫通核爆弾」を用いた戦法が含まれていたとする
 情報が、日韓の安全保障関係者の間で観測されている。
  電磁パルス攻撃は、もっぱら北朝鮮が日本を筆頭に、
 米韓に仕掛けるというパターンだった。
  現に、北朝鮮が、ICBM搭載用水素爆弾の6回目実
 験を行った3日、北の朝鮮労働党機関紙・労働新聞が、
 電磁パルス攻撃を完遂できると強調した。
  韓国の公共放送KBSは、3日夜のニュースで、韓国
 が電磁パルス攻撃に遭えば、「自動車などの交通手段や
 金融機関や病院、通信施設など、全基幹施設が停止した
 り、誤作動を起こしたりして、事実上『石器時代に戻る』」
 という専門家の声を紹介した。
  インフラ全滅の闇世界が創り出される。
  『石器時代に戻る』ような凄まじい被害が出るのは間
 違いない。
  (産経新聞、2017・9・11を参考にした)
.
2017年9月11日、政府が、『電磁パルス対策』で8日に関係
 省庁会議を開催した。
  菅義偉官房長官は、11日午前の記者会見で、北朝鮮
 が大陸間弾道ミサイル(ICBM)搭載用の「水爆」に
 よって可能だと主張している電磁パルス(EMP)攻撃
 について、政府が対策を検討する関係省庁会議を8日に
 開いていたことを明らかにした。
  内閣官房と防衛、国土交通、経済産業の3省の関係者
 が出席したという。
  菅氏は、「万一の事態に備えて、国民生活への影響を
 最小限にするのは当然のことだ」と述べた。
  (産経新聞、2017年9月11日を参考にした)
.
2017年、トランプ大統領の偉いところは・・、
  今までのアメリカ大統領が、「中国の『大軍拡』を止
 めようともしなかった」、
  また、「北朝鮮の『核弾頭の増産』を止めようともし
 なかった」・・または、「止めようとしたが、ポーズだ
 けだった」・・、
  それは、アメリカが、「止める能力を失ってしまって
 いた」と思っていたからか・・?
  トランプ大統領の偉いところは・・、
  今・現在(2017年)、「北朝鮮の核とミサイルを無く
 そうと、真剣にチャレンジしているところだ」。
  トランプ大統領の前のアメリカ大統領(オバマ民主党
 大統領)は、「リーダーシップが無く」「決断力が無く」
 「すぐ、中途半端な妥協をして誤魔化していて』、政治
 家ではなかった。
  こんな中で、日本国民のすべての民の命を委(ゆだ)
 ねていた。
  こんな状態ではダメだった。
  ウォルツ、キッシンジャー、ミアシャイマー、レイン、
 ウォルト・・などなど、
  優秀な国際政治学者たちが、分析し、そして、言って
 いるように・・、
  「国際政治は、多極へと向かう(主導するアメリカは、
 その座から降りる)・・、その中で、日本の防衛は、自
 主防衛せざるを得なくなる・・、
  その自主防衛には、核の保持を・・いずれしなくては
 ならなくなる」・・と。
  賢人たちの分析、見通しで・・この道を進まない日本
 の存在はありえない・・そうでなければ、その存在は危
 うい・・と見ている。
  日本は、核保持をして存続を図らねば、消滅の道とな
 る・・と見ている。
  アメリカの方針と真逆の賢人の見通し、これが日本の
 取るべき道・・と見ている。
  アメリカが、理解を示すまで、説明するのが、「日本
 の外交の本筋」。
  逃げることはできない。
  ゴースト・ダンスを踊ったアメリカ・インディアンの
 方たちの可哀想な姿・・この様には『なりたくない』。
  アメリカ・インディアンの方たちの・・「二の前には
 なりたくない」
  バッファローは、無用に殺戮された・・、
  食糧を無くなされた・・アメリカ・インディアンの方
 たち、
  そして、居留地の移動ばかりを・・させられ・・、
  生きる地を失って行ったアメリカ・インディアンの方
 たち・・
  アメリカ・インディアンの方たちが・・進んだ兵器で
 追い立てられた・・その様に・・
  核兵器に追い立てられる日本人・・、
  バラバラになり、散り散りになり・・
  可哀想に、そのアメリカ・インディアンの方たちの地
 では、その「アイデンティティのゴースト・ダンス」を
 も消え・・そして捨てられて行った・・、
  踊らなくなった・・その様な日が・・やって来た・・
  日本もそうなるのか・・??
  真剣に考え・・対応しなければ、そうなるのだ・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)552E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年2月~1892年2月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)552E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年2月~1892年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年2月8日、(氷川清話)勝海舟、予備海軍少佐・長男・
 小鹿(ころく)死亡、青山共同墓地に葬る。
  徳川精(くわし、徳川慶喜の十男)相続者と内定す。
  1892年2月8日、勝海舟は、嫡子小鹿が早世したため、
 徳川慶喜・家達に、精との養子縁組を申し入れる。
  同年・1892年2月14日、徳川慶喜は、精の養子入りを承
 諾した。
  1897年9月、兄・誠とともに、精(9歳)は、静岡から
 東京に移り、学習院初等学科に入学した。
  1899年1月20日、精(11歳)は、勝小鹿の娘である伊代
 子(11歳)の婿として、勝家に入った。
  養父・海舟の死去に伴い、同年・1899年2月8日に家督
 を相続し、伯爵を授爵する。
  1902年7月(14歳)、学習院初等学科を卒業し、慶應義
 塾に転校する。
  慶應義塾大学を卒業後、オリエンタル写真工業、浅野
 セメントなどの重役を歴任した。
  精は、家庭的には一男五女をもうけたが、妻の伊代子
 が1922年5月7日に他界した(34歳)
1892年2月11日、福島安正陸軍少佐が、ロシア調査を兼ねて
 ドイツ・ベルリンを出発(シベリア単独横断への発途)
  語学力に優れ、情報収集と外交に手腕を発揮し、
  1882年に、朝鮮に派遣され、対韓作戦計画の調査。
  翌年・1883年、北京公使館付武官となり、満州(中国東
 北部)およびモンゴル方面を踏査した。
  1886年には、インド半島を軍事視察。
  1887年に、ドイツ公使館付武官となり、バルカン半島
 を視察。
  1892年のこの騎馬でのシベリア横断行は、1年を費やし
 てウラジオストクへ、そして、帰国した。
  1895年3月から、約2年間、ヨーロッパ・アジアを探検
 旅行した。
  帰国後は、参謀本部第3、次いで、第2部長、
  1904年~1905年、日露戦争の時は、満州軍参謀。
  1906年、参謀本部次長、中将に進み、
  1912年、関東都督となり満州を管理した。
  1914年、大将となる。
  陸軍随一の情報将校だった。
  著作に「伯林(ベルリン)より東京へ単騎遠征」。
1892年2月15日、第二回衆議院議員、臨時総選挙
  選挙運動中に、政府と民党支持者の間で紛争が多発し
 た。
  品川弥二郎内相の選挙干渉が問題化したが、選挙干渉
 を指示したという命令書は発見されていない。
  逆に、複数の知事から、政府に対して、民党進出を阻
 止するために、警察力の行使を求める意見が寄せられた。
  25人が死亡し、388人が負した。
  結果は、民党の大勝利だった。
1892年2月22日、オスカー・ワイルドが書いた「ウィンダミ
 ア卿夫人の扇」が初演された(2月20日説あり)
  これは、四幕構成の喜劇で、ロンドンのセントジェー
 ムズ劇場にて初演された。
  この物語は、夫が、他の女性と不倫をしているのでは
 ないかと疑っているレディ・ウィンダミアを中心にして
 いて・・、
  レディ・ウィンダミアは、このことについて夫と対決
 し、夫は否定するが、妻の誕生日の舞踏会に不倫相手だ
 と疑われている女性・アーリン夫人を招待しようとする。
  夫が不実だと考え怒った。
  レディ・ウィンダミアは、他の恋人を作って夫のもと
 を去ることに決める。
  何が起こったか知ったアーリン夫人は、レディ・ウィ
 ンダミアを追いかけて夫のもとに戻るよう説得するが、
  このせいで、アーリン夫人は自分の名誉に関わるよう
 な状況に追い込まれてしまう。
  実は、アーリン夫人は、芝居開始時点より20年前に家
 族を捨てたレディ・ウィンダミアの母であった。
  アーリン夫人は、自分の身と評判を犠牲にして娘の結
 婚を救った。
  作者のワイルドは、公演の最初の年だけで7000ポンド
 (21世紀はじめの価値に換算して686500ポンド程度)を稼
 ぎ出すことになった。
  1ポンド=141円であるので、96,796,500円、約1億円。
1892年2月23日 伊藤博文が、選挙干渉の責任者の処分を主
 張して、枢密院議長の辞表提出し、辞任した(2月24日説
 あり)
  1892年2月15日に行われた総選挙、品川弥次郎内相が
 「選挙干渉」した。
  暴力沙汰も起き、流血、買収が横行した。
  松方は、警察を管轄している品川内相に選挙活動に対
 する取り締まりの一切を任せた。
  品川は、正直に、事を一生懸命行なう性分だったため、
 いかなる手段を使ってでも反対党に圧力をかけ、与党を
 勝利に導きたかった。
  それを自分の義務と考えた。
  そのため民党の選挙活動を妨害するため警察力を使っ
 た。
  民党側も、これに対抗して力で対抗した。
  それでも、与党は137名、野党は163名と、政府は民衆
 の信頼を失った。
  苦境に立った松方は、元老の助力を仰いだ。
  7人の元老は、2月23日に元老会議を開いたがなかなか
 意見の相違が埋まらなかった。
  伊藤は、選挙干渉に関係した官僚たち、特に、品川の
 処分を要求した。
  伊藤の要求に対し、「処分が厳しすぎる」と反対が出
 る、伊藤は、枢密院議長辞任の話までした。
  責任を感じた品川は、辞職を決意したが、松方は許さ
 なかった。
  すると、今度は陸奥と後藤が、品川が辞職しないのな
 ら自分たちが辞職すると迫り・・、
  結局、陸奥は農商務相を、品川は内務相を、そして、
 伊藤は枢密院議長の地位をそれぞれ辞職する事で、紛糾
 は治まった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:「ビンのフタ論」は・・今でもある・・
.
1890年、アメリカ・インディアンの方々のゴースト・ダン
 スが衰退した。
  この話ほど悲惨な話はない・・、
  この話を聞くと本当に可哀想だと、いつも思う・・、
  圧倒的な強力な武器を持つアメリカは・・、
  弱者の方たちである先住民のアメリカ・インディアン
 の方々の殺戮をし続け・・全滅を狙って殺戮して回った。
  アメリカの正当性は、まったく・・ない。
  アメリカには、自分に都合の良い、また、自分勝手な
 権利を唱えた・・マニフェスト=デスティニーがある。
  (参考)マニフェスト=デスティニー:自由と自治政
     府とからなる連邦という偉大な実験を進展させ
     るために、(キリスト教の)神が与え給うたこ
     の大陸全体を、覆いつくし、所有するのは、わ
     れわれの明白な運命(マニフェスト=デスティ
     ニー)がさだめる権利なのである。
      そして、アングロ・サクソン民族は、最も植
     民地経営に適した民族である・・
      この様に、豪語し・・
      そして、何ら根拠のない「文明の西漸説」を
     打ち立て・・盲信し・・アメリカ西部へと・・
     太平洋にぶち当たれば・・太平洋の島々・・そ
     して、アジア諸国へと・・植民地化して行った。
  その最初の犠牲者=アメリカ・インディアンの方々へ
 の殺戮による民族の急激な減少に、悲嘆にくれたアメリ
 カ・インディアンの方々の間に、ゴースト・ダンスが・・
 流行(はや)った。
  その原因は、圧倒的な強力な武器を持ったアメリカ人
 による先住民のアメリカ・インディアンの方々への無慈
 悲な、そして、強力な殺戮行為だった・・殺戮し回った・・
  民族の消滅を予感したアメリカ・インディアンの方々
 は、民族のアイデンティティを示す踊り(ゴースト・ダ
 ンス)を踊った。
  しかし、白人・アメリカ人たちはその踊りを忌避した。
  『また、ゴースト・ダンスを踊っている』と、白人開
 拓民は騎兵隊へ通報した。
  そこで、騎兵隊が出動し・・殺戮が行われた・・こん
 な理由で・・。
  キリスト教に洗脳された「異」に対する不寛容が、そ
 の素地にあった。
  最新式の武器で武装した、また、訓練された兵士たち
 が隊を構成し・・この武力集団・暴力集団は、先住民の
 方たちを殺戮し、排除した。
  まったく、勝手な振る舞いの白人アメリカ人の思い上
 がりと倫理観とその行動だった。
  しかし、その様なアメリカ・インディアンの方々の『
 希望にすがるゴースト・ダンス』が衰退した。
  (参考)アイデンティティー(identity)は、広義に
     は、「同一性」「個性」「国・民族・組織など
     ある特定集団への帰属意識」「特定のある人・
     ものであること」などの意味で用いられる。
  (参考)ゴースト・ダンスは、「ゴーストダンス(幽
     霊踊り)を踊ることで、再び、インディアンた
     ちの自由な世界とともに、バッファローたちが
     草原に還ってくるという希望を与える終末的ダ
     ンスだった・・そして、信仰であって・・、
      スー族のもとで、呪術師マト・ワナタケ(キ
     ッキング・ベア)によって、「これを信じるも
     のに与えられる『ゴースト・シャツ』を着れば、
     白人の銃弾を受けても、弾が通らず死なないで
     平気にしていられるなど・・、
.
1909年、アメリカ大統領にウィリアム・タフトが就任した。
  アメリカと日本との戦争に、結局は至ってしまうとい
 う、「アメリカの日本に対する敵意」は、この大統領か
 ら始まった。
  アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルト大統領(大
 統領任期:1901年~1909年)は、日露戦争の調停を公平
 な形でしてくれた。
  この大統領は、日本に対して敵意を抱いているような
 大統領ではなかった。
  しかし、その次のウィリアム・タフト(大統領任期:
 1909年~1913年)は、日本の行動に対し露骨に足を引っ
 張った、その様な政策を始めた。
  そして、その後のウッドロウ・ウィルソン(大統領任
 期:1913年~1921年)も・・強い日本への対決姿勢を取
 った。
  そして、その次の次のカルビン・クーリッジ(大統領
 任期:1923年~1929年)も、今までは州法で「日本の排
 斥を色々していたアメリカ」だったが・・、
  この大統領は、連邦法で排日を行なった(絶対的排日
 移民法・1924年)
  しかし、この大統領は、『遺憾に思う』という反省の
 弁の言葉を、後に、残して居る・・が、そう思うのが遅
 った。
  昭和天皇陛下も、「アメリカへの失望は、この排日移
 民法の時に始まった」と言われている。
  アメリカには、弱肉強食的・帝国主義的・軍国主義的
 略奪の考え方があり、そして、それを正義と見誤る「ア
 メリカ文明の西漸説」があり、障害物としての日本があ
 った。
  その基本には、利権を得たい、利益を得たいというア
 メリカがあった。
.
1940年11月5日、フランクリン・ルーズベルトが、大統領再
 選(三選)した。
  この大統領は、はっきり、日本との戦争を起こしたい
 という意思のある大統領で・・、
  F・ルーズベルトは、本当に多くの工作員(スパイ)
 を日本に送り込んで・・工作していた・・
  日本を工作する外交官や、キリスト教宣教師の工作員
 などと・・日本を暗躍した・・そして、とうとう戦争に
 至ってしまった。
.
1945年8月14日 日本政府が、ポツダム宣言を受諾する旨、
 中立国スイスを通じて通告した・・、
  そして、勅語を発布した。
  しかし、この日から、4日も経て、日本が降伏をして
 いることを十分承知をしているソ連が、8月18日に・・、
 卑劣にも、ソ連軍が、千島列島へ侵略を開始した。
  占守島で、日本軍と交戦(21日、停戦令が出る)
  満州国は消滅。
  これ等の行為は、総て不法行為で、成立していない。
  完全な戦争終結後、終戦の後の行為である。
.
1945年8月30日、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカー
 サー元帥が、神奈川県厚木飛行場に降り立った。
  そして、マッカーサーは言った・・、
  「メルボルンから東京までは長い道のりだった。
  長い長いそして困難な道だった。
  しかし、これで、万事終わったようだ。
  各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、
  外郭地区においても戦闘はほとんど終息し、
  日本軍は続々降伏している。
  この地区(東京地区)においても、日本兵多数が武装
 を解かれ、それぞれ復員をみた。
  日本側は、『非常に誠意を以てことに当たっている』
 ようで、報復や不必要な流血の惨を見ることなく無事完
 了するであろうことを期待する」と。
  つまり、日本は連合国へ『8月14日に降伏の通達をすで
 にしている』・・そして、マッカーサーが言うように「
 その降伏状態も日本側の誠意をもって進んでいる」・・
  つまり、8月14日の降伏宣言を「降伏時点として」事は
 進んでいると言っている。
  それであるのに、この時点でも、ソ連の不法行為によ
 る日本の領土「南樺太」「千島列島」「北方四島」の略
 奪行為が行われていた。
  マッカーサーは、この厚木飛行場に降り立った後・・、
  車両で、当初の予定地である葉山御用邸を変更し、長
 後街道、国道1号経由で横浜に入った。
  そして、これから・・日本で・・、マッカーサーは、
 日本を武装解除し、二度とアメリカにチャレンジできな
 い国にするという「初期対日方針」を出した。
  この原型は、1942年、すでに出来ていた。
  メルヴィン・レフラー(外交史家、ヴァージニア大学
 教授〉は、この事を、1947年に、国務省の内部資料を明
 らかにした・・、
  (1)日本が独立国としての運命を歩む事を許さない。
  (2)日本は、ソ連の衛星国となるか、アメリカの衛星
    国となるか、どちらかを選ぶしかない・・と・・、 
  そして、1947年、アメリカの衛星国状態にとどめてお
 くと決めた。
  そして、この同じ年・1947年、国務省の政策立案局長
 ジョージ・ケナンが来日して・・、
  占領政策をしていたGHQに、「そんなに復讐的に意
 地悪しなくてもいいじゃないか」・・と、マッカーサー
 に言った・・、
  「あまり日本を弱体化しすぎると、アメリカの国益に
 ならない」・・と言った。
  ソ連に対するカウンター・バランス(牽制勢力)とし
 て日本を利用する事を言った。
  ケナンは、長期間、モスクワのアメリカ大使館に勤め
 ていたため、共産主義の危険性を熟知していた。
  このアメリカ国務省の政策企画本部長のジョージ・F・
 ケナン・・
  彼は、この年のフォーリン・アフェアーズ誌(1947年
 7月号)に、「ソヴィエトの行動の源泉(通称:X論文)」
 「封じ込め政策」の理論的根拠をなす論考・・を書いた。
  この論文発表後・・、
  論文は、著者不明(X)として書いたが・・筆者がケ
 ナンであると分かると、「冷戦政策の立案者だ」と世界
 に広く知れ渡り、論文の「封じ込め政策」の概念が独り
 歩きし始めた。
  それは、ケナンが書いた「ソ連が平和で安定した世界
 の利益を・・侵食しようとしたならば、どこであろうと
 対抗力を行使する事が重要である」・・と主張した・・
  この「対抗力」が・・「軍事力」に置き換えられてし
 まった。
  「軍事力による対抗力の行使が重要」ととられる・・
 解釈される様になってしまった。
  ケナンの「政治的な対抗手段の行使」の趣旨が間違っ
 た方向へ動き出した。
  ケナンの言う「封じ込め」は、「抑制」という程度で、
 「封じ込め」にある強圧的な意味合いはない(訳語の不
 適)・・
  訳語の不適で・・世界が大きく影響された。
  いま、「封じ込め」の説明として以下のように書かれ
 ている・・
  封じ込め(ふうじこめ、Containment)とは、アメリカ
 合衆国の政策であり、海外の共産主義の拡大を阻止すべ
 く、多くの戦略が用いられた。
  冷戦の構成要素たるこの政策は、東欧や中国、朝鮮、
 ベトナムにおける共産主義の影響拡大を図るソビエト連
 邦による一連の動きへの反応であり、デタントと巻き返
 しの中間的立場を代表していた。
  ドクトリンの基礎は、米国の外交官ジョージ・ケナン
 による1946年の電報で明示された。
  米国の外交政策用語としてのこの単語の起源は、ジェ
 ームズ・フォレスタル国防長官にケナンが提出した1947
 年の報告(のちに雑誌記事に使用)に遡る。
  この語は、1920年代のソ連に対する西側の政策を記述
 するのに用いられたフランス語「cordon sanitaire(防
 疫線)」の訳語である。
  「封じ込め」の語は、アメリカと西ヨーロッパ諸国に
 よる北大西洋条約の締結・北大西洋条約機構(NATO)
 の設立や相互防衛協定など、ハリー・S・トルーマン、及
 び、共和党の政策と最も関連している。
  ドワイト・D・アイゼンハウアーは、これと対立するド
 クトリンである巻き返し政策を弄(ろう)したが、1956
 年のハンガリー動乱への介入については拒絶した。
  リンドン・ジョンソンは、べトナム政策正当化のため
 に「封じ込め」の語を用いた。
  リチャード・ニクソンは、ヘンリー・キッシンジャー
 最高顧問と共に、ソ連、及び、中国との友好関係に賛同
 し、封じ込めを拒絶した。
  こうしたデタント(または緊張緩和)の例としては、
 貿易や文化交流の拡大などがあった。
  ジミー・カーターは、反共よりも人権を強調したが、
 1979年に、ソ連がアフガニスタンに侵攻すると、デタン
 トをやめて封じ込めに回帰した。
  ロナルド・レーガンは、ソ連を「悪の帝国」と非難し
 て冷戦を拡大し、ニカラグアやアフガニスタンで巻き返
 しを推し進めた。
  封じ込め政策下で始まった中心的計画(NATOや核
 抑止力など)は、冷戦終結後も効力を保った。
.
1945年9月5日、ソ連の不法行為が続く・・ソ連軍が、歯舞
 群島までを不当に占領した(後に、北方領土問題となる)
  さらに、ソ連の不当行為である瀬島龍三など関東軍首
 脳部が、ハバロフスクへ送られ、将兵、および、一般市
 民の57万人がシベリア抑留となる(何ら根拠のない拉致
 行為)
  日本は、この日に、第88回帝国議会臨時会議を召集し
 ている。
.
1951年9月8日、サンフランシスコで、日本国との平和条約
 (サンフランシスコ講和条約)が調印された。
  続いて、日米安全保障条約が調印された。
  サンフランシスコ講和条約で、日本は独立したと言わ
 れているが・・??、
  しかし、これは表向きである。
  アメリカは、心の底から「日本を独立させたと思って
 いない」。
  この時、アメリカのダレス国務長官が、イギリスへ伝
 えた内容は・・(言葉と文書で伝えたその内容)、
  (1)アメリカは、日本の真の独立を認めるつもりはな
    い。
  (2)日本には、アメリカに逆らえるような能力を一切
    持たせない。
  (3)今回、講和条約をしたが、真の意味は、「アメリ
    カの実質的な対日占領が続く」ということ。
  イギリスは、さすが、このアメリカの異常さについて、
 1956年に、イギリスのエスラー・デイング駐日大使は、
 本国の外務大臣ハロルド・マクミランへ、次のような文
 書を送った・・、
  「アメリカの日本に対する扱い方は、まるで、第二次
 世界大戦の我々・イギリスのエジプトに対する扱いの様
 だ」・・と。
  この意味は、「日本は、今だに植民地扱いされている」
 という意味だった。
  まったく、日本は、バカにされている状態。
  1963年になっても、イギリスの応援は続いた。
  イギリスのオスカー・モーランド駐日大使が、本国の
 外務省へ次の報告書を送っている・・、
  「アメリカ政府の日本に対する態度を見ていると、と
 ても、独立国に対する扱いとは言えない。
  こんな扱いを受けている日本人が、本当にアメリカを
 好きになることはないだろう」・・と。
  この事を、メルヴィン・レフラー教授は、「ダブル・
 コンテインメント・ストラテジー(二重封じ込め戦術)』
 と言った。
  (1)日本を封じ込めておき、日本人が二度と独立した
    外交能力と、国防能力が持てない状態にしておく。
  (2)同時に、アメリカは、ソ連を封じ込めておく。
    その為に、日本を利用する。
    「ソ連への封じ込め戦略」の駒として利用するた
   め、日本には限られた軍事力・・アメリカ軍にとっ
   て都合の良い軍事力しか持たせない。
    日本には、自主防衛力を持たせるようなことはし
   ない。
.
1964年4月5日、GHQ司令官だったダグラス・マッカーサ
 ーが死んだ。老衰による肝臓・腎臓の機能不全で入院し
 ていた。84歳。
  晩年のマッカーサーは・・、
  「憲法9条を加えたのは、失策だった」
  「旧軍を部分的に存続させるべきだった」・・と後悔
 していたと伝えられている。
.
1990年(平成2年)3月27日、ビンのフタ論
  この日のワシントンポスト紙に「ビンのフタ論」が掲
 載された。
  在日米海兵隊ヘンリー・C・スタックポール司令官
 (少将)が・・
  「もしアメリカ軍が撤退したら、日本はすでに相当な
 能力を持つ軍事力を、さらに強化するだろう。
  だれも日本の再軍備を望んでいない。
  だからわれわれ(アメリカ軍)は(軍国主義化を防ぐ)
 瓶のフタなのだ」・・と書いた。
  日本を封じ込める。
  それも、アメリカと中国とで日本を封じ込める。
  その卑劣な、そして、理不尽な米中による「共同封じ
 込め戦略」をしたアメリカ大統領は・・、
  ブッシュ(父)、クリントン、ブッシュ(子)などだ
 った。
  そして、1989年1月20日に、第41代アメリカ大統領とな
 ったジョージ・H・W・ブッシュ(父)(大統領任期:
 1989年1月20日~1993年1月20日)政権の・・安全保障政
 策補佐官だったブレント・スコウクロフト中将は・・、
  米中両国による「対日共同封じ込め」を熱心に支持し
 た。
  そして、彼は、日米同盟の事を・・、
  「アーティフィシャル・アライアンス」とか・・
  「人為的な同盟」とか、「嘘くさい同盟」とか、「わ
 ざとらしい同盟」とかと言った。
  (注〉アーティフィシャル(artificial)の意は、
    「本物でない」「作りごとの」「不誠実な」「わ
    ざとらしい」という意味。
  スコウクロフト中将が、日米同盟を「アーティフィシ
 ャルだ」という真意は・・、
  「日本を『潜在的な敵性国』と見なすアメリカが、日
 本を押さえつけておくために維持している同盟関係」と
 いう気持ちが込められている。
  (参考)1990年、ブッシュ政権のホワイトハウス国家
    安全保障会議が・・、
     「冷戦後の日本を、国際政治におけるアメリカ
    の潜在的な敵性国と定義し・・、
     今後、日本に対して封じ込めを実施する」とい
    う政策を決定している。
  また、アメリカは・・キッシンジャーの様に、裏表の
 ある・・それも・・この表裏の落差が非常に大きい・・
 注意を要する・・今までの逆のことも平気で言う・・
  アメリカのポール・ゴドウィン博士(ペンタゴン付属
 の教育機関であるナショナル・ウォー・カレッジ副学長)
 の言葉・・、
  「日米は、『価値観を共有する同盟関係』より優先さ
 れる『対日封じ込め政策』・・これは当たり前だ」と言
 った。
  (参考)1992年2月18日、この日に作成された「1994年
     ~1999年のための国防プラン・ガイダンス」
     (DPG)というペンタゴンの機密文書には、
     「アメリカのアジア同盟国(特に、日本)が、
     より大きな地域的役割を担うことは、潜在的に
     この地域を不安定化させる」と記されている・・
  アメリカに、この様な言葉がある原因の一つとして・・
  日本に・・「自分の国は、自分で守る」という事を真
 剣に考えてない・・、
  この当たり前の「道徳的義務すら果たそうとしない」・・、
  「エスケーピスト(逃避主義国家)」として蔑(さげ
 す)まれている・・、
  その様な日本だと・・受け取られている・・、
  びっくりする様な大金を出して、「これで良いのだ。
 大金も出したし・・」・・の・・日本のセンスが・・、
 「軽蔑され、蔑まれた・・」・・、
  この様な今・現代の日本のセンスは・・世界に通用し
 ない・・また・・、
  「日本も、血を流そうとしないと、アメリカの青年は、
 日本を助けようとは、しないよ!」・・と・・、
  尖閣諸島の問題の時に、アメリカから言われた・・
  このことも、しっかり覚えて置かなければならない!
.
1993年1月20日、ビル・クリントンが、第42代アメリカ大統
 領になった。
  クリントン大統領は「反日親中」だった。
  そして、クリントン政権の上層部は「親中嫌日」だっ
 た。
  ウィリアム・ペリー国防長官は、全体主義国家である
 中国と北朝鮮の核兵器生産には「融和的態度」をとるが、
  (今、北朝鮮に核がある遠因の一つ・・)
  民主主義・自由主義を実行してきた日本が、核兵器の
 材料を持つことは耐えられなかった。
  ペリー国防長官の言葉・・、
  「東アジア地域において米中両国は、日本だけには・・
 核を持たせてはならない」
  サミュエル・バーガー安全保障政策補佐官の言葉・・、
  「アジア・太平洋地域は、アメリカと中国が協力して
 共同支配する地域だ」
  このバーガーは、核武装した北朝鮮よりも、「日本が、
 それを口実として自主防衛しようとするかもしれない」
 ということを心配していた・・嫌日の輩だった。
  ロバート・ルービン財務長官の言葉・・、
  「アジア地域は、米中両覇権の戦略的パートナーシッ
 プにより共同支配する地域だ」
  この様に、アメリカ政権の「反日親中」の言葉の数々
 を聞くと暗澹(あんたん、見通しが立たず、希望が持て
 ないさま)たる気持ちになるが・・、
  ここで出て来るのが「ビンのフタ論」である。
  この「ビンのフタ論」は、前記したように、1990年3月
 27日に、在日アメリカ海兵隊のヘンリー・C・スタック
 ポール司令官が、ワシントンポスト紙に発言した言葉で
 ・・、
  「もしアメリカ軍が撤退したら、日本は、すでに、相
 当な能力の軍事力を持っているが・・、その持っている
 軍事力を、さらに強化するだろう。
  だれも、日本の再軍備を望んでいない。
  だからわれわれ(アメリカ軍)は(軍国主義化を防ぐ)
 瓶のフタの様に日本に駐留しているのだ」・・
  かつて、在日米軍の撤退を厳しく要求した中国も、 キ
 ッシンジャーが北京を訪問して、上記の様な説明を受け
 ると、 周恩来は大きくうなずいて、日本からのアメリカ
 軍撤退要求を取り下げたのだった。
  米中両国は、日本の単独防衛・核武装阻止という点で、
 利害が一致していた。
  以上のことは・・、
  ハリー・トルーマン、ジョン・フォスター・ダレス、
 ヘンリー・キッシンジャー、 ヘンリー・スタックポール、
 クリスティン・ウォーマスなどのアメリカの政府や軍の
 高官がその様に証言している。
  孫崎享(まごさきうける、日本の外交官、評論家、ハ
 ーバード大学国際問題研究所研究員、外務省国際情報局
 局長、イラン駐箚特命全権大使など)も、著書「日米同
 盟の正体 迷走する安全保障」の中で・・、
  日米同盟の目的は、日本の核武装・軍事大国化を阻止
 して、日本から力を奪うためであり、
  その考え方は、大戦直後も、今も、一貫して変わらな
 い・・と述べている。
  クリストファー・レイン(UCLA、海軍大学校大学
 院)は・・、
   日本の自衛隊を、自主防衛できない組織(属国の軍隊)
 にしておくのがアメリカの目的で、アメリカの対ソ政策、
 対中政策に都合の良い武器は持たしてもらえるが、
  『本当に自主防衛するための武器』は持たしてもらえ
 ない。
  また、アメリカ軍が出動しないと、自衛隊は、他国の
 軍隊に手も足も出ない軍隊となっている。
  『戦後、長い年月が流れたので、そろそろ、日米安全
 保障条約を廃棄し、日本単独防衛を検討してもいいので
 はないか』・・という意見もある・・ 、
  また、ロバート・アート(ブランダイス大学)は、日
 米同盟の『真の現実』というものは、地域的なアメリカ
 の帝国主義的支配権に組み込まれたものとなっている。
  また、マイク・マスタンドゥーノ:(ダートマス大学、
 国際政治学)は・・、
  「アメリカ政府高官は、東アジアにおける米国の圧倒
 的ドミナンス(優越、権勢、支配、優勢)を保つために、
 日本を、パーシャル(不完全な)な(バランスのとれて
 ない、独立していない)国家にとどめておく・・その為
 に、日本を必死に説得して来た」。
  また、カート・キャンベル(クリントン政権 国防省ア
 ジア政策担当次官補)は・・、
  日米同盟を維持しなければならない根拠は・・、
  「日本にこれ以上軍事費を使わせるない」「日本が、
 他のアジア諸国と軍事的な、また、外交関係を作るのを
 阻止する」「日本には自主防衛させない」・・、
  スコウクロフト(国家安全保障補佐官)は・・、
  「日本は、アメリカの仮想敵国であり、 封じ込めが
 アメリカの政府の対日外交政策方針である」
  (上記は、伊藤貫氏の証言で、1991年、伊藤貫氏が連
 邦議会外交政策委員の主要メンバーから聞いた)
  また、国防大学・National Defence Univ.(National
 War College)のゴッドウイン副学長の発言・・
  「封じ込めが対日政策である」
  また、1992年、ペンタゴンの防衛計画の手引き(
 Defence Planning Guidance)で、主要仮想敵国を、
 Other Advanced Industrial Nation(ドイツと日本)と
 位置づけ、地域のリーダーシップ(Regional Leadership)
 を 取れないようにするという方針となった。
  また、ペンタゴン日本部長 ポール・ジュアートは、
 1994年に、「アメリカは、日本を独立国として認めない」
 と発言した。
  そして、1972年、ニクソン&キッシンジャー&周恩来
 との密約は、現在の米国政府(国防省・CIA)におい
 ても有効で、「東アジア地域において、日本に核を持た
 せない」「アメリカが日本に駐留し続ける、それは、日
 本が独立国になるのを阻止する」「日本政府が台湾や朝
 鮮の問題で発言権を持つことを米中は阻止する」
.
1997年、明確な「反日親中だったアメリカ大統領カーター」
 の政権に居たズビグネフ・ブレジンスキー安全保障政策
 補佐官は、1997年、日本を「アメリカ保護領」と呼んで
 いて・・、
  自衛隊についても、「日本政府が自由に使える道具で
 はない。
  あれは単に、東アジア地域のアメリカ軍の延長として
 の道具に過ぎない」と言っていた。
  アメリカは、表面は『パートナーだ』と言っているが、
 本音は、ブレジンスキーのこの様な気持ちの人が多い状
 況。
 (参考)反日親中:日本に不利に、そして、敵対する
    政策を採り・・、
     そして、その逆に、中国に対しては有利に処し、
    そして、融和的な政策を採ること。
 (参考)ズビグネフ・ブレジンスキー、1928年3月28日~
    2017年5月26日)は、アメリカ在住の政治学者。
     1966年~1968年、リンドン・ジョンソン大統領
    の大統領顧問を務め、
     1977年~1981年、カーター政権時の第10代国家
    安全保障問題担当大統領補佐官を務めた。
     ポーランド出身、カナダ育ち。
     1971年には、日本に半年間在住した後に、急速
    な経済発展を遂げた日本が、政治外交領域ではい
    まだに独立した行動をとる力を持っていない「ひ
    よわな花」であると論じ、日本で大きな注目を浴
    びた。
     ヘンリー・キッシンジャー元国務長官と並ぶ戦
    略思想家だったとする評価もされている。
     2016年に、民間人としては最高栄誉の、アメリ
    カ国防総省公共サービス栄誉賞を受賞した。
.
2002年10月、江沢民・中国国家主席が訪米し、アメリカの
 ブッシュ大統領(子)をテキサスの牧場に訪ね、密約の
 確認をした・・?
  当時(1972年2月)のニクソン米大統領とキッシンジャ
 ー補佐官が北京を訪問し、周恩来首相との間で対日政策
 に関する密約を交わしている。
  この事は、日本人は、きちんと覚えておく必要がある。
  この時の密約の要点を書きとめたニクソンの手書きメ
 モも残っているが・・、
  密約の一つは、「東アジア地域において日本だけは核
 武装させない」というもので、
  このことを、2002年10月、江沢民・中国国家主席は訪
 米し、テキサスの牧場にブッシュ大統領を訪ね・・そし
 て、このときにも『再確認』したとされている。
.
2006年秋、ブレジンスキー元安全保障補佐官が、ワシント
 ンの公開シンポジウムで公言した・・、
  「アメリカと中国との間には、日本にだけは核を持た
 せないという密約がある」・・と・・、
  「リアシュアランス戦略」
  アメリカには、「リアシュアランス戦略」がある。
  「リアシュア」は「安心させる」という意味。
  アメリカが、「日本は安全だ」と言い・・、
  また、「日本人は、アメリカによって保護されている
 から心配しなくていい」と言う。
  日本は、「よかった、よかった、アメリカに保護され
 ているから日本は安全だ」・・と思う。
  アメリカの、この「日本人をリアシュアしておく」と
 いう戦略をとったのは・・、
  「敗戦国・日本から、永遠に自主防衛能力を剥奪して
 おきたい」という戦略から来ている。
  2006年秋、ブレジンスキー元安全保障補佐官が、ワシ
 ントンの公開シンポジウムで公言した・・、
  「アメリカと中国との間には、日本にだけは核を持た
 せないという密約がある」・・と。
  この密約は、ワシントンでは、すでに、「公然の秘密」
 となっていた。
  「アメリカと中国の政府間に、日本から、自主防衛力
 を剥奪しておくため、アメリカ軍は、日本の駐留を続け
 る。
  例え、「日本の周辺国が、すべて、核武装しても」、
 「日本にだけは、核は持たせない」・・と。
  1971年秋、アメリカのキッシンジャーと、中国の周恩
 来の間で、「対日共同封じ込め」が話し合われ、
  翌年の1972年2月、アメリカ大統領ニクソンが、北京を
 訪れ、米中首脳間で合意された。
  この米中首脳合意は、アメリカ政府の外交資料に公開
 されている。
  また、中国の公開論文などでも公開されている。
  日本が、真に独立できな根源が、ここから来ている。
  この後も、この日本の立ち位置は、その都度、アメリ
 カと中国間で確認されている。
  ニクソンの後の「フォード」「カーター」もアメリカ・
 中国による「対日共同封じ込め戦略」は続けられた。
  中国は、表では「アメリカの覇権に抗議する姿」を見
 せているが?
  『対日共同封じ込め戦略』の基本路線で、アメリカと
 つながっている・・この事は、ブランダイス大学のロバ
 ート・アート氏が指摘する。
  (参考)ロバート・アートは、アメリカ合衆国の国際
    政治学者。ブランダイス大学教授。MIT国際関
    係研究所フェロー。
     専門は、国際関係論、安全保障論。
     1964年に、コロンビア大学卒業後、1968年に、
    ハーバード大学で博士号取得。
     米国陸軍士官学校や米国空軍士官学校、中国人
    民解放軍国防大学、ベルリン自由大学などで講義
    をしてきた。
.
2010年1月21日、アメリカの連邦最高裁は、選挙資金の支出
 制限を違憲とした。
  『献金の上限撤廃』の判決が出た。
  また、2016年6月10日には、チャイナマネー疑惑が、ヒ
 ラリー・クリントン氏(民主党)を、突如、襲った。
  新たな火種が浮上し、連邦捜査局(FBI)が捜査し
 ていると報じている。
  大統領選や、知事選の候補者は、外国人から選挙資金
 を受け取ってはならないとなっている。
  しかし、中国は・・、
  アメリカの民主党に献金し、チャイナロビーを形成し
 て、アメリカを通じて日本に圧力を掛けていると言われ
 ている。
.
2017年9月3日、日本が、レーザーで、ミサイルを迎撃する
 「新システムの検討」をしていることが分かった。
  北朝鮮の核・ミサイル開発など、世情は不穏さを増し
 ているが・・、
  この新システムは、高出力レーザーを、発射直後の弾
 道ミサイルに照射し、無力化し、破壊する方法。
  防衛庁は、すでに、2010年度から研究を始めていて、
 高出力レーザーの研究を実施するなどしていた。
  また、アメリカの研究成果についての情報提供も受け
 ていた。
  2018年度から5年間で、装備化に向けた研究に入る。
  レーザー兵器は、アメリカや中国などでも開発が進め
 られていて、アメリカは、実戦配備を始めている。
  アメリカは、ミサイル防衛への活用も検討している。
  また、防衛省は、2018年度概算要求に、迫撃砲弾や小
 型無人機などを迎撃対象とする、高出力レーザーシステ
 ムの研究費として、87億円を計上した。
  北朝鮮が、「ロフテッド軌道」での発射を繰り返して
 いるため、新しい技術で対応する方針・・、
  開発を目指すのは、弾道ミサイルが発射された直後の
 「ブースト段階」の時点で、
  航空機や艦船などから高出力レーザーを照射し、熱に
 よってミサイルを変形させる技術。
  これによって、ミサイルが、空気の摩擦抵抗を受ける
 大気圏内への再突入などの際に、無力化・破壊する方法。
  この方法は、多数の弾道ミサイルの発射にも対処が可
 能。
  因みに、ブースト段階とは、弾道ミサイルが、発射直
 後に、ロケットエンジンの燃焼で加速する段階のことで、
  燃焼が終了して、慣性で大気圏外を飛行する「ミッド
 コース段階」や、
  弾頭が、大気圏に再突入してから地上に向かう「ター
 ミナル段階」とは違う・・
  ロフテッド軌道の場合、ターミナル段階の弾頭は、落
 下速度が速く、迎撃性が落ちる。
  この新システムの方法で、ロフテッド軌道に入る前の
 低速度の発射直後の段階で対処ができる。
  (読売新聞、2017年9月3日を参考にした)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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(増補版)551E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年2月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)551E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年1月1日、山陽鉄道会社が、旅客運賃を改定した。
1892年1月5日、世界で初めて、オーロラの写真撮影に成功
 した。
1892年1月16日、明治美術会が、洋風美術指導の教場を開く。
  明治美術会は、日本最初の洋画団体で・・、
  明治10年代には、維新以来の急進的な欧化政策に対す
 る反省、反動の機運が高まり、日本の伝統美術の復興を
 旗じるしに、洋画排斥の世論が強まって行った。
  こうした当時の国粋主義的風潮に抗して、1889年に、
 浅井忠、小山正太郎、原田直次郎、松岡寿、山本芳翠、
 長沼守敬らが、東大総長の渡辺洪基を会頭として組織し
 た。
  また、後援者として行政家や知識人らの多数が名を連
 ねた。
  そして、さらに、黒田清輝、久米桂一郎らの新帰朝者
 も参加した。
  毎年、展覧会を開き、多くの名作を発表した。
  また、外国作品の参考陳列、研究所の設置、講演会、
 討論会なども行い、洋画発展・啓蒙のために尽した。
  後に、黒田清輝らが、白馬会を起こしたため、白馬会
 と対立した。
  旧派、または、脂派 (やには) と呼ばれて衰退し、
  1901年に解散した。
  翌年の1902年に、若手を中心にした旧会員らが、太平
 洋画会を結成し、
  白馬会とともに二大洋画団体となった。
1892年1月23日、植木枝盛(うえきえもり)が死去した。
  (1857年1月20日~1892年1月23日、36歳)
  土佐国(高知県)高知城下井口村の生まれで、
  土佐高知藩下級士族・植木直枝の独子、
  板垣退助の演説を聞いて感銘を受け、また、明六社の
 影響を受け、自由民権運動に加わり、自由民権運動の指
 導者・政治家となる。
  国会開設に尽力。
  廃藩に至るまで藩校致道館に学ぶ。
  1873年(16歳)旧藩主・山内氏が東京に開設した海南
   私塾に学んだが、陸軍士官予備門的同校の方針が不
   満となり、高知へ帰る。
   時は、あたかも、征韓論政変で下野した板垣退助、
   林有造、片岡健吉らは帰郷して、高知に立志社を設
   立し、自由民権運動を開始した。
   枝盛は、立志社の演説会で、板垣らの演説に発奮し、
   運動への関心を高めた。
  1876年(19歳)再度、上京し、板垣邸に書生として寄
   宿した。
   そして、明六社や、慶応義塾主催の演説会を聴取し
   たり、読書に耽り、独学で西洋近代思想を学び、民
   権思想を吸収した。
   東京の諸新聞に政論を投書するなど、言論活動を始
   めた。
   1876年2月、『郵便報知新聞』に掲載された専制政府
   攻撃の『猿人政府(猿人君主)』が讒謗律、新聞紙
   条例違反に問われ禁獄(きんごく、牢獄に閉じ込め
   ておくこと)2ヶ月となる。
  1877年(20歳)帰郷して、立志社に入社し参加した。
   そして、板垣退助のブレーン(頭脳)として、片腕
   的存在として活躍。
   この年は、西南戦争の最中で、いわゆる立志社建白
   を起草した。
   同年・1877年、立志社は、機関誌『海南新誌』『土
   陽雑誌』を創刊した。
   枝盛は、その編集・執筆に当たり、また、演説会で
   活発な言論活動を展開。
   愛国社、国会期成同盟、自由党に板垣の片腕的存在
   として活躍した。
   (国会開設運動や民権思想の普及につくす)
  1881年(24歳)急進的な私擬憲法「日本国国憲案(東
   洋大日本国憲法)」を起草した。
   のち再興愛国社、国会期成同盟、自由党などの運動
   に板垣の片腕となって活躍する。
   一方、民権派ジャーナリストとして『民権自由論』
   (1879年・22歳) などの出版により民衆啓蒙を行う。
   のち、急進的自由民権運動から離れ、婦人解放運動
   に尽力した。
  1884年(27歳)自由党解党以後、高知に戻り、県会議
   員として運動を持続した。
    また、『土陽新聞』に拠って健筆を振るい、自由
   民権思想の普及、運動の拡大に努めた。
  1890年(33歳)第1回総選挙で、高知3区から衆議院議
   員に当選し、自由党土佐派の有力者として活躍した。
   しかし・・
  1892年1月23日、36歳の若さで急死した。
  彼の思想の特徴は、天賦人権論、主権在民、抵抗権な
 どにあった。
  その他の著書に『天賦人権弁』『開明新論』『言論自
 由論』『一局議院論』など。
1892年1月28日、予戒令(よかいれい)が公布された(1月
 25日説あり)
  集会の妨害行為、他人の業務に干渉する者の取締を目
 的に制定され、即日、施行された。
  1892年2月15日に、第2回衆議院議員総選挙が行われる
 予定であったため、選挙取締りを目的とするとされた。
  政治集会で社会が騒然とし、また、騒動が多発するた
 めもあった。
  「政談集会ヲ妨害シ議会議員ヲ脅迫スル…人民ニ対シ
 警察上ノ監督」と記されている。
  内閣顧問として活躍したドイツ人のヘルマン・ロエス
 レルは、予戒令の審議における参考意見として・・
  「公共並ニ国家ノ利益の為ニ…禁遏(きんあつ、禁じ
 て止めさせること)スルヲ得ヘシ」と判断し、制定の正
 当性を挙げた(1914年1月21日まで存続した)
1892年1月、大阪鉄道会社線の亀ノ瀬トンネルが完成した。
  1889年3月に着工していた(工期:2年10ヶ月)
  全長:下り線699m、上り線703.5mの鉄道トンネル。
  堅上村(現在の大阪府柏原市大字峠)から大阪府・奈
 良県境までにかけての区間には、生駒山地と金剛山地の
 末端に挟まれた難所かつ隘路があり・・
  この難所「亀ノ瀬越え」があった。
  この一帯は、地すべりがたびたび発生した。
  1889年に着工された亀ノ瀬トンネル(全長413m)・芝
 山トンネル(全長216m)も、異常な土圧力を受け、工事
 が完成しても、煉瓦に亀裂ができ、崩壊するという危険
 性に見舞われていた。
1892年2月1日、九州鉄道会社が、下等旅客運賃を値上げし
 た。
1892年2月1日、北海道炭砿鉄道会社が、砂川駅~空知太駅
 間の4.6kmを開業した。
1892年2月2日、大阪鉄道会社が、亀瀬駅~稲葉山駅間の1.3
 kmを開通して、湊町駅~奈良駅間の41.2kmを全通させた。
1892年2月3日 出口なを、京都綾部で大本教を開いた。
  神道系の新宗教で、教祖の出口なおにより 1892年に
 創唱され、その予言は、御筆先 として記された。
  (おふでさき。大本神諭、なをの「筆先」による艮(う
 しとら)の金神(こんじん)の世直しを唱えて、「みろくの
 世」(神の国)の到来を説いた)
  大本皇大御神を祀り、なおの出生地たる丹波国綾部を
 地上の高天原とし、神人合感を唱え、世を立直して、神
 の国を開くと説いた。
  なおの死後、教理を体系化し、組織を構築した出口王
 仁三郎(でぐちおにさぶろう)、すみの両人により、鎮
 魂帰神法が唱えられ、綾部に本部、亀岡に道場がおかれ、
 大きく発展したが、1921年と1935年の2回の不敬罪で解散
 に至った。
  第2次世界大戦後、愛善苑として再建された。
  1952年、大本教に復し、京都府亀岡市に本部を置く。
  尚、開祖の出口(でぐち)なお(1836年~1918年、82歳
 没)は、
  1836年、丹波国(京都府)福知山城下に大工の長女と
   して出生した。
  1853年(17歳)の時、丹波綾部郷(現京都府綾部市)
   の叔母・出口ゆりの養女となる。
  1855年(19歳)大工の夫を婿養子として迎え、出口家
   を継いだ。
    しかし、夫の放蕩で家財いっさいを失うこととな
   った。
   つらく、ひどい生活苦を体験した。
  1892年(56歳)、貧しい大工の未亡人である出口なを
   が創唱した。
    「三千世界一度に開く梅の花、艮(うしとら)の
   金神の世になりたぞよ」と、突然、神がかりして口
   走り・・、
    理想世界「みろくの世」の実現を説く世界の平和
   と・・世の中の立直しを叫んだ。
1892年2月5日、大村益次郎の銅像が除幕された(除幕式)
  大村益次郎の銅像は、初代司法大臣として活躍した山
 田顕義の発案で、靖国神社に建立された。
  大村益次郎(おおむらますじろう、1824年3月10日~
 1869年11月5日)は、幕末の洋学者で、日本の近代的軍制
 の創始者。
  旧名は村田良庵、のち、村田蔵六と名乗った。
  1824年(文政7年)3月10日、周防国吉敷郡鋳銭司村字
   大村に長州藩の医者・村田孝益の長男として生れた。
  1843年(19歳)蘭医・梅田幽斎に学ぶ。
  1844年(20歳)豊後(大分県)の広瀬淡窓に漢籍を学ぶ。
  1847年(23歳)大阪の緒方洪庵の適塾の門で、蘭学と
   医学を学び、塾長を務めた。
    この間、長崎を訪れ名医奥山静叔に学ぶ。
    そして、P・シーボルトについてオランダ医学を学
   んだ。
    また、兵学を修めた。
  1851年(27歳)父母を養うために帰郷した。
   そして、医を開業したが振るわず・・宇和島藩に迎
   えられ、伊予(いよ)(愛媛県)宇和島藩御雇となった・・
   そして、西洋兵書を翻訳し、軍艦製造などを指導し
   た・・、
  1856年(32歳)江戸に出て鳩居堂を開塾した・・
   宇和島藩主・伊達宗城の推挙で、幕府の蕃書調所に
   仕え、教授手伝い、さらに、講武所で教授を歴任し
   た。
    この間、ヘボンに英語を学んだ。
    名声を聞いた長州藩は出仕を命じた・・
  1860年(36歳)万延元年、長州藩に呼び戻され、帰藩
   し、同藩(長門・ながと・山口県、萩・はぎ藩)で
   兵学を教え、兵制改革に力量を発揮した。
  1866年(42歳)長州戦争には、石見口の総参謀として
   幕府軍を壊滅させた。
  1868年(44歳)1月3日、戊辰戦争が起きると、討幕軍
   として上洛した。
    維新政府の軍防事務局判事加勢を命ぜられ、軍政
   事務を担当した。
  1868年(44歳)閏4月、江戸に出て、上野彰義隊討伐、
   奥羽・北越の平定作戦に携わった。
    総合的な視点で戦局を捉え、軍略は戦う前から必
   勝の成算をうかがわせるものがあった。
    西郷隆盛は、大村の軍が進まないのをみて、部下
   将士のすすめるままに兵を率いて東上し戦地平定を
   申し出た。
    大村は、西郷を諫め、西郷の青森到着前に五稜郭
   が陥落した。
    西郷は、大村の卓見に感服し、「我誤てり面を合
   はすに恥づ」とそのまま帰郷した。
  1868年(44歳)10月、軍務官副知事となり箱館(函館)
   を鎮定した。
    ここに戊辰戦争は終結した。
    その戦の功により永世禄1500石を受けた。
    この様に、戊辰戦争に優れた軍事指揮を執った。
  1869年(明治2年)(45歳)兵部大輔となり、軍制を徹
   底的に改革するため、それまでの諸藩混成の士族的
   御親兵を、国民的な近代軍隊へ改組したいと・・、
    陸軍はフランス陸軍へ、海軍はイギリス海軍を模
   範としてならうと・・藩兵解体、帯刀禁止、徴兵制
   度の採用などを建白し、一連の兵制改革を行ない、
   日本の兵制の近代化に尽力した。
   ・・が、旧士族の反感を買い、
  1869年9月4日(45歳)、京阪地方を旅行中の京都の止
   宿先で、神代(こうじろ)直人ら反対派士族の8人に襲
   われ、刺された傷がもとで大阪の病院で・・
  1869年12月7日、死去した、46歳だった。
  最後の言葉は、「安価で軽便な四斤砲をたくさんつく
 ってくれ」。
.
  (今日の言葉)
.
  題:枕を高くして寝ていられる日本ではなくなっている。
    国防をもっと真剣に考えなければいけない!
    緊急事態なのである!
.
1910年8月29日、日韓併合(~1945年9月9日)
  日本は、「韓国併合に関する条約(日韓併合条約)」
 によって大韓帝国と併合した。
  標語は、「内鮮一体」で・・、
  日本と朝鮮は一体となって国づくりをして行こうと、
 そこには、完全に朝鮮を差別待遇するなどという意味は
 まったく無く、平等に内地(日本本土)と一体となって
 国づくりをしようとした。
  差別なく、日本と同等な皇国の民として平等だという
 意識で・・、
  「半島人ヲシテ忠良ナル皇国臣民タラシメル」ことを
 目的とするとした。
  今・現代、その当時を生きた韓国の方々は、そのこと
 を裏付ける様にネットに以下の様に記述する。
  「韓国政府が、ひたすら酷かったとして、恩を仇で返
 すような行動をしている」が、
  また、「教科書で、ひたすら日本を蔑むことを記述し
 て韓国の小学生たちを洗脳しているが、真実は消せない」
 と・・、
  以下の翻訳したネットのスレッド(投稿)の韓国の
 庶民の方々の真実の声も聞いて戴きたい・・
  翻訳ー1:おじいさんは笑いながら「日帝時代は、李氏
     朝鮮などの朝鮮王朝が統治した時よりはるかに
     幸せだった」と言いました。
      その例として、まず、医療技術が発達し、人々
     が病気の苦痛から開放され、長生きすることが
     できるようになったこと、
      さらに、教育の機会が与えられ、多くの人た
     ちが勉強できるようになったことなど・・
  翻訳ー2:韓国人強制徴用については知らされているこ
     とと違うと言いました。
      善良な人を強制的に徴用したのではく、死刑
     囚や犯罪者などを徴用していたのです。
  翻訳ー3:慰安婦問題については正確には知らないとし・・
  翻訳ー4:親日派と売国奴は別物だ。
      親日が悪いことではないと言いました。
      当時、韓国民族が生きる最良の道は、現実問
     題としての自分の立ち位置をよく認識し、日本
     人から先進文物を学び、自分のものにするとい
     うものでした。
      また、社会のほとんどが親日であり、現在の
     テレビ放送(TV)が示すような、大多数の人が
     独立万歳をしていなかった・・と言います。
  翻訳ー5:教科書を見れば、老人たちにとって日帝時代
     は地獄であり、日本は悪魔だとしています。
      しかし、老人ホームのようなところに行って
     奉仕活動をしながら尋ねると、意外にも日帝時
     代に対する感情がないということに驚きます(
     日本は悪いことをしていないので、悪感情が出
     て来ない)
  翻訳ー6:朝鮮時代末期には、平均寿命が30歳を超えて
     いなかったとしています。
  翻訳ー7:平均寿命と人口が約2倍に増えたという客観
     的な統計が存在し、飢えて死ぬ人々の数が目に
     見えて減りました。
      以前には、娯楽すら知らなかった人たちは、
     少しふんぱつをすれば、豪華な洋館でコーヒー
     を飲むことができたました。
      文学などの芸術も、この時から発達していま
     す。
      日帝時代は、大多数の朝鮮人が親日派であっ
     た。
      いや、親日派という言葉すら成立しないかも
     しれない。
      当時、絶対多数の朝鮮人は、日本人として幸
     せに暮らしていた。
      現在、韓国の教科書が教えるのは捏造、歪曲、
     操作であり、独立運動の朝鮮人は、全体の1%に
     もならなかった。
      絶対多数99%の朝鮮人は親日派であった。
  (日本も同じだったのだろう・・と、日本を、アメリ
 カやヨーロッパ諸国と同じ様な『搾取するだけの植民地
 政策だ』と同じに見ないでください)
  第二次世界大戦当時、大東亜戦争に自ら進んで参加し
 た朝鮮人兵士は・・何と! 22万人を超えた。
  また、平均寿命が24歳という地獄ような朝鮮の状況を・・
 一変させ・・
  朝鮮の方々の平均寿命を倍以上に増やすという『改善
 がなされた』。
  それは、一朝一夕で出来るものではなく・・
  住みやすい国づくりをし、また、人間らしく生きられ
 る国を作った日本だった。
  この様な功績を、まったく伝えない韓国・・
  偽りと捏造(ねつぞう)の歴史で、いつまでも被害者
 であるとプロパガンダし、洗脳する。
  恩を仇で返している韓国なのである。
  韓国の安東地方に建設された図書館の利用者記録を見
 るだけでも分かります・・、
  この資料だけでも、日本が、どれほど朝鮮のあらゆる
 ものに貢献したかが・・
  朝鮮人の方々、支那人の方々、共に、この知的な場所
 を、多くの人が、公平に閲覧しています。
  公平な社会だった。
  公平な統治が行われていたという証拠の一つです。
http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/26941311.html
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/983250/10?viewMode=
http://livedoor.blogimg.jp/kaikaihanno/imgs/4/3/437ea3cc-s.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/kaikaihanno/imgs/9/2/923f2cbc-s.jpg
.
1937年11月15日、日本軍の第10軍は、「一挙追撃を敢行し、
 南京を占領すべき」と積極案を出した。
  それは、マス・メディアの論調に影響を受けていた。
  南京への進軍のきっかけを作ったNHKはじめマス・
 メディアは、
  その後の、南京へ向かう日本軍の進軍を、逐一、報道
 した。
  この報道も、煽りだった。
  それまでの上海事変で、日本軍は疲弊していた。
  上海の日本軍を攻めて来た中国国民政府軍は、上海事
 変での戦いは強烈だった。
  アメリカに支援された中国国民政府軍は、そのアメリ
 カに支援された大量の武器と物量で頑強で、日本を苦し
 めた。
  日本軍は疲弊していた。
  本来は、上海事変が集結した後、日本に帰還するわけ
 だった。
  しかし、NHKはじめマス・メディアに煽られた軍は、
 戦争拡大の意見が通り、また、上海事変で戦った兵士が、
 そのまま南京へ向かうことになった。
  そしてまた、南京へ向かうその日本軍を、NHKはじ
 めマス・メディアは、逐一、報道し、当然、煽られた状
 況になって、南京へと向かって行った。
  国民はその報道をかたずをのんで見守り、声援した。
  NHKは、この様に戦争を煽った罪を『まったく報道
 しない』、
  日本を貶(おとし)める放送ばかりをしてる。
.
1946年3月5日、イギリスのチャーチル前首相が「鉄のカー
 テン」演説を行う。
  この「鉄のカーテン」は、イギリスのチャーチルが、
 首相を退任後、アメリカのトルーマン大統領に招かれ訪
 米し、ミズーリ州の大学で演説した中で言った。
  この「鉄のカーテン」と言われた頃と、今(2017年)
 との違いは・・、
  ソ連が崩壊して、ロシアが誕生したという経過がある
 が・・
  今・現代の2017年は、中国が世界一としての存在感を
 増している。
  米中関係と言われていた言葉は、今は、中米関係と逆
 転して言うべきだろう。
  米ソの冷戦時は、明確な立ち位置の違いがあった。
 冷戦だと言われる様に、米ソは、その「冷戦の戦争的な
 対決状態」だった。
  そして、「鉄のカーテン」と言われた様に、「カーテ
 ンの向こう側」と「カーテンのこちら側」という明確な
 体制の違いがあった。
  しかし、今・現代の状態は、同じ様な経済状況・経済
 体制の中で、「明らかに中国は、世界の覇権を手に入れ
 たい」と意思表示をしていながら、現状の様な雌伏の様
 な形で、現位置を構築してきた。
  しかし、「中国の明確な覇権を得たい」という言葉の
 裏には、今の派遣者であるアメリカには退場して戴きた
 いという中国の意思もある。
  そこを、隠密に、静かに、なされたため、米ソ冷戦時
 のはっきりした「彼我の陣営の違い」が見えにくくなっ
 ている。
  北朝鮮を明らかに繰って、自らの覇権構築に利用して
 いても・・その様な北朝鮮を繰る姿は見えにくくなって
 いる。
  その見えにくい中国に、米ソ冷戦の時には、米側であ
 った諸国も、今・現代は、中国側に取り込まれている。
  IMF体制を変えたいという意思のある中国。
  中国主導のそのAIIB(アジアインフラ投資銀行)
 にも、だから、イギリスはじめ、米ソ冷戦時は、アメリ
 カ側であった諸国が加わっている。
  その諸国の中には、「AIIBに加わって、その様子
 をはっきり見るのだ」という声も聞こえるが・・?
  何か、アメリカ離れをして行こうという様にも見える。
  そこを、日本だけが・・律儀に・・アメリカとともに
 いる感じとなっている・・、
  ドイツは、明確に中国側の行動を行なっている。
  アメリカが、アメリカの一部の知識人が言うように、
 「中国の覇権を認め」、そして、中国の軍門に下るのか?
  それとも、読売新聞の論説文の様に、「より日米関係
 を強固にせよ」という論説の如く、日米関係を強固にし
 て・・、
  この先は、中国の構築したグループと、対決姿勢を形
 作って行くのか?
  中国には、孫子という人が居た。
  中国の指導層も、この孫子の言葉を教訓にしている・・
 モットーにしているというが・・眉(まゆ)つばものだ・・
  この孫子の言葉に・・、
  「兵は詐(さ)なり。(この詐は、つくりごとをいう。
 嘘を言ってだます・・という意味)・・、
  そして、「彼を知りて己を知れば、百戦して殆(あや)
 うからず」・・とある。
  この有名な文の前文・・孫子の言葉には、「兵は詐を
 以って立つ・・」という言葉がある。
  つまり、「戦いは敵を欺き、裏をかくことだ」と言っ
 ている。
  中国は、「勝てば何をやっても良いのだ」と考える国
 だということ。
  中国の本を読んでも、欺いて勝った者が褒められ、讃
 えられている。
  節操なく人をだまし、騙し合いの汚い話の連続だ。
  延々とこんな事ばかりをしている。
  キリスト教聖書も、この様な事が書かれていて、唾棄
 すべき記述に満ちているが、中国は聖書以上だ。
  アメリカも、原爆を落とし、一般市民をターゲットと
 した無差別爆撃をし、そして、じゅうたん爆撃を、日本
 の都市という都市に行って、本当に多くの市民を殺戮・
 虐殺したが・・、中国の悲惨さはアメリカ以上だ。
  自国民を1000万人単位で何回も殺している国・・、
  中国の悲惨さ、冷酷さは、反対意見の持ち主が、皆無
 に近い所だ・・皆、殺してしまう。
  ロシアの学者が明かす・・
  中国政府は、最近の20年間、大量の工作員をロシアに
 送り込み、
  ロシアの内政と外交を親中に誘導している・・と、
  チャイナ・ロビーの威力はすごい影響力がある・・と、
  アメリカもこれをやられている・・
  そして、日本もやられている・・
  官僚がやられ・・NHKなどは、『親中の放送だ』と
 はっきり分かるものがあるという酷さ・・、
.
1948年2月6日、GHQの内部文書「戦争についての罪悪感
 を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」が明らかに
 なった。
  ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(
 War Guilt Information Program、略称:WGIP)を、文芸
 評論家の江藤淳氏が、その存在を明らかにした。
  この文書は、第二次世界大戦(大東亜戦争)終結後、
 アメリカを主力とする連合国軍最高司令官総司令部(G
 HQ)が行なった日本占領政策の一環としてやった日本
 人洗脳計画・・
  「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるた
 めの宣伝計画」である。
  1979年より、ウィルソン・センターで、アメリカ軍占
 領下の検閲事情を調査していた江藤氏は、
  アマースト大学の史学教授レイ・ムーア氏より「Draft
 of c/n, Subject : War Guilt Information Program,
 From : CIE, To : G-2 (CIS), : Date : 6 February
 1948」と、表題された文書のコピーを提供された。
  江藤氏は、この文書について・・、
  1948年(昭和23年)2月6日付で、CI&E(民間情報
 教育局)からG-2(CIS・参謀第2部民間諜報局)宛
 てに発せられたGHQの内部文書であると明らかにした。
.
1960年1月19日、新日米安保条約が発効した。
  日米安保条約は、1951年9月8日の日本との平和条約と
 同日にアメリカと署名された。
  そして、1960年1月19日に、日本とアメリカとの間の相
 互協力及び安全保障条約(新日米安保条約)が発効した。
  これによって、先の日米安保条約は失効した。
  ハンス・モーゲンソーの言葉・・、
  「同盟は、両国が共に強くなければ維持されない」。
  (参考)ハンス・モーゲンソー:1904年~1980年、ド
     イツ出身の国際政治学者。シカゴ大学教授。
  日米は、白昼夢(はくちゅうむ。真昼に夢を見ている
 ような、非現実的な空想)の様な同盟関係なのである。
  日本は、モーゲンソーの言う通り、今以上のしっかり
 した防衛力を構築しなければならない。
  そして・・、日米安保条約には・・、
  「日本が攻撃にさらされた場合、自国(アメリカ)を
 犠牲にしてまで、日本を守らなければならない」といっ
 た具体的な取り決めは無い・・、
  マクジョージ・バンディは・・、
  「アメリカの大統領は、たった一発の核弾頭が、アメ
 リカのどこかの都市に撃ち込まれる可能性を想像するだ
 けで、足がすくんで核戦争から逃げ出す」と言っている。
  (参考)マクジョージ・バンディ:1919年~1996年、
     アメリカの政治学者。ハーバード大学教授。
      ケネディ政権、ジョンソン政権の国家安全保
     障担当大統領補佐官。
  ハンティントンや、キッシンジャーや、マクジョージ・
 バンディは・・、
  「アメリカの政治家が、同盟国に対する核攻撃(核恫
 喝)に報復するため、核戦争を実行することなどあり得
 ない」・・と言っている。
.
1970年代、ソ連のモスクワの日本大使館に勤務していた日
 本の外交官が、ハニー・トラップに引っ掛かった。
  日本の重大な情報がソ連に盗まれた。
  これと付随して外国の情報も盗まれた。
  日本の大使館の電信官が狙われた。
  ソ連の秘密情報機関のKGBの仕業だった。
  この様に、日本の大使館の電信官が狙われる事件は、
 上海でも起きていて、
  この時は、この情報流出していた外交官は自殺した。
  このモスクワの場合は、この外交官が、東京の本省勤
 務になっても続いた。
  「ミーシャ」というコード・ネームが付けられた。
  本省勤務になった故、より重要ポストにつけられ、よ
 り重要な情報を扱った。
  ソ連のKGBは、KGB東京支局に、東京駐在のKG
 Bに、この「ミーシャ」専従として情報を奪う担当官を
 何人も付けた。
  この頃は、「ミーシャ」の名も「ナザール」に変えら
 れた。
  「ナザール」は、ソ連の最高級の監視と、運用体制が
 築かれ、おいしい情報が、長い期間、奪われ続けた。
  「ナザール」と名付けられた日本の外交官は、甘い「
 ハニー・トラップ」の他に、「大金」も報酬として与え
 られた。
  東京本省から、全世界の在外公館に出される情報、そ
 して、日本へ世界中から集まってくる情報の「ほとんど
 すべて」が、ソ連は奪う事が出来た。
  日本の暗号システムの情報もソ連へ奪われていた。
  「ナザール」の情報は、最も美味しい情報で、常に、
 ソ連・クレムリンのトップにまで伝えられ、報告された。
  この日本の外務省の大汚点は、ソ連KGBの歴史でも、
 最上級の成功事例とされている。
  特に、ソ連が美味しかった情報は、日米間に行き来す
 る極秘情報だった。
  ワシントンの日本大使館から、東京の本省へ送られる
 情報などだった。
  アメリカ高官の情報や米ソ関係情報、NATO関係の
 情報などが、ソ連へ奪われた。
  この大切な情報流出が止まったのは、お粗末な事に、
 偶然のことだった。
  日本は、それまで全く気付いていなかった。
  1982年に、ソ連KGB所属員が亡命したから、この事
 が分かったのだった。
  この1982年に、ソ連KGBの元少佐が、アメリカへ亡
 命して起きた「レフチェンコ事件」が起きた。
  アメリカ議会で証言し、多数の日本人エージェント(
 国家の秘密業務で働く者。スパイ)を使って政治工作を
 している実態を暴露した。
  この男は、レフチェンコは、1979年に、アメリカに亡
 命した。
  日本の被害も甚大だったが、世界各国へ及ぼした被害
 も甚大だった。
  世界は、「日本に対しては機密情報は流せない」とな
 った。
  日本外交が、「つんぼ桟敷」に置かれることになった。
  そしてまた、ソ連KGBの対外情報局文書課長が、イ
 ギリスへ亡命した。
  名は「ミトローヒン」。
  彼は、ソ連の抑圧体制に怒りを持った。
  また、共産主義の根源的な不道徳性に怒りを持った。
  彼は、、KGB本部の機密文書を少しづつ持ち出し、
 自宅に蓄積し、その文書とともに、亡命した。
  文書の量は、トラック1台分あったという。
  このミトローヒン文書が、1999年に出版された。
  この「ミトローヒン文書、第一巻」で、アメリカと西
 ヨーロッパをターゲットとしたソ連の工作活動が明るみ
 に出た。
  西側世界は、大騒ぎになった。
  そして、2005年9月に、「ミトローヒン文書、第二巻」
 が出版された。
  ここに、日本を扱った章に、KGBの対日工作の事例
 の数々が具体的に書かれていた。
  ここに「ミーシャ」の事が、事例として描かれていた。
  ミトローヒンは、2004年に死去した。
.
1985年、スパイ防止法が廃案となる。
  この年に、「国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関
 する法律案」が・・廃案となった。
  中国は、「スリーパーの達人」だから注意を要する。
  スリーパーとは「ヒューミント」とも言い、潜伏スパ
 イのこと。
  軍人や官僚などが狙われる。
  息子にも引き継ぐという「超・長期間」に渡って任務
 に就く。
  日本は、まったくと言ってよいほど、このジャンルが
 弱い。
  相手の国、ターゲットの国民を「スリーパー」とする
 が、杉原千畝の様に、日本人を送り込むこともする。
  杉原千畝は、ロシア人女性を妻に迎え、情報収集に努
 めたが、
  そして、ロシアから入国禁止処置を取られたが、
  杉原千畝の結婚した「ロシア人女性」は「二重スパイ」
 だったという話がある。
  逆に、杉原千畝が、スパイされていたという。
  今の日本には、強力な「スパイ防止法」が必要。
  (参考)国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する
     法律案(こっかひみつにかかるスパイこういと
     うのぼうしにかんするほうりつあん)は、
      1985年の第102回国会で、自由民主党所属議員
     により、衆議院に議員立法として提出されたが、
      第103回国会で審議未了廃案となった法律案。
      通称「スパイ防止法案」。
  現在、日本では、スパイ防止法のような、スパイ活動
 そのものを取り締まる法律が存在しない。
  そのため、ボガチョンコフ事件のような、スパイ活動
 事件を取り締まることができない状況にある。
  (参考)ボガチョンコフ事件は・・、
      ロシア連邦の情報機関であるロシア連邦軍参
     謀本部情報部(GRU)の工作官が、日本の海
     上自衛隊三佐に対してスパイ活動を行った事件
     で・・、
      ロシア情報の専門家であったH三佐は「とわ
     だ」の船務長等を務めてきたが、息子の看病の
     為に陸上勤務を希望し、呉第一潜水艦群司令部
     に移った後、1997年から防衛大学校の総合安全
     保障研究科(大学院)に所属し、ソ連海軍に関
     する研究を行っていた。
      そのような中、1999年1月に、防衛研究所が
     開いた「安全保障国際シンポジウム」の場でロ
     シア海軍大佐のビクトル・ボガチョンコフ武官
     は、H三佐に接触を図った。
      ボガチョンコフは、Hに寄り添うことから始
     めた。
      Hが、宗教へ入信すると共に祈ったり、家族
     旅行を支援したりして親密な関係を築いていっ
     た。
      更に、息子の葬儀には不祝儀を送り、共に涙
     を流した。
      打ちひしがれたHは、次第にボガチョンコフ
     と過ごす時間に安らぎを覚えるようになってい
     ったという。
      こうしてHは、段々とボガチョンコフに頼み
     に応じて自衛隊の書類や教本を渡すようになっ
     ていった。
  日本のスパイ防止法の制定賛成派は、この現状を、「
 スパイ天国」と揶揄する。
  スパイの黒幕は、ほとんどの場合、大使館の書記官や、
 駐在武官、つまり、外交特権保持者なので、逮捕はでき
 ず、可能なのはペルソナ・ノン・グラータ通告で「退去」
 「帰国お願い」をすることだけ・・、
  さらに、対象は、ロシア・中国などの「仮想敵国」の
 みで、中央情報局やアメリカ軍の情報部、イギリス秘密
 情報部など友好国の活動は一切咎められない。
  (一部、ウィキペディアを参考にした)
.
2001年1月20日、反日親中の大統領であるジョージ・W・
 ブッシュ(子)が大統領になった。
  アメリカ大統領には、明確に、反日親中である大統領
 が、実に、多い。
  以下の、7氏は、確実に、反日親中・・、
  第28代、ウッドロウ・ウィルソン、
      民主党(1913年~1921年)
  第32代、フランクリン・ルーズベルト、
      民主党(1933年~1945年)
  第37代、リチャード・ニクソン、
      共和党(1969年~1974年)
  第39代、ジミー・カーター、
      民主党(1977年~1981年)
  第41代、ジョージ・H・W・ブッシュ(父)
      共和党(1989年~1993年)
  第42代、ビル・クリントン、
      民主党(1993年~2001年)
  第43代、ジョージ・W・ブッシュ(子)
      共和党(2001年~2009年)
  以上の大統領は、明確な反日親中の大統領だった。
  中国が、ここまで経済的に大きくなったのも、また、
 軍事的にも大きくなったのも、これ等の大統領の政策が
 大きく影響している。
  アメリカは、まずいと見れば、ハンティントンの言葉、
 「さっさと西半球に引き上げてしまえばよい」の様に、
  西半球へと引き上げるだろう・・、
  日本は、当然、引き上げる訳にいかないから・・アメ
 リカの去ったあとの東アジアに取り残されるだろう。
  国を守ることを疎(おろそ)かにしていると・・日本
 は消滅するだろう・・バンドワゴンは長続きしないだろ
 う・・、
  (参考)反日親中:日本に不利に、そして、敵対する
     政策を採り・・、
      そして、その逆に、中国に対しては有利に処
     し、そして、融和的な政策を採ること。
.
2010年、黒孩子(黑孩子、ヘイハイツ、ヘイハイズ)、ま
 たは、黒戸(黑户、ヘイフー)とは・・、
  中華人民共和国において、一人っ子政策に反して生ま
 れたために、戸籍を持つことができない子供のこと。
  この様な子供が、『億の人数(数千万から数億人)』
 が居るという。
  2010年に、中国国家統計局が行った人口調査では、戸
 籍を持たない人の数が総人口のおよそ1%にあたる約1300
 万人に及び、その大半が黒孩子だとみられている。
  俗称として闇っ子(やみっこ)という表現があり、一
 部報道では、この表現が用いられることもある。
  この言葉における黒は「闇」という意味で、これは政
 府の視点による言葉。
.
2017年9月3日、今まで、中国は、パキスタンを経由して、
 核技術とミサイル技術を、北朝鮮に譲渡して来た。
  そして、今日、2017年9月3日、北朝鮮は、核実験を行
 い、ICBM(大陸間弾道弾)へ核の搭載技術を完全に
 獲得したと発表した。
  技術を買うお客さんの北朝鮮の核開発を、開発しない
 ようにと、中国がする訳はなかった。
  中国自身が、北朝鮮へ核技術を渡しているのだから・・、
  中国が、恐れているのは、北朝鮮が、アメリカの勢力
 圏に入ること・・
  だから、中国は、北朝鮮に核を持たせた。
  「統一された朝鮮半島が、アメリカの勢力圏に組み入
 れられる事」・・これが、中国は怖いことで・・、
  そうであるから、
  「北朝鮮に核を持たせて、独立性を高めて、独立を維
 持させておきたい」と考えた。
  北朝鮮が、アメリカの勢力圏に入ったら、北朝鮮と中
 国の国境で、アメリカ勢力圏と接する事になってしまう
 という中国。
  日本が、韓国が、北朝鮮に飲み込まれて、38度線が、
 対馬海峡になることを恐れているのと同じである。
  中国にとっての理想は・・
  北朝鮮の独立性が保たれて居てくれれば、中国は、地
 政学的に有利になり、また、安全となる・・である。
  北朝鮮は、すでに、日本を直撃する弾道ミサイルを約
 300基所有している。
  核弾道のミサイル搭載技術は、2017年時点で、持って
 いるだろうと予測されていた(2017年9月3日、核実験が
 成功した模様)。
  枕を高くして寝ていられる日本ではなくなっている。
  国防をもっと真剣に考えなければいけない!
  緊急事態なのである!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)550E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)550E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年、その他:つづき
・11月24日、民法・商法施行延期に関する法律が公布され
 た。
  1889年(明治22年)から1892年(明治25年)の日本に
 おいて、
  旧民法(明治23年法律第28号、第98号)の施行を延期
 するか、または、断行するかを巡り、論争が展開された
 (民法典論争)。
  延期派は、1890年の旧民法・商法は、不平等条約改正
 を急ぐあまり、帝国議会開設前に編纂を完了してしまい、
 十分な審議が尽くされなかったとした。
  そして、延期派は、様々な批判をした。
  1889年(明治22年)5月の公布前に、イギリス法系の
 (旧)東京大学法学部出身者で組織される法学士会は、
 春季総会において、『法典編纂ニ関スル意見書』を発表
 した。
  そして、「拙速な法典編纂を改めよ」とした。
  また、さしあたりの緊急に必要のある事項に限って単
 行法として施行するにとどめ、そして、後日に、十分な
 審議を経た上で包括的な法典を完成させるべきだとした。
  そして、これを、内閣や枢密院に働きかけることを議
 決した。
  この意見書や議決の影響で、民法や商法の施行をめぐ
 って議論が活発化した。
  これが、民法典論争(商法も含む)のきっかけとなっ
 た。
  これに対する施行断行派の旧民法の編纂者の磯部四郎
 は、論文『法理精華ヲ読ム』を発表し、施行断行を訴え
 た。
  また、施行断行派のものとして井上操の『法律編纂ノ
 可否』があり、
  施行延期派のものとして、増島六一郎の『法学士会ノ
 意見ヲ論ズ』、江木衷の『民法草案財産編批評』などが
 ある。
  井上操は、関西法律学校の創設者であり、磯部と同じ
 くフランス法系の司法省法学校の出身であった。
  一方、開成学校の増島と、英吉利法律学校の創設者で
 ある江木は、(旧)東大法学部の出身であり、いずれも、
 イギリス法系の学校であった。
  1890年(明治23年)11月、第1回帝国議会が開かれ、産
 業界から商法の施行が早すぎ、対応がとれないとの理由
 で「商法実施延期請願書」が出された。
  すると、帝国議会は、1891年(明治24年)1月1日に施
 行予定の商法を、民法と同じ1893年(明治26年)1月1日
 施行に延期することを決定した。
  商法の施行延期が決定されたことで、論争はさらに勢
 いを増した。
  施行延期派からは、旧民法が自然法思想に立脚してい
 たことに対して、
  法の歴史性・民族性を強調した歴史法学からの批判、
  憲法や税法と矛盾抵触するという批判、
  旧民法の条文が冗長で、無用の条文が多すぎ首尾一貫
 しないとの立法技術上の批判、
  欧米の最先端の理論を研究して民法を制定すべきなの
 に、最新のドイツ民法草案が全く検討されていないとい
 う批判、
  賃借権を債権ではなく物権と構成するのは学理・慣習
 に反するという批判、
  日本古来の家族制度を始めとする日本の伝統・習慣に
 そぐわないという内容に関する批判・・などがなされた。
  日本の慣習・風俗に合わないということから、特に、
 激しく攻撃されたのは、親族法における非嫡出子の準正、
 相続法における限定承認の他、財産法における消滅時効
 等であった。
  (但し、いずれも大きな修正を受けることなく明治民
 法に継承された)。
  同年・1890年、帝国大学の憲法学者・穂積八束が、ド
 イツ留学から帰国すると、論文『民法出デテ忠孝亡ブ』
 を発表し・・、
  「我国ハ祖先教ノ国ナリ。家制ノ郷ナリ。権力ト法ト
 ハ家ニ生マレタリ」
  「家長権ノ神聖ニシテ犯スベカラザルハ祖先ノ霊ノ神
 聖ニシテ犯スベカラザルヲ以ッテナリ」・・と説き、
  法による権利義務関係を否定し、日本伝統の家父長制
 度を否定する婚姻を基調とした家族法を批判した。
  この論文は、そのタイトルのため、最も注目を集め、
 民法典論争の象徴ともいえる論文となった。
  施行を翌年に控えた1892年(明治25年)、法典論争は
 ピークに達した。
  論争は、法律論にとどまらず、資本主義経済の矛盾の
 問題、国家思想や国体の位置づけなどにも及び、商法典
 論争と相まって一種の政治対立の様相さえ呈するように
 なった。
  そして、同年・1892年5月、第3回帝国議会において、
 民法典論争は、政治的な決着がはかられた。
  貴族院議員・村田保によって、民法商法施行延期法案
 が貴族院に出された。
  断行派議員と延期派議員との間でも激しい論戦が繰り
 広げられた。
  第二読会において、延期派の発議により、原案に「但
 し、修正を終りたるものは本文期限内と雖(いえど)も
 之を断行することを得」とする但書を加えた上で、圧倒
 的賛成多数で、貴族院を通過させた。
  むしろ、財産法こそ問題であると説く富井政章の演説
 が大きく寄与したとも伝えられている。
  衆議院では、妥協案として、断行派から家族法部分の
 みを施行停止とし、財産法については断行するという修
 正案が出されたが、原案通りの延期論が賛成多数で可決
 するに至り、ここに民法典論争は決着した。
  その後、施行延期派から、富井に加え穂積陳重(穂積
 八束の兄)、施行断行派から梅謙次郎という3人の帝国大
 学教授が、法典調査会の委員に選任され、
  第一編から第三編の財産法については、旧民法の根本
 的修正を基本方針として、ドイツ民法の草案や、他にも
 「30か国に及ぶ他の国の民法をも参照して」、現行の民
 法(明治29年(1896年)法律第89号)が起草され、
  1898年(明治31年)になって施行された。
  なお、第四編・第五編の親族法・相続法については、
 外国人に対しては適用が無い為、不平等条約の交渉に支
 障が少ないということで、後日、別個に議会に提出して
 成立するという形を採った(明治31年法律第9号)。
・11月25日、千島艦事件(ちしまかんじけん)がおきた(
 11月30日説あり)
  これは、日本軍艦の沈没の補償をめぐり日英間で紛争
 した事件だった。
  1892年11月25日、水雷砲艦・千島(750トン)が、フラン
 スで建造され、フランスから神戸へ回航中、瀬戸内海(
 愛媛・松山沖)で、イギリス汽船ラベンナ号と衝突して
 沈没した。
  乗員74名が殉職した。
  日本政府は、イギリス船に不当航海の過失があったと
 して、翌年・1893年5月、その所属会社のP&O汽船会社
 を相手どって、85万円の損害賠償を要求して、横浜のイ
 ギリス領事法廷に出訴した。
  それに対して、イギリスの会社側は、逆に、10万円の
 損害賠償を求めて反訴した。
  第一審は、会社側の要求を不当として、反訴を却下し
 た。
  そのため、会社側は、上海の領事法廷に控訴した。
  1893年10月、裁判長は、第一審判決を破棄し、会社側
 を支持した。
  日本の世論は、その不当性と、日本政府の処置を非難
 して湧いた。
  反政府の諸派は、議会内外でこれを利用し、第二次伊
 藤博文内閣が推進する条約改正交渉に反対し、対外硬運
 動を展開した。
  1893年12月、衆議院は解散となった。
  日本政府は、さらに、ロンドンのイギリス枢密院に上
 告した。
  1895年(明治28年)7月、イギリス枢密院が、上海領事
 法廷の判決を破棄し、横浜の領事判決を復活した。
  本訴は、再び、横浜領事庁で開かれることになった。
  そして、ようやく、3年後の1895年9月に至り、和解が
 成立した。
  会社が、訴訟費用を持つほか、英貨1万ポンド(邦貨9
 万円余円)を支払って・・事件は決着した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:NHKなどのマス・メディアは偏向している。
    国を危うくしている。
.
1937年8月、上海での戦いが拡大して行った。
  7月末に日本の将兵が殺害される「大山事件」が発生す
 るなど、不穏な状況が拡大していた。
  卑劣な事に、この様な事件が相次いでいた。
  8月13日には、中国軍が攻撃を開始した。
  第二次上海事変と言われるこの戦いも、中国軍の攻撃
 から始まった。
  そしてまた、8月14日には、中国空軍は、上海の爆撃も
 実施した。
  日本軍基地だけではなく、一般市民の居住している租
 界地も爆撃され、一般市民が死んだ・・
  また、歓楽街も爆撃された。
  日本軍は、対応せざるを得ないとし、膺懲(ようちょ
 う、こらしめること)するとした。
  「もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴虐を膺懲」
  この日・1937年8月15日、中国軍の国民政府軍の蒋介石
 は、全面戦争の対日抗戦総動員令を発令した。
  この中国の国民政府軍は、『アメリカの支援』を受け
 て、非常に攻撃的となっていた、好戦的になっていた。
  大軍で上海を包囲した・・、
  また、支援された豊富な軍需物資を持った上海包囲軍
 だった。
  (大量の物資で支援するから日本と戦いなさいという
 様な状況だった)
  天皇陛下は、この時に限らず、常に、「避戦」の考え
 であられた。
  常に、「戦争の不拡大」を口にして居られた。
  この時もそうで、戦局の早期解決を口にして居られた。
  しかし、状況は、天皇陛下の御心の様には進展しなか
 った。
  日本の軍部には「戦争不拡大派」と、「拡大派」があ
 った。
  天皇陛下の御心を受けた「不拡大派」の者たちも居た
 が・・、
  この中国の挑発行動を受け、南京への進軍を是とする、
 支那軍を懲らしめるとする派(進軍派)が居た。
  ここで、大きく判断を誤らせたのがNHKはじめ新聞
 などのマス・メディアの存在と、その論調だった。
  マス・メディアは膺懲論で世論を構成し国民を煽った。
  マス・メディアに煽られた世論は熱狂し、進軍派を勢
 いづかせた。
  軍部の戦争不拡大方針の不拡大派の意見は、小さく聞
 こえる状況となった。
  NHKはじめ新聞などのマス・メディアや国民は熱狂して
 南京進軍を支持した。
  さも、今・現代(2017年)のテレビの昼のニュース・
 バラエティ番組のごとく世論を煽った。
  毎日、毎日、洗脳的に政権批判をやって・・視聴率が
 取れるんだからと・・自分の懐具合しか考えない輩たち
 の放送が続くという2017年の煽りの様だった・・
  国民は、そのマス・メディアの影響下にさらされて、
 進軍に興奮した。
  軍部の不拡大派の声は、もはや、届かなくなっていた。
  攻撃的な、そして、好戦的な中国があったとはいえ、
 この様に、国の方針が冷静に考えられない状況の中で、
 天皇陛下のお声も耳に入らなくなっていた。
  1937年12月には、日本軍は中国軍を追撃し、中国・国
 民政府軍の首都・南京を目指した。
  これは、中国軍の誘いの作戦だったのかもしれない。
  中国軍は、中国奥地へ逃げる(撤退)する手をよく使
 う。
.
2013年4月9日、反日放送ばかりをするNHK。
  今・現代、中国が、膨大な金を使って世界中にプロパ
 ガンダをしていると言うのに、日本の公共放送のNHK
 は、その逆で、「日本を売ってばかりいる」。
  反日行動をとっているNHKとなっている。
  NHKのインターネットサイト「NHK映像サイトみ
 ちしる」で・・、
  NHKは、「日本海」の表記に、日本政府や日本国民
 の見解と異なる「東海」を併記した。
  NHKは、日本の政府や国民の意識と反する、韓国が、
 急に主張し始めた表記を・・、
  「NHKよ! 韓国のメディアですか?」と言いたく
 なる様な、また、疑いたくなる様な行為を行なった。
  常識があるなら、『やってはいけない』この様な事を、
 NHKはよくやる。
  NHKは、言い訳を言っているが・・、放送でも「やっ
 てしまえば得」という『やり得的な事』を、よくやるN
 HK」となっている。
  時間は戻せない、放送してしまった放送は消せないと
 いう・・放送してしまえば、こっちのものだ的なことを、
 繰り返すNHKとなっている(無反省の確信犯)
  NHKは、トンチンカンな釈明をした。
  「グーグルから提供されたので(良いと思った)、悪
 意は無い」・・だった。
  しかし、しかし、その「グーグルには、その様な表記
 はなかった」。
  また、NHKは、「竹島」や「尖閣諸島」の『日本の
 表記を消す』という事も、やっている。
  『日本の主張点を消す行為』をしている。
  ここまでやるNHKとなっている。
  悪意あるNHKとなっている。
  この件は、既に、1年前の2012年4月に、国際水路機関
 (IHO)は、「日本海」の単独での呼称と決めている
 のだ。
  この事は、NHKも知っている訳だ。
  「従来の日本海のままにする」ことを決めている。
  もう一度言うが・・NHKも知っている訳だ。
  国際水路機関は、世界の海図や海、海峡の名称などを
 調整する重要な機関である。
  放送の機関として、「重要な名称」のうちでも最重要
 なこと・・真っ先にマークしなければならないのに・・
 NHKは、こんな事ばかりしている。
  NHKは、インターネットの場で金を取らないこと!
  NHKは、反日報道機関である・・尖閣諸島の時もそ
 うであるが、「日本の領土である竹島」を表現するのに、
 「日本と韓国が領土権を主張する竹島」と、わざわざ、
 竹島の言葉の前に、変な言葉を付けて言っている。
  ならば、NHKを、「反日的表現をするNHK」と言
 ってもらいたい。
  韓国は、小学生の教科書に、韓国のものだと書き、洗
 脳教育をし、刷り込みしているのにである。
  歌まで作って歌い、クラブ活動までさせている。
  この件について、日本の国民の方々は、NHKへクレ
 ームを殺到させた。
  NHKは、やっと、この抗議の嵐に・・「日本の島根
 県の竹島」と言い換えた。
  この様な体質のNHKなのだ。
  だが、NHKという体質は、ほとぼりが冷めると元に
 戻すから、注意を要する。
.
2017年7月28日、NHKのネット配信について・・
  NHKに、高市早苗総務相が、クギをさした・・
 「ネットは補完業務である」と。
  (以下、産経ニュースを参考にした)
  高市早苗総務相は28日の閣議後の記者会見で、テレ
 ビ番組のインターネット常時同時配信を計画するNHK
 の上田良一会長に宛て、
  「放送の補完的な位置づけとすること」などを要望し
 た文書を送ったと明らかにした。
  ネット配信を「本来業務」として扱おうとする動きを
 牽制(けんせい)した。
  高市総務相は、上田会長の諮問機関が出した受信料に
 関する答申案について・・
  「(視聴者に)利益を還元するという観点がない」な
 どと批判した(まったく、その通り)。
  総務省は、NHKへの不信感を強めており、NHKが
 目指す平成31年からのネット常時同時配信は不透明さ
 を増している。
  要望は・・、
  (1)ネット配信を補完的な位置づけとし、具体的な
     ニーズを明確化しなさい。
  (2)既存の業務全体について公共放送として適当か
     検討しなさい。
  (3)子会社のあり方についての抜本的な改革をしな
     さい・・以上の3点。
  高市総務相は「3要件を満たすことで、議論の環境が
 整う」と述べた。
  NHK幹部は、今月の総務省での会合で、「(ネット
 配信は)将来的には本来業務」と発言した。
  民放各社が猛反発したため、上田会長は産経新聞など
 とのインタビューで「あくまで幹は放送だ」と述べるな
 ど「火消し」に動いていた。
  一方、上田会長の(お手盛りの)諮問機関は、ネット
 視聴者からの受信料徴収が適当としたが、3要件を満た
 せなければ、常時同時配信実現への道筋がさらに険しく
 なるのは必至。
  高市総務相は、ネット常時同時配信を可能にする放送
 法改正について、「現段階では議論が煮詰まっていない」
 と強調した(永久に煮詰まるな!)。
  ・・ここで・・
  「庶民の声」
  ・NHKの受信料は廃止にしてもらいたい。
  ・NHKは、公共放送としての資質を欠く点が多い。
  ・NHKの公共放送としての立場は適当でなく、公共
   放送としての立場を取り消してもらいたい。
  ・NHKは、高給取りで、自分たちばかり良い思いを
   していて、まったく視聴者還元をしていない。
  ・NHKは、自分たちの事ばかり考えている放送局だ。
  ・ネットにまでNHKが進出すると、NHKアレルギ
   ーの人たちの逃げ場が無くなる。
   NHKの居ないネット社会で安心して居たい。
  ・NHKは、膨大な小会社を持っていて、利益を配っ
   ている・・そして、支配力を誇示している。
   小会社は甘い汁に群がっている(孫会社・ひ孫会社
   まで群がる)
  ・NHKは、働かない職員が多い・・1年に何日働いて
   いるのと聞きたいくらいだ。
  ・NHKに都合の良い諮問をする機関を作って「お手
   盛りをしている」。
  ・NHKは解体してもらいたい。
  ・NHKは、民間放送局にNHKの映像などを提供し
   て、便宜を図って恩を売っている、そして、支配力
   を構築しようとしている。
   だから、民間放送局はNHKにゴマすりしている。
   NHKを批判する民間放送局はない。
   民間の本音は、NHKの見方はしたくない。
  ・NHKは、公共放送の枠を吐き出し過ぎだ。
  ・NHKの民営化で出来る部分を探れ。
  ・NHKの巨大な権力を二分せよ。「NHK東京」と
   「NHK大阪」の様な二極体制にせよ。
  ・NHK受信料は1/3にせよ。それでできる訳だ。
  ・NHKは、分割民営化せよ。
  ・NHKは、公益部分とそれ以外で割れ。
  ・NHKは、最近、特に、偏向報道が酷い。
  ・NHKの酷い報道は、「障害者殺害犯が、犯行前に
   トランプのスピーチを聞いて影響された」とNHK
   が報道するように、トランプ下ろしをするNHKで、
   酷い反トランプの報道をした。
  ・NHKは暴走している。
  ・NHKは、でかいビル建てて、身内還元に精を出し
   ている。
  ・NHKは、電波を独占している割に、くそな番組を
   流して強制的に受信料を取っている。
  ・NHKはスクランブルをせよ!
  ・NHKはマスゴミ化している。
  ・NHKの高給を貰っているアナウンサーが物価の事
   を言うな。高くて買えないとか・・。
  ・傲慢なNHKの金城湯地(きんじょうとうち、非常
   に守備がかたい城)を何とかしてくれ!
  ・NHKが過去に制作した全作品は国民の所有権と決
   めよ。
   NHK職員が勝手に処分するな。
   また、都合の悪いものを処分している。
  ・NHKの最上階は個人宅はおかしい。
  ・NHKの金が入っているNHKの小会社が電通に乗
   っ取られている。
  ・NHKは、北朝鮮からニュースを購入して金を払っ
   ている。そして、それがミサイル資金になっている。
  ・NHKの作り直しをせよ!
  ・NHKは、中国をよいしょする番組制作姿勢を取っ
   ている。
  ・NHKは間接的に電通に支配されている。
  ・NHKの番組制作の委託を受けている「NHKエ
   ンタープライズ」は「総合ビジョン」に番組制作を
   丸投げしている。孫請けをしている。
   「総合ビジョン」の株主は電通とNHKという関係。
  ・NHKは、電通の利益供給団体となっている。
  ・電通の利益の一部がNHK役員の報酬となっている。
  ・NHKは中立であるどころか左寄りである。これで
   は、公共放送ではない。
  ・NHK職員は、受信料でボロ儲け、平均年収1800万
   円。
  ・NHKの報道は片寄った偏向のし過ぎだ。
  ・NHKを初め、テレビの作られた報道などで、テレ
   ビを見る人がなくなっている。
  ・なぜ、NHKは、倒閣運動をするのだ。
  ・NHKは、権力に溺れている、調子に乗っている。
   国の為にならないNHK。勝手な判断で偏向報道し
   ている。そして、反日になっている。
  ・NHKスペシャルの反日姿勢はひどい。
  ・NHKは、はやぶさが帰って来た時に放送しなかっ
   た。日本の技術の大成功を放送しなかった。完全に
   無視した。
  ・NHKは、偏った考え方で取材し、放送するから、
   日本兵の悲惨さだけが出て、8月になると、日本を結
   果的に貶めている。「悪かった」と言う兵士の話だ
   けの話で編集して放送する。
  ・なぜ!NHKは、シナ人による日本人虐殺の非道や、
   ロシア人による日本人に対する悪逆非道を放送しな
   いのか?
  ・NHKは、731部隊が犯罪を行ったが如き番組を
   流したが、NHKは、どうしてシナ人らの悪行三昧
   を番組化しないのか?
   そんなに日本を貶めたいのですか?
   貶めて、一体何がしたいのですか?
  ・NHK好みの目的の証言だけで編集する。だから反
   日的に作られる。それ以外はカットする。
  ・NHKは、「日本は正しい事をしようとした」とい
   う証言なんかはまったく放送しない。すべてカット
   している。「アジアの独立を日本が助けた」なども
   カットする。担当者・当事者が漏らしている。
  ・NHKは、戦争を煽ったことに口をつぐんでいる。
  ・NHKは、中国や韓国の言い分だけをズーット繰り
   返して放送を行っている、慰安婦、南京は中国・韓
   国の言い分ばかり、だから公共放送ではない。
  ・NHKは無駄遣いが多すぎる。
  ・NHKの大リーグ放送は、アメリカに金を恵んでい
   る行為だ。
  ・NHKはWOWOW方式のスクランブルにせよ。
  ・NHKの見られないテレビも売るシステムにせよ。
   NHKなんか見たくない人の選択肢も作れ。
  ・NHKの公平性を考える議員の会ができて50名くら
   いが集まった。代理を入れたら100名近くになった。
   この様に問題になるくらい公平性が無い放送局とな
   っている。
  ・NHKスペシャル、ジャパンデビューはひどい番組、
   偏向番組、日本を貶める番組。
  ・NHKは、台湾の方々を反日にしようとした。取材
   も偏向している。公平性が無い。それが事実のよう
   に錯覚させている。
  ・NHKの偏向番組によって損害を受けた国民のその
   損害を、NHKはその損害をカバーし補償するよう
   にせよ。
   NHKを訴えられるようなシステムを構築せよ。
  ・NHKが、反日的という事はズーット続いている。
   その改善策の・・
  (1)権力が巨大すぎるからだ。分割せよ。
  (2)NHKへのクレームを受ける専用窓口を行政機
    関に設ける。NHKは、クレームの取り扱いを軽
    視し、捨てている、廃棄している。
.
2017年、国民が、NHKを訴える権利を行使できるような
 社会体制の構築を望む。
  NHKへ、いくら悪い所を指摘しても直らない。
  そこで、思い至ったのが「司法へ訴えたい」という気
 持ちである。
  司法へ訴える方策を取りたいのだが、ここでネックに
 なるのが、「原告の立証責任」。
  NHKの放送を見た結果において、「酷いNHKの番
 組だった」と思う訳で、NHKを見た後の結果論だけと
 なってしまう。
  前もって録画などしていない。
  そして、投書欄にいくら抗議しても直らないNHKに
 対して、司法に訴えるにしても、前記した原告の立証責
 任がある。
  そこで、考え至ったのが、図書館施設が、NHKの放
 送内容の記録を保存するようにする。
  図書館が、書籍の保存・保管をする様に、放送映像な
 ども保存・保管するようにする。
  図書館が建てられているその位置で、その位置での受
 信記録を残すようにする。
  今は、非常にコンパクトに記録を保存できる機器があ
 るので出来ると考えている。
  そして、国民が閲覧もできるようにし、
  また、前記した国民の訴える権利を行使するときにも、
 その立証責任の資料提供もできる図書館としたい。
  図書館の証明付きでその資料が得られるようにしたい。
  国民が費用負担して、図書館の発行した立証責任資料
 でもって提訴できるようにする。
  NHKへ、抗議を重ねたが、まったく改まらないので、
 NHKの放送を見ることが出来なくなるというNHKに
 対して「忌避アレルギー」が出るようになった。
  NHKの放送が普通の状態で見られなくなった。
  この様にひどいNHKなのである。
  大きく番組全体で日本を貶める場合もあるが、ジャブ
 の様にあちこちでちょこちょこと日本を貶めることをよ
 くやる。
  今、前記した様に、NHKへの抗議のシステムは機能
 してない。
  どうでもよいことは「NHKは、直すかもしれないが」、、
 「NHKイデオロギー」と言うべき核心部分は、絶対に
 NHKは直さない。
  この部分こそが、NHKを直して行かなければならな
 い所であって、その1つが「NHKは、よく日本を貶める」。
  この様な番組が非常に多いNHKとなっている、しか
 し、いくら抗議をしても直らない。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)549E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)549E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年、その他:つづき
・清国の不穏な動きと軍拡に、日清戦争に備え軍備を進め
 た。
 「眠れる獅子」と言われた清国が、着々と軍拡をしてい
 た(今・現代も・・そうだが・・)。
 日本は、長崎で、その軍備の威容を見せつけられ、街に
 出た中国兵は、横柄な態度を見せ、また、横暴な行為を
 した。
 それは、まさに、日本を見下した行為だった。
 しかし、悲しいかな・・弱小の日本は、強い行動にも出
 られなかった。
 議会の野党は、軍事力への予算配分に反対し、また、厳
 しい緊縮財政下にも置かれていた。
※1873年(明治6年)に、日本は、徴兵制となった、しかし、
 まだ、海軍は沿岸警備程度だった・・
 しかし、国策としては国を富ませて、国を守ろうという
 意気に燃えた「富国強兵」策だった。
※1876年(明治9年)~1879年(明治12年)、清国は、日本
 を意識し、300~400トンの砲艦8隻という大量の艦船を
 イギリスから輸入した。
※1878年(明治11年)、日本は、「扶桑」「金剛」「比叡」
 の3艦の甲鉄艦(2284~3777トン)が就役し、艦隊も作っ
 て行った・・が・・、
 排水量は、清国と、ほぼ同等ではあったが、しかし・・
 日本は、旧式艦や木造艦が大半であった。
 この点で、日本は、清国に、大きく劣位にあった。
 日本は、軍艦建造において、失敗艦も作ったりして、財
 政のない中、苦しくも無駄もしていた。
 1881年(明治14年)~1882年(明治15年)に、清国は、
 ドイツに、装甲艦2隻を発注し、
 1885年(明治18年)に、この大艦は到着した、「定遠」
 と「鎮遠」で、どちらも7335トン、30.5センチ砲4門とい
 う立派さで、
 主砲は、艦首方向へ向くという最新技術を持って、射撃
 性能も重視していた。
 また、この後、清国は、急速に艦数を増やした。
 装甲巡洋艦2隻(「来遠」「経遠」)、巡洋艦4隻(「致
 遠」「靖遠」「超勇」「揚威」)を、イギリス・ドイツ
 に発注し、1887年(明治20年)までに就役した・・、
 1888年(明治21年)には、堂々とした北洋艦隊を作り上
 げた。
※1887年(明治20年)から、日本は、砲台建設を本格化し、
 防衛力を高める構築をした。
※1888年(明治21年)に、日本は、イギリスの技術を本格
 的に入れようと決定した・・これが、日清戦争に間に合
 った。
※1891年(明治24年)7月に、清国の北洋艦隊の主力艦6隻
 が、日本の品川港に入港し、その大きな格差を見せつけ・・
 そして、威嚇した。
※1893年(明治26年)4月~7月に、日本の参謀次長の川上
 次長が、清国の軍事状況を偵察した(思ったほどではな
 いという感触を得て帰国した)
 「畏るるに足らざることを確信」・・と、
 しかし、日本の軍関係者に、勝利を確信できるものは居
 なかったようだ・・しかし、日本の偉かったのは、この
 時の日本には、自国軍の力(相手の力と比較して)を冷
 静に見る姿勢・合理的判断があった。
※1894年(明治27年)6月に、山陽鉄道が、広島まで営業運
 転開始し、順次、輸送(出師・すいし)体制が整って行
 った。
※1894年(明治27年)、まだ、軍需生産が不十分な状態で、
 また、海外派兵をして戦えるかという問題があった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国の「天動説」を修正できるのは『強固な日米関係だけ』である。
.
紀元前12世紀、この頃まで、レバノンのピブロスは、地中
 海の東岸で、最も栄えていた。
  この時、エジプトから「パピルス」が、地中海各地に
 輸出され、ギリシャ人は、これを得て文明が栄えた。
.
紀元前814年、カルタゴが築かれた。
  フェニキア人は、シチリア島の対岸に位置するチュニ
 ジア北部に、植民市・カルタゴを築いた。
.
紀元前27年、最初のピラミッドが建てられた。
  レバノンの特産品は「レバノン杉」。
  乾燥地のエジプト、メソポタミアは、森林資源に乏し
 く、神殿や宮殿の建築用材として、このレバノン杉が使
 われ、レバノンから大量に輸入された。
  この意味から、レバノンは、交通の要衝となった。
  紀元前27年に、最初のピラミッドが建てられたが、エ
 ジプトは、この時から、レバノンから木材を買った。
.
354年11月13日、アウグスティヌス(キリスト教神学者)が
 生まれた。
  アウグスティヌスは、教父と呼ばれ、キリスト教徒が
 尊敬するなの人だが、
  「ローマ没落は、異教徒たちの罪だ」と、異教徒のせ
 いにして、罪に落とした。
  このアウグスティヌスが意識した異教徒の『異』につ
 いて・・、
  思考の成熟してない未成熟集団に於いて・・、
  年端(としは)の行かない子たちの様な学級に於いて、
  または、未熟な宗教に於いて、その洗脳の中にいる集
 団に於いて、
  殊更(ことさら)に、「目の前の現存する違いを指摘
 する」、またそして、無用に「指摘される」。
  それは、「いじめともなり」、また、「内政干渉」と
 も言われて・・世に存在する。
  言う方は、「その違いが気になるから、言うのだろう
 が」・・「指摘するのだろうが」・・、
  言われて、指摘された方だって、悪いと思ってやって
 いる訳ではない・・また、持って生まれたものでもある。
  悪い様なことを、ことさら、自らする訳はない。
  しかし、適度に指摘する程度で、その話が、行為が、
 終わるのなら良いが・・また、善き忠告ともなるのだろ
 うが・・、
  程度の悪い虐(いじ)めとなると、その行為は世の害
 となる・・
  それは、しつこい虐(いじ)めになり、
  宗教の違う者たち「異」へ・・「異教徒は殺せ」と、
 キリスト教は教義として決めて、異教徒を殺した。
  このキリスト教の教義の様に、「命まで取れ」と神の
 指示となる。
  洗脳して、されて、悲惨な状況が現出する・・ここに
 至れば事は重大となる。
  「いじめ自殺」や「殺戮行為に対する混乱」へ、そし
 て、「戦争へ至る」・・
  発端は、単なる『違い』・・それを、「容認するか?」
 「口に出すか?」から始まる。
  人類の歴史で、悲しく悲惨な、一番の汚点は・・キリ
 スト教が「肌の色の違い」を気にしたこと・・、
  キリスト教は、「肌に色を持つ人種」を蔑視した・・
  卑劣な「有色人種へのキリスト教の蔑視感の植え付け」
 は、南米での大虐殺を発生させた・・現地からの問い合
 わせに、バチカンは「人ではない」と言った。
  アウグスティヌスも、アフリカのエチオピアの方たち
 へこれをやった。
  このあたりの発端から大虐殺、戦争などなどが、人類
 の歴史に、累々と存在している。
  「個性的だと、おおらかに容認することが出来ない宗
 教・・キリスト教」・・この卑劣な行為で、大きな罪を
 背負った・・多くの方々が抹殺された・・
  「異教徒は殺せ」「魔女は、生かしておいてはならな
 い」・・このキリスト教の教義が、人類を悲しみの歴史
 中に置いて来た・・長く続いた異端審問・魔女裁判・・
  そして、キリスト教裁判所で行われる卑劣な拷問の数々・・、
  今・・一神教のように・・一つにするのだと・・グロ
 ーバリゼーションを洗脳し、ある特定の金持ち組織が儲
 かるシステムを展開し・・世界に定着させようとしてい
 る・・そのシステムで儲けた金をふんだんに使って、世
 界展開をしている・・、
  多様性の良さを理解できなくて、排除している宗教・・
  自然において、多様性が存在し、その調和の中に、豊
 かさが成り立って、人類へ、幸を、幸福を、与えている。
  このことが理解できない宗教・・また、その信仰者た
 ち・・
  違いを認め合い、尊重し合う所から・・人類の豊かさ
 と幸せが始まるという事が・・理解できない・・
  あちこちに生まれ出(いずる)違いある生物・・その
 万物が・・人類の幸せを作っている・・
  キリスト教は、以下の様に教える・・
  聖書のあちこちで、繰り返し説かれ、洗脳的に記述さ
 れている『1例』・・(申命記7章1~2節)
  あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを
 導き入れ、
  多くの国々の民、ヘテびと、ギルガびと、アモリびと、
 カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、および、エブスび
 と、
  すなわち、あなたよりも数多く、また、力のある七つ
 の民を、あなたの前から追い払われる時、
  すなわち、あなたの神、主が、彼らをあなたに渡して、
  これを撃たせられる時は、あなたは、彼らを全く滅ぼ
 さなければならない。
  彼らと何の契約もしてはならない。
  彼らに何のあわれみも示してはならない。
.
1065年、中国で「資治通鑑(しじつがん)」が編纂された。
  「資治通鑑」は、中国北宋の司馬光が、1065年の英宗
 の詔により編纂した。
  編年体の歴史書で、『温公通鑑』『涑水通鑑』ともい
 われ、1084年に成立した(全294巻)
  もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』
 と改名され、
  収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・
 趙の自立による戦国時代の始まりから・・、
  959年(後周世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至る
 までの1362年間。
  この書は、王朝時代には、司馬光の名と相まって、高
 い評価が与えられて来て、また、実際の政治を行う上で
 の参考に供すべき書として作られた。
  「貞観政要」などともに、帝王学の書とされて来た。
  また、司馬光当時の史料が散逸したものが少なくない
 ため、貴重な史料とされている。
  この「資治通鑑」を17回も読んだとされる毛沢東は、
 大躍進政策を行ない、約2000万人の農民を餓死させ・・、
  文化大革命で、3000万人以上の知識人や富裕層を死に
 追いやった。
 http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150404-00000016-pseven-cn&pos=1
  中国が言っている「南京虐殺」とは、日本人を虐殺し
 た「通州事件」のことではないのか?
.
1535年、敵を殺さない荒木村重が生まれた(~1586、51歳)
  居城は、有岡城で兵庫県伊丹市にある。
  東西0.8キロ、南北1.7キロ。
  織田信長に反旗を翻した武将、黒田官兵衛が、この城
 に幽閉された。
  信長の包囲攻撃に、10ヶ月耐えて落城する。
  その前に、村重は、脱出。
  残された一族らは捉えられ命を絶たれた。
  信長の死後、村重は、豊臣秀吉に茶人として使え、天
 寿をまっとうした。
  一人生き延びた村重の評判は良くない。
  「脱出したのは援軍を求めるための行動」と弁護の声
 もある。
  「降伏した敵を殺さず、命を大事にした稀有な戦国武
 将で、文人としての素養も高かった」と弁護する声も。
.
1920年3月~1920年5月、尼港事件(にこうじけん)で日本
 人が虐殺された。
  ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月~5月にかけて、
 アムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在の
 ニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した。
  赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件で・・、
  ロシア・中国・朝鮮などのパルチザン部隊が、ニコラ
 エフスク住民に対し、略奪・処刑を行うとともに、
  日本軍守備隊に、武器を捨てよと、武器引渡を要求し
 た。
  これに対し、決起した日本軍守備隊を、中国海軍と共
 同で殲滅した。
  そして、さらに、老若男女の別なく数千人の市民をも
 虐殺した。
  殺された住人は、総人口の半分に達し、6,000名を超え、
 日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含ん
 でいた。
  この卑劣な虐殺行為は、国際的な批判を浴びた。
  日本人犠牲者の総数は、判明しているだけで731名に
 のぼり、ほぼ皆殺しにされた。
  また、建築物は、ことごとく破壊され、ニコラエフス
 クは廃墟と化した。
  札幌護国神社などに殉難碑がある。
.
1937年7月29日、日本人が虐殺された通州事件(つうしゅう
 じけん)
  通州(現:北京市通州区)において、中国人部隊が、
 日本軍と日本人居留民を襲撃し、殺害した。
  日本の通州守備隊は、包囲下に置かれ、日本の通州特
 務機関は壊滅した。
  街の中は修羅場で、女性は、子供と言えども、ほとん
 どが強姦されて殺害され、また、朝鮮人慰安婦も殺され
 た。(町で商売していた朝鮮人慰安婦で・・従軍慰安婦
 ではない、朝鮮人の女衒が国の朝鮮に帰って、狩り集め
 て来た女性たち・・)
  (注)女衒(ぜげん)は、若い女性を買い付けて、遊
    郭などで性風俗関係の仕事を強制的にさせる人身
    売買の仲介業で、人買いの一種、多くの朝鮮人・
    女衒が中国などあちこちで商売をしていた。
  そして、この事件の殺され方に於いて、200人以上にお
 よぶ猟奇的な殺害(書くことも躊躇し気後れするが、陰
 部などがえぐり取られるなど陰湿な殺害)が、中国人部
 隊により行われた。
  池は血で赤く染まった。
  通州虐殺事件とも言う。
  また、東京裁判に於いて、弁護団が、この事件の証拠
 を提出して、日本だけを悪いことにしようとする裁判は
 おかしいと、弁護しようとする方針を打ち出し、行動し
 たが、東京裁判の裁判長は不公正にも却下した。
  東京裁判は、明らかな予断(よだん、前もって判決を
 予想し判断すること)のもとに行われた裁判で、不公正
 きわまりない裁判だった。
.
1945年、韓国が、日本を、歴史問題で『嘘をでっち上げ』
 て、日本を貶(おとし)めようとしている・・、
  また、新たに・・、
  日本が、戦争中に、朝鮮人労働者を虐待し、虐殺し、
 奴隷労働をさせたと言い出した(2017年)
  この話が、デッチアゲ話と分かる事実は・・、
  戦争が終わった1945年(昭和20年)に、朝鮮人労働者
 は朝鮮に帰った・・が・・、
  しかし、日本での労働が『非常に恵まれていた』ので、
 大勢の朝鮮人労働者が・・『万単位の大勢の朝鮮人労働
 者が、再び、日本に密入国までしようとした(もう一度、
 その職業に就きたいと・・)』。
  日本の好条件の労働に就きたいと密入国をした。
  この様に、『日本での労働が好待遇であるからこそ、
 再び、日本に密入国しようとしたのであって・・、
  韓国の言い出している話は、『日本を貶めようとする
 だけの作り話』である。
  日本は、韓国人労働者を虐待などしていないし、また、
 虐殺などしていないし、奴隷的な労働もさせていない。
  韓国のやることは、皆、この様に『嘘の話を作り上げ
 ているのであって』、慰安婦の場合も、この様な作り話
 なのである。
  この事について・・
  九州大学の三輪宗弘教授は、朝鮮人労働者の虐待、虐
 殺、奴隷労働が、現代韓国人の作り話であることは、
  1945年(昭和20年)の段階で、一旦朝鮮に帰った労働
 者が、再び、日本に戻ろうとした事実を見れば明らかだ
 と述べた。
  三輪教授は、アメリカ国立公文書館の「Illegal
 Entry of Koreans」という統計データから、1945年(昭
 和20年)段階で、1万人近くの朝鮮人が、日本に密入国し
 ようとして捕まり、送り返されていたことが分かると指
 摘した。
  そして、「奴隷労働や虐殺が行われていたとしたら、
 なぜ、再び、日本に密入国してまで戻ろうとするのか?」
 「説明できない」・・と語る。
  どこの国の方々もそうであるだろうが、厳しい環境か
 ら抜け出せたのなら、もう再び、元の状態に戻ろうとす
 る訳がない。
  そこが、好待遇で、居心地が良かったからこそ、元の
 日本へ密入国しようとした。
  日本の歴史においても、ソ連に、不法に抑留された日
 本人が、帰国したあと、再び、密入国してまでソ連に戻
 ろうとしたであろうか・・絶対にあり得なかった。
  万単位の朝鮮人が、帰国後、再び、日本に戻ろうとし
 たのは、日本での方が豊かに、そして、より平和に暮ら
 せると考えたからで・・、
  奴隷労働や虐殺とは無縁の世界が日本だったというこ
 とだ。
  にも拘らず、なぜ外務省は、日本が朝鮮人労働者を虐
 待したとして、そのことを発信する情報センターを作る
 などと約束したのか?
  なぜ、日本の外務省は、自ら敗北へと転んでいくのか?
  歴史問題で、日本を追及しようとする韓国や中国の悪
 意を日本外務省は認識すべきだ。
  韓国が求める情報センターを設置して強制連行があっ
 たとすることは、慰安婦問題と同じ失政を繰り返すこと
 になる。
  (櫻井よしこ氏のブログを参考にした)
.
2016年8月19日、ケント・ギルバート氏の発言 ‎@KentGilbert01
  インドネシア女性大臣 中国の違法船をだ捕し150隻を
 爆破「遊びでやってる訳じゃない」
   http://temita.jp/twitter/34900  
  やるべきことをやらない日本は、国際法を軽視してい
 るとも言える。
  (説明)2014年に就任したインドネシアの女性大臣・
     スシ・プジアストゥティ海洋水産大臣が、拿捕
     した違法中国船を、次々と爆破し、就任以来150
     隻以上となった。
.
2016年、アメリカ経済は、今後、長期的な低成長モードに
 入り、2016年~2025年頃に、財政危機、通貨危機を引き
 起こす可能性が高い。
  凋落するアメリカに、日本を守る「パワー」は無くな
 り、余力は無くなり、
  反対に、中国が、世界第一位の経済力と軍事力で・・、
 その前の素手(すで、何も持ってない)の日本は、中国
 に手も足も出ず、なすすべなくしているしかない。
  尖閣諸島だけでなく、沖縄も危ない・・そして・・
 (北海道?)・・
.
2017年8月20日、中国の世界戦略・・「北朝鮮の核」の背後
 で勢力拡大・・
  この様な表題の論説が、この日の読売新聞に記載され
 ていた・・以下は、その抜粋・・、
  世界は、今、21世紀の新しい勢力均衡に向けて、最終
 局面に入ったかに見える。
  現状変更を仕掛けるのは、世界第二の経済力をエンジ
 ンに軍事力を強化している中国である。
  (注:中国は、世界一の座にあることを、この論説の
 筆者は見落としている)
  西に巨大経済圏構想「一帯一路」、東に「太平洋を米
 中で二分割」という二正面での世界戦略を掲げている。
  中国は、すでに、チベット、新疆ウイグルを抑え込み、
 南沙・西沙諸島、尖閣諸島など、多くの地域で、各地各
 様の緊張や争いを起こしている。
  いずれも、二正面戦略の一環と見られよう。(中略)
  中国をハートランドとして、ユーラシア大陸、アフリ
 カ大陸に広がる「中華共栄圏」を建設する構想だ。
  その特徴は、民主主義、自由主義、法治主義、人権尊
 重といった価値観を標榜(ひょうぼう)することなく、
  (注:その通り、共産中国の最大のいかがわしく、信
 用できない所である)
  巨大な経済力と軍事力により、支配権拡大を志向する
 点にある。
  一帯一路の「後詰め(ごづめ、後方に待機している軍
 勢)」とも言えるのが・・海洋進出である。
  中国は、久しく米国に対抗すべく海・空戦力の増強、
 近代化を進めて来た。
  今や、空母複数隻の建造や、潜水艦隊の増強などが注
 目されているが、
  太平洋・インド洋への進出の意思表示だろう。
  (最終目標は、中国と米国で太平洋を二分する)
  これと表裏一体の関係にあるのが、北朝鮮の核兵器・
 ミサイル開発である。
  中国は、それが北朝鮮の独走だとしつつも、実効的な
 制裁には『常に反対して来た』。
  平仄をあわせる(ひょうそくをあわせる=つじつまを
 合わせる)ように、核兵器・ミサイルの狙いは、日本・
 在日米軍基地、および、米国本土であり・・、
  韓国は、いつでも火の海にできると北朝鮮は宣伝する。
  それが米韓、日韓、日米の分断に一定の効果をもたら
 す。
  すなわち、北の核兵器・ミサイル開発は、中国の太平
 洋戦略のための『地ならしの役割』を果たしている。
  中国は、軍事力の強化と一帯一路構想の巨大さで、世
 界を驚かせているが、
  中国の実力と自信の発露なのか、
  それとも、国内の矛盾から目をそらすための爪先立ち
 なのか。
  日本としては、今こそ、冷静に現実を直視し、浮足立
 つことなく日米同盟にしっかりと腰を据えて成り行きを
 見極める必要があろう。(中略)
  (中国は、急速な経済成長を遂げて来た、しかし)、
  貧富の差が拡大し、失業者や無戸籍者も多数発生した。
  これらの人々の不満を吸収するためには、高い経済成
 長率を維持する必要がある。
  国営企業が、その担い手となったが、世界経済のデフ
 レ傾向と、中国自身の賃金上昇により・・成長は、大幅
 に鈍化するに至った。
  政府の計画に従って国営企業が増産すると、不良在庫
 が累増し、企業内余剰人員がますます増大するという悪
 循環にも陥っている。
  一帯一路は、経済的には、インフラ建設に名を借りて
 失業者と不良在庫を、国境外に排出すること、
  戦略的には、対象地域内の要衝を中華支配体制に組み
 込むことを目的に、構想されたものと考えられる。
  インフラ建設の支援という名分で、失業者を国境外に
 送り込むやり方は、
  国内問題を国外に転嫁する際の常套(じょうとう)手
 段である。
  また、鉄道、道路、港湾などの投資効果のうち利用者
 負担で回収できるのは一部に過ぎない。
  大部分は、保有国の財政負担となる。
  中国は、借款(注:中国が貸すかたち)と、
  自らが主導する国際金融機関「アジアインフラ投資銀
 行(AIIB)」による融資を組み合わせて、海外に資
 金提供する方針だ。
  しかし、返済が困難になったり、滞ったりする場合に
 は、担保として、戦略的に重要な港湾などを、中国の支
 配下に置くことを視野に入れているとされる。
  この意味で、一帯一路は、形を変えた『植民地主義』
 とも言える。
  いずれの場合でも、受け入れ側の政府、住民との間に
 軋轢(あつれき、人の仲が悪く、あい争うこと)を生み、
 国際問題に発展するだろう。
  結局のところ、一帯一路は、国内の社会問題を転嫁す
 るために、中国側が打ち出した窮余の一策であり、
  あり余る力の発露とは見られない。(中略)
  一方、北朝鮮は、今や、相当数の核兵器を保有し、
  米国に届く大陸間弾道ミサイル(ICBM)を完成す
 るに至ったと見る専門家も少なくない。
  かくして、米国の核抑止力によってもたらされるアジ
 ア太平洋の安定的均衡は、破綻の瀬戸際にある。
  北朝鮮は、中国からの食糧や燃料供給なしには生存で
 きず、
  中国の経済援助なしには核兵器・ミサイル技術も獲得
 できない。
  中国は、その気になれば、いつでも北朝鮮を抑えられ
 る立場にあったが、これまで力を行使しなかった。
  自らの太平洋進出に有用と考えて、北朝鮮に食糧・燃
 料を供給し、
  核兵器とミサイルの開発を財政的に支援し続けて来た
 のだろう。
  国際社会には、核を放棄するように北を説得するポー
 ズを見せる事で、『時間稼ぎ』をしたのだとも考えられ
 る。
  悪役は北朝鮮に背負わせて、日韓両国を揺さぶり、日
 米韓を分断するという詭計(きけい、人をだます計略)
 は、これまで、一定の戦略的な成果を上げてきたとみる
 ことができる。
  ここに至る経緯は、中国が、北朝鮮の核兵器・ミサイ
 ルを自国にとっての脅威ではないと考えていることをう
 かがわせる。
  すなわち、いつでも、北朝鮮を説得し、核開発を放棄
 させられることを、中国は自覚しているのではないだろ
 うか。
  つまり、国際社会は、これからは、中国を正面の交渉
 相手とし、
  中国が、自らの問題として、自らの影響力で、北朝鮮
 に核兵器を放棄させるように、中国への直接の圧力も辞
 さない覚悟で迫って行くことが肝要だ。(中略)
  これまで、習氏を信頼して、中国の北朝鮮説得に期待
 をかけて来た米国も、ようやく両者が共生の構図だと気
 づいたように見える。
  中国の「天動説」を修正できるのは『強固な日米関係
 だけ』である。・・完・・
  (参考)天動説:キリスト教が憐れにも説き、そして、
     信じた説で、
      地球が、すべての中心で、太陽などのすべて
     の宇宙が、地球の周りを回っていると説いた。
      この間違いを科学的に説明したガリレオを、
     逆に、キリスト教は虐げた。
      キリスト教裁判は最悪だった。
      ガリレオは「それでも地球は回っている」と
     言った。
      この事例の様に、中国は、実現できない絵空
     事である「地球上のすべてが、中国の周りを回
     っている」と考えているという譬(たとえ、引
     き合いに出すこと)
  (参考)ハートランド:地政学の用語で、ハルフォー
    ド・マッキンダーが、『デモクラシーの理想と現
    実』の中で、ユーラシア大陸の中核地域を中軸地
    帯と呼んだことに始まり、後に、ハートランドと
    改めた。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)548E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)548E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年、災害・防災:
・4月10日:東京・神田で大火、1万5000戸が焼失した。
(4000戸の焼失・・説あり)
 4月9日(大火が起きた前日)午後9時頃から、東京に激し
 い北西風が吹き始める。
  夜中(4月10日、午前0時半頃)、神田区(現・千代田区)
 猿楽町一番地の飲食店・宮本周蔵の物置から出火、母屋
 をひとなめにした。
  その炎は消えず・・一つは小川町通りを、一つは表神
 保町通りを、一つは錦町通りを、
  たちまち、三方に分かれ急速に東南へ向け燃え広がる。
  火元の猿楽町をはじめ、同一丁目、裏神保町、小川町、
 表神保町、錦町一、二、三丁目が、あっという間もなく
 全焼した。
  炎は、さらに、錦町一丁目から美土代町一、二、三丁
 目へ、また、三河町一、二、三丁目へと・・、
  神田を灰にした炎は、鎌倉河岸を飛び、堀割沿いに本
 石町通りを東へ進み、鎌倉町、松下町と灰にした。
  朝の午前8時には、今川橋先の堀割も超え、ついに、日
 本橋区(現・中央区)本銀町へ飛んで、本石町二丁目の大
 半を焼失。
  午前9時半になって、また、残り火が烈風にあおられた。
  そして、ふたたび襲いかかり、皆川町、旭町、ろうそ
 く町、関口町も猛火の中で灰と・・、
  その後も、炎は、東へ進み、永富町、新石町、竪大工
 町、上白壁町と、次々と進んだが、一つは、今川町の堀
 割で止まった。
  そして、一つは、鍛冶町の大通りで止まった。
  神田区と日本橋区の一部、約33か町4620戸が焼失。
  小川町警察署、神田区役所をはじめ、
  万世橋直間税分署、東京法学院(現・中央大学)、東京
 英語学校(現・日本学園中、高等学校)、錦城学校(現・錦
 城学園高等学校)、松茂小学校、三省堂、熊田活版所、東
 京電灯会社第四電灯局、パノラマ館・・などの主要な建
 物が全焼した。
  中でも、死亡者24人の内、その大半を出した小川町勧
 工場(ショッピングセンター)洽集館(こうしゅうかん)で
 は、出火と聞いて店の商品を持ち出そうとしたが、
  出口が表と裏の2か所しかなく、18人が逃げ遅れて死亡
 した。
  (参考:東京の消防百年記念行事推進委員会編「東京の
 消防百年の歩み」)
・足尾鉱毒事件について、田中正造が、衆議院に質問書を
 出した(栃木)
  田中正造は、1890年、第1回衆議院議員総選挙に栃木3
 区から出馬し、初当選した・・そして・・
  1891年、鉱毒の害を視察し、
  1892年6月3日、第2回帝国議会で、鉱毒問題に関して質
 問を行った。
  毎日新聞(6月5日)によると・・、
  本会明治25年5月9日河野広中君、及び工藤行幹君は、
 北海道殖民開拓に関する施政方針、北海道官有物払下、
 北海道勧業委托金処分、札幌製糖会社及び札幌製麻会社、
 北海道土地貸付、炭鉱鉄道線路変更の件に付、
  同月11日塩田奥造君、新井啓一郎君及び箕輪勝人君、
 同鉄道始末に対する件に付、
  同月23日加藤淳造君、同北海道炭鉱鉄道会社に関する
 件に付き、
  同月同日、田中正造君は、足尾銅山鉱毒加害の件、及
 び、北海道幌内郁春別鉄道会社命令書違反、神戸造船所、
 釜石鉱山、阿仁及び院内鉄山、小坂銀山に関する件に付
 き以上の質問書を提出したるに、
  政府は、未だ何等の答弁をもなさず。
 議院法第49条には、
  「質問主意書は議長之を政府に転送し、国務大臣は直
 ちに答弁を為し、又は、答弁すべき期日を定め、若し答
 弁を為さざる時は、其の理由を明示すべし」・・とあり、
  黙るに政府は上記数件の質問に対し、未だこれが答弁
 をなさず、
  又答弁すべき期日を定めざる理由如何、若し政府に於
 て答弁能はずとせば、何故にその理由を明示せざるや。
  以上、議院法第48条により提出す、国務大臣はその責
 任を負ひ直ちに明答あらんことを望む。
  明治25年6月3日 質問者 田中正造
          賛成者 塩田奥三 他2名
・7月25日:徳島県下に津波・山崩れ・大洪水が起こり大災
 害となる。
  (1)、1892年7月25日午後2時頃、保勢山の中腹が幅
 300m、長さ800mにわたり崩壊して、海部川を堰き止め
 た。
  崩壊により北岸の山麓にあった3家族11人、及び、山稼
 ぎ36人は、家屋とともに生き埋めになった。
  田畑4町歩も埋没した。
  海部川を堰き止めていた土砂は26日午後7時頃に崩れ、
 下流は大災害となった。
  平井には保瀬大崩壊の碑が建っている。
  (2)、1892年7月25日、台風に伴う集中豪雨により、
 海部川中流右岸の保勢(保瀬)で大規模崩壊が起こり、
 4戸が埋没し、住民11人と山稼ぎ人36人が生き埋めとな
 った。
  崩壊土砂は河道を閉塞し、巨大な天然ダムを形成した
 ため、湛水によって8戸が流出し、9人が水死した。
  さらに天然ダムの決壊により、下流域で流出2戸、半壊
 11戸の被害が出たが、高潮被害と重なり、天然ダム決壊
 による被害のみを分離することは難しい。
  天然ダム決壊の恐れは事前に下流に知らされ、決壊時
 には鉄砲、大砲、狼煙などで伝達された。
  (3)、1892年7月25日、豪雨が海部川上流や那賀川上
 流を襲ったため、保瀬で大崩壊(土量約200万立米)が起
 こり、海部川の水を堰き止めた。
  このため、寒が瀬一帯は濁流に没し、4戸埋没、8戸流
 失、死者47人に被害を出し、上流一里半の樫谷の大杉の
 鞘が水に隠れ、さらに上流の轟神社の扁額が半分水に浸
 かった。(「海部郡誌」による)
  堰き止められた水が一斉に流下して大氾濫を起こすか
 も知れないという情報は上流から下流に伝えられたため、
 下流部では人的被害はなかった。(「海南町史上巻」に
 よる)
  (4)、1892年7月25日の豪雨時に、保瀬で崩壊が発生
 し(崩壊土量200万立米)、天然ダム(湛水量1,400万立
 米)が形成され29時間後に決壊したが、事前に避難。
  (四国災害アーカイブスより)
.
1892年、その他:
・久六島鮑(あわび)岩の帰属問題で青森・秋田の漁民が
 争った。
  青森県西部、艫作(へなし)崎の西方約30キロメートル
 の日本海上にある無人島で、上の島、下の島、ジブの島
 と呼ばれる三つの岩礁からなる(青森県西津軽郡深浦町)
  島名は、難破船から救助された水夫の名によるとか、
 漁夫の名によるとかいう。
  付近は、ホッケ・アワビ、海藻などの漁場。
  16世紀末より、アワビ・サザエ・イカなどの漁場とし
 てきていて、1786年に、船問屋が発見したとも伝えられ
 る。
  好漁場であるため、青森・秋田両県で、50年にわたり
 帰属をめぐり争っていたが、
  1953年、青森県深浦町に帰属、秋田県に入会(いりあい)
 権が認められた。
  津軽国定公園に含まれ、1959年に、光達距離12.5カイ
 リの無人灯台が建てられた。
  (伝説)明治時代、久六島に、島を発見した九六が、
 この島に漁に出かけようとして遭難したという伝説が残
 っていて、
  西津軽郡の人々で、探検を企てようとする人はいなか
 った。
  ただ、男鹿半島の漁民が、時々、偶然に風の都合で久
 六島に流され、そこで、たまたま多くの漁獲を得る程度
 であった。
  1890年、福島県から新しい漁具(潜水具など)と漁夫を
 率いて能代で水産業を営んでいた新妻助左衛門は、久六
 島探検を決意し、7月22日、能代を出航した。
  23日、西風に流されて艫作に上陸、そこで、新妻は、
 久六島の伝説と方向や位置を漁民から聞き、
  午後6時に、艫作を再出航して、久六島に到着し、27日
 にわたって大いに漁獲を得た。
  新妻は、午後6時に、能代に向けて出航したものの、風
 に流されて深浦村に上陸、そこで、久六島の魚影の豊富
 さを村人に話した。
  以後、村人たちも因習を改め、以後、秋田や青森の漁
 民が久六島を訪れるようになった。
  一旦、明治時代に、青森県が、単独で久六島の漁業権
 を得るものの、抗議を受けてそれが取り消される事件も
 あった。
  明治以来、秋田、青森両県の間でその帰属に関して紛
 争が続いたが、
  1953年、自治省の告示で青森県深浦町への地籍編入が
 決定した。
・衆議院議員総選挙で、高岡郡斗賀野で国民派と破壊派壮
 士500名が乱闘をおこした(高知)
  高知県下に保安条例が施行された。
・7月6日:アメリカでホームステッド・ストライキ(暴動)
  カーネギーの製鋼所で暴動が起きた。
  アメリカのカーネギー製鋼会社、ホームステッド製鋼
 工場における組合弾圧により、ペンシルバニア州ホーム
 ステッドで争議が起った。
  労働組合に反感をいだいていた H.フリックは、同社の
 社長に就任するとともに労働組合の破壊を決意し、賃金
 の引下げを計画した。
  300人の会社防衛隊が雇われ、ホームステッドで労使は
 対決し、70人以上の死傷者が出た。
  会社は、8000人の民兵の出動を州知事に要請、
  軍隊の出動によって、労働組合は壊滅し、他の製鋼会
 社もその労働協約を破棄するにいたった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国の長期的な戦略目標は・・、
   「東アジア地域から、アメリカ軍を追い出し・・」、
   「台湾、日本、朝鮮半島を中国の勢力圏にする・・」
.
1894年、懐中時計の製作に成功(服部時計店)
  服部金太郎は、1884以降、横浜の外国人商館から洋時
 計を仕入れるようになり、品揃えを豊富にしたことが斬
 新な品揃えとして、評判が立つようになった。
  当初は、輸入に頼り、仕入れた時計は飛ぶように売れ
 た。
  国産時計は、1892年に、服部金太郎が作った精工舎で
 始められ、3年後には、輸出も行われるようになった。
  「服部時計店社長・服部金太郎氏の創立に係る、同氏
 は、夙(しゅく、早い時期から)に、時計製造の如き精
 密工業が、最も我国民に適し、他日、必ず、日本の重要
 工業の 一として成功すべきことを確信し、其の創立を
 決意すると共に、現顧問・吉川鶴彦氏を技師長として招
 聘し、
  明治二十五年(1892年)五月、東京市本所区石原町に
 仮工場を設け、始めて掛時計の製造に着手せり・・」
  1894年、精工舎は、創業二年半にして、最初の懐中時
 計である22型タイムキーパー製造にも成功させ、
  清国(中国)に少量ながら輸入も始めた。
  「明治二十九年(1896年)には、懐中時計機械の製作
 を創む、當時の懐中時計は、二十二型 シリン式にして
 之を現時流行品たる八形九形の如き小型の時計と比すれ
 ば全く隔世の感なくんはあらす」
.
1945年8月9日、対ソ防衛戦
  アメリカと戦っている日本に、ソ連が突如として攻め
 て来た。
  満州国において、1945年(昭和20年)8月9日未明に開
 始された日本の関東軍と極東ソビエト連邦軍との間で行
 われた満州・北朝鮮における一連の作戦・戦闘と・・、
  日本の第五方面軍と、ソ連の極東ソビエト連邦軍との
 間で行われた南樺太・千島列島における一連の作戦・戦
 闘。
  この戦闘の勃発により、日本の降伏を決定付ける事と
 なった。
  日本の防衛省防衛研究所戦史部では、この一連の戦闘
 を「対ソ防衛戦」と呼んでいる。
  このソ連の終戦間際に行った行為は、結論から言えば、
 論理的に『正当性は成立しない』。
  日ソ間には、「日ソ中立条約」が結ばれている状態で
 ある。
  そして、「日本は、事実上、敗戦が決定していて、戦
 争は終結している状態」である。
  例えば、イラク戦争で、アメリカとイラクが戦争をし
 て、イラクが負けたが、
  そのイラク戦争で、イラクが負ける直前に、第三国が、
 イラクに宣戦布告をして、イラクの首都のバクダッドを
 占領したら・・、
  バクダッドは、その第三国の占領物・占領した領域と
 なるのか?
  なる訳はない。
  それは、強盗行為である。
  犯罪である。
  また、隣の家に強盗が入って、その家の人が、強盗と
 やり合っている時に、第三者が入って行って、その家の
 物を盗る・・その行為を正統化できるか?
  出来る訳がない。
  盗みの行為である。
  犯罪である。
  だから故に、先に記したソ連の「南樺太、千島列島、
 北方四島」の日本の領土へのソ連の侵略は成立しない。
  強盗行為なのである。
  今・現在の現状は、不法行為の結果なのである・・不
 法占拠なのである。
.
1953年、アメリカが、民主主義を実行していたイランで、
 CIAの工作によるクーデターを起こして、独裁制を押
 し付けた。
  これは、アメリカによる、イスラム教徒の不必要な迫
 害・抑圧であり、イスラム教世界と「文明の衝突」現象
 を作り出してしまった。
  アメリカは、この様な行為を色々している。
.
2003年3月20日、イラク戦争
  アメリカが、レバノン侵略(1982年)を盲目的に支援
 し、虚偽の口実を捏造して、イラクを侵略・占領した。
  アメリカは、この様な、イスラム教諸国と数々の紛争
 を起こし、「文明の衝突」現象を作り出した。
  アメリカは、この様な行為を色々している。
.
2010年、中国の実質経済規模が・・世界一となった。
  アメリカは、2位に転落した。
  米ソ冷戦(東西冷戦)は、日本の貢献度大で、アメリ
 カが勝利し、1991年に、ソ連は崩壊した。
  ソ連の統制経済の社会主義体制と社会主義経済圏が崩
 壊した。
  そして、ロシアが誕生したが・・一極体制とはいうも
 のの・・「借金だらけのアメリカ」という『あだ花』が
 咲いた・・
  そして、資本主義経済・市場経済のグロバリゼーショ
 ンの進行を見たが・・が、しかし・・、
  結局、経済競争は、2010年頃には、日本が『中国』に
 抜かれ、そして、『アメリカも』、中国に抜かれた。
  ただ、「抜かれた、ああ、そうか」では、この話は終
 わらない。
  1996年~1997年に、アジア諸国とロシアは経済危機に
 おちいった。
  この時、IMFを支配するアメリカは、これら諸国に
 対して強大な権力を行使する事が出来た。
  (アメリカの御機嫌を損なったら、IMFから融資を
 受けられない・・というシステム)
  しかし、IMFの投票権は、参加国の実質経済規模に
 比例して割り当てられている。
  故に、アメリカの実質経済規模が、世界一の座を下落
 したアメリカは、IMFの拒否権行使の権利を喪失した
 ことになった。
  中国の世界一は、堂々としている。
  「食料と鉱物資源とエネルギーの消費量」が世界一、
  そして、中国は、「金属産業」の規模も世界一である。
  同様に、「化学産業」の規模も世界一で、「住宅産業」
 も世界一、
  そして、「家電産業」も世界一、「運輸産業」も、「
 造船業」も、
  そして、「流通業」も、そして、「自動車市場規模」
 も世界一。
  そして、世界の「鉄生産」の48%を、中国一国で消費
 している。
  そして、「外貨保有量」と、毎年の国内の「純貯蓄額」
 (資本蓄積量)も世界一・・、
  アメリカ政府の国際通商委員会のチーフ・エコノミス
 トであったピーター・モリシ(メリーランド大学教授)
 は・・、
  「(世界一の借金国)アメリカは、中国に国債(米財
 務省証券)を買ってもらわないと財政破綻(はたん、物
 事が、ほころびて、つくろえないというように、立て直
 しも手詰まりになること)してしまう」・・と言った。
  そして、また、「アメリカ大統領は、中国の前で、(
 国債を買ってください)と頭を下げないと、経済運営が
 できない」・・と言った。
  中国の発言権を、アメリカは無視できない立場にいる。
  そして、この格差は・・広がるばかりなのである。
  そして、世界の叡智は予測する・・
  『アメリカは、今後、破綻(はたん、物事が修復しよ
 うがないほどうまく行かなくなること)する。
  2016年~2025年頃に、財務危機、通貨危機を引き起こ
 す可能性が高い』・・と・・、
.
2017年、アメリカを抜いて、世界一の経済大国になった中
 国は、北朝鮮を支援して、核ミサイルを持たせた。
  今まで、世界一だったアメリカは、「日本には、絶対、
 核は持たせない」とやって来た。
  そして、今・現在、『核とミサイルを持った北朝鮮』
 は、アメリカ領グァム島の周辺海域に、ミサイルを飛ば
 す計画だと言った。
  中国と北朝鮮の両国は、「核とミサイル」を持ってい
 る。
  日本は、「刀狩り」と言って、すでに、400年以上も昔
 に庶民から武器を取り上げた。
  アメリカは、今・現在でも、銃を取り上げられないで
 いる・・銃を無くせないでいる。
  アメリカの社会の中には、銃があふれている。
  銃を無くそうと言っているが、どうしても、社会から
 銃を無くせないでいる。
  そして、今、地球は、どうやら、核だらけの地球にな
 る気配・・、
  アメリカで、銃が無くせない様に、地球から核兵器が
 無くせない・・様だ・・、
  アメリカでは、時々、忌(い)まわしい銃の乱射事件
 が起きて、殺される人、亡くなられる方々が出るが・・、
  今後、地球上に・・この様に増えた核ででも、その銃
 の事件の様な、突然の『忌まわしい出来事』が起きるだ
 ろう。
  銃の場合の様な、一人とか二人とか、10人とかという
 話ではなく・・核の場合は・・、
.
2017年、中国は、完全に・・『経済的にも』、アメリカを
 凌駕(りょうが、他のものを越えてそれ以上になること)
 した。
  あらゆる面で、中国は、アメリカの真似をして来た。
  その真似をして来た中国が、アメリカを追い抜いた。
  また、中国は、軍事的にもアメリカを越した。
  今までアメリカは、自国の主張をして来る国だった。
  中国も、この点まで、アメリカの真似をするだろう。
  アメリカは、「守ってやるよ」「はい、お願いします」
 と、世界に自国の軍を展開して来たが、これも、中国は
 真似するだろう。
  すでに、中国は、世界のあちこちに軍事拠点を作って
 いる。
  アメリカと中国の「二重の軍事カバー領域」が重なる
 地球・世界となる。
  かつてのソ連とアメリカは、領域は接しても、重なる
 ことはなかったが・・ ・・、
.
2017年、「異教徒は殺せ」というキリスト教の考え方が、
 今の、現時点の、状況を作っている。
  「相手の生存を認めない」というキリスト教のこの教
 義。
  この考え方は、完全に間違っている。
  だが、キリスト教徒は、マインド・コントロールされ
 て、洗脳されて、その間違いに気づかない。
  逆に、正しい行為と思う所が『恐ろしい』。
  キリスト教に強く洗脳させられたブッシュは、この考
 え方で、イラクを滅亡させ、トップのフセインを殺した。
  アメリカのブッシュ大統領は、「現代の十字軍だ」と、
 言ってイラクを攻めた・・キリスト教に洗脳されて、そ
 の様に行動をしているという事を示した。
  そして、このキリスト教に洗脳されたアメリカのブッ
 シュ大統領は、北朝鮮も、この滅んだイラクとフセイン
 と同じ「テロ国家だ」と言った。
  次に、イラクのように、北朝鮮を攻める意味を示した。
  北朝鮮は震え上がった。
  異教徒の生存を認めないその考え方・言葉に震え上が
 った。
  生き残る道を考えた。
  相手は、キリスト教に染まった「異教徒の生きる道を
 認めない考え方の者たち」、
  生き残るにはどうすればよいか?・・と・・、
  ミサイルが成功し、核実験が成功し、その時に喜びの
 放送が流れた。
  「将軍様、ありがとう」という言葉だった。
  それは、「助かった」という安堵(あんど、物事がう
 まく行って安心すること)の言葉だった・・のだろう。
.
2017年、アメリカは、養われている国である。
  アメリカ国債を買ってもらって帳尻を合わせている国
 である。
  普通なら自己破産で、存在しえない状況なのだが・・
  その様な国が、何故、出来てしまったのか?
  それは、心底での国を思う気持ちが希薄だからである。
  グローバリズムだなんて言って筋を通しているようだ
 が、結局は、グローバリズム優先で、国を疎(おろそ)
 かにしている。
  その様な国が、何故、存在していられるのか?
.
2020年、今から3年後・・アメリカ経済の実質規模が、『
 17兆ドル』程度と予想されている。
  これに対し、この時の・・中国の実質経済は、2020年
 には『30兆ドル』以上と・・、
  アメリカの1.7倍という『2倍』に手が届くぐらいに、
 拡大していると予測されている。
  『圧倒的な中国優位』の状況となっていると・・、
  アメリカの成長が見込まれない理由・問題点は・・、
   1、戦後生まれのベビーブーマの大量引退。
   2、医療費の重荷・・医療費の過大化。
   3、人口のヒスパニック化。
   4、アメリカ国民の6割が貯蓄をしない無貯金状態。
  アメリカは、軍事費に予算を廻せない状況となる。
  中国との競争が出来ないアメリカとなる。
  今、トランプ下ろしをやっている時ではないのである。
  そして、アメリカのトランプ下ろしの陰には、この「
 中国のマネー」がある・・??
  そして、中国の長期的な戦略目標は・・、
  「東アジア地域から、アメリカ軍を追い出し・・」、
  「台湾、日本、朝鮮半島を中国の勢力圏にする・・」
  実際、「アメリカが、東アジアから撤退する」ことを
 予測するアメリカの学者は・・大勢いる・・
  ハンティントン、ミアシャイマー、フリードバーグ(
 プリンストン大学)、レイン(テキサスA&M大学)、
 ペイプ、マンデルバウム(ジョンズ・ホプキンス大学)、
 カプチャン(ジョージタウン大学)・・などは・・
  「アメリカは、いずれ、東アジア地域の支配権をあき
 らめ、ギブ・アップせざるを得なくなるだろう」・・と・・
  キッシンジャーやブレジンスキー・・も・・
  「中国が、アジアの覇権国となることは、もう避けら
 れない」。
  「アメリカ政府は、中国の覇権を認めて、対中国融和
 政策を採るべきだ」と言っている。
  日本は、加計学園問題なんかに、いつまでも関わって
 なんかいないで・・、
  「日本の立ち位置の検討」・・、
  「自分の国は自分で守る」ことに・・
  真剣に 討議せよ!
  イギリスの様に・・原潜と核は必要!!
.
2025年、中国の経済規模が、世界の『30%』を占める・・
 また、インドの経済規模も、『15%』を占める。
  アメリカ政府の情報機関が、2008年末に公開した「国
 際政治の予測レポート『グローバル・トレンド2025』」
 に・・、
  そして、国際構造は「多極化」していく。
  今後、20年間の国際関係に最大の影響を及ぼす国は、
 中国であろう。
  今から200年前、中国の中国の経済規模は世界経済の30
 %、インドの経済規模は15%だった。
  中国とインドは、以前の経済的な地位を回復する過程
 にある・・と・・、
  因みに、600年代~1830年までの1200年間、中国の経済
 規模は世界最大だった。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)547E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)547E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年、発明:
・5月22日:歯磨きチューブが発明された。
  ワシントン・シェフィールド(アメリカ人、歯科医)
・9月:下瀬火薬が発明された。
 大日本帝国海軍技師・下瀬雅允が実用化した爆薬(炸薬
 として砲弾、魚雷、機雷、爆雷に用いた)で、日露戦争
 当時の日本海軍にも採用され、日露戦争(日清戦争には
 間に合わなかった)には大いに活躍し、大戦果の一因と
 なった。
 1905年5月27日の日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を
 粉砕した一因は。この火薬の成果。
 因みに、フランスに派遣された富岡定恭は、「フランス
 で新型火薬と言われる火薬」のサンプルの微量を、爪の
 中にすり込んで日本に持ち帰った。
 この微量のサンプルを分析した結果、この下瀬火薬と同
 様のピクリン酸であると判明した・・下瀬火薬の発明が
 先んじていた。
・10月4日:乾電池の発明
 屋井先蔵(やいさきぞう)が、世界で初めて、完全な乾
 電池を完成させ、特許を出願した。
 発明時期は不明。
 屋井乾電池は、乾電池を用いる製品そのものが普及して
 いなかったこともあって、しばらくは売れなかった。
 1894年に日清戦争が勃発し、満州で使用されていた軍用
 の乾電池の大成功に関する号外記事が掲載された。
 従来の湿電池では、液が凍結したため、満州では使用で
 きなかったが、屋井の乾電池だけは使用できた。
 1910年に、合資会社・屋井乾電池を設立した。
 神田区錦町に販売部を新築し、浅草神吉町に、乾電池の
 製造工場を設けた。
 そして、乾電池の本格量産にとりかかった。
 筒型の金属ケースを用い、現在の乾電池のスタイルを確
 立した。
 屋井乾電池は、海外品との競争にも勝ち、日本国内乾電
 池界のシェアを掌握し、屋井は「乾電池王」と言われた。
.
1892年、医・衛生:
・2月:東京・牛込東五軒町に、東京慈愛病院が設立された。
・6月17日:東京・下渋谷(広尾)に、日本赤十字病院(本
 社病院)が新築され、開院した。
・天然痘が流行し、全国で1万人近くが死亡した。
・福沢諭吉の援助で伝染病研究所が出来、北里柴三郎がそ
 の所長となった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:その重大な転機における課題に取り組んでいるトランプ大統領・・
    そのトランプ下ろしをやるアメリカは、現時点は・・、
    その様な時ではないという『深刻な事情』に目を向けるべきだ。
.
1895年4月23日、三国干渉
  急速に力を付けた日本・・明治28年の時である・・
  日清戦争の、まさかの日本の勝利だと世界は思った・・、
  そこで起きたのが・・
  列強各国の、弱小日本への三国干渉・・、
  三国干渉(さんごくかんしょう)は、1895年4月23日に、
 フランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が、日本に対
 して行った。
  自分たちがおいしい汁を吸っている中国の領分に入っ
 て来た新参者にいちゃもんを付けた。
  日本の勝利で終わった日清戦争。
  その、日本と清の間で結ばれ、合意された下関条約・・、
  その条約に基いて・・約定(やくじょう、約束して定
 めること)して・・日本に割譲された遼東半島を・・
 おい!それはよせよと・・くちばしを入れたのである。
  日本は、遼東半島を取らないで、取り上げないで、「
 清国へ返せよ」「返還しろよ」と言った・・そういう内
 容だった。
  そこには、ロシアの思惑があった・・ロシアは大きな
 欲をかいていた。
  ロシアは、満洲と中国北部の支配権を拡張したいと目
 論んでいた。
  また、それと並行して、欲張りに欲張って、朝鮮へも
 影響力を拡大したいと思って行動していた。
  ロシアとしての言い分は・・朝鮮は、ロシアのウラジ
 オストクに近いため、ここを他の列強に抑えられると、
 ロシアが圧迫されて怖いのだ・・という理屈・・そして、
 その可能性を防ぎたいと・・
  また、それは、逆に、今時点に例えれば、日本にとっ
 て、38度線が対馬海峡になる様なもの・・
  ロシアは・・日本という国が、朝鮮と対馬の両岸を抑
 える事態になれば、中国の旅順港とロシアのウラジオス
 トク港を結ぶシーレーンが危機に晒されるというロシア
 の論理が・・理屈があった。
  中国のおいしい汁を安心して運べないのだよ・・と・・
  だが、前記した様に、朝鮮半島をロシアが占領すれば、
 圧迫されるのは日本も同じだった。
  今の現時点で、「緊迫した38度線が、対馬海峡になる」
 と想像すれば・・その不安・・危険度・・それと話は同
 じだった。
  そして、この1895年の三国干渉の影響から、朝鮮政府
 は、『反日となり』また『親露となった』・・その様な
 勢力が台頭して行った。
  そして、また同様に、朝鮮国王の高宗が、ロシア軍の
 朝鮮進駐を希望するようになった・・そして、1896年2月
 には、ロシア大使館へ駆け込んだ。
  この様な中で、この状況を解決するために努力がなさ
 れた。
  そして、日本とロシアの間で、『山縣・ロバノフ協定』
 が締結された。
  日本とロシアは、対等の関係で朝鮮に接して行こうと
 いう旨が合意された。
  しかし、ロシアは強硬策に出た・・
  1897年、ロシアは、旅順・大連を占領した。
  当然、日本は、強硬行動をとるロシアが、この様な行
 道・・同様の行為を、朝鮮半島でも行なうだろうと恐れ
 た。
  実際、ロシアには、朝鮮半島への進出を本格化する恐
 れがあった。
  日本は提案した・・「朝鮮半島を日本が管轄し、満洲
 をロシアが管轄する」・・と・・
  しかし、ロシアからは相手にされなかった(満州はロ
 シア軍だらけだった)
  この頃、朝鮮半島に接する鴨緑江沿岸(朝鮮と中国東
 北部・満州の境を流れる川)では、アレクサンドル・ベ
 ゾブラーゾフらのロシア貴族が、
  朝鮮半島北部にロシアの橋頭保を築く目的で、伐採事
 業を開始していた。
  (朝鮮戦争の時も、共産中国軍は、朝鮮半島に流れ込
 もうとこの地域・鴨緑江沿岸に大部隊を集結した)
  ベゾブラーゾフは、ロシアは偉大な大国であるので強
 硬姿勢をとって当たり前であり、東洋人ごときに生意気
 を言われる筋合いはないという信念を持っており・・、
  蔵相ヴィッテの対日融和政策を毛嫌いし、
  「大臣たちは、皇帝陛下に正しい情報を提供せず、陛
 下に自分たちの考えを押し付けている」と批判した。
  これは、ニコライ2世にとっても耳に心地よい意見だっ
 た。
  ニコライ2世は、このベゾブラーゾフを強く信頼するよ
 うになり、対日強硬姿勢を強めて行った。
  因みに、ベラーゾフは、この翌年の1896年に、日本と
 の開戦の必要性を唱える嘆願書を、ロシア皇帝ニコライ
 2世へ提出している・・この様な人だった・・、
  また、ニコライ2世は、「黄色い猿」と日本を侮蔑する
 ような皇帝で、ロシアがどんなに強硬路線を取ろうと、
 「日本に、ロシアと戦争する勇気などあるばずがない」
 としていた。
  また、「ロシアが、自分が望まない限り、日露の戦争
 にはならない」と考えていた。
  また、「ロシアの強硬な圧力を受けて、日本が旅順か
 ら撤退した1895年を思い出す」などとも言ったり、
  「どっちにしても日本は野蛮な国だ」などとも言った。
  ベラーゾフは、強硬派で、イギリスの東インド会社の
 ような組織を設立して、『朝鮮半島と満州における権益』
 を確保して、それらを強制的に征服すべしとした。
.
1899年(明治32年)、義和団の乱
  宗教的秘密結社である義和団が、「扶清滅洋(清国を
 助け、西洋を滅ぼす)」というスローガンを掲げて、山
 東省で蜂起した。
  (1900年6月20日~1901年9月7日説あり)
  義和団とは、義和拳という武術をマスターすれば『鉄
 砲も刀も怖くない』という迷信を持った人々の集団で、
 山東省に始まった暴動は、清国全体に広まった。
  外国勢力に美味しい汁を吸われる民衆の鬱積(うっせ
 き)した不満が下地にあった。
  特に、この外国の武力を後ろ盾にしたキリスト教勢力
 (傲慢な宣教師など)の行動は反感を買い、排外的な機
 運が高まった。
  トラブルの解決に「武力による威嚇」が用いられる事
 が多く、キリスト教会側に有利に妥協させられ、処理さ
 れることが多かった。
  そのため義和団は、キリスト教会を焼き、キリスト教
 徒を殺すという『反キリスト教運動』を行なった。
  民衆の間には、外国人は、官僚より三等上という認識
 が広がっていた。
  民衆は、外国人に、ぺこぺこと平身低頭せざるを得な
 い自国の官僚への失望感が拡大していた。
  そして、義和団は、破産させられた農民と結び付き、
 急速に発展して行った。
  (「義和団事変」「拳匪の乱」「ボクサー・レベリオ
 ン」ともいう)
  1900年になると、反乱集団は、キリスト教徒を殺害し、
 キリスト教会、鉄道、電線など西洋伝来のものを破壊し、
 北京にまで至った。
  乱が、たちまちの内に全土に広がって、外国人にとっ
 て、さながら地獄図のような光景が眼前で繰り広げられ
 た。
  また、この列強の侵略は、中国支配層の中にも対立す
 る集団を作り出した。
  この対立は、守旧派と洋務派という構図で・・、
  守旧派は、従来からの支配者である西太后(せいたい
 こう)らの満州人貴族層が中心で、
  洋務派は、列強が懐柔して、力を伸ばした李鴻章らの
 漢人の大官僚たちであった。
  守旧派の清国政府は、乱の鎮圧がしきれないのを知り、
 逆に利用し、彼らを応援し、列強諸国や洋務派に対抗し
 た。
  義和団の勢いが良いと見るや、清国政府の実権を握っ
 ていた西大后は、義和団の味方をして、清国軍を派遣し、
 北京の公使館や天津の租界を攻撃した。
  また、農村の自衛組織を義和団に組み込んだ。
  短期間に河北全省、満州、蒙古(もうこ)に拡大し、
 キリスト教会を襲い、鉄道、電信を壊し、石油ランプ、
 マッチなどあらゆる外国製品を焼き払った。
  そして、清国は、北京に公使館を置く列強諸国に、1900
 年6月、宣戦布告を行なった。
  これにより、北京では、公使館のある区域が義和団に
 包囲され、そこにいた8ヶ国の人たちが皆殺しにされる危
 険が生じ、その危険が迫った。
  そこで、8ヶ国は団結して連合軍を作り、義和団の大軍
 に合同で立ち向かうことになった。
  8か国は、日本、アメリカ、イギリス、フランス、ドイ
 ツ、ロシア、イタリア、オーストリア・・、
  総司令官には、ドイツ人のガスリーが就任した。
  約2ヵ月後、8ヵ国の連合軍は、首都北京及び紫禁城
 を制圧し、乱を鎮圧した。
  西太后と光緒帝(こうしょてい)は西安に逃れ、失脚
 した。
  守旧派に代わって実権を握った洋務派は、8か国連合軍
 に協力姿勢を取った・・そして、義和団の残部を虐殺し
 た。
  日本は、たった25人の軍人しかいなかったが、柴五郎
 中佐が率いた軍は、規律正しい精悍な精鋭で、抜群の働
 きをした。
  他の国の兵士は怖がってなかなか戦わない状況でもあ
 った。
  日本は、各国から地理的に最も近いという理由で、本
 国から応援部隊を出すよう要請されたが、野心があると
 思われるのを避けるため、なかなか応じなかった。
  しかし、再三、イギリスなどから要請され、福島安正
 少将が、混成三個大隊を率いて天津に来た。
  そして、日本軍の活躍で、連合軍は天津を占領するこ
 とができた。
  その後、連合軍は、日本軍を主力として北京に進軍、
 8月14日に、北京の公使館を包囲していた義和団と清国兵
 を駆逐し、公使館区域の外交官や居留民を救出すること
 に成功した。
  その後、連合軍は、国ごとに分かれて北京を占領した。
  そして、ロシアは、義和団の乱が支那から満州にまで
 及んだときに、増派して、ついには、全満州を占領して
 しまった。
  この乱につけ込んで、ロシアは満州をロシア領にして
 しまった。
  しかし、清国は、ロシアを満州から取り返そう、追い
 払うという努力は一切しなかった。
 (満州からロシアの勢力を追い払ったのは、その後の日
 露戦争に勝利する日本だった)
  (このロシアが占領した満州を、日本は日露戦争でロ
 シアを駆逐し、満州の所有権の移譲を受けた。日本は満
 州を占領したのではない)
  もし、日本が日露戦争で勝利しなかったら・・、
  宣統帝溥儀の家庭教師だったレジナルド・ジョンスト
 ン(イギリスの中国学者)が言うように・・、
  遼東半島のみならず、満州全土も、その名前までも、
 ロシアの一部となっていたことは「まったく疑う余地は
 ない」。
  ※:ちなみに、北京を占領した連合軍は、各所で略奪
   を開始し、美しく綺麗な事で有名だった頤和園(い
   わえん)も略奪と破壊の対象とした。
    しかし、この卑劣な行動に、日本軍だけは、略奪
   に参加しなかった・・(この話は有名)・・、
    当時の戦争では軍隊が市民から略奪、強姦すると
   いう行為は普通に行われていた・・この時も・・
    当たり前の様に北京や上海でも列強各国による略
   奪が頻発していた。
    白人で一番まともなイギリス兵ですら、支那人か
   ら貴重品を取り上げ、かっぱらった。
    ロシアの占領地区では、ロシア兵が虐殺や放火、
   強姦をやり、日本の占領地区に逃げて来る支那人が
   大勢いた。
    北京から遠く離れた所でも、ロシアは大虐殺を行
   なっていた。
    しかし、日本軍だけは、その様な行為はしなかっ
   た。
    日本の占領地域だけは軍規厳正で、治安維持が特
   に優れていた。
    これを見たイギリスが、素晴らしい日本と同盟を
   結びたいと、この後に、日本に日英同盟を求めて来
   たくらいだった。
    日本には天皇陛下の兵隊という、「皇軍」という
   意識があって、卑劣な行為はしなかった。
    南京事件もでっち上げなのだ・・、
.
1963年11月22日、アメリカの第35代大統領ケネディが暗殺
 された。
  アメリカ合衆国テキサス州ダラスで暗殺された。
  ケネディ(1917年5月29日生、46歳)は、軍産複合体を
 追求したから暗殺された・・という話がある。
  1963年11月22日、翌年の大統領選挙キャンペーンとし
 てテキサス州を訪れ、
  この日、フォートワースからダラスに到着し、市内を
 オープンカーでパレード中に、多くの市民が見ている前
 で、何者かに狙撃され死亡した。
  43歳で大統領に就任してから、わずか2年10か月と2日
 の在任期間であった。
  ケネディとジャクリーン夫人は、この日、午前11時40
 分にテキサス州ダラス郊外のラブフィールド空港に到着
 し、
  その後、大統領専用車に乗ってコナリー州知事夫妻と
 ともに市内をパレードした。
  ヒューストン通りからエルム通りに左折して、デイリ
 ープラザに入った12時30分に、後方のテキサス教科書倉
 庫ビルから3発の銃弾が発射され、
  その内の2発がケネディに命中した。
  後の1発が、ケネディの後頭部に当たり、これが致命傷
 となった。
  急ぎパークランド病院に担ぎ込まれたものの瀕死の状
 態で、手当ての甲斐なく、午後1時に、死亡が確認された。
.
1968年、今(2017年)からは想像できないだろうが、この
 頃の若者人口は、非常と言ってよいくらい「非常に多か
 った」。
  この団塊の世代は、若者人口が多いため、小中高と進
 学するごとに、学校の教室が足りないなど社会問題にな
 った。
  大学進学でも激しい競争があり、その実感を「高石と
 もや」がコミカルに歌った「受験生ブルース」が、この
 年(1968年)にヒットした。
.
1977年、横田めぐみさんが、北朝鮮に拉致された。
  日本政府が、北朝鮮による日本人拉致の『容疑』を公
 式に発表したのは、それから20年以上も後の、1997年5月
 であった。
  また、日本政府が、拉致されている日本人の人数を17
 人としているが、警察は866人以上としている。
  残念な事に、日本政府は、長らく「日本人の拉致は存
 在しない」「起きていない」という態度をとってきた。
  そのことに触れることを「タブー」としてきた、情け
 ない事だが・・、
  今でも、拉致された日本人が北朝鮮に居て、日本へ帰
 る事ができていない。
  日本政府は、アメリカから北朝鮮の拉致行為を知らさ
 れていたのに、無視して、何もしなかった。
  国会で、拉致問題が取り上げられたのも、1988年と、
 国会も大変に遅く、国会の与党も野党も、国会のすべて
 が目をつぶった。
  国会議員のすべてが腐っていた。
  これは、日本の何かが壊れている?
  この問題に早期から携わり、真剣に取り組んで来られ
 たのが安倍晋三議員(現:首相)だった。
  横田夫妻から早期に相談を受けた安倍議員は、この問
 題に取り組まれた。
  小泉首相の時には、一緒になって拉致された方々のう
 ち、6名の方々の帰国・奪還を実現された。
  警察は、拉致被害者の数を866人としているが、他の情
 報では1000人を上回るとも言われている。
  日本の海上保安庁は、北朝鮮の工作船に対し、毅然た
 る態度を示して、領海侵犯した国籍不明船(後の調査で、
 予想通りの北朝鮮工作船だった)に、指示に従わず領海
 侵犯行為を続けたため、機銃掃射を行なった。
  工作船側は、証拠隠滅を図って自爆し、沈没した。
  後に、日本は、これを引き上げ、捜査し、北朝鮮工作
 船の証拠を得た。
  北朝鮮が、日本工作をするこの北朝鮮の工作船が・・
 何故か・・この北朝鮮工作船が、直接に、また、当然に、
 北朝鮮へ帰るわけだが・・何故か?・・この北朝鮮工作
 船が、中国に帰ることもあることを確認している(中国
 の工作船か?)
.
2011年2月14日、日本が3位に・・
  日本の内閣府が、14日発表した2010年の国内総生産
 (GDP)速報値で「中国に抜かれ、世界3位に」とある・・、
  今、『重大情報データが、捻じ曲げられている』。
  世界の人々が繰られている。
  上記した様に、2011年2月に発表されて、日本は・・
 GDPが世界3位に転落した・・その事が分かったと言う
 が・・?
  別のデーターもある。
  実は、『中国は、アメリカも抜いている』というので
 ある。
  「2010年のアメリカの実質経済規模は『約14兆ドル』
 であり、中国は『約15兆ドル』」というのである。
  中国が、アメリカを抜いているというのである。
  (参考)実質経済規模:名目的な為替レートではなく
     実際の購買力で計った経済規模のこと。
      つまり、実際に生産し消費している財とサー
     ビスの総量のこと。
  1990年代に、すでに、世界銀行は、中国の実質経済規
 模を為替レートで計った名目経済規模の『5倍~6倍』と
 計算していた。
  IMF(国際通貨基金)と、CIA(中央情報局)は
 『約4倍』と計算していた。
  そして、その後、2007年秋まで、世界銀行、IMF、
 CIAは「中国に実質経済規模は名目GDPの約3倍」
 と計算した(これが妥当と判断されていた)
  しかし、2007年12月に、新たに世界銀行の総裁になっ
 たロバート・ゼリックは、世界銀行とIMFに、「中国
 の実質経済規模を、名目GDPの『2倍』と計算せよ」と
 要求した。
  それは、それまでの『3倍』という計算方法を使ってい
 ると、3年後の2010年には、「中国の経済の実質規模が、
 アメリカ経済の実質規模を凌駕(りょうが、他のものを
 越えてそれ以上になること)してしまう」という理屈だ
 った。
  そうなると・・アメリカ外交の威信の低下と、影響力
 の低下と、そして、恫喝力の低下を恐れてのことだった。
  それ故に、実際の「実態が隠された」。
  相変わらず、世界の認識は、「アメリカが世界一」の
 経済大国であった。
  だから、世界一の軍事大国でもあるというイメージが
 世界中に維持された。
  しかし、この隠し事は、薄々、世界が分かる所となっ
 て来た。
  世界の中には、表立っては言わないけれど・・、
  「21世紀は、中国の世紀だ」と考えて、アメリカを今
 までよりも軽視し、中国になびくという国も・・という
 状況にある。
  そして、その現実が、実態が・・起こすこと、波及す
 る事は・・、
 「アメリカによるIMF支配体制が崩れる」ということ。
  アメリカのIMF体制は・・、
  「世界一の実質経済規模だからアメリカだけがIMF
 の拒否権を持つ」という何だか分からないシステムがあ
 る。
  アメリカは、これによって、だいぶ、得をした。
  外交的にも、脅迫的に使えるという道具ともして来た。
  中国には、「シルクロード経済ベルト」として活性化
 する事を目指す「一帯一路」構想(2014年11月、習近平
 総書記が提唱)があり、
  その前年の2013年に、中国が提唱し、主導する形で、
 アジアインフラ投資銀行(AIIB)が発足していた。
  そして、2015年に、国際機関として創設された。
  2016年1月16日に開業式典を行い、57ヶ国の創設メンバ
 ーとして発足した。
  そして、2017年3月には、日米が主導するアジア開発銀
 行の67ヶ国を上回る・・70ヶ国となった。
  そして、さらに85ヶ国~90ヶ国へ拡大が見込まれてい
 る。
  日本とアメリカは、参加を見送っている。
  創設時の資本金は1000億ドル。
  本部は、中国の北京市にある。
  イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、韓国、ロシ
 ア、ブラジル、エジプト、スエーデン、フィリピン、デ
 ンマーク、クウェート、マレーシア、ポーランド、南ア
 フリカ、タイ、カナダ、ベルギー、香港、エチオピア、
 ペルー、ベネズエラ、バーレーン、ギリシャ、チリ、ボ
 リビア、ルーマニア、アルゼンチン、トンガ、マダガス
 カル・・などが加盟している。
  参加申請が拒絶された国:北朝鮮・中華民国(台湾)
  中国には、この他にも、2014年末に創設した「シルク
 ロード基金」というものがあり・・、
  これによって・・中国のアジアにおける影響力の強い
 経済圏を構築しようと目指している。
  2015年4月に決定された「パキスタンの水力発電所の建
 設事業」が第1号案件となった。
  ここから、中国の台頭と、アメリカ時代の終焉が見え
 る・・・・が・・
  2017年8月16日の読売新聞には・・
  アメリカは、「通商法301条」という法律の伝家の宝刀
 を、中国に対して抜こうとしている。
  この法律は、「貿易相手国の不公正な取引慣行に対し
 て当該国と協議することを義務づけ、問題が解決しない
 場合の制裁について定めた条項の強化版」で・・、
  この法律をちらつかされて、色々と、日本も、嫌とい
 うほど痛み付けられた。
  アメリカの対中国貿易赤字の削減は、トランプ大統領
 の公約の一つでもあるが、
  北朝鮮の貿易の9割を行なっている中国の、北朝鮮への
 対応が効いていないため、相変わらずの北朝鮮となって
 いることも、これに絡んでいる。
  中国からは「明らかに嫌がらせだ」との声や、「強硬
 対決だ」の声も出ている。
  何しろ、米中貿易総額は、57兆円規模である。
  今、中国は、6年連続して成長速度が減速し続けている。
  アメリカのかつての立場は明らかに変わっている・・
  その重大な転機における課題に取り組んでいるトラン
 プ大統領・・
  そのトランプ下ろしをやるアメリカは・・、
  現時点が・・その様な時ではないという『深刻な事情』
 に目を向けるべきだ。
.
2015年、存立危機事態:(そんりつきき‐じたい)
  日本が、集団的自衛権を行使する際の要件の一つで、
  「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が
 発生し、
  これにより、我が国の存立が脅かされ、
  国民の生命、自由、及び、幸福追求の権利が根底から
 覆される明白な危険がある事態」・・をいう。
  平成27年(2015年)に成立した平和安全法制で事態対
 処法に規定した。
.
2017年、かつて、世界の工場だったイギリスが、働かなく
 なって・・、
  「イギリス病」と世界から揶揄(やゆ、なぶる、嘲弄・
 ちょうろう)され、批難され、蔑(さげす)まれた。
  世界の工場の座を降り、金融という座わっているだけ
 で稼げる仕事をする国になった。
  今、アメリカが、その様な道にある。
  情報を操作して、世界のトップの様な顔をしているが、
 実際は、とうの昔に、中国に抜かれている。
  この基本中の基本のデータが繰られ、真実が伝わって
 いない。
  アメリカの時代はとうの昔に去っている。
  中国は、この陰の存在にいつまでも居ないだろう。
  アメリカも、キリスト教の様に、すでに終わった状態
 になっている。
.
2017年、中国の超急速な軍拡。
  2020年頃、アメリカは、中国に抜かれ、「米中逆転」
 が起きる事が確実視されている。
  中国の軍事予算は、何と、この20年間に二ケタの『超
 ハイ・ペース』で拡大して来た。
  その結果、米中逆転が確実視されているのである。
  2000年17%、2001年16%、2002年21%、2003年17%、
  2004年12.5%、2005年15%、2006年13.5%、
  2007年18.5%、2008年17%・・・、
  中国の実際の国防予算は、この公開されている数字の
 何と! 『2倍~3倍』と言われている。
  このパワー・バランスが逆転するという事は・・、
  米中が逆転するという事は・・、
  日本にとって「生きるか、死ぬか」という重大な問題
 なのである。
  軽く考えていてはいけないのである。
  加計学園問題などなんかに関わっていられない状態な
 のである。
  生き残る道を・・講じよ!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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(増補版)546E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)546E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年1月~1892年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年、出来事:
・内閣総理大臣:松方正義(第一次松方内閣)
  1891年5月6日~1892年8月8日
・(氷川清話)松方内閣第三会議
・内閣総理大臣:伊藤博文(第二次伊藤内閣)
  1892年8月8日~1896年8月31日
  伊藤博文が、再び、内閣を組織し、陸奥宗光とのコン
 ビで条約改正、日清戦争の遂行をした。
  明治天皇陛下の信任が厚く、詔勅によってしばしば政
 局の危機を乗り切った。
・(氷川清話)伊藤内閣第四会議。
・(氷川清話)品川内相、選挙干渉事件
・(氷川清話)予戒令
・陸軍省陸地測量部(日本陸軍参謀本部の外局)が、5万
 分の1地図の作成を開始した。
 この部は、1888年(明治21年)5月14日に、陸地測量部條
 例(明治21年5月勅令第25号)の公布とともに、参謀本部
 の一局であった位置付けから本部長直属の独立官庁とし
 て設置された(存続:1891年~1898年)
 5万分の1地形図は、1890年(明治23年)から整備が始ま
 り、1916年(大正5年)に全国整備が完了した。
.
1892年、データ:
・日本の総人口:40,508,000人
・紡績工場の数:39
・天然痘の死者:8409人
.
1892年、物価:
・氷1貫目:9銭~14銭
.
1892年、経済・金融・産業・貿易:
・上野不忍池畔で行なわれていた共同競馬会社が経営難の
 ため解散した。
 共同競馬会社主催で、不忍池を周回するコースで行われ
 ていた。
 馬券は発売されず、ギャンブルとしての開催ではなく、
 屋外の鹿鳴館ともいうべき祭典で明治天皇をはじめ華族、
 政府高官や財界人を含む多くの観衆を集め華やかに開催
 された。
 イギリスで競馬は貴族の社交の場であったことをそのま
 ま取り入れた。
 収入は、会費、入場料、天皇陛下からの下賜金、宮内省・
 農商務省・陸軍省からの支援に頼っていた。
 しかし、赤字で、1886年(明治19年)からは一場所二日の
 開催となり、賞金額も減っていった。
 経営難のため1892年の秋場所を最後に終了した。
・長崎半島の西沖合に位置する高島炭坑の南洋井坑が終掘
 した。
 1986年(昭和61年)11月27日、105年にわたる高島炭坑が
 幕を閉じた。
 日本の明治の産業革命の立役者だった。
 日本に、最初に、外国資本と蒸気機関を利用する外国技
 術が導入された最先端の海底炭田を掘る炭坑だった。
 欧米諸国の蒸気船にも石炭補給する拠点だった。
.
1892年、交通:
・碓氷峠でアプト式機関車の試運転をおこなう(群馬)
 横川駅~軽井沢駅間アプト式鉄道に使用するためドイツ
 からエスリンゲン社製C形ワルシャート弁装置付アプト式
 蒸気機関車4両を輸入した。
 東京~新潟間の全線開通を強く望まれる中、急こう配の
 峠越えの方法に難関があった。
 種々の方法が検討される中、視察したドイツのハルツ山
 鉄道を参考にしてアプト式を用いることが提案され、
 1891年2月、最短ルートの中尾線ルートをアプト式で建設
 することが決定された・・そして・・
 1891年3月24日に起工された。
 1892年12月22日、着工より1年9ヶ月という驚くべき短工
 期で、500人あまりの尊い人命が捧げられ、その犠牲者の
 お蔭で工事は完成した。
・日本郵船が、根室国花咲より択捉島への試航に成功した。
 千島航路は、天候の厳しい冬季間、航海途絶し、千島諸
 島の食糧欠乏するため、北海道庁は補助金を出し、試航
 者を募っていた。
 しかし、応募者は無かった・・そこで、日本郵船の創業
 時の会社・三菱会社に対し花咲港~択捉島単冠湾(ヒト
 カツプ)の冬季航海が交渉された。
 そこで、三菱会社は、損益にかかわらず就航したいとし、
 補助金1300円をもって、1892年(明治25年)2月、播磨丸
 (677トン)にて試航し、成功した。
 そして、引継き就航した。
 根室は、日本の領土のオホーツク沿岸地区、並びに、千
 島諸島の中心基地となり、海産物の一大集散地として大
 正末期頃まで釧路を凌いだ。
 また、日本郵船は、北海道より日本領土の樺太に渡る航
 路を開始した。
・大垣停車場構内に、機関車庫が設置された。
・横浜駅に貨物ホームが新設された。
.
1892年、衣:
・雪駄が芸人、洒落者の間に大流行し、また、女物のしゃ
 れた下駄も流行る。
・襟巻に毛糸製品が多くなる(年末から)
・ゴム細工の花かんざしが現る。
・大坂の森田利兵衛がカバン類の口金製造を始めた。
・アメリカからワニ革製品が輸入された。
.
1892年、食:
・アサヒビールが発売された(大阪麦酒会社)
 アサヒビールの創業は1889年。
 鳥井駒吉が大阪府大阪市で「大阪麦酒会社」設立。
 1891年、大阪府島下郡吹田村(現・吹田市)に「吹田村
 醸造所」竣工。
 そして、1892年、「アサヒビール」発売。
 設立当初は「朝日麦酒」ではなく「旭麦酒」と表記され
 ていた。
 1884年(明治17年)からビールを製造していた、小西儀
 助商店からブランド名を譲ってもらったとの説がある。
 大阪麦酒のブランド名「旭」は、1884年(明治17年)から
 大阪で朝日ビールを発売していた薬種問屋の小西儀助が、
 1888年(明治21年)に、鳥井駒吉らの計画を知ると、自
 らビール事業から手を引くことを決め、そのブランド「
 朝日」を設立予定の大阪麦酒に譲り、同社はこれを「旭」
 として引き継いだ、ともいわれている。
 また、小西儀助が大阪麦酒の役人に「もし御入用やった
 らうちの商標を使うておくれやす」と言ったという、大
 日本麦酒大阪支店の大森寅之進の聞書による記録もある。
・安価な支那卵の輸入が始り、内地養鶏は大打撃を受ける。
 支那(当時の中国)からの卵の輸入量は、1921年には、
 日本の国内消費量の32パーセントを占めるまでになった。
 日本政府は、「鶏卵自給増産計画」を立て、官民一体と
 なって取り組んだ。
 その結果、輸入はゼロとなり、国産卵の輸出ができるま
 でになった。
 今・現在は、液卵・粉卵の形で、アメリカ・オランダか
 ら輸入され、殻付き卵の換算で5%前後となっている。
 輸入関税は20%前後。
 (日本の鶏卵業者は善戦している・・しかし、関税がな
 くなれば??となる・・TPPは消えたようだが?)
.
1892年、住:
・東京浅草に陶器製の標札を考案、専売特許をとるものあ
 り、この年、陶器製標札発売。
・箱根電燈所が開業した。
 この年、関東地方初の水力発電所である湯本湯端発電所
 で運転を開始した。
 発電機は三吉電機製で、この発電所は、一時、三吉正一
 の個人所有であった。
 三吉 正一(みよし しょういち、 1853年12月(嘉永6年
 11月)~1906年(明治39年)3月24日)は、明治中期の日
 本の技術者で、日本初の電気機器製造会社である三吉電
 機工場を経営し、電気機器の国産化を図った。
.
1892年、報道:
・新聞創刊、萬朝報(11月1日)を黒岩涙香が創刊した。
 萬朝報(よろずちょうほう)は、明治・大正期の有力新
 聞で・・、
 紙名は「よろず重宝」のシャレから来ている。
 1892年(明治25年)11月1日、都新聞(後の東京新聞)を
 辞した黒岩涙香(るいこう)が東京で創刊した日刊紙。
 「簡単、明瞭(めいりょう)、痛快」をモットーに、黒岩
 の翻案小説、名士の私行摘発(蓄妾(ちくしょう、妾を囲
 っておくこと)実例暴露など)と、キャンペーン(相馬家
 の御家騒動、蓮門教攻撃など)で大衆の関心を集める、
 日本におけるゴシップ報道の先駆者・・、
 権力者のスキャンダルは執拗なまでに追及し、醜聞記事
 でも売り出した。
 「畜妾実例」では、権力者であろうと官吏であろうと妾
 を暴露し、実名年齢や妾の父親の実名職業まで記載した。
 第三面に煽情的な社会記事を取り上げたので「三面記事」
 という語を生んだ。
 低価格政策と相まって、東京第一の発行部数を獲得した。
 日露開戦の気運が高まると、内村鑑三、幸徳秋水、堺利
 彦らが非戦論を展開、注目を集めたが・・、
 1903年(明治36)秋になって、開戦気運が濃くなると「
 萬朝報」も開戦論に転向した、
 内村、幸徳、堺は10月9日社を去った(12日掲載の3名の
 「退社の辞」は有名)
 この頃から、黒岩は、「英文欄」を新設、趣味、文芸、
 科学、思想記事など豊富に掲載したため、学生間に人気
 を集め、読者を増やした。
 大正に入り、憲政擁護運動、シーメンス事件などで反藩
 閥の鋭い論調を張るが・・、
 1920年(大正9)10月、黒岩が亡くなり凋落の道へ、
 1923年9月の関東大震災で被災してから急速に勢威を失い、
 昭和に入ると経営者の交替、社内の分裂相次ぎ、
 1940年(昭和15年)10月、戦時新聞整備計画もあって廃
 刊された。
・議員たち、大臣や役所の悪口は言いたいほうだい。自分
 が言われると告訴とは、なんだ(東京日日)
・衆議院、侮辱する記事を掲載したと、東京日日新聞の告
 訴を決議する。
・政府、予戒令を公布。粗暴の言論、集会の妨害などを禁
 ず(官報)
・民党は、「民力休養・経費節減」を唱え、軍艦建造費な
 どを削除しようとした。
 政府は解散を命じた。
 しかし、この年・2月15日の第2回総選挙で、民党が過半
 数を占める結果となった。
 8月8日、第2次伊藤内閣が成立した。
.
1892年、歌・流行・世相:
・演劇:市村座が新築開場した。
 下谷二長町(にちょうまち)に移転した。
 1932年(昭和7年)5月、焼失して廃座となった。
 1634年(寛永11年)に、村山座として日本橋葺屋(ふき
 や)町に創立された歌舞伎劇場で江戸三座の一つ。
 この座が大道具や絵看板などを始めたと言われている。
 6世尾上菊五郎・初世中村吉右衛門らの若手が時代を掴ん
 だ。
・演劇:三遊亭円朝、「塩原多助一代記」初演
・演劇:三遊亭円朝、「怪談・牡丹灯籠」初演
 (さんゆうていえんちょう、1839年~1900年・明治33年)
 落語家。江戸生まれの江戸人。
 近代落語の祖と言われる。父は落語家の橘屋円太郎。
 師の円生の厳しいいじめが刺激となり、創作を志し、第
 1作「累ケ淵後日の怪談」を高座にかけた。
 1884年(明治17年)、速記術普及のため「怪談牡丹灯籠」
 を速記本として刊行し、以後、次々と円朝の口演したも
 のが活字となって普及し、多くの家庭で読まれ、言文一
 致体小説へ影響を与えた。
 最後は、芸境も高みに達したが、1891年(明治24年)、
 席亭の横暴に抗議して寄席より退いた。
 一時、復帰したが進行性麻痺と続発性脳髄炎のため・・
 61歳で明治33年・1900年に没す。
・帝國通信社が創立された。
 1892年5月に創立された、改進党系の通信社。
 この頃、群小通信社が乱立し、厳しい競争に晒された。
 1929年3月に破産宣告を受けた。
・読売新聞の美人読者投票(十六名媛)
 1892年3月18日、読者投票による「十六名媛」を発表した。
 村松志保子女史は選ばれた一人・・トップ当選だった。
 現在も誇るべき明治の自立した助産師だった。
 女学校・産婆学校を設立した。
 1856年(安政3年)沼田藩御殿医の長女として生まれ、
 男兄弟三人は幼くして亡くなり、女医になる決心をした。
 沼田藩別邸(墨田区)で、父に東洋医学を学び、針術を
 修め、医術の研鑽を深めた。
 安生堂産婆学校を設立し、豊かな教養を身につけた産婆
 育成に尽力し、
 また、安生堂医院では、貧困者に無料施療入院を実施し、
 母子のために保健福祉的な慈善活動を展開した。
・正岡子規、「獺祭書屋俳話」
 獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)は、子規の俳句
 論で士気の俳句革新運動の端緒となった俳論・・先日、
 38年ぶりに対馬で日本カワウソが発見されたが、
 獺祭は、カワウソ(獺)が、捕らえた魚を供物に並べ先
 祖を祭る様を指し、カワウソは捕らえた魚を川岸に並べ
 る習性があり、これを祭儀になぞらえた。
  転じて多くの書物を調べ、引用する人の様を指し、子規
 の命日である9月19日を獺祭忌と呼ぶ。
・森鴎外・小金井喜美子、「美奈和集」
 森鴎外の作品集(森鷗外作・訳)。1892年刊。
 小説「うたかたの記」「舞姫」「文づかひ」の三部作の
 ほか、初期翻訳作品、付録に新声社訳「於母影」を収録
 している。
 後に改定して改訂版は「水沫(みなわ)集」と改題した。
 小金井喜美子(1870年~1956年)は、翻訳家・小説家で
 随筆家・歌人。
 島根県津和野の生まれ、本名はキミ。
 森鴎外の妹で、1881年、東京女子師範付属女学校卒業後、
 東大人類学教授・小金井良精(よしきよ)と結婚。
 翌年、鴎外らとともに訳詩集「於面影」を発表した。
 レールモントフの「浴泉記」の翻訳で知られ、著「森鴎
 外の系族」「鴎外の思ひ出」などがある。
・中江兆民、「四民の目ざまし」
 中江兆民(1847年~1901年)は、明治期の思想家で民権
 運動家だった。土佐藩の足軽の子として生まれ・・年少
 より学に親しみ・・、
 1865年(18歳)、藩給費生として長崎に留学した。ここ
 でフランス学に接し、土佐藩の坂本龍馬に私淑(ししゅ
 く、尊敬する人に直接には教えが受けられないが、その
 人を模範として慕い、学ぶこと)した。
 1867年(20歳)、江戸に遊学し、フランス学を習得した。
 1868年(21歳)、箕作麟祥の塾に学び、大学南校(東京大
 学)でフランス学を講義した。
 1871年(24歳)で、岩倉遣外使節団同行の司法省派遣留
 学生になり、岩倉使節団とともに渡欧し、フランス留学
 で哲学、文学、史学を学んだ。
 1874年(27歳)帰国し、東京番町に仏学塾を開く。
 1875年(28歳)東京外国語学校校長、まもなく辞職し、
 元老院権少(ごんのしょう)書記官をつとめるが、
 1877年(30歳)、元老院を辞した。
 以後、在野で活躍。
 1881年(34歳)、西園寺公望(きんもち)主宰の「東洋自
 由新聞」を創刊し、主筆となった(政府の干渉で廃刊)。
 1882年(35歳)、仏学塾より雑誌『政理叢談』を刊行し、
 西欧近代思想を紹介した。
 ルソー著『社会契約論』の翻訳し、また、注解した「民
 約訳解」の連載は政治青年層に大きな影響を与え、「東
 洋のルソー」と渾名(あだな)された。
 1886年(39歳)、大同団結運動に参加した。
 1887年(40歳)、『三酔人経綸問答』で鋭い政治分析、
 展望を試みた。
 三大事件建白運動に関与、封事を執筆、
 1887年12月(40歳)、保安条例で東京を追放され、大阪
 で『東雲(しののめ)新聞』を創刊して主筆。反政府、
 自由民権の論陣をはる。
 1890年7月(43歳)、第1回衆議院議員総選挙で当選し、
 衆議院議員となり、立憲自由党に加盟、『立憲自由党新
 聞』の主筆となる。
 第一議会の予算問題で、自由党土佐派が妥協したのを憤
 慨し議員を辞職(1891年・44歳)、雑誌『自由平等経綸』
 を創刊する。
 1891年7月(44歳)、小樽の『北門新報』に招かれ、北海
 道の小樽へ移り、小樽初の新聞である『北門新報』を創
 刊して主筆を務める。
 『北門新報』の社主は金子元三郎で、金子は日本へ亡命
 していた朝鮮人革命家・金玉均を介して兆民を紹介され
 たとする説もある。
 1892年(45歳)、『北門新報』は札幌へ進出しているが、
 兆民は『北門新報』を退社すると高知へ赴く。
 1892年1月17日(45歳)、母の柳が死去している。
 1892年2月15日(45歳)、衆議院が解散され、第2回衆議
 院議員総選挙となり、兆民は東京へ向かうと、仏学塾出
 身で長野県五区から立候補した小山久之助・長野県三区
 から立候補した堀内賢郎を応援するため長野県まで赴い
 ている。
 なお、第二回総選挙では小山・堀内両人とも落選した。
 1893年(46歳)、兆民は札幌で「高知屋」を開業する。
 1893年(46歳)大阪に戻り、実業に手を出すが・・結果
 的に実業は失敗した。
 1897年(50歳)、国民党を結成したが不調。
 1900年(53歳)、国民同盟会に参加。
 1901年(54歳)、食道がんを発病、病床で合理主義・唯
 物論の中江哲学の骨格を記した随想集『一年有半』『続
 一年有半』を執筆し、遺稿となった。
 1901年12月13日死去。55歳。
 <著作>『中江兆民全集』全18巻
 <参考文献>桑原武夫編『中江兆民の研究』
・竹越与三郎、「新日本史」
 (たかごしよさぶろう、1865年~1950年、85歳)政治家、
 歴史家。
 「国民新聞」などの記者として活躍。
 西園寺公望らに知られ、雑誌「世界之日本」主筆。
 1902年(37歳)以後、衆議院議員
 1923年(58歳)、貴族院議員
 1940年(75歳)、枢密顧問官と、政友会代議士・枢密顧
 問官などを歴任した。
 著「新日本史」「日本経済史」「二千五百年史」など。
・ 「即興詩人」(作:アンデルセン/訳:森鴎外)
 デンマークの作家・アンデルセンの長編小説。
 アンデルセンが、1833年~1834年のイタリア旅行中、そ
 の芸術と風景に触れ、情熱と市場を掻き立てられ、帰国
 してから書き上げられた(1835年刊)
 自伝的要素を多く持ち、ローマで生まれた主人公アント
 ニオが苦しい修業時代を経て詩人となる。
 即興詩を得意の芸として諸国を放浪する詩人の恋愛と友
 情と成功の物語。
 森鴎外による翻訳が《しからみ草紙》《めさまし草》に
 連載され(1892年~1901年)、その訳文自体が明治浪漫
 主義の代表作とされている。
・指原安三、「明治政史」
 (さしはら やすぞう、1850年~1903年、53歳)、新聞記者、
 評論家、漢学者。
 豊後国臼杵藩(大分県)藩士の子に生まれる。
 幼少時に父を失い、苦学する。
 大阪府巡査を経て上京し、二松学舎、同人社に学び、共
 立学舎幹事となり、漢文を教授。
 機関誌『保守新論』の編集長を務め、国権論を唱えた。
 「明治政史」を刊行した後には、陸軍幼年学校、陸軍学
 校教官を務めた。
・古在由直、「足尾銅山鉱毒研究」
 (こざいよしなお、1864年~1934年、70歳)農芸化学者
 京都出身の東京帝国大学農科大学教授で、後に、東京帝
 国大学総長となった。
 農芸化学的研究のほか、足尾鉱毒事件の学術的調査を行
 い、銅山の銅が土壌を侵していることを証明した。
 助教授時代からの足尾銅山の鉱毒の調査によって、被害
 の原因が銅山にあることを追及し続けた。
 足尾鉱毒事件の発生初期から、鉱毒被害農民の救済の懇
 願と依頼により、同僚の長岡宗好とともに、1890年(26
 歳)初めて、被害原因を科学的に分析し、河水中から銅
 の化合物を検出した。
 (結果は1892年・28歳「足尾銅山鉱毒研究」として「農学
 会会報」16号に発表した)
 1895年(31歳)、ドイツに留学し、牛乳腐敗菌の研究で
 ドイツ学界に名声を得た。
 1899年(35歳)、農学博士
 1900年(36歳)、帰国し、東京帝国大学農科大学教授と
 なる。
 発酵化学の研究で目ざましい業績を残した。
・流行歌:「敵は幾万ありとても」
 敵(てき)は幾万(いくまん)ありとても
 すべて烏合(うごう)の勢(せい)なるぞ
 烏合の勢にあらずとも
 味方(みかた)に正しき道理(どうり)あり
 邪(じゃ)はそれ正(せい)に勝(か)ちがたく
 直(ちょく)は曲(きょく)にぞ勝栗(かちぐり)の
 堅き心(こころ)の一徹(いってつ)は
 石(いし)に矢(や)の立(た)つためしあり
 石に立つ矢のためしあり
 などて恐(おそ)るる事(こと)やある
 などてたゆとう事やある
 小山作之助作曲、
 小山作之助は、1864年に、新潟県(越後潟町村)生まれ、
 1887年(明治20年、23歳)、音楽取調掛(東京芸大音楽学
 部)全科卒業。
 東京府伝習所、東京師範学校、東京盲唖学校などを歴任
 して
 1892年(明治25年、28歳)東京音楽学校助教授
 1897年(明治30年、33歳)から1905年(明治38年、41歳)
 同校教授。
 後、同声会理事長、日本音楽協会初代会長、日本楽器会
 社顧問、文部省検定図書調査委員を務め、後進への面倒
 見がよい先生だった。
 「夏は来ぬ」の作曲家でもある。
・流行歌:「元寇」
 一、(修猷健児)
 四百余州(しひゃくよしゅう)を挙(こぞ)る
 十万余騎の敵
 国難ここに見る
 弘安四年夏の頃
 なんぞ怖れんわれに
 修猷健児あり
 正義武断の名
 一喝して世に示す
 二、(多々良浜)
 多々良浜辺の戎夷(えみし)
 そは何 蒙古勢
 傲慢無礼もの
 倶(とも)に天を戴かず
 いでや進みて忠義に
 鍛えし我が腕(かいな)
 ここぞ国のため
 日本刀を試しみん
 ・・三番、四番は略す・・
 (参考)作詞者と作曲者:永井建子
     永井建子は、日本陸軍軍楽隊士官(男性)
・流行歌:「法界節」
 春風に、庭に綻ぶ梅の花。
 鶯、止まれや。
 あの枝に。
 ささ、ホーカイ。
 そちが囀りゃ、梅が物言う心地する。
 ホーカイ、ホーカイ
 (参考)法界節(ほうかいぶし)は、明治から昭和初期
   にかけて法界屋が門付で、月琴などを演奏しつつ歌
   った曲。
   明治20年代を代表する流行歌だった。
   「ホーカイ」の意味は不明。
   原曲「九連環」の歌詞(中国語)の「不開」という字
   句をふまえるという説もある。
   「法界」は当て字。
・流行歌:「チャクライ節」
 儘になるなら チャンカンポン
 儘になるなら チャンカンポン
 桜の花に レンポンポン
 松の操が チュクライシュ
 松の操が チュクライシュ
 ちょいと持たせたい バラバラボン・・以下、略・・
 (参考)添田唖蝉坊・チャクライ武士/ 土取利行(唄・
    演奏)YouTube
・流行・趣味:メジロ、チャボの飼育
・流行:芸人の雪駄 
 (参考)雪駄:せった、底に皮をはったぞうり。
   後部に鉄片を打ったものもある。席駄(せきだ)。
・流行:パナマ帽子が流行
 (参考)パナマ帽(ぱなまぼう)は、パナマソウの葉を
   細く裂いた紐で作られる、夏用のつば付の帽子。
   日本では戦前、紳士用の正装としてカンカン帽と共
   に夏に愛用されていた。
・流行・生活:美白化粧水、石鹸がバカ売れ
・流行語:菊五郎の「…でガンス」という言い回しが流行
・流行:女義太夫綾之助が人気
 「おんなぎだゆう」の太夫の竹本綾之助は、大阪生まれ
 で、本名石井園(その)。
 10歳で東京・文楽(ぶんらく)座に玉之助(たまのすけ)の
 名で出演。
 稚児髷(ちごまげ)に振袖(ふりそで)姿の愛くるしい容姿
 と達者な語り口で満都の人気を集めた。
 初世竹本綾瀬太夫に師事すると同時に綾之助と改名、女
 義太夫全盛時代のスターであった。
 1898年(明治31年)貿易商の石井健太と結婚、いったん
 引退したが、1908年(明治41年)にカムバック。
 1910年、女義太夫再検討を図って藤菱(ふじびし)会を組
 織したが、
 1927年(昭和2年)秋をもって演奏活動を中止した。
.
  (今日の言葉)
.
 題:池上彰は、巧妙な嘘を言うから、注意を要する・・
.
2世紀、キリスト教で、神が以前より意識され出した。
  そして、神との契約ということが意識され出した。
  そして、最近、キリスト教は、『旧約聖書』をユダヤ
 教の聖書だと言い出した。
  そこには、旧約聖書を積極的にキリスト教の聖書とい
 う言い方をしない・・という意識がある。
  あまりにも、キリスト教の旧約聖書が、近代の進んだ
 社会の理解に当てはまらない・・そぐわないからで・・
  そこで・・
  キリスト教の聖書は、『旧約聖書と新約聖書だ』と、
 かつて言っていた様に言わなくなった。
  旧約聖書が、「都合が悪い聖書」なので捨てようとし
 ている。
  そのうち、「新約聖書も都合が悪くなって捨てるだろ
 う」・・が・・、
  どっちみち、キリスト教は、どうあろうと、論理的に
 成立しない宗教なのだ・・、
  その根幹の宗教論理も、その様な類いなのだ。
  種々の解説書には、また、種々の解説欄には・・、
 「キリスト教の聖書は、旧約聖書と新約聖書からなる」
 と書かれているが、そのうち、この説明は変わることに
 なるだろう。 
  「『旧約』『新約』の『約』とは、神との契約のこと
 で、2世紀頃からキリスト教徒の間で呼ばれ始めた」と
 説明されているが、『旧約』は無くなるだろう。
.
1924年、杉原千畝が、ロシア人と結婚した。
  杉原千畝は、ユダヤ人の方々へビザを発給したと美化
 されているが、
  しかし、杉原千畝には、「ビザを発給する資格が無か
 った」。
  それと、日本は、杉原だけでなく、どこの国の日本大
 使館でも、「ユダヤ人の方々へ、ビザの発給をしていた」。
  何も、杉原千畝だけが、讃美される由縁はない。
  日本のすべてが、「亡国の民」としてユダヤ人の方々
 を強く保護した。
  また、日露戦争で恩義あるユダヤ人の方々へその恩返
 しをした。
  しかし、池上彰は、「日本は、杉原千畝にビザ発給す
 るなと言った」と、テレビで解説だと称して発言した。
  国が、「ビザ発給の資格のない杉原千畝」へ、その様
 な行為は、君には出来ない行為だと言うのは当たり前な
 のである。
  これをキリスト教も利用した。
  キリスト教は卑劣だった、「日本は、三国同盟をドイ
 ツとしていたから、日本は、ドイツと同様に、ビザ発給
 をしなかった」と『二重の嘘』を言った。
 (キリスト教は、杉原千畝がキリスト教徒だとして、嘘
 をついてまでして美化をしたかった)。
  日本は、ドイツのナチスから共同行動をとってくれと
 言われたが、「きっぱりと断り、否定して」、ユダヤ人
 の方々へ、ビザを発給して助けていた。
  池上彰は卑劣である、この様な状況をしっかり説明し
 ないで、日本を貶める言い方をした。
  資格のない杉原千畝の「個人的問題」なのである。
  また、杉原千畝は、ロシア女性と結婚して、このロシ
 ア女性の父親が、ロシア政府の要職に居たことから、情
 報を得ようとした、つまり、杉原千畝は日本のスパイで
 あった。
  杉原千畝は外交官ではない、スパイの職務を持った『
 外務省職員』だった。
  外務省職員で、外交官ではないからビザの発給は出来
 ない立場だった。
  ロシアは、後に、この杉原千畝の本性(スパイ)を知
 って、杉原千畝のロシア入国を拒否するようになった。
  そこで、任務地がリトアニアに代わったのである。
  池上彰は、国民の視聴者の方々へ、間違った発言をし、
 嘘の発言をして、誤解を与えた・・その発言は、テレビ
 で謝罪し、訂正せよ!
  因みに、杉原千畝のロシアでの妻は、杉原千畝にスパ
 イされていた立場ではなく・・、逆に、杉原千畝が、ス
 パイされていた・・という、二重スパイだと言われてい
 る。
.
1945年10月9日、朝日、毎日、読売、東京、日本産業新聞へ
 の事前検閲が開始された。
  これらのGHQによる卑劣な行為は、個人の手紙や電
 信電話にまでおよび・・、
  また、検閲は、隠匿され、日本国憲法施行下にあって
 も強力に実行された。
  卑劣なGHQで・・山本武利は、手紙に進駐軍に残虐
 行為を受けたと書いた人物が、密かにGHQに逮捕され、
 軍事裁判にかけられたという事実を明らかにしている。
 (ただし、検閲に協力した人々の証言がほとんどないた
 めその実態には未解明な部分も多い)
  郵政歴史年表の昭和27年(サンフランシスコ条約の発
 効に伴い日本が主権を回復した年)に、「連合軍による
 郵便物等の検閲廃止」という記載が残されている事から、
 卑劣にも、郵便物にまで検閲を受けていた事がわかる。
  また、江藤淳は、『閉された言語空間、占領軍の検閲
 と戦後日本』という本において、GHQの政策として、
 検閲とプロパガンダ(嘘宣伝)が並立されており、プロ
 パガンダの役割を民間情報教育局が担ったと指摘してい
 る。
.
2009年真夏、民主党は、衆議院議員選挙で地滑り的な勝利
 を収めた。
  そして、「コンクリートから人へ」という・・何か聞
 こえの良い、人当たりの良い、優しそうな・・、
  そして、何か心地のよさそうな「ワンフレーズ表題」
 を掲げて・・政権交代した・・ムードに酔わされた国民
 が居た。
  しかし、その結果を先に記せば、「民主党政権の3年間
 は苦痛の極みだった」・・、
  1年ごとに首相が変わり、わずか3年という短期に合計
 3人の首相の顔が登場した。
  苦しい長い3年間だった・・民主党政治は失敗だった。
  鳩山首相が訪米した時のことが思い出されるが、世界
 が注視するオバマ大統領との記者会見で・・、
  鳩山首相が、「トラスト・ミー Trust me(私を信じて
 くれ)」と言ったとき、オバマ大統領は、一瞬、凍りつ
 き、嫌な顔をし、きまづい雰囲気の両首脳の記者会見が、
 なお一層、程度の低い暗い状況にさらされた。
  世界の記者たちが居並ぶ、眼の前の壇上で、オバマ大
 統領と並ぶ日本の鳩山首相が、何か言いたそうに、もじ
 もじしたから、オバマ大統領も何か言いたいのだろうな
 と、身体を傾け、耳を鳩山首相に近づけた・・その時に
 出た鳩山首相の言葉だった・・「私を信じてくれ」・・。
  その時のオバマ大統領の呆(あき)れた顔が、世界の
 記者たちの目にする所となった・・人間的に完全に「ア
 ウト」の瞬間だった。
  民主党政権がやったことは、結局、財源もないのに無
 理に、「高校を無償化にする」とか、「就学支援金支給」
 とか、甘言の目白押しだった。
  しかし、この民主党の政権になる前の麻生政権は・・、
 2009年度の補正予算で、全国5000棟の小中学校の耐震化
 を目的に2800億円を計上していた。
  しかし、民主党政権に代わり・・この民主党政権は、
 「事業仕分け」なる名の下に、この麻生政権の政策を台
 無しにした、有名無実と化した。
  「コンクリートから人へ」のとばっちりを受けた。
  その結果は悲惨だった。
  それを表わす証拠が、つい先日の2017年8月6日の読売
 新聞が報じていた。
  「小中学校の6割が、避難所に使えない」と報じている。
  つまり、それは、『老朽化対策を実施するのが遅れた
 から』と指摘していた。
  民主党政権が、止めて・・やらなかったからである。
  記事は・・、
  「全国の公立小中学校の校舎や体育館の約6割が、今後
 15年間で、災害時の避難所としては使用できなくなる可
 能性があることが分かった。
  老朽化への対応が遅れているためだが、このところの
 地震や豪雨災害などで避難所の使用頻度は上がっており、
 政府や自治体の対応が急務になっている」・・と報じて
 いる。
  しかし、この民主党政権より強い緊縮政策をとるとい
 う石破氏・・
  景気は縮(ちぢ)んで・・景気が後退し・・不景気が
 来るだろう・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)545E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年12月~1891年12月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)545E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年12月~1891年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年12月24日、議会本会議で、私設鉄道買収法案が否決
 された。
  欧米列強に追い付きたいという日本には必要だとして
 建議された私設鉄道買収法案が否決された。
  将来の日本の幹線鉄道路線を決定するため・・、
  政府は、そのための長期計画を立案し、着実に建設を
 行なうための法律、および、資金を得るための公債発行
 の法律が必要・・、
  そして、その幹線鉄道網の一環となる私設鉄道を、政
 府が買収することとした構想の一つが否決された。
1891年12月25日、日本初の衆議院解散。
  民党主張の予算案削減案が可決され、松方内閣は、衆
 議院を解散した(最初の議会解散が断行された)
1891年12月25日、衆議院が解散となったため、鉄道公債法
 案が廃案となった。
1891年12月28日、大隈重信が、立憲改進党に再入党し、代
 議士総会長に就いた。
1891年12月29日、エジソンが、電気的な信号伝送(ラジオ)
 に関する米国特許を取得した。
  因みに、現在、放送されているラジオ方式は、この後、
 また別な発明家が発明したもの。
1891年12月30日、鳥取県淀江町大火(2600戸焼失)
1891年12月30日、文武判任官等級表公布(勅令第249号)
  判任官(はんにんかん)は、明治時代から第二次世界
 大戦敗戦までの官吏の身分上の等級をいい、属官ともい
 う。
  1869年(明治2年)官吏を勅任官、奏任官、判任官に区
 分し、ついで、
  1871年、官等一五の制を定め、三等以上を勅任、七等
 以上を奏任、以下を判任とした。
  判任官については、1886年、および、1911年(明治44
 年)の判任官官等俸給令によって詳細な規定がたてられ
 た。
  判任官は、天皇陛下が官庁に任免を委任するもので、
 高等官(勅任官、奏任官の総称)の下に置かれ、一等か
 ら四等に分けられ、各省大臣、府県知事の権限により任
 免された。
  第二次大戦敗戦後、1946年(昭和21年)公布の官吏任
 用叙級令によって三級官と改称されたが、
  1949年の人事院規則によって廃止された。
1891年12月、法制局長官・尾崎三良『鉄道国有論』刊行
  尾崎三良(おざきさぶろう、1842年3月3日~1918年10
 月13日)は、幕末~明治時代の官僚で、政治家。
  1842年(天保13年)1月22日、山城国(京都市西院)に
 尾崎盛之の第4子として生まれ、
  1862年(文久2年)三条家家臣・戸田造酒の養孫とな
 り、以後、三条実美(さねとみ)の側近としてにつかえ、
 幕末の国事に奔走する。
  特に、三条ら七卿の都落ちに従って、長州から大宰府
 まで同行したが、この時の人脈が、尾崎の官界、政界で
 の同志を形成した。
  1868年(慶応4年)、三条実美の子・公恭(きみやす)に
 したがい、イギリスに留学し、法律を中心に勉学に励ん
 だ。
  これは、後の、法制官僚としてのキャリアにつながっ
 た。
  1873年に、帰国してからは、太政官左院、法制局、参
 事院など、法令実務に携わり、井上毅と並び称された。
  一時、元老院議官に転じたが、再び、政府に入って、
  1890年、参議院議員・・、
  1891年(明治24年)、第一次松方内閣で法制局長官を
 務めた。
  1896年に、男爵を授けられたころから、実業界で尽力
 した。
  しかし、中心となって活動した京釜鉄道建設事業が政
 府主導となる1903年には、自然引退の形となった。
  1918年(大正7年)10月13日、逝去した(77歳)
 ☆:鉄道国有化に関する・・これまでの動き・・、
  日本の鉄道は、創業以来、官設官営を基本方針とした。
  これは、草創期の日本の鉄道行政を頂点に立って牽引
 した井上勝が、熱心な鉄道国有論者であったことが大き
 かった。
  しかし、政府は、財政窮乏により、鉄道をすべてを官
 設官営で建設運営することは不可能で、やむなく、民営
 鉄道に幹線鉄道建設の一部を委ねざるを得ないことにな
 ってしまった。
  そのため、井上は、機会あるごとに、自説の鉄道国有
 論と私設鉄道買収を説き、鉄道国有化法案も、再三、国
 会に提出されたが、井上が退官する1893年(明治26年)
 までにそれが可決されることはなかった。
  政府の財政を窮乏させる原因となったのは、西南戦争
 による過大な戦費支出とともに、清国の軍事費投入の過
 大化に対処する必要性があった。
  これにより、鉄道建設のための予算がなくなり、それ
 までに完成していた京浜間、京阪神間鉄道を民間に売却
 して、その代金により新線建設を行なおうという案まで
 出るほどだった。
  鉄道網速成の方針と、財政窮乏のジレンマが、幹線鉄
 道建設の一部を民間に委ねるという方針転換をさせるこ
 とになった。
  こうして、1881年(明治14年)、日本初の私設鉄道、
 日本鉄道が設立された。
  1883年(明治16年)、井上は、工部卿宛てに意見書「
 私設鉄道に関する論旨」を提出し、この中で、鉄道の用
 途は国道と同様であって、これを民営に委ねるべきでな
 いことを原則とし、民営に委ねた場合に発生する、無用
 の競争や改良努力の怠慢など8項目の弊害を挙げた。
  一方、政府の手厚い保護を受けていた日本鉄道が、当
 然の好調な決算を発表すると、各地で、私設鉄道設立ブ
 ームが起きた。
  1884年(明治17年)阪堺鉄道や、
  1887年(明治20年)の伊予鉄道を皮切りに、
  両毛鉄道、山陽鉄道、水戸鉄道(初代)、九州鉄道(
 初代)、大阪鉄道(初代)などが認可され、
  それまでの官設官営の原則が崩れて、日本の幹線鉄道
 は、官設・私設の両方により建設されることとなった。
  しかし、中には無謀な計画や投資を誘発したものもあ
 った。
  これは、1890年(明治23年)の経済恐慌となってはね
 返り、建設工事の停滞や株式払込みの遅滞、既設私設鉄
 道の経営の悪化を招いた。
  この状況は間もなく回復したが、このような状況の中
 で、1891年(明治24年)、井上は、「鉄道政略に関する
 議」を上申した。
  この上申書で、従来からの鉄道国有論に加えて、既設
 私設鉄道の買収を前面に押し出した。
  そのための私設鉄道買収法の制定が必要であると説い
 た。
  この上申書を契機として、政府は、再三、鉄道公債法
 と私設鉄道買収法を帝国議会に提出したが、いずれも可
 決されず。
  1892年(明治25年)に、買収法案に大幅な修正を加え
 た鉄道敷設法が制定された。
  しかし、これは、予定線建設のために必要がある場合
 のみ、私設鉄道の買収ができ、さらに、議会の協賛を必
 要とする、将来の国有化の可能性をにおわせながらも、
 実際は、予定線の民間による建設を容認するなど、議会
 を構成する私設鉄道の株主でもある華族や資本家、地主
 たちによって骨抜きになった。
  これに憤慨した井上は、翌年・1893年、退官した。
  井上の鉄道国有論に対抗して鉄道民営論を唱えたのは、
 渋沢栄一や田口卯吉、中上川彦次郎、三井や三菱などの
 財界の有力者たちであった。
  資本主義の発展にともなって、鉄道経営が大きな利益
 をもたらすとともに、産業と鉄道との間に密接な関連性
 があることをよく認識された。
  渋沢らが関わる東京経済学協会が1891年に発表した「
 鉄道調査報告書」に掲載された佐分利一嗣の論文では、
 鉄道国有化論に対する反証を一々あげて論じ、「将来の
 鉄道は、私設民営たるべし」という結論を導いた。
  続いて、渋沢らは、1894年(明治27年)に、官設鉄道
 払下計画を立案し、一挙に、理想とする鉄道民営を実現
 させたいとしたが、日清戦争の勃発にともない、計画は
 頓挫した。
  その後、鉄道国有化が政治課題となるのは、1899年(
 明治32年)だった。
  衆議院に「鉄道国有に関する建議案」が提出され、可
 決された。
  調査期間として、首相直属の鉄道国有調査会が設置さ
 れた。
  そして、その報告に基づき、翌年・1900年、鉄道国有
 法案、および、私設鉄道買収法案が帝国議会に提出され
 たが、これも議決されることはなかった。
1891年12月、春木座の新築落成して、四日より開場。
 八百蔵、猿之助、勘五郎、芝鶴らが出演。
  東京都文京区本郷3-14 に本郷座跡というのがある。
  本郷座(ほんごうざ)は、明治初期から戦前昭和まで
 あった劇場で、はじめ奥田座(おくだざ)と言い、次い
 で、春木座(はるきざ)といった。
  本郷座は、1873年(明治6年)7月11日、本郷の地主・
 奥田某が開場させた。
  そして、1876年(明治9年)に、所在地の名を取って
 春木座と改名し、主に歌舞伎を上演し、
  1884年(明治17年)頃には、九代目市川團十郎や五代
 目尾上菊五郎らが出演して活況を呈した。
  1885年(明治18年)から1886年(明治19年)にかけて、
 三田村熊吉の鳥熊芝居を上演した。
  1890年(明治23年)に、本郷大火で類焼した。
  1891年の翌年に、新築開場したが、
  1898年(明治31年)に、また類焼してしまった。
  そして、1899年のその翌年に、再築開場している。
  回り舞台や花道のある大劇場であり、様々な芸能の画
 期となる公演を開いた。
  この明治、大正時代の演劇の拠点になった所は、1902
 年以降は、区名を採って本郷座と改称し、これ以後は、
 新派の川上音二郎一座がハムレットを演じ、盛況を極め
 た。
  新派全盛の原動力となった。
  下町と山の手を結ぶ立地の良さから、東京の六大劇場
 の一つに数えられ、繁栄した。
  しかし、第二次世界大戦の戦災で、跡形もなくなって
 しまった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国・日本・世界で利権を求める輩たち・・イギリス・アメリカ・・
.
1851年1月、太平天国の乱(たいへいてんごく、~1864年8
 月)
  清朝の中国で起こった大規模な反乱。
  洪秀全を天王とし、キリスト教的組織の太平天国によ
 って起きた乱で、卑劣なことに、2000万人も死んだ。
  この死者のほとんどが民間人という悲惨さだった。
  『長髪賊の乱』とも言われる。
  清朝軍は、イギリスの、卑劣なアヘン(麻薬)売つけ
 で、国や人民が劣化するという非人道的なアヘン戦争で
 消耗していた。
  太平天国軍を平定する力はなかった。
  太平天国軍は、膨れ上がって行った。
  いつもの様に卑劣なイギリスは、裏で絡んだ。
  イギリスは中国の銀を吸収し、手に入れていた。
  1796年~1804年の白蓮教徒(仏教・浄土教の結社)も
 関係した。
  この様な様々な流れの中から生まれた賊軍により構成
 された反乱軍だった。
  匪賊(ひぞく、集団で掠奪や暴行などを行なっていた
 山賊的な賊)も吸収されていた。
  「太平天国」は、「滅満興漢(満州族による政権・清
 朝を滅ぼし、漢民族の世にしよう、復興させよう)」を
 スローガンに掲げる反清朝の民族主義の運動であると共
 に・・、
  「天朝田畝制度」などで、平等社会の実現をめざし、
 満州族の支配と、外国貿易の開始による物価騰貴などに
 苦しむ農民・貧民の心を捉え、大勢力に成長した。
  また、太平天国内では、アヘンの吸引は禁止され、満
 州人の習俗である辮髪も否定され、封建的な纏足の風習
 などもやめることが奨励された。
  また、清朝側は、彼らを長髪族と呼んだ。
  当時は、侮蔑的な長髪族という呼称のほうが一般的で、
 太平天国という呼称が一般化したのは1930年代以降。
  キリスト教に感化していたと言われるリーダーの洪秀
 全は、王宮で女官に囲まれてすごし、次第に統治力を失
 い、若い李秀成などが、軍事面で活躍し、台頭した。
  そして、洪秀全に、かつての様な求心力がなくなり、
 翼王の石達開(せきたつかい、太平天国の指導者の一人)
 も離脱し、太平天国軍は急速に衰退して行った。
  1856年6月、アロー戦争・・、卑劣な事にイギリス・ア
 メリカ・フランス・ロシアは、甘い汁を吸いたいと、衰
 退した清国に戦争を起こした。
  そして、1860年に、清朝政府を屈服させた。
  イギリス・アメリカなどの列強は、清朝を利用し、中
 国での利権を拡大した。
  しかし、民族主義的な太平天国は、この利権獲得に対
 して危険だとするようになり、逆に、その弾圧をするよ
 うになった。
  この外国勢力の欲による離反も、太平天国を弱め、滅
 ぼした。
  アメリカ人のウォードや、イギリス人ゴードンの指導
 した常勝軍や、左宗棠の湘軍(湘勇)や李鴻章の淮軍(
 淮勇)(ともに曽国藩の部下)という郷勇の軍事力が、
 共同して、太平天国軍を攻撃するまでした。
  1864年、洪秀全が病死し、天京が陥落し、鎮圧された。
  この後に、さらに、イギリスなどは、中国を植民地化し、
 侵略した。
  アメリカも、同時に、中国の利権を求めた。
  イギリス・アメリカが植民地化した地域は、中国の大
 都市で、中国市民のの利権を排除して奪って行った。
  ユダヤ系のサッスーン財閥は、中国の利権獲得に功績
 があったと、イギリス政府からイギリス貴族に列せられ
 るほどだった。
.
1938年、中国を支援する輩たち、ソ連から毎年1300万元の
 抗日資金を供与されていた中国共産党。
  しかし、この裏には、狡猾なアメリカが居た。
  アメリカ・イギリスは、ロシア革命を援助したが(ア
 メリカ・イギリスのユダヤ財閥)、
  特に、アメリカの財閥は、ソ連から流出させた金をア
 メリカに持ち帰り、代わりに、アメリカで印刷したルー
 ブル紙幣という紙切れを、ソ連政府と人民に与えた。
  そのアメリカで印刷された紙きれの金(カネ)が、毎
 年の抗日工作費として、中国共産党に供与された。
  この事から、中国共産党は、イギリスが、中国をじゃ
 んじゃん開発して、植民地化しても、何も言わなかった。
  (今・現在は、中国が、国際通貨となった元をどんど
 ん刷って、世界中で配っている・・使っている・・工作
 している)
.
1944年11月、イギリスの植民地担当大臣モイン卿が暗殺さ
 れた・・仇(かたき)を取られた。
  イギリスの厳しい臨検で、第二次世界大戦中に、ボー
 トピープルとして海上をさ迷ったユダヤ人の方々の悲惨
 な話は、非常に多く、ごまんと溢れていた。
  その数々の卑劣な行為の中でも、「ストルマ号事件」
 は、ユダヤ人の方々の、イギリスに対する「恨みと憤り」
 を一層大きく形作った。
  1941年12月、769人のユダヤ難民を乗せ、ルーマニアを
 出港した「ストルマ号」は、イギリスによって上陸を禁
 止された。
  そして、2ヶ月以上も海上をさ迷う運命にされ・・、
 最後には、船は、沈没してしまった。
  ユダヤ人の方たちにとって、この「ストルマ号事件」
 は、イギリスの本性を如実に示す事例として、いつまで
 も忘れることの出来ない事件となった。
  ユダヤの方たちは、この復讐を誓った・・
  「目には目を」・・である。
  1944年11月、当時、カイロに来ていたイギリスの植民
 地担当大臣モイン卿は暗殺された。
  (参考)ナタン・イェリン=モル(シオニズム活動家、
     イスラエルの政治家)は、ウォルター・モイン
     (モイン卿)殺害計画をした1人だった。
      レヒ(イギリス統治領時代のパレスチナのユ
     ダヤ人地下武装組織)は、イギリスからテロリ
     スト集団とされていた。
      レヒは、1944年のカイロにおけるウォルター・
     モイン(駐カイロ英公使)の暗殺をはじめ、
      パレスチナのアラブ人やイギリス人を狙った
     攻撃を行った。
  「ストルマ号」沈没の知らせが入った時、イギリス上
 院のディヴィス卿は、怒って、「イギリス政府は、ヒト
 ラーの政策を助けているのか?」と言った。
  これに対し、クランボーン卿は、イギリス政府の名に
 おいて、次のように答えた・・、
  「この問題は、今日取り挙げない方が賢明というもの
 でしょう・・」・・と・・、
.
1945年8月、戦争が終わった時、日本の供給能力は、戦前の
 2割になっていた。
  8割が失われるという凄(すさ)まじさだった。
  日本経済は、その様な状況から這い上がった。
  しかし、その様な日本に対して・・、
  アメリカ主導のGHQは、なかなか発電所の新設をさ
 せなかった。
  日本の復興・復旧のためには、何より電力回復が必要
 だったのにである。
  アメリカは、日本の復興の足を引っ張った。
.
1945年9月4日、アメリカ軍の進駐によって、神奈川県では
 女学校を休校にすることを指示した。
  (破廉恥な強姦行為を恐れた)
  そして、アメリカの戦後占領政策が始まって行くが・・、
  このアメリカの戦後政策の目指したものは、日本を属
 国(衛星国)とし・・、
  日本を、アメリカの世界支配システムに組み込むこと
 だった。
  そして、半永久的に、日本列島に、アメリカの占領軍
 を配置したいということだった。
  日本を、軍事基地として、半永久的に使用することだ
 った。
  この時から約40年後の・・1983年(昭和58年)11月11
 日のことだが・・、
  日本の中曽根康弘首相は、アメリカのレーガン大統領
 夫妻を、東京の最奥の山の中、日の出村の別荘に招いた。
  何も接待するものさえない様なところで・・、
  囲炉裏の前に、イスもない所に、ただ、笑顔で座って
 いるレーガン夫妻の写真が・・印象に残る。
  その場に似つかわしくない正装姿の夫妻の姿が・・そ
 こにあった。
  その様な時、中曽根首相は、「日本は、不沈空母だ」
 と言った。
  「ゴマすり」なのだろうが・・日本は、敵からいくら
 攻撃されても「沈まない基地だ」という意味だった。
  そして、だから、その沈まない滑走路から、アメリカ
 の為に反撃する戦闘機が発進する・・その沈まない空母
 のようなものです・・と、日本のぎりぎりの貢献の姿を、
 卑屈なまでの表現の仕方で表現した・・そして、日米同
 盟の強固さを、その様な卑屈な言い方で、言った。
  敵から、叩かれても、叩かれても、沈まないという悲
 しいまでの表現で、日米同盟の存立の意義を表現した。
  その心は、卑屈な「アメリカの思う様に、思惑に沿っ
 て行きます」だった。
  日本の求める所は・・本当は・・日米の同盟関係があ
 ろうとなかろうと、日本は、最強の、最新兵器で、強固
 に守られていなければならない。
  国民の『生命』と『財産』が守られていなければなら
 ない。
  強固にヤマアラシという動物が、全身くまなくとげの
 針を出して守っている様に、日本も自力で守られておら
 ねばならない。
  最強・最新の効果ある防衛兵器によって・・、
  『この時のレーガン大統領の礼状』・・・
  1983年12月16日、親愛なる宮岡町長様
  ナンシーと私は、大変短い日本滞在に中に、日の出町
 を訪れる事が出来て大変よろこんでいます。
  私達は、暖かい歓迎を深く感謝します。
  そして、景色のよい町のすばらしい人々の思い出を長
 く忘れないでしょう。
  私達へのステキなプレゼントは、日の出の人々と私達
 が分かち合った友情の思い出となる事でしょう。
  あなたがたの町のハナミズキの木が、私達2ケ国の人々
 の間の歴史的きずなの象徴となることを祈ります。
  あなたがたの心からの好意を大変感謝します。
  ナンシーと私は、あなたとあなたのすべての町の人々
 の永遠の幸福をお祈りいたします。
            ロナルド・レーガン
  そして、『中曽根首相の手紙』・・、
  日の出町皆さん、その後お変わりございませんか。
  先日、日の出山荘で行われました私とレーガン米大統
 領との日米両国首脳会議に際しましては、町をあげての
 心からの御歓迎と御協力をいただき、本当にありがとう
 ございました。
  世界の平和・軍縮・景気浮揚など、広い範囲にわたる
 重要な会談の合間に開かれた日の出会談は、私と妻が主
 催して開いたものですが、レーガン大統領、ナンシー夫
 人ともどもたいへん喜んでくださいました。
  勿論、私とレーガン大統領の二者会談では、日米、及
 び、世界に関する重要な話し合いをいたしました。
  また、大統領ご夫妻は、日本の伝統ある美しい農家の
 たたずまいと、東京近郊外の静かな風情の中での会談は、
 日本の思い出の中でも、とりわけ印象深かったと話し、
 丁重な礼状をいただきました。
  私たちは、囲炉裏の端で、茶の湯や日本酒やお刺身の
 おもてなしをし、ちゃんちゃんこで、ご夫妻にくつろい
 でいただきました。
  私たち日本人の、ふつうの生活のありさまを知ってい
 ただきたかったからであります。
  レーガン大統領は、アメリカ人の健康の面からも日本
 食の普及に強い関心を持っておられました。
  これも、町長様はじめ、町民の皆さんの御理解とご協
 力のたまものと、改めて感謝を申し上げるものでありま
 す。
  日の出町が、この会談を機会に、日本とアメリカの友
 好の象徴の地となり、今後、益々発展されますこと、ま
 た、皆さんの末永い御多幸を心からお祈り申し上げまし
 て御礼の言葉と致します。
  昭和58年12月 内閣総理大臣 中曽根 康弘
.
1989年~1990年、日米構造協議
  アメリカと日本の間で、日米貿易不均衡の是正の名の
 下に・・これを目的として・・1989年から1990年までの
 間、計5次開催された2国間協議。
  1993年に「日米包括経済協議」と名を変え、1994年か
 らはじまる、「年次改革要望書」「日米経済調和対話」
 への流れを形成した。
  この会議に於いて、日本の担当官僚の協議者は、アメ
 リカ官僚に、上から目線で、怒鳴られたり、脅されたり
 しての協議だった。
  結局、アメリカがやりやすい様に日本を改造するとい
 う協議だった。
  そして、「年次改革要望書」「日米経済調和対話」と、
 毎年、毎年、この様なコントロールの状態が続き、アメ
 リカの属州の如くの日本にされて行った。
  アメリカという大きな国の前の日本が「そこにあった」。
  本当は・・日本は・・すべてが自前で揃(そろ)えら
 れる優秀な国なのである・・、
  その揃っているところが「貴重」であり、「優秀」な
 のだ。
  長い歴史の中で・・工夫して、また、苦労して・・で
 きるようになったからだ。
  しかし、このアメリカの圧力の様な外因も一因で、時
 代の経過の中で「匠」と称される人々が居なくなる。
  それと同時に、その匠の方たちの作る物品も無くなっ
 て・・生活の豊かさが失われて来ている。
  歴史のなかで、育まれた「貴重な日本の宝」がなくな
 っている。
  また、外国との経済協定において、外国の低廉品に駆
 逐される・・安いだけの品物に・・、
  「安いのが良いのだ」「安いものが善なのだ」という
 判断スケールを押し付けられる・・、
  長い歴史の中で、育まれ・・やっとできて来た「貴重
 な日本の伝統の技」と「その物品」が失われていく。
  この事例の様に・・自分勝手な判断規準を、押し付け
 て来る国「アメリカ」。
  すべてに供給能力のある日本が・・その揃(そろ)っ
 ているところが優秀なのにだ。
  しかし、その日本の中にあるアメリカの判断基準に合
 わないものが狙われて・・壊されていく・・潰されてい
 く・・(アメリカに合わせろ!と)、
  「日本は規制している」とか、日本の保護策を「アン・
 フェアだ」と言いつのって来る。
  日本のおいしい牛の遺伝子が盗まれたが・・、
  また、酪農に「未来の夢が見いだせなくなった」と言
 う酪農家が自殺したが・・、
  安いだけの物品が・・善であるわけが無い・・
  善の判断基準を・・「自分の好みに作って」「正義だ」
 と押し付ける・・それは間違っている・・正義では無い。
  安いだけで・・強いからと・・その強い物品だけが、
 市場を席巻し、「ある一品だけ」になるという「市場の
 寡占化」が正しい訳が無い・・
  国民の選択肢が限られる・・少ない状況が・・その様
 な姿が・・善であるわけがない・・正しい訳が無い。
  かつては・・干し肉だけを食っているカウボーイのア
 メリカの時代は・・食は・・遠い昔だけにしたい。
  無味乾燥のアメリカ文化を、金科玉条(きんかぎょく
 じょう)にするは・・背筋が寒い・・
  逆に、アメリカは・・豊かさのある日本に学べ!
.
2014年12月17日、日本政府は、アメリカのホロコーストセ
 ンターの行なっている「慰安婦プログラム」に抗議した。
  韓国・聯合ニュースは17日(2014年12月17日)、米・
 ニューヨークのホロコーストセンターが行っている慰安
 婦などに関する講義に、日本政府が「内容が歴史的事実
 と違う」などと抗議したことを伝えた。
  ニューヨークの韓国人団体関係者が明らかにした。
  ホロコーストセンターは、ニューヨーク市立大学クイ
 ーンズボロ・コミュニティ・カレッジの傘下にある。
  問題の講義は、「東アジアの歴史の定義インターンシ
 ップ」というプログラムで、学生に慰安婦や強制労働、
 民間人虐殺といった日本の戦争犯罪を伝えるほか、被害
 者へのインタビューを行い、記録として残す活動もして
 いるという。
  日本側は、先週、同記念館を訪れ、所長から講義の内
 容を聞いたうえで、「歴史的事実と違う」などと主張し
 た。
  また、ホロコーストを後世に伝える目的のセンターが、
 慰安婦問題を取り扱うようになったことにも疑問を呈し
 たという。
  記事は、在米韓国人団体関係者の「日本が米国の地方
 政府関係者と個別に接触しながら慰安婦問題を否定する
 ロビー活動を活発化している」というコメントを紹介し
 たうえで、今回の抗議を「日本が最近、米国政界を相手
 に『慰安婦ロビー』を強化していることの一環」と分析
 した。
  (参考:事実)話は、まったくこの逆なのである。
     元々、韓国・中国が、日本を貶(おとし)める
     活動を行なって来ている事に、今まで、日本は、
     沈黙を守って来た・・しかし、その韓国・中国
     の発言のあまりの酷さに、日本は、正しい発言
     をするべきだと、この様な行動となっている。
.
2017年8月9日、日本の海上自衛隊は、世界最先端で最強。
  ロシアの軍事専門家が、その様に分析した。
  日本国民の『大切な生命と財産』を守っていただいて
 いる自衛隊が、その様な優秀さだと評価されたことは喜
 ばしいが・・しかし、弱点もあると・・
  以下・・その報道・・、
  東シナ海と南シナ海に浮かぶ島の領有権を主張して、
 周辺海域における動きを活発化させている中国は、急速
 に海軍の軍備を増強している。
  中国メディア・今日頭条は8日、「ロシアの軍事専門
 家は、日本の海上自衛隊が、アジアナンバー1だと言っ
 ているが、それは本当なのか」とする記事を掲載した。
  (参考)今日頭条:Toutiao、中国で驚異的な成長をし
     ているニュースのアプリケーション。
      北京字節跳動科技(バイトダンス・テクノロ
     ジー)が運営し、このアプリの名前は、「本日
     のヘッドライン」を意味する。
      会社として記者や編集スタッフを全く抱えて
     いない。
      Toutiaoは、人工知能を活用し他のニュースサ
     イトの記事をキュレーション(インターネット
     上の情報を収集しまとめる)して、配信してい
     る。
  記事は、ロシアの軍事専門家の見立てとして・・
  「日本の海上自衛隊は、世界最先端の海上軍備を持つ
 集団の1つであり、艦船のトン数規模も世界トップレベ
 ルだ」とした。
  また、第2次世界大戦終戦後に、敗戦国として軍備開
 発が制限されるなかで、海上自衛隊は、静かに排水量2
 万トン前後のヘリ空母や、世界最先端の「こんごう」型
 護衛艦、「あたご」型護衛艦、潜水艦、ミサイル艇、揚
 陸艦、掃海艦艇など、各種の艦艇100隻あまりに加え、
 各種固定翼機、ヘリコプターなど160機あまりを有し、
 総兵力は約5万人という軍備を整えていったと伝えてい
 る。
  さらに、海上自衛隊は、対潜能力や掃海能力を非常に
 重視しており、これらが長所となっていると説明。
  日本で生産される通常動力潜水艦は、対艦、対潜能力
 が非常に際立っているとし、その筆頭格として「そうり
 ゅう」型潜水艇のスペック(仕様)について紹介した。
  記事は、そのうえで「ロシアの軍事専門家が、日本の
 海上自衛隊をアジア最強と称するのは、総合的な性能や
 戦力から見れば一理ある。
  しかし、海上自衛隊には、戦略型原子力潜水艦を持た
 ないという欠点がある。
  アジアの中で強くなるためには、大きな不足だ」と評
 した。
.
2017年8月13日、北朝鮮のミサイルは落とせないと、韓国が
 発表した。
  産経新聞、【ソウル=名村隆寛】北朝鮮が、アメリカ
 領のグアム沖に向けた中距離弾道ミサイル「火星12」
 の発射を検討する中、日米韓の3カ国が着々と迎撃態勢
 を整えている。
  韓国軍は、ミサイル防衛(MD)システムによる発射
 の探知や追跡で重大事態に対処する構え。
  韓国軍は自衛隊同様、地対空誘導弾パトリオット(P
 AC3)を保有している。
  ただ、これは、北朝鮮からの短距離ミサイル迎撃を目
 的としたものとされ、グアムを狙った弾道ミサイルの迎
 撃は困難。
  弾道ミサイルを迎撃できるのは、イージス駆逐艦が搭
 載する海上配備型迎撃ミサイル(SM3)だが、韓国海
 軍の駆逐艦にはSM3が搭載されていない。
  このため、朝鮮半島近海での迎撃は、米軍のSM3に
 頼ることになる。
  独自の衛星を保有していない韓国軍が、今回、可能な
 のは、発射直後のミサイル探知と追跡になりそうだ。
  イージス駆逐艦や早期警戒管制機E737、弾道ミサ
 イル早期警報レーダーなどを総動員してミサイルの探知
 に専念し、情報を日米に伝えるとみられる。
  韓国では、北朝鮮の弾道ミサイルに対処する米軍の最
 新鋭迎撃システム「高高度防衛ミサイル(THAAD)」
 の配備が進められている。
  配備済みは2基で、残る4基も追加配備の予定だが、
 在韓米軍に保管中。
  THAAD配備地では、市民団体の反対で中止が続い
 ていた環境影響評価のための測定が12日、行われ、
  韓国国防省は、電磁波や騒音には問題がないと明らか
 にした。
  文在寅(ムン・ジェイン)大統領の指示を受け、韓国
 軍は、4基の追加配備を発表済みだが、反対世論を前に
 足踏み状態が続いている。
.
2017年8月13日、池上彰が日本を貶(おとし)める番組(テ
 レビ東京)や、安倍首相への「悪い印象操作」をするテ
 レビ東京の「たちの悪い行為」をした・・、
  テレビ東京、午後7時54分~午後9時54分、番組名「池
 上彰の戦争を考えるSP、「特攻」とは何だったのか」
  日本だけを悪く言い過ぎる番組・・自虐番組・・、
  キリスト教に偏するNHK出身の池上彰が日本を貶め
 た。
  天皇陛下は、基本的に戦争に対して『避戦』であった。
  しかし、池上彰は、この様なことを少しも説明をしな
 いで、戦争を止めようという話に同意しなかった事例を、
 ことさら、それが、天皇陛下のお考えのすべてである様
 に印象操作し、思わせる発言をした。
  まったく、天皇陛下を貶める印象操作を行なった。
  日本国民に対して、天皇陛下の悪印象を持たせようと
 いう悪意ある発言となっている。
  この番組は、この事例の様な様々な事例を、色々取り
 上げて、日本を貶めた。
  そして、日本の悪い所だけをあげつらって、ああだ、
 こうだと、悪印象を持つように言いつのった。
  制作させたテレビ東京もそうだが、この様な番組を、
 金を出して提供する企業の『番組提供の責任』が問われ
 る番組だった。
  日本が、その様に至るアメリカについては全く触れず、
 説明せず、アメリカの非人道的な一般の民間人を、日本
 人を、大量虐殺した大都市や田舎の都市まで含めた、焼
 夷弾の無差別爆撃の悪行為などの事例は、まったく一言
 も触れなかった。
  その行動が起こされる背景のアメリカ側は、まったく
 隠すという偏した番組で、日本を貶めるだけの印象操作
 をした・・公平性の全く無い、公正さの全く無い放送。
  また、テレビ東京は、その後の番組でも、貶める印象
 操作の番組を放送をした。
  番組名「しくじり先生」は、安倍首相の一議員の時の
 事をひたすら取り上げて、安倍首相を悪く印象操作する
 番組だった。
  安倍首相の「首相の時でない一議員の写真」が出る必
 然性は、まったく無いのに、ひたすら安倍首相の顔写真
 を何度も出して、印象付けて放送した。
  この悪い行為を、安倍首相があたかもしたかの様な印
 象操作だった。
  自民党がまったく知識もない劣悪人間を国会議員選挙
 の立候補者にしたという「失敗の連続のお粗末な話」で、
 安倍首相や自民党の悪印象への印象操作した。
  この様に、次から次へとテレビ東京は、日本を貶めた
 り、安倍首相への悪の印象を持たせたりと、貶める番組
 ばかりを放送した。
  提供企業・・
  明治安田生命、ハミング(花王石鹸)、りらくる(株
 式会社りらく)、au(KDDI株式会社)、小林製薬、
 シャドーバーズ(株式会社DMM.comラボ)、朝日新聞、サ
 ントリー、千寿製薬、docomo(NTTドコモ)、ボラギノ
 ール(天藤製薬)、コカ・コーラ(日本コカ・コーラ株式
 会社)
  こんな番組を提供し、後援して、宣伝の目的が果たせ
 るのか・・??
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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(増補版)544E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年12月~1891年12月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)544E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年12月~1891年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年12月15日、ジェームズ・ネイスミス(カナダ、体育
 教育者)が、バスケットボールを考案した。
  この年、ルーサー・ギューリック体育学部長は、授業
 で学生たちに屋内競技の考案を課題として与えた。
  これは、冬季のニューイングランドで、学生たちが体
 を動かせるようにと意図したものだった。
  学生らが提出した様々な案は、ラグビーやサッカーの
 ように身体接触を含み、屋内には不向きのものが多かっ
 た。
  一方で、ギューリックは、ネイスミスが考案した競技
 に興味を持っていて、2週間の期間を与えて、さらに詳細
 を詰めるように指示をした。
  ネイスミスが考え出した競技は、ボールを持ったまま
 走ってはならない、身体接触・衝突をしてはならない、
 競技者の頭上に水平のゴールを置く、競技者はいつでも
 ボールを奪い、得点することができる・・という基本的
 なルールを持った。
  高い位置に水平のゴールを置くことで、得点するには
 力よりも正確さが必要となり、怪我の機会が少なくでき
 ると考えていた。
  この新しい競技は、ラグビー、サッカー、ラクロスが
 ヒントになっていて、
  また、ネイスミスが、少年時代に近所の子供たちとし
 た遊びの要素も入っていた。
  この遊びは、物を置いて、それに石をぶつけるという
 ものだった。
  1891年12月21日、授業で、この競技を初めて行う時、
 たまたま手に入れた桃の籠を、体育館内のバルコニーの
 下に据え付けてゴールとし、サッカーボールを使って1
 チーム9人で行われた。
  競技は、学生の案で「バスケットボール」と名づけら
 れた。
1891年12月17日、鉄道公債法案・私設鉄道買収法案を衆議
 院で審議した(特別委員会に付託)
  1891年11月に提出された内務大臣・品川弥二郎の「鉄
 道政略ニ関スル件」について、
  閣議は、これを修正して、12月14日、第2回帝国議会に
 鉄道公債法案・私設鉄道買収法案として提出した。
  1887年頃~1907年頃は、幹線鉄道の建設を盛んにした。
  地域社会は、みずから資本を調達して、私設鉄道を建
 設する意図をもつ例も少なくなかった・・が・・
  しかし、計画に対して開業にいたる比率ははなはだ少
 なかった。
  この理由は、地域社会における資本蓄積が、まだ、十
 分でないためだった。
  軽便鉄道や馬車・人車鉄道を除いて、その他の鉄道建
 設投資は、巨額な資本投下を必要とし、鉄道建設を行な
 うには、無理があった。
  しかし、その必要性は十分理解されていたため、多く
 の地域社会は、幹線鉄道のルート決定に際し、みずから
 の地域に有利なルートを採択させたいと努力した。
  翌年・1892年に、鉄道敷設法が公布され・・、
  わが国における幹線鉄道網の将来像が画かれ、かつ、
 帝国議会を通じて、地域社会の意志が鉄道建設に反映し
 て行った。
  この動きは活発化して行った。
  1891年11月に提出された「鉄道政略ニ関スル議」は、
 長文の文書で要点は2つあった・・、
  第1:将来の日本の幹線鉄道路線の決定
  政府は、そのための長期計画を立案し、着実に建設を
 行なうための法律、および、資金を得るための公債発行
 の法律が必要。
  第2:幹線鉄道網の一環となる私設鉄道を、政府が買収
 すること。
  政府は、井上勝(いのうえまさる)の建議に基づいて、
 鉄道公債法案と私設鉄道買収法案を、1891年12月、衆議
 院に提案した。
  しかし、「政府の私設鉄道の買収案」は否決され、「
 幹線鉄道路線計画案」は、議決に至らないうちに、衆議
 院は解散されてしまった。
  そして、翌年の1892年5月に、改選された帝国議会で、
 政府は、上記の2法案を、再び、提案した。
  衆議院議員の中からも、「鉄道拡張法案」、あるいは、
 「鉄道敷設法案」の名称で、各地の鉄道建設を促進する
 法案が独自に提案されたりした。
  政府の提案は、これらと折衷され、1892年6月21日、
 「鉄道敷設法」(明治25年法律第4号)として公布され、
 日本の大発展の礎となった。
  政府のしっかりした意思と計画(ビジョン)が示され
 た。
1891年12月18日、田中正造代議士が、足尾銅山の鉱毒問題
 に関する質問書を、衆議院に提出し、政府に対策をせま
 った。
  これは、銅山の開発により、排煙、鉱毒ガス、鉱毒水
 などの有害物質が、周辺環境に著しく影響をもたらすと
 いう日本で初めての公害事件だった。
  田中正造が中心となって、国へ問題提起するものの、
 加害者の決定がなされなかった。
  足尾地区では、江戸時代から銅は採掘されていたが、
 江戸時代前期をピークとして、産出量は低下し、幕末に
 は、ほとんど廃山の状態となっていた。
  明治になり、民間払い下げで、1877年(明治10年)に、
 古河市兵衛の経営となった。
  採鉱事業の近代化を進め、1885年までに、大鉱脈が発
 見され、足尾銅山は日本最大(東アジア一)の鉱山とな
 った。
  そして、銅は、日本の主要輸出品の一つとなった。
  (足尾銅山は、日本の産出量の1/4を占めた)
  それとともに、鉱毒ガスや、それによる酸性雨により
 足尾銅山近辺の山は禿山となり、
  山林の無くなった山地は崩れやすく、崩落・崩壊し、
 山崩れとなった。
  鉱毒を含んだ土砂は、渡良瀬川を流れ、下流で堆積し
 た。
  また、流出する土砂は、天井川となって洪水を起こし、
  流出する鉱毒は、鮎などの川魚を大量死させた。
  周囲一帯には、鉱毒ガスに満ちた。
  農産物は枯死し、廃村となる村も出た。
  対策工事は行われて、一定の効果はあるものの、
  技術のまだ未発達の当時は、その原因の根本である鉱
 毒ガスの無害化は出来ず、根本解決には至らなかった。
  1973年(昭和48年)に至り、足尾の銅は掘り尽され、
 閉山となり、公害は減少した。
  (精錬所は、1980年代まで操業し、鉱毒は流出した)
  鉱毒への闘い:
  鉱毒被害地の農民は、明治30年の1897年、大挙して東
 京へ陳情した(当時は「押出し」と言った)
  世論が高まると、政府は、同年・1897年3月、足尾銅山
 鉱毒調査委員会を設置した。
  そして、数度の「鉱毒予防令」を出した。
  特に、政府の行なった大規模なものは、1897年5月の第
 3回の予防令で・・、
  古河側に、排水の濾過池・沈殿池と堆積場の設置、煙
 突への脱硫装置の設置を命令した。
  これらは、どれもが、数十日の期限付きで、一つでも
 遅れた場合には『閉山する』という厳しいものだった。
  古河側は、当時、珍しかった電灯などを活用して、24
 時間体制で工事を行ない、すべての工事が期限内に完成
 することができた・・が・・
  すべての鉱毒(二酸化硫黄=亜硫酸ガス、銅イオンな
 どの金属イオン、鉛、カドミウム・・)の除去には至ら
 なかった。
1891年12月21日、鉄道買収法案審査特別委員会が開かれ、
 自由党の石田貫之助が、国有反対の意見を述べた。
  また、この日、九州鉄道会社は、下等旅客運賃の値上
 げを申請して(認可された)
1891年12月21日、日本鉄道会社が、23日までの3日間、東京
 帝国ホテルにて、『東京~青森間全通式』を挙行した。
1891年12月21日、ジェームズ・ネイスミスが考案したバス
 ケットボールの試合が、初めて行われた。
1891年12月22日、東京商業会議所が、私設鉄道買収に関す
 る請願書を提出した。
1891年12月22日、海軍大臣の樺山資紀が、海軍省経費削減
 反対の蛮勇演説を行なった。
  衆議院にて、薩長藩閥政府の正当性と功績を力説・
 高揚し、また、民党批判を行ない、反感を買い、議場は
 混乱した。
  1891年11月、第1次松方内閣が、翌年(1892年)の予算
 案を帝国議会へ提出したが・・、
  これは、海軍艦艇建造費275万円・製鋼所設立費225万
 円を含む、前年度比約650万円増となっていた。
  この予算案に対し、民党は、前の第1次山縣内閣時から
 の主張である「民力休養・政費節減」を継続した。
  そして、海軍内の綱紀粛正がなされなければ、予算は
 認められないなどとした。
  そして、海軍艦艇建造費・製鋼所設立費を含む約800万
 を削減した予算改定案が提出された。
  海軍要求を無視するこの改定案に、樺山海相が反論し
 た。
  民党側議員は猛反発し、議場は大混乱した。
  この後、民党は、政府への反発を強め、衆議院で改定
 案を原案とする予算案が可決された。
  このため、松方正義首相は、12月25日に、初めて衆議
 院解散を行なった。
1891年12月22日、東京・京橋の広告社が、探偵業務の広告
 を出した(5月21日説あり)
  1891年5月21日付けの当時の『朝日新聞』に、帝國探明
 會という企業が・・、
  「詐欺師や盗人の所在を調べる。他人の行動調査を実
 施する」との広告を出した(国立国会図書館の蔵書にて
 確認)
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国は、世界を繰る、海外を広報戦略するために、
   膨大な金を使っている・・膨大な予算を投資している。
.
1773年12月16日、ボストン・ティーパーティ事件(ボスト
 ン茶会事件)
  アメリカのマサチューセッツ植民地のボストンで・・、
  イギリス本国議会の植民地政策に憤慨した植民地人の
 急進派人々が、
  港に停泊中の貨物輸送船に侵入し、イギリス東インド
 会社の船荷である紅茶箱を海に投棄し、抵抗した。
.
1774年3月、ボストン港閉鎖を含む「耐えがたい諸法」と呼
 ばれる『弾圧法』をイギリスは出した。
  イギリスは、ボストン茶会事件の報復で・・
  ボストン港を封鎖し、
  さらに、強圧的諸条例を制定し、
  植民地のアメリカ側を屈服させようとした。
  「ボストン茶会事件の報復として、イギリスは・・、
 1774年3月、茶会事件の損害1万5000ポンドを弁償するま
 で、ボストン港を閉鎖する」とした。
  ボストン市民は、これを拒否し、
  マサチューセッツ住民やほかの植民地住民もこれに同
 調し・・大陸会議を結成して抵抗した。
.
1785年5月20日、アメリカで「交有地条例」ができた。
  アメリカが独立した当時・・、
  アメリカの領土は、アパラチア山脈の東側、大西洋岸
 一帯の約40万平方マイルに過ぎなかった。
  しかし、これが、1783年のパリ条約で、北はカナダ、
 南はフロリダ、西はミシシッピ川に至る・・88万9000平
 方マイル以上の、二倍となった。
  そして、自分たちに都合の良い「土地法」を制定した。
  1785年の『交有地条例』と、1787年の『北西部領地条
 例』。
  この交有地条例は、1785年5月20日にできた法律で、ア
 メリカ合衆国の連合会議で採択され、連合規約で規定さ
 れた。
  1781年に発足した連合会議は、合衆国の住民に直接課
 税して歳入を上げる権限を持たなかった・・
  そのため、この条例の目的は、アメリカ独立戦争でイ
 ギリスから得たと決めた(勝手な決定)、
   まだ、地図も出来ていない西方の広大な領土を売却
 して、現金を得ることにあった。
  また、北西部領地条例は、1787年に、アメリカの大陸
 会議によって制定された西部の政府組織法で・・、
  この年(1787年)、フィラデルフィアの合衆国憲法制
 定会議で起草された連邦憲法とあわせて、アメリカの基
 本法となった。
  独立戦争の結果、アメリカ領土となったオハイオ川以
 北の(いわゆる旧北西部地方)を、いくつかの地域に分
 け、
  まず、大陸会議の任命した総督による統治、
  次に、自由成人男子人口が 5000人に達したとき議会を
 設けて准邦 (州) となり、
  さらに、自由住民が6万人に達し、共和制に基づく憲法
 を制定することにより、独立 13邦 (州) と対等な邦 (州)
 として連邦への加入が認められる、という連邦への段階
 的加入を規定した。
  なお、3年後、南西部領地条例が制定され、「北西部領
 地条例が全西方領土に適用される」ことになった。
  勝手な法律を勝手に決めて、領土は自分のものとした。
.
1787年9月17日、アメリカ合衆国憲法は、1787年9月17日に
 作成され、1788年に発行され・・
  現在、機能している世界最古の成文憲法だと言って、
 自慢げに説明されているが・・、
  奴隷については、『容認していた』。
  (人権無視の遅れているアメリカ)。
  1865年に、やっと、修正された・・、
  「修正13条(1865年)第1節:奴隷、または、その意に
 反する苦役は、当事者が適法に有罪判決を受けた犯罪に
 対する処罰の場合を除いては、合衆国、または、その権
 限の及ぶいかなる場所においても存在してはならない」
 となったが・・しかし・・まだ・・
  奴隷の存在は認められ・・、
  そして、逃亡した奴隷が自由になれるどころか、元の
 所に戻さねばならないとした・・、
  (奴隷状態に戻さねばならないとして)・・、
  (奴隷状態のままにしなければならない)とした。
  卑劣である・・奴隷制度を容認している。
  キリスト教聖書が、奴隷制度を容認しているが、
  アメリカ憲法も、奴隷制に対して違和感が無く、容認
 した。
  アメリカの北部政権は、リンカーンを記念堂に祀り(
 祭り上げ)、さも、リンカーンが、奴隷解放宣言をした
 から、黒人奴隷が解放されたというロジックで、『嘘の
 プロパガンダ』をしている。
  そしてまた、悪いのは、アメリカ南部のプランターの
 経営者たちだと、罪を擦り付けているが・・これは真っ
 赤な嘘。
  北部・資産家たちも、安価な労働力を得たいと、黒人
 の方々の奴隷労働力を利用していた。
  アメリカは、国全体で黒人の方々を虐(しいた)げて
 いた。
  今・現在でも、北部も南部も黒人の方々を差別し、虐
 げている。
  「北部は、黒人の方々を差別していない」なんて言え
 る状態ではない。
  アメリカは、皆、一緒くたに黒人の方々を虐げ、そし
 て、差別している。
.
1791年~1810年、アメリカにおいて、白人による、黒人の
 方々への差別行為に対しての「抵抗行動」が、この頃、
 ピークに達した。
  アメリカで、地歩を固めて来た黒人の方々は・・、
 特に、自由黒人の方々は・・、
  黒人のための独立の教会を作ったり、黒人のための学
 校を建てたりした。
  キリスト教会は、卑劣にも、白人の為のキリスト教会
 の立場で、黒人の方々を排除していた。
  黒人の方々は、このキリスト教会や、映画館、レスト
 ラン、学校、ホテル、喫茶店など、あらゆるところで差
 別され・・、
  ホテルなど入ることを拒否され、拒(こば)まれてい
 た。
  海水浴場でさえ差別され、「白人専用海水浴場」とい
 う低劣な差別の状況だった。
  これらの改善を求め、黒人の方々は行動した。
  そして、差別行為に抵抗し、白人の力に対抗した力に
 よる対立にも発展した。
  しかし、この力による抵抗行動を、アメリカの白人た
 ちは、「黒人暴動」と表現した。
  そして、歴史書に「黒人暴動起きる」と差別的に記し
 た。
  この白人たちが記す「黒人暴動だ」とされる黒人の方々
 の抵抗行動のピークは、1791年~1810年だった。
  1800年8月の「ゲイブリエル・ブロッサーの蜂起」は、
 大規模な抵抗行動だった。
  この蜂起は、1000人とも、10000人とも言われ・・、
  武装した黒人の方々も居て、また、奴隷の身分の黒人
 の方々も居た。
  しかし、アメリカ軍によって鎮圧されてしまった。
  この黒人の方々の勇気ある栄光の行動が影響を与えた。
  アメリカの隣国のハイチにおいて、1803年に、奴隷の
 方々の抵抗行動が起き、その抵抗行動が成功し、黒人の
 方々による共和国が誕生した。
  そして、このハイチの成功は、この後、ラテン・アメ
 リカの方々へも勇気を与え・・、
  ラテン・アメリカ諸国を席巻する植民地解放闘争へと
 発展した。
  奴隷の方々の解放への戦いは、国際的な広がりの時代
 をもって行った。
  アメリカの黒人の方々の解放要求は、この様な国際的
 にも奴隷解放行動へ『良い影響を与えた』。
.
1865年4月15日、リンカーンが暗殺された。
  リンカーンには、殺される理由があった。
  アメリカは、その理由をはっきり言わない。
  リンカーンの名声を形成している「奴隷解放」は、リ
 ンカーンは行なっていない。
  アメリカは、本音を、真実を隠している。
  真実は、黒人の方々が、自らを解放をして行った。
  そこには、黒人の方々を導びく黒人のリーダーが居た。
  アメリカ白人社会は、卑劣な事に、黒人の方々のこの
 栄光の行動=この事をひたすら隠した。
  しかし、隠しきれずに、黒人の方々のこの部分の歴史
 が、少しづつ、白日の下になって来ている。
  黒人の方々は、白人キリスト教徒に、劣悪な状態の元
 に置かれた・・そして、自らの歴史を残すことが、でき
 にくくされた。
  しかし、その歴史が掘り起こされて来ている。
  黒人の方々は、解放されたいと努力して来た。
  それは、黒人の方々が皆が望む事だった。
  みんなが努力して来た。
  それが、長い虐げの後に、解放へと動き出してきた。
  黒人の方々を解放させようとする黒人のリーダーの方々
 もいた。
  可哀想にも、殺された黒人のリーダーの方々も居た。
  その様な歴史は、アメリカ白人社会はすべて闇の中へ
 と隠した。
  歴史が変遷し、黒人の方々が解放される、解放されね
 ばならない段階へと来た・・その時、たまたま、リンカ
 ーンが黒人解放の宣言をした。
  しかし、このところだけにスポットライトを当てて、
 脚光を浴びせさせた。
  そこだけを明るくしたので、さもリンカーンが黒人解
 放をしたように見えた・・その様にしたのだから当然な
 のだが・・、
  黒人の方々は、地道に、自らの解放をする努力を積み
 重ねて来ていた。
  その最後に、リンカーンが、「すごろく」の「あがり
 者」のごとく、そこに居て、奴隷解放をしたように見え
 た・・見させた・・
.
1938年秋、中国の上海に、ドイツ・オーストリア系ユダヤ
 人が流入した・・、
  ナチスが、オーストリアを合併した1938年秋、イタリ
 ア商船コンテ・ビオレ号から上海に逃れて来たユダヤ人
 の方々だった・・最初の方々だった。
  この上海に避難して来たユダヤ人の難民の方々を保護
 したのが日本軍であって、ファシスト中国=国民党では
 ない。
  ましてや、中国共産党では、まったくない。
  日本は、ユダヤの方々を「亡国の民」として大切に保
 護した・・日露戦争の恩人でもあった。
  (日本人は、受けた恩を忘れない)
  故に、上海の日本租界にあるユダヤ人避難民の方々の
 歴史的記憶遺産は、日本軍が、人道的な貢献をしていた
 記念すべき遺構で、世界的な大切な遺産である。
  この様な理由から、中国の上海にあるというだけであ
 って、中国共産党とは、まったく無関係・・、
  デッチアゲタ南京事件の記念館を作るより、史実のこ
 のユダヤ人難民ゆかりの歴史的記憶遺産を、日本軍の人
 道的貢献を讃えて、後世に残すべきである。
  世界遺産として讃えるべき人物は、、まず、人道的に
 接した日本軍兵士の方々、そして、その様に指導された
 昭和天皇陛下・・、
.
1947年7月11日、ユダヤ人を乗せたエクソダス号が出航した。
  しかし、ユダヤ人の難民の方々・4530人を乗せたこの
 満載の秘密移民船『エクソダス1947号」は、イギリス軍
 によって拿捕(だほ、とらえること)された。
  そして、強制的にフランスのマルセイユに返され・・、
  そして、マルセイユで下船を拒否したユダヤ人の難民
 の方々は、ドイツのハンブルグへ輸送され、
  ドイツのイギリス隔離地区の収容所に入れられてしま
 った。
  しかし、この模様が、逐一、ラジオで全世界に伝えら
 れ、ユダヤ人の方々へ、熱い同情が集まった。
  イギリスは、当然、世界中から、また、西欧諸国の大
 非難を浴びた。
  イギリス国内からでさえも、この難民船強制送還行為
 に多くの反対意見が起きた。
  この後の、国連パレスチナ分割決議への心情的な推進
 力となった。
  このイギリスの破廉恥な行為・エクソダス号事件は、
 映画「栄光への脱出」のモチーフとなった。
  この経緯は・・、
  ベン・グリオンは、パレスチナに到着すればそれでよ
 し、
  失敗してもキプロスの収容所に行けるという両面作戦
 で、大型船を使った数千人単位の移民を計画した。
  (参考)ダヴィド・ベン=グリオン(1886年10月16日
     ~1973年12月1日)は、イスラエルの政治家。
      首相(初代・第3代)を務めた。
       ポーランドのプロニスクで生まれ、
       パレスチナ移住後は、ユダヤ系住民のイギ
      リス軍への参加を呼びかけた。
       また、ナチスの弾圧によって多くのユダヤ
      系難民が、パレスチナへ押し寄せる様になる
      と、これを阻止しようとするイギリス当局と
      折衝した(難民の受け入れをする様にと行動)
       1947年に、国際連合が、パレスチナ分割を
      決議すると、メナヘム・ベギンらが率いるイ
      ルグンなど過激強硬派のテロや反発を抑えな
      がら、独立への準備を進めた。
       1948年5月14日、イスラエルは独立宣言した。
  このベン・グリオンの計画に基づいて、5000人収容可
 能な老朽客船・ウォーフィールド号が用意され、マルセ
 イユに入港した。
  ここでウォーフィールド号は、「エクソダス号」と名
 を改めて、
  4515人の難民(ほとんどが、ナチの強制収容所の生き残
 りの方々であるドイツ系ユダヤ人)を乗せると、
  1947年7月11日、フランスの出港禁止命令(卑劣にもイ
 ギリスが圧力をかけていた)を無視して、パレスチナへ向
 かって出港した。
  しかし、港を出たとたんに座礁した上に、出港翌日に
 は、巡洋艦1隻、駆逐艦6隻からなるイギリスの艦隊(第
 二次世界大戦後では最大の艦隊行動)に捕捉された。
  そして、一週間後、パレスチナ沖22マイルの公海上で、
 イギリス駆逐艦が、エクソダス号に体当たり攻撃をかけ、
 臨検を強行(国際法の違法行為)した。
  イギリス兵は銃撃までした。
  これに対し、難民の方たちは、空き缶や腐った野菜を
 投げつけて応戦した。
  三時間の戦闘で、アメリカ人の船長を含め、三人の犠
 牲者を出したが、難民の方々の抵抗は、臨検隊を海に叩
 き込んだ。
  しかし、体当たり攻撃で、浸水していたエクソダス号
 は、やむなく降伏した。
  難民の方たちは、三隻の船に分けられた後、パレスチ
 ナを離れた。
  三隻は、キプロスの収容所には寄らず、まっすぐマル
 セイユへ向かった。
  フランス政府は難民受け入れを表明した。
  しかし、病気の数人を除き、難民の方たちは、「船を
 下りる場所はパレスチナのみである」と、下船を拒否し
 た。
  マルセイユで、24日間、頑張った。
  しかし、あきらめた三隻は、難民を乗せたまま出港し
 た。
  しかし、イギリスは、ハンブルグに誘導した。
  ここで、難民達は強制的に下船させられた。
  そして、リューベックの収容所に入れられた。
  ナチの手から逃れてきたユダヤ人の方々を、再び、ド
 イツの収容所に入れた。
  ここで、ユダヤの方々へ理解を示していなかったアメ
 リカやヨーロッパ諸国は、イギリスを非難し、ユダヤ人
 の方々へ理解を示すようになった。
  しかし、この後も、イギリスは、ユダヤ人の方々へ、
 厳しい対応を続けた。
.
1952年1月18日、この日、突如、韓国の李承晩大統領が、何
 ら根拠のない、海洋主権宣言なるものを行なった。
  そして、漁船立入禁止線(いわゆる李承晩ライン)を
 主張しはじめた。
  この結果、日本の領土の竹島が、韓国の支配下にある
 とされ、一方的に宣言された。
  1952年のこの宣言から1965年(昭和40年)の日韓基本
 条約の締結までに・・、
  韓国軍は、ラインを越境したという理由で、日本漁船
 を328隻も拿捕した。
  そして、日本人44人を死傷させた(死亡者数は不明)
  また、3,929人を拉致し、抑留した。
  韓国側からの、日本の海上保安庁巡視船への無謀な銃
 撃等の行為は、15件にもおよんでおり、16隻が攻撃され
 た。
.
1953年(昭和28年)1月12日、韓国政府が、急に、主張し始
 めた「李承晩ライン」・・このライン内に出漁したとし
 て、この日、日本漁船を徹底拿捕をはじめた。
  これ以後、日本漁船の拿捕や、卑劣な銃撃行為が相次
 ぐ様になり
  日本の漁業従事者に、死傷者が、多数、出る事態とな
 った。
  同年・1953年2月4日には、第一大邦丸事件が発生した。
 済州島付近で、同船の漁労長が韓国側に銃撃を受け死亡
 した。
  また、日本人漁師の瀬戸重次郎氏が殺害されたりした。
  同年・1953年4月20日には、韓国の独島義勇守備隊(
 日本領の竹島を、韓国は独島と名付けた)が、竹島に、
 初めて駐屯した。
  1953年6月24日、日本の水産高校の船舶が、違法占拠す
 る韓国の独島義勇軍守備隊に拿捕された。
  1953年6月27日、日本の海上保安庁と島根県が、日本の
 領土の竹島の調査を行った。
  そして、「日本島根県隠岐郡五箇村」の領土標識を建
 てた。
  そして、竹島に、勝手に住み着いていた韓国の漁民6名
 を退去させた。
  すると、1953年7月12日に、竹島に上陸して違法占拠し
 ていた韓国の獨島守備隊が、日本の海上保安庁巡視船「
 へくら」に、90mの距離から機関銃弾200発を撃ち込むと
 いう蛮行がなされた。
  以後、領土欲しさの韓国は、事実を捻じ曲げて、鬱陵
 島の警察官約40名を、日本領・竹島に常駐させた。
  そして、日本の艦船の排除をはじめ、日本の艦船の接
 近に対し武力行使している。
  また、竹島の西島に、韓国人夫婦を定住させた。
  そして、韓国軍は、毎年、竹島(独島?)防衛訓練を
 行って、事実作りをしている。
  当然、日本政府は、この韓国による竹島の実効支配に
 抗議をしている。
  しかし、韓国側は、「竹島(独島?)は、韓国固有の
 領土である」と言い出し、「内政干渉だ」と言い出した。
.
1953年2月4日、第一大邦丸事件(だいいちだいほうまるじ
 けん)
  この日、公海上(済州島沖20マイルの農林漁区第284漁
 区の海域)で操業中であった福岡の漁船『第一大邦丸(
 57トン)』、及び、『第二大邦丸(57トン)』が、
  韓国の漁船『第一昌運号』、及び、『第二昌運号』(
 各約55トン)を利用した韓国海軍によって銃撃された。
  そして、拿捕された。
  この際、第一大邦丸漁撈長であった瀬戸重次郎氏(34歳)
 が被弾し、殺害された。
  この時、日本には、対応する軍事力が無く、
  その為、不利な状況で、屈辱的な交渉をするしかなか
 った 。
.
2013年3月8日、中国は、海外を広報戦略するために、膨大
 な金を使っている・・膨大な予算を投資している。
  世界中に、膨大な金で、中国の刷り込み、洗脳、プロ
 パガンダをしている。
  櫻井よしこ氏は、2013年3月8日の産経新聞で、次の様
 に記した・・、
  「中国の対外広報予算は、年間1兆円。
  日本外務省は、200億円にも満たない(中国の100分の
 2以下)」。
  中国は、この膨大な予算を使って、アメリカやヨーロ
 ッパの大学やシンクタンクに金を配る。
  その結果、中国研究者が増える。
  中国への親しみと中国の歴史観の受容と理解が深まる。
  日本研究者の数が先細りし、日本の価値観や考え方へ
 の理解者が減り続けているのと対照的となっている。
  中国は、全世界に孔子学院を創設中。
  また、2012年鋳、中国版CNN「CCTVアメリカ」を開
 いた。
  本拠地をワシントンに、スタジオはニューヨークに置
 いて、中国人は極力表に出ず、キャスターは、アメリカ
 人にして、だが伝える情報は中国の視点に基づくもの。
 (後略)
.
2015年12月、日米開戦から七十数年、一冊の回想録が刊行
 された。
  ジョージ・ナッシュ氏が編集した・・フーバー大統領
 の回想録『Freedom Betrayed(裏切られた自由)』
  ここには、大東亜戦争の歴史の書き換えを迫る重大な
 記録が含まれていた。
  1000頁近くにも及ぶこの大著を、いち早く読破し、そ
 の重要性を指摘されている中央大学客員教授の稲村公望
 氏。
  まず、アメリカ大統領のルーズベルトが、日本を戦争
 に引きずり込んだ事が、明確に裏付けられていると・・、
  フーバー大統領死去から、47年の歳月を経て刊行され
 た同書は、
  フランクリン・ルーズベルト大統領を厳しく批判して
 いて、同書の刊行は、いわゆる「東京裁判史観」の間違
 い、そして、清算のきっかけになるほど重大な意味を持
 つと・・、
  フーバーは、回想録の中で書く・・、
  「私は、ダグラス・マッカーサー大将と、1946年5月4
 日の夕方に三時間、5日の夕方に一時間、そして、6日の
 朝に一時間、二人だけでで話をした。
  私が、日本との戦争のすべてが、戦争に入りたいとい
 うルーズベルト(狂人と称している)の欲望であったと
 述べたところ、
  マッカーサー司令官も同意し、
  また、1941年7月の金融制裁は、挑発的であったばかり
 ではなく、その制裁が解除されなければ、自殺行為にな
 ったとしても戦争をせざるを得ない状態に日本を追い込
 んだ。
  ルーズベルトのやった制裁は、殺戮と破壊以外のすべ
 ての戦争行為を実行するものであり、
  いかなる国と雖(いえど)も、品格を重んじる国であ
 れば、我慢できることではなかったと述べた」・・と・・、
  これまでも、チャールス・A・ビアード博士らが、第
 二次世界大戦の責任は、ルーズベルトにあると主張して
 来ていた。
  また、ルーズベルトは、はっきり戦争になるとも言わ
 れ、忠告されていた・・、
  対日石油禁輸において、ルーズベルト大統領から意見
 を求められたスターク海軍作戦部長は、
  「禁輸は、日本のマレー、蘭印、フィリピンに対する
 攻撃を誘発します。
  そして、直ちに、アメリカを戦争に巻き込む結果にな
 るだろう」と述べられていた。
  しかし、ビアードらの主張は、「修正主義者だ」とし
 て、無視された。
  これ等の事により、ルーズベルトの責任は、明確に示
 され・・、
  そして、フーバーは、明確に書いた・・、
  「ルーズベルトが犯した壮大な誤りは、1941年7月、
 つまり、スターリンとの隠然たる同盟関係となったその
 一カ月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったこ
 とである」と・・、
  そして、また、書いた・・、
  「その経済制裁は、弾こそ撃っていなかったが本質的
 には戦争であった(アメリカの宣戦布告であった)。
  ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも、再三にわ
 たって、そんな挑発をすれば、遅かれ早かれ(日本が)
 戦争を始めざるを得ないことになる・・と警告を受けて
 いた」
.
2017年7月25日、産経ニュース<速報>加戸守行前愛媛県
 知事がスバリ指摘 「前川喜平氏は想像を全部事実のよ
 うに発言している。精神構造を疑う」
  「メディアは報道しない自由、印象操作は有力な手段」
  参院予算委員会で(7月)25日、加戸守行前愛媛県知事
 が、自身の発言を報道しないメディアや「行政がゆがめ
 られた」と主張する前川喜平前文部科学次官に矛先を向
 けた。
  文部官僚として官房長まで務めた加戸氏は、前川氏の
 先輩に当たる。
  自民党の青山繁晴氏は、学校法人「加計学園」(岡山
 市)の獣医学部新設計画を審議した10日の閉会中審査
 について、朝日新聞や毎日新聞などが「ゆがめられた行
 政が正された」などの加戸氏の発言をほとんど報じなか
 った経緯を踏まえ「加戸さんがいなかったがごとく扱わ
 れた。
  メディアや社会の様子をどう考えるか」と加戸氏にた
 だした。
  加戸氏は「メディア批判をして勝った官僚、政治家は
 誰一人いない。せんないことだ」としたうえで「報道し
 ない自由があるのも有力な手段、印象操作も有力な手段。
  マスコミ自体が謙虚に受け止めていただくしかない」
 と皮肉った。
  さらに加戸氏は「あえて申し上げなければならない」
 と、問わず語りでテレビ取材を受けた際の出来事を披露
 した。
  加戸氏の説明によると、取材は、事前に前川氏を取材
 した映像を見せながら加戸氏に見解を問う形式で行われ
 た。
.
2017年、アメリカのキッシンジャーは言う、「戦争に敗け
 た国の取る道は二つある・・と・・
  一つの道は・・目先の利益と安全保障を、安易に、ま
 た、楽に得たいと、占領軍に服従するコラボレーショニ
 スト(利敵協力者)となること」と・・、
  (戦争に敗けて、バンドワゴン方針をとった日本は・・
 これだ・・と・・間接的に示唆する)
  (参考)バンドワゴン:Band wagon、行列の先頭の楽
     隊車のことで、「バンドワゴンに乗る」は、時
     流に乗る・多勢に与する・勝ち馬に乗るの意味。
  (参考)collaborationism:利敵協力(りてききょう
     りょく、英: collaborationism)とは、占領下
     にある地域において行われる、被占領者による
     占領者への協力行為のこと。
  因みに、、キッシンジャーが言うもう一つの道は、「
 ゲリラになってでも、戦い続ける道」・・
  前記の道は、せっせと服従し、恭順の意を示していな
 ければならない・・日本もその様に・・なった。
  しかし、この道は、国家の最も大切なレジティマシー
 (正統性)を失う。
  (参考)レジティマシー(legitimacy)
     1.(法律的な)正当性。
      法的な根拠を持っていること。
     2.(政治的な)正統性。
      統一的な根拠を持っていること。
  敵国だった占領軍が押し付けてきた憲法や法律、行政
 制度、教育制度、歴史解釈などを・・敗北した国は、「
 道徳的に劣等な国」なのだから、またそして、戦勝国は、
 「道徳的に優越した正義の国なのだから」・・という尺
 度を、解釈を、使わせられ・・(結局、最後は、その様
 に思い込まされてしまった日本人・・NHKも、せっせ
 とこの道の洗脳に手を貸した)、
  そして、この様な屈辱的な状況に置かれた国民は、「
 占領軍の言いなりになっているだけの似非(えせ)国家」
 と思うようになる・・
  この様な事を、思いもつかない国民も・・多く居るが・・、
  外見は、「立派な独立国」「経済大国」に見えても・・?
  国民は、属国に過ぎないと・・まともな国民は思い・・
  そして、モラール(士気・気概・競争心)を失い、士
 気を失い、国への忠誠心をも失って行く・・
  そして、キリスト教は国歌斉唱に反対し、国旗掲揚に
 も反対する・・、
  そして、利己的な自分さえ良ければ良いになって行く。
  国防意識も失う。
  敗戦後の日本のコラボレーショニスト・レジーム(隷
 属体制)意識は、この様な経緯で作られて行った・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)543E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年11月~1891年12月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)543E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年11月~1891年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年11月21日、第二通常議会が召集された。
  帝国議会(ていこくぎかい、「議会」もしくは「国会」
 と略称される)は・・、
  明治天皇陛下による詔勅「国会開設の詔」(1881年10
 月12日)を経て・・、
  1889年(明治22年)2月11日の大日本帝国憲法(明治憲
 法)発布によって、議会は開かれた。
  議会は、公選の衆議院と非公選の貴族院から成ってい
 た・・そして・・、
  1890年11月29日、第一回議会が開会され・・、
  1891年5月6日、第一次松方正義内閣が成立した。
  松方内閣は、積極財政方針を掲げて、精力的な働きを
 したが・・、
  成立の時から、野党から「二流内閣」と言われた。
  内閣の成立直後に、大津事件などの不幸な事件もあっ
 た。
  そして、そのことによる、主要閣僚が辞意を表明する
 などの・・事態が起きた。
  重要閣僚を欠く内閣ともなり、また、清国の不穏な動
 きの中にもあった。
  その対策の重要案件、日本の防衛問題という重要な討
 議の必要性もあった。
  1891年11月26日に開会した第二議会に、軍艦建造費の
 案件が提出され・・また・・
  製鋼所設立費を含む予算案、鉄道敷設法案などが提出
 された。
  (2017年の今・現在、不穏な動きをする北朝鮮動向に
 対する重要な討議の必要性があるが、野党の架空政治家
 たちは、加計学園問題にかこつけて、まったくこの重要
 案件から逃避している)
  これに対して、自由党・立憲改進党などの民党は、民
 力休養を主張した。
  そして、新規事業の多くを否決、予算の約1割削減を要
 求した。
  この間、軍艦建造費をめぐり樺山資紀海相が、厳しく
 必要性を説く「蛮勇演説」を行った。
  このこともあって、政府と民党の対立は激化し、衆議
 院は空転した。
  松方は、やむなく12月25日に、初めての衆議院解散を
 決断した。
  そして、翌年・1892年2月15日に、第2回衆議院議員総
 選挙が行われた。
  この第2回衆議院議員総選挙では、内務省(品川弥二郎
 内相、白根専一次官)による選挙干渉が行われた。
  これは、死者まで出る事態となった。
  (参考)この選挙干渉について、実際は、複雑な経過
    を辿っている・・が・・、
     解散の2日後に、松方正義首相と品川内相が、相
    次いで府県知事に内諭(ないゆ、表沙汰にしない・・
    さとし)を出して、暗に、政府系の候補者に対し
    て便宜と票の取り纏めを依頼した。
    (戦前には、後の政党内閣期も含め、こうした要
    請が、しばしば行われた)
     この直後に、松方・品川・白根に加え、平山成
    信書記官長・小松原英太郎警保局長・大浦兼武警
    保局主事らによる選対本部が、極秘に組織され、
    政府系候補への選挙支援策が協議された。
     だが、実力行使を含めた選挙干渉を指示した命
    令類はない・・発見されていない。
     逆に、複数の知事から政府に対し、民党進出を
    阻止するために、警察力の行使を求める意見が寄
    せられている。
     このことから、選挙干渉の発案が、内務省側な
    のか、府県知事側の突き上げなのかについては明
    らかとなってはいない。
     ただ、選挙初期から各地で支持者同士の揉め事
    が起きていて、そこに実力による介入の余地はあ
    る。
     各地で、民党候補、及び、支持者と警察との衝
    突が発生し、自由党が強い高知県で政府公式発表
    で死者10名・負傷者66名という流血の惨事が発生
    した。
     この他、全国で25名の死者が出た。
  この様な事態に、伊藤博文や、陸奥宗光農相らから強
 い批判が出された。
  1892年3月、品川内相が辞任した・・さらに・・、
  1892年5月、召集の第3特別議会では、選挙干渉に関し
 内閣弾劾決議が採択された。
  1892年7月、元改進党副総理の河野敏鎌法相が、内相を
 兼任、選挙干渉に関与した内務次官、知事らを免官した。
  このことから、首相の指導力の欠如もあって、閣内対
 立が表面化し・・、
  1892年7月30日、総辞職され・・、
  1892年8月8日、この日に成立した第二次伊藤内閣に引
 き継がれた。
1891年11月26日、第二回帝国議会の開院式が挙行された。
1891年11月27日、山陽鉄道会社が、旅客運賃改訂を申請し
 た(12月2日認可)
1891年11月、歌舞伎座にて、新作「太閤軍記朝鮮巻」が上
 演された。
  第四幕の朝鮮王子らが捕らえられるくだりは、朝鮮公
 使の抗議を受け入れ、その一幕が削られた。
  そして、「義経腰越状」が加えられた。
  この逆のパターンについて、元寇の時、朝鮮は日本を
 攻め、日本の対馬の女性を強姦したり、拉致したりした。
  しかし、この様な逆の場合の配慮はなされたのだろう
 か?
  要求することばかりの国のように感じるが・・?
1891年11月、伊井蓉峰・水野好美らが、済美団を起し、浅
 草公園の吾妻座にて開演した。
  女優として千歳米坡も出演した。
  1888年12月、自由党壮士・角藤定憲が、中江兆民の勧
 めにより、「大日本壮士改良演劇会」と銘打ち、大阪の
 新町座で、自作の小説の脚色『耐忍之書生貞操佳人』と、
 大井憲太郎の大阪事件を脚色した『勤王美談上野曙』を
 上演した・・新派劇の最初。
  ・・ついで・・、
  1891年2月、川上音二郎が、藤沢浅二郎らと、堺の卯の
 日座で、矢野龍渓原作『経国美談』と、板垣退助の遭難
 事件の劇化『板垣君遭難実記』を上演。
  川上も、自由党の壮士で、初め自由童子の名で政治演
 説をしたり、時事風刺のオッペケペー節を歌ったりして
 いたが、やがて同志を集めて一座を結成した。
  技芸未熟なうえに、脚本、演技、演出なども歌舞伎模
 倣の域を出なかった。
  しかし、粗野生硬ながら、青年らしい熱気にあふれた
 動作やせりふ回しが、観客にはかえって新鮮なものとし
 て映り、「壮士芝居」「書生芝居」とよばれ、人気を集
 めた。
  川上一座は、同年・1891年6月に、東京・中村座に進出
 し、成功を収め、東京に地歩を築いた。
  この川上に刺激されて、新演劇を企てる者が多く現れ
 た。
  同年・1891年11月、伊井蓉峰は、演劇改良論者・依田
 学海の後援を得て、「済美館(せいびかん)」を結成し、
 政治色の薄い純粋の演劇運動として「男女合同改良演劇」
 の名のもとに、学海作『政党美談淑女之操』ほかを東京・
 浅草の吾妻座で上演した。
  この時、もと葭町の芸妓・千歳米坡(ちとせべいは、
 1855年~1913年)を出演させて、近代女優の嚆矢(こうし、
 物事のはじめ)とした。
1891年12月7日、朝鮮へ、日本公使が、防穀令の損害賠償を
 求めた。
  朝鮮咸鏡道で防穀令が出され、この事で損害が発生し
 たが、このことに対し、在朝鮮の日本公使が、損害賠償
 を要求した。
  朝鮮王朝 (李朝) の穀物輸出禁止をめぐる日朝対立事
 件 (1889年~1893年) が起きた。
  1879年に百万円、1895年に1千万円、1904年には3千万
 円を超えるという日朝貿易の規模と拡大だった・・、
  この「日朝貿易」という利便性が働いているときは、
 両者にとって良いが、この時、朝鮮には、凶作という事
 情があった。
  また、日本は、国内産業が成長して、欧米製品輸出か
 ら、日本製品の輸出に、徐々に切り替わって行ったが、
  朝鮮産業は未熟で、朝鮮からの輸出品は、日本向けの
 米と、大豆ぐらいで、あとは、金での決済が中心だった。
  (貿易収支の改善策が取れなかった朝鮮側の事情もあ
 った)
  そして、この時、朝鮮は、食料的に行き詰ったため、
 咸鏡道(かんきょうどう)観察使(地方行政監察のため
 の官職)の趙秉式は、1236年(高宗 20 (83) 年)の日韓
 通商章程第 37款に基づいて、古い時代の条例で輸出禁止
 令を発布した。
  しかし、担当地方官の手落ちで、予告期間も不足し、
 これらが原因で紛糾した。
  これらの為、日本商人に14万7000円の損害が発生した
 ため、損害賠償要求が出された。
  この問題は、両国間の外交問題に発展して行った。
  交渉は、当初から難航した・・、
  伊藤博文が、清の李鴻章に斡旋を依頼し、これにより、
 1893年4月、11万円の賠償と大石公使の召還で妥結された。
1891年12月13日、近衛司令部条例が改正された。
  近衛都督を近衛師団長とした。
  1872年(明治5年)4月16日に、「近衛条例」を制定し、
 御親兵掛を廃止し、「近衛局」を置いた。
  そして、8日後の1872年4月24日に、天皇陛下に直隷す
 る近衛都督の下、御親兵を改称した壮兵からなる「近衛
 兵」が創設された。
  宮城警備とともに、鎮台に設置された鎮台兵をも指導・
 訓練する役目も担った。
  (参考)近衛都督(このえととく):1872年に近衛条
    例が制定され、親兵が近衛と改称され、
     各地の鎮台が、陸軍卿の権内におかれた政府軍
    であるのとちがい、新設の近衛の総指揮官である
    近衛都督(初代山県有朋、2代西郷隆盛)が、天皇陛
    下に直隷された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:金にものを言わせた印象操作が、盛んに行われている・・
.
1587年6月7日、豊臣秀吉が、島津を攻略し、箱崎(博多
 に凱旋した。
  日本の施政者としての豊臣秀吉は、初め、キリスト教
 の布教活動に対して寛大さを示した・・しかし・・
  しかし、キリスト教宣教師たちの不穏な動きを知り、
 部下に確認させたところ、種々の不埒(ふらち、道理に
 はずれ不届きなこと)な行動が確認され、しっかり認知
 されるに至った。
  また、鹿児島の島津征伐に九州を転戦するうちにも、
 そのキリシタンたちの不埒な、また、不穏な行動の実態
 をしっかり確認もした。
  (日本の女性・娘たちの人身売買までしていた)
  (参考)島津は、1587年(天正15年)5月8日に降伏し、
     秀吉は、6月7日に、箱崎(博多)に凱旋した。
  秀吉は、キリスト教宣教師たちに質問した・・、
  「なぜ伴天連たちは、地方から地方を巡回して、人々
 を熱心に煽動し、強制して宗徒とするのか?」
  「今後そのような布教をすれば、全員を支那に帰還さ
 せ、京・大阪・堺の修道院や教会を接収し、あらゆる家
 財を没収する」と・・、
  また、更に、秀吉は・・、
  「なぜ伴天連たちは、神杜仏閣を破壊し、神官・僧侶
 らを迫害し、彼らと融和しようとしないのか?」と詰問
 した。
  神杜仏閣の破壊、焼却は、高山右近や、大友宗瞬など
 のキリシタン大名の領地で、大々的に行なわれていた。
  秀吉の質問に対し、キリスト教宣教師たちは答えるこ
 とが出来ず、また、誠実な対応も見えなかった。
  秀吉からの詰問に対し、コエリヨの反応は、極めて傲
 慢で、狡猪な、高をくくった返答だった。
  高山右近を初め、多くのキリシタン大名たちは、コエ
 リヨを牽制(けんせい、ある行動によって相手の注意を
 引きつけるなどして、相手の自由な行動をおさえ妨げる
 こと)をした・・、
  しかし、そのキリシタン大名らの制止を聞き入れず・・、
  宣教師らは、反って、長崎と茂木(現:茂木町)の要
 塞を強化した。
  (キリスト教宣教師たちは、日本の植民地化の一面の
 使命を持っていて・・軍事基地を保持し、強化した)
  それで、長崎などを要塞化し、武器・弾薬を増強し、
 フイリピンのスペイン総督に援軍を要請した。
.
1775年4月19日、レキシントン・コンコードの戦い
  アメリカ独立戦争が始まる契機となったこの戦い・・
  アメリカとイギリスとの間に、戦いが起きた。
  イギリス軍が、ボストン北西に位置するコンコードに
 あった「アメリカ植民地民兵部隊の武器庫」の接収作戦
 を実施した。
  これに反発すべく動いた植民地(アメリカ)民兵隊と
 武力衝突が起きた。
  レキシントンとコンコードで、イギリス軍と民兵隊の
 あいだで、激しい戦闘が行われ、植民地軍は、イギリス
 軍を撃破した。
  規模は小さいながら、アメリカの独立戦争の緒戦を飾
 るものだった。
  アメリカの黒人の方々は、「奴隷状態を解放されて、
 自由が得たい」と、個人で、また、集団で、逃亡行為を
 行なった。
  そして、逃亡して軍隊に加わり、独立戦争の戦闘に参
 加した。
  この独立戦争における大きな戦闘で、黒人の方々が参
 加してない戦闘は一つもないほどに活躍がなされた。
  コンコード、バンカーヒル、タイコンデローガ、ブー
 ンズボロ、サラトガ、ヨークタウン・・などなどの戦闘
 で、黒人兵士は、白人兵士もおよばないほどの勇敢さで
 戦った。
  (参考)1775年6月17日、バンカーヒルの戦い:
     アメリカ独立戦争初期ボストン包囲戦中に起こ
    った大陸軍(アメリカ軍)とイギリス軍の戦闘。
     大陸軍はイズラエル・パットナム将軍が、イギ
    リス軍はウィリアム・ハウ将軍が指揮した。
     この戦いは、独立戦争で2番目の戦闘だった。
     1775年6月13日、ボストンを包囲していた大陸軍
    の指導者達は、イギリス軍の将軍たちがボストン
    市内から部隊を出して、市を取り囲む丘を占領す
    る作戦を立てていることを知った。
     この情報に反応し、ウィリアム・プレスコット
    の指揮する1200名の部隊が、密かにバンカーヒル
    とブリーズヒルを占領し、
     ブリーズヒルには、土盛りの堡塁を造り、チャ
    ールズタウン半島の大半にわたる防御を施した前
    線を築き上げた。
     この後に、戦いは激しく行われた。
     この様な戦いで、黒人の方々が必死で戦ったが、
    白人は、この黒人の方々の功績を過小評価し、
     また、この様な歴史を検証することなく隠した。
     黒人の方々の歴史は隠されて行った。
     近年、この様な黒人の方々の功績の歴史が明ら
    かにされて来ている。
     そして、この様な白人の卑劣な歴史が、明らか
    にされて来ている。
.
1937年6月27日、戦争回避の御前会議
  盧溝橋事件(1937年7月7日)の10日前、天皇陛下は、
 日中の極度に高まっている緊張状態を憂慮され、この
 一触即発の日中関係を緩和しようと、前例のない御前会
 議を開かれた。
  天皇陛下は、首相に就任したばかりの近衛秀麿と、華
 北工作の中止を唱えていた外相の広田弘毅と、参謀本部
 作戦部長の石原莞爾(かんじ)らを集められた。
  天皇陛下は、メンバーの知略をまとめ、避戦をしたい、
 戦争を避けたい、それができると、この会議を開かれた。
  しかし、内大臣の湯浅倉平や、元老の西園寺公望らへ
 伝えた段階で、中国側の発砲という事態で、盧溝橋事件
 が発生してしまった。
  日中戦争の回避の大きなチャンスが逸(いっ)せられ
 てしまった。
  (盧溝橋事件は、日本側の発砲とされていたが、日本
 は濡れ衣を着せられていたが、近年、中国側の発砲とい
 う真実が判明なされた)
  不拡大論の石原は、突き上げられ立場は悪くなってし
 まった。
  やむなく、3個師団の出兵を承知せざるを得なくなっ
 た。
  中国の蒋介石も、「ドイツの和平仲介を断わる」とい
 う強硬論であった。
  日本にあった「全面戦争などしたくない」という状況
 が、この様な状態から、ずるずると引きずり込まれて行
 く状態であった。
  この陰に、アメリカの中国への支援があった。
  戦後、毛沢東主席は、訪中した日本の政治家や元軍人
 に対し、「日本軍が、国民政府軍(蒋介石軍)と戦って
 撃破してくれたお蔭です。感謝したい」と言った。
  日本側メンバーに、その様に発言した毛沢東だった。
  毛沢東の共産党軍にとって、国民政府(蒋介石)打倒
 が最優先だった。
  日本は、中国の現政府の共産党軍とは戦っていない。
  現政権の中国・共産党軍は、戦勝国でも何でもない。
.
1937年7月7日、盧溝橋で軍事衝突(日華事変)
  盧溝橋事件の日本の汚名が晴れた・・
  中国の金振中が盧溝橋事件の真実を吐露した・・白状
 した。
  金振中は、中国軍の大隊長で、「日本軍の計画的犯行
 だ」と中国側が主張していた盧溝橋事件が・・『そうで
 はない』と白状した。
  『中国軍の発砲により始まったのだ』と言った。
  局地的な小さな紛争をデッチアゲて、大きな全面戦争
 へと拡大してしまった。
  この様な事実が知れると、中国(共産党政権)は、そ
 れまでの言い方を変えて来た。
  中国の国定教科書の嘘記述も書き換える必要がある。
  南京事件も慰安婦問題も、この様にでっち上げられて
 いる。
.
2010年3月、TBSテレビの東京放送ホールディングスが、
 2010年3月期連結決算で赤字に転落した。
  原因は視聴率の下落・・
  この金に行き詰まった以降、TBSには外資が入り、
 その時から、偏向放送が多くなって行った。
  外資(外国資本)に繰られ易い放送局になっている・・
  今・現在(2017年)、種々、『印象操作的な政局番組』
 を行なって、あまりの酷さに、世間の批判を受けている
 が、この様な番組が、視聴率を稼げると言っている不埒
 な放送局となっている。
  自分の懐具合(ふところぐあい、所持金の額や金回り
 の状態)を優先する放送局となっていて、国を売る放送
 局となっている。
  公(おおやけ)では、TBSの外国株主は11.3%とな
 っているが・・しかし・・、
  大株主は、日本マスタートラスト信託銀行株式会社
 日本トラスティ・サービス信託銀行株式会社で、1位と2
 位の大株主となっているが・・、
  実際は、この2社は、信託業務の一環として株を保有し
 ているだけで、実際の株主は「外国株主となっている」。
  また、議決権のない株の外国株主もいる放送局。
  種々の形をとっている「これ等の外国株主」を入れる
 と、完全な違法状態となっている。
.
2017年7月28日、青山繁晴、倒閣運動に絡めた八つ当たりへ
 の反論・・、偏向報道が横行する組織構造
  https://www.youtube.com/watch?v=Cf5CJAjWc2w
  某銀行の現役銀行員の意見:
  (安倍政権以前の)バブル崩壊以降、日銀の腐った金
 融政策、歴代政権の、的外れな景気対策の乱用などによ
 り、20年以上、デフレから脱却できず、日本経済は低空
 飛行を続けて来ましたが、
  安倍政権の政策と、日銀の、連携した金融政策の改善
 などによって、企業収益や雇用などが回復し、ようやく
 日本経済に光が見えてきたところです。
  このまま安倍政権を支え続けて行くことが、日本にと
 って、何よりも国益であると判断する事が合理的であり、
 妥当でしょう。
  ところが、森友や加計などの、くだらない「でっち上
 げ報道」で、安倍政権は深刻なダメージを食らってしま
 いました。
  さっそく、ポスト安倍が話題になっておりますが、
  石破氏は、緊縮と増税派で、民主党政権より悪いです
 し、現行の政策を継承できそうな国会議員も見当たりま
 せん。
  従って、今、安倍政権を失えば、金融市場参加者は、
 日本に失望して、全面的に「失望売り」です。
  せっかく回復しかけた日本経済が、再び、失速してし
 まうでしょう。
  つまり、今の日本は、安倍政権の維持こそが、国益で
 あり、国民の命と財産を守るための、現実的で妥当な手
 段となる構造になっていると思います。
  国会議員は、国民の命と財産を守ることが責務です。
  すべての国会議員に、この状況を認識してもらいたい
 ですし、国民にしっかり知らしめて戴きたいものです。
.
2017年7月、TBSテレビ「ひるおび!」は、偏向した番組
 だ。
  報道の自由と言いながら、政府批判ばかりしている。
  連日の報道で、世論操作を狙っている酷い番組。
  また、同じことを繰り返し、洗脳的に世論操作ばかり
 している。
  重箱の隅を楊枝で突っつく様な「いやらしさのある番
 組」。
  また、伊藤惇夫コメンテーターは、稲田防衛大臣(女
 性)の「つけまつげが大き過ぎる」と、程度の低い人格
 攻撃までする。
  提供企業は・・、
  ミキプルーン(三基商事株式会社)、
  バズキルーペ(プリヴェAG株式会社)、
  セコム(セコム株式会社)、
  (チューリッヒ生命)、
  ポリデント(グラクソ・スミスクライン・コンシュー
   マー・ヘルスケア・ジャパン株式会社)、
  積水ハウス株式会社、
  タケダ(武田薬品工業株式会社)、
  au(KDDI株式会社)、
  dポイント(株式会社NTTドコモ)、
  BIGMOTER(株式会社ビッグモーター)、
  LOTTE(株式会社ロッテ)、
  ソフラン(ライオン株式会社)
  大正製薬株式会社、
  株式会社サカイ引越センター、
  ウナクール(興和株式会社)、
  オートバックス(株式会社オートバックスセブン)、
  味の素株式会社、
  チョコラ(エーザイ株式会社)、
  株式会社バンダイナムコエンターテインメント、
  GODA(高砂熱学工業株式会社)、
  小林製薬株式会社、
  バイクオー(株式会社バイク王&カンパニー)、
  東海銀行(三菱東京UFJ銀行)
  ロート製薬株式会社、
 こんな番組を提供して、逆宣伝になっている。
  (参考)次の様な声もある。 [桜H29/7/14]
  https://www.youtube.com/watch?v=pIgpdwubRVw
  負けるな安倍政権!
  メディアと反日勢力による倒閣運動を許すな!
.
2017年、(庶民の声ー1):最近、朝日・毎日・TBSあ
 たりの捏造報道が露骨になってきた気がする。
  それを批判されると外国人特派員協会に焚き付けて海
 外メディアにも放火を始める。
  青山議員と愛媛元知事のやり取りは、ついに報道しな
 かった。
  もはやジャーナリズムの体をなしていない。
  (庶民の声ー2):愛媛県の元知事の国会証言や青山
 議員の糾弾は立派で正論です。
  多くの国民は同意と思います。
  よって、四国の鳥インフルエンザや狂牛病などに対処
 できる獣医師の増加に反対する朝日、毎日新聞に対し、
 四国の草莽、畜産、水産、農業従事者は、組織的に、今
 こそ購読拒否運動をすればいいと思います。
  (庶民の声ー3):日本の中に北京派と台湾派があり
 マスコミは、内外の北京派に圧力をかけられていると認
 識して良いですね。
  そして、世論調査はいかさまですよね!
  トランプと阿部さんが親密であったことも、アメリカ
 民主党を刺激している。
  (庶民の声ー4):閉会中審査の加戸前愛媛県知事の
 証言は地上波ではカットされています。
  一番ひどいのはTBSとテレビ朝日です。
  (庶民の声ー5):G20での会談で習中国主席が、
 安倍首相に歴史問題と台湾問題で圧力かけてきたことを
 日本は全く報道しませんね。
  台湾の方の話で知りました。
  マスコミは、中国に屈しない安倍首相の姿勢・必要性
 が国民に知られるのが嫌なのでしょうか。
  (庶民の声ー6):恐ろしいほどマスコミの作為を感
 じます。
  TBS「ひるおび」とフジTVバイキング坂上忍や東
 国原、グッディの安藤裕子や高橋克実の印象操作は酷い
 です。
  これらの番組は、元々、目立つ様な安倍政権叩きして
 なかったのに、今年になって急に森友加計学園から容赦
 ない安倍叩き始まりました。
  泉企画含め明らかに計画性を感じます。
  そして、主婦やネット使わない高齢世代がマンマと乗
 せられて選挙に反映。
  昼のワイドショーは危険です!
  (庶民の声ー7):外国勢力とつながる日本の勢力が、
 外国勢力の金で世論を操作する。
  この様な動きで、国が動いてしまうから恐ろしい。
  民主主義の制度が逆利用されて、外国勢力の金で動か
 された声の大きい日本の組織が動き、庶民が洗脳されて、
 動かされてしまう。
  毎日、毎日、聞かされているうちに、その様に思わさ
 れ、その外国勢力の思惑の中に入って行ってしまう。
  イギリスの場合もそうだった。
  繰られ、煽(あお)られたイギリスの国民の方々が、
 EU離脱を決定してしまう。
  事が決した後に、我に返ったイギリスの国民の方々、
 その時は、仕掛けた者たちの姿は消え、急に見えなくな
 ってしまった。
  イギリスの「EU離脱の決定だけが残った」。
  しかし、決してしまったことは、変えることはできな
 いと、その決定に従って行くイギリス・・今までの努力
 は水泡と化した。
.
2017年、TBSテレビの「サンデーモーニング」が、偏向
 番組だと盛んに指摘されているが・・、
  この番組の進行をしている関口宏は、キリスト教系の
 立教大学の出身。
  関口宏は、立教小学校~立教中学校~立教高校とズー
 ット立教のキリスト教育を受けて来た「生粋(きっすい、
 まじりけの全く無いこと)の立教人」。
  立教大学の方針は、「キリスト教で教育された人間で
 日本のメディアを制する」という目的を持っていて・・、
 立教大学出身者を日本のメディアに送り込んでいる。
  それ故、日本のメディアには、立教出身者が多い状態
 となっている。
  偏った人間構成となっている。
  マッカーサー司令官が、日本をキリスト教化したいと
 して国際基督教大学を作ったが・・、この立教大学も、
 このイデオロギーに沿った行動をとっている。
  そして、今・現在も、このサンデーモーニングの事例
 の様な偏向した行動が行なわれ、その異常さが指摘され
 ている。
.
2017年、日本のマスコミが、トランプ大統領を、「トラン
 プ」「トランプ」と呼び捨てにしているが・・、
  なかなか、「トランプ大統領」と言わないが・・、
  こんな形でのトランプ下ろしも行われている・・、
  庶民の方々は、こんな形からも・・印象操作されてい
 る。
  テレビのどのチャンネルに於いても・・その様に「呼
 び捨て」にしている・・が・・
  これは、その様に仕向けられている・・
  アメリカにおいて、まさかのトランプ大統領の誕生の
 時、トランプ降ろしのデモが起きた・・が・・、
  そして、このデモが・・資金によって・・金によって
 仕組まれていると・・指摘われたが・・、
  これらは、ほんの1例で・・、
  この様なやり方・・などなどで、「トランプ降ろし」
 が・・なされている。
  日本のマスコミは、これに、特に、追従している。
  根の深い関係で・・指令で・・アメリカや外資のある
 グループと関係を持っている。
  一体となってやっている。
  このグループは、アメリカ大統領選挙で、クリントン
 を大統領にしたかったグループ・その他で、
  べらぼうな資金力を持っている。
  今まで通りのクリントンの路線で行けると思ったが、
 今回、その思惑通りに行かなかった。
  今まで通り、政治と一体となって稼ぎたいとしていた
 ・・が・・その通りにならなかったグループ。
  その資金力にものを言わせて・・、日本に働きかけて、
 日本で自分好みに洗脳をしたいと・・やっている。
  日本の安倍首相が、トランプ大統領が大統領になった
 初期に訪米し、トランプ大統領と一体となって、行動し
 たことを・・苦々しく思っているグループ。
  「安倍おろし(降ろし)」にもつながって来る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)542E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年10月~1891年11月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)542E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年10月~1891年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年10月30日、甲武鉄道会社が、官設鉄道、および、日
 本鉄道会社と、自社線との間における連絡運輸に関する
 取扱手続として、「甲武鉄道連絡運輸取扱手続」を制定
 した(11月1日から実施)
1891年10月、神戸駅構内に、「鉄道電信技術伝習生養成所」
 を設けた。
  また、「鉄道電信技術伝習生取扱内規」を定めた。
1891年10月、萩山平兵衛が、馬場駅で弁当・お茶の販売を
 開始した。
1891年11月1日、甲武鉄道会社が、業務の独立自営を実施し
 た。
  新宿から東京市内への路線延長について、1889年5月に、
 申請し、
  1889年7月に、仮免状が下付されていた。
1891年11月3日、山陽鉄道会社線の福山駅~尾道駅間(19.8
 km)が開業した。
1891年11月4日、関西鉄道会社線の身田駅~津駅間(3.6km)
 が開通し、津支線の亀山駅~津駅間(15.7km)が全通した。
1891年11月5日、陸軍省が、東京・九段の靖国神社に、維新
 前後の国事殉難者1277名を合祀した。
  因みに、幕末の志士である吉田松陰、坂本龍馬、高杉
 晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎
 等も維新殉難者として合祀されている。
  また、禁門の変で、長州藩勢と戦い、天皇陛下の守護
 行為をして戦死した会津藩兵らも祀られている。
  そして、1868年(慶応4年)2月15日に起きた堺事件(
 土佐藩の隊旗を奪ったフランス人水兵を、土佐藩兵が、
 切り捨てた事件)の責めを受けて、堺(現大阪府堺市)
 の妙国寺で切腹した11人の土佐藩兵も祀られている。
1891年11月5日、演劇新派の伊井蓉峰らが、済美館(せいび
 かん)を旗揚げした。
  この年、伊井蓉峰(いいようほう)は、銀行勤務をや
 め、川上音二郎一座に参加した。
  そして、この年、浅草の吾妻座で、依田学海の後援で、
 男女合同改良演劇を標榜して、済美館で旗揚げをした。
  『心中天網島』はじめ、近松の作品を忠実に上演した。
  森鴎外のせりふ劇や、島崎藤村、夏目漱石、尾崎紅葉、
 徳富蘆花、その他の文芸作品と意欲的に取組み、
  1912年に、明治座の座主となり、名実ともに新派界三
 巨頭(他に河合武雄,喜多村緑郎)の筆頭となった。
  (1915年の新派大合同劇では座長)
  代表的な役は、『不如帰』の武男、『金色夜叉』の貫
 一、『婦系図』の早瀬、『二筋道』の阿久津など・・、
1891年11月7日、幸田露伴の「五重塔」が、日刊紙「国会」
 に連載を開始した。
  「五重塔」は、幸田露伴(こうだろはん)の短編小説の
 傑作で、1891年11月~92年3月まで、新聞『国会』に連載
 した。
  抜群の腕前をもちながら、鈍重な性格ゆえに「のっそ
 り」とあだ名される大工の十兵衛は、谷中・感応寺の五
 重塔建立の計画を知って末代にわが名をとどめる好機と
 奮い立ち、先輩の川越源太から仕事を奪い取る。
  源太の侠気に満ちた協力の申し出も拒み、さまざまな
 妨害をはねのけて、あくまでも独力で塔を建てた。
  落成式の前日、暴風雨に襲われるが、塔は微動だにし
 なかった・・ここの描写は圧巻の評がある。
1891年11月8日、改進党首の大隈重信は、自由党の板垣退助
 と早稲田で会見し、自由党・改進党の両党の連合・連盟
 を話し合った。
  これを知った第4代内閣総理大臣の松方正義は、11月12
 日、大隈重信の枢密顧問官の地位を諭旨免職にした。
  この第一次松方内閣は、1891年5月6日に成立していた
 が、不幸にも、内閣成立の5日後の1891年5月11日に、大
 津事件が発生し、責任を負って外務大臣や司法大臣、内
 務大臣などが辞意を表明するなどして、安定した内閣で
 はなかった。
1891年11月16日、文武高等官官職等級表を公布した(勅令
 215号)
  高等官には、文官と武官の区分があった。
  能力などの等級制は、任免の基礎と捉え、制度化した。
  また、能力等級表の種類および等級構成は、任用に活
 用する観点から、もっともふさわしい形で、これらを設
 定することが求められていた。
1891年11月17日、小学校規則大綱が制定された(明治24年
 文部省令第11号)
  第一条、小学校ニ於テハ小学校令第一条ノ旨趣ヲ遵守
     シテ児童ヲ教育スヘシ
  徳性ノ涵養ハ教育上最モ意ヲ用フヘキナリ故ニ何レノ
 教科目ニ於テモ道徳教育国民教育ニ関連スル事項ハ殊ニ
 留意シテ教授センコトヲ要ス
  知識技能ハ確実ニシテ実用ニ適センコトヲ要ス故ニ常
 ニ生活ニ必須ナル事項ヲ撰ヒテ之ヲ教授シ反覆練習シテ
 応用自在ナラシメンコトヲ務ムヘシ
  各教科目ノ教授ハ其目的及方法ヲ誤ルコトナク互ニ相
 連絡シテ補益センコトヲ要ス
  第二条、修身ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キ児童
     ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養シ人道実践ノ方
     法ヲ授クルヲ以テ要旨トス
  尋常小学校ニ於テハ孝悌、友愛、仁慈、信実、礼敬、
 義勇、恭倹等実践ノ方法ヲ授ケ殊ニ尊王愛国ノ志気ヲ養
 ハンコトヲ務メ又国家ニ対スル責務ノ大要ヲ指示シ兼ネ
 テ杜会ノ制裁廉耻ノ重ンスヘキコトヲ知ラシメ児童ヲ誘
 キテ風俗品位ノ純正ニ趨カンコトニ注意スヘシ
  高等小学校ニ於テハ前項ノ旨趣ヲ拡メテ陶冶ノ功ヲ堅
 固ナラシメンコトヲ務ムヘシ
  女児ニ在リテハ殊ニ貞淑ノ美徳ヲ養ハンコトニ注意ス
 ヘシ
  修身ヲ授クルニハ近易ノ俚諺及嘉言善行等ヲ例証シテ
 勧戒ヲ示シ教員身自ラ児童ノ模範トナリ児童ヲシテ浸潤
 薫染セシメンコトヲ要ス
1891年11月18日、内務大臣・品川弥二郎が、閣議に「鉄道
 政略ニ関スル件」を提出した(1891年7月説あり)
  閣議は、これを修正して、12月14日、第2回帝国議会に
 鉄道公債法案・私設鉄道買収法案として提出した。
  明治20年(1887年)頃~明治40年(1907年)頃は、一
 般に、幹線鉄道の建設を盛んにした時代だった。
  この時代、地域社会はみずから資本を調達して、私設
 鉄道を建設する意図をもつ例も少なくなかった。
  しかし、計画に対して開業にいたる比率ははなはだ少
 なかった。
  これは、地方の個々の地域社会における資本蓄積が十
 分ではなく、
  それ故、軽便鉄道や馬車・人車鉄道を除けば、巨額な
 資本を必要とする一般の鉄道の建設を行なうには、無理
 があった。
  多くの地域社会は、幹線鉄道のルート決定に際して、
 みずからの地域に有利なルートを採択させようと努力し
 た。
  この翌年・1892年に、鉄道敷設法が公布され・・、
  わが国における幹線鉄道網の将来像が画かれ、
  かつ、帝国議会を通じて地域社会の意志が鉄道建設に
 反映できるようになった。
  そして、この動きは活発化した。
  この「鉄道政略ニ関スル議」は、1891年7月に出され、
 長文の文書であった。
  要点は2つ・・、
  第1は、将来の日本の幹線鉄道の路線を決定し、政府は
 そのための長期計画を立てて、着実に建設を行なうため
 の法律、および、その資金を得るための公債発行の法律
 が必要。
  第2は、幹線鉄道網の一環となる私設鉄道を政府が買収
 する。
  政府は、井上勝(いのうえまさる)の建議に基づいて、
 鉄道公債法案と私設鉄道買収法案を、1891年12月、衆議
 院に提案した。
  しかし、「政府の私設鉄道の買収案」は否決され、「
 幹線鉄道路線計画案」は、議決に至らないうちに、衆議
 院が解散されてしまった。
  翌年・1892年5月、改選された帝国議会において、政府
 は上記2法案を再提案した。
  衆議院議員のなかからも、「鉄道拡張法案」あるいは
 「鉄道敷設法案」の名称で、各地の鉄道建設を促進する
 法案を独自に提案する者もあって、政府の提案は、これ
 らと折衷されて、1892年6月21日、「鉄道敷設法」(明治
 25年法律第4号)として公布された。
1891年11月20日、日本鉄道会社が、線路の保守・運輸・運
 転業務の独立自営を、井上鉄道庁長官・品川内務大臣に
 申請した(12月28日了承された)
.
  (今日の言葉)
.
  題:君たちだけが逃れられると思うのは『妄想だ』・・、
.
1882年、明治政府は、自由民権運動の鎮静化を狙って、こ
 の年、板垣と後藤に、ヨーロッパへ勉強する機会を与え
 た。
  自由党内部では、彼らの洋行に対して反対論が大きか
 ったが、
  両者とも、自らが信奉するリベラリズムがヨーロッパ
 の政治上どのように機能しているのか、現地に行って実
 際に見てみたい気持ちを抑えられず、根強い反対を押し
 切って洋行した。
.
1889年12月24日 山県有朋が、第一次内閣を組織した(~
 1891年5月6日)
  黒田清隆内閣は、大隈条約改正案の失敗で倒れたあと
 に成立した藩閥内閣で・・、
  国会開設を翌年に控えて、超然主義を掲げた。
  しかし、1890年7月の第1回総選挙では、反政府派の民
 党(旧自由党系、改進党)が多数を占める勢いであった。
  内閣は、議会乗り切りのため、その直前の5月に、改造
 を行い、陸奥宗光を農商務相として入閣させ、後藤象二
 郎とともに民党対策にあたらせた。
  他方、同年・1890年10月には、教育勅語を発布して、
 天皇制の精神的基礎の確立を目ざした。
  同年・1890年11月、開会の第1議会では、国是として主
 権線と利益線(朝鮮)の擁護を訴え、軍備拡張を基本と
 する予算案を提出した。
  これに対し、民力休養・政費節減を主張する民党は全
 予算の1割に及ぶ削減案で対抗した。
  そのため、内閣は、一方で衆議院解散をほのめかし、
 他方で後藤、陸奥を通じて自由党土佐派を切り崩して、
 からくも第1議会を乗り切った。
  第1議会閉会直後に総辞職し、松方正義内閣に引き継が
 れた。
.
1903年7月、ロシアは、アレクセーエフ提督を極東総督に任
 じた。
  (この提督は、日露戦争の原因を作った人と言われて、
 世界に知られている)
  この役職は、政治・軍事を問わず、極東に関するあら
 ゆる問題を管轄できる役職であり、
  日本・清・朝鮮など極東諸国との外交権を握っていた。
  さらに、その翌月、ヴィッテを罷免し、ベゾブラーゾ
 フ(1896年、日本との開戦の必要性を唱える請願書を皇
 帝に提出した人)を、ロシアの国務大臣に任命し、対日
 強硬路線へ突き進んでいくこととなった。
  ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世も、ロシアを欧州から遠ざ
 け、
  かつ、イギリスとロシアを対立させるチャンスと見て、
 ロシアの極東進出を応援した。
  1904年2月、ヴィルヘルム2世は、ロシア皇帝ニコライ
 2世に宛てて手紙を書いた・・、
  「偏見のない人なら誰でも朝鮮は、ロシアのものと考
 えている」として、ニコライ2世の方針に支持を表明し
 た。
  そして、彼に「太平洋提督」になることを勧めた。
  「黄色い猿(日本のこと)」を侮蔑するニコライ2世は、
 ロシアがどんなに強硬路線を取ろうと、「日本に、ロシ
 アと戦争する勇気などあるはずがない」としていた、
  そして、「ロシアが、自分が望まない限り、日露の戦
 争にはならない」と考えていた。
  1903年10月に、アレクセーエフ提督に対して、「私は、
 日本との戦争を望まないし、許可もしない」と述べたか
 と思えば・・、
  1903年12月には、「ロシアの強硬な圧力を受けて、日
 本が旅順から撤退した1895年を思い出す」
  「どっちにしても日本は野蛮な国だ」
  「開戦か、利権交渉か、一体どちらがよいことやら」
 と述べたりした。
  さらに、1904年1月の新年、レセプションの席で・・、
  「何人たりとも、ロシアの忍耐力と平和を愛する心に
 いつまでも期待をかけてはならない」
  「ロシアは大国であり、行きすぎた挑発は許さない」
  ・・と演説した。
  アレクセーエフは、全権を与えられているといっても、
 形式的にであれ、皇帝の裁可は不可欠であった。
  しかし、1903年8月~1903年11月にかけて、ニコライ2
 世は、西欧を歴訪していたこともあり、
  日本との交渉は遅々として進まず、日本の不信感は高
 まって行った。
  (参考)ベゾブラーゾフ(アレクサンドル・ミハイロ
     ヴィチ・ベゾブラーゾフ)は、イギリスの東イ
     ンド会社のような組織を設立して、朝鮮半島と
     満州における権益を確保して、それらを強制的
     に征服すべしとした。
.
1918年、 第一次世界大戦中の1918年に始まったスペイン
 インフルエンザのパンデミック(俗に「スペインかぜ」
 と呼ばれる)は・・、
  被害の大きさできわだっていた。
  世界的な患者数、死亡者数についての推定は難しいが、
 患者数は、世界人口の25%~30%(WHO)となった、
  あるいは、世界人口の3分の1(Frost WH,1920年)、約
 5億人(Clark E.1942年)で、
  致死率(感染して病気になった場合に死亡する確率)
 は、2.5%以上(Marks G, Beatty WK, 1976年; Rosenau
  MJ, Last JM, 1980年)、
  死亡者数は、全世界で4,000万人(WHO)、
  5,000万人(Crosby A, 1989年; Patterson KD, Pyle
 GF, 1991年; Johnson NPAS, Mueller J, 2002年)、
  一説には、1億人(Johnson NPAS, Mueller J, 2002年)
 とも言われている。
  日本の内務省統計では、日本で、約2300万人の患者と、
  約38万人の死亡者が出たと報告されている。
  ・・が、歴史人口学的手法を用いた死亡45万人(速水、
 2006年)という推計もある。
  スペインフルの第一波は、1918年3月に、アメリカと
 ヨーロッパで始まるが、
  この(北半球の)春と夏に発生した第一波は、感染性
 は高かったものの、特に、致死性ではなかった。
  しかしながら、(北半球の)晩秋からフランス、シエ
 ラレオネ、アメリカで同時に始まった第二波は、10倍の
 致死率となり、
  しかも、15~35歳の健康な若年者層において、もっと
 も多くの死がみられ、
  死亡例の99%が、65歳以下の若い年齢層に発生した。
  過去にも、またそれ以降にも、例のみられない現象が
 確認された。
  また、これに引き続いて、(北半球の)冬である1919
 年の始めに、第三波が起こった。
  一年のタイムスパンで、3回の流行がみられたことにな
 る。
  これらの原因については、多くの議論があり、これら
 の原因について、よくわかっていない。
  1918年の多くの死亡は、細菌の二次感染による肺炎に
 よるものであったとされているが、
  一方、スペインフルは、広範な出血を伴う一次性のウ
 イルス性肺炎を引き起こしていたことも分かっている。
  非常に重症で、かつ、短期間に死に至ったため、最初
 の例が出た際には、インフルエンザとは考えられず、脳
 脊髄膜炎、あるいは、黒死病の再来かと疑われた。
  もちろん、当時は、抗生物質は発見されていなかった
 し、
  有効なワクチンなどは論外であり、
  インフルエンザウイルスが始めて分離されるのは、1933
 年まで、待たねばならなかった。
  このような医学的な手段がなかったため、対策は、患
 者の隔離、接触者の行動制限、個人衛生、消毒と集会の
 延期といった、ありきたりの方法に頼るしかなかった。
  多くの人は、人が集まる場所では、自発的に、あるい
 は、法律によりマスクを着用し、
  一部の国では、公共の場所で、咳やくしゃみをした人
 は、罰金刑になったり、投獄されたりした。
  また、学校を含む公共施設は、しばしば閉鎖され、
  集会も禁止された。
  患者隔離と接触者の行動制限は、広く適用された。
  感染伝播をある程度遅らせることはできたが、患者数
 を減らすことはできなかった。
  この中で、オーストラリアは、特筆すべき例外事例だ
 った。
  厳密な海港における検疫、すなわち、国境を、事実上、
 閉鎖することによりスペインフルの国内侵入を、約6ヶ月
 遅らせることに成功した。
  そして、この頃には、ウイルスは、その病原性をいく
 らかでも失っており、
  そのおかげで、オーストラリアでは、期間は長かった
 ものの、より軽度の流行ですんだ。
  その他、西太平洋の小さな島では、同様の国境閉鎖を
 行って侵入を食い止めたところがあった。
  しかし、これらのほんの一握りの例外を除けば、世界
 中で、このスペインフルから逃れられた場所はなかった。
.
1972年、この年の春、アメリカは、ベトナム戦争の真った
 だ中というこの時に、同盟状態の南ベトナムを見捨てた。
  可哀想に、裏切られ、見捨てられた南ベトナムは、そ
 の3年後に、北ベトナムに降伏し、飲み込まれて行ってし
 まった。
  アメリカは、この時、勝手に、今までの方針を変えた。
  「南ベトナムが、北ベトナムの共産陣営に飲み込まれ
 てもかまわない」とした・・、
  手のひらを返した。
  こんな、アメリカの勝手は、歴史のあちこちにある。
  アメリカは、この様な国で・・、
  そして、アメリカは、「日本や台湾を守るために、中
 国と戦争したりしない」とも言った。
  ミアシャイマーも、ジャービス(コロンビア大学)も
 言っている、「自国(アメリカ)の国益を増進するため
 の道具」に過ぎない・・と・・、
  日本の対米依存主義(バンドワゴン)は、この様な「
 薄氷の上にある」。
.
1990年代、中国政府とインド政府は、1990年代の初めから、
 「21世紀の国際構造は、かならず多極化する」と明晰に
 分析し、
  自国が、その多極構造において有利な立場を獲得する
 ためのグランド・ストラテジーを構想し、着々と手を打
 った。
  (参考資料記述)外交の巧拙(こうせつ、巧みな事と
    つたないこと)は、交渉を指導し、これに従事す
    る者のかけひきの術に依存するのみならず、
     彼らの、彼我の相対的力量を冷静に測定し、交
    渉をめぐる国際・国内環境を現実的に把握し、大
    局を見すえて緻密に駒を進める能力に依存する。
     グランド・ストラテジーgrand‐strategyをもっ
    て外交を進めることが大切。
  (参考)ストラテジー(Strategy)とは、「戦略」「作
    戦計画」を意味する英単語。
     ギリシャ語で「軍を導く」という意味の言葉「
     Strategic」に由来する。
      ある目的を達成するために、総合的に進めら
     れる計画や運用方法。
  (参考)バンドワゴンとは、行列の先頭の楽隊車のこ
     とであり、
      「バンドワゴンに乗る」とは、時流に乗る・
     多勢に与する・勝ち馬に乗る、といった意味。
      経済学・政治学・社会学などで使われる。
      バンドワゴン外交・・キッシンジャー、ウォ
     ルト(ハーバード大学)、ミアシャイマー、ジ
     ャービス(コロンビア大学)などは、「(日本
     の)バンドワゴンする依存主義の外交は、その
     うちに大失敗するぞ」という。
      また、「自分の国の安全保障には、自分で責
     任を取れ」と繰り返し、著作や論文で警告して
     いる。
.
2017年1月18日、駐日アメリカ大使に、キャロライン・ケネ
 ディ大使が離任し、
  ジェイソン・ハイランド首席公使が臨時代理大使に就
 任した。
  氏は、これまで、在日米国大使館首席公使を務め、公
 使の職位を持つ上級外交官。
  アジアでの勤務、および、研究活動は17年に及び、最
 近では、在オーストラリア米国大使館首席公使を務めた
 (2010年~2013年)。
  在日米国大使館、在札幌米国総領事館、および、在福
 岡米国領事館に勤務し、福岡では首席領事(1995年~1998
 年)。
  国務省では、東アジア・太平洋局の特別補佐官(1998
 年~1999年) のほか、日本部に所属。
  1995年2月に、阪神・淡路大震災で被災した米国市民を
 支援するため、最初に、神戸に派遣された大使館チーム
 の一員として、国務省から グループ優秀名誉賞を受賞
 した。
  東京大学で、外国人客員研究員として研究活動を行っ
 たほか、アメリカ・カナダ大学連合日本研究センターで
 学んだ。
  国防分野の統合教育機関である米国防大学を構成する
 カレッジのひとつ、ナショナル・ウオー・カレッジで国
 家安全保障戦略の修士号を取得(2000年)
  また、タフツ大学フレッチャー法律外交 大学院(法律・
 外交学)で修士号、カリフォルニア大学バークレー校で
 学士号(歴史学)を取得した。
  バークレー校では、日本語を学び、日本史に関する卒
 業論文 の執筆により歴史学で優秀賞を受賞した。
  マサチューセッツ工科大学(MIT)セミナーXXI
 プログラムにフェローとして参加した。
  日本語のほか、ウクライナ語、アゼル バイジャン語、
 スペイン語も話す。
.
2017年、核攻撃のボタンを押した君も『死ぬ』ことになる・・、
  一旦、核戦争になったら・・誰も・・逃れられない。
  今現在、広島・長崎型原爆より、べらぼうに大きい核
 兵器・原爆を持つという人類となっている。
  その放射能たるや・・「福島原発事故どころではない」・・、
  全地球が、高濃度の放射能でおおわれる・・、
  今でも、福島は、帰還が出来ない・・帰ることが不可
 能な地域となっている・・、
  この福島どころではない高濃度の放射能に、長い年月、
 全地球が覆われる・・、
  高濃度の放射能に汚染された状態となる。
  生物の・・『生存が許されない地球』となる。
  だから、また、『核ボタンを押した君の家族』も・・、
  また、『君の知人・親戚も』・・
  その高濃度の・・長く続く・・放射能汚染から・・逃
 れる事は出来ない。
  君たちだけが逃れられると思うのは『妄想だ』・・、
  愚かなる兵器の押しボタンを持つ君に告ぐ!!
.
2017年、アメリカのコーネル大学の大学院の国際政治学の
 ゼミは・・、
  教授が、毎週、国際政治学や安全保障政策で、最も質
 の高い著作を4冊~5冊ずつを読ませるという、勉強量の
 多すぎる授業で・・、
  毎週毎週、教授にしごかれ、「ゆとり教育」という甘
 い状況どころではない・・、
  「ゆとり教育」というより、「しごき教育」という状
 況の教育。
  必死に、この教育・しごきについて行って、今、本当
 に本気で感謝していますと言う人は多い。
  「特に、役に立ったと言えばこれだ」とも言えると・・、
  しっかり勉強している者が多くないと、本物は作れな
 い・・似非(えせ)になってしまう。
  知的レベルの差は、ここから生まれ・・、
  加計学園だけに捉われ、『本当の政治課題から逃げて
 いる』野党の架空政治家は・・この事例の落ちこぼれ政
 治家版。
.
2017年、キリスト教は、国歌斉唱と国旗掲揚に反対してい
 る。
  また、マッカーサーGHQ司令官は、キリスト教系大
 学である国際基督教大学を作ったりした・・、
  そして、日本をキリスト教化したいとした。
  また、GHQの占領政策の中で、マッカーサーは、
 WGIP(War Guilt Information Program/ウォー・ギ
 ルト・インフォメーション・プログラム)を実施し・・、
  日本人に「罪悪感を植え付け」・・、
  戦前日本の文化・教育などのあり方をすべて否定させ・・、
  日本人から愛国心と自信を奪い取るという『プログラ
 ムを実施した』。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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(増補版)541E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年10月~1891年10月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)541E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年10月~1891年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年10月7日、文部省が、小学校の修身教科書の使用を通
 達した。
  1890年(明治23年)10月30日、「教育ニ関スル勅語」
 が出され、
  1891年(明治24年)「小学校教則大綱」(11月制定)
 と、「小学校修身教科用図書検定基準(標準)」(12月
 制定)が策定され、修身教科書の発行へ・・、
  1893年(明治26年)に至り、検定を受けた教科書がで
 き、
  また、この翌年・1894年(明治27年)4月から使用が開
 始された。
  ・1892年、東久世通禧『尋常小学修身書』4冊
  ・1893年、東久世通禧『高等小学修身書』4冊
  ・1892年、末松 謙澄『修身入門』1冊
  ・1892年、末松 謙澄『小学修身訓』3冊
  ・1892年、末松 謙澄『高等小学修身訓』4冊 
  ・1892年、末松 謙澄『修身女訓』4冊
  ・1893年、渡辺 政吉『実験日本修身書』入門共8冊
  ・1900年、普及舎編輯所『新編修身教典』(尋常科・
       高等科・女子用―各4冊)
  ・1900年、文学社『小学新修身』(尋常科・高等科・
       女子用―各4冊)
  因みに、アメリカでは、「初代大統領のワシントンは、
 桜の枝を折ったことを正直に言いました」という徳目主
 義があるが・・、
  これは、アメリカの初代大統領のワシントンを崇拝す
 る動きに於いて、この様な逸話が、1806年頃に作られた
 (その他、様々なこの類の行為を、アメリカは行なって
 いる)
1891年10月7日、鉄道庁旅費規定を改正(8月16日から適用)
1891年10月15日、東京に吊り橋「お茶の水橋」が落成し開
 通した。
  「お茶の水」の名の由来は、二代将軍の徳川秀忠が、
 この近くにあった高林寺の湧水で淹れた茶が気に入った
 ため・・、
  この付近一帯が、「お茶の水」と呼ばれるようになっ
 た。
  この初代の橋は、1891年、原龍太によって、日本人の
 設計としては初の鉄橋として架けられた。
  構造は、長さ38間(約69m)・幅6間(約11m)の上路式
 トラス橋だった。
  因みに、1904年に、橋の下に甲武鉄道(現在のJR中
 央本線)御茶ノ水駅が開設された。
  そして、1923年の関東大震災に会い、この橋の橋板に、
 木材が使われていたため、焼失した。
  神田川は、土砂崩れでせき止められた。
  1931年5月10日になり、震災復興事業として、架替が完
 成した。
  新たな橋は、橋桁と橋脚を一体構造にした鋼製ラーメ
 ン橋で、耐震性に優れ、現在まで至っている。
1891年10月28日、早稲田文学が創刊された。
  前年新設された早稲田大学の前身・東京専門学校文学
 科の機関誌として創刊された・・が・・、
  これは、第一次の早稲田文学で、
  現在まで、八次にわたって継続して発行されている文
 芸雑誌
  第1次は、1891年10月~1898年10月の全156冊で、坪内
 逍遙が主宰だった。
  最初は、講義録風なものであったが、次第に逍遙、島
 村抱月、綱島梁川らの論文がふえていった。
  また、森鴎外との間で没理想論争を展開したりしたが、
  「文学」に対する理解の未分化な時代に、明治文学の
 嚮導者(きょうどう、先に立って案内すること)として
 果たした役割は大きい。
  発行所は、当初は東京専門学校、
  49号より早稲田文学社。
  最初の講義録的なものが変わって「記実主義」の方針
 を打ち出し、当時の文学状況を伝える「時文評論」や、
 文学界の動向を概括した「彙報(いほう)」欄に特色をみ
 せるようになった。
  そして、文学科卒業生の金子筑水(ちくすい)、水谷不
 倒(ふとう)、島村抱月(ほうげつ)、後藤宙外(ちゅうがい)、
 五十嵐力(ちから)らが誌面で活躍しはじめて、文芸誌と
 しての色彩を強まった。
  ほかに、高山樗牛(ちょぎゅう)、綱島梁川(つなじまり
 ょうせん)などが執筆に加わった
1891年10月28日、濃尾大地震
  岐阜県、愛知県、倒壊焼失家屋:約26万8000戸、死者
 数:約9万6000人。
  早朝、6時38分50秒、濃尾地方で濃尾地震が発生。
  直下型地震で美濃・尾張地震とも言う。
  震源:岐阜県本巣郡根尾村、北緯35度35分、東経136度
 20分の地点
  規模:M8.0(8.4?)、モーメントマグニチュードは、
 7.4と推定されている。
  根尾谷断層帯が活動した典型的な直下型地震で、日本
 の陸域で発生した地震としては最大規模。
  濃尾地震の被害は、濃尾2県はもとより、近隣の滋賀県
 や福井県にも及んだ。
  別史料に、死者7273人、負傷者1万7175人、全壊家屋
 14万2177戸、半壊8万戸。
  また、別史料:死者7466人、全壊:14万2177戸。
  岐阜県を中心に、岐阜、大垣、名古屋で被害甚大。
  西根尾(ねお)村(現=岐阜県本巣市)で、80kmにわ
 たる断層が発生した。
  名古屋・清洲・一ノ宮・木曽川・大垣の各駅本屋全壊、
 岐阜駅本屋大破、木曽川・長良川・揖斐川の各橋梁破損
 のほか線路等に大被害(完全復旧までに6か月を要した)
  なお、罹災者に対する救恤品は無賃、
  救護材料の運賃は、半額(災害罹災者に対する救恤品の
 無賃輸送および救護材料の運賃割引の最初)
  (参考)救恤(きゅうじゅつ):「恤」は、めぐむ意
     で、困っている人に見舞いの金品などを与えて
     救うこと。
1891年10月30日、帝国議会第二回仮議事堂が竣工した(第
 二次仮議事堂落成)(10月20日説あり)
  日本に議会が開設された1890年(明治23年)から現在
 の議事堂が完成するまで46年間がある。
  第1回帝国議会から第69回帝国議会まで、木造の仮議
 事堂を使用していた。
  1881年(明治14年)10月12日、明治天皇陛下から「明
 治23年を期し議員を召し国会を開く」旨の国会開設の勅
 諭が発せられ、
  そこで、1886年(明治19年)2月、内閣に臨時建築局が
 設けられ・・、
  議事堂建築が、スタートすることになった。
  不平等条約の改正に取り組む政府は、外交上の政略等
 もあって、外国の技術者を招聘することとし、ドイツか
 ら建築家を招聘した。
  日本からも、技師をドイツに派遣するなど準備に着手
 し、
  1887年(明治20年)4月の閣議において、議事堂建築
 予定地を麹町区(現在の千代田区)永田町1丁目に決定
 した。
  ドイツ人建築家により議事堂の設計(エンデ及びベッ
 クマンによる案)がなされ、
  中央諸官庁の集中建築計画が立てられた。
  ・・が、計画に従えば多大の経費を要すること、議事
 堂のような大建築物を造り上げるには、帝国議会の開設
 があまりにも切迫していたことから、議事堂の本建築は
 中止され・・、
  麹町区内幸町2丁目(現在の千代田区霞ヶ関1丁目経
 済産業省の区画)に仮議事堂を建築することとなった。
  仮議事堂は、2度火災で焼失したため、都合3回にわ
 たって建築された。
  第1回仮議事堂は、1890年(明治23年)11月24日、(
 第1回帝国議会召集の前日)竣功した。
  木造洋風2階建て。
  同年・1890年11月29日に、貴族院議場において、開院
 式が行われ、我が国最初の議会である第1回帝国議会が開
 会された。
  しかし、翌・1891年(明治24年)1月20日未明、突如出
 火し、数時間で、焼失してしまった。
  原因は漏電。
  議会開会中のため、貴族院は華族会館(旧鹿鳴館)、
 衆議院は東京女学館(旧工部大学校)に議場を移した。
  貴族院は、のちに華族会館が手狭なため帝国ホテルに
 移転した。
  第2回仮議事堂は、第1回仮議事堂の焼け跡に、1891年
 (明治24年)10月30日に竣功した。
  木造洋風2階建て。
  外観は、第1回仮議事堂とそれほど変わらなかったが、
 中央に1か所だった玄関が、貴族院と衆議院の両院に、
 それぞれに設けられ・・、
  防火壁、議場の音響効果改善など、細部に工夫が凝ら
 された。
  しかし、また、この議事堂も、1925年(大正14年)9月
 18日に焼失する事になる。
  補修工事業者の不始末からの火災だった。
  (参議院ホームページを参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:1時間後には、やった方(攻撃した方)も、ほぼ居なくなる・・
.
1773年、アメリカのマサチューセッツで、知的な指導的
 黒人の方々が、『奴隷制度は自然権に反する』と主張し
 た。
  それ故、彼ら黒人奴隷にされている人々にも自由が与
 えられるべきだと主張した。
  そして、植民地議会に請願を行なった。
  1773年~1780年までに、マサチューセッツ、コネティ
 カット、ニューハンプシャーで行なわれた自由を求める
 黒人の方々の集団請願が、10数本にもなった。
  また、多くの黒人の方々が、個人的に、また、集団的
 に逃亡し、抵抗した。
  自由獲得への意思表示をして抵抗した。
  そして、また、多くの黒人の方々が、直接に革命軍に
 身を投じ、イギリス軍と戦った。
  また逆に、狡猾なイギリス軍は、この黒人の方々の逃
 亡奴隷の革命軍への参戦を利用して、1775年11月、イギ
 リス軍に味方して革命軍と戦う奴隷には、『イギリス国
 王の軍に参加した時点で、すべての奴隷を解放する』と
 布告した。
  このイギリスの国王軍には、卑劣にも大プランターが
 多く居て、多くの黒人の方々を奴隷にして虐(しいた)
 げていた。
  その様なイギリス軍だった。
  欺瞞的行動を悪びれず行なう卑劣なイギリス国王軍だ
 った。
  黒人の方々は、悲しいかな、この狡猾な「イギリスの
 引っ掛け」に引っ掛かってしまっていた。
.
1775年4月、アメリカの黒人の方々が、奴隷制反対協会を設
 立した。
  アメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンからして奴
 隷所有者という遅れた国家であり、また、人間だった。
  この様なアメリカにおいて、1775年4月、アメリカ最初
 の奴隷制反対協会が、フィラデルフィアに設立された。
  そして、ついに、1794年1月に、フィラデルフィアで
 全国大会が開かれた。
.
1943年4月、バミューダ会議
  アメリカとイギリスの高官レベルの会議で、ユダヤ人
 の方々を、ナチスの手から助ける事に対して、「放棄す
 る」ということが、この会議で決定された。
  また、大量の難民発生に対し、アメリカ・フランス
 トルコ・イギリスなどの大使館は閉鎖した。
  ユダヤ人の方々の受け入れの拒否行為をして対策した。
  それを、日本は、大使館などの館を開けていて、ユダ
 ヤ人の方々の受け入れをしていた・・受け入れを良いと
 していた。
  このため・・キリスト教が嘘宣伝する杉原千畝が褒め
 られるのではなく、日本の国・自体が褒められる事なの
 だ。
  第二次世界大戦中、ドイツで公然と行われたユダヤ人
 迫害に関して、アメリカも、また、ヨーロッパの国々も、
 長い間沈黙を守った・・というより、口をつぐんだ。
  また、ユダヤ人の方々を進んで救おうとするまとまっ
 た動きもしなかった。
  その挙句(あげく)の・・大使館閉鎖だった。
  1943年4月、アメリカとイギリスの高官レベル会議(バ
 ミューダ会議)で、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害政策
 に対しては、何もすべきではないことが正式に決まり、
 大量救出のためのあらゆる計画が放棄された。
  ユダヤの方々の流入が、「救出するより怖い」と判断
 したアメリカ・ヨーロッパ諸国だった。
  そこには、キリスト教の「主(イエス)殺しのユダヤ
 人」という差別の洗脳が働いた。
  この事を後世に残すために、世界記憶遺産に登録し、
 且つ、アメリカ各地にこの像を建立せよ!
.
1945年、下記は、第二次世界大戦で戦死された方々の人数
 (軍人+一般の方々)で・・、
  その当時の国民数に対する戦没者の方々の割合で順位
 づけらている。
  当時の国民数に対して、ポーランドの方々が一番多い
 割合(16.7%)で犠牲となられている。
  01・ポーランド、5,820,000人(16.7%)
  02・ソビエト連邦、28,000,000(16.61)
  03・ナウル、500(14.7)
  04・リトアニア、350,000(14.33)
  05・ティモール、70,000(14.00)
  06・ドイツ、9,000,000(12.88)
  07・ラトビア、230,000(11.78)
  08・ルアンダ=ウルンディ、300,000(7.1)
  09・シンガポール、50,000(6.87)
  10・ユーゴスラビア、1,027,000(6.67)
  11・フィリピン、1,057,000(6.6)
  12・ハンガリー、580,000(6.35)
  13・フランス領インドシナ、1,500,000(6.1)
  14・オランダ領東インド、4,000,000(5.76)
  15・ギリシャ、335,100(4.5)
  16・エストニア、50,000(4.44)
  17・日本、3,120,000(4.37)
  18・ルーマニア、800,000(4.01)
  19・中華民国 重慶国民政府、20,000,000(3.86)
  20・オランダ、301,000(3.45)
  21・チェコスロバキア、325,000(3.15)
  22・南洋諸島、57,000(3.00)
  23・アルバニア、30,000(2.81)
  24・フィンランド、97,000(2.62)
  25・マラヤ連邦、100,000(2.28)
  26・朝鮮、483,000(2.06)
  27・オーストリア、120,000(1.80)
  28・ビルマ、272,000(1.69)
  29・フランス、550,000(1.35)
  30・パプアニューギニア、15,000(1.17)
  31・ベルギー、88,000(1.05)
  32・イタリア、454,600(1.03)
  33・イギリス、450,900(0.94)
  34・ニュージーランド、11,900(0.73)
  35・インド、2,587,000(0.68)
  35・ルクセンブルク、2,000(0.68)
  37・オーストラリア、40,500(0.57)
  38・マルタ、1,500(0.56)
  39・カナダ、45,400(0.40)
  40・ブルガリア、25,000(0.38)
  41・アメリカ合衆国、418,500(0.32)
  41・ノルウェー、9,500(0.32)
  43・アイスランド、200(0.17)
  44・南アフリカ、11,900(0.12)
  45・デンマーク、3,200(0.08)
  46・エチオピア、100,000(0.6)
  47・タイ、7,600(0.04)
  48・モンゴル、300(0.04)
  49・ニューファンドランド、100(0.03)
  50・ブラジル、2,000(0.02)
  51・スウェーデン、600(0.01)
  51・イラク、500(0.01)
   ・キューバ、100(0.00)
   ・イラン、200(0.00)
   ・アイルランド、200(0.00)
   ・メキシコ、100(0.00)
   ・スイス、100(0.00)
   ・トルコ、200(0.00)
   ・ネパール、
   ・スペイン、
  計 85,000,000人(4.00%)
  因みに・・第一次世界大戦の犠牲者数は・・、
  協商国(アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、イ
 タリア、ルーマニアなど)・・9,407,136人(1.19%)
  中央同盟国(ドイツ、オスマン帝国、オーストリア=
 ハンガリー帝国、ブルガリア王国)・・7,153,241(5.0)
  中立国(ノルウェー、スエーデン、デンマーク)・・
 3,491(0.03)
  計 16,563,868人(1.75%)
  ・・となっていて・・、
  第二次世界大戦の戦没者数は、この5.1倍の戦没者数
 という激烈な人数となっている。
  (一般人の犠牲者数の激烈な増加)
  しかし・・、第三次世界大戦の核戦争になると・・
  1時間後には、地球上の人類の約半数が死ぬと言われ
 ている。
  そして、一旦、核戦争になれば、その放射能で、人類
 のすべてが生き残れない。
  「人類の殺傷技術の進歩」と言えば卑劣であるが、愚
 かな人類の歩みは、その様な時代を作ってしまった。
  より強烈になってしまった兵器を持つ愚かな人間が、
 今現在、地球上に居る。
  何百万年も、営々と築いて来た人類の叡智・・
  「その叡智の一端で、この様な兵器を創り、一瞬にし
 てすべてが崩れ、人類の生存はおろか、地球上の全生物
 が抹殺されるという時代」となっている。
  その様な事態が起きる歯止めの技術の進歩は・・、
  『まったくない』・・.
1949年、1949年のこと・・、
  GHQは、アメリカのマッカーサー司令官の独裁的支
 配機関であった。
  占領政策の中で、マッカーサーは、WGIP(War
 Guilt Information Program/ウォー・ギルト・インフ
 ォメーション・プログラム)を実施した。
  これは、日本人に「罪悪感を植え付け」て・・、
  戦前日本の文化・教育などのあり方をすべて否定させ
 て・・、
  日本人から愛国心と自信を奪い取る・・
  ・・という、プログラムであった。
  1949年になって、日本を、あまりにも自分の考え方だ
 けで規制しているのを反省したのか・・GHQは、それ
 まで映画を検閲していたが止めた。
  時代劇も駄目だったが、時代劇もできるようになった。
  それから、約5年後くらいの1950年代後半に、日本は、
 映画全盛期を迎える。
  観客数ピークは、1958年に、11億2745万人。
  因みに、2015年は、1億6700万人。
  別史料に、GHQの下部の組織であるCIE(民間
 情報教育局)によって、日本の映画は管理されていたが、
 1952まで続いたとされている。
  また、戦争に協力したとして、1947年に追放された監
 督らが、その追放の処分解除が、1950年になされた。
  また、1951年に、サンフランシスコ講和条約が締結さ
 れると、その翌年の1952年に、GHQによる映画検閲が
 廃止になった。
  そして、これによって、上映禁止となっていた時代劇
 が復活した。
  1951年には、黒澤明の「羅生門」が、ベネチア国際映
 画祭グランプリを受賞した。
  また、GHQによって制限されていた戦争映画の制作
 がされはじめ、
  1950年には、関川秀雄の「きけ、わだつみの声」がで
 きた。
  因みに、ルーズベルト米大統領のブレーンの多くは、
 共産主義者だった。
  終戦を迎える以前の1943年から、アメリカにはOSS
 (Office of Strategic Serevices/戦術局)かあった。
  そこでは、日本が敗戦した後に、どのように日本を支
 配していくかを話し合っていた。
  OSSの中心的な構成員は、ドイツから亡命してきた
 マルクス主義を基にするフランクフルト学派のユダヤ人
 達であった。
  彼らは、日本をマルクス主義の実験場にしたかった。
  東西冷戦が起きた。
  当時のアメリカにとって、ソ連は、日本・ドイツ・イ
 タリアを共に攻める同盟国であったため、社会主義国に
 対する警戒意識は、当時、まだ持っていなかった。
  ルーズベルト大統領も、左翼思想の持ち主であり、彼
 のまわりは左翼思想家ばかりが取り巻いていた。
.
1949年、フーバー元アメリカ大統領の回想録「フリーダム・
 ビトレイド(FREEDOM BETRAYED、裏切られた自由)」が
1948年4月に出版された・・しかし・・
  1949年のこの年に、ダグラス・マッカーサーGHQ司
 令官は、日本での翻訳と、出版を禁じた。
  (卑劣な口封じ)
  第二次世界大戦は、日本は、『防衛のため』やむを得
 ず戦いをした・・と書かれている。
  このアメリカの不利な言説を、GHQは封じようとし
 た。
.
1963年、中性子爆弾の最初の実験が行われた。
  中性子爆弾(ちゅうせいしばくだん)は、核兵器の一
 種で、核爆発の際のエネルギー放出において、中性子線
 の割合を高め、生物の殺傷能力を高めたもの。
  放射線強化型核爆弾とも呼ばれる。
  中性子線は透過力が強く、薄い鉛などの金属板も透過
 する。
  地下鉄程度であれば透過するため、都市圏であればほ
 とんど助かる可能性はない。
  爆発による破壊よりも、人間を初めとする生物には放
 射線障害による死傷を与えることができ、爆風などの被
 害半径よりも中性子線による被害半径のほうが大きくな
 っている。
  中性子爆弾は、戦術核兵器として使用後の占領時に市
 街の建造物やインフラ設備を利用できるようにするため
 に爆発力を縮小させており、主として自軍地上部隊の行
 動を視野に入れた運用が考えられていた。
  そのため、弾頭威力も核兵器としては小さく、残留放
 射能も少量になるように設計されている。
  1ktの弾頭ならば、被害半径を1000m程度に抑えられる
 こともあって、戦術核兵器としての利用が考えられた。
  最初の実験は、1963年に、アメリカのネバダ核実験場
 で行われた。
  1970年代には、スプリント弾道弾迎撃ミサイル用のW66
 に中性子弾頭が使用された。
.
2017年、核戦争が一旦、起きたら、一時間後には、地球上
 の人類の『約半数が死ぬ』と言われている。
  その様な『はかない状況』の中に人類は生存している。
  (その後まで続くのであれば、人類絶滅へ、強烈な放
 射能もある状態で、人類は、誰も逃れる事は出来ない・・
 生き延びる事は出来ない)
  今現在、広島・長崎型原爆より、べらぼうに大きい核
 兵器・原爆を持つという人類となっている。
  北朝鮮のICBMは、約30分後には、アメリカに着弾
 する。
  ヨーロッパは、北朝鮮から遠いからなんて、言ってい
 られない・・今現在なのだ。
  また、その放射能と言えば・・「福島原発事故どころ
 ではない」・・、
  全地球が、高濃度の放射能でおおわれる・・、
  今でも、福島は、帰還が出来ない・・帰ることが不可
 能な地域である・・この様に、長い年月、全地球が、そ
 の高濃度の放射能に汚染された状態となる。
  生物の・・『生存が許されない地球』となる。
  そして、1時間後には、やった方(攻撃した方)も、
 ほぼ居なくなる核戦争の「核兵器システム」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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(増補版)540E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年8月~1891年10月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)540E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年8月~1891年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年8月11日、日高藤吉郎が、日本体育会を創立した。
  東京・牛込区原町の成城學校(現・成城中学高等学校)
 内に設立された「體(体)育會」(翌1892年に「日本體(
 体)育會」と改称)を起源とする日本體育會体操練習所、
 (のちの学校法人・日本体育大学)が創立された。
  建学の精神に、創設者の日高藤吉郎は・・、
  「全国民が強健な体力を保持しなければ、国家の発展
 は望めない」との信念を持つに至り・・、
 「體育富強之基」(たいいくふきょうのもとい)を掲げ
 ている。
  国民体育の振興、真に豊かな国家・社会を実現するた
 め、体育・スポーツの普及・発展を積極的に推進し、
  健全な心身を兼ね備えた全人格的な人間を育成するこ
 とを建学の理念としている。
  この校風は、「質実剛健・団結和協」「知徳兼修・体
 育奉公」と校歌の詞にも謳われている。
  体育・スポーツの殿堂で、體(体)育會の下に設置され
 た体操練習所(のち体操学校)からスタートした体育系
 大学(体育学・体育科学・スポーツ科学)の中心である。
  また、本学は、体育学から波及した色々な学科をいち
 早く取り入れた。
  その一例である「健康学科」は、体育系大学では初め
 て設置され、保健分野(養護「保健」学・生理学・健康
 学・公衆衛生学)でも主流をなし、
  伝統の体育指導者(体育教員・スポーツ指導者・スポ
 ーツ科学者等)の輩出のみならず、
  養護教員・小学校教員・特別支援学校教員・医療関係
 従事者のOG・OBも多く輩出している。
1891年8月20日、九州鉄道会社線の鳥栖駅~佐賀駅間(24.7
 km)が開業した。
1891年8月21日、関西鉄道会社線の亀山駅~一身田駅間(12.1
 km)が開業した。
1891年8月27日、露仏同盟が調印された。
  これは、政治協定および軍事協定で、最終的には、1894
 年1月4日に締結された。
  ドイツ・オーストリア・イタリアによって構成される
 三国同盟から一方の当事国が攻撃を受けた場合、他方の
 国が軍事的支援を行うことが定められた。
  1890年、ドイツが再保障条約(1887年、ビスマルク時
 代のドイツが、ロシアとの間で締結した秘密軍事条約)
 の継続を拒否し、それが解消されたため、
  反発したロシアが、1891年からフランスに接近した。
  ロシアは、フランスからの金融援助を期待して締結す
 るとともに、バルカン方面でのオーストリア=ハンガリ
 ー帝国への牽制になることを期待した。
  フランスも、ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イ
 タリアの三国同盟の脅威に備えること意図した。
  1871年の普仏戦争で、フランスは、プロセインに敗北
 して以来、ヨーロッパでの孤立化状態を脱することを期
 待した。
  両国の利害が一致して、1894年までに、同盟関係が形
 成された。
  1904年の日露戦争の開戦後に、英仏協商が締結され、
  また、日露戦争後の1907年に、英露協商が締結された
 が、三国同盟に対抗する「三国協商」の一部を構成する
 こととになった。
1891年8月30日、筑豊興業鉄道会社線の若松駅~直方駅間
 (25km)が開業した。
  旅客等級は、「特等」と「並等」で、
  賃率は、並等が1マイル(約1.6㎞)当り1銭2厘だった。
1891年8月、京都停車場に、錬鉄製跨線橋が架設された。
  技術が進んで、明治期の後半には、橋梁材料が錬鉄か
 ら鋼に切り替わって行くが、
  日本は、明治年間を通じて、まだ一貫して欧米の橋梁
 メーカーの製作に依存して来た。
  1896年(明治29年)に架設された土浦線(現:常磐線)
 の隅田川橋梁(200ft=約61m)は、材料が錬鉄から鋼に
 切り替わった時代の橋梁。
  錬鉄は、炭素の含有率を低く抑えた軟鉄で、エッフェ
 ル塔も錬鉄製である。
  錬鉄(れんてつ)は、鋼鉄の大量生産手段の発明以前
 に、古典的な製鉄方法のパドル法で主に製造され、
  ある程度の量産ができ、鋳鉄(ちゅうてつ、鋳物製品
 に使われる)に比べ強靭だったので、19世紀を中心に、
 鉄道レールや建造物の構造材料として利用された。
  しかし、鋼鉄の大量生産の手法が発明されると、姿を
 消した。
1891年8月、東京市15区と八王子市で、土葬が禁止となった。
  土葬(どそう)は、遺体をそのまま埋葬することであ
 るが、因みに、キリスト教は、火葬に対して否定的で、
 宗教的理由から土葬する。
  明治政府は、仏教での葬法としての火葬に、反対する
 神道派の主張を受け入れて、1873年(明治6年)7月18日
 に、太政官布告によって火葬禁止令を出した。
  しかし、仏教徒の反対や、衛生面からも火葬が好まし
 いとの判断から、
  1875年(明治8年)5月23日に、火葬禁止令を解除した。
1891年9月1日、東京~青森間が全通した。
  日本鉄道会社線の上野駅~青森駅間の東北本線が、全
 線開通した。
  盛岡駅~青森駅間の工事が完成(204.2km)開通し、
 上野駅~青森駅間(732km)が全通した。
  上野、および、青森から、1日1回の長距離直通列車を
 運転し、1往復運転がなされた。
  所要時間は26時間半。
1891年9月10日、硫黄島・北硫黄島・南硫黄島が、東京府に
 所属された(9月9日説あり)
  島北部には、戦前、元山部落、東部落、西部落、南部
 落、北部落、千鳥部落の6つの集落があり、元山部落には、
 硫黄島尋常小学校と硫黄島神社が置かれ、島の中心とな
 っていた。
  また、島には、父島から派遣された警察官1名が駐在し
 ていた。
  島南部は、旧海軍省によって要塞地帯に指定され、一
 般島民の立ち入りは制限されていた。
  当時の島内の産業は、硫黄採取鉱業、サトウキビ、レ
 モングラス等の栽培農業、近海沿岸漁業等で、
  これらの産業は、硫黄島産業株式会社が取り仕切って
 おり、島民の大半は、同社に直接、間接的につながって
 いた。
  1945年2月19日~1945年3月26日に、日米間に激戦がな
 された。
  物量共に不利のなかで、また、日本軍に増援や救援の
 具体的な計画は当初よりなく、
  戦闘が不利に経過する中・・、
  栗林忠道陸軍大将を最高指揮官とする大日本帝国陸軍
 は、バンザイ突撃を禁じて激しい抵抗戦を繰り広げた。
  その戦闘を試みた栄光の将兵の遺骨は、まだ、島に残
 されている。
  (アメリカ軍は、その日本将兵の遺骨をそのままにし
 て、その上に滑走路を構築した)
  1968年に、同島の施政権が日本に返還され、この時、
 国土地理院発行の地形図上の呼称は「いおうとう」に戻
 された(「いおうじま」から)
  現在、原則として基地に勤務する自衛隊員、及び、建
 設業者等の関係者以外の上陸は禁止されているが、戦没
 者の慰霊祭が現地で開催される際等には、旧島民や遺族、
 それに戦没者の遺族等の上陸は許可されている。
  旧島民の帰島の希望は叶(かな)えられていない。
  歴史
  江戸時代、幕府の船によって、既に、その探査は行わ
 れていた・・、
  1873年(明治6年) 小笠原の領土所属をめぐって日英
   米間で論争がさかんに。
   明治政府は、小笠原を領有統治する方針を固める。
  1875年(明治8年) 外務省官吏・田辺太一等の調査団
   が父島・母島に派遣され、小笠原の住民に対して日
   本の所属となることを宣言した。
  1876年(明治9年)3月、小笠原を内務省所管とする。
   10月、諸外国に小笠原が日本の領土と通告し、日本
   領土と確定。
  1887年(明治20年)11月1日、高崎五六東京府知事が、
   灯台巡視船・明治丸で横浜港を出帆、三宅・八丈・
   小笠原諸島を巡回。
   11月10日、硫黄島を探査。
  1889年(明治22年) 6月、田中栄二郎が硫黄島へ渡航。
   北硫黄島にも寄る。
   8月3日、南硫黄島で4年間生活していた遭難者発見。
   12月、小笠原島庁荒川義邦が硫黄島調査。
  1890年(明治23年)小美田利蔵が硫黄試掘願を農商務
   大臣に提出。
  1891年(明治24年)9月9日、勅令をもって硫黄列島が
   東京府小笠原島庁管轄となる。
   北硫黄島、硫黄島、南硫黄島と名称を定めた。
   11月、小笠原島庁の公標が硫黄島に建つ。
  1892年(明治25年)5月16日、硫黄鉱山試掘願が農商務
   大臣によって許可された。
  1896年(明治29年)石野平之丞が北硫黄島に上陸。
  1898年(明治31年)硫黄島からの輸出用・運送用に艀
   漁船・小廻船2艘と年2回の定期船便を利用。
   そのうちの1回を南硫黄島まで迂回させ、遭難者の有
   無の確認することに。
  1899年(明治32年)石野平之丞が母島から北硫黄島に
   移住、開拓を開始。
  1902年(明治35年)北硫黄島に私設小学校が開校した。
1891年9月11日、山陽鉄道会社線の笠岡駅~福山駅間(14.3
 km)が開業した。
1891年9月12日、日本鉄道会社が、甲と乙の定期割引切符の
 発売を発表した。
1891年9月12日、群馬県が、1893年末を以て公娼を廃止する
 と布告した。
1891年10月1日、スタンフォード大学が創立された。
  アメリカ合衆国カリフォルニア州スタンフォードに本
 部を置く私立大学。
  校訓は「自由の風が吹く」。
  サンフランシスコから約60 km南東に位置して、地理上
 も、歴史的にも、シリコンバレーの中心に位置している。
  現在、スタンフォード研究所 (SRI) は、大学本部の管
 理下にはなく、大学発のインキュベーションやベンチャ
 ー企業の支援を目的とした独立した組織として運営され
 ている。
  (参考)インキュベーション(incubation)「抱卵・
    培養・保育の意」で、
     設立して間がない新企業に国や地方自治体など
    が経営技術・金銭・人材などを提供し、育成する
    こと。
1891年10月2日、東京市が、市区改正費のため公債1000万円
 を募る(市民公債の始)
  市区改正(しくかいせい)は、明治時代から大正時代
 に行われた都市計画、都市改造事業のことで・・、
  都市部では、文明開化で、馬車や鉄道などの新たな交
 通機関が登場したが、江戸時代の城下町等を部分的に改
 変して対応していた。
  さらなる発展のための、上下水道・電気・市街電車な
 どのインフラストラクチャーを導入し、そして、都市を
 近代化して行くためには、大規模な都市改造、市区改正
 が必要だと、課題になった。
  1889年に、委員会による計画案(旧設計)が公示され、
 事業が始まった・・が・・しかし、
  財政難のため事業は遅々として進まなかった。
  政府は、その前年の1888年3月、東京市区改正条例案を
 元老院の議に付していた。
  しかし、同年1888年6月、元老院は、同条例案を否決し
 た。
  理由は、『首都』東京の改造費の半額は国庫から補助
 している状況のなか、
  現状は、不穏な清国などの情勢もあって、軍備増強が
 急務ではないかとの意見だった。
  これに対し、山県内務大臣と松方正義大蔵大臣は、翌
 月の1888年7月、元老院の否決理由に反論したうえで、
  原案の東京市区改正条例案は、「断然決行」すべきで
 あるとして、条例案を再提出した。
  提出案には、元老院案に対する山県・松方両大臣の反
 対意見を盛り込んだ閣議請議を求める文書だった。
  閣議はこれを容れ、同年・1888年8月16日、「東京市区
 の営業衛生防火及通運等永久の利便を図る」東京市区改正
 条例が公布された。
  東京市の歴史を見ると・・、
  江戸時代の最盛期に100万人以上といわれた人口も・・、
  1872年(明治5年)には、52万人に減った。
   この年、大火で焼失した銀座れんが街の復興は、都
   市改造事業の最初のものであった。
  1878年(明治11年)に、67万人に、
  1887年(明治20年)には、106万人に回復した。
  1888年(明治21年)には、東京市区改正条例が公布され、
   皇居周辺と下町の一部を対象として、道路の新設・
   拡張、河川・橋梁・公園の整備が行われた。
   しかし、この間に日本の産業革命が進行して、東京、
   大阪をはじめとする大都市や港湾都市の都市化が急
   速に進んで行った。
   ここに、東京市区の改正が必要となった。
  1897年(明治30年)には、133万人を数え、
  1903年(明治36年)には、181万人に及び、
  1912年(明治45年)には、200万人をこえる大都市に発展
 して行く・・、
  それまでの下町の高密度地域から、山の手の住宅地区
 や周辺の工業地帯が密集するようになった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:傭兵に頼っていた「カルタゴは滅んだ」
.
紀元前4万3000年~紀元前2万6000年、この間に、ネアンデ
 ルタール人が滅んだ。
  この時に、ホモ・サピエンスが進出し、交替劇が演じ
 られたと考えられている。
  この交代劇は、争いや戦いが無い状態で行われたと考
 えられている。
  この交替についての説には、「疾病説」や、「環境説」
 や、「生存戦略説」があるが、
  環境説が有力と言われている。
  寒い環境のため、南へ移動して行った・・、
  そして、北アフリカと南ヨーロッパへと、
  そしてまた、カスピ海周辺から東へと・・、
  ネアンデルタールの谷というドイツの谷(タール)で
 最初の発見がなされた。
  その骨から復元すると、足は太く短く、胴は長く、筋
 肉はりゅうりゅうとし、
  目の上の骨は盛り上がり、火をおこし、狩りの生活を
 していた。
  美術解剖学によって、骨に肉を付けて行き、その様な
 ことが観察された。
  頭は非常に大きいと言え・・、
  700万年前に、人類が誕生し、猿人から原人へ(旧人、
 新人)、そして、ホモ・ハイデルベルゲンシスへ、
  (参考)ホモ・ハイデルベルゲンシス(ハイデルベル
     クのヒト)は、ヒト属の一種。
      ハイデルベルク人をホモ・エレクトスとは別
     種とするときの名称。
      ホモ・エレクトスに比べ脳容量が大きく
     (1100cc~1400cc)、より人間的な行動をとる
     ことができ、これを種レベルの違いであると考
     える場合に別種とする。
      種レベルの違いはなかったと考える場合は、
     エレクトスに含め、
      エレクトスの種内亜種として区別する場合は、
     ホモ・エレクトス・ハイデルベルゲンシス と呼
     ぶ。
      時期は、60万年前から40万年前。
  80万年前に、ヨーロッパに進出⇒ネアンデルタール人
 となった。
  アフリカに於いては、ホモ・サピエンスとなる。
  化石に作り方が違う、古い昔のまま再現したネアンデ
 ルタール人、
  作り方の学習研究から、新しい石器を作ったホモ・サ
 ピエンス、
  学習能力の進化、化石能機能研究、集団同士が文化を
 交流して進化したホモ・サピエンス、
  教えることをしないで、自主性を尊重する、狩猟採集
 民族、
.
1563年、関ケ原の戦いの37年前のこの時、家康に逆らった
 本證寺(ほんしょうじ、愛知県安城市)があった。
  寺の不入権(租税免除と治外法権)が侵害されたとし
 て、浄土真宗の同寺は、他の三河3寺とともに領主・家康
 と争った。
  三河一向一揆である。
  翌年・1564年に、和議が結ばれたが、門徒側が家康の
 一方的な改宗命令を拒否したため、僧侶衆は追放され、
 建物は破却された。
  許され、赦免されたのは、それから約20年の後だった。
  この後、家康は、堅固な信仰に参って、浄土真宗を内
 側に取り込むことで、地域の安定を図って行った。
.
1946年2月16日夕刻、新円切り替え
  旧円券を回収し、新円券に切り替えた。
  幣原内閣が発表した戦後インフレーション対策として
 行われた金融緊急措置令を始めとする新紙幣(新円)の
 発行と、
  それに伴う従来の紙幣流通の停止などに伴う通貨切替
 政策。
.
1947年5月17日、石橋湛山蔵相が公職追放となった。
  石橋は、戦勝国・アメリカに勇気ある要求をした。
  石橋は、国民から『心臓大臣』と呼ばれるもアメリカ
 からは嫌われた。
  1947年のこの年に、第23回衆議院議員総選挙で静岡2区
 から当選したが、卑劣にも、GHQは、公職追放令によ
 って公職追放した。
  この公職追放は、吉田茂が関わっていると云われた。
  1951年の追放解除後は、吉田の政敵であった自由党・
 鳩山派の幹部として打倒吉田に動いた。
  この時期、立正大学から懇請されて、学長に就任した。
.
2017年7月6日、(読売新聞、2017年7月6日)に、「各国の
 核弾頭保有数(2017年)」が記載されている。
  それによると・・、
  (1)ロシア、 7000発
  (2)アメリカ、6800発
  (3)フランス、 300発
  (4)中国、   270発
  (5)イギリス、 215発
  (6)パキスタン 130~140発
  (7)インド、  120~130発
  (8)イスラエル、80発
  (9)北朝鮮、  10~20発
  明確に、北朝鮮が、核保有国と記されている。
  また、同じこの新聞に・・、
  「北朝鮮のICBM」に対して日本の迎撃は困難」と
 ある。
  北朝鮮の核弾頭が、日本に飛来する場合もあるが・・
  日本の上空をアメリカへ向かって飛ぶ、その北朝鮮の
 ICBMを打ち落とすのは技術的に無理・・とある・・
  その概要を記すと・・、
  「北朝鮮が4日発射した弾道ミサイルを、米政府が、大
 陸間弾道ミサイル(ICBM)と認めた」・・
  「ティラーソン米国務長官は、声明でICBMだった
 との認識を示した」・・
  「アメリカは、当初、「中距離弾道ミサイル」と分析
 していたが、米国防総省も、同日、ICBMだったと断
 定した」・・
  「日本のミサイル防衛は、イージス艦搭載の迎撃ミサ
 イル(SM3)が最高高度約500キロの大気圏外で撃
 ち落とすシステムが主力であるが、
  これは、最高到達点から落下し始めるタイミングで迎
 撃することを想定している。
  しかし、アメリカに向かうICBMの場合、イージス
 艦が展開する日本海の上空を通過する時点では、(北朝
 鮮のICBMは)高速で上昇しているため、迎撃は困難」
 (防衛省幹部)・・
  「ティラーソン氏は、声明で、北朝鮮によるICBM
 は、アメリカや同盟国、(アジア太平洋)地域、そして、
 世界に対する脅威が、新たな段階にエスカレートした」
 と・・
  「北朝鮮国営の朝鮮中央通信は5日、4日に発射したミ
 サイルについて・・大気圏再突入時の高温でも、弾頭部
 内の温度は安定して維持され、核弾頭爆発制御装置は、
 正常に作動した・・と伝えた」
  「韓国の国防相は、5日の国会報告で、北朝鮮の核実験
 を行なう可能性について・・、
  (核開発は)北朝鮮の国家的な目標であり、可能性は
 高い」と述べ、
  「北朝鮮北東部・豊渓里(ブンゲリ)の核実験場は、
 いつでも核実験が可能な状態を維持している」と明らか
 にした。
  「日本の岸田外相は、5日、米国のティラーソン国務長
 官と電話で約30分間会談し・・制裁強化・日米共同行
 動・・」
.
2017年、アルティミット・イクォライザー(究極的な均等
 化武器)
  核の破壊力が絶大なため、その破壊力ゆえに、戦争抑
 止ともなる。
  どのような国(核兵器を、全地球を壊滅するぐらい持
 っている国)でも、安易にその核保有国への攻撃は出来
 ないとなる。
  北朝鮮を、アメリカ大統領がテロ国家だと言い、同じ
 テロ国家とされたイラクは亡ぼされてしまったため、北
 朝鮮は、必死に核開発をした。
  その結果が、今現在の状況であるが・・、
  戦車や大砲や戦闘機などの武器は、たくさん持ってい
 る国が有利という性格の武器である。
  例えば、戦闘機を一万機持っている大国と、戦闘機が
 百機しかない小国が戦争をする場合を考えれば、その戦
 いの結果はあきらかである・・、
  しかし、核兵器は・・その様な性格の武器ではない・・、
  イギリスやフランスは、発見しにくい潜水艦に搭載し
 た核ミサイルを持っている。
  これは、巨大な量の核兵器を持っている国に、その少
 量の核兵器で十分対抗できるからで・・、
  例え、核の量が百分の一であっても、潜水艦や地下ト
 ンネルに隠し持っている核は、十分その威力を発揮し・・、
  核超大国であっても、その少量の核で対抗できるとい
 う性格がある武器・・、
  核超大国が、その小国の核をすべてを一気に破壊する
 のは不可能であるため、その残った核による報復を受け
 るからで・・、
  核兵器の破壊力が超絶大なため、残った少量の核でも、
 その超絶大な破壊力の少量の核の破壊力で、十分対抗で
 きる・・、
  故に、この核兵器を、「究極的な均等化武器:アルテ
 ィミット・イクォライザー」と言う・・、
  核兵器の攻撃から逃(のが)れることができ、核攻撃
 への抑止力が働く・・、
  歴史に於いて、今まで、核大国は、核兵器の実施は行
 なわなかったが、
  しかし、歴史には、何度も、原爆の使用をするかどう
 かの瀬戸際があった・・愚かなことだが・・、
  広島・長崎のあまりにも悲惨な・・その結果を知って
 いてても、この様な事が何度もあった。
  幸い実行はされなかったが、愚かな人間が、愚かな最
 高権力者が、再び、今後、やる可能性は十分ある。
  あなたのお子さんが、あなたが、今、頼んだ、アイス
 クリームを食べ終わらないうちに・・核兵器が着弾する
 という時代が・・今・・北朝鮮から7分で着弾・・中国
 から10分で着弾・・、
  自分だけは特別という妄想は、根拠のない絵そらごと
 ・・、
  北朝鮮という、新たな核保有国が生まれ・・核保有国
 に囲まれた日本・・
  核抑止力が必要な時となった・・
.
2017年、カルタゴは滅んだ・・話し・・
  クラスの中でも暴力的に弱いNが・・、
  強力な腕力を持っている大きいAに・・、
  「いざという時には守って・・」と頼んでいた・・
  Aも了解していた・・、
  しかし、ある日、クラスの悪のいじめっ子のNCが・・、
  非情な強烈な武器を持って・・
  想像を絶する武器でもって・・
  そのNをいじめ、攻撃した。
  あまりにも強烈な武器であるため、Aは、自分へのダ
 メージを恐れ・・たじろぎ、ためらった。
  Aは、約束していたNを助ける行為はしなかった。
  可哀想にNの存在は・・?となった・・
  今までも、Aは、その様な強烈な武器を持った奴とは、
 戦うことをためらって来ていたが、今回もその通りとな
 った。
  傭兵に頼っていた「カルタゴは滅んだ」・・
  その様な・・史実が・・『ある』・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)539E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年6月~1891年8月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)539E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年6月~1891年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年7月1日、九州鉄道会社線の高瀬駅~熊本駅間(28km)
 が開通し、門司駅~熊本駅間(195.4km)が全通した。
1891年7月5日、北海道炭砿鉄道会社線の岩見沢駅~歌志内
 駅間(49.7km)が開業し、手宮駅~歌志内駅間の直通運転
 が実施された。
1891年7月5日、清国の北洋水師(艦隊)が、戦艦「鎮遠」
 「定遠」と軍艦他4隻で、示威(名目上は親善)活動の
 ため東京湾へ来航した。
  本「頭山満と玄洋社物語」(続)(平井晩村著1915年
 刊)の第10章に、
  「日本の海軍の10倍の「鎮遠」「定遠」の巨艦を擁し、
 東京湾にあらわれ丁汝昌は、『眼中に日本なし』とせせ
 ら笑い、長崎に寄港して横暴のかぎりをつくした」とあ
 る(日清戦争の遠因)
  日本は、戦争回避もあってか? 金を出し、長崎市と
 協力して歓迎大会を開催した。
  また、横浜、呉などにおいても大歓迎会を催している。
  しかし、長崎においては、前回の時と違い、上陸して
 くる清国水兵に復讐する者もいた。
  (前回、清国水兵の乱暴狼藉事件があったため)
  上泉少尉は・・、「折角、親善を標ぼうして、来朝し
 て来る者を遇する道ではない」・・と、清国艦隊が、日
 本を去るに際し、最後の交歓をなすべく率先奔走した。
1891年7月11日、卒業式で君が代が歌われた。
  東京音楽学校の卒業式で「君が代」が歌われた。
1891年7月14日、山陽鉄道会社線の倉敷駅~笠岡駅間(28.1
 km)が開業した。
1891年7月19日、讃岐鉄道会社が、定数乗車券(乗車回数30
 回、通用期間2か月、普通運賃の2割5分引きの記名式回数
 券乗車券)を発売した。
1891年7月27日、高等官任命及俸給令が公布された(勅令第
 82号、高等官官等俸給令は廃止)
  官吏(かんり)は、具体的な任命のあり方に応じて、
 親任官、勅任官、奏任官、および、判任官の身分的区分
 が定められた。
  そして、このうち、親任官、勅任官、および、奏任官
 は、高等官とされた。
  高等官には、文官と武官の区分があった。
  任用については、文官は、高等文官試験に合格した者
 を任用する方法があり、
  また、武官は、陸軍士官学校・海軍兵学校を卒業した
 者を任用する方法が、それぞれ主流としてあった。
1891年7月27日、判任官俸給令が公布された(勅令83号、8月
 16日施行、従来の判任官官等俸給令は廃止)
  判任官(はんにんかん)は、官吏のうち、高等官では
 ない官吏の事を言う。
  高等官(勅任官・奏任官)の下に位置していた。
1891年7月27日、「鉄道庁高等官俸給ノ件」公布(勅令第117
 号、8月16日から施行)
1891年7月27日、技術官俸給令が公布された(勅令第84号、
 8月16日から施行、従来の技術官官等俸給令は廃止)
  技術官は、工芸・技術に関する職務に従事した官吏の
 ことをいう。
  判任官を技手、高等官を技師と称した。
1891年7月、鉄道庁長官(井上勝)が、「鉄道政略ニ関スル
 議」を内閣総理大臣に提出した。
  5713.2kmの鉄道建設が必要であるとして、第1期財源に
 充てるため公債募集を提議した。
  井上勝(いのうえまさる、1843年~1910年)は、山口
 県出身で、子爵になった人。
  1863年(文久3年、20歳)に、伊藤博文らとともに渡航
 し、ロンドン大学で鉱山・土木工学を学んだ。
  この時の5人を「長州五傑・ちょうしゅうごけつ)」と
 言い・・、
  長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロ
 ンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した。
  井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博
 文)、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士を指す。
  武器商人のトーマス・ブレーク・グラバー(グラバー
 商会)らの協力を得て成し遂げられた。
  この5名は、ロンドン大学に、「長州ファイブ(Choshu
 Five)」として顕彰碑が建てられている。
  1868年(明治元年、25歳)に帰国し、以後、井上勝と
 称した。
  1871年(明治4年、28歳)工部省鉱山寮鉱山頭兼鉄道寮
 鉄道頭、
  1872年(明治5年、29歳)鉄道頭専任となり、京阪神間
 鉄道の建設に尽力。
  1882年(明治15年、39歳)工部大輔、
  1885年(明治18年、42歳)内閣鉄道局長官兼技監など
 を歴任。
  1890年(明治23年、47歳)貴族院議員、内務省鉄道庁
 長官。
  1891年(明治24年、48歳)鉄道国有論を主張して、「
 鉄道政略ニ関スル議」を提出し、鉄道敷設法制定の契機
 となった。
  1896年(明治29年、53歳)汽車製造合資会社を設立し、
 社長に就任。
  鉄道院顧問となり渡欧したが、病にかかり、ロンドン
 で、1910年(67歳)客死した。
1891年7月、欧字新聞の検閲が始まった。
  1883年に軍隊や軍艦の動静(どうせい、物事の動き、
 様子、消息)の掲載などの禁止がなされた。
  そして、外交上の秘密事項なども加わった。
  1891年の大津事件は戦争に至る可能性もあったため、
 軽率なる報道への検閲の必要性があった。
  また、清国の不穏な日本を馬鹿にし、また、蔑視する
 行動などもあった。
1891年8月5日、世界初と言われるトラベラーズ・チェック
 (旅行小切手)が発行された(アメリカン・エキスプレ
 ス)
  因みに、現在、クレジットカードの普及など決済サー
 ビスの多様化に伴って、近年では利用が減少し、日本で
 唯一販売を続けていたアメリカン・エキスプレスは、2014
 年に販売を止めた。
1891年8月7日、日本最初の魚形水雷の試射(相州浜にて海
 軍省技師、喜志・坂本両氏による)
  1861年~1895年の間、清朝政府は、造船を最も重要な
 ものとし、4つの造船所と2つのドックを柱とする官営造
 船機構の整備を進めた。
  それは、江南機器製造総局(濾局)、福州船政局(閾局)、
 天津機器総局、黄哺船局並びに大沽ドック、旅順ドック
 である。
  そして、特に、中国の北方地域、首都・北京と港湾都
 市・天津、及び、その周辺地域において造船関連産業を
 振興させることが急務としていた。
  そして、防衛上の要衝地・天津に最新鋭の西洋式軍事
 機器を製造する天津機器総局を創設するべきとした。
  この1例の様に、中国は軍事化、そして、その近代化に
 邁進していた。
  実施する規模も雄大であり、最新の機器が備えられて
 行った。
  御雇い外国人も多数、要請していた。
  その分局の一つの東局の例を見ても、技師と技術労働
 者2000名を擁し、弾薬、銃砲、水雷および各種の軍需機
 器を製造していた。
  第二弾薬工場など新機器工場などと共に、建設計画が
 続いた、火薬工場なども・・諸処の工場には、イギリス
製の製造装置も備えられ、火薬工場は世界最大規模と言わ
れた。
  また、当時では最先端研究となる潜水艦の研究も進め
 られ、新しい船種、船型の建造が極秘裏に進めてもいた。
  日本よ!このままで良いのか?という状況だった。
  まったく、今現在と同じ・・、
  また、清国は、1866年~1868年の間、イギリスやフラ
 ンスから続々と軍艦を購入していた(澄波号など)。
  1873年には、自国建造修理も行い、洋式の進んだ銃砲
 の製造も行ない始めた。
  清国の状況は概略しか記せないが、あらゆる面を積極
 的に進めていた。
  1880年には、すでに、李鴻章は、イギリスやドイツか
 ら11隻の軍艦を購入して、海軍を創設していた。
  また、1882年~1913年の間に、大沽ドック゚だけで大小
 38隻の艦艇が建造されていた。
  それに対して、日本は、1891年に至ってやっと魚形水
 雷を試射するという段階だった。
  (参考)水雷:すいらい、多量の爆薬を詰め、水中で
     爆発させて艦船を破壊する装置。
      魚形水雷(魚雷)・機械水雷(機雷)など。
.
  (今日の言葉)
.
 題:あられもない教義に・・
.
1000年頃、イタリアのウンブリア山村の民衆は、キリスト
 教隠者の聖ロムアルドゥスを危うく撲殺しかけた。
  誠に愚かなことだが、それは、彼を失いたくなかった
 ための行為だった。
.
1231年11月17日、エルジェーベト (ハンガリー王女)が没し
 た。
  (参考)エルジェーベト(1207年7月7日~1231年11月
     17日)は、ハンガリー王エンドレ2世とメラーノ
     公女ゲルトルードの娘。
      テューリンゲン方伯ルートヴィヒ4世の妻。
      ドイツ名のエリーザベトでエリーザベト・フ
     ォン・ウンガルン、あるいは、エリーザベト・
     フォン・テューリンゲンとも呼ばれる。
      また、キリスト教のローマ教皇グレゴリウス
     9世により列聖された。
      聖エルジェーベト、聖エリーザベト、聖エリ
     ザベートなどと呼ばれる。
  そして、このテューリンゲンの聖エリザベートの遺体
 が、まだ埋葬されなかった時、善男善女の一群が、彼女
 の顔に巻き付けてあった布片を切り取ったり、引き裂い
 たりして持ち帰った。
  彼女の髪や爪を切り取り、果ては、耳や乳房までもち
 ぎり去った。
.
1274年に、トマス・アクィナスが、フォッサ・ヌォヴァの
 僧院で没すると、そこの修道士たちは、貴重な遺物が彼
 らの手から失われるのを恐れ、気高き師の遺体を文字通
 り漬け込んでしまった。
  つまり、頭を切り離し、煮て、調理してしまったのだ
 だった。
.
1441年頃、キリスト教は、古い昔から有色人種を軽く見て
 いた、卑劣な事である。
  それは、キリスト教の教義から来ていた。
  古代は、このキリスト教の教義に洗脳されたキリスト
 教徒によって、エチオピアの黒人の方々などが奴隷にさ
 れた。
  キリスト教聖書に書かれているので、まったく罪悪感
 は無かった。
  近年になっても・・、
  ポルトガルのエンリケ王子は、「できるだけ多くの土
 人(アフリカの黒人の方々の事)を生け捕りにして、持
 ち帰れ」・・と、命令を出した。
  コロンブスが、アメリカ大陸に達する半世紀前の頃(
 1441年頃)に、ヌニョ・トリスタンというポルトガル人
 (武装帆船の船長で、騎士の身分)は、アフリカ人の集
 落を襲撃した。
  そして、激しい戦闘の後、男女と少年の10名を生け捕
 りにした。
  こうして生け捕った12人を、リスボンに連れ帰り、エ
 ンリケ王子の所へ連れて行った。
  エンリケ王子は、大いに喜んだ。
  キリスト教に洗脳された頭には、まったく罪悪感は無
 かった。
  また、ローマ法王へも特別使節をたてて、このことを
 報告して説明した。
  ローマ法王も、大いに喜び、歓迎した。
  そして、『あらゆる罪が赦免される』という言葉を言
 った・・、
  「この戦いに従事する者すべてに対し、あらゆる罪の
 完全な赦免を与える」・・と、卑劣な事である・・
  この言葉によって・・、
  『以後、アフリカの方々を奴隷にする事が罪にならな
 くなった』、
  また、そればかりか、『過去の罪も完全に赦免される
 こと』になった。
  まったく、キリスト教の最高の頂点に立つ者であるの
 に、卑劣この上ない言葉だった。
  アフリカの方々に対する人権への意識は皆無だった。
  キリスト教に洗脳された者たちの頭には、有色人種を
 奴隷にする事は、あたかも物を分捕って来るがごとくの
 行為となった。
  そればかりか、それに加えて、過去の罪まで許される
 という事になった。
  キリスト教により『精神的未開人状態になっている』
  人権への自覚は・・まったく無かった。
.
15世紀中頃、屈辱の奴隷貿易が、この頃に始まった。
  ポルトガルによって行なわれた・・白人・キリスト教
 徒の奴隷貿易・・、
  人身売買・・人の売り買いが、この卑劣行為がなされ
 るアフリカの海岸を「奴隷海岸」というが・・、
  この行為を恥じたのか? 
  この非人道的行為を恥じたのか? 
  この「奴隷海岸」の名を消したいとしている。
  この白人キリスト教徒にとっての不名誉な事柄(奴隷
 海岸の名)は、負の人類遺産として長く記憶にとどめる
 べき事柄である。
  また、世界記憶遺産に登録すべきである。
  ・・が、しかし、この卑劣な非人道的行為を・・忘却
 の彼方に捨て去りたいとしている。
  19世紀には、また、卑劣なアフリカ侵略をしたヨーロ
 ッパの白人キリスト教徒たち、卑劣なアフリカ侵略の行
 為をした輩たち・・、
  近代植民地主義の低劣行為の限りをし尽くしたヨーロ
 ッパ・キリスト教国・・、
  その搾取の卑劣さには言葉を失して、嫌悪の情が湧く。
  低劣な人間たちが、無実の方々の『人間の尊厳』を無
 謀に奪った。
  それだけでなく、そもそも人間が人間である事さえ完
 全に否定するというキリスト教教義そのものを行なう。
  動物のレベルで、「奴隷狩り」という観念で、何世紀
 も奴隷貿易をした。
  16世紀~17世紀初頭には、スペインやポルトガルのキ
 リスト教国から始まった。
  独占的に行い、大きな儲けを享受した・・人間の売り
 買いで・・。
  何世紀も奴隷貿易をし、そして、イギリス、オランダ、
 フランスも、この巨大な利益を自分たちも得たいと・・
 この最悪の悪行為を引き続き行っていく。
  この人肉史上に、アメリカが首を突っ込んで、黒人の
 方々を、アメリカが最大に苦しめた。
  美味しい分け前をくれと主張し始め、この展開が、最
 悪の人肉市場を育てた。
  卑劣なアメリカであった。
  ジプシーの名も変えたいとしているが、散々、ジプシ
 ーの方々を虐げ、差別して来ていながら、その汚名を消
 したいとしている。
  だから、ジプシーの名を変えたいとしているのは、そ
 の本源的解決から逃避していて、ジプシーの方々の根本
 的救済にはなっていない。
.
1510年~1511年、ポルトガルが、ゴアやマラッカを征服し
 た。
.
1533年、スペインのピサロが、むごたらしい南米のインカ
 帝国征服を行なった。
.
1565年、スペインが、フィリピンを占領した。
.
1580年、スペインが、ポルトガルを併合した。
.
1595年、スペインが、奴隷貿易に関し、スペイン王室によ
 る独占的請負制だと主張し、この制度を導入した。
  従来の許可制から、よりおいしい利益を得たいと、こ
 の非人道的行為に関与した。
  この美味しい権利には、ヨーロッパのキリスト教国が
 群(むら)がり、取り合った。
  1640年は、ポルトガルからオランダへ奪われ。
  さらに、1701年には、フランスへ奪われ。
  1755年には、イギリスが奪った。
  儲けの多いこの非人道的行為に、ハゲタカの様にキリ
 スト教諸国は群がり、美味しい汁を吸った。
  皮肉な事に、アメリカへの最初の奴隷船は、「希望号
 (デザイヤー)」という船名が命名された。
  まったく、罪悪感のない輩たちだった・・軽蔑さるべ
 き輩たち。
.
1618年11月、巨大な彗星が現れる。
  あられもない事を言って世を惑(まど)わすキリスト
 教・・、
  「総(す)べてが破壊されて後に、平和は訪れる」と
 いう「キリスト教のシャローム(平和)」の教え・教義。
  この最悪の教え・教義によってアメリカ大陸のインカ
 帝国などのインディオの方々は大殺戮され、全滅させら
 れた。
  また、広島・長崎に原子爆弾が、キリスト教に酷く洗
 脳させられているアメリカ大統領によって投下された。
  1618年11月、この年、巨大な彗星が現れた。
  あまりに巨大なこの彗星は、天を焦がす如くに人々に
 は見え、人々は慄(おのの)いた。
  キリスト教に洗脳された天文学者兼占星術師パウル・
 ナーゲルは、まったく科学的な裏付けのない、口から出
 まかせの事を言った・・、
  「サートウルヌス(土星)とユピテル(火星)の影響
 だ・・云々・・」・・と・・、
  この男は、1577年の時にも、キリスト教聖書のヨブ記
 にある、巨獣ビヒモスと海獣リヴァイアサンに関連して、
 適当な事を言っていた、
  「混乱、悪の権化となって、キリスト教の創造の神に
 反抗する」・・と・・、
  「だから、キリスト教の神の恐ろしい刑罰がヨーロッ
 パに迫っている」、「目の前に迫っている」・・と・・、
  このナーゲルは、1621年に死ぬ、しかし、一旦は葬(
 ほうむ)られたが、
  その後、その適当さと不穏な言い方(預言)が断罪さ
 れ、墓は掘り返され、野に晒(さら)された。
.
1661年、アメリカのバージニア州の議会が、黒人の方々を
 『終身奴隷』とした。
  「役畜、家財道具、皿、書物などと同等に見なされる
 ことが、法律によって定められる」という卑劣なアメリ
 カだった。
  デュボイスは、「はりつけ、火あぶり、断食などは奴
 隷を罰する法律的やり方である」と、アメリカ卑劣さを、
 皮肉って言った。
  黒人の方々の一挙手一投足までも規制する法律=黒人
 奴隷取締規則(スレイブ・コード)が制定された。
  そして、1661年、バージニア州の議会が、黒人の方々
 を『終身奴隷』とした。
  この後、マサチューセッツ州(1641年)、
  コネチカット州(1650年)、
  ロードアイランド州(1652年)、
  メリーランド州(1663年)、
  ニュージャージー州(1664年)、
  ニューヨーク州(1664年)などなど・・
  アメリカ諸州が、白人だけに都合の良い、そして、非
 人道的な黒人奴隷制度が法律で決められて行った。
  卑劣で、遅れているアメリカだった。
  これと軌を一にして、益々、黒人奴隷数を増加させる
 というアメリカという低劣国だった。
  アメリカの独立当時の1776年頃には、総人口が約250万
 人の内、黒人奴隷が50万人も居た。
  また、その後の1790年には(最初の国勢調査)には、
 総人口392万9000人のうち、69万8000人が黒人奴隷(自由
 黒人を含めた黒人数は75万7000人)であった。
  黒人の方々の『血と汗と涙で出来たアメリカ合衆国』
 だった。
  黒人の方々へ感謝すべきである。
  そして、この国民の感謝日を創るべきである。
.
1672年、イギリスが、大々的に奴隷貿易の乗り出した。
  ヨーク公はじめ王侯貴族、大商人、大プランター(経
 営者)などが、こぞって奴隷貿易に関与した。
  その卑劣な巨大な儲(もう)けを受けるため、巨大な
 奴隷貿易独占会社である『王立アフリカ会社』を作った。
  日本との貿易なんて関わっていられなかった。
.
1754年、7年戦争が起きた。
  1754年~1763年まで戦われたイギリスとフランスの植
 民地も関係した戦争で・・、
  発端に、1740年~1748年の戦争・オーストリア継承戦
 争がある。
  このオーストリア継承戦争は、神聖ローマ帝国の皇帝
 位とオーストリア大公国の承継問題が係争点だった。
  何でも武力に訴えるキリスト教諸国の戦争ばかりの状
 況だった。
  この愚かさに引きずられて来たこの7年戦争は、イギリ
 スとプロイセンを主役とし、それに対して、その他の諸
 国(フランス、オーストリア、ロシア、スペイン、スウ
 ェーデン)が争った。
  この当時のキリスト教諸国のすべてが争った。
  悲しいかな植民地とされたインドにまで波及した(イ
 ギリスがベンガル地方を奪おうとした)。
  結果は、イギリスが勝って(フランスが凋落し)、イ
 ギリスは、時代の寵児となって行く・・、
  そして、イギリスは、インド・中国など世界各地で卑
 劣な極みの事をしでかして行く・・、
.
1755年、フレンチ・インディアン戦争(フレンチ・アンド・
 インディアン戦争)が起きた。
  1755年~1763年まで、北アメリカで行われた戦争で、
 世界的な戦争となった。
  (7年戦争ともいうが、ヨーロッパでは、この戦争に関
 し、決まった呼び名はない・・汚辱のこの戦争を歴史か
 ら消したいとしている・・卑劣な君たちがしでかしたこ
 とだ・・甘受せよ!)
  イギリスとフランスの戦争であるが、先住民のインデ
 ィアンの方々にとって、今まで自分たちの国土が奪われ
 て来た痛みが痛切で、自分の国土を奪還したいと、悲し
 いかなインディアンの方々は、フランスと同盟を結んで
 戦わざるを得ない状況だった。
  まったく自分には罪がないインディアンの方々が、や
 むを得ないこの様なこの戦いによっても、民族としての
 消耗が行われた。
  (しかし、何といっても最大のインディアンの方々の
 民族の消耗は、アメリカによる虐殺である)
  しかし、狡猾なイギリスは、インディアンの方々と同
 盟を結んでいた。
  (悲しいかなインディアンの方々の各部族の連携は取
 られていなかった・・ただただ、自分たちの国土を取り
 戻したいという感情だけだった、その感情に付け入った)
  狡猾なイギリスは、故に、表題の様に、フレンチ・イ
 ンディアン戦争と呼び、呼ばせ、そして、世界にプロパ
 ガンダ(嘘宣伝)する・・根本は、イギリスとフランス
 のアメリカ領土の奪い合いの戦争である・・ヨーロッパ
 での戦争・衝突の延長でもある。
  この戦争に、アメリカ合衆国の初代大統領となったジ
 ョージ・ワシントンがイギリス側に加わっている。
  また、卑劣な事に、この戦争に於いてイギリスが、フ
 ランス側についているスペインからフロリダを割譲され
 たり、
  スペインは、その見返りとして、イギリスからキュー
 バのハバナを貰ったり・・、
  フランスが、同盟国のスペインに、ミシシッピー川以
 西のルイジアナを割譲したり・・アメリカの領土をやり
 とりした・・インディアンの方々は、ただただ、血が流
 れただけだった。
  結果、イギリスが、北アメリカの東半分を植民地とし
 て勢力支配地とした。
.
1757年、イギリスが、インドを奪った。
.
1763年10月7日、1763年宣言(1763ねんせんげん)
  イギリスが植民地に押し付けた宣言で、
  イギリスの国王ジョージ3世が、宣言を発した。
  アメリカのフランス領を、7年戦争に勝ったので、この
 得た広大は土地への入植や、土地の購入や、取引(毛皮)
 などの規則を定めた。
  インディアンの方々は、土地を奪われた(イギリスは、
 購入したと主張)・・それ故に、このアメリカの土地は、
 イギリスが、独占的に取引する権利を有すると宣言した。
  既に、土地を持っている入植者をはじめ、インディア
 ンの先住の方々の権利は無視された・・先に入植してい
 た入植者たちも憤った。
.
1763年、ポンティアック戦争 (1763年~1766年)
  この戦争は、以前から、フランスが、領有権を主張し
 ていた土地を、イギリスが奪い、そして、占有すること
 を阻止するために・・
  このインディアンの方々に対して現れた新たな土地を
 奪うイギリスという国に対し、
  先住民族である本当の土地所有者のインディアンの方々
 が起こした戦争だった・・が・・、
  悲しいかな不成功に終わった。
  「1763年宣言」は、ポンティアック戦争以前に宣言さ
 れていたが、紛争の勃発により、その実行が急務となっ
 た。
  イギリス政府の役人は、アメリカ・インディアンの方々
 に、イギリスの規則を認めさせようとし、また、それ以
 上の敵対的行動を抑えようとした。
.
1764年4月5日、「砂糖法」で金を巻き上げるイギリス。
  イギリスが、植民地に押し付けた規則「砂糖法」で、
 この規則などの植民地規制は、、植民地に大きな不満を
 引き起こした。
  砂糖法は、この日、イギリス首相のジョージ・グレン
 ヴィルの主導によって、イギリス議会で制定された。
  この規則は、関税に関する法律で、「アメリカ歳入法」
 「アメリカ関税法」とも言われた。
  序文に・・、
  「この王国(イギリス)の歳入を改善するには、新し
 い規定と規制を確立すべきである・・また・・歳入を高
 めるべく努めることは正当であり、不可欠である・・上
 述のものを防衛し、保護し、安全を確保する費用を負担
 するために」・・と、自分に都合良く述べられている。
  砂糖法の制定以前に、糖蜜法(1733年成立)があって、
  これは、イギリス領ではない植民地から輸入される糖
 蜜に、1ガロン当たり6ペンスを課すことによって、イギ
 リス領西インド諸島産の糖蜜のものだった。
  砂糖法は、関税率を1ガロン当たり3ペンスに減額する
 ことで、徴税の強制力を強めたものだった。
  また、課税対象が、ワイン、コーヒー、衣類などに広
 げられた。
  賄賂や袖の下が通用し・・密貿易者はその手を多用し
 た。
  それ故に、それを取り締まり役員・職員には、甘いも
 のとなった。
  イギリスは、フレンチ・インディアン戦争で負った莫
 大な負債を返済するため、資金集めという意図が強かっ
 た。
.
1765年3月22日、印紙税法(または印紙法)
  イギリスの植民地の方々を虐(しいた)げるこの「印
 紙税法」の制定に至り、その不満は、憤激に代わった。
  しかし、イギリスは、さらに、1767年に「タウンゼン
 ト法」を制定した。
  イギリスは、植民地政策を、一層、強化した。
  そして、1770年3月5日に『ボストンの虐殺』が起きて
 行く・・、
  この印紙税法は、この日、イギリス本国で、議会が制
 定した。
  新聞や公文書、そして、証書や手形など、植民地のあ
 らゆる印刷物に、所定額の収入印紙を貼ることを命じた。
  そこからの収入を、駐屯軍費用と密貿易取締り費用に
 あてようとした。
  年間・6万ポンドの税収を見込み、イギリス本国の財政
 窮迫にも対処しようとした。
  これは アメリカの13の植民地全体の商人、農民、漁民、
 弁護士、出版業者など・・あらゆる階層に、そして、職
 業に影響が及ぶものであった。
  しかし、横暴にもイギリスは、そうであるにもかかわ
 らず、植民地議会の同意を得ていなかった。
  これは、イギリス憲法によって保障されている植民地
 の権利を無視するものだった。
  「代表なくして課税なし」というスローガンに集約さ
 れる広範な反対運動を引き起した。
  反対運動は、植民地議会や、各地の反対決議、9植民地
 代表による印紙税法会議開催、街頭デモ、印紙指定販売
 人襲撃、イギリス製品の不買などの形をとり、イギリス
 本国でも反対運動が起り、翌年の1766年3月に撤回された。
.
1775年4月19日、レキシントン=コンコードの武力衝突。
  このアメリカとイギリスの武力衝突を経て独立戦争が
 始まる契機となった。
  マサチューセッツのレキシントン(ボストンの近く)
 にて、反乱者を逮捕しようと向かったイギリス軍と植民
 地軍(アメリカ)が交戦。
  ここから独立戦争が始まる。
  数で負けるイギリス軍はボストンへ逃げ込み、反乱軍(
 アメリカ軍)は街を包囲。
  その知らせを聞いた民兵たち(アメリカ軍)が、各地
 からぞくぞくと集まって来た。
.
1789年、アメリカ合衆国憲法ができた。
  しかし、卑劣な事に、その第4条第三節第二項において、
 アメリカ合衆国の広大な土地を「合衆国に直属する領土」
 として、
  先住民のインディアンの方々の権利を、ことごとく奪
 った。
.
1947年7月19日、エクソダス号事件
  イギリスは、ユダヤの方々を虐(しいた)げた。
  イギリスは、ユダヤ人難民4530人のパレスチナ上陸を
 拒否した。
  この方々は、ナチスの強制収容所で、幸い殺されず、
 生き残った方々だった。
  この時のイギリスのやり方は強引で、イギリス兵は銃
 撃した。
  武器のない難民の方々は、空き缶や野菜を投げて抵抗
 した。
  3時間の虐げの攻撃を受けた。
  また、エクソダス号は、体当たり攻撃も受けていたの
 で船は浸水していて、降伏した難民の方々は、別の船に
 乗り移らされた。
  イギリスは、ハンブルグ(ドイツ北部の都市)へ連れ
 て行き、強制的に下船させ、そして、リューベックの収
 容所へ入れた。
  ナチスの手をやっと逃れた方々を、再び、ドイツの収
 容所へ入れた。
  国際的な批判も受け、イギリスは、今後、難民の方々
 をヨーロッパへは戻さないと言った(ユダヤの方々に対
 し虐げのヨーロッパ世論でもあった)
  因みに、ハンブルグには歴史博物館があるが、その記
 述には・・
  「1933年にヒットラーが政権をとり・・、
  1938年11月9日~10日にかけて、ユダヤ人の方々への組
 織的迫害を始め・・、
  1941年秋には、ハンブルクのほぼ全員のユダヤ人の方々
 が、ミンスクやリガへ輸送されて行った。
  1933年のヒットラーが政権を取る以前は、17000人もの
 ユダヤの方々が居られたのに、
  1945年5月には、たった数百人のユダヤの方々しか居な
 かった」・・と・・、
  そして、この事件をモデルとした映画・栄光への脱出。
  Exodusは「大挙した脱出」という意味で、キリスト教
 の史実に実存しない「架空のデッチアゲ話の出エジプト
 記」になぞらえている(1960年、映画化)
.
1991年1月17日、湾岸戦争が始まる(気化爆弾が使われた)
  この戦争は、第41代アメリカ大統領ジョージ・H・W・
 ブッシュ(父)の主導で、イラクの空爆を行なうことで
 始まった。
  この時、気化爆弾が使われた。
  この爆弾は、爆発による破片による殺傷ではなく、急
 激な気圧の変化による内臓破裂などを起こさせる爆弾で、
 非常な威力があった。
  それは、人体が、1kgf/cm2 程度の爆風(=風)でも、
 急性無気肺や肺充血を起こすからで、
  また、さらに、一酸化炭素を大量に含んだ酸素バラン
 スが悪いガスが襲い掛かってくるため、酸欠と一酸化炭
 素中毒と呼吸困難を同時に起こすことになり、窒息死を
 したようになった。
  だから、建物に避難している人たちをも、無差別に殺
 された。
  (戦闘員だけを対象にした爆弾ではない・・その最初
 から無差別殺戮を目的としている非人道的兵器)。
  また、燃え残ったこの爆弾の燃料が、大地に広がった
 だけでも危険という代物(しろもの)。
  アメリカは、この兵器を開発して、保有しているが、
 積極的に使用したがっている。
  この湾岸戦争のとき、広範囲の砂漠に分散して砂中に
 隠されたイラク軍戦車部隊や、随伴歩兵らの兵力を削ぐ
 べく、この兵器が使用され、
  多数のイラク兵が、この兵器の作動時に発生する巨大
 な火球によって、塹壕(ざんごう)や戦車の中で蒸し焼
 きになって焼き殺された。
  また、衝撃波で(目立った外傷も無く)圧死させられ
 た。
  この爆弾は、BLEVE現象による殺戮となる・・
  (参考)BLEVE(ブリーブ、ブレビー)は、液体
     の急激な相変化による爆発現象。
      日本語では、「沸騰液膨張蒸気爆発」や「沸
     騰液体蒸気拡散爆発」などと訳す。
  この爆弾の研究は、第二次世界大戦中にドイツで始ま
 った。
  これは、爆発性の高い燃料を、ポンプで散布するので
 はなく、燃料自身の急激な相変化によって行われる。
  そのため、秒速2㎞もの超急速度で拡散する。
  このため、数百kgの燃料であっても、放出に要する時
 間は100ミリ秒に満たない。
  だから、爆弾が、時速数百kmで自由落下しながらでも、
 瞬間的に広範囲に燃料を散布できる。
  燃料の散布が完了し、燃料の蒸気雲が形成され、着火
 され、自由空間蒸気雲爆発が起きる。
  大きな破壊力を発揮する。
  爆鳴気の爆発で、空間爆発の強大な衝撃波を発生させ、
 12気圧に達する圧力と、2,500℃~3,000℃の高温が発生
 し、人体に多大な影響を与える。
  音速飛行の戦闘機や航空機でも投下でき、湾岸戦争の
 時、アメリカはヘリコプターで投下した。
.
2017年、偉大な日本人の発明がまた・・、
  ほとんどの物は、酸化(燃焼)するときに、熱を発す
 る。
  今・現在、炭素を酸化させて(燃やして)人類は、熱
 (エネルギー)を得ている。
  この事によって、人類は、文明が維持され、生活が維
 持され、保たれている。
  しかし、この炭素の燃焼は、炭酸ガスの発生による地
 球温暖化の問題を発生する。
  アルプスの氷河が無くなり、また、ハワイのワイキキ
 の浜辺が、海水面の上昇で無くなって来ている。
  この様な現状を打開する発明が、輝かしくも日本人の
 手によってなされ、このシステムが成立しつつ、ほぼあ
 る。
  偉大な日本人の偉業が、また一つ増えるという状況で、
 ノーベル賞の有力候補となっている。
  炭素の燃焼に、人類が頼(たよ)っているのは、その
 保存性と燃焼性であるが・・、
  その炭素に代わって、アンモニアを燃焼させようと、
 そのアンモニアの燃焼の欠点が、日本人の発明・研究に
 よって克服されつつある。
  実証実験の段階となっている。
  アンモニア燃焼の良さは、燃焼後の発生ガスが、水素
 と窒素であるため、地球温暖化の問題も発生しない。
  日本人研究者が、その燃焼性と保存性の解決策を発明
 した。
  有望な触媒による発明がなされて、解決し、また、一
 連のシステム成立の可能性が、現在、大いに高まってい
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)538E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年5月~1891年6月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)538E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年5月~1891年6月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年5月27日、大審院長の児島惟謙が、政府の大逆罪適用
 の要求に反対し、津田に無期判決を下す(大津事件)
  大津事件に関する大審院が、大津地方裁判所で開廷さ
 れ、津田三蔵に対する死刑求刑に対し、謀殺未遂罪で無
 期徒刑の判決を下した。
1891年5月30日、ロシアが、シベリア鉄道を着工した(5月
 31日説あり)
  ロシアが、シベリア鉄道をウラジオストクで起工した。
  航空機が登場する前は、日本とヨーロッパを結ぶ欧亜
 連絡運輸において最速の交通路でもあった。
  後に、第二シベリア鉄道と呼ばれるバイカル・アムー
 ル鉄道(バム鉄道)が建設された。
  バム鉄道の西の始点は、シベリア鉄道との分岐点イル
 クーツク州タイシェトであり、
  東は、日本海に面したワニノを通りソヴィエツカヤ・
 ガヴァニの港へ至る。
  シベリア鉄道はバイカル湖の南を通るが、バム鉄道は
 北を通る。
  1850年代、シベリア鉄道の計画は、請願は多数に登っ
 たものの、いずれも実行に移されることはなかった。
  (イギリス人案、アメリカ人案などの外国人案もあっ
 た)
  1864年のヴャトカ飢饉を契機に、飢饉救済のため中国
 国境までの鉄道敷設に関心が払われるようになった。
  ロシア西部の鉄道が随時拡張されて来ると(1877年の
 オレンブルグ鉄道や、1878年のウラル鉄道の完成など)、
  ロシアの運河の完成とともに、鉄道により水路を連結
 し、鉄道と水路を併用する計画が生まれた。
  そして、水路と鉄道を繋げることによって廉価に交通
 が開発され、その輸送力でもって全通鉄道の工事の着手
 ができると見込まれた。
  そして、水路併設鉄道案が隆盛を見た。
  全長は約25715km、内、水路は16015km、鉄道は9700km
 程度となった。
  費用は鉄道に関するもので1625万ルーブル、水路は735
 万ルーブルの合計約2360万ルーブルと試算された。
  ただ、水路の氷結のため、1年の内、わずか4か月しか
 充分に使用できないという暗い見通しがあることも分か
 っていた。
  紆余曲折があって後、水陸併用線の欠点を踏まえ、こ
 れが否定され、シベリア貫通大鉄道の敷設が決定された。
  1891年3月29日、ツァーリー(君主の称号)のアレクサ
 ンドル3世は、勅諭をアジア各地へ訪問中の皇太子ニコラ
 イに与えた。
  その勅諭は・・「私は、今日、シベリア全土を貫通す
 る鉄道布設の詔勅を発し、天産富饒のこの地を、ロシア
 の線路に連絡させる。
  よって汝に命ず、東洋諸国の漫遊を終えた後に、シベ
 リアに至ったならば、私のこの意を諸有司に告げて、兼
 ねてシベリア大線路ウスリー線の第一軌鉄をウラジオス
 トクに布設するところに臨行せよ。
  この線路は、国庫の財をもって布設し、その監督もま
 た官の任じるものであり、まさに国家事業である。
  汝がこの事業に参与するのは、私がシベリアと他の領
 内との交通を便にし、シベリアの平和的発達を図る希望
 切なるを世に知らしめるためである」
  以上の勅諭を、皇太子は、1891年5月12日、ウラジオス
 トクにおいて宣揚し、シベリア鉄道定礎式の盛典を行っ
 た。
  建設は、露仏同盟を結んでいたフランス資本から資金
 援助を受けながら難工事を進めて行った。
1891年5月、東京浅草の12階建ての塔「凌雲閣」のエレベー
 ターの故障が、開業当日より頻発していたため、使用中
 止となった。
  1923年(大正12年)9月1日の関東大震災によって建物
 の8階部分より上が崩壊した。
  この地震発生時には、頂上展望台付近に、12人~13人
 の見物者が居た。
  福助足袋の看板に引っかかって助かった1人を除いて、
 全員が崩壊に巻き込まれ即死した。
  1823年9月23日、経営難から、復旧困難となったため、
 陸軍赤羽工兵隊の手で、爆破解体され、その幕を閉じた。
1891年5月、大阪鉄道会社が、学校生徒の団体運賃割引制度
 を設け、人員および距離に応じて1割~5割までの運賃割
 引を実施した。
1891年6月7日、洋学者・教育家・文学者・啓蒙学者・法学
 者の中村正直(なかむらまさなお)が逝去した、60歳。
  1832年に東京に生れて、昌平黌(昌平坂学問所)に学
 び、後に、教授となる(儒学を佐藤一斎、蘭学を桂川甫
 周(国興)に学んだ)
  1862年(文久2年、30歳)幕府儒官となる。
  渡英し、帰国後、明六社の設立に参加し、啓蒙思想の
 普及につとめた。
  また、1871年(39歳)スマイルスの『セルフーヘルプ』
 を翻訳した『西国立志編』を出版した。
  1872年(31歳)ジョン・スチュアート・ミルの「自由
 之理」を翻訳し、新思想を紹介した
  私塾同人社を設け、「三田聖人」福沢諭吉と並び、「
 江戸川の聖人」と言われた。
  自由民権思想の紹介者。
  (参考)ジョン・スチュアート・ミル(1806年~1873
     年)は、イギリスの哲学者で、政治哲学者、経
     済思想家でもあり、
      政治哲学においては自由主義・リバタリアニ
     ズムのみならず、社会民主主義の思潮にも多大
     な影響を与える。
      晩年は、自ら社会主義者を名乗り、倫理学に
     おいて、ベンサムの唱えた功利主義の擁護者と
     して知られる他、
      論理学分野において、バートランド・ラッセ
     ルら後続の分析哲学にも強い影響を与え、初期
     科学哲学の重要な哲学者として存在する。
1891年6月17日、小学校祝日大祭日儀式規程を定めた。
  小学校祝日大祭日儀式規程の制定(御真影拝礼・教育
 勅語奉読などを規定)
1891年6月22日、鉄道庁が、勅令第27号に基づき、宿泊また
 は徹夜勤務者に食料支給を定めた(4月1日から適用し、
 従来の弁当料支給を廃止)
1891年6月23日、「言海」(大槻文彦)完成祝賀会(紅葉館)
  大槻文彦編の「言海」出版祝賀会が開かれ、政府関係
 者らが出席した。
  招待されていた福沢諭吉は欠席した(祝詞の順番が伊
 藤博文の後だったためと言われている)
1891年6月23日、『国民之友』に、メーデーの紹介記事が載
 った。
1891年6月、春日局が、東京歌舞伎座で初演された。
  歌舞伎座にて、演劇改良論者の福地桜痴居士作の「春
 日局」が初演され、9世市川団十郎が演じた活歴物の代表
 作で、団十郎の春日局が、好評を博した。
1891年6月、川上音二郎、藤沢浅二郎の書生芝居が、中村座
 に乗込み、意外の大入りとなる。
  東京における書生芝居の始めで、その後、各種の書生
 芝居、続々起こった。
  川上音二郎(かわかみおとじろう)は、この年・1891
 年、堺で川上書生芝居を旗揚げし、地方巡演ののち『板
 垣君遭難実記』で東京公演に成功した。
  またこの年・1891年、貞奴 (→川上貞奴 ) と結婚した。
  因みに、川上貞奴(かわかみさだやっこ)は、1871年
 7月15日(18日説あり)に東京で生まれ、女優。本名は
 小熊貞。
  15歳で芸者となり、東京葭(よし)町の美貌の芸者とし
 て知られ、伊藤博文や奈良原繁、福沢桃介らと知り合う。
  1891年、川上音二郎と結婚し、以後、川上のよき協力
 者となる。
  1898年、夫とともに渡米、サンフランシスコで、はじ
 めて舞台にたつ。
  欧米を『武士と芸者』などを売物に巡業し、「マダム
 貞奴」の名を高め、人気を得て知られた。
  「芸者と武士」などの演技に魅せられたひとりにジッ
 ドがあり、また、ピカソは素描を残した。
   1901年~1902年、再度渡米。
  帰国後、1903年から明治座をはじめ、日本の舞台でも
 活躍・・正劇の女優として活躍、人気女優となった。
  『オセロ』などに出演。
  1908年、帝国女優養成所 (のち帝劇附属技芸学校) を
 開設し、後進の育成に尽くした。
  1911年、音二郎と死別した後は、 次第に、劇界から孤
 立した。
  それとともに凋落して、1918年に引退した。
  (1917年の「アイーダ」が最後)
  1917年~1918年、明治座で引退興行をしたのち、一時、
 川上児童音楽劇団を主宰した。
  意外なことに、本人は役者が嫌いで、晩年は演劇界と
 関係しなかった。
.
(今日の言葉)
.
  題:南樺太と千島列島は、国連が預かっている状態。
    ロシアのものともは決定されていない。
.
1939年6月、ナチスに追われたユダヤ人の波が押し寄せ始め
 た時、
  アメリカは、1939年6月の「スミス法」で外国人受け入
 れ取締りを強化した。
  そしてまた、卑劣な事に、続いて、1941年11月には「
 ラッセル法」を制定してビザ発行を制限した。
  1939年5月には、すでに、アメリカは、ユダヤ難民を乗
 せ、ドイツからキューバに到着したものの、アメリカを
 目前にヨーロッパに送り返した。
  この『セント・ルイス号』の難民の悲劇ほど、ユダヤ
 難民の方々に対するアメリカの冷淡さを象徴する事件は
 なかった。
  また、1942年以降、ユダヤ人虐殺の悲報がホワイトハ
 ウスに届けられたにもかかわらず、ルーズベルト大統領
 は、何ら積極的な行動に出ようとはしなかった。
  さかのぼる事1938年8月15日、最初のユダヤ人難民が、
 オーストリアからイタリアの船で上海にたどり着いた。
  1939年の6月には、8,200人ものユダヤ人難民が到着し
 ていた。
  日本は、上海でも、ユダヤ人の方々を「亡国の民」と
 して保護した。
  上海には、日本の管理する租界があった。
.
1941年6月22日、ドイツの「ソ連侵攻」
  ドイツが、突然、ソ連に侵入し、戦争状態となった。
  アメリカ大統領のフーバーが書いた「フーバー大統領
 回顧録」という本があるが・・、
  この本でも、「日本の戦争は自衛戦争だった」と、フ
 ーバー大統領も認めていて・・、
  この本で、フーバーは言う・・、
  「ソ連共産主義を助けたこと」が、アメリカの最大の
 大きな過ちだった・・と・・、
  「アメリカの歴史の全史を通じてもっとも政治の大道
 が失われたのが、ヒトラーが、ソ連を、1941年に攻撃し
 たとき、アメリカが、共産・ソ連を支援し・・、
  アメリカとソビエト連邦が、『非公然の同盟関係にな
 ったこと』だった」・・と言った。
  その結果、「第二次大戦の唯一の勝者が、ソ連とスタ
 ーリン」になってしまった・・と・・
.
1945年5月7日、ドイツ降伏
  ドイツ国防軍最高司令部作戦部長、アルフレート・ヨ
 ードルがフランスのランスで降伏文書に調印した。
  第二次世界大戦の死亡者
  第二次世界大戦のヨーロッパ戦線では、ナチス・ドイ
 ツとソ連の激しい死闘があった。
  その死亡者は・・、
  ソ連   …2,000万人
  ドイツ  …  970万人
  ポーランド…  603万人
  フランス …   52万人
  イタリア …   40万人
  アメリカ …   33万人
  イギリス …   32万人
   ・   ・   ・   
  その他の虐殺・・、
  但し・・、ポーランドやウクライナやバルト三国や少
 数民族における虐殺は・・不明。
  キリスト教の考え方に影響されて、ナチス・ドイツの
 ホロコーストで、ユダヤ人の方々に対する虐殺が、600
 万人に達した。
  この様にキリスト教世界に於ける虐殺は、目を覆いた
 くなるほど悲惨だった。
.
1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約が締結された。
  日本は、この条約締結国に対して、この条約の第2条
 (C)で、すべての権利、権原、及び、請求権を放棄し
 た。
  それ故、サンフランシスコ平和条約の上では、南樺太、
 及び、千島列島の最終的な帰属は、将来の国際的解決手
 段に委ねられることとなっている。
  だから、それまでは、南樺太、及び、千島列島の『最
 終的な帰属は未定である』ということ・・、
  以上が、日本の外務省の見解でもある。
  だから、南樺太と千島列島は、国連に預けてあるとい
 う状態で・・、
  ましてや、この条約の未締結国のソ連の領土という事
 には到底ならない。
  日本政府には、この事を、十分、検討し、交渉しても
 らいたい。
  北方四島は、当然の、日本の領土だけれど・・、
  中立条約を破棄して、南樺太、千島列島、北方四島に
 対して、日本が負けると決まっていた時に、ソ連は、そ
 の領土を取りに来た。
  アメリカにそそのかされて・・卑劣である・・
  これは・・強盗行為となる・・、
  ソ連へ、戦争の終結を依頼している日本に対して、ソ
 連は、中立条約を破棄する理由は皆無であるのに・・、
  また、日本と戦争をする理由は皆無であるのに対して・・
  領土が欲しいだけの理由で、ソ連は、中立条約を破棄
 して・・奪い取った。
  例えの話になるが・・、
  イラクとアメリカが戦争している時に、まったくの第
 三国が、急に、バクダットへ侵攻して、奪ってしまうよ
 うなものなのだ。
  アメリカは、ソ連に、その様なことをしろと・・日本
 に対して、その様な行為をそそのかしてまでしてやらせ
 た。
  そして、正当だとした。
  また、誰かが・・隣家に強盗が入っている時に・・、
  その様な隣家に、第三者が入って行って、金品を奪う
 行為をする様なもの。
  この様な行為が、正当である訳はない。
  成立などしない。
  正当である訳がない。
  逆に、この行為は、犯罪行為である。
  アメリカが、おかしな事を、ソ連にそそのかして、や
 らせただけで、まったく、成立しない・・正当ではない
 行為なのだ。
  だから故に、今・現在、ロシアにこの事を説明して、
 南樺太、千島列島、北方領土を、白紙から打ち合わせを
 するべきなのだ。
  成立しない、不正な行為なのだから、返すのが当然な
 のですと・・、
.
1961年10月30日、驚異の水爆(ツァーリ・ボンバ)の実験
 が、ロシアで行われた(広島の原爆の3300倍)
  第二次世界大戦で使われた「すべての爆薬量の10倍」。
  ツァーリ・ボンバ(「ツァーリの爆弾」の意)は、ソ
 連が開発した人類史上最大の水素爆弾の通称。
  正式名称はAN602。
  開発時のコードネームはイワン(Иван)。
  「ツァーリ・ボンバ」の名称は、西側諸国がクレムリ
 ンに展示されている世界最大の鐘ツァーリ・コロコル、
 世界最大の大砲ツァーリ・プーシュカになぞらえて付け
 たもの・・(現在はロシアでも広く用いられている)
  単一兵器としての威力は、人類史上最大。
  1961年10月30日に、ノヴァヤゼムリャで、唯一の大気
 圏内核実験が行なわれて、消費された。
  (以後製造されていない)
  TNT換算で99,000キロトン(約100メガトン)、
  実際の出力は、50メガトンに制限されたが、それでも
 広島型原子爆弾「リトルボーイ」の3,300倍(リトルボー
 イは15キロトン)に達した。
  何と! これは、第二次世界大戦中に全世界で使われ
 た総爆薬量の10倍の威力を持つといわれる。
  この100メガトン級(実際は50メガトン)核爆弾の核爆
 発は、2,000キロメートル離れた場所からも確認され、
  その衝撃波は地球を3周した。
  因みに、ノヴァヤゼムリャは、北極海に浮かぶ列島で、
 冷戦時代には軍事的に重要な拠点だった。
  ソビエト空軍は、島の南部にロガチェボ空軍基地を置
 き、初期にはインターセプター機(基地や艦隊の上空の
 防御を担当する戦闘機)を配備した。
  その後、1955年より、核実験のための戦略的な支援施
 設となった。
  ソビエト連邦は、冷戦の最中の1954年6月に、ノヴァヤ
 ゼムリャを核実験場とすることを宣言した。
  そして、この年・1954年10月に、早々と実験場の建設
 に着手した。
  現在も、ロシア連邦の核実験場として使用されている。
  現在まで、臨界前核実験などの未公表実験を除き、約
 224回程度の核実験が行われている。
.
1964年4月18日、ニール・ファーガソンが生まれた。
  彼は、イギリス人で、ハーバード大学教授で・・、
  歴史学者でジャーナリスト、専門は経済史、金融史な
 のだが、重要な事を発表した。
  このイギリスの歴史家ニール・ファーガソンが支持し
 ており、1943年、「(アメリカによる)秘密諜報報告に
 よれば、アイスクリームと3日間の休暇だけが約束され
 ており・・・(中略)・・・アメリカ軍将兵に降伏した日
 本将兵を殺害しないよう説得すること」としていると述
 べている。
  ファーガソンは、これらが、1944年後半、日本軍将兵
 捕虜が1:100の割合で処刑されたと述べている。
  ファーガソンは、連合軍司令部が、戦死者と日本軍捕
 虜の比率を改善する処置をとり、1945年中頃までには、
 1:7に改善されたと付け加えている。
  それでも1945年6月4日、沖縄戦においてアメリカ軍が
 捕虜を連行しないことは一般的に黙認されていた。
  (捕虜にしないで殺してしまえば済むと言う)
  また、アメリカの歴史家、ジェームズ・J・ワインガル
 トナーによれば、アメリカ軍の捕虜となった極少数の日
 本軍将兵は2個の重要な要因を含んでおり、日本軍将兵
 が降伏することを渋ることとアメリカ軍将兵の大部分が
 「日本人は「動物」か「人間以下の存在」であり日本軍
 将兵が通常の処置に値しないことで一致していた。
  さらにファーガソンは、ドイツ人がロシア人を見た
 ときと同じように、連合軍将兵も日本人を見ていた。
 「劣等人種として」としており、理由を補強している。
  また、アメリカ合衆国、オーストラリア将兵の書いた
 日記についての研究論文を発表したリチャード・オール
 ドリッチによれば、連合軍将兵は時折、捕虜を処刑した。
  また、オールドリッチによれば、アメリカ軍が捕虜を
 連れて行かなかったことはよくあることだとしている。
  そして、シュトラウスによれば、「それが不必要に部
 隊を危険にさらすという理由から上官は捕虜を連行する
 ことに反対していた・・・(後略)」、それでも捕虜を連
 行する場合、しばしば、「彼ら(捕虜となるべき日本将
 兵)を連行するにはあまりにも面倒があったため」輸送
 途中で射殺された。
.
2009年1月20日、アメリカのオバマ大統領(任期:2009年
 1月20日~2017年1月20日)は、ある意味、正直な大統領
 だった。
  TPPは自由貿易協定だとされているが、オバマ大統
 領は、「そうではない」という意味を口を滑らせた。
  年頭教書演説で、つい言ってしまった・・、
  「TPPで、アジアに、アメリカのルール、アメリカ
 のビジネスのルールを適用させるのだ」・・と・・、
  アメリカのルールで、アメリカの一人勝ちのルールを
 TPPで実現させる・・と。
  アメリカのルールを適用し、アメリカのエスタブリッ
 シュメント(ウォールストリートなど)が、第一に狙っ
 ている日本の甘い汁を吸うシステムにする・・と・・、
  第一に狙っているのが日本の郵貯・・
  そして、保険。
  それを、我々のルールの下で我が物にしたいという・・、
  また、農協にも美味しいものがあると、
  「農協改革だ」と銘打って、その美名の下に、
  農家の方々が地道に努力して積み上げて来たお金、
  JAバンクの96兆円(2016年3月:現在)も戴きたいと
 している。
  色々と日本を批判し、JAも解体させたいとしている。
  ルールがある所は・・「それは規制だ」と批判した。
  どこにだってルールはあるだろう・・と言いたいが、
 それは規制だと言いつのった。
  必要なルールは無くしたら駄目なのだ。
  その様なルールはあるのだ・・、
  君の国だってルールがあるように・・、
  美味しい汁を吸う作戦に従って、日本のルールを攻め
 て来る。
  医療に於いても、金持ちしか進んだ先端医療が受けら
 れないという状態になっているアメリカの様に、
  また、アメリカの貧困層の方々は、医療サービスを、
 まったく受けられないという現状の様に・・、
  アメリカは医療面でも差別社会となっているように・・、
  政府が、その様な格差をなくすようにしなければなら
 ない羽目にはまっているアメリカのように・・
  「国民の幸福を実現させなければならない」という当
 たり前のことに対し、
  ・・それと相反する様な・・多国籍企業の利益を享受
 するための行動を、日本に向かってしたいとしている。
  また、日本以外の『他国の市場』でも、なんだかんだ
 と美名をかこつけて活動し、利益を享受しようとしてい
 る。
  我々が活動しやすいグローバル化が良いのだと・・、
  そして結果、弱者の方々が見捨てられ、格差が広がり・・
 その様な現状を知っていながら、更なる利益をという欲
 の世界に入って行く。
  アメリカン・ルールが正義なのだと、臆面もなく押し
 付けて来る。
  その様なTPPで、グローバル論理だった。
.
2012年12月28日、北朝鮮による拉致被害者の方々は、868人
 に上ることが公開された。
  この日に、「救う会徳島」が、『行政機関の保有する
 情報の公開に関する法律』に基づき行った「情報開示請
 求」により、警察庁が公開した情報によると、
  2012年11月1日時点で「拉致の可能性が否定されない特
 定失踪者」として、捜査・調査が行われている対象者数
 が全国で868人にのぼっている。
  まったく、酷い話だ。
  この様な行為を未然に防ぐ法律を充実せよ!
  民進党も、この問題を前向きにとらえて、徹底的に検
 討せよ。
  ある日、あなたのお子さんも、ある日、突然、拉致さ
 れることも起き得る、横田めぐみさんの様に・・、
.
2017年、グローバリズムが良いのだという「作られた美名」
 のもとに、民族の固有の良さが消されて行く・・、
  そして、その民族の依(よ)って立つところの国も否
 定するグローバリズム・・、
  ある話し・・
  彼女は、「引っ越しばかりでした」と、寂しそうに言
 った。
  過ぎ去って行った時の中に、自分を包み込んでくれる
 何かが無いことを感じた。
  物足りなさを感じた。
  そのことを・・その様に表現した彼女だった。
  個性が形成される幼児期から、そして、人間形成の大
 事な時期の小学生の時期の自分にも、
  風に吹かれて・・ふわふわと飛ばされる花の種子の様
 に、一定地域に留まることなく、
  定まった地のコミュニティの中で、文化を味わい、雰
 囲気の臭(にお)いを嗅(か)いで、人と触れ合う温か
 さを感じ、環境に触れ遊び、育(はぐく)まれた時が無
 かった事を、言外に憂(うれ)いていたのだった。
  連綿と続く文化、
  そして、その連続性から、より高い繊細な文化へと昇
 華して行く。
  その様な歴史ある文化に育まれていく『幸せ』。
  その様な事が、無かったという嘆きだった。
  その様なことを否定するのが『グローバリズム』。
  今、アメリカは、「人種のるつぼ」と言われるのを嫌
 う。
  グローバリズムを標榜するなら、人種は、必然的に「
 るつぼ的になる」でしょう。
  それを嫌うなら、グローバリズムを標榜する資格は、
 ありません。
  近年、日本が、世界に誇れる日本文化が、意図あって
 消されている、その様に活動する輩たちが居る・・
.
2017年、南樺太と千島列島は国連が預かっている状態。
  ロシアのものともは決定されていない。
  この様な事を頭に起きながら、日本とロシアは、関係
 を強化していく必要がある。
  現状以上の関係を構築して行くという事に関し、深い
 検討の下での行動としたい!
  この原点で、この領域について、日本とロシアの共同
 の経済協力策を案出して行きたい。
  必要なら、この案件に於いて、アメリカの参画も打診
 し、米ロの関係強化に一役買って行なうべきだ。
  この三国による長期の経済関係が構築できるプランを
 練って行きたい(中国対策ともなる)。
.
2017年、自分勝手なアメリカの論理。
  アメリカは、ミャンマーに、「宗教が固定化している
 ではないか」と言った。
  「軍隊にも、仏教徒以外の信者がいるはずだから、そ
 の信仰の自由を認めるべきだ」・・と。
  アメリカは、この様な論理で、ほかの国にも、この様
 な要求ばかりしている。
  しかし、しかし、この逆は、まったくと言って「なっ
 てない」。
  アメリカン海軍兵学校も、また、アメリカの陸軍士官
 学校も、この様には、なってないと訪れた人が言う。
  「冗談言うな」・・と。
  アメリカの学内敷設の中には、キリスト教の教会しか
 ないではないか・・と。
  アメリカの物言いは、すべてこの伝で、このやり口で・・
 自分だけに都合よく言う。
  教育面でも宗教の公平性や宗教の自由度が無い。
  アメリカの小中学校には、卒業式や入学式といった式
 典の時のみ日の丸を掲示する日本とは違って、
  教室の黒板の横に必ず星条旗が飾られている。
  アメリカでは、学校教育のことあるごとに各教室にお
 いて、子供たちが星条旗の前で胸に手を当てて、「私た
 ちは(キリスト教の)神の下にひとつになった自由と正
 義の国、合衆国に忠誠を誓います」という『忠誠の誓い』
 を暗唱させられる。
  また、表面上は政教分離が設けられているが、大統領
 が、大統領就任式やその他の行事でも、ことあるごとに
 “May God Bless America” (アメリカに神の祝福があり
 ますように)とか、「神を信じる」と言ってスピーチを終
 えることがよくある。
.
2017年、馬淵睦夫氏は、元ウクライナ兼モルドバ大使など
 をされた方ですが・・、
  馬淵氏が言われることは、日本はユダヤの方々を差別
 していないから、杉原千畝のような行為は、どこの大使
 もやっていましたよ・・と言われる。
  何故、杉原千畝だけが、美談だとデッチ上げられるの
 だろうか?
  この杉原千畝のデッチ上げは、以前からズーッと、キ
 リスト教組織によってなされて来ていた。
  そこに、日本を貶(おとし)める嘘を入れることまで
 していた。
  日本が、ユダヤの方々を差別していたという嘘を言う
 のである・・デッチ上げるのである。
  そのキリスト教の嘘の言い方は、「日本は、三国同盟
 でドイツと同盟を組んでいたので、ユダヤの方々を虐げ
 ていた」・・という言い方で嘘を言った。
  日本が、ドイツの様なユダヤの方々の虐げ行為をして
 いたと嘘を言った。
  これは、「最悪の嘘である」。
  日本をナチと一緒にした。
  日本は、ナチスに、逆に、ユダヤの方々に対して共同
 歩調を取れと言われたのを、「拒絶しているくらいだっ
 た」。
  キリスト教組織は、その『真逆の大嘘』をでっち上げ
 た。
  この様な言い方を、日本のテレビや新聞までが同調し
 た。
  読売新聞や、キリスト教に偏するNHKや・・、
  そして、この展示会・・キリスト教組織が、この嘘の
 ストーリーで展示会を行なっていたので、この点を指摘
 すると、「まったく答えられない」という状況、展示責
 任者もすべて承知の嘘展示であった。
  展示場を貸している、公的機関の責任者にも話すと、
 そのことを、十分、知っていて、「個人名で開催すれば
 よい?」と屁理屈判断をしてその公的機関の最高責任者
 が許可をしたと言う。
  まったく卑劣この上ないこの嘘のパターンで、「ウソ
 の杉原千畝の展示」が、今、日本各地で行われている。
.
2017年、日米のある識者の対話
  ある日本の識者が言う・・、
  「日本は、3核武装国に囲まれており、しかも、今後
 ますますバランス・オブ・パワー環境が悪化して行く日
 本は、自主核を持って自主防衛をせざるを得ない」
  それに答えて、あるアメリカの識者が言う・・、
  「その意見は分かる。
  きわめて常識的なバランス・オブ・パワー外交論だ。
  しかし、日本人のいったい何人が、君のような普通の
 バランス・オブ・パワーのパラダイム(思考パターン)
 を使って議論しているのだ?
  日本の政治家と官僚が、国際政治に関して常識的なパ
 ラダイムを理解し、そのパラダイムに依拠してバランス・
 オブ・パワー政策を実行するというなら、私だって日本
 の核武装に反対しない。
  ところが、実際に日本国内の外交議論を見ているとど
 うだ。
  日本の政治家たちは、歴史論争とか、加計学園とか、
 靖国論争とか、知的に何の生産性もない議論にうつつを
 抜かして時間を浪費しているではないか。
  中国の政治指導者と外交官の方が、日本人より頭がい
 い、中国人には、戦略的な思考力がある」。
.
2017年、アメリカは、政教分離を国是としている。
  この政教分離をしっかりしている国で、アメリカとい
 う国のために殉じた戦没者に対して、年に3回の「戦没者
 追悼式」が、国の主動で行っている。
  国の式典として行っている。
  アメリカは、アメリカの首都のワシントンDCに隣接
 するバージニア州の国立のアーリントン墓地において行
 なっている。
  追悼式は、円形のキリスト教会のチャペルの中で、キ
 リスト教牧師によって行う宗教色で行っている。
  日本も、アメリカの様に、靖国神社で、年に3回の「
 戦没者追悼式を行なうべきである」。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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(増補版)537E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年5月~1891年5月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)537E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年5月~1891年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年5月15日、イギリスが、ニヤサランド(後のマラウイ)
 を保護国化した。
  卑劣な事にイギリスは、先住民族の方々が法的な事に
 無知な事をいいことに、好き勝手をやっていた。
  (それはそうだろう、自分の好き勝手な法律を作り、
 自分の好き勝手な制度によってやっていれば、君だって、
 その様になるのです)
  虐げられた先住民族の方々は、熾烈(しれつ、燃え立
 つように盛んな、そして、激しいさま)な独立の努力を
 して行った。
  イギリス保護領となって以降、法的手続きに関する無
 知から先住民族の方々は、不利な立場に追いやられてい
 た。
  ・・が、しかし、徐々に、ヨーロッパやアメリカで教
 育を受けたアフリカ人のエリート達が、主張し、政治的
 活動を行うようになって行った。
  そして、この後の24年後の1915年に、ジョン・チレン
 ブウェによる反乱がおきた。
1891年5月15日、鉄道庁列車乗務者宿泊料、及び、乗務日当
 支給規程制定(列車務乗[乗務]員の宿泊料および乗務日当
 は、一般の宿泊料や日当とは区別されて支給される)
1891年5月16日、新聞・雑誌、文書図書の外交記事に関し、
 内務大臣に検閲・禁止権ができた。
  これは、大津事件に影響されていた。
1891年5月20日、畠山勇子が、大津事件を憂い、日本の危機
 回避を祈願し、京都府庁の門前で自殺した。
  5月11日、来日中のロシアのニコライ皇太子が、暴漢に
 襲われて重傷を負う事件が発生したが(大津事件)・・、
  そして、日本中が騒然となったが・・、
  そうした中、ロシア皇太子が、本国からの命令で、急
 遽(きゅうきょ)、神戸港から帰国の途につくことにな
 った。
  それを知った勇子は、帰郷するからと奉公先の魚問屋
 を辞め、下谷の伯父の榎本六兵衛宅に押しかけた。
  榎本は貿易商で・・、島津・毛利・山内・前田・蜂須
 賀らの大名家が、幕府に隠密に銃を買い入れていた武器
 商人だった・・、
  維新後は、生糸の輸出で財を得ていた。
  勇子は、伯父ならば、自分の気持ちを理解してくれる
 だろうと考えた。
  「このまま帰られたのでは、わざわざ京都まで行かれ
 て、皇太子を見舞い、そして、謝罪した天皇陛下の面目
 が立たない」と口説いた。
  伯父は、一介の平民女性が、国家の大事を案じても、
 どうなるものでもあるまい・・と諫めたが、
  思い詰めた勇子は、汽車で京都へ向かった。
  京都に着いた勇子は、京都で、様々な寺を人力車で回
 った。
  そして、その後、5月20日の午後7時過ぎ、「露国御官
 吏様」「日本政府様」「政府御中様」と書かれた嘆願書
 を、京都府庁に投じた。
  そして、府庁前で、死後見苦しからぬようにと両足を
 手拭で括って、剃刀で咽喉と胸部を深く切って自殺を謀
 った。
  しかし、すぐには死ぬことができず、すぐに、病院に
 運ばれた。
  治療が施されたが、気管に達するほどの傷の深さゆえ、
 出血多量で絶命した・・享年は27歳だった。
  この頃の日本は、まだ極東の弱小国であり・・、
  この事件を口実に、大国ロシアに宣戦布告でもされた
 ら、国家滅亡さえ危ぶまれる・・彼女はそう判断した。
  伯父や母、弟にあてた遺書は、別に、郵便で投函され・・、
 総計10通を遺していた。
  その壮絶な死は、「烈女勇子」と、メディアが喧伝し
 た・・、
  世間に広まって、盛大な追悼式が行われた。
  そして、末慶寺(京都市下京区)に葬られた。
  彼女の墓には、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)や、
 ポルトガル領事・モラエスも訪れた。
  モラエスは、また、リスボンの雑誌『セロエーズ』に
 彼女を紹介した。
  彼女の死は、ニコライ皇太子に宛てた遺書や、新聞の
 報道などによって、国際社会へも報道され、知らされて、
 国際社会の同情を買った。
  ロシア側の寛容な態度(武力報復・賠償請求ともに無
 し)につながったとの評価がある。
1891年5月20日、トーマス・エジソンが、キネトスコープを
 公開した。
  キネトスコープは、映画を観る装置で・・、
  撮影機の方は、キネトグラフといい、キネトスコープ
 より先に、同じくエジソンが発明していた。
  スクリーンに映写されるのではなく、箱の中をのぞき
 込む形になっていた。
1891年5月21日、屋井先蔵(やい さきぞう)が、電気時計
 を発明した(1885年説あり)
  因みに、先蔵は、乾電池も発明している。
  先蔵は、1864年1月13日(文久3年12月5日)に、越後
 長岡藩の士屋井家(300石)(現在の新潟県長岡市)に
 生まれた。
  1870年(6歳)父が死去し、叔父に引き取られた。
  1875年(かぞえ13歳で)東京の時計店の丁稚となった
 が、病気のため帰郷した。
  修理工として年季奉公した後、東京高等工業学校(現:
 東京工業大学)入学を志望したが受験に2度失敗。
  年齢制限もあって進学を断念し、それからの3年間は、
 独力で永久自動機等の研究を続けた。
  1885年、23歳のときに、電池(湿電池)で動作する連
 続電気時計を発明した。
  連続電気時計に用いられていたのは、ダニエル電池な
 どであり、電池の手入れが必要なことと、
  冬場は、電池の液が凍結するため使用できなくなると
 いった問題があった。
  屋井は、これら問題を解決する電池の開発に取り掛か
 った。
  連続電気時計は、1891年に、日本では初めてとなる電
 気に関する特許として認められた。
1891年5月26日、法相と内相が、児島惟謙、及び、裁判官の
 説得を図るが失敗。
  児島惟謙(こじまいけん)は、1837年、愛媛(伊予宇
 和島)に生まれた・・、
  幕末には、尊王倒幕の思想を抱いて、3度にわたり脱藩
 し・・、
  長崎では、坂本竜馬らと交わって、倒幕運動に参加。
  戊辰戦争にも従軍した・・明治期の裁判官で・・、
  各地の裁判所長を歴任の後・・、
  1891年、大審院長に就任した。
  大津事件で、内閣、元老の圧力(犯人・津田三蔵の
 死刑を要求)・・
  その政府に対し、条文にない刑罰は適用できないとし
 て排した。
  津田には、通常人に対する謀殺未遂の条文を適用すべ
 きことを強調し、司法権の独立を守った。
  この他にも、児島には多くの正義の判決があり「護法
 の神」と言われた。
  (参考)当時の青木外相の、ロシア公使に対する事前
     の約束にしばられた政府は、犯人津田三蔵に、
     皇族に関する刑法規定を準用して死刑とするよ
     う要請した。
      ・・が、児島は、外国皇族に関する規定がな
     い以上、通常謀殺未遂の罪をあてるよう担当裁
     判官を説得し、無期徒刑を判決させた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:そして、もう一度、「私は、無実です」と、静かに、
    はっきりと、付け加えて言った。
.
1494年、この年に、卑劣な事に、ローマ法王(教皇)アレ
 クサンデル6世は、スペインに対して、アメリカ新大陸の
 征服の優先権を与えた。
  この事から、スペインによる大殺戮の行為、悪名高い
 スペインのアメリカ大陸の大虐殺の征服が始まる。
  ローマ法王アレクサンデル6世は、口ききをして、スペ
 インとポルトガルの間でトルデシリャス条約を結ばせた。
  スペインは、「新大陸」における征服の優先権が与え
 られた。
  (君に、何の権利があるのだ!と、怒りをぶつけたい)
  そして、悲劇の話が始まる・・その可哀想な、非人道
 的な、悲劇の話・・、
  メキシコとグアテマラの国境近くに「チャパス」とい
 うマヤ文明の名ごりの町がある。
  ここの住民は、スペイン人によって男は、皆、殺され
 た。
  そして、残された女性は・・強姦された。
  それ故、酷(ひど)い事に、今、ここに住む住民と言
 えば、その強姦したスペイン人との混血の「メスティー
 ソ」ばかりとなった。
  このローマ法王のからむ『悲惨な事実』を、この悲惨
 な歴史を、世界記憶遺産に登録せよ!
  また、この悲惨な出来事を、スペインのサクラダ・フ
 ァミリア教会に彫刻で、この悲惨な歴史を、事実を残せ!
  そして、さらに悲劇的なことは、このここの住民の男
 性がみな殺されて、女性の方々がスペイン人に強姦され
 て、混血にされた人間だけになったということを、「良
 い事なのだ」と洗脳し、洗脳されている。
  そして、スペイン文化ももたらされて、良かったのだ
 とあらゆる屁理屈で洗脳し、洗脳されている。
  卑劣なスペインである。
  懺悔(ざんげ)するどころか、反省するどころか、開
 き直っている。
  弱者の方々に対して、卑劣な極みの事をして、好き勝
 手をやって、命まで奪って、それで良かったという洗脳
 をしている。
  スペインに於いて、その様な事が起きた方が良いとい
 う論理なのか?
  自分に対して、その様なことが起きる事を是認すると
 いう事なのか?
  恥の上塗りの卑劣な事はするな!!
.
1517年、スペインのキリスト教宣教師が、黒人奴隷の所有
 の提案をした、影響力のある提案をした。
  スペインのキリスト教宣教師ラス・カサスは、黒人奴
 隷12人の所有を認める提案をした。
  これによって奴隷貿易が、活発となった。
.
1619年、アメリカの最初の奴隷
  奴隷の概念が、キリスト教の聖書に何回も何回も書か
 れているが・・、
  キリスト教の神が、「奴隷にせよ、奴隷にせよ」と叫
 ぶ卑劣さも書いてあるが・・、
  その卑劣な行為が、そのため。消えることなく、古代
 から人類の歴史と共にあったが・・悲しい事に・・、、
  古代から、キリスト教徒によって、アフリカのエチオ
 ピアの方々が奴隷にされて来た事例などなど・・、
  そして、アフリカの方々を、一番多く奴隷にした国・
 アメリカでは、1619年に、アフリカの方を、最初に奴隷
 にした記録がある。
  そして、この後、奴隷としてアメリカ大陸に連行され
 たアフリカ人は、黒人の方々独自の言語・宗教などを、
 いっさいを剥奪された・・卑劣な事である・・
  卑劣なアメリカは、卑劣な奴隷行為の他、言語や宗教
 をも剥奪するという、人権・人格をも剥奪するという卑
 劣の極みの行為をした。
  黒人の方々は、アフリカの地の宗教も、当然、持って
 いて、また、黒人の方々の独自の『黒人霊歌』も持って
 いて・・、
  この様な苦しい境遇・状況下で、ここからゴスペルは
 生まれて来た・・、
  この様に、黒人の方々の間から生まれたゴスペルが、
 今・現代では、白人のキリスト教会が利用し始めている。
  しかし・・直接的にこの様な状態になった訳ではなか
 った。
  この様に黒人の方々が関(かか)わったゴスペルの真
 の姿を伝えない解説が多い・・これも卑劣である・・す
 べてを隠すという状態で・・
  アメリカの白人支配層は、黒人の方々から宗教を剥奪
 (はくだつ)したが・・、
  黒人の方々も、奴隷解放の活動をして自由を獲得して
 来ると、キリスト教会へ、黒人の方々の来ることが拒否
 され、差別される状況の中に於いて(黒人の方々は、入
 れないレストラン、映画館、ホテルなどなどが、いっぱ
 いあるというアメリカに於いて、キリスト教会も黒人の
 方々が入れない状態だった)
  キリスト教聖職者も、その状態を打開する行動をせず、
 差別した。
  すべてが差別の状態にあるというアメリカの低劣な状
 態の社会だった。
  キリスト教の有色人種蔑視観もある状態で・・人種差
 別社会だった。
  黒人の方々が、やむなく作った黒人の方々のキリスト
 教会。
  その教会が、白人たちに襲われ、その教会に来ていた
 黒人の子供たちが殺されるという事件も起きたりする社
 会だった。
  (黒人の方々が、教会を作ることに反対だった)
  この様な宗教事情の中で、黒人の方々は、白人教会で
 歌われる賛美歌に抵抗感を持った。
  自分たちには黒人霊歌があった。
  そこで生まれたのが、教会で、黒人の方々の中にある
 黒人霊歌を謳う事だった。
  ここから、「黒人霊歌を起源に持つゴスペル」が生ま
 れた。
  今、ゴスベルの解説に、この様な真実が隠され、無反
 省の中に黒人の方々が関係する事が隠され、その様なゴ
 スベルの表面だけを美しく語る解説に満ちている。
  その1例が・・:「ゴスペルは、英語で福音の意味で、
 アメリカ南部の礼拝集会などで演奏され、発展した。
  今、癒しの音楽として受け入れられている」・・と。
  黒人の方々の苦しみや涙は、まったく説明されていな
 い。
  そして、強い白人キリスト教会は、美味(おい)しい
 所だけを取り去って、奪って行く。
  あたかも、インドで活躍したマザー・テレサ女史が、
 某マスコミに取り上げられるまで、見向きもしないで、
 また、手助けもしなかったキリスト教界が・・、
  マスコミに取り上げられると、手のひらを返して、マ
 ザー・テレサ女史を『広告塔にした』ごとくである。
  この様な真実が、最近は、特に、隠されている。
  また、マザー・テレサ女史は、「キリスト教の神は居
 ない」と言って亡くなられた。
  ・・が、しかし、この様な真実も隠されて来ている。
  インドのビンズー教の方々は、マザー・テレサ女史が
 来る前から、当初から、「インド人の死に臨む方々」に
 付き添うという活動をしていた。
  ・・その組織へ、マザー・テレサ女史が入って行った
 のだったのだが、この事実も完全に隠されている。
  ヒンズー教の寺で、マザー・テレサ女史が活動したこ
 とも隠されている。
  キリスト教は、マザー・テレサ女史を広告塔にして、
 「キリスト教の神の啓示を受けた」などなどのでっち上
 げの美化と共に、完全に勲章を我がものだけのものにし
 ている。
  このゴスペルも・・まったくこれと同じ・・、
  マザー・テレサ女史は、生涯、「キリスト教の神は居
 ない」という心の闇を持っていた・・
  神への渇望があるが、神は居ないと・・死ぬまでその
 思いを持っていた。
  それを、表わす手紙が下記・・、
  「私の魂の中には、あまりにも多くの矛盾があります。
  神への深い思慕の情・・神との触れ合いを渇望するそ
 の思いが、繰り返し私に苦しみを与えるのです。
  私は、神から求められてはいません。
  神から拒絶され、虚しく、信仰もなく、愛もなく、熱
 意もありません。
  私の魂には、何ひとつ魅力あるものがありません。
  天国は何の意味もありません。
  それは、私には空虚な場所のようにしか感じられませ
 ん」・・と・・、
  そして、「私は『神が居ない』という地獄の苦悩を少
 し理解しています」と・・、
  そして、年とともに「闇は大きくなるばかりです」と
 苦悩が広がることを告白する。
  「心には矛盾に満ちている」・・と。
  多分、自分だけに来る名声が広がるとともに、当初、
 共に働き、助けてくれた、そして、陰で支えてくれたヒ
 ンズー教の方々への思いが募ったのだろう。
  (日陰になって、何ら讃美されないヒンズー教の方々
 の一方の姿)。
  そして、年を経て・・
  「私には信仰がありません。
  言葉に出来ないほどの苦悩を、口にすることはできま
 せん。
  私は、それを打ち明けるのが怖いのです。
  それが、神を冒涜する事であると思うと・・。
  もし神が居られるのなら、どうか私を許してください」。
  不存在への確信に対して、許しを乞うている。
  キリスト教が真実を語り、ヒンズー教の方々も栄光の
 座に座ることが出来、世界の人々からこの陰になってし
 まった方々へ光が与えられたならば、マザー・テレサ女
 史の肩の荷も下り、
  共に栄光の中で過ごされたのだろうと言える。
  すべては、キリスト教の「自分一人だけの栄光」の独
 り占めの横暴が、マザー・テレサ女史の業績を喜んで受
 容できない苦悩の悩みの状態にした。
.
1829年、悲惨な、非人道的奴隷貿易の目撃談・・
  史上に、悪名高い「中間航路(ミドル・パッセージ)」、
  低い宗教性ゆえに行われた・・卑劣な行為・・、
  スペイン、ポルトガルの独占する奴隷貿易は、巨大な
 儲(もう)けを生んだ。
  これを、ただ、見ているだけで居られなくなった欲の
 皮の突っ張ったイギリス、オランダ、フランスが、真似
 をしはじめた。
  安いヨーロッパ製品をアフリカへ運び、アフリカの黒
 人の方々を奴隷としてこれと交換した。
  そして、卑劣にも奴隷を欲しがるアメリカへ、大西洋
 を越えて運んで行った。
  そして、また、アメリカの特産物や、その他の品々と
 交換し、ヨーロッパへ持って行って売った。
  ヨーロッパに、巨大な儲けが持ち帰えられた。
  イギリスは、ラム酒をアフリカへ持って行った。
  アフリカからアメリカへ渡る過程が地獄だった。
  キリスト教に洗脳された有色人種蔑視観から黒人の方々
 の人権など、まったく無視だった。
  1829年、R・ウォルシュ(イギリス)が見た光景は、
 「奴隷たちは、すべて甲板の下に鎖でつながれて詰め込
 まれて居た。
  その場所は非常に低いので、彼らはお互いの足の間に
 座わり、また、ぴっちり詰め込まれていたから、夜でも
 昼でも、横になることも、場所を変える事さえできなか
 った。
  彼らは、誰かに所有され、所有主とは別な人間によっ
 て輸送されて居たから、ひつじの様に、所有主の様々な
 形の『焼き印』を押されていた。
  胸の下、または、腕に焼き印を押され、そして、船員
 が、まったく冷然と教えてくれた所では、灼熱した鉄で
 焼かれたとの事であった・・・・」。
  この奴隷船には、男女合わせて505人の黒人奴隷が居て、
 17日間に55人が死んで、海中に棄てられたという。
  この三角貿易は、儲けの多い取引となっていた。
.
1955年、ローザ・“リー”・ルイーズ・マコーリー・パー
 クス女史(1913年2月4日~2005年10月24日)は、アメリ
 カ合衆国の公民権運動活動家で・・、
  1955年に、アラバマ州モンゴメリーで、公営バスの運
 転手の命令に背いて白人に席を譲るのを拒み、人種分離
 法違反の容疑で逮捕されて著名となった。
  (アメリカは、このバス運転手だけでなく、社会全体
 で、あちこちで、映画館で、レストランで、ホテルで、
 キリスト教会等々で、黒人の方々を差別していた。
  黒人用トイレとか、キリスト教会に来てはいけないと
 か・・とかとかと軽蔑すべき社会だった・・
  今・現在も続いている)。
  この女史の一件を契機に、モンゴメリー・バス・ボイ
 コット事件が勃発した。
  アフリカ系アメリカ人(黒人の方々)による公民権運
 動の導火線となった。
  このことで、ローザ女史は、アメリカ史における文化
 的象徴と見なされ、「公民権運動の母」と呼ばれている。
  最悪の事は、黒人の方々に、選挙権が与えられてない
 というアメリカ・・、
  「3割が白人で、7割が黒人だから」が、白人たちが言
 う「その理由」だという。
  ナッシュヴィルだけではない・・、
  町はずれにある「テント・シティー」は、選挙の時に、
 選挙人登録に行った黒人の方々が、町から追放され、差
 別されて作った。
  バスの座る場所も・・白人が前で、黒人は後ろ。
  日本人は、「名誉白人だと、馬鹿にされて言われた」。
  絶えず差別する白人によって、黒人の方々は、いや応
 なしに劣等感を植え付けられた・・
  このテント・シティーの事でも、白人のアメリカ人は、
 『あれは黒ん坊が勝手にやっている事だから、俺たちは
 知らんさ』・・と言い捨てた・・
  選挙権の事についても、「彼らに、それだけの能力が
 無いからさ」と・・切り捨てた・・
  白人アメリカ人に言わせれば、「黒人の『無知』を、
 俺たち白人が、必死に食い止めてやっているのだ」だっ
 た。
  我々の税金で作った黒人の工業学校で教育したって、
 皆(みな)、北部の資本家に吸い取られて行ってしまう
 (北部のために安価な労働力を、我々の税金で育成して
 いるようなものだ)
  キリスト教の聖書で、キリスト教の神が、「奴隷にせ
 よ、奴隷にせよ」と叫ぶが、
  人間を奴隷にしてはならず・・差別してはならず・・、
  また、奴隷と同様の地位に置いておくことが許されて
 いいはずはない。
.
1987年5月20日、キリスト教によって、有色人種に対して、
 差別観を植え付けられたアメリカは・・、
  可哀想な事に、黒人の方々が嘘の判決で、よく死刑に
 された。
  1987年5月20日、午前0時1分、アメリカのミシシッピー
 州サンフラワー郡パーチマンにある州立刑務所内のガス
 室で、チーク郡高等裁判所の判決により、26歳の一人の
 青年の死刑が執行された。
  刑の開始から5分後の0時6分、彼の心臓は、完全に停止
 した。
  処刑された若者の名は、エドワード・アール・ジョン
 ソンと言い・・、
  アメリカの人種差別と偏見の、特に強い地で成長した
 黒人の方だった。
  事件は、この8年前にさかのぼるが、白人女性が、何者
 かに襲われ、救助に駆け付けた白人警官が殺された。
  ジョンソンは、この犯人とされた。
  唯一のその理由が、現場から走り去った車と同じ型の
 車を、ジョンソンが持っていたという事だった。
  面通しも行われた。
  面通しした女性は、ジョンソンを知っていて、顔見知
 りだったので、すぐに、ジョンソンではないと分かった。
  そして、「ジョンソンではない」と、はっきり証言し
 た。
  ジョンソンは、当然の釈放となった。
  しかし、ジョンソンは、その後に、何の新たな証拠も
 示されない状態で、再逮捕された。
  そして、ジョンソンは、連行され、あらかじめ用意が
 なされていた嘘の自白調書に、無理やり署名をさせられ
 た。
  ジョンソンは、逮捕される前にも、捜査官と警察官の
 二人から、人気のない所で、「言う通りに答えろ、そう
 しなければ殺す」と脅されていた。
  言う通りしなければ、間違いなく殺されるという状況
 の、「程度の低いアメリカ」だった。
  警官に連れて来られて、署名を無理やりさせられた時
 も、「内容は気にするな。とにかく署名しろ」と脅され
 た。
  服役中も、看守も、そして皆も、誰もが、その様に犯
 人に仕立てられる黒人の方々が多いアメリカで、このジ
 ョンソンの場合も、仕立てられたと、ジョンソンは真犯
 人ではないと・・思っていた。
  再審や、刑の執行停止の申請も却下された。
  恩赦の申請も功を奏さなかった。
  刑の執行は予定通りだった。
  ジョンソンの最後の言葉は、「私は無実だ。誰も恨ま
 ない。今まで力になって戴いた方々に感謝します」だっ
 た。
  そして、もう一度、「私は、無実です」と、静かに、
 はっきりと、付け加えて言った。
  ジョンソンは、無実で処刑されたが、アメリカという
 国は、黒人の方が、白人に殺されるとき、その殺人犯の
 白人が、死刑にされる割合が極端に少ない。
  しかし、この逆は、卑劣にも、極端に多い。
  400パーセント以上の差がある。
  黒人の方々が、死刑にされる割合が多い。
  有色人種蔑視のキリスト教による偏見がある。
  これは、日本人とて同じ、ハロウィンで仮想した日本
 人青年が殺された場合もそうだった・・等々の事例があ
 る。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)536E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年4月~1891年5月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)536E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年4月~1891年5月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年4月、内閣会議に速記者。
  国会の速記は、1890年11月29日の帝国議会開設(第1回
 議会)と同時に貴衆両院で採用された。
  このため、日本は、この第1回の国会より完全な会議
 録が残っている。
  この様な先進国はない、
  先進国の中では・・日本だけだという・・
  そして、この年に、田鎖綱紀(たくさりこうき)が、
 速記文字を創案し、習う者多し・・という状況になった。
  これに関係する話:1899年、東京~大阪間に長距離電
 話が開通するやいなや、「東京時事新報」は、いち早く
 電話速記を採用した。
  これは、長文の電報で記事を送るより、電話口で速記
 者が、直接、受けるほうがずっと速くて正確で、かつ、
 安上がりだった。
  間もなく、地方紙、通信社などでも、こぞって破格の
 待遇で速記者を雇用するようになった。
1891年4月、関西鉄道の全客車に、真空制動器を装置をとり
 付けた。
1891年4月、宇野三千三が、沼津駅などで、弁当類の販売を
 開始した。
  沼津駅、三島駅、及び、御殿場駅に於いて、駅弁販売
 を展開する桃中軒(とうちゅうけん)は、
  明治維新の際に、静岡藩に移住させられた旧徳川家の
 幕臣の宇野三千三が、鉄道開業2年後の1891年に、沼津停
 車場構内に於ける弁当販売を行いたいと、鐵道作業局に
 販売許可を求めた。
  そして、同年・1891年4月9日に許可された。
  販売当時は、幕の内弁当13銭、ひとよ寿司8銭、まんじ
 ゅう5銭で販売した。
  戦前の東海道本線利用者は、沼津駅の駅弁が美味い事
 を熟知していて、「東海道に乗ったら飲まず食わずで沼
 津で飯食おう」という言葉があるほどだった。
  戦前は、幕の内弁当以外に、素焼きの丼に入った鰻丼、
  戦後は、鯖の押寿司が評判だった。
  しかし、駿河湾に於ける良質な鯖が不漁で、この入手
 困難から鯖寿司は販売中止となった。
  沼津は、1913年3月3日と、1926年12月10日に、2度の大
 火に見舞われ・・また、1945年7月16には、沼津大空襲で
 大破壊を受けている。
1891年5月1日、日本赤十字社病院が、飯田町より麻布に移
 転し、開院した(毎年5月1日を創立記念日とする)
  1886年11月、博愛社病院が開設された(麹町区飯田町)
  1887年5月、博愛社から日本赤十字社に社名変更し、
   この時、日本赤十字社病院と改称した。
  1891年5月、飯田町4丁目から渋谷区広尾に移転。
  1941年1月、日本赤十字社中央病院と改称
  1972年11月、日本赤十字社産院と統合して、日本赤十
   字社医療センターと改称し、現在に至っている。
1891年5月5日、カーネギー・ホールで開場演奏会。
  アメリカのニューヨーク市マンハッタン区ミッドタウ
 ンにあるコンサートホールで(メイン・ホール:2804席)
  クラシック音楽、ポピュラー音楽などのコンサート
 頻繁に開催される音楽の殿堂。
  1891年5月5日、指揮者のウォルター・ダムロッシュと
 作曲家のチャイコフスキーのコンサートにより、こけら
 おとしがなされた。
  鉄鋼王のアメリカの実業家・慈善家アンドリュー・カ
 ーネギーにより建てられたが・・、
  1925年に、アンドリュー・カーネギーの未亡人により、
 不動産開発業者に売却され、一時、存続も危ぶまれた。
  ・・が、アイザック・スターン等の運動により、ニュ
 ーヨーク市が買い取り、
  現在は、非営利のカーネギー・ホール・コーポレーシ
 ョンにより運営されている。
1891年5月6日、三国同盟が更新された。
  1882年に、ドイツ・オーストリア・イタリアの3国で
 軍事同盟が結ばれ、以後、4度更新された。
  しかし、この年・1891年8月27日に、露仏同盟が調印
 された・・、
  これは、ドイツ、オーストリア、イタリア3国の攻撃に
 対し、ロシアとフランスが協力して戦うことを目的とし
 ていた。
  この後にはイギリス、フランス、ロシアの「三国協商」
 へと発展して行った・・
  (三国同盟と三国協商の対立の構図)
  これまで、ロシアには、イギリスが、三国同盟に参加
 しようとしているのではないかという、懸念があった。
  1890年初頭には、イギリスとドイツは、諸々のアフリ
 カ領土を交換したりしていた。
  この1891年の三国同盟の更新と、ドイツ皇帝のロンド
 ン訪問がイギリスの新聞の親独感情を促進すると、ロシ
 アの憂慮は高まった。
  極東と中央アジアで対立するイギリスが、今まさに西
 の強力な隣国・ドイツと、
  そしてまた、さらに、バルカン半島でライバルである
 オーストリアと勢力を結集しようとしているかのように、
 ロシアには思われた。
  身に迫るこの脅威に抗(あらが)って、釣り合いを保
 つために、ロシアは、胸中のためらいを脇に追いやって、
 フランスとの合意を公然と追求した。
  ドイツを牽制するのがパリにとっての重要な案件であ
 ったのに対して、ロシアはバルカンにおいてオーストリ
 ア=ハンガリーを封じ込めることの方に関心を抱いてい
 た。
1891年5月6日、第一次松方正義内閣成立(第一次山県内閣
 総辞職)
  松方正義蔵相が首相に就任。
  蔵相は引き続き兼任し、第一次松方内閣が発足した。
1891年5月11日、大津事件
  滋賀県大津において巡査・津田三蔵が、来日中のロシ
 ア皇太子ニコライ親王を斬りつけ負傷させた。
  5月16日、上京を中止して帰国を決定した。
  ニコライは、この時のことを次のように日記に書いて
 いる・・、
  「人力車が、人々が沿道にあふれている通りへ曲がっ
 た時、私は、右耳の上に強い衝撃を感じた。
  振り返ると、胸が悪くなるほど醜い顔をした巡査が、
 両手でサーベルを持って私を斬りつけようとしていた。
  とっさに、私は『何をする』と叫んで、道路に飛び降
 りた。
  醜い顔は、私を追いかけてきたが、誰も止めようとし
 ないので、私は、やむなくその場から逃げた。
  群衆の中に紛れこもうと思ったが、日本人たちは、混
 乱して四散してしまったので、それも不可能だった。
  走りながら振り返ると、私を追ってくる巡査の後ろか
 らゲオルギオスが追跡しているのが確認できた。
  更に、60歩走って、もう一度振り返ると、ありがたい
 ことに全て終わっていた。
  ゲオルギオスが、竹の杖の一撃で狂人を倒していたの
 である。
  私がそこへ戻ると、人力車の車夫と警官たちが、狂人
 を取り押さえていた。
  一人が、狂人の胸ぐらを掴んで、奪ったサーベルを喉
 につきつけていた。
  群衆は、誰一人として私を助けようとしなかった。
  なぜ、通りの真ん中に、私とゲオルギオスとあの狂人
 だけが取り残されたのか、私は怪訝に思う」。
  しかし、津田の裁判の際の目撃者たちの証言によると、
 津田を取り押さえた一番の功労者は、ゲオルギオス王子
 ではなく、人力車の車夫だった。
  確かに、最初に、津田に立ち向かったのはゲオルギオ
 ス王子であり、彼は、その日、お土産に買った竹の杖を
 武器にしていた。
  だが、ゲオルギオスの竹の杖は、津田をひるませただ
 けであり、ひるんだところを、人力車の車夫たちが、津
 田に飛びかかり、この時、津田がサーベルを落とし、そ
 れを拾った車夫が、津田の首筋と背中を斬りつけたのだ
 という。
  ニコライも、後に、一応これを認めていたらしく、彼
 を助けた車夫の二人に勲章を送っている。
  大津事件の際に、津田三蔵を取り押さえ、ロシア政府
 から勲章を送られた日本人車夫二人の写真がある。
1891年5月12日、明治天皇陛下が、京都へ御出発された。
  そして、翌日の1891年5月13日、明治天皇陛下は、ロシ
 ア皇太子を京都に見舞った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカのミサイル防衛網を無力化する切り札「WU‐14(DF‐ZF)」
.
1271年、元(げん)王朝が、中国を滅ぼして、成立した。
  北方の荒っぽい民族の蒙古人が、中国(民族)を亡(
 ほろ)ぼして、これを支配した。
  この王朝 は、この1271年~1368年まで続いた。
  この蒙古民族の王朝・元は・・、
  1260年、第4代皇帝モンケ (憲宗) の死後、帝位継承争
 いのなかから、チンギス・カンの孫で、モンゴル帝国の
 第5代皇帝にクビライ(フビライ)が即位した。
  そして、このクビライは・・、
  1271年に、モンゴル帝国の国号を大元と改め、成立し
 た。
  そして、この年・1271年、中国の南宋を征服した。
  (参考)元は、政治制度や政治運営の特徴においては
 モンゴル帝国に受け継がれた遊牧国家としてあった。
  行政制度や経済運営だけは、南宋の仕組みをほぼ継承
 した。
  この頃、日本に来た中国のお坊さんは、本国の中国で、
 蒙古の為にひどい目に会っていて、その様なことから、
 逆に、精神的にくじけない、しっかりした強い性格が鍛
 錬されていた方々だった。
  一例として、鎌倉の円覚寺を開いた無学祖元(むがく
 そげん、来日時は鎌倉・建長寺に入った)は、
  日本に来る前には、中国の温州(うんしゅう)の能仁
 寺に居て、元の兵隊がその寺に攻め込んで来た時、ちょ
 うど座禅をしていた。
  そこへ、元の兵隊が刀をもってやって来て、彼を殺そ
 うとした。
  その時、祖元は、平然として、これに一喝を与えた。
  それを聞いて元の兵隊は感悔し、礼を尽くして退いた
 のだった。
  この祖元は、後に(1279年)、日本に乞われ(執権・
 北条時宗に乞われ)、日本に来た。
  この時、日本は、蒙古来襲で国家防衛に励んでいた時
 だった。
  (参考)1275年、元(蒙古)軍が南宋に侵入したとき、
 温州の能仁寺にいた無学祖元は、元軍に殺害されそうに
 なったが・・、
  この時、「臨刃偈」(りんじんげ。「臨剣の頌」とも)
 を詠み、元軍も去ったが・・その臨刃偈は・・、
  乾坤(けんこん)孤筇(こきょう)を卓(た)つるも
 地なし 喜び得たり、人空(ひとくう)にして、法もま
 た空なることを 珍重す、大元三尺の剣 電光、影裏に
 春風を斬らん。
.
2016年10月19日、中国が、宇宙船のドッキングに成功した。
  10月19日未明、上空393キロの軌道上で、10月17日に
 打ち上げた2人乗り宇宙船「神舟11号」と、
  9月に打ち上げた宇宙実験室「天宮2号」を、自動操縦
 でドッキングさせることに成功した。
  景海鵬、陳冬の両飛行士が、神舟11号から天宮2号に乗
 り込む様子が、中国中央テレビで生中継された(以上、
 毎日新聞を参考にした)
  「アメリカが恐れる中共の極超音速滑空体」
http://hiroaki1959.at.webry.info/201610/article_24.html
  「宇宙強国」を目指す中共は、天宮2号で、宇宙ステ
 ーション運営に向けた様々な実験を行い、2022年頃の完
 成を目指す本格的な宇宙ステーションに繋げる計画。
  産経新聞が「宇宙強国 中国の野望」(上・21日付、
 下・22日付)と題した特集記事で伝えた。
  この記事で注目されたのが、中共が、開発中の「極超
 音速滑空体」で・・、
 「2014年1月、中国上空を、最高でマッハ10に達する高
 速で飛行する物体が、アメリカ軍に探知された。
  アメリカのほぼ全土を、射程に入れる大陸間弾道ミサ
 イル(ICBM)の技術を手にした中国が、次世代の戦
 略兵器として開発を進める「極超音速滑空飛翔体」
  完成すれば、国際社会の戦略バランスを大きく変える
 可能性が指摘された。
  極超音速滑空飛翔体は、放物線を描いて落下するので
 はなく、超音速で自由に運動しながら滑空し、高い命中
 精度を有する。
  アメリカの現在のミサイル防衛(MD)では、撃墜が
 不可能とされる。
  中国による2014年1月の実験成功後、アメリカ議会の諮
 問機関である「米中経済安全保障調査委員会」は、中国
 が、2020年までの開発を目指していると警告した」(23
 日付)
  この極超音速滑空飛翔体について、「軍事研究」11月
 号の田中三郎氏の記事「日米ミサイル防衛網を無力化!」
 で以下の通り解説されている。
  ▽中国の新型極超音速滑空体
 「人民日報網」は、中国の新型の極超音速滑空体
 (hypersonic glide vehicle)の7回目の飛行試験が、
 先週(2016年4月17日~23日と推定)、山西省北西部で
 実施され、成功裏に終了したと報じた。
  東風‐ZF(DF‐ZF)滑空体は、マッハ5~10の間
 で飛行できる。
  中国のニュースサイトは、アメリカの情報機関は、北
 京がミサイル防衛網ですら突破可能な核兵器運搬手段と
 してDF‐ZFを使用することを恐れているとの「ワシ
 ントン・フリービーコン」の記事を転電する形で伝えた。
  アメリカ軍は、かつて、同ミサイル(弾頭)を「WU
 ‐14」のコードネームで呼んでいたが、現在はDF‐
 ZFの呼称を用いている。
  「人民日報網」が報じたところでは、中国国防部は、
 2015年3月の自国の極超音速滑空体のミサイル試験を初め
 て認め、この実験は、科学的探究のために進めているも
 ので、第三国を対象としたものでないことを強調した。
  (日本も、科学的探究のため、核抑止の実験を含めた
 研究を進めるべきだ)
  2015年6月7日、中国が、極超音速滑空ミサイルWU‐
 14の4度目の実験を行った模様。
  中国は、2014年1月9日、初めての極超音速滑空実験体
 WU‐14の飛行実験を行っている。
  この時には、WU‐14は、大陸間弾道ミサイルの弾頭
 に搭載して発射され、その後、滑空してニア・スペース
 (準宇宙)をマッハ10で機動したと報じられた。
  2度目の飛行実験は、同年・2014年8月7日に実施してい
 るが、これは失敗に終わっている。
  そして、同年・2014年12月2日に、3度目の実験を行い、
 成功を収めた。
  過去の実験とは異なり、4度目となる今回の実験では
 「極端な機動(extreme maneuvers)」を示して見せたと
 いわれている。
  日米のミサイル防衛網を無力化することを目指してい
 るとされる。
  WU‐14の初期型は、準中距離弾道ミサイルDF‐21
 の弾頭に搭載して発射されたようだが、将来的には射程
 4000kmの中距離弾道ミサイルDF‐26を発射プラットフ
 ォームにする計画があるようだ。
  ▽アメリカが恐れる中国によるWU‐14の開発
  2014年に発表された米中経済安全保障調査委員会の年
 次議会報告書は、中国は、WU‐14を「次世代の精密攻
 撃能力のコア・コンポーネント」と位置づけており、
  2020年までに、高速滑空機を、
  そして、2025年までには、スクラムジェット推進極超
 音速機を配備する計画を持っているとしている。
  また、カーネギー財団のローラ・サールマン氏は、「
 中国の極超音速機の研究計画は、戦略核兵器にも適用さ
 れる技術ではあるが、
  むしろ、より限定された範囲の通常兵器の技術として
 研究されている」と指摘している。
  一方、国家航空宇宙情報センター(NASIC)のリ
 ー・フェーエル氏は、「中国の極超音速滑空兵器は、核
 抑止戦力と関連付けられている」と指摘している。
  そうであれば、中国は、アメリカの通常兵器型即時全
 地球攻撃(CPGS)構想とは別の道を歩んでいるのか
 もしれない。
  今回の試験が、山西省五寨から発射されたと報じられ
 たことを考慮すると、「WU」は、五寨の略である可能
 性が高く、「14」は、五寨で確認された14種目のミサイ
 ルであることを示すのかもしれない。
  外国メディアの報道に対し、中国国防部ニュース事務
 局は、中国が、国境内で計画通りに行なう科研試験は正
 常であり、いかなる国や特定の目標にも照準を合わせた
 ものでもない、と回答している。
  しかし、この件は、アメリカ議会に大きな波紋を引き
 起こした。
  アメリカ上院軍事委員会主席ハワード・マケイン氏は、
 「今回、中国は、我々を追い越したようだ」と語ってい
 る。
  アメリカの専門家の説明によれば、WU‐14は、大陸
 間弾道ミサイルの運搬ロケット内に装備され、地上から
 発射された後、ブースターが弾頭を何十kmかの高空まで
 の推進をアシストした後で、機関を停止、ブースターを
 分離し、
  その後、大気圏に再突入し、無動力高速飛行を行なう。
  その速度は、マッハ10にも達し、弾頭は大気圏外では
 慣性によって飛行し、大気圏内では空力的揚力に頼って
 遠距離跳躍滑空機動飛行を行なう。
  目標上空30km前後に到達した時、誘導弾頭がONにな
 って末端制御誘導を行い、目標まで急降下して攻撃を完
 成させる。
  ある国内の分析者は、アメリカのメディアが作画した
 状況から見て、中国が試験を行った極超音速飛行体は、
 ブースト・滑空式ミサイルに属し、宇宙に近い空間の飛
 行体の一種であるという。
  いわゆる「宇宙に近い空間」が通常指すのは20㎞~100
 kmの高度の空域で、制宇宙、制空、制海、制地の他の新
 たな作戦領域になり得る。
  極超音速武器は、宇宙に近い空間の武器の重要な組成
 部分である。
  それは、弾道ミサイルの発射時の速度の優勢を結合し
 ているし、また、巡航ミサイルの末端制御誘導の優勢を
 も結合している」。
  中共が、アメリカのMDを無力化する切り札として「
 WU‐14(DF‐ZF)」を開発しているのは間違いな
 いだろうが、「中国は、我々を追い越した」との、マケ
 イン上院議員の懸念が正しいか否かは分からない。
  実際には、存在しなかった米ソの「ミサイルギャップ」
 と同様、敵の脅威を実際以上に強調して、予算を獲得す
 る目的で発言している疑いも考えられる。
  因みに、アメリカが、開発中の極超音速滑空機につい
 て、田中氏は次のように書く。
  ▽アメリカの極超音速滑空機の開発
  アメリカ空軍は、実験的スクラムジェット計画の成功
 に基づいて、自国の極超音速滑空機の開発に前進が認め
 られたことを明らかにした。
  2013年、アメリカは、X‐51ウェーブライダーと呼ば
 れる極超音速滑空機の4度目の飛行試験を行った。
  B‐52爆撃機の翼から分離された後、ロケットブース
 ターで加速された極超音速滑空機は、高度6万フィートま
 で上昇、マッハ5.1まで加速、3分半飛行後、燃料切れに
 なる前に太平洋上に突入した。
  時速3400マイル相当のスピードで、ワシントンからア
 トランタまでわずか数分で到着できる。
  アメリカ空軍筋によれば、X‐51計画は、軍が加速可
 能なスクラムジェットを建造し、炭化水素燃料を取り入
 れ、飛行時における冷却を達成することであった。
  在来型エンジンとは異なり、スクラムジェットないし
 は超音速燃焼ラムジェットは、極めて少ない部品と音速
 以上に早く飛行する空気推進システムを必要とするもの
 だった」。
.
2016年、中国の粗鋼生産量が世界一で、8億840万トン、世
 界の生産量の49.6%を占めている。
  日本の新日本製鉄は、明治期を支え、日本を発展させ
 た八幡製鉄が起源の会社で・・日本の伝統の基幹の重要
 な大切な企業である。
  豊かな日本を地道に作り上げて来た。
  しかし、その地道に蓄積してきた日本の製鉄技術は、
 中国へ技術供与された。
  その後は、新幹線の技術が盗まれた時と同じ経緯を持
 っている。
  この新幹線技術の時も、インドネシアの仕事が受注す
 る直前も直前に・・急に・・目の前まで日本が受注する
 ものだったものが・・急に、中国に奪われた。
  日本は、この事態の急変に、大変な驚きとなった。
  ・・が、しかし、後の祭りだった。
  この鉄鋼技術でも・・この新幹線と同じ様な社会現象
 が起きた。
  日本の優秀な技術陣が・・知恵を絞って、苦しんで、
 生みの苦しみをして・・
  そして、やっと生み出した最新技術を・・、
  簡単に・・いとも簡単に・・中国へ流出する・・
  この様な事を繰り返している・・愚かな事である。
  我慢が出来ないのである・・そして、自分の首を絞め
 ている・・、
  この製鉄の最新技術を得た中国は、オーストラリアの
 鉄鉱石を買い漁(あさ)った。
  今までにないボリュームであった。
  一企業が、今まではやって来たが、中国は国として、
 一国として、規模の違う買い漁りをした。
  その鉄鉱石を、中国へ運ぶための海運業界は、にぎわ
 った。
  海運業界は、好景気に沸き返った。
  数年間が、この状態が続くという異常状態だった。
  その後、日本の最先端の技術を持った中国の製鉄所は、
 びっくりするほどの大増産をし続けた。
  そして、やはり来るべきものが来た。
  大量の鉄鋼の過剰生産品が・・中国に滞留した。
  世界もあり余る鉄鋼を、消費しきれなかった。
  中国は、世界の49.6%(2016年)の粗鋼生産量と、飛
 び抜けた第1位の生産国となった。
  第2位が日本の1億400万トン、6.4%(中国の8分の1)
  技術を供与した日本が、お株を奪われた・・、
  しかし、中国は、まだ増産を続けている。
  この大量輸出で、値崩れも激しく起きている。
  新日本製鉄(今は新日鉄住金株式会社、2012年に成立)
 の業績はどうなっているのか?
  「原料炭高騰で利幅一段と悪化」とある。
  そして、「在庫評価改善でも利益続落」とある。
  鉄鋼業界の秩序は、中国に破られ、その状態の嵐が吹
 き荒れて・・続いている。
  新日本製鉄は、当時、中国鉄鋼大手の馬鞍山鋼鉄(ま
 あんさんこうてつ、安徽省・あんきしょう)に、二酸化
 炭素(CO2)の排出量削減につながるという美しい名目
 で、2009年、先進技術を供与した。
  ひどく遅れた中国の製鉄が、その遅れで炭酸ガスがい
 っぱい出て困るからという、そんな製鉄技術しかない国
 に、最先端の技術を与えてしまった結果の「今がある」。
  日本は、「10年位は平気だ」と甘く考えていた。
  甘く見ていた北朝鮮のミサイル技術が、目を見張る進
 歩に、今、戸惑っている日本とアメリカという感じと同
 じ。
  そして、中国へ技術供与したのは、日本に中国のミサ
 イルが飛んでくるのが怖かったからだという説もある。
  日本の国防の不十分さは、こんなところにも現れてい
 る・・、
  加計学園でどうのこうの・・なんて、やっている時間
 なんかない・・今・・なのだ。
.
2017年、今、中国は、徹底した報道統制をして、
  また、インターネット規制をして、
  多くの国民に、「自国の正当性」を刷り込む事に躍起
 (やっき、あせってむきになること)になっている。
  そして、それが、成功しているという。
  そして、中国政府は、「対立は、常に、敵対国の挑発
 から生じる」と論じ、
  敵対国のなすことすべてに「反対する行動」をとって
 いる。
  中国は、自国ばかりではなく、多くの金と人を使って、
 世界の情報機関を繰ろうとしている。
  そして、その操作をしている。
  その意味でも、日本の公共放送・NHKは、中国との
 関係が深すぎる。
  NHKは、1室を中国に与え、使わせている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)535E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年4月~1891年4月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)535E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年4月~1891年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年4月11日、九州鉄道会社が、小倉に工場を開設した。
  九州鉄道社(仮本社は博多)が設立された後・・、
  1891年4月に、門司へ、本社家屋が完成したのを機会に
 移転した。
  そして、九州鉄道株式会社・小倉工場(現:九州旅客
 鉄道株式会社小倉工場)も・・この時・・
  1891年4月、鉄道の急速な発展に対応するため、九州鉄
 道株式会社の車両工場として、ドイツ人技師長ヘルマン・
 ルムシュッテルの指導のもと、小倉工場が開設された。
  設立当時の従業員は63名、
  当時の車両は、輸入品したもので、箱詰めされて来た
 ものを工場で組み立てた。
1891年4月15日、鉄道財産調査規程を制定した。
1891年4月22日、大槻文彦著の国語辞典『言海』全4巻が完
 結した。
  言海は、国語学者の大槻文彦が編纂した国語辞典で、
  1882年(明治15年)に、初稿を成立させたが、校閲に
 4年をかけ、完成したのが1886年(明治19年)だった。
  元々は、文部省自体から刊行される予定であったが、
 予算が無いため、出版が立ち消えそうになり、結局、
 1891年に、自費出版することになった。
1891年4月23日、ユダヤ人のモスクワ追放。
  ユダヤ人が、モスクワとペテルスブルグから追放され
 た。
  この時、モスクワから、1万人以上のユダヤ人の方々が
 追放されている。
  また、この年、ユダヤ人モレヒバが、「シオンを愛す
 る人々」を創立した。
  そして、翌年・1892年、「シオンを愛する人々」の理
 論的指導者ピンスケルが、「自力解放」に共鳴して、パ
 レスチナに、最初のユダヤ人コロニーを成立させた。
  この間において、ロシアでは、1893年からの3年間に、
 非居住境界地域からの大量追放がなされた。
  さかのぼること、1881年には、ロシアで、「ポグロム
 (集団的迫害行為)」と呼ばれるユダヤ人大虐殺事件が
 波状的に発生していて、ユダヤ人の方々の十数万人が犠
 牲となっている。
  そして、この頃、ロシアのポグロムは沸点に達してい
 て、1882年には、人種差別法「五月法」が制定された。
  ユダヤ人の方々は、「キリスト教を信じないユダヤ人
 は、豚に等しい」という迷信で差別されていた。
  また、キリスト教は、ユダヤ人の方々を、「主(イエ
 ス)殺し」と蔑(さげす)み、差別した。
  因みに、ローマ法王(教皇)も、教皇領からユダヤ人
 の方々を追放した。
  ロシア系アシュケナージ(虐待のため、キリスト教に
 改宗したユダヤ人の方々)は・・、
  ポグロムの魔の手から逃(のが)れる為に、20万人以
 上が大量に亡命した。
  (参考)ポグロムは、「破滅・破壊」を意味する言葉
     で、加害者の如何を問わず、ユダヤ人の方々に
     対し行なわれる集団的迫害行為(殺戮・略奪・
     破壊・差別)をいう。
  また、オーストリアでは、ポグロム当初の1881年~
 1914年までに、35万人以上のユダヤ人が亡命している。
  この様にして、欧州各地で迫害、追放を受けた大量の
 ユダヤ人の方々は、再度、ディアスポラして行く。
  (参考)ディアスポラは、「撒き散らされたもの」と
     いう意味で、元の国家や民族の居住地を離れて
     暮らす国民や民族の集団ないしコミュニティ、
     または、その様に離散することを指す。
  離散した先に土着した人々は、ロシアや東欧にも残っ
 た。
  そして、アメリカへも200万人以上のユダヤ人の方々が
 流入した。
  ニューヨーク州のオールバニー市、シラキュース市、
 バッファロー市、ロチェスター市、
  そして、シカゴ(イリノイ州)、デトロイト(ミシガ
 ン州)、クリーヴランド(オハイオ州)、ミルウォーキ
 ー(ウィスコンシン州)に多く定着した。
  ニューヨークに一番大きなユダヤ人共同体が生まれた。
  これに先立って・・先行してディアスポラしていたユ
 ダヤ人の方々の共同体は、新参者のディアスポラの無謀
 な人数を危惧する様になった。
  それは、貧困層が多かったためだった。
  ここに、「新たな反ユダヤ運動」が芽を出した。
  南北戦争終戦後には、すでに、アメリカでは、アンチ・
 セミティズムの兆候が現れ始めている。
  アメリカでは、1876年、ニュージャージーにあるホテ
 ルが「ユダヤ人お断り」の広告を新聞で流したりした。
  (参考)アンチ・セミティズム:字義は反セム人主義
     で、一般には、反ユダヤ主義の意味で用いる。
      特に、19世紀末以降、ドイツ、フランスなど
     の諸国に起こった。
      中世以来の伝統的なユダヤ教徒差別とは性格
     を異にする近代反ユダヤ主義。
1891年4月25日、山陽鉄道会社線の岡山~倉敷間(16km)が開
 業した。
1891年4月27日、ロシア皇太子のニコライ2世が来日。
  ニコライ2世は、シベリア鉄道建設委員長としてウラ
 ジオストクでの起工式に赴く途中のこの日、来日した。
  来日してのニコライは、お忍びで、長崎の町を探索し
 た。
  ニコライは、長崎の印象について、日記の中で・・、
  「長崎の家屋と街路は素晴らしく気持ちのいい印象を
 与えてくれる。
  掃除が行き届いており、小ざっぱりとしていて彼らの
 家の中に入るのは楽しい。
  日本人は、男も女も親切で愛想がよく、中国人とは正
 反対だ」・・という、感想を書いている。
  ニコライは、この長崎滞在中に、右腕に竜の入れ墨を
 入れた。
  ロシアのアレクサンドル3世の長子ニコライ2世は、
 軍艦で、東方諸国旅行の最終訪問地として来日・・、
  ニコラス2世の甥・ギリシャのジョージ親王とともに、
 長崎に到着した。
  そして、午前9時頃、ロシア軍艦アゾーワ号が、ナヒモ
 フとモノマフ両艦を従えて、伊王島沖合まで出迎えた日本
 の軍艦・高尾の先導で入港した。
  そして、長崎港内に停泊中の八重山、武蔵の2艦が、
 歓迎の礼砲を撃った。
  そして、ロシアの3艦が、答礼の砲門を撃った。
  皇太子の公式上陸は5月3日・・、
  それまでは、一切がおしのびだった。
  稲佐のお栄が、県当局の依頼で皇太子をもてなした。
  4月28日と4月29日に、ジョージ親王を誘った軽装の皇
 太子は、侍従1人をつれ人力車にゆられた。
  4月28日には、大浦8番館、今魚町の江崎べっ甲店、麹
 屋町の池島骨董店、出島町の香蘭社支店、本籠町の白山
 写真店、大波止や東浜町の勧工場に立ち寄り買い物をし
 た。
  東浜町では、居合わせた12才の少女にカンザシを買い、
 プレゼントした。
  そして、そののち、本籠町の本田漆器店、新大工町の
 上野彦馬写真屋にも寄る。
  買い物は、女性的な嗜好で、愛する妻へのプレゼント?
  4月30日、稲佐悟真寺内のロシア人墓地を訪れた。
  墓地では、迎える人もなく、入口は鍵がかかっていた
 が、垣根をとび越えた。
  丸山芸者と遊び、両腕に龍の刺青を刻印させた。
  5月3日、公式上陸となった。
  大波止から知事官邸までの沿道には、官公庁の代表や
 一般市民、学校生徒が整列した。
  知事官邸で昼食会、交親館で長崎の美術工芸品を観賞
 した。
  その足で、長崎公園丸馬場での市民歓迎会に出席した。
  5月3日の夜は、ロシア士官が部屋借りをする稲佐の福
 田米造家で酒宴を開き、大歓迎された。
  ジョージ親王や士官8人と丸山の芸妓5人を呼んだ。
  おまつとともに、稲佐のお栄は、ロシア語で挨拶をし、
 ジョージ親王とダンスを踊った。
  そして、おまつの店で飲み明かして、帰艦したのは5月
 4日午前4時だった。
  5月5日、長崎を出港した。
  のちに、鹿児島、神戸に入港し、列車で京都へ行く。
  5月11日、琵琶湖見物を終えて、京都の宿舎に帰る途中、
 滋賀県の大津で、警備の巡査・津田三蔵に切りつけられ
 負傷するという大津事件が起きた。
  5月11日の夜、知事あてに政府電報が届いた。
  「国家のため慨嘆に耐えず、朝野とも痛心す、ついて
 は貴地各新聞発行人を呼出し、この電報を示し、
  本件は、実に驚惨の所為なるむねを記載、深く慨嘆の
 意を表すようご注意ありたし」
  5月13日、ロシアの報復をおそれた日本は、明治天皇陛
 下が、御自ら見舞い、ロシア艦内にもおもむいた。
  後に、松方正義首相は、司法部に極刑を申し入れた。
  外相の青木周蔵は、駐日ロシア当局に死刑にすること
 を明言した。
  しかし、大審院長の児島惟謙は、刑法では、謀殺未遂
 罪に死刑の適用はできないとして、被告に無期懲役を宣
 告した。
  児島惟謙は、毅然と政府の干渉を排除し、法規に従い
 司法権の独立を守った。
  海外にも大きく報じられ、国際的に日本の司法権に対
 する信頼を高めた。
1891年4月29日、日本で、初めて飛行機が飛んだ。
  アメリカのライト兄弟が初フライトしたのが、1903年
 12月17日だったので、そのライト兄弟の初飛行より何と
 12年7か月以上も早く、日本人によって飛行機が空を飛ん
 だ(固定翼による飛行原理の発見)
  二宮忠八・初飛行に成功
  ライト兄弟より早く、日本人が空を制したのだった。
  丸亀歩兵第12連隊に所属していた二宮忠八は、この陸
 軍従軍中の1889年に、「飛行器」を考案した。
  そして、この翌年・1890年には、ゴム動力による「模
 型飛行器」を製作した。
  軍用として「飛行器」の実用化へ繋げる申請を軍へ二
 度行なうも理解されなかった。
  以後、独自に人間が乗れる実機の開発を目指した。
  しかし、完成には至らなかった。
  そして、推進力は「ゴムひも」とし(陸軍病院勤務で
 あった忠八は聴診器のゴム管を流用した)、それで駆動
 される推進式の四枚羽プロペラ機を作った。
  1891年4月29日、3mの自力滑走の後、離陸して10mを飛
 行させた。
  日本初のプロペラ飛行実験を成功させた(世界初の動
 力飛行実験の成功と言える)
  翌日の4月30日には、手投げ発進の後、約36mを飛行さ
 せた。
  「飛行器」は、忠八本人の命名だった。
  そして、忠八の死から18年後の1954年、英国王立航空
 協会は、自国の展示場へ忠八の「玉虫型飛行器」の模型
 を展示し、
  二宮忠八を、「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を
 発見した人」と紹介した。
  その後、軍部は、忠八の研究を評価した。
  そして、1922年、忠八を表彰した。
  また、二宮忠八は、その後も数々の表彰を受け、
  1925年9月、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶1対を授与され、
  1926年5月、帝国飛行協会総裁・久邇宮邦彦王から有功
 章を受章した。
  そして、1927年、勲六等に叙せられた。
  そして、1937年(昭和12年度)から国定教科書に掲載
 された。
  そして、すでに陸軍を退役していた長岡外史は、直接、
 忠八のもとを訪れ、謝罪したのだった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:何の痕跡も残さず・・すべてのすべてが・・蒸発した
.
17世紀中頃、捕鯨
  アメリカは、17世紀中頃、マッコウクジラから良質の
 鯨油が採れることがわかり、北米大陸東岸で、セミクジ
 ラと並び、これを捕獲対象とした捕鯨が開始された。
  そして、18世紀には、大型の帆走捕鯨船を本船とした
 アメリカ式捕鯨へと移行し、大量のクジラを捕獲した。
  アメリカは、クジラの肉は捨てるという可哀想なクジ
 ラの利用の仕方だった(クジラのほとんどを捨てた)
  アメリカは、大西洋のクジラを取り切って、太平洋の
 クジラを求めて、取り始めた。
  太平洋全域のクジラをあさる様に獲った。
  1820年代には、日本周辺のクジラも獲り始めた。
  特に、日本周辺は鯨資源が豊富で、さらに大型化した
 捕鯨船団であさる様に獲った。
  大型のカッター船で追い込んで獲るという方法をした。
  19世紀には、最盛期で、イギリスまで盛んに獲った。
  捕獲数はべらぼうに大量であった。
  アフリカから黒人の方々を奴隷にして漁をさせた。
  捕鯨船団の母港となったナンタケットやニュー・ベッ
 ドフォードの町は大いに栄えた。
  このあさる様なアメリカの大量捕獲は、日本の古式の
 捕鯨を衰退させた。
  しかし、この様なアメリカが、現代になってオースト
 ラリアと一緒になって手のひらを返したようなことをや
 り出す・・卑怯な事である・・
  世界各国が、大船団を組み、盛んに捕鯨を行なったの
 にである・・、
  その後、牛の放牧を盛んに行っているアメリカやオー
 ストラリアは、自国の牛肉を日本に買ってもらいたいた
 め、日本の捕鯨に反対を始めた(自分の御都合である)
  また、世界の世論を喚起するため、「キリスト教では、
 クジラは知恵ある動物で、ステージが高い動物だ」とい
 う論理を展開した。
  特に、オーストラリアのグリーンピースという団体は、
 寄付を募って、船団を作って、日本が調査捕鯨を行なっ
 ている船に体当たりするなど、違法行為をしたりした。
  また、日本の古来からクジラ漁をしている方々の所ま
 で出掛けて行って、節操もない嫌がらせを行なった。
  欧米がクジラ漁から撤退したのは、キリスト教の事な
 んかは関係なく、採算が合わなくなったという理由であ
 って、採算さえ合えばクジラ漁をするという輩たちだっ
 た。
  日本は、クジラをとことん有効に生かして使うが、欧
 米のクジラ利用度は低く(鯨油だけを灯油として使うだけ)、
 クジラが可哀想な利用の仕方だった。
  油だけを取ったら捨てるという状況だった。
  まったく可哀想な利用の仕方だった。
  1972年に、アメリカが、国際会議で商業捕鯨の禁止を
 提案した。
  このアメリカの下心も、アメリカ牛肉を日本に買って
 貰いたいだった。
  自分の御都合で「クジラを救え」のキャンペーンまで
 始めた。
  自分は、さんざん捕鯨をやって来たのにである。
  1982年に、商業捕鯨の一時停止が決まってしまった。
  日本のようなクジラを徹底的に生かして利用する国は
 少数で、多数決で決定されてしまった(多数の論理の横
 暴だった)
  1990年までにデータを集めて捕獲できる枠を決めよう
 という約束が果たされず、日本は操業したいのだが、一
 時停止の状態が続いている。
  「アン・フェア」なアメリカなどなのである。
  また、クジラは確実に増えている。
  クジラを食べない国々が、クジラの食文化が古くから
 ある日本、昔からある日本の「食文化」を、多数で奪っ
 ているのである。
  日本の貴重な水産資源のクジラを取り上げるという暴
 力行為となっている。
  1年に10%も、確実に増えているというのに、クジラが
 食べられない状態に置かれている。
  アメリカやオーストラリアが主張する「クジラは特別
 な生き物なのだ」という論理は筋が通らない。
  「その論理が、正論だ」として展開するのなら、「イ
 ンドの方々は、牛を特別な生き物」としている。
  インドの方々の心情を理解して差し上げるのなら、ア
 メリカやオーストラリアの論理どおりなら、牛は食べら
 れなくなる。
.
1843年、2月12日、新島襄が生まれる。
  まだ文明のすべてが未明の明治の頃に、キリスト教の
 何たるかを知らない環境の中で・・、
  ・・というより、キリスト教国でさえ・・キリスト教
 学も未発達な頃の・・昔に・・
  そのキリスト教の本質の分析が不十分で・・、
  且つ、欧米から遠い・・極東の日本で・・
  『キリスト教の本質を見る術(すべ)は、当然、無か
 った』。
  ただ単に、優れた西洋の文明の利器を見て、感嘆し、
 ならば、キリスト教も、西洋のものだと、優れたものな
 のだろうと・・思い込み・・、
  かぶれた人たち、そのキリスト教にかぶれた人々は・・、
  さぞ素晴らしいだろうと夢に描いたキリスト教の国=
 アメリカに渡った・・
  しかし、見たものは・・、日本より劣った人種差別の
 国、酷(ひど)い人種差別状況だった。
  「日本で、話されたことと、大分、違うではないか」
 と、口にさえ出した・・その様な状況だった。
  その見聞した事は、自身に対してもおこった様々な卑
 劣な行為・・自身も受けた人種差別に辟易(へきえき)
 とする。
  この夢のアメリカ・・キリスト教国だからと抱いた夢
 は、完全に破れた。
  そして、後に、日本は、国としても差別を受けて行く、
 卑劣な事に、次々と・・日本への差別法案が作られた。
  そして、キリスト教は、この様な内村鑑三や、新島襄
 の記述や想いを、ひた隠して、美化ばかりする。
  キリスト教に偏するNHKは、美しくドラマ化して放
 送する。
  新島襄は、1843年(天保14年)2月12日に生まれた。
.
1899年、金線サイダーの製造が始まった。
  横浜の秋元巳之助が(金線サイダー)を発売した。
  1904年、これを王冠栓のガラスびん入りにしてからは、
 ほぼ同じ成分の炭酸飲料を玉入りガラスびんに詰めたも
 のをラムネ、王冠栓を用いたものをサイダーと通称する
 ようになった。
.
1945年8月6日午前8時15分、アメリカが、広島に原爆を投下
 した。
  キリスト教国アメリカが、その宗教から判断した結果
 からの行動だった。
  広島の原爆、長崎の原爆、それは、すべてを無にした。
  そこに生活していた方たちは蒸発した。
  それだけではなく、それまで育まれてきた生活のすべ
 てが蒸発した。
  それだけではなく、そこまで刻まれてきた歴史のすべ
 ても蒸発した。
  何もかもが、蒸発し無くなった。
  跡形もなく・・無くなった。
  何もない、蒸発した地には、そこに路地があったのだ
 ろうと思わせたぐらいしか生活を感じさせなかった・・、
  そこに、生活する声があったのだろうとわずかに思わ
 せた。
  その路地にも・・そして、そこの路地にも・・そして、
 そっちの路地にも・・
  路地の一本、一本に、子供の世話を焼くお母さんが居
 て、町で働いていたお父さんが居た。
  そのすべてが蒸発して・・跡形もなくなった。
  台所に母の指輪だけが残っていた・・と言った方が居
 られた。
  (探しに行ったら、母の金属の指輪だけが残っていた
 ・・と)。
  完全に、何もかもが無くなった空間だけが・・残され
 た。
  そこにあった、生まれた歴史も、すべて同時に無くな
 った。
  そこにあった、これから未来を指し示すだろう指針の
 痕跡も無くなった・・そして、夢も希望も・・
  未来の希望も無くなった・・未来の夢も無くなされた。
  すべてこの様に破壊するキリスト教のシャロームの教
 義からこの行為はなされた。
.
1969年1月18日、東大安田講堂事件が起きた(~19日)
  学生の自発的組織である全学共闘会議(全共闘)、お
 よび、新左翼の学生が、東京大学本郷キャンパス安田講
 堂を占拠した事件と、
  大学から依頼を受けた警視庁が、1969年1月18日~1月
 19日に封鎖解除を行った事件・・、
  東大安田講堂攻防戦とも言い、東大の安田講堂に立て
 こもっていた学生たちは、機動隊と2日間にわたる攻防戦
 を繰り広げ、多数の逮捕者が出た。
  医学部の学生ストライキがきっかけだった。
  この年、東大の入試は中止された。
  この事件の背景に暗澹たる殺戮の・・1960年代後半の、
 アメリカが行なっていたベトナム戦争が存在し、悲惨な
 殺戮を世界に見せる、激化の一途をたどっていた。
  また、1970年で期限が切れる日米安全保障条約の自動
 延長をするのか?否か?で・・その阻止・廃棄を目指す
 動きが左派陣営で起きていた。
  これに伴って、学生によって、ベトナム反戦運動・第
 二次反安保闘争が活発化していた。
  学生たちの平和への希求・・追求行動でもあった・・
.
2002年10月15日、北朝鮮によって拉致された被害者の5人が
 帰国した。
  日本政府は、5人の家族の帰国も要求する方針をとった。
  北朝鮮側は、「日本政府に対し約束違反だ」と主張し
 た。
  (独立国・日本の国民を拉致していて何を言うか??)
  この様な北朝鮮政府の抗議により、その後の交渉は、
 北朝鮮政府が日程を決めないなどした為に中断された。
  なのに?? この時、北朝鮮の代弁者の如くの発言を
 する日本の国会議員が多く日本に居た。
  旧社会党やその流れをくむ議員たちだった。
  その1例が、元NHK職員で民進党の畑恵参議院議員で、
 畑恵議員は、救う会の活動を「暴徒と化している集団」
 と呼んでいた。
  また、社民党党首・土井たか子は、「食糧援助と拉致
 疑惑は切り離せ」と主張した・・、
  民主党の鳩山由紀夫も、同じ様な演説をしていた。
.
2003年、イラク戦争が・・、
  この年に、イラク戦争が起きたが、今になって言える
 事は、世界第2位の原油確認埋蔵量を誇っていたイラクの
 石油利権が欲しいという戦争だった。
  最初、アメリカのブッシュ〈子)大統領は、サダム・
 フセインが、原爆などの大量破壊兵器を持っているとか、
 作っているとかと言っていたが・・、
  結局、そんなものは影も形もなく、
  しかし、アメリカは、フセインの命は取ってしまうと
 いう・・国際法も、法律も、あったもんじゃないという
 状態で、
  アメリカが好き勝手をやって、イラクに、シーア派の
 政権を樹立させ、中東を不安定化させ、
  そして、シーア派の政権から追い出されたスンニ派の
 旧政権の勢力が、ISを組織し・・、
  イラクの隣国で暴れ回るという・・こんな理に合わな
 い、破廉恥な事が起きる状態に、アメリカはした。
  「現代の十字軍だ」と叫んだ「がちがちのキリスト教
 徒のブッシュ(子)大統領」はネオコンで・・、
  ブッシュ政権には、ネオコンの者たちがうようよと居
 た・・
  「ディック・チェイニー副大統領」「ドナルド・ラム
 ズフェルト国防長官」「ポール・ウォルフォウィッツ国
 防副長官」「ダグラス・ファイス国防次官」などなど・・
 政権中枢はネオコンだらけだった。
  ネオコンの影響下のアメリカは、これまで、ブッシュ
 (父)大統領も、湾岸戦争をしている。
  また、ヒラリー・クリンドンが「アラブの春」と称す
 る事態引き起こして、中東を混乱に貶(おとし)めてい
 た。
.
2011年、アメリカのグリーンスパン元連邦準備制度理事会
 議長と、バーナンキ議長は・・、
  「アメリカは、財政事情の悪化と、貯蓄不足が引き起
 こす資本不足のため・・、
  今後のアメリカ経済の利子率は、恒常的に高止まりし、
 長期的な経済停滞を引き起こす」と言った。
.
2017年6月6日、アメリカ国防総省は、日本海に展開してい
 た海軍の原子力空母2隻について、合同の 軍事演習が終
 了したとして日本海から去った。
  アメリカ海軍当局者は6日、北朝鮮をけん制するため
 日本海に展開していた原子力空母カール・ビンソンとロ
 ナルド・レーガンの2隻が、3日間の共同訓練を終えて、
 日本海を離れたと明らかにした。
  ロナルド・レーガンは、沖縄東方の海域で、海上自衛
 隊と訓練を続け、カール・ビンソンはアメリカへ帰還す
 る。
  北朝鮮に「最大限の圧力をかける」とするトランプ米
 政権が方針を転換したわけではないと見られているが・・
 日韓と共に警戒態勢は続けるのだろう・・?・・
  トランプ米政権は、日本海に空母2隻を派遣し、海上
 自衛隊と共同訓練を実施したのは・・異例ではあった。
  弾道ミサイルの発射を繰り返す北朝鮮に圧力をかける
 のだ・・としていた。(共同を参考にした)
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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(増補版)534E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年3月~1891年4月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)534E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年3月~1891年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年3月30日、「乗車切手ハ貴重品ノ取扱ヲナスヘキ件」
 が通達され、
  従来一般の荷物と同じ扱いで輸送していた各駅への乗
 車券の配給を貴重品扱いとした。
1891年3月、山陽鉄道会社線の船坂トンネルが完成した。
  1889年(明治22年):着工
  長さ:1137.5メートル
1891年3月、大阪停車場に錬鉄製の跨線人道橋(15.2km)を増
 設した。
  跨線橋(こせんきょう)は、橋の一種で、鉄道線路を
 またぐもの。
1891年3月、小山~御殿場間の複線化が完成した。
1891年4月1日、郡制の施行開始
  郡制(ぐんせい、明治32年3月16日法律第65号)は、
 日本における府県と町村との間に位置する「郡」を、地
 方自治体として定めた制度で、その制度を規定した法律。
  明治から大正にかけて実施され、最初の法律は・・、
 1890年(明治23年)5月17日に公布された(明治23年5月
 17日法律第36号)
  この日、青森県、秋田県、山形県、福井県、長野県、
 愛知県、徳島県、高知県、大分県の郡制が初めて施行さ
 れた。
  行政区画として、郡役所と郡長(官選)が置かれた。
  この郡に、府県で処理するには小さく、町村で処理す
 るには大きい事務を処理させるため、両者の中間に位置
 する行政・自治団体としての機能を付与した。
  しかし、郡制の存在が、行政の煩雑化をもたらすだけ
 で自治団体の実績に乏しいとして、立憲政友会を中心に
 郡制の廃止を求める意見が早くから上がっていた。
  1906年に、政友会が衆議院に廃止案を提出した。
  この議案は否決されたが・・、1923年(大正12年)4月
 1日に至り、郡制は廃止された。
1891年4月1日、九州鉄道会社線の久留米~高瀬(現:玉名)
 間が開業した(54.9km)
  また、同じく、九州鉄道会社線の黒崎~門司(現:門司
 港)間も開業した(23.3km)
1891年4月9日、幕末勤皇家へ正四位を追贈した。
  橋本佐内、坂本龍馬、中岡慎太郎、高杉晋作など27氏。
.
  (今日の言葉)
.
  題:30年くらいで悪くなる訳がない・・そして・・
    総ての社会資本に、建設に命を捧げた方々の名前
   を刻んだ碑を建てるべきなので、その碑を見る事に
   よって、貴重な尊い命と交換で、便利な社会資本を
   享受しているありがたさが分かるだろう・・
.
354年11月13日、アウグスティヌス(キリスト教神学者)が
 生まれた。
  アウグスティヌスは、教父と呼ばれ、キリスト教徒が
 尊敬するなの人だが、「ローマ没落は、異教徒たちの罪だ」
 と、異教徒を罪に落とした。
  この異教徒の『異』について・・考えてみると・・、
  思考の成熟してない未成熟集団に於いて・・、
  例えば、年端(としは)の行かない子たちの学級に於
 いて、
  または、未熟な宗教に於いて、洗脳された集団に於い
 て、
  殊更(ことさら)に、「目の前の現存する違いを指摘
 し、また、指摘される」。
  それは、「いじめともなり」また「いじめ」と言われ、
 「内政干渉」とも言われ・・世に存在する。
  言う方は、「その違いが気になるから、言うのだろう
 が、指摘するのだろうが」・・、
  言われ、指摘された方だって、悪いと思ってやってい
 る訳ではない。
  悪いことを、ことさらする訳はない。
  しかし、適度に指摘する程度で、その話が、行為が、
 終わるなら良いが・・また、善き忠告もあるのだろうが、、
  程度の悪い虐(いじ)めとなるその行為は世の害となる・・
  それは、しつこい虐(いじ)めになり、「異教徒は殺せ」
 とキリスト教の教義の様に、命まで取れと神の指示とな
 り、示唆し、洗脳し・・ここに至れば・・事は重大な事
 になる。
  「いじめ自殺」や「殺戮行為に対する混乱」へ、そして、
 「戦争へ至る」という親展へと行く・・
  発端は・・単なる・・『違い』。
  それを、「容認するか?」「口に出すか?」から始ま
 る。
  人類の歴史で、悲しい、そして、悲惨な、一番の汚点
 が・・「肌の色の違い」を気にしたこと・・、
  キリスト教は、「肌に色を持つ人種」を蔑視した・・
  卑劣な「有色人種へのキリスト教の蔑視感の植え付け
 洗脳行為」だった。
  アウグスティヌスがこれをよくやった。
  この差別に因する大虐殺、戦争などなどが人類の歴史
 に、累々と存在している。
  「個性的だとおおらかに容認することが出来ない宗教
 =キリスト教」・・大罪悪である・・
  そして、「その違いを排除しろと洗脳するキリスト教」
 となっている・・何と多くの方々が抹殺された事か・・嗚呼
  「異教徒は殺せ」「魔女は、生かしておいてはならな
 い」・・このキリスト教の教義が、人類を悲しみの悲惨
 な歴史に残して来た。
  そして、違いを無くすグローバリゼーションを洗脳し
 て・・世界に展開しようとしている・・今がある・・
  多様性の良さを理解できなくて、排除している宗教・・
  自然が、多様性の中に調和し、豊かに成り立って、人
 類へ幸を与えていることが・・理解できない宗教・・ま
 た、その信奉者たち・・
  違いを認め合い、尊重し合う所から・・人類の豊かさ
 と幸せが始まるという事が・・理解できない・・
  遠近(おちこち)に生まれ出(いずる)違いある生物
 ・・万物・・そして、人類の幸せを・・理解しなさい・・
  怖ろしい事に・・劣った宗教・キリスト教は以下のよ
 うに教え、洗脳する・・
  聖書では、以下の1例の様な文言が、聖書のあちこちで、
 繰り返し、繰り返し、キリスト教の神が異物を・・異教
 徒を・・異端を殺せと命じている・・
  (申命記7章1~2節)
  あなたの神、主が、あなたの行って取る地にあなたを
 導き入れ、
  多くの国々の民、ヘテびと、ギルガびと、アモリびと、
 カナンびと、ペリジびと、ヒビびと、およびエブスびと、
  すなわち、あなたよりも数多く、また、力のある七つ
 の民を、あなたの前から追い払われる時、
  すなわち、あなたの神、主が彼らをあなたに渡して、
 これを撃たせられる時は、あなたは、彼らを全く滅ぼさ
 なければならない。
  彼らと何の契約もしてはならない。彼らに何のあわれ
 みも示してはならない。
.
1876年、内務省が、「医制」を全国に及ぼし広めた。
  各県は、県規則により医師の開業試験を実施した。
  すでに、1874年に、「医制」公布していた(文部省よ
 り東京・京都・大阪三府に布達)
  国家の試験によって、医師の開業許可制が採用された。
  医術開業試験では、西洋医学の知識を問う問題が出題
 された。
  それまで、医師といえば、漢方医が主流であったが、
 医術開業試験の導入によって、新規に開業する医師は、
 西洋医学の知識が必須となった。
  医師免許は、医術開業試験合格者の他、医学教育機関
 の卒業者に対しては無試験で与えられた。
.
1942年頃、アメリカが、「日本の皇室をつぶす」とした。
  CIAの前身であるOSS(戦略事務局。第二次世界
 大戦中のアメリカの政府機関)・・、
  (正確には、さらにその前身であるCOI)
  ・・という情報機関の中に設けられた『対日占領政策』
 の基礎を作り上げた組織の文書・・
  (2001年以降、徐々に情報公開されている)
  ・・には、「客観的に見て天皇制は日本民族にとって
 は計り知れない資産だ」としている。
  だから、日本からの将来の脅威を無くすためには、「
 つぶさなければいけない」と・・、
  『占領政策の基本コンセプト論理』を決めている。
  この様に、近年、アメリカで明らかになってきた資料
 によって、
  占領政策が、長期的に「天皇制をつぶす」という目的
 にしていた事が明らかとなった(今も、隠れた形で存在
 する)
  そして、占領軍が去った後も・・、
  日本の放送機関や報道機関などの機関へ資本参入し、
 その行動を続けている。
  放送内容や、報道内容の変更を働きかけ、次第に、そ
 の変質が起きて来ている。
  皇室関係の報道機会の減少から、呼び方の変更など・・
 多岐にわたっている。
  皇室関係の報道も少なく、また、番組もほとんどなく
 なって来ている。
  そのアメリカの「天皇制をつぶす」の方針書には、「
 天皇制を当面利用しよう」という議論も展開され、
  1947年(昭和22年)、新皇室典範の制定と、旧十一宮
 家の臣籍降下の「後継者を徐々になくして行く」につな
 がって行っている。
  日本の公共放送だと言われているNHKの・・日曜大
 河ドラマにおける「皇室の方々への蔑(さげす)み呼称」
 は、大きく世の批判を受けたが、お先棒担ぎ行動である。
  批判に対してNHKは、当然のごとく「蔑んでいない」
 と、強弁したが・・不埒な放送局である。
  このキリスト教に偏するNHKと、その宗教を共にす
 る輩たちが、寄らば大樹だと、節操なくあちこちに「跋
 扈している」。
  (参考)跋扈:ばっこ、「後漢書」崔駰伝から。「跋」
     は越える意、「扈」は竹やな》魚がかごを越え
     て跳ねること。転じて、ほしいままに振る舞う
     こと。また、のさばり、はびこること。
  また、戦後、アメリカの占領政策は、感受性の強い子
 供たちに対し、日本の子供たちの教育から、「天皇・皇
 室に関する教育が、取り外させられた」。
  憲法第一条にある「日本国民の象徴である天皇陛下」
 についての教育も駄目だとされた。
  そして、日本の大切にすべき伝統の破壊攻撃も酷(ひ
 ど)い。
  そして、朝日新聞は、慰安婦問題の虚偽報道で謝罪し
 たが、2005年にもまた、朝日新聞は、天皇制と差別の関
 連で、虚偽報道をして謝罪している。
  同様に、NHKも、酷い番組を放送している。
  この卑劣な放送局・NHKは、天皇陛下を性犯罪の戦
 犯だとして裁くという番組を放送した。
  巨大な放送媒体で、影響力が絶大のNHKでの、まっ
 たく公正さのない放送であった。
  長時間に渡る、一方に偏した放送で、NHKの大罪放
 送だった。
  ・・日本を、アメリカ化したいアメリカがあり・・
 また、日本を、準州化したいアメリカがあるという状態・・
  その為、アメリカは、日本の皇室を潰(つぶ)したい
 とした。
  内政干渉の極みである。
.
1948年、アメリカの卑劣な占領政策の一事例・・
  この年に、日本の大財閥の系列の方が、神奈川県に児
 童養護施設を作った。
  アメリカ兵によって、多くの日本人女性が強姦され、
 また、アメリカ政府の要請で慰安所を作ったが・・、
  この施設の子供たちは、この様な関係から生まれた子
 供たちのための施設だった。
  アメリカは、日本の占領政策が上手(うま)く行った
 と自画自賛する・・が・・
  だが、その占領政策が、良かったなどとは微塵も言え
 ない・・、
  そのことを・・さすが、アメリカは見抜いている・・
  だが・・アメリカは言う・・
  アメリカは、うまく行ったのは、『マッカーサーに、
 カリスマ性があったからだ』と言った。
  これは違う。
  それは、日本人に、「分別をわきまえる高い民度があ
 った」からだ。
  この様な日本の高い民度は、一朝一夕ではできない。
  長い長い歴史の中で育(はぐく)まれたものだ。
  即席で出来る訳がない・・、
  「アメリカに作られた」と、アメリカが言うのは「お
 こがましい(身の程知らずだ、差し出がましい」。
  また、旨く行ったとアメリカが言う事は・・、
 「アメリカ兵の『モラル』が高かったから」と、アメリ
 カが自画自賛した・・が・・これにはびっくりするくら
 いの事実誤認だ。
  日本が、ひたすら、あからさまに表には出さずに来た
 こともあるし・・また・・、
  毎日のアメリカ兵の強姦行為が、あまりに酷いので、
 「新聞報道をするな」と、アメリカは、日本に報道規制
 をした。
  アメリカは、「自分の足元を見る事が出来ない国」。
  事実は、まったく正反対・・、
  アメリカ兵は、パリでも、フィリピンでも、沖縄でも、
 日本本土でも、朝鮮でも、ベトナムでも、世界中で酷(
 ひど)いことをし続けて来た。
  そして、その地で生まれた子供たちの多くを、可哀想
 なことに見捨てた。
  アメリカが感知する事ではないという態度を取った。
  アメリカ人2世の子供たちを見捨てて来た。
  アメリカ政府は、ここを見て見ぬふりをし、個人的な
 事として逃げた・・そして、見捨てた・・最高の卑劣さ
 にあった。
  アメリカ政府は、どこ吹く風と、まったく、手を差し
 伸べなかった・・逃げた・・卑怯だった・・、
  東京で、アメリカ政府は、「アメリカ兵の慰安所を作
 ってくれ」と指示したが・・、
  ならば、生まれた子供の責任も、アメリカ政府は取る
 べきなのだ・・依頼したのなら・・
  アメリカ兵に強姦された世界の女性のかたがた、その
 数知れない事実を知ろうとしない・・知らないふりをす
 るアメリカ政府。
  この文の初めにある民間施設も、アメリカへ何度も訴
 えたが無視された・・
.
1966年10月、アメリカのジョンソン大統領は、「米ソの貿
 易促進をするのだ」という美しい名目で、ソ連へ300億ド
 ルを融資した。
  これが、まったく、怪(あや)しい融資で・・ソ連は、
 この金で、アメリカから「非戦略物資」という名目で、
 また、その名目なら輸入できることになっているという
 「カラクリ」の非戦略物資を輸入した。
  しかし、その非戦略物資は「限りなく怪しいもの」だ
 った。
  それは、航空機部品、レーダー、トラック車輌、コン
 ピューター、石油などで・・、戦争に使うための「戦略
 物資」で、ソ連は、その物資を北ベトナム軍へ、すぐさ
 ま送り込んだ。
  この時、ベトナム戦争が戦われており、アメリカは、
 南ベトナムへも援助していて、大量の戦略物資が南ベト
 ナムへ送り込まれてもいた。
  (北ベトナム軍も、南ベトナム軍も、アメリカの戦略
 物資で戦争をしていた)
  この敵の北ベトナム軍へ、ソ連は、アメリカから融資
 された金で、アメリカから非戦略物資と称する戦争に使
 える物資を輸入し・・、
  アメリカ・南ベトナムの敵の北ベトナムへ送った。
  マッチポンプなのである。
  (参考)マッチポンプ:偽善的な自作自演の手法・行
    為を意味する。マッチを送って火事を起こさせ、
    ポンプを送って、その火事を消させる。
  アメリカは、第二次世界大戦の時も、ソ連へ武器・兵
 器を送り込み、その輸送までしてソ連へ武器・兵器を供
 給し、日本とソ連に中立条約があるのが分かっているの
 にその様な行為をし・・、ソ連はその武器と兵器で、中
 立条約を破棄して、日本へ攻めて来た。
  多くの日本の民間人が戦車に踏みにじられた・・虐殺
 された・・機関銃を乱射され・・虐殺された・・
  ベトナム戦争の場合も、アメリカは、アン・フェアな
 行為をしていた。
  戦争が、続けば儲かるアメリカのエスタブリッシュメ
 ントの輩たちのしでかしたことだった。
.
1999年、日韓併合は条約による併合である(侵略なんかで
 はない)・・韓国の屁理屈が却下される・・
  この年の世界の歴史学会で、韓国は、「日本による日
 韓併合は、侵略である」という従来の主張が、持ち出さ
 れた。
  この時、世界的に問題となり、多くの国際法の権威や
 歴史学者たちが議論を戦わせた。
  その結果、韓国側の主張は退けられ、「日韓併合は条
 約による併合であり、侵略ではない」という結論が出さ
 れた。
  しかし、韓国は同じことを繰り返している。
  その結果、アメリカ・メディアは、「日本による苛酷
 な植民地支配」という言葉が、日本と韓国の関係を現わ
 す枕詞になってしまった。
  しつこい韓国ロビイストによって、事実が曲げられ、
 日本は、悪者にされている。
.
2013年末、ウクライナ危機が起きた。
  また、クリミア危機とも言い、以下の説明がある・・、
  解説その1:クリミア半島の帰属を巡って、ロシアと
 ウクライナの間に生じた政治危機。
  この危機は、ヴィクトル・ヤヌコーヴィチ政権を崩壊
 させた2014年ウクライナ騒乱の後に生じたものでクリミ
 ア共和国とセヴァストポリ特別市の一方的な独立宣言(
 クリミア共和国の成立)、それらのロシアへの編入の宣
 言に至った。
  解説その2:ウクライナで昨年・2014年2月、親ロシア
 路線に抗議する市民に治安部隊が発砲・・、
  混乱の中、ヤヌコビッチ前大統領が逃亡し、親欧州路
 線の政権が発足した。
  しかし、ロシアは、「欧米が扇動したクーデターだ」
 と反発し、南部クリミア半島を併合した。
  4月からは東部で親ロシア派と軍の戦闘が始まった。
  5月の大統領選で親欧州のポロシェンコ氏が圧勝。
  親ロシア派と9月に停戦合意したにもかかわらず、戦闘
 が続き、
  2015年2月に、再び、停戦合意した。
  これまでに、民間人を含む6000人以上が犠牲になった。
   (2015-04-05 朝日新聞)
  以上が、公(おおやけ)の解説であるが、アメリカに
 媚(こび)を売る解説となっている。
  そもそもクリミア半島は、ロシア帝国の領土だった。
  そして、このクリミア危機は、アメリカの仕掛けであ
 った・・、
  アメリカのネオコンが、ロシアのプーチンを追い落と
 そうと仕掛けた罠(わな)だった。
  ウクライナ危機が起きた発端は、親ロシア路線を選択
 しているビクトル・ヤヌコビッチ政権に抗議デモが起き
 た。
  (このデモに参加する住民・主にウクライナの西側の
 住人に、アメリカやEUは資金的な応援をしていた)
  このデモ隊の中に居た一部が発砲し、国内が大混乱に
 陥(おちい)ることから始まった。
  親ロシア路線を執(と)ったヤヌコビッチ大統領は逃
 亡し、政権は倒れ、反ロシア政権が生まれる。
  しかし、ここにも、アメリカの仕掛けの証拠があった。
  市民だけのデモだと思われていたデモだったが、ネオ
 コンが扇動し、親ロシア政権に揺さぶりがかけられてい
 た。
  このデモの中に、アメリカのビクトリア・ヌーランド
 国務次官補が居て、デモを煽っていた。
  その様子が、テレビの映像にすっぱ抜かれた。
  また、このアメリカの国務次官補は、親ロシア政権が
 倒されてからの後、「どんな政権を新たにつくるか?」
 について、駐ウクライナのアメリカ大使と電話で話し合
 っていて・・この様子もYouTubeにアップされた。
  そして、この時に電話で話されたとおりのヤツェニュ
 ーク首相が暫定政権を樹立した。
  つまり、アメリカは、ウクライナの政府を転覆し、そ
 の後の政権をどうするかまで決めていた。
  この時のアメリカ大統領は、第44代の民主党バラク・
 オバマだった。
  また、程度の悪いのは、アメリカに応援されたこの反
 ロシア政権が、ウクライナ東部のロシア系国民を弾圧し
 始めた。
  また、ロシアの軍港の貸与を中止する行為までした。
  元々、クリミア半島は、ロシアの領土で、ロシアは、
 ズーッとウクライナに対してクリミアの返還を訴えて来
 ていた。
  この様な事実を、アメリカやヨーロッパのメディアは、
 まったく正しく伝えなかった。
  逆に、この正しい話を「逆にして伝えた」。
  日本のメディアも、この欧米メディアに引きずられた。
  ロシアが悪者にされた。
  「ロシアが、領土的野心を持って、ウクライナへ侵略
 をした」と報じた。
  アメリカが、さも正しい様にして「ロシア制裁だ」と
 言っているが・・アメリカが正しくない・・アメリカに
 正義がない。
  因みに、1783年に、クリミア・ハン国が、ロシア帝国
 によって征服され、クリミア半島にロシア人、ウクライ
 ナ人等のスラブ人が入植し始め、旧クリミア・ハン国の
 多数派だったクリミア・タタール人の人口が徐々に減少
 した。
  しかし、20世紀までに、ロシア人は多数派になり切れ
 なかった。
.
2017年6月5日、題:社会資本に対する税金の効率的投入のお願い
  ・・(以下は、某組織に出した手紙)・・
  拝 啓 (平成29年6月5日)
  御公務、ありがとうございます。
  ある企業の新聞広告で表題の事を申し上げたいと思い
 ます。
  是非、御一読を賜わります様、お願い申し上げます。
  安易な、スクラップ・アンド・ビルドを効率化して戴
 きたいと思います。
  税金の効率的な使用にもつながると感じています。
                     敬 具
  (内容)
  NEXCO中日本(中日本高速道路株式会社)が、新
 聞広告で以下の記述をしているが・・おかしいです。
  これは、ただ単に、ある会社の広告がおかしいという
 問題ではないのです・・その記述は・・
  「高速道路、リニューアルプロジェクト、進行中。
  いま、安全・安心を次の世代へ。
  高速道路は誕生から半世紀。
  その約4割が開通から30年を超え、老朽化が進んでい
 ます。
  これからも暮らしや物流を支える安全な道路であるた
 めに。
  現在、最先端の技術を駆使し、機能の向上と長寿命化
 を図る「高速道路リニューアルプロジェクト」を実施し
 ています。云々・・とあるが、おかしい?のです。
  結論を先に言えば・・、
  最適なメンテナンスを、最適時期に、適宜して来てい
 れば、この様な大工事にならないで済んだ。
  お金もかからないで済んだ。
  これを、人間に例えれば、毎年、健康診断を受けて、
 悪くなりそうなところを早期発見をして、早目、早目に、
 適切な処置をして行けば、健康で幸せな人生を歩んで行
 くことが出来る。
  その、やるべき事をやらないで、怠(おこた)って、
 大手術ではないが、手術をしなければならなくなった・・
 という状態です。
  放っておけば・・何でも悪くなる。
  これでは、税金がいくらあっても足りません。
  老巧化は進むものだと、ほったらかしにするところが、
 おかしいのです。
  「開通から30年を超えたから、老巧化した」という固
 定観念が、税金食いの間違った観念。
  日本は、プロパガンダされて、この間違い観念に毒さ
 れています。
  「何でも、壊して、建て替える、作り替える」という
 間違いの固定観念の中にあります。
  30年くらいで壊すなと言いたい。
  大きな経済ロスとなっている。
  また、メンテナンス学の活用を、そして、メンテナン
 ス業界の育成を、そして、社会資本メンテナンス庁の創
 設をして戴きたい。
  「最先端のリニューアル技術で工事をしている」と言
 ったって、手術をせざるを得ない状態にまで悪化させて
 しまったということ。
  日本は、根本から、考え方を変えて行かねばならない。
  本当は、どこが悪くなったからリニューアルをすると
 いう事ではなく・・、
  ただ単に、「30年経ったから、多分、老巧化しただろ
 うから、やり替えよう」ぐらいの事で、貴重な税金を使
 っているのだと言える。
  もったいない事です。
  30年くらいで悪くなる訳がない。
  どんぶり勘定的な判断で、貴重な税金を使わないで戴
 きたい。
  税金を使うなら、地方の橋で、ろくにメンテナンスを
 していない橋に、ちゃんとチェックをし、税金を投じて
 戴きたい。
  また、ダムに、この重要な社会資本の建設に、尊い命
 を捧げた方々の慰霊碑があるが・・、
  どの建設にも、その建設に命を捧げた方々が居られる
 のです。
  この高速道路にも居られる、それ故に、安易に、ただ
 単に、30年経ったからと、この意味からも、安易な社会
 資本の壊す行為は行なうなと言いたい。
  総ての社会資本に、建設に命を捧げた方々の名前を刻
 んだ碑を建てるべきなので、その碑を見る事によって、
 貴重な尊い命と交換で、便利な社会資本を享受している
 ありがたさが分かるだろう・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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(増補版)533E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年3月~1891年3月)

題:(増補版)533E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年3月~1891年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年3月24日、度量衡法(どりょうこうほう)公布
  度量衡の単位、度量衡計測機器の構造・検定・事業者
 などについて定めた。
  1875年(明治8年)の度量衡取締条例(明治8年8月5日
 太政官達第135号)を継承し、
  1891年(明治24年)3月24日に公布され、
  1893年(明治26年)1月1日に施行された(明治24年3月
 24日法律第3号)。
  当時、日本は、原則として尺貫法であったが、既に、
 1886年(明治19年)にメートル条約に加盟していたため、
 尺と貫は、メートル原器・キログラム原器から換算する
 方法を採って、メートル法も公認されるという二元的な
 単位体系を取った。
  その後、日本は、第一次世界大戦下の好況を通じて工
 業国として成長し、日本製品をより広く売っていくため
 には単位体系を一元化して、工業品規格の統一を進める
 方針をとった。
  これを受け、1919年(大正8年)圧力・温度・比重単位
 の規定が追加され、
  また、1921年(大正10年)4月11日に、メートル法に
 一本化する改正法(大正10年4月11日法律第71号 度量衡
 法中改正法律)を公布した。
1891年3月25日、板垣退助が、自由党総理となった。
  この年、星亨は、立憲自由党の党指導部の統制力と党
 全体の連帯感を強めるため、急進派の大井憲太郎の反対
 を押し切って党全体を代表する「総理(党首)」を置く
 ことを提唱した。
  また、党名も「立憲自由党」から「自由党」へと改称
 された。
  そして、党大会で、選挙の結果、自由党の総理は、大
 井憲太郎に大差をつけ、板垣退助に決まった。
  自由党の関東派で勢力を二分していた星亨と大井憲太
 郎だったが、未来の政局と日本の産業政策を見通した星
 亨のほうが、次第に、急進的で明確な政策ビジョンのな
 い大井憲太郎を圧倒するようになり、
  大言壮語に基づく『政治情勢の破壊』を得意とした大
 井憲太郎は、実際的な政権担当能力や政策立案能力に乏
 しく、
  1892年には、自由党を脱党して、わずか4人になった同
 志と共に東洋自由党を結成した。
1891年3月25日、駅夫世話役・シグナルメン・ポイントメン・
 駅夫・踏切看手の日給等級を制定した。
1891年3月27日、東京・神田錦町に、電気パノラマ館が開業
 した。
  因みに、上野パノラマ館が、1890年5月7日に開業して
 いる。
  そして、日本パノラマ館が、1890年5月22日に開業し、
  また、国光館パノラマ館は、1902年5圧4日に、今・現
 在の九段会館近くに開館している。
1891年3月28日、第1回ウエイトリフティング世界選手権(
 ロンドン)
  参加国:6、参加者:7
  金メダル獲得数(2013年終了時点)1位:中国、154個、
  2位:ソ連、151個、日本:13位、10個、
1891年3月29日、アレクサンドル3世が、シベリア鉄道建設
 の勅書を出した。
  アレクサンドル3世は、息子ニコライ2世にあてた勅令
 の中でシベリア鉄道着工を宣言した。
  鉄道建設は、この建設を核としてロシアの工業化を図
 りたいと目論んだ。
  アレクサンドル2世が爆弾テロに倒れ、1881年、アレク
 サンドル3世が即位したのだが・・、
  もともとは、アレクサンドル3世の兄ニコライが皇位継
 承者だった。
  しかし、皇帝修行の最後の仕上げのヨーロッパ旅行
 に結核性髄膜炎に倒れ、不帰の人となった。
  そのため、次男であったアレクサンドル3世が、皇位継
 承者となり、帝位を継いだ。
 アレクサンドル3世は、息子の暗殺を恐れたアレクサン
 ドル2世の計らいで、ロマノフ王朝の離宮ガッチナで厳重
 に警備されて育った。
  歴史家のセルゲイ・ソロヴィヨフ(哲学者のソロヴィ
 ヨフの父)と、当時、ペテルブルク大学法学部教授で、
 後に、宗務院総裁となったコンスタンチン・ポベドノー
 スチェフによって教育された。
  特に、保守のポベドノースチェフからは、専制君主の
 絶対性を叩き込まれた。
  後に、ポベドノースチェフは、アレクサンドル3世の政
 治顧問となり、人事権を握った。
  因みに、ロシアの最初の鉄道は、ニコライ1世の時に始
 まり、試験的にペテルブルクとツァールスコエ・セロー
 を結んだ。
  1848年には、ワルシャワ~ウィーンが結ばれ、そして、
  1851年には、モスクワ~ぺテスブルク間に、鉄道を敷
 設した。
  そして、1857年に至り、鉄道事業に投資する事によっ
 て、鉄道関連の各種事業・・レールを作る鉄鋼業、車両
 の燃料を供給する石炭業などが活発化し、また、各地の
 流通も活発化するという効果があり、この年に、鉄道勅
 令を発した。
  この法令によって、ロシア鉄道中央会社が設立され、
  政府が、株式の利子配当、社債を補償し、
  会社には、4000キロの鉄道建設計画が与えられた。
  その後、発展して、アレクサンドル3世の時代の1883年
 までに、2万4100キロまで線路は布設された。
  ヨーロッパとの幹線も結ばれ、
  政府は、1866年に、鉄道用材の国産化を命じた。
  レールの製造から製鉄業も興った。
  鉄道網は、急速に拡大して行った。
  1883年には、ロシア政府の公債を引き受けた功績で、
 ロスチャイルドのフランス分家が、鉄道の燃料のバニト
 油田を入手した。
  そして、ロシアでの石油ビジネスに乗り出した。
  資本家も工場などの経営をし始め、ブルジョアジーの
 形成がなされて行った。
  重工業への進展もなされ、ロシア通貨のルーブルにも
 国際的信用を与えようと兌換紙幣化もした(金準備高の
 不足で頓挫)
  また、貿易収支の改善を目指して、関税率を徐々に引
 き上げ、輸入商品に20%の関税をかけるところまで行っ
 た。
  しかし、1866年~1885年のロシア政府支出は、陸海軍
 への支出32%、政府負債の総額28%、鉄道建設費用10%
 と70%を占め(その他の予算はないという・・クビの回
 らない財政となった)、
  1885年~1886年のオーストリア・ハンガリーとの軍事
 的緊張で軍事予算が急増し、予算的破綻に至り、ルール
 ルは大暴落した。
  しかし、フランス金融市場で、資金のだぶつくフラン
 ス金融界は、発行されたロシア国債を熱狂的に買い付け
 た。
  1888年には、フランスの金融シンジケート団が、ぺテ
 スブルクを訪れ、5億フランの公債を買い付けることもし
 た。
  また更に、ロスチャイルドのパリ分家が20億フランの
 ロシア公債を引き受けた。
  結果として、ロシア公債の80%をフランスが引き受け
 た。
  これによって、1893年の露仏同盟へとつながって行く。
  ・・が、ロシアは、5%という高配当にしていた。
  ロシアは、徹底的な穀物輸出で外貨を獲得しようとし
 た。
  しかし、カナダやオーストラリアの穀物の台頭で、穀
 物の国際価格が下落する。
  ここで、ロシア政府による農民いじめが始まる。
  そして、外貨流出を抑えるため、高関税策をとる。
  輸入が抑制され、外貨流出も抑えられ、また、鉄道ブ
 ームに乗ってロシアの工業化を推し進めた。
  経常会計は黒字化し、3億金ルーブル分の金準備高を増
 大させることもでき、この黒字財政を背景に、アレクサ
 ンドル3世は、シベリア鉄道の着工を宣言した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:金を出すような国になるのか・・?
.
紀元前27年、ローマ帝国のアウグストゥスが初代皇帝とな
 った。
  古代ローマが、ローマ帝国となったのは、イタリア半
 島を支配する都市国家連合から、「多くの民族や人種や
 宗教を内包しながら、大きな領域を統治する国家」へと
 成長を遂げたからだった。
  しかし、まだ、表面的な帝政だった。
  紀元前27年より、ローマ帝国は、共和政から帝政へと
 移行したが・・、
  この時の初代皇帝となったアウグストゥスは、共和政
 の守護者として振る舞った(プリンキパトゥス:元首政
 という)
  後に、285年になって、、ディオクレティアヌス帝が即
 位し、専制君主制(ドミナートゥス)へと変貌した。
  因みに、ローマ帝国の奴隷は、ヨーロッパ人やアジア
 人だった。
.
1857年7月18日、沖縄県先島諸島・多良間(たらま)島沖の
 海底で・・、
  琉球王国末期のこの年に遭難したオランダ商船ファン・
 ボッセ号(665トン)の積荷と見られる陶磁器片や、箱状
 の物体が確認された(2015年12月)
  船体は発見できなかった。
  この事例は、沈没地点と遭難状況を、ほぼ明らかに出
 来た珍しい事例である。
  この地点は、約40件の、この様な沈没があった地点。
  琉球王国の正史「球陽」によると、この船も、上海か
 らシンガポールに向かう途中、大風に遭い、珊瑚(サン
 ゴ)礁の浅瀬に撃破した。
  乗組員27人は自力で島に避難した。
  調査によって、陶磁器片などが、150×300メートルの
 範囲で散乱しているのが確認された。
  水深は28メートル。
   (読売新聞、2015年12月2日)
.
1870年5月19日、西田幾多郎(にしだきたろう)が生まれた。
  哲学者、京都大学教授、
  西田幾多郎が散策した琵琶湖疏水沿いの道は「哲学の
 道」と呼ばれ、日本の道百選に選ばれている。
  そして、西田幾多郎に育て上げられた西田哲学系の哲
 学者である三木清(みききよし)は、
  パスカルは「人間は考える葦である」と言ったが、
  「それを人間は知っているが、天は知らない」と言っ
 た。
  天とはキリスト教の神である。
.
20世紀初頭、イギリス王家は、「サックス・コーバーグ・
 ゴーダ王家」と言った。
  エドワード7世の父が、ドイツの名門貴族ザクセン・コ
 ーブルク・ゴーダー家の出身だったためだった。
  エドワード7世は、即位とともに「ハノーバー王家」を
 改めた・・それは・・、
  1914年に、第一次世界大戦が勃発すると、時のジョー
 ジ五世は、ドイツと戦うのにイギリス王家がドイツ系の
 名前ではまずいと、「ウィンザー王家」に改称したのだ
 った。
  そのとき使われた言葉が「ノブレス・オブリージュ(
 気高さ、勇気、自尊心)」・・で、国家のため戦えでは
 なかった。
  (参考)ノブレス・オブリージュ:直訳すると「高貴
    さは(義務を)強制する」を意味し、
     一般的には、(その恵まれた)財産、権力、社
     会的地位を保持をするには、責任が伴うという
     ことを指した。
  この時は、貴族の二男、三男に向かって言われた言葉
 で・・、
  国民全体に対して義務を果たすというのは第二だった。
  トカゲのしっぽ切りの意味があった(財産争いの二男、
 三男切り)。
  良く言えば、イギリス社会の階級制度を守るため・・
  (参考-2)
  ノブレス・オブリージュの倫理的な議論で・・、
  特権は、それを持たない人々への義務によって釣り合
 いが保たれるべきだという「モラル・エコノミー」を要
 約する際に用いられ・・、
  最近では、主に、富裕層、有名人、権力者、高学歴者
 が・・、
  「社会の模範となるように振る舞うべきだ」という社
 会的責任に関して美しく用いられる。
  「ノブレス・オブリージュ」の核心は・・、
  貴族に、「自発的な無私の行動を促す」という明文化
 されない不文律の社会心理であり・・、
  それは、基本的には、心理的な自負・自尊である・・
  ・・が・・、
  それを外形的な義務として受け止めると、社会的(そ
 して、おそらく法的な)圧力であるとも見なされ・・、
  法的な義務ではないため・・、
  これを為さなかった事による法律上の処罰はないが・・、
  社会的批判・指弾を受けたり、倫理や人格を問われる
 こともある。
  (参考-3)
  モラル・エコノミー(道徳経済)とは、経済的な行為
 や行動を支えている論理の中に、
  人々の道徳的なもの(倫理)がある場合、
  そのような原理で動く経済活動や実践のことをいう。
  しかし・・最近のアメリカは・・、
  モラルの「モ」の字もない・・、
  強くキリスト教を信仰したアメリカ大統領のブッシュ
 (子)の起こした「サブプライム・ローン」などの金融
 トリックは最悪だった(経済的、大破廉恥事件)
.
1901年8月、国産第1号機関車を製作した。
  「汽車会社車両製作回顧」という史料を参考に記す・・
  日本における、民間鉄道車両産業の草分けとして、明
 治29年(1896年)に創立された汽車製造合資会社。
  汽車会社の創立期における日本は、近代重工業国家へ
 向けて、ようやく第一歩を踏出そうとしていた。
  そして、この頃は、高価な輸入車両を、一日も早く日
 本人の手によって作り出そうという願望に燃えていた。
  この頃の日本には、民間で、機関車を製造したメーカ
 ーはなかった。
  しかし、客車等を製造するメーカーは、平岡工場、三
 田製作所、石川島造船所、天野工場が4大メーカーで、
 その他にも、中小メーカーが多く存在した。
  技師長に、外国人を招聘する予定であったが、得られ
 なかった・・、
  そこで、日本鉄道大宮工場の東京帝大機械科卒の長谷
 川正五(1881年~1934年)を引き抜いた。
  1899年(明治32年)の終る頃、当時、最も車輌数の多
 かった1B1形タンク機関車のうち、ダブス社製(後の、
 国鉄500形)の図面を官鉄(現:国鉄)新橋工場から借用
 して、トレースを始めるとともに、材料と部分品をイギ
 リスに発注した。
  第1号機関車の概略は、ジョイ式弁装置、滑り棒は2本
 式、
  台車は、ラジアル式、真空ブレーキと手ブレーキを備
 え、安全弁はラムスボットム式、注水器はノンリフティ
 ング式であった。
  部分品のうち、安全弁は自社製、その他ボイラ用の蒸
 気ドーム・煙室管板・喉板・火室後板などの型曲げ物は、
 イギリスから成形品を購入した。
  動輪は完成品であった。
  このようにして、機関車を製作したとはいうものの、
 実情は、組立作業が大半を占める有様であり、
  第1号機は、明治33年(1900年)7月頃から、第2号機と
 ともに、美濃紙にトレースされた1枚の図面を、各工場で
 持回り、ようやく明治34年(1901年)8月に完成をみた。
  この1号機の受注金額は22,200円で、製作費と荷造費を
 合せて19,510円で完成している。
  1号機完成の頃に、官設鉄道が、寸法や様式などが同形
 でイギリスのスミスウイルソン社から輸入した機関車の
 価格は、24,245円であった。
  この実績からしても、国家経済に寄与した。
  (汽車会社車両製作回顧を参考にした)
.
1917年、アメリカのハリウッドが、映画の脚光を受ける拠
 点として、この頃から、発足した。
  1903年の当時は、農村だったハリウッドは、市制を施
 行するが、
  1910年にロサンゼルス市と合併した。
  20世紀の初めのこの頃、映画の中心地は、ニューヨー
 ク(ニュージャージー州フォート・リー)とシカゴであ
 った。
  特許をめぐる争いが発端となり、当時の大手映画製作
 者や、映画関連機器製造業者、一般製造業者らを含め9社
 が、
  それぞれの特許を持ち寄って管理するモーション・ピ
 クチャー・パテンツ・カンパニーを、1908年に設立した。
  これに参加しない映画関連業者には、カンパニーから
 高額の特許料が請求された。
  参加が認められなかった中小の制作者らは、一斉に、
 これに反発した。
  特許料を払わずに買えるヨーロッパ製の機器やフィル
 ムを使って撮影を続行した。
  カンパニー側は、探偵を雇って違反者を片端から摘発
 したため、独立系の制作者は、カンパニーの目のとどか
 ぬ土地に出かけて映画を制作した。
  中でも、ロサンゼルス一帯は気候もよく、映画の撮影
 には理想的で、クリエイターが集まり始めた。
  また、この地はメキシコに近く、カンパニー側の追っ
 手がやってくることを察知して国境を越えて逃げること
 ができた。
  1912年に、なお、カンパニーは、この年に、反トラス
 ト法違反であると指摘され、
  1915年には、連邦裁判所で反トラスト法違反であると
 された。
  1917年には、カンパニーは消滅し、これに前後してカ
 ンパニー参加業者らも、次々に、ハリウッドへ拠点を移
 した。
  そして、そのアメリカの映画と言ったって、今・現在、
 『未来をテーマにする映画』にせざるを得ない状況。
  過去のものと言えば、インディアンの先住民の方々の
 殺戮・大虐殺となるアメリカ・・
  それ故、過去の映画は作れないアメリカとなっている。
  日本の時代劇のような映画を撮ろうとしたら、先住民
 のアメリカ・インディアンの方々を殺戮し・大虐殺する
 映画にすべてなってしまう。
  アメリカの過去は、西部のアメリカ・インディアンの
 方々の、その総べての土地を奪う話だけ・・それしかな
 い。
  その総べてが、殺戮話でしかない。
  その、あまりの悲惨さに、アメリカは、その様な過去
 の映画は、撮れなくなり、撮らなくなった。
  西部劇は、過去に撮影された「アーカイブス品」しか
 見ることが出来ないアメリカとなった。
  今、あるのは空想の、浅薄な、あるのか? ないのか?
 分からない、子供だまし映画しかないアメリカとなった。
  あまりにも卑劣な過去の歴史の為である・・、
.
1963年、イランのパーレビ国王は、祖国を近代国家にする
 ために、白色革命と称して、日本の近代化政策を手本と
 して、「西の日本となること」を目指した。
.
2002年9月30日、石破茂議員が防衛大臣となる(~2004年9
 月27日)
  石破茂議員は、国賊だと言われている。
  石破茂氏は、「日本は謝罪し続けよ」と言っていない
 と言っているが、韓国では、石破がそう言ったと報道し
 ている。
  中国に関しては、「日本は、中国に謝罪しろ」と、石
 破議員は言った。
  中国のメディアは、中国共産党の影響を大きく受けて
 いて、その影響下の記事となっているが、その様に報道
 した。
  石破事務所は、「中国の報道の通りだ」と言った。
  石破議員は、防衛大臣である時でさえ、「日本の名誉
 を一生懸命守ろうという意思のない大臣」だった。
.
2017年1月22日、この日のニュースに、「在日米海軍の戦闘
 機部隊、まもなく移駐」とある。
  神奈川県の厚木基地に駐留するアメリカ海軍の戦闘機
 部隊が、2017年中に、岩国基地(山口県)へ移駐する。
  南関東で、唯一、戦闘機が配備された飛行場「アメリ
 カ海軍厚木航空施設」。
  この厚木基地は、第二次世界大戦(大東亜戦争)当時
 は、首都圏の防空の要で、日本海軍の局地戦闘機「雷電」
 が配備されていた。
  そして、GHQ総司令官マッカーサーが、降り立った
 地でもある。
  今・現在、アメリカ海軍の航空部隊「第5空母航空団」
 が駐留している。
  これは、横須賀を母港として来た空母「ミッドウェイ」
 「インディペンデンス」「キティホーク」「ジョージワ
 シントン」・・そして、現在の「ロナルド・レーガン」
 が艦載する部隊で・・、
  その配備は、F/A-18E/F「スーパーホーネット」戦闘機
 そして、F/A-18E/Fの派生型EA-18G「グラウラー」電子戦
 機・・約50機。
  そして、E-2C「ホークアイ」早期警戒管制機・・C-2A
 「グレイハウンド」輸送機・・MH-60R/S「シーホーク」
 哨戒・多用途ヘリコプターなどの大所帯。
  因みに、日本には、戦闘機が配備された自衛隊ないし
 在日米軍の飛行場が、北海道から沖縄まで全国12か所あ
 る(ここを、北朝鮮は攻撃すると言っている)
  そして、今回、受け入れる岩国基地では、その受け入
 れに向けた工事が進んでいて、格納庫などの施設はすで
 に建設済となっている。
  そして、厚木基地には、海上自衛隊のP-3Cや、P-1哨戒
 機、UP-3C試験機、C-130R輸送機などは、そのまま残る。
  そして、岩国基地に配備されていたEP-3電子諜報機、
 OP-3C写真偵察機、UP-3D電子戦機、U-36A多用途機などの
 海上自衛隊機が、逆に、厚木基地へ移駐して来る。
  また、アメリカ海軍としての厚木基地がなくなるわけ
 ではなく、厚木基地にはF/A-18E/Fなどの整備格納庫もあ
 り、移駐後も、厚木で整備などがなされる予定。
  今、北朝鮮のミサイルが急速に発達し、技術を得て来
 ているが・・、
  この様な現状に於いて、歴史的事実から思い起こすと・・
  甲斐の武田氏は・・勇猛な騎馬軍団を持って、周囲を
 睥睨(へいげい、威圧するように、周囲をにらむ)して
 いた。
  しかし、新進気鋭の若武者・織田信長が、当時の最先
 端の武器・鉄砲で軍団を作ることを思い立ち、この最先
 端の武器を持った軍団でもって、武田氏の勇猛な騎馬軍
 団を打ち破った。
  今、アメリカは、最新鋭の戦闘機群を持ち、また、原
 子力空母群を持つ・・、
  しかし、北朝鮮の高高度から飛来する夥(おぼただ)
 しいミサイル群に対処する術(すべ)は持たない。
  当然、日本とて同じ。
  過去、石油という生きるための「肝心な生命線」を絶
 たれた日本は、やむなく戦争に突入した・・この様な歴
 史的事実も、同時に、想念する。
  もう、原子力空母群も、最新鋭・戦闘機群も、過去の
 兵器となったのではないか?・・武田氏の騎馬軍団の様
 に・・、
  そして、日本は、ピストルを突き付けられて、「金を
 出せ」と言われたら・・
  金を出すような国になるのか・・?
..
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(増補版)532E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年2月~1891年3月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)532E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年2月~1891年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
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1891年3月1日、東京手形交換所が設立された。
  手形交換所は、一定の地域内に所在する金融機関が申
 し合わせによって、定時に決まった場所へ約束手形や小
 切手などを持ち寄って、その決済交換を行う。
  その場所を言う・・そして・・、
  1879年12月に、16の銀行が参加した大阪手形交換所が
   日本で最初のものであり、
   以後、手形法制の整備に伴って、
  1880年10月、東京でも為替取組所が創設された。
  1883年9月、東京銀行集会所の機関である手形取引所が
   創設され、
  1887年、東京手形交換所がその下部機関として発足。
  1891年3月、日本銀行も参加してロンドンで行われてい
   た銀行が日本銀行に持つ当座預金を通じた振替決済
   が導入された。
    また、この時東京銀行取引の直属の機関となり、
   東京交換所と改称された。
1891年3月1日、大阪鉄道会社線の王寺~高田間が開業した。
1891年3月2日、衆議院で、予算修正案が可決した。
  妥協策に基づき当初予算から650万円が削減された。
1891年3月6日、徳川育英会、育英黌に農業科を設立した。
  後の東京農業大学。
  (参考)黌:コウ、オウ、まなびや(意読み)
  東京農大の原点「育英黌農業科」は、現在のJR中央線
 飯田橋駅近くにあり、
  創立者は、逓信、農商務、文部、外務の大臣などを歴
 任した榎本武揚。
  当時の新聞には、「~専ら実際応用的に教授し~」な
 どと、その実学的な教育を報じた。
1891年3月8日、神田ニコライ堂の開堂式
  東京・神田駿河台に日本ハリスト正教会が、宣教師ニ
 コライによって創建され、開堂式が行われた。
1891年3月9日、第1回帝国議会が閉幕した(3月7日説あり)
  大日本帝国憲法の下で、日本が立憲政治の第1歩を踏
 みだす。
  帝国議会は、貴族院と衆議院の2院で構成され、
  貴族院は、公選制ではなく、皇族や華族と国に功績の
 あった人その他の中から天皇陛下が任命する議員で組織。
  定員は251人、そのうち皇族10人、5等爵のうち第1位の
 公爵10人、第2位の侯爵21人、第3位の伯爵14人、第4位の
 子爵70人、第5位の男爵20人、天皇陛下みずからの選定し
 た勅選が61人、多額納税者が45人。
1891年3月18日、ロンドン~パリ間で国際電話が開通した。
  ロンドン・パリ間に海を越えて電話開通し、両市にて
 盛大な開通式が挙行された。
1891年3月18日、山陽鉄道会社線の三石~岡山間が開業した。
1891年3月19日、立憲自由党が自由党と改称して、板垣退助
 を総理に決定した。
  立憲自由党大会が行われ、党名を自由党と改称し、板
 垣退助を総理に選出した。
1891年3月23日、小口の生糸に対しても、200マイル(321.9
 キロメートル)以上運送するものは、すべて4級の運賃に
 割引(鉄二調甲第106号)
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国が、破たんすると予測されている。
.
紀元前3世紀頃、朝鮮の紀元前3世紀頃、前漢初期に、衛氏
 朝鮮が中国に冊封されて以来・・、
  1895年に、日清戦争で、日本が清を破り、下関条約に
 よって、朝鮮を独立国と認めさせるまで、ほぼ一貫して
 中国の冊封国であった。
  以上の様に、韓国・朝鮮は、中国に冊封(さくほう)
 され続けて来た。
  また、生き延びるために、冊封されるしかないと判断
 され、冊封された。
  それは、一面、ともに苦しむべき可哀想さを感じるが、
 中国は、冊封者として傲慢に振る舞った。
  韓国・朝鮮が、それに怯(おび)え、卑下(ひげ、自
 分をあえて低い位置に引き下げてへりくだること)する
 態度に、傲慢に振る舞う中国があった。
  韓国・朝鮮は、中国の使節に若い娘を差し出してまで
 して、至れり尽くせりの接待をした。
  また、毎年、数千人の美女を献上したという記録もあ
 る(その様な主従関係下に置かれた)。
  韓国・朝鮮の長い冊封の時代は、その様な主従の関係
 で続いた。
  韓国・朝鮮は、国の誇りを捨ててまでして、生き延び
 ざるを得ない状況下の冊封体制に置かれた。
  中国の冊封は、そこまで要求した。
  (参考)冊封(さくほう)とは、称号・任命書・印章
    などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・
    諸民族の長が取り結ぶ君臣関係(宗属関係/「宗
    主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係。
  中国王朝は、その国力と中華思想を背景に、近隣諸国
 との外交関係樹立において、臣下の礼を求め、そして、
 交易や対外的な権威を相手国へ認めた。
  しかし、当の中国の歴史教科書には、この東アジアの
 外交秩序は、中国を中心とする「冊封体制」で成り立っ
 ていたという説明は、まったくない。
  韓国も、ほんの少しが説明されているだけ。
  また、日中関係で、奴国王、卑弥呼、倭の五王なども、
 別に中国の皇帝から認められる前から王だった。
  中国との対外関係に有利なので、肩書きをもらっただ
 けで継続的な冊封関係ではない。
  故に、日本が、中国に対して対等だったという事は、
 百済に対する日本の支配権を、中国が認めなかったので、
 日本から国交を断絶している。
  また、懐良親王や足利義満の日本国王は、中国側もそ
 の上に天皇陛下が居られることを認識し、そして、承知
 していた上での交流だった。
  日本は、中国とは、気ままに、必要があれば、ときど
 き交流していただけで、朝鮮などと同じ冊封にあったの
 ではない。
  また、明治期に於いても、日清修好条約は、完全な対
 等条約だったし・・、
  さらに、副島種臣は、中国皇帝に三跪九叩頭なしに拝
 謁することを認めさせ、それまで外交使節が皇帝に会え
 なかった西洋諸国も、やっと、この問題から解放された。
  そして、日清戦争の日本の勝利などを経て、朝鮮、琉
 球、ベトナム三か国との冊封関係も、近代国際法におい
 ても解放した。
  (参考)三跪九叩頭礼:さんききゅうこうとうれい、
    臣下が皇帝に対面するときの儀式で、3度ひざま
    ずき、そのたびに3回ずつ頭を床につけて拝礼す
    るもの。
.
1865年4月14日、この日、アメリカ大統領リンカーンが暗殺
 されたが・・、
  この事件を考える上で、南北戦争に於いて、その戦費
 が、どこから調達されたかを見ることが、重要な視点と
 なる。
  アメリカのこの戦争の場合、南部は、イギリスのロス
 チャイルド家から借金をして、戦費を調達した。
  この時、ロスチャイルド家は、30%もの高利率の利息
 を要求し、取った。
  一方、北部はリンカーン大統領で、自国の財務省に通
 貨を発行させ、戦費を賄(まかな)った。
  北部は、金融資本から借金をしないどころか、自ら通
 貨を発行するという行為に出た。
  この様な行為、通貨発行を始めると、ロンドン・シテ
 ィーの国際金融資本にとって大きな痛手となった。
  通貨発行権を握って、ボロ儲(もう)けのパターンが
 崩れたからだった。
  当時の「ロンドン・タイムス」の社説は、以下の様に
 記した・・、
  「アメリカ政府は、通貨をコストをかけずに供給する
 事になる。
  そうするとアメリカ政府は債務を完済し、債務のない
 国になる。
  アメリカ政府は、商業活動上、必要な総ての通貨を所
 有する事になり、文明国の中で、市場類のない繁栄を謳
 歌する事になる。
  総ての国も、人材も、富も、アメリカ合衆国に移動し
 てしまう。
  だから、アメリカ政府は、打倒されるべきである。
  さもなければ、アメリカ政府は、地上のすべての君主
 国を破壊するだろう」。
  これほど強い危機感を、イギリスは、通貨発行権を失
 って感じていた。
  そして、1865年4月14日、リンカーンは暗殺された。
.
1910年、相次ぐ西欧諸国の干渉は、清朝のチベットの宗主
 権を反故(ほご、約束や決まりなどを取り消したり、破
 ったりする。無効にする。破棄する)にしようとした。
  そこで、四川省西部のチベット、カム地方には、中国
 農民の移住が行われ、東チベットは、1910年、西康省と
 なった。
  北京から帰国の途、清朝の侵略ぶりを見聞したダライ・
 ラマは、1909年に、軍の撤退を要求した・・が、
  翌年・1910年、四川軍がラサに進駐し、ラサ市内で発
 砲する暴挙を行った。
  そこで、ダライ・ラマは、ロシアに避難しようとした
 が、種々の障害によりイギリスの勧告に従いインドに非
 難した。
  こうして、ダライ・ラマは、親露政策を転換してイギ
 リスの武力援助を要請した。
  ところが、1911年に、辛亥革命が起こり、四川軍の勢
 力は衰退していったのを機に、
  翌年・1912年、ダライ・ラマは、ラサへ帰り、残存軍
 を一掃し、チベットの完全独立と漢人の追放を宣言した。
  一方、中華民国の大統領・袁世凱は・・、
  「チベットは中国本土の各省と同等の地位に立つ」と
 の声明を発表した・・が、
  イギリスは、袁世凱に対して、中国のチベットに対す
 る宗主権の『否定』などの要求を通達した。
  ここが、現代のチベット問題の始まりで・・、
  この時、ドルジェフによりモンゴリアとチベットは、
 再接近しようとしていた。
  (参考)モンゴリア:モンゴル族の居住地であるモン
     ゴル国を中心に、中国の内モンゴル自治区やロ
     シア連邦のブリヤート共和国などから成る、シ
     ベリアの南、万里の長城の北に広がる広大な高
     原状の地域。
  そして、両国は、1913年、蒙蔵条約により互いに独立
 を承認しあった。
  その後、この状態の収拾のためシムラ会議といわれる
 イギリス、中国、チベット三者会談が実現した。
  この会議での中国の主張は
  1、 チベットは、中国領土の一部である。
  2、 中国は、駐蔵大臣をラサに駐在させ、従来通りの
   権利を有する。
    かつ、衛兵2600人中1000人はラサ駐在、ほかの1600
   人は各地に分駐させる。
  3、 チベットの外交軍事事務は、中国中央政府の指示
   を受けて行うこと。
    中央政府の許可なしに外国と訂約できない。
  4、 チベット人で中国人のために監禁され、財産没収
   されたものは全て釈放返還のこと。
  5、 中国とチベットの国境は、この文章の附図に示し
   たとおりとする。
  英国の主張は
  1、 中国は、チベットの独立を承認する。
  2、 チベットの国境は、崑崙安定塔以南、甘粛省西部、
   四川省打箭炉及び雲南省阿敦子以西に至る。
    新疆省と青海はそのうちに含めるものとする。
  3、 イギリスは、チベットと単独に通商条約を締結す
   る。
  4、 中国軍隊は、チベットに駐屯してはならない。
  5、 中国は、チベットから強奪した財産は賠償する
   こと。
  チベットの主張は
  1、 チベットの独立承認。
  2、 チベットの領域は、青海、リタン、パタン、打箭
   炉を含む地域とする。
  3、 1893年、及び、1908年の印蔵通商条約は、英蔵両
   国にて改訂する。
  4、 中国は、官員をチベットに置くことはできない。
  5、 中国、蒙古各地寺廟は、ダライ・ラマが教主であ
   ることを認め、ラマを派遣してこれを維持すること。
  6、 中国は、強制徴収した税金、及び、蔵人の受けた
   一切の損失をことごとく賠償すること。
  ・・となっているが、
  英蔵側と中国側の意見には、はなはだしく離れており、
 討議は6ヶ月続いたが、結局、シムラ会談は決裂し、イギ
 リスとチベットのみにより、調印が行われた。
  この結果、現在も、中国側は、宗主権は昔のまま存続
 すると考え、
  チベット側は、ダライ・ラマの独立宣言は、あくまで
 有効であると考えた。
  チベット問題の起因は、1959年に起こったチベット動
 乱よりも以前から始まっていた。
  チベット問題を解決するためには、これらの史実を十
 分に認識した上で、互いの民族が互いの民族を理解しよ
 うとすることが大切。
  互いの理解がないうえで問題を解決しようとしても、
 そこに誤解が生まれ、憎みあう結果になる。
  1959年以降、100万を超えるチベット人が、中国軍に
 よって殺されたり、
  また、政治犯として捕らえられ、そして、その結果、
 死亡したり、
  物価の上昇を起因とする飢餓によって死んでいる。
  互いに互いを理解することが最低条件である。
.
1913年1月、ダライラマ13世は、亡命先の英領シッキムから
 チベットに帰還し、
  1913年2月に、国民に向けて有名な布告文をだした。
  この時のダライラマ13世による『布告』の時点で、チ
 ベットは独立国家であると判断された。
  各主張は・・、
  ①チベットの主張:「チベットは自由な独立国である」、
  ②中国(清末新政期の清朝と中華民国と中華人民共和
   国)の主張:「チベットは中国の主権(sovereignty)
   下にある」・「中国のチベットに対する主権」(チ
   ベットを付庸国・付属国にあたる属国ではなく、中
   国本土の省と同等の属地とする)、
  ③英国と英領インドの主張:「チベットは中国の宗主
   権下にある」・「中国のチベットに対する宗主権と
   チベットの自治(自治権)」である。
.
1945年7月8日、アメリカ国内で、ドイツ人捕虜の殺害事件
 (真夜中の虐殺)が起きた。
  ユタ州サライナの捕虜収容所で、収容されていたドイ
 ツ人捕虜が、機関銃で銃撃され、9人が殺害され、20人
 が負傷した。
  因みに、すでに、2ヶ月前の1945年4月30日に、ヒトラ
 ーは自殺し、ドイツは降伏しており、この事件は、ドイ
 ツ降伏後に起きた。
.
1945年12月31日、アメリカ占領軍組織のGHQは、日本で
 教える「修身」や「日本史」「地理」を教えるなと、「
 停止ニ関スル件」を発令した。
  修身、日本史、地理の授業は中止となり、教科書は回
 収された。
  アメリカの卑劣なやりたい放題の命令だった。
.
1962年、終戦後の1962年に、藤田飛曹長は、オレゴン州ブ
 ルッキングス市から招待を受けアメリカに渡った。
  そして、同市市民から「歴史上唯一、アメリカ本土を
 空襲した敵軍の英雄」として大歓迎を受けた。
  そして、同市の名誉市民の称号が贈られた。
  そして、今日の話・・、
  まったく安易に、キリスト教は、隣国の富を奪いに行
 く・・そして、キリスト教の神の義(正義)があるとす
 る。
  飢餓に襲われ自民族を救うために、その様にして良い
 と教え・・、隣国の富は生きる糧(かて)として奪って
 良いのだと、キリスト教は洗脳し、キリスト教の聖書に
 書き、キリスト教の神の正義まであると思い込ませた。
  キリスト教は、種々の洗脳事項を聖書に書き、洗脳し、
 正義のように錯覚させた。
  今・現代でも、この様な洗脳がなされており、話され
 ており・・そして、その錯覚によって、人類の不幸が多々
 起きている。
  アメリカ大統領のブッシュは、イラクへ近代兵器を使
 って、持ち込んで・・攻め込んだ。
  キリスト教に洗脳されたアメリカ大統領ブッシュは、
 この戦争を、「現代の十字軍だ」と叫んだ。
  アメリカは、この洗脳によって、また、この錯覚によ
 って、本当に多くの国へ、「独りよがりの正義感」で、
 錯覚で、大悪行をした、攻め込んだ。
  今・現代になっても、この恐怖の行為は、北朝鮮を震
 え上がらせ、原爆開発をさせている・・、
  また、大陸間弾道弾・ミサイル開発を、躍起になって
 やる状況となっている。
  キリスト教の思想に端を発した北朝鮮の原爆開発と大
 陸間弾道弾開発となっている。
  人類は、限りなく絶滅の危機の危機に迫っている。
  日本は、第二次世界大戦(大東亜戦争)の時・・、
  潜水艦に飛行機を、戦闘機を載せ、格納し、アメリカ
 まで行って、アメリカ本土を爆撃した。
  その日本の攻撃機は、アメリカのどこにでも、その爆
 弾を投下できたが、その攻撃機は、爆弾を、アメリカの
 山の中に落とした。
  帰還したその攻撃機の兵士・搭乗員は、上官より「山
 林の木の二・三本、焼いただけではないか」と言われた。
  アメリカは、この時、戦争に勝ちに勝っている時なの
 で、まさか、日本の攻撃機が、アメリカ本土へ来て、日
 本の攻撃によって、山が火事になったとは思えず、
  しばらくの間、山火事が発生したと思っていた。
  日本のその兵士は、責任を問われたわけでもなく、戦
 後も生き、長生きをして戴いている。
  まだ、その様な兵器が日本にあると、まったく知られ
 ていない時、
  ホワイトハウスでさえ爆撃できたであろう・・また、
 ニューヨークの人々が、大勢集まる所にも投下できたで
 あろう・・が、日本は、アメリカの山林で良しと・・日
 本は・・その様に判断した。
  この時点で、最適な場所だと判断された。
  一人も、アメリカの方を殺していない。
  日本は、その様な国。
  後日談だが・・、終戦後の1962年に、藤田飛曹長は、
 オレゴン州ブルッキングス市から招待を受けアメリカに
 渡り、同市市民から「歴史上唯一アメリカ本土を空襲し
 た敵軍の英雄」として大歓迎を受け、同市の名誉市民の
 称号を贈られた。
  また、その時、同市市民から藤田飛曹長が投下した焼
 夷弾の破片を贈られた。
  その破片からは、かすかに火薬の臭いがしたという。
  なお、藤田飛曹長は、戦争中、軍刀として用いた愛刀
 をブルッキングス市に寄贈した。
  この招待は、外務省を通じて伝えられたが、当の本人
 には招待の趣旨が知らされていなかったため、現地に到着
 するまで「戦犯として収監されるのかもしれない」と思
 っており、寄贈した軍刀は、戦後も密かに所持していた
 ものを、収監されそうになった時には自決するため、荷
 物に忍ばせて持参したものであった。
  その後、藤田飛曹長は、贖罪の意味を込めて同市に植
 林を行ったり、同市市民を日本に招待するなど、日米友
 好に残りの半生を費やした。
  また、そのような貢献を受けて、後に、ロナルド・レ
 ーガン大統領よりホワイトハウスに掲揚されていた星条
 旗が贈られた。
  なお、かつての爆弾片と星条旗は、茨城県土浦市の「
 まちかど蔵野村」に保存公開されていたが、2015年11月
 現在遺族に返還されている。
  このエピソードは、1995年12月29日放送の「たけし・
 さんまの世界超偉人伝説」(日本テレビ)で取り上げら
 れ、藤田飛曹長本人も出演している。
  しかし、日本では余り知られる事がなかった事もあり、
 ゲストで出演していた元海軍軍人の西村晃も、「この話
 は全く知らなかった」と発言している。
.
1965年、アメリカは、男女差別が無いように見えるが、ま
 た、男女差別が無いように見せているが、実際は違う。
  その為に、1965年、ジョンソン大統領は、大統領行政
 命令第11246号を発令した。
  それは、こんにちまで効力を有させている。
  それほど、アメリカには、男女差別がある。
  そのような措置が必要なアメリカ。
.
1968年、日本のトキは絶滅したが、NHKは、このトキの
 絶滅につながる行為をした。
  この年に、NHKが、トキの営巣地である黒滝山上空
 にヘリコプターを飛ばし、空撮を行った。
  その爆音の影響で、その翌年の1969年に、トキが、黒
 滝山の営巣地を放棄した。
  トキは、人里近い両津市へ移動してしまった。
  この様なNHKの常識外れの行為が、番組が放送され
 るまで、その様な空中撮影が行われていると気付く人は
 居なかった。
  しかも、この様な空中撮影は通年に渡って行われてい
 た。
  しかし、番組の責任者は、ヘリコプターを飛ばしたの
 は一度だけと言った。
  そして、営巣期を避けた・・と、
   1981年1月11日~1月23日に、佐渡島に残された最後の
 野生のトキ5羽が、すべてが捕獲された。
  そして、佐渡トキ保護センターにおける、人工飼育下
 に移された。
  しかし、回復は出来ずに、日本の野生トキは絶滅した。
.
2000年、怪しいメディア
  スパイ容疑で北朝鮮に逮捕され、拘留された日本経済
 新聞の元記者の杉島隆という人が居る。
  結局、この年に、1年半の拘留の後に、杉島氏は釈放さ
 れた。
  しかし、この時、TBSが怪しいニュースを報じた。
  TBSは、特ダネの様に・・、
  「現在、北朝鮮に拘留中の杉島氏に死刑判決が出まし
 た」・・と、間違いニュースを報じた。
  実際は、釈放されたのであって、何で、こうなったか?
  これは、北朝鮮からTBSに、偽の間違った情報がリ
 ークされ、流されたのを、TBSは、特ダネ的に放送し
 たのだった。
  TBSは、北朝鮮と、この様なニュースが流れる関係
 を持っているという事を示した。
  また、不思議な事に、この時、北朝鮮の取調官(北朝
 鮮という国の官吏)が、この釈放された日本経済新聞元
 記者の杉原氏に、「日本のメディアは、お前のことをち
 ゃんと報道するからな」と言っていたという。
  TBSと北朝鮮の怪しいつながりがあると言える。
.
2025年、中国が、破たんすると予測されている。
  フランスの経済学者で、ミッテラン大統領の補佐官や、
 欧州復興開発銀行の初代総裁を務めたジャック・アタリ
 氏は、著書「21世紀の歴史、未来の人類から見た世界」
 で・・、
  「2015年には、いずれにせよ中国共産党の76年間にわ
 たる権力に終止符が打たれるであろう」・・と、予測し
 ている。
  中国への投資が無駄になりかねないウォール・ストリ
 ートの連中の中で、目先の効くものは、すでに中国から
 投資を引き上げている。
  また、すでに、ゴールドマン・サックスは、中国から
 撤退している。
  そして、中国の経済成長が止まれば、「世界の工場」
 としての機能の見切り時と、中国のそのステージの終了
 となると予測されている。
  今、中国政府は、中国経済を盛り上げようと、推進し
 ようと、躍起になっている。
  因みに、2017年1月6日、ブルームバーグが報じたとこ
 ろによると、
  ゴールドマン・サックスは、中国人民元は、2017年も、
 2016年と同様に、じりじりと下げるとしている。
  BRICS(ブリックス)から中国(C)を除いた、
 BRIS(ブラジル、ロシア、インド、南アフリカ共和
 国)通貨の上昇にかける取引を「堅持」するよう投資家
 に呼び掛けている。
  ブルームバーグは、中国は、トランプ大統領の保護主
 義的政策などの影響を大きく受けるからとしている。
  また、中国を除いたBRISは、輸出面で、アメリカ
 の労働力と、直接、競合する度合いが小さく、リスクが
 少ないとされている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)531E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年2月~1891年2月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)531E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年2月~1891年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年2月26日、板垣退助が、立憲自由党を離党した。
  少し振り返る形になるが・・
  大同団結運動の主導者・後藤象二郎が、1889年3月、突
 如、黒田清隆内閣に入閣するに及んで、入閣賛成派と反
 対派が激しく対立し、大同団結運動が分裂状態に陥った。
  この時、板垣は、後藤や河野広中に説得されて上京し、
  1890年5月、愛国公党を組織し、大同派の団結を図った。
  1890年9月、板垣らの努力で愛国公党、自由党、大同倶
 楽部(くらぶ)は合同し、立憲自由党を結党して民力休養、
 政費節減を掲げて政府攻撃に乗り出したが、
  板垣は、第一議会開会中の1891年2月、土佐派議員が政
 府に買収された責任を感じて離党した。
  1891年3月には復党して党総理となり、
  1895年には、伊藤博文内閣との協力関係を進め、
  1896年4月、内務大臣となる。
  1896年9月、内相を辞し、党活動に専念し、
  1898年、憲政党内閣のもとで、ふたたび内務大臣とな
 ったが・・
  1898年10月、辞職した。
  その後、政治活動から身を引いて社会問題に専心した。
1891年2月27日、帝国議会の衆議院が、中江兆民の辞表を受
 理した。
  中江兆民は、民党を結成しようと奔走し、
  1891年9月、立憲自由党が結党された。
  そして、『立憲自由新聞』の主筆を務めたが、自由党
 土佐派の裏切りによって政府予算案が成立した。
  兆民は、このことに憤り、1891年2月に辞職した。
  その際、「小生事、近日亜爾格児中毒病相発し、行歩
 艱難、何分採決の数に列し難く、因て辞職仕候。此段御
 届候也。」という辞表を提出した。
  自身をアルコール中毒と主張する辞職願は、僅差で承
 認されたが、政府の土佐派切り崩し工作への皮肉である
 という批判を受けた。
1891年2月28日、九州鉄道会社線の遠賀川~黒崎間が開業
 た。
1891年2月、横川~軽井沢間の軽井沢側から着工された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:日本は、いざという時にはやりますという、精緻な、
    且つ、超強力な、防衛体制の構築のため・・
     論議を尽くして行かなければならない。
.
1606年、アメリカの植民地化の勅許状が出た。
  誰がその地に居ようが、「その地をイギリスのものと
 せよ」とのイギリス王の命令書が出た。
  イギリスのジェームス一世は、北アメリカの恒久的な
 イギリスの植民地とする勅許状を出した。
  そして、この年・1606年に設立されたロンドン会社(
 後のヴァージニア会社)が、
  翌年・1607年に、105人の植民者の一団を、新大陸・ア
 メリカへ送り付けた。
  その北アメリカの地の植民地化の命令を出したイギリ
 ス王の名を取って『ジェームズタウン』と名付けた。
  ここが、北アメリカにおける、イギリスの最初の植民
 地であるヴァージニアとなった。
  最初、入植者たちは金銀を求め、漁(あさ)った。
  それは、16世紀に、メキシコやペルーなどの中米南米
 など広大な地で、掠奪や殺戮の限りを尽くし、殺人鬼と
 化していたスペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者
 たちが、金銀を求める姿と同じだった。
  また、儲けの要である東洋への通商路を求めた。
  数年間、探索が試みられた。
  それに、植民者としての新天地のその生活との闘いの
 日々だった。
  1609年~1610年の冬は、特に、厳しい寒さで、「餓死
 の時期」と呼ばれた。
  当時、500人を超える植民者たちが居たが、餓死などで
 60人に減っていた。
  厳しい生存状況の中で、多くの生命が失われた。
  生き残った者たちは、その厳しさに耐えられず、植民
 を断念しようとさえした。
  生きる事がおぼつかない植民者たちの「一攫千金の夢」
 は潰え去っていた。
  この窮地を救ってくれたのが、先住民であるインディ
 アンの方々だった。
  まったく、ここに、厚い厚い恩が生まれているのだが・・?
  インディアンの方々は、命がけで、この厳しい冬期を
 越える事を教えた、そして、危機を救った。
  しかし、しかし、この危機の時期が過ぎ去ると、この
 様な破たん寸前の危機を救って戴いた恩があるのに・・?
  喉元過ぎれば熱さを忘れる・・この植民者たちの恩忘
 れの輩たちだった・・このインディアンの先住民の方々
 を追い出しにかかった・・その土地が欲しい・・だった・・
  そして、インディアンの方々を殺戮して行く。
  1919年には、イギリスは、たくさんの植民者と年季奉
 公人と称する人間を送り込んだ。
  これは、オーストラリアでもやった事と同じように、
 イギリス本国で不要になった人たちを、「物を片付ける
 が如く」に棄民した。
  キリスト教徒は、恩や縁ということを簡単に捨てる・・、
  だからイギリスも、よく、この様に、国民を棄民した。
  (アメリカは、黒人の方々を棄民した・・あのリンカ
 ーンが・・)
  この時も、その棄民をした。
  ロンドンの町の道端に居る極貧者を、連れ出して行き、
 かり集めて、アメリカへ送り込んだ。
  ロンドン市は、その促進のために税金から金を出した・・
 支出した(あたかも人間の・・ロンドン市民の清掃事業
 であった・・卑劣である)。
  また、女性も、「植民地花嫁」として送り込んだ。
  花嫁を得た植民者は、120ポンドの煙草を支払った。
  名目は美しく渡航費と称したが、あたかも女性を買う
 がごとくの行為だった。
  そして、この1619年8月20日には、さらに悪い事をしで
 かしていた。
  人類史上の最悪の大汚点である「アメリカの奴隷貿易」
 が始まった。
  キリスト教の聖書に書かれた「奴隷狩り」の教えの如
 くの行為が行われた。
  オランダ船が、20人のアフリカの方々を奴隷として、
 ジェームズタウンに連れて来た。
  アメリカ人は、卑劣にも、このアフリカの方々を奴隷
 として買った。
  アメリカ人たちは、この行為を『輸入』と称した。
  意識の遅れた者どもだった。
.
1960年代、アメリカは、この頃になって、やっと、黒人か?
 否か?の記入を・・自己申告制にした。
  キリスト教は、有色人種を蔑視して来た。
  キリスト教の歴史は、その最初から、その差別の歴史
 だった。
  そして、人々へ、その教義を刷り込んで来た。
  キリスト教の聖書に書かれている「奴隷狩りの行為」、
 それは、隣国の民を、安易に奴隷にした。
  聖書で、キリスト教の神は、隣国に攻め込み、隣国の
 民を「奴隷にせよ、奴隷にせよ」と叫んだ・・そして、
 その行為を、キリスト教の神の「正義だ」とした。
  キリスト教国のアメリカは、アフリカの黒人の方々を、
 長い期間、奴隷にして来た。
  そして、黒人の方々を虐げてきた。
  WASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)
 の白人のキリスト教徒たちは、黒人の方々を奴隷として
 使い、そして、蔑んだ。
  この大汚点の歴史が・・アメリカに残った。
  本当い軽蔑すべき行為だった。
  国勢調査や、色々な人口統計において、アメリカは、
 「白人」「黒人」「その他の人種」と書くことを要求し
 た。
  それは、特に、黒人の方々を差別するためのものだっ
 た。
  「黒人であるか否か」を知るためのものだった。
  この事を端緒にして、黒人の方々は卑劣な差別を受け
 た。
  少しでも黒人の血が入っていれば、「黒人と記せ」と
 要求された。
  決して「白人」とはしなかった。
  国勢調査局は、「黒人の血の割合が、どんなに少なく
 ても黒人として申告しなければならない」と指示した。
  卑劣である。
  1960年以降になって、やっと、黒人の方々にも「自己
 申告制」が採用され、黒人と記すのは本人次第と、やっ
 と、なった。
  しかし、1970年に制定されたルイジアナ州法では、32
 分の1以上の黒人の血が混じっている住民は、「黒人とす
 る」とされた。
  そして、出生、結婚、死亡などの証明書には、その人
 種を記せとされた。
  黒人の詩人であるラングストン・ヒューズは、「アメ
 リカ合衆国では、黒人という言葉は、ともかく血管の中
 に、いくらかでも黒人の血が流れている者には、誰にで
 も適用されるのだ」と嘆き、詠った。
  この事は、「たとえ、白人の血が、いかに多くても、
 黒人の血が一滴でも確認されれば、その人は、「白人」
 ではなくて、れっきとした「黒人」だという事」を意味
 された。
  「白い黒人の悲劇」が生まれた。
  今まで、白人だと誰もが思っていた方が、ある時、何
 かのきっかけで、黒人の血が、一滴でも混じっているこ
 とが判明すると、
  その瞬間から、その人は、黒人として、白人社会から
 黒人社会へと追い返された・・追放された。
.
2005年12月29日、韓国の廬武鉉(ノムヒョン)大統領は、
 「親日反民族行為者財産の国家帰属に関する特別法」、
 別名「親日派糾弾法」を公布した。
  日本が、誠実に朝鮮半島・韓国の国づくりをしたこと
 は顧(かえり)みられなかった。
  日本から朝鮮半島・韓国へ、莫大な資本を持って行っ
 て朝鮮半島を創って行った善意はまったく顧(かえりみ)
 られなかった。
  そして、逆に、その行為を無視し、日本に協力して「
 国造りに励んだ人々」を吊(つ)るし上げた。
  日本の統治時代に、日本に協力した人間は、その子孫
 の財産までも、その全部を、没収するという法律だった。
  恐ろしいまでも事実誤認をして、罪に落とす法律だっ
 た。
  また、これは、過ぎ去った過去を罰するという、やっ
 てはいけない行為となっている。
  国際的にもやってはいけないとされている「非難され
 るべき非常識行為」である。
  例えば、もし、あなたが、以前に酒を飲んだからと、
 今、その行為を罰するという法律(禁酒法)を作って、
  その法律が出来たからと言われ、そして、逮捕された
 ら・・?
  あなたは、どうしますか?
  こんな事、あり得ますか?
  また、今、住んでいるあなたの家が、過去のある時に
 建てたその家が、その時は合法だとされ、建築許可され、
 そして、建築したのに・・、
  今、過去にさかのぼって・・その家は違法だという法
 律ができて、法律違反だとされ、「あなたの家は取り壊
 せ」と、命令が出されたら、あなたは、従いますか?
  どう思いますか?
  国際的にも・・「このような事は出来ない」とされて
 いて、
  また、常識的にも、この様な事を、国家が行なっては
 いけない事となっている。
  しかし、韓国は、この様な事をした・・行った。
  この様な法律を作って、親日家を虐(いじ)め、そし
 て、その人々を潰した。
  そして、韓国国民の方々へ反日感情を煽(あお)った。
  また、この法律で、遡(さかのぼ)って、「李完用(
 りかんよう)」という人を売国奴だとされた。
  その他の人々にも、さかのぼって、日本に協力したと
 した人々をリストアップして、卑劣な糾弾(弾圧、嫌が
 らせ)行為をした。
  朝鮮戦争の英雄の、白善燁 (ペクソンヨプ) 将軍まで
 も糾弾された。
  反日意識が、朝鮮・韓国の国民の方々へ刷り込まれた。
  そして、現在、韓国に在住する、韓国へ行った家族の
 日本人の子弟・子供(仕事などで韓国へ行った日本人子
 弟)に対し、慰安婦を強制連行する様な日本人の子だと、
 虐(いじ)めが行われている。
  変に煽る韓国政府・・異常に煽る韓国政府が、ここに
 ある。
  問題を吹き返している。
  また、日本が統治したと言ったって、そのほとんどが、
 朝鮮の方々によって行政・政治などが行なわれた。
  その8割以上の方々が、多数が、朝鮮の方々だった。
  この事実が、ユーチューブに公表されるや、日本の公
 共放送のNHKは、直ちに、必死に、削除した。
  公正であるべき公共放送のNHKの異常な行動だった。
  韓国の異常行動を糾弾する行為を覆い隠すNHK、「
 事実を隠す行動をするNHK」だった。
  親日であれば、真実を捻じ曲げてまでして監獄へ入れ
 るという韓国の現状を伝えないで、韓国を庇(かば)う
 NHKだった。
  韓国の最高裁までもが、この行政の行動に追従した。
  この裁判で判明したことだが、登記簿謄本までも、書
 き換えるという、考えられないレベルの異常行為がなさ
 韓国だった。
  韓国は、国際的な常識も通じない国となっている・・
 そして、その国政は、シッチャカ、メッチャカとなって
 いる。
  国民の方々が、可哀想な状態である。
.
2010年、韓国系アメリカ人
  2010年のアメリカの国勢調査では、韓国系アメリカ人
 は、約170万人で、アメリカの総人口の約0.6%を構成して
 いる。
  因みに、日系アメリカ人は、2005年の国勢調査におい
 て122万人強で、アメリカ合衆国の総人口の0.4%を占めて
 いる。
  2011年の調査では、アジア系アメリカ人の内訳では、
 中国系、フィリピン系、インド系、ベトナム系、韓国系
 に次いで、日系アメリカ人は6番目となっている。
  そして、この在アメリカの韓国系アメリカ人が、慰安
 婦問題をアメリカで煽っている。
  しかし、北アメリカの日系人は、韓国系アメリカ人や
 中国系アメリカ人などと比べると、民族街に集結したり
 することが少ない。
  特に、アメリカでは、第二次世界大戦において、差別
 的な、そして、違法で異常な強制収容される歴史があり、
  また、アメリカに対する忠誠を誓う日系兵士の奮戦な
 どの努力もあり、
  強制収容されるときは、不動産などの財産を失うとい
 う苦しみもあり、
  その様な歴史から、日系アメリカ人は、あまり民族性
 を出さずに、民族的に集結するようなことも控え、同化
 するように努力していた。
  しかし、韓国系アメリカ人は、この対極の状態に居た。
  アメリカに渡った韓国系アメリカ人は、競合の少ない
 黒人街の貧困地域で商売を始めた。
  ここで、黒人の方々を差別した。
  従業員に、黒人の方々ではなく、ヒスパニック系を雇
 用した。
  そして、民族的にも集結し、閉店後は、「韓国人街」
 へ帰った。
  この様な行動から、黒人の地元住民の方々から、自分
 たちだけでまとまって、「自分達を差別しながら、自分
 達から儲けている連中」と思われた。
  この様な事から、1992年4月29日のロスアンゼルスの
 「黒人暴動」とか、「ロス暴動」と差別的に白人たちが
 呼ぶ、黒人の方々の「差別撤廃を訴える行動」が・・、
 この時、韓国人商店襲撃へと結びついた。
  韓国系アメリカ人は、この様な状況になる様な事を行
 なっている。
  また、韓国系アメリカ人は、ヒスパニック系アメリカ
 人やインド系アメリカ人などとも、色々、トラブルを起
 こしている・・この様な差別的行為が、あまりにもひど
 いので、アメリカ国内で問題となり騒がれた、そして・・
 この様な民族性がある・・少なくとも、温厚な民族性で
 はない。
  氏より育ち・・というが・・同情すべき歴史の中にあ
 った。
  (参考)氏より育ちとは、人間を形成するときに大事
    なのは、家柄よりも教育や環境であるということ。
     日本は、幸いにして、豊かな、そして、様々な
    文化の中に育まれた長い歴史の中にある・・、
.
2012年8月10日、韓国の李明博大統領が、明らかに日本の領
 土である竹島に上陸するという行為をした。
  李明博・韓国大統領は、「日本の右傾化に歯止めをか
 けるため(上陸した)」と発言した。
.
2012年8月14日、韓国が、日本の天皇陛下の謝罪の土下座を
 要求した。
  李明博・韓国大統領の発言、「天皇が足を縛って跪
 (ひざまづ)く土下座をするなら、(日本へ)訪問して
 もいい」だった。
  日本のメディアは、何故か?これを、ほとんど報道し
 なかったが、一部の報道機関だけが、多くを修正して報
 道した。
  日本の天皇陛下が侮辱された発言に対し、日本のメデ
 ィアのほとんどが、韓国を庇(かば)った。
  韓国を糾弾する日本のメディアは、ほとんどなかった。
  報道の中立性が、まったくない日本の報道機関だった。
  この様な暴言を許してしまう日本の報道機関。
  正義を追求し、闘うという姿勢が、まったくない日本
 の報道機関だった。
  常識ある国の状態を逸脱した国であっても、その侮辱
 発言は、常に、正すという姿勢の報道機関であらねばな
 らない。
.
2013年、この年の韓国は異常に感じた(いつもだとの声が
 聞こえるが・・?)
  そこで、以下の事が言いたい・・、
  韓国は、今まで、中国の冊封思想・冊封態勢の意識の
 下にあった。
  遠い昔から、中華の冊封思想の影響下にあった。
  そして、現在、韓国は、アメリカが心配するほど、そ
 の冊封思想の中国に歩み寄った。
  アメリカ離れがあった。
  そして、アメリカと体制を共にする日本からも離れた。
  それ故、韓国は今、特に、李朝時代の冊封体制に入る
 かどうかの瀬戸際にある。
  中華の冊封体制下に入るかどうかの是非が、真剣に韓
 国に問われている。
  重要な課題となっている。
.
2017年、北朝鮮のミサイル開発が急進展している。
  北朝鮮の国民の方々にとっては、アメリカが、北朝鮮
 を「悪の枢軸」と呼び、また、アメリカから、「テロ国
 家」と呼ばれた。
  当時、その様に呼ばれたイラクは、アメリカから攻撃
 され、国もメチャメチャにされ、そして、滅びた。
  この時、北朝鮮の指導者、及び、国民の方々は、本当
 に、戦々恐々とした心境・状況だったと思われる。
  それ故に、『国を、そして、国家を、しっかり守らね
 ばならない』と思っただろう。
  そこで、今やっている様な、核開発をし、また、ミサ
 イル開発もして行く必要性があるのたと・・つくづく感
 じた事だろう。
  今年・2017年の正月、北朝鮮指導者は、テレビで、そ
 の達成率が、「ほとんど完成に近づいた」と放送した。
  そのテレビを見た北朝鮮の国民の方々は、「アメリカ
 からの攻撃の恐怖が、これで薄らいできた」と思っただ
 ろう。
  「将軍様が、北朝鮮に、アメリカが攻めて来られない
 ようにして下さっている・・防衛努力をして、その様に
 して戴いている」・・と、そう思っているだろう・・
  そして、その事を、「有り難く感じている」だろう。
  「将軍様のお蔭で、安心していられる」と思っている
 だろう。
  将軍様のやっていることは、北朝鮮を攻めてくる相手
 に対する攻撃力を強くしているが、これは、攻めて来ら
 れない様にしていることで・・国が、簡単に攻められな
 い様にしている・・防衛力を強くしているのだ・・と思
 っているだろう。
  一方、日本は、北朝鮮から7分でミサイルが届くという
 状況の中にある。
  7分は、「あっ」という間だ。
  最近、北朝鮮は、高高度からミサイル攻撃をする技術
 を手に入れた。
  その高度な技術を手に入れた・・開発した。
  日本には、この『ミサイル攻撃を防ぐ手立てがない』
 という。
  その技術はないという、
  その兵器システムがないという・・、
  『3発が、関東地方に落ちたら、日本は、それでおし
 まいになるでしょう」と軍事専門家は言う。
  日本はおしまいになるでしょう・・と言う。
  日本には・・「アメリカの核の傘」があるという。
  その意味は、「日本には、『アメリカの核抑止力』が
 あるから安心してください」・・という意味だという。
  だから、「日本は、核など持たなくてもいいのだ」と
 アメリカから言われていると言う。
  何か・・??・・こちらに力点があるように思える??
  「だから、日本は、核を持つな」・・と・・
  アメリカには、「日本には核を持たせない」という『
 強い意志』があると専門家は言う。
  日本の核が「両刃の剣になる」ことを恐れている。
  この点は、中国も同じで・・日本の核保有に対し強く
 恐れ、この点についての「米中の密約(秘密条約)」が
 あるという。
  トランプ大統領までは、強くこのことが踏襲されて来
 ていた。
  しかし、トランプ大統領は、「日本は、守るべきは守
 りなさい」と言っていて・・至極、当然の考え方になっ
 てきた。
  「守りたくても守れない日本」から変われる道を開い
 て来た。
  トランプ大統領は、核について、「持つのなら、持ち
 なさい」と言った。
  長らくというか、今まで、アメリカには無かった考え
 方だった。
  そして、アメリカ在住の長い方が、証言的に言う・・、
  「アメリカ政府筋が、日本に核を持たせまいとするの
 は、罪悪感ないし、恐怖心があるからだ」・・と。
  そして、日本の大政治家の中川昭一氏は・・2006年の
 だいぶ以前い言った・・
  2006年に、北朝鮮の核実験があった時に・・理性的に
 核管理ができるかどうか疑わしい国家:北朝鮮が、核保
 有国になろうとしている時に・・
  それでも、核の議論さえしようとしない日本の現状を
 憂えて、そして、その様な状況を皮肉をも込めて・・、
  「わが国には『非核五原則』がある」と・・名言とも
 言うべき言葉だった。
  核を、「作らず、持たず、持ち込ませず」という非核
 三原則が日本にあるが・・それに・・
  「発言させず」、そして、「考えさせず」という空気
 まであって、横行していて・・と嘆いた。
  その心の中で、このままでは『日本民族の滅亡』の姿
 を恐れ、見たのだろう。
  「丸腰である人間は、銃に撃たれない」という常識の
 世界を信じているだけで・・本当に安全なのか??・・
 と・・、
  その様な常識の通じる国家もあるだろうが・・??
  その様な理想論の中に住んでいてよいのだろうか??
  そんな世界観なら・・新聞記事の三面記事は、記事が
 無くなって、真っ白になるだろう。
  そうでないのが世の中・・この方が常識・・
  多くの国民の方々の命がかかっている世界を・・その
 様な常識の世界に・・理想論の世界に置いたままで良い
 のか?・・良い訳は・・『ない』・・
  ここに、無責任な「座して死を待て」という論理がある・・
 その如くの言葉がある。
  石破茂(元防衛大臣〉の言葉・・2009年5月に、北朝鮮
 が地下核実験に成功したときに言った言葉・・、
  「敵基地攻撃論については、私が、防衛庁長官の時に、
 法的には排除されないと行ってきた。
  東京を火の海にするという宣言(北朝鮮の宣言)があ
 って、ミサイルを日本に向けて撃つ段階であれば、そこ
 を叩くのは『理論的にはありうる』。
  ただ、ノドン(北朝鮮ミサイル)が、どこにあるか分
 からないのにどうやって叩くのか。
  (北朝鮮のミサイルが)200基、配備されて居るとして、
 二つ、三つ、潰(つぶ)して、あと全部、(日本の各都
 市に)降ってきたらどうするんだ。誠に現実的ではない」
 (朝日新聞、2009年5月27日、カッコは筆者の記入)
  これは、北朝鮮の肩を持つ言い方・発言となっている、
 ある意味、無責任な裏切り発言となっている。
  「日本の方々の命の重み」に責任を果たしていない。
  その様な発言となっている。
  石破茂氏は、最初から、日本人の方々の命を救うには
 どうするか?・・という、逃げられない、避けられない、
 重大な、大切な思考を・・安易に・・放棄している。
  石破氏は、キリスト教徒であるが、キリスト教徒らし
 い性悪説に因る考え方「ことを成し得ない」という悲観
 論的な発言となっている。
  大切・重大な日本の『防衛論の可能性』の論議を放棄
 している。
  「抑止が大切」と言っておきながら、日本国民の生命
 と財産を守るという「きちんとした体制を作ろう」とい
 う話から逃げている。
  ヨーロッパに・・スイスという永世中立国があるが、
 きちっと国防を国の重要論題として、核も所持し、その
 抑止効果も含めてしっかり存立している。
  きちっとした国を守る体制を確立する事こそが大切な
 のだ。
  ふわふわとした防衛論や理想論では、話が地について
 いないのだ。
  日本は、いざという時にはやりますという、精緻な、
 且つ、超強力な、防衛体制の構築のため・・論議を尽く
 して行かなければならない。
  核保有を含めて・・。
  民進党は、この論議を前向きにとらえ、推進役になる
 くらいの行動を・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive


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(増補版)530E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年2月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)530E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年1月29日、「旅客甲丙間ニ到ル途中切手紛失シ乙駅
 ニテ賃金徴収方」を通達(鉄二調甲第48号)
1891年2月3日、内村鑑三が、第1高等中学校を辞職した。
1891年2月4日、横川~軽井沢間の路線が、中尾線(アプト式)
 を採用することに決定された。
1891年2月5日、川上音二郎一座が、堺で旗揚げ興業をした。
  川上音二郎(かわかみおとじろう、1864年1月1日~
 1911年11月11日)は、俳優、興行師。
  1878年、14歳のとき故郷を出奔。
  自由党壮士となったが、講釈師、寄席芸人になったり、
 「書生にわか」を試みたりした。
   1891年(27歳)堺で、川上書生芝居を旗揚げし、地方
 巡演ののち、『板垣君遭難実記』で東京公演に成功した。
1891年2月8日、大阪鉄道会社線が、稲葉山~王寺間を開業
 した。
1891年2月18日、三条実美が逝去した(55歳)
  三条 実美(さんじょう さねとみ、1837年3月13日~
 1891年2月18日)は、幕末・明治の日本の公卿、政治家。
  位階勲等爵位:正一位大勲位公爵。
  右大臣、太政大臣、内大臣、内閣総理大臣兼任、貴族
 院議員などを歴任した明治政府の最高首脳人物の一人。
 元勲。
  公卿では摂家に次ぐ名家清華家の出で、禄は約469石。
  家臣の尊攘志士・富田織部の訓育を受け、漢学者志士・
 池内大学に学んだ。
  1859年(22歳)大老・井伊直弼の弾圧を受けて、父・
 実万が辞官落飾となったことから政争に巻き込まれ、次
 第に尊攘思想を強めて行った。
  尊攘派公卿の中心人物となる。
  急進的攘夷派の指導者として、長州藩と提携。
  1862年(25歳)14代将軍・徳川家茂に、攘夷督促(とく
 そく)の朝命を伝えるなど、尊攘派公卿の先鋒(せんぽう)
 となり運動したが・・、
  1863年(26歳)八月十八日の政変:会津・薩摩を中心
 とする公武合体派のクーデターにより失脚し、七卿落ち
 の一人として長州へ逃れた・・そして、
  さらに、1865年(28歳)幕長間の紛争に巻き込まれる
 のを避けて、大宰府に移り、王政復古を機に上京した。
  維新後は、明治新政府に重用され、
  1868年1月9日(31歳)、岩倉とともに副総裁に就任し
 た。
  そして、太政大臣・内大臣等を歴任するなど国家建設
 に尽力した。
  1889年(明治22年、52歳)一時、首相を兼任した。
1891年2月20日、土佐派自由党議員の裏切りにより、政府支
 持の動議可決(自由党が分裂)
  この日、予算削減をめぐって紛糾していた衆議院で、
 大成会の提出した「予算削減は政府同意を経て議会で決
 議する」という議案に、立憲自由党土佐派が、議会解散
 を避けるためと、予算削減を行うために妥協し、決議し
 た。
1891年2月21日、中江兆民が、議会の弱腰を批判し、衆議院
 議員の辞表を提出した。
1891年2月24日、立憲自由党が分裂した。
  土佐派など29議員が離党した。
1891年2月25日、三条実美の国葬が行われた。
.
  (今日の言葉)
.
  題:漢江の奇跡(ハンガンのきせき)は・・、
    日本の経済援助なしではできなかった。
.
紀元前6年頃、イエス・キリストが生まれる。
  イエスの生誕は、紀元前6年頃ともいわれている、また、
 紀元前4年頃ともいわれている。
  そして、その中間ともいわれている。
  西暦が決められた頃は、西暦0年がイエスの生誕とされ
 ていた。
  しかし、その後、生誕とさられる年数は変転した。
  生誕だけで、この様な状態で、つまり、その存在が不
 確かなのである。
  没したのは、紀元後30年頃とされている。
  「キリスト」という意味は、「膏(あぶら)を注がれ
 た(塗られた)者」「受膏者」という意味のヘブライ語
 で・・、
  故に、イエス・キリストが姓名ではない。
  当時、「イエス」という名を持つ人は何人も居て・・、
  だから、ナザレ生まれのイエス(ナザレのイエス)と
 言われて個人を特定した。
  しかし、このイエス・キリスト(ナザレのイエス)の
 実在は証明されていない。
  初期のキリスト教が、1世紀~2世紀のころ、都合の悪
 い書類を大量に焼却した。
  この事によって実在が証明できなくなった・・または、
 本当に実在していなかったのか?
  いずれにしても、実在証明の出来ない事となっている。
  イエスの活動は、その最晩年の1年か、2年の超短期だ
 った。
  それまでは、父と同じ職業の大工をしていた。
  もしかすると、父の没後、大工を止め、エルサレムで
 予言者を始めたのかとも言われている。
  この頃のエルサレムは、町の娘に売春をさせていたエ
 ルサレム神殿が存在したり、また、戦争も頻発するとい
 う世情の中にあった。。
  巡礼の参拝で来た地方の人たちを相手に、その不特定
 の男たちを相手に、街の娘たちは恥辱の行為を強いられ
 ていた。
  そして、その様なエルサレム神殿の前で、「金持ちの
 豪華な供物より、貧乏人の貧しい供物の方が価値がある
 のだ」などという程度の道徳論を披露するイエス・キリ
 ストだった。
  いつも、決まった少人数のグループと活動していた。
  いつ聖書を読んでも、その人間関係の狭さが気になる。
  イエスは、平均寿命が三十数年という時代の、最晩年
 の1年か、2年の超短期間、エルサレムの広場で、予言者
 稼業をしていた。
  聖書にも記されているが、イエスは、故郷の人たちか
 ら、「予言者とは、うまいことをやっているな」と言わ
 れていた。
  イエスは、故郷の人たちからは、普通の人に見られて
 いた。
  だから、イエス自身も故郷の人たちに対し、「話が、
 そして、暗示がかからない」と嘆いている。
  イエスの子供の頃から、イエスを見ている故郷の人た
 ちには、普通の人と変わらない状態だった・・その様に
 見られていた。
  「あのイエスが、予言者をやっているよ」という状態
 だった。
  だから、イエスに向かって、「予言者業とは、うまい
 事をやっているな」の言葉になった。
  当時、エルサレムには、この様な予言者を仕事とする
 者が大勢いて、その多くが刑場で殺された。
  麦の一粒が落ちたら、その一粒のままにあるという乾
 燥した砂漠地帯の環境の中で育ち・・だから・・、
  天の雨の恵みが豊かに降り注ぐ、その様な豊かな地の、
 価値ある言葉は、想像もできない、また、話すこともで
 きない。
  砂漠の恵みの少ない地、わずかな恵みに群がる人々が
 居るという地・・だから、飢餓と背中合わせの地で・・、
  聖書もある様に・・キリスト教の神が、隣国の民を、
 『奴隷にせよ、奴隷にせよ』と叫び、隣国の民さえ自民
 族の生きる糧とせよという神の叫ぶような地・・その様
 な教え・・、
  豊かな思想・思考は生まれない。
  だから、そこは、奪い取りと殺戮だけとなる。
  そして、無理やりの神殿娼婦にさせられた街の娘は、
 神殿にやってくるお参りの見ず知らずの男の相手をさせ
 られた。
  キリスト教は、この様な環境の世界の宗教。
  男尊女卑の世界であった、その教えであった。
.
1600年、イギリス東インド会社ができた。
  インドの方々を殺戮し虐げた、酷いイギリスの会社が、
 この年に、出来た。
  世界遺産に登録すべき人類の歴史の大汚点だった。
  アジア貿易を目的に設立された、イギリスの勅許会社
 である・・と、表面は美しく説明されている。
  アジア貿易の独占権を認められ、イングランド銀行か
 ら貸付を受けながら、
  17世紀~19世紀半ばにかけて、アジア各地の植民地経
 営や交易に従事した(国としての行動)
  アジア貿易と美しく言うが、実態は、植民地で、奴隷
 のようにインドの方々を働かせ・使役し、搾取した。
  イギリスの勅許会社と言う通り、国が勅命で行なう行
 動は、「イギリスという国」なのであって、「イギリス」
 そのものだった。
  会社なんだから、イギリスという国ではないというの
 は「虚言」で『逃げ』だった。
  (イギリスは、この様な言い逃れを言って、世界中で
 悪行為ばかりしていた)
  アジア貿易の独占と言ったって、武力で以って、力で
 従わせて行った。
  従わないインドの方々は殺戮し、また、木に吊るして
 殺した。
  木に吊るして死んでも、そのまま並木道は、その様な
 可哀想なインドの方々が、ずらりと吊るされ、見せしめ
 にされ、インドの方々を恐怖に陥(おとしい)れ、この
 様な力で従わせさせていた。
  こんな事を長い期間(17世紀~19世紀の300年近くも)
 し続けたイギリスだった。
  それだけ、様々な、考え付くすべての悪の酷いことを
 した。
  東インド会社が、酷いことをする故に、イギリスは、
 卑劣な逃げのかたちを作った、隠れ蓑とした。
  それは、東インド株式会社という名で誤魔化した。
  東インド株式会社だけで、あんな卑劣な、大々的な殺
 戮や、戦争が・・出来る訳が無い。
  すべて、イギリスという国家と同時進行・連動だった。
  陰に隠れるイギリス国家は卑劣であり、劣悪・卑劣な
 罪悪漢である。
  こんな卑劣な論理が成り立つならば、国家が、どんな
 悪いことをやっても、「○○という個人がやった」とい
 う言い訳が成立し、それで済まされてしまう。
  国の責任は回避される怖ろしい事である。
.
1867年、旧根岸競馬場
  居留地の外国人の娯楽として競馬が始まった。
  関東大震災で大きな被害を受けた。
  現在でも残る一等馬見所は、7階建て、高さ28.77メー
 トル。
  客席を覆う大きな庇(ひさし)は、市柱が少なく、客
 席からコースを良く見渡せた。
  戦後、米軍に接収された。
  今は、市が管理している。
  しかし、廃墟(はいきょ)同然の様で、壁面は、蔦(
 つた)に覆われている。
.
1869年10月、三菱の前身となる土佐開成商社が成立した。
  岩崎弥太郎は、土佐藩最下級士族の岩崎弥次郎の長男
 として1834年に出生した。
  1855年(21歳)に、江戸へのぼり、安積艮斎の塾に入
 門するも、父の奇禍(父親が酒席で庄屋と喧嘩して投獄
 された)で、帰国し、父に連座して入牢された。
  1859年(25歳)に、土佐藩参政・吉田東洋の門下生と
 なり、後に、藩の下横目の職を得て、長崎に出張するが、
 無断帰国し解職された。
  1866年(32歳)に、再び、土佐商会主任として長崎に
 行き、藩の貿易に従事し、同所閉鎖後は、大坂出張所で
 働く、
  1869年10月(35歳)土佐藩首脳の林有造が、海運業私
 商社として土佐開成社、後の九十九(つくも)商会を立
 ち上げた。
  代表は、海援隊の土居市太郎と、長崎商会の中川亀之
 助で、
  岩崎弥太郎は、事業監督を担当した。
  1870年(36歳)の維新後に、土佐開成商社が九十九商
 会と改称して、船2隻を土佐藩外債を肩代わりする条件で
 入手し、海運業に従事した。
  後に、三川商会と改名した。
  1873年(39歳)に、三菱商会となる。
  1874年(40歳)に、台湾出兵で政府輸入船を託され軍
 事輸送にあたり、
  1875年(41歳)政府の補助金を受けて国内海運を独占
 し、三菱財閥の基礎を築いた。
  1885年(明治18年)51歳で没した。
.
1869年(明治2年)パン、ビスケットを専門に製造する木村
 屋が創業した。
  そして、1874年に、創業者の木村安兵衛とその次男で
 二代目の英三郎が、あんぱんを考案した。
  翌年・1875年に、明治天皇陛下に献上された。
.
1895年、日清戦争によって、日本が、中国(清)に勝った
 ・・という事は、朝鮮にとって天地がひっくり返るよう
 な出来事だった。
  中華思想に「冊封体制」という思想があり、中華が周
 囲を冊封して行く、つまり、属領として支配して行くと
 いう思想で、
  「貢を持って従属すれば良し」の思想である。
  中国は、その民族は色々と変わったが、この体制は、
 常に変わらず、同じ冊封体制をとり続けて来た。
  朝鮮の歴史も、この中国の体制下に従属させられて来
 た。
  朝鮮は、古代から中華の属領としての月日を過ごし、
 この属領である事をアイデンティティとして来た。
  中華を主とする主従関係下に密接な関係を作り上げて
 来た。
  日本が、この朝鮮の主である中華(清)を負かした事
 は、だから、驚天動地の事だった。
  朝鮮は、中華(清)から解放された。
  冊封体制のない状況の中に置かれた朝鮮は、その驚き
 の中で、独立した。
  日本の中国へ出した書・・「日出ずる処の天子、書を
 日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)しや」との
 日本の毅然とした対等の独立した立場をとった日本だっ
 た。
  この時、冊封体制の下の体制に入ると思っていた中華
 の煬帝は、怒りに怒ったという。
  日本の態度は、朝鮮とは、まったく違っていたのだっ
 た。
.
1945年8月28日、アメリカ軍の日本進駐。
  アメリカは、卑劣な事に、最初、戦後の日本に進駐す
 る兵士を、黒人兵だけとした。
  それは、日本が、まだ、徹底的に抵抗すると思ってい
 たからだった・・
  ・・レジスタンスを組織したりして・・、
  その為、人種差別的に、その様なことが起きるか否か
 の見定めもあり、白人兵を危険に曝(さら)さないとい
 う方針で、黒人兵だけを組織し、日本へ進駐した。
  因みに、終戦直後の、第二次世界大戦における日本の
 敗戦からサンフランシスコ講和条約締結までの間、
  連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の占領下に置
 かれた日本であった。
  故に、主権と行政権を留保した。
  日本の降伏に伴い、日本政府が受諾したポツダム宣言
 の文面では、ウィンストン・チャーチル英国首相の提案
 によって、「日本領土」ではなく、「日本領土内の諸地
 点」への「保障占領」となっていた。
  そして、降伏文書の調印まで、日本本土(北海道・本
 州・四国・九州)に先遣隊として到着したアメリカ主導
 で組織された連合国軍は、1945年8月28日から、日本への
 進駐を開始した。
.
1950年6月25日、朝鮮戦争
  この日、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金
 日成率いる朝鮮人民軍(北朝鮮軍)が、突然、韓国に侵
 攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。
  その2日後の6月27日に、マッカーサーは、朝鮮半島に
 おけるアメリカ軍の全指揮権を国防総省から付与された。
  ただちに、軍需物資の緊急輸送と、アメリカの民間人
 救出のための船舶、飛行機の手配を行った。
  そして、朝鮮戦争の司令官となったマッカーサーは、
 中国との国境に流れる鴨緑江(おうりょっこう)に架か
 る橋を爆破したいと、アメリカ本土・ワシントンに、そ
 の作戦の許可を求めた。
  その橋を渡って中国軍(中共義勇軍と称した)が、続々
 と渡って来ていた。
  マッカーサーの作戦は、至極、当然の、筋の通った作
 戦だった。
  すぐに行なうべき作戦だった。
  しかし、アメリカ本土・ワシントンからの許可は下り
 なかった、許可は得られなかった。
  武器弾薬と共に中共軍が、ぞくぞくと入って来ていた
 のにである・・、
  この時のアメリカの作戦は・・、
  「アメリカは、戦争に勝ってはならない」。
  「いつまでも戦うのが良いのだ」・・だった。
  マッカーサーは、回顧録で、この時の詳細を記した。
  マッカーサーの作戦のすべてが否定された・・と、
  すべてに「ノー」と言って来た・・と、
  また、おかしなことに、蒋介石の国民党軍が、国連軍
 に加わって参戦し、応援したいと、参戦の意思を強く示
 したが・・、アメリカ本土のワシントンは許可をしなか
 った。
  そして、マッカーサーは、優秀で、頑張りすぎると解
 任されてしまった。
  マッカーサーは、ここに至って初めて気づいた、
  「自分は、アメリカのエスタブリッシュメントのメン
 バーではない」・・と。
  (参考)エスタブリッシュメント:establishment、既
    存体制と訳されることもある。
     イギリスでいわれはじめたもので、社会改革を
    はかろうとする者から攻撃される既成の社会秩序
    の総体をいうが・・、
     通常は・・国家、政府機関、支配階級、特権階
    級などをさす。
  そして、総てを察したマッカーサーは、1951年5月3日、
 アメリカ議会の上院軍事委員会で、第二次世界大戦(大
 東亜戦争)について重要な証言をした・・、
  「日本が戦争に至ったのは、その大部分が安全保障の
 必要に迫られたからだった」・・と、
  日本の存立を否定したアメリカの行為に、やむを得ず
 の戦いを起こしたのだった・・と、
  「日本の大義」を認めた・・そして、そう認識した証
 言を行なった。
  大東亜戦争の真実を証言した。
  さらに、朝鮮戦争には、後日談がある・・、
  国連軍が組織される時、スターリンは、安全保障理事
 国として「拒否権を発動できた」・・しかし・・
  『そうはしなかった』・・、
  国連軍が創設されなければ、スターリンが応援する北
 朝鮮の勝利となる・・
  しかし、スターリンは、拒否権を発動しないで、「そ
 の会議に出席するな」と指令した。
  アメリカとグルになっていたことが事実となって、今、
 知る所となっている。
.
1965年、漢江の奇跡(ハンガンのきせき)は、日本の経済
 援助なしではできなかった。
  さらに、日本は、韓国を統治していた時代、日本は、
 アメリカやヨーロッパがやったような統治ではなかった。
  アメリカやヨーロッパは、ただただ、植民地から利益
 を奪取しただけだったが、日本は、韓国のインフラを整
 備した。
  また、日本の誠実な統治によって、韓国の民族資本が
 蓄積された。
  これもあったから、日本からの巨額の戦後賠償金も生
 き、見事な「漢江の奇跡」が出来た。
  この日本の性善説の韓国救済行為は、世界へも影響を
 与えた。
  ただ単に、韓国だけに留(とど)まらない行為だった。
  欧米の・・そして、イギリスが・・、インドや、オー
 ストラリアのアボリジニの方々などで行なった性悪説の
 殺戮や略奪行為、
  そして、アメリカの西部地域の殺戮と掠奪、および、
 太平洋地域の掠奪、および、フィリピンをはじめとする
 アジア地域での性悪説の略奪行為・・その様な行為とは、
 まったく違う。
  (参考)1965年、韓国は、日本と日韓基本条約を結ん
    だことにより、無償金3億ドル・有償金2億ドル・
    民間借款3億ドル以上(当時1ドル=約360円。現在
    価格では合計4兆5千億円相当)。当時の韓国の国
    家予算は3億5千万ドル程度)の日本からの資金供
    与及び貸付けを得ることとなった。
     国際協力銀行によると、1960年半ばから1990年
    代までにトータル6000億円の円借款が行われ、韓
    国はこうした資金を元手に「漢江の奇跡」の象徴
    とも言われる京釜高速道路をはじめとした各種イ
    ンフラの開発や、浦項総合製鉄をはじめとした企
    業の強化をおこなった。
     インフラ整備後は、日本の民間企業によって大
    規模な投資がおこなわれた。
     しかし、韓国では、日本による多額の経済・技
    術援助が韓国の発展に寄与したことを一般には知
    らされていないため、多くの韓国人は、自国が独
    力で経済成長を達成したと考えていると指摘され
    ている。
     恩を売りたい訳ではないが、人として、助けて
    戴いた日本に対しての礼をしっかり尽くして戴き
    たい。
     決して、恩を仇(あだ)で返すようなことはし
    ないこと。
.
1981年3月30日、レーガン大統領暗殺未遂事件
  アメリカのロナルド・レーガン大統領は、大統領選挙
 の期間中から「FRBに対する疑念」を口にしていた。
  大統領に当選した後、レーガンは、FRB議長に面会
 を申し込んだ。
  FRB議長は断った・・拒否した。
  FRB議長は、アメリカ大統領の面会要請を断われる
 ほど絶大な権力を持っていることを示した。
  レーガン大統領の再三の面会要請によって・・面会が
 行われるが・・その面会で、レーガン大統領は・・、
  「FRBは、何故、必要なのか?」
  「この質問を良く受けるのだが・・」と切り出した。
  その言葉を聞いて、FRB議長は慌てた様子を周囲に
 示した。
  FRBの存在に懐疑的だったレーガンは、大統領に就
 任してわずか2か月後の1981年3月30日に、ワシントンで
 銃撃された。
  緊急手術が行なわれて、幸い、危うい所を助かった。
  アメリカの大統領は、政府が独自に紙幣を発行しよう
 としたり、民間資本の中央銀行を廃止させたり、規制し
 たりすると、暗殺の危機にさらされる。
  これまでのアメリカが、そのことを示している。
.
1991年、ミハイル・ゴルバチョフによるペレストロイカで、
 1991年に、ソ連が崩壊しロシアとなり、エリツィンが大
 統領になると、アメリカは、ジェフリー・サックスとい
 う国際主義の経済学者をリーダーとするアメリカ人顧問
 団をロシアに送り込んだ。
  そして、価格統制を廃止し、市場経済を導入した。
  そして、さらに、「バウチャー方式」という手法で、
 ロシア国営企業の民営化を推し進めた。
  これは、政府が国民に対し、一定金額のバウチャー(
 民営化証券)を配布し、民営化された企業の株式と交換
 できるようにする方式で、
  表向きの導入理由は、「従業員は、自分が働いている
 会社の株式をバウチャーによって取得して、株主になる
 ので、働くモチベーションが上がる」というものだった。
  しかし、現実には、商才に長(た)けた連中が、この
 株式の意味が分からないロシアの方々から、バウチャー
 を安く買い漁(あさ)って行った。
  そして、買い集めたバウチャーで、国営企業を払い下
 げてもらい、オーナーとなり、新興財閥となった。
  銀行や、自動車販売会社や、石油会社などの・・この
 新興財閥のほとんどが・・ユダヤ系だった。
  エリツィンとアメリカによって、この様な新興財閥が
 次々と誕生した。
  そして、莫大な富を独占した。
  膨大な富を独占したこのグループは、さらに、政治に
 も・・、
  このグループは、エリツィン大統領を全面的に支援し、
 政治にも強い影響力を及ぼした。
  そして、また、1996年の大統領選挙においても、エリ
 ツィンを全面的に支援した・・そして、その功績で・・、
 このグループの一員が、第一副首相に就任した。
  また、さらに、このグループの要員が、ロシア安全保
 障会議副書記や、CIS(独立国家共同体)執行書記と
 なった。
  このグループの新興財閥は、「政商」として富を独占
 した。
  ロシアの方々は、この時点で、そのあまりの酷(ひど)
 さに、激しい批判の声を上げた。
.
2017年5月25日、イギリスのコンサート会場で、爆発テロが
 あり・・22人の方々が無くなった、尊い命が失われた。
  また、この後、死者数は増加した。
  イギリス中部のマンチェスターのコンサート会場で22
 日夜(日本時間23日の朝)に起きた自爆テロで、8歳の
 女児1人を含む22人が亡くなり、また、59人が負傷した。
  イスラム過激派組織「イスラム国」が犯行声明を出し
 た。
  (イスラムの方々は、このイスラム国はイスラム教で
 はないと言っている)
  イギリスでは、2005年7月に、52人もの人々が亡くなる
 「ロンドン同時テロ」がある。
  イギリス警察当局は、5月23日、実行犯の男をサルマン・
 アベディ容疑者(22歳)と特定したと発表した。
  アベディ容疑者は、リビア系イギリス人。
  イギリス警察当局は、5月24日、「我々の捜査対象は、
 ネットワークだ」と述べ、単独犯ではないとの見方を示
 した。
  ラッド英内相も、5月24日、イギリスBBC放送に対し
 て、アベディ容疑者が、「一人で行動していたのではな
 いかもしれない」と述べた。
  リビアから最近帰国したとの地元紙報道も事実だと認
 めた。
  イギリス紙ザ・タイムズは、容疑者が「3週間前にリビ
 アに行き、数日前に帰って来た」と友人が述べたと伝え
 た。
  コロン仏内相は、フランステレビで、5月24日、アベ
 ディ容疑者がシリアに渡航し、イスラム過激派組織「イ
 スラム国」と関係があったとの情報をイギリスとフラン
 スの情報機関が把握していると述べた。
  当然、上記のイスラム国やテロ犯を弁護する訳ではな
 いが、
  また、当然、この様な行為を、憎むが・・
  テロが悪いという事だけに集中するのは良くない。
  その奥にある巨悪が問題なのだ・・
  何故、テロをせざるを得ない状況になっているのか?
  その視点を持たなければ、「テロは無くならない」。
  テロを起こさせる原因の原点を辿(たど)って行くと・・
  自分だけが裕福になり、その様な世界システムを強い
 立場にあるから、金があるから、だから、自分に都合の
 良い社会システムを作ってよいのだ・・という所に居て、
  狡猾に作り出している輩たちが一番悪い輩なのだ。
  自分に都合よいシステム、結局、それは、「社会の歪
 (ひずみ)」を作り出している・・その様な輩たち・・、
  更にその輩たちへ、「これが正義である」と錯乱的に
 思考させるキリスト教の考え方・教義が悪いのだ。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)529E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)529E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1891年1月~1891年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1891年1月1日、小岩井農場が開設された。
  井上勝らが岩手県に農場を建設され、設立者や支援者
 らの名前を取って小岩井農場と名付けられた。
  以下、小岩井農場のホームページを参考にして・・
  1888年(明治21年)6月12日、盛岡を訪れていた明治政
 府の鉄道庁(当時は鉄道局)長官、井上勝は、眼前に広
 がる岩手山の南麓に広がる風景、木もまばらな不毛の原
 野に目を奪われた。
  奥羽山脈から吹き降ろす冷たい西風のなかに、ススキ
 や柴、ワラビなどが散在する火山灰地の原野・・、
  井上は、この荒れ果てた土地に、大農場を拓こうとい
 う、かつて、誰も抱いたことのない夢が、頭の中に広が
 って行った・・、。
  この井上勝という人は、「日本の鉄道の父」と言われ
 る人で、
  幕末の動乱期に、イギリスに渡航した伊藤博文、井上
 馨らの5人の長州藩士の一員で、近代土木技術、鉱山学な
 どを学んだ。
  そして、帰国し、1872年、新橋~横浜間の日本最初の
 鉄道敷設をした・・
  また、それだけでなく・・東海道本線、東北本線など、
 数々の鉄道工事の陣頭指揮をし、、日本の鉄道事業の基
 礎を築いた。
  この岩手県盛岡を訪れたのも、東北本線の延伸工事を
 視察するためだった。
  井上は、この岩手南麓に広がる荒地を前に、井上の胸
 に去来したのは、今まで・・長年、鉄道敷設事業に携わ
 る中で、数多くの日本の「美田良圃(びでんりょうほ:
 美しい田と良い畑)」を潰したことだった。
  やむなく、その様にならざるを得ない行為に対する悔
 恨の念だった。
  岩手の広大な荒野を前に、この様な荒野が、手付かず
 で放置されているのであれば、せめてそれを開墾し、大
 農場を拓きたいと思った。
  美しい田園風景を損なってきたことの、悔恨の情を埋
 め合わせをしたいという気持ちだった。
  そこに、国家公共に報いる・・国家公共のため・・自
 分がなすべき事業と確信した。
  井上は、この構想を、岩崎彌太郎のもとで、三菱を支
 えていた小野義眞に打ち明けた。
  そして、助力を依頼した。
  当時、三菱社は、彌太郎の死後、実弟の岩崎彌之助が
 第2代社長に就いていた。
  小野義眞は、早速、井上と彌之助を引き合わせた。
  井上の理念、「国家公共のため、荒地に農場を拓きた
 い」という井上の高邁な願いに感銘を受けた彌之助は、
 その場で出資を快諾した。
  こうして、1891年(明治24年)1月1日、井上が場主と
 なり小岩井農場が開設された。
  名前の由来は、小野、岩崎、井上、3人の名字から1字
 ずつ取って作られたのだった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、グローバリズムは、その欠陥を露呈して反発を招いている。
.
1910年、今の韓国(大韓民国)は、この当時、大韓帝国と
 言った。
  当時、この大韓帝国の李完用という政治家を中心にし
 て「一進会」という組織があった。
  この組織が、「韓日合邦建議書」を起草した。
  これは、「日本と大韓帝国が合邦することを要求する」
 という声明書だった。
  そして、100万人の署名活動を行なった。
  大韓帝国の人々は、合邦する事が大歓迎だった。
  そして、日本と大韓帝国は併合に至った。
  日本は、この大韓帝国の人々を「政治に参加させよう」
 と努力した。
  また、教育に努力し、生活を向上させようとした。
  そして、日本は、社会インフラを一生懸命に整備した。
  この豊かにするという考え方・概念は、アメリカやヨ
 ーロッパの植民地支配には、まったく無かった。
  アメリカやヨーロッパは、卑劣にも、ただただ「搾取
 と略奪をするだけ」という植民地経営だった。
  アメリカやヨーロッパは、政策を遂行するため、徹底
 的に自国の言葉を教育した。
  相手国の文化を否定するという「虐(しいた)げ行為」
 だった・・「いじめ行為」だった。
  自国の利益が得られれば良いという、自国の利益を優
 先した・・得るという目的から、観点から行動がなされ
 た。
  やっていることは、まったく人道的ではなかった。
  すべては搾取の為だった。
  植民地の方々は、可哀想な事に自国の言葉が奪われ、
 文化も奪われた。
  アメリカは、フィリピンの植民地を英語化した。
  今でも、フィリピンは英語が公用語になっている。
  また、ベトナムも、フランス語化され、フランス語が
 公用語になっている、
  また、インド(イギリスの植民地〉でも英語化され、
 英語が公用語になっている。
  自分の御都合主義だった。
  何しろ、アメリカのフィリピン、イギリスのインドな
 ど、アメリカやヨーロッパは、武力によって植民地とし
 た。
  台湾は、清(当時の中国)から、「化外(けがい)の
 地だ」と、日本は言われた。
  「化外の地」とは、『国家の統治が及ばない地』とい
 う意味である。
  開拓もされず、ほったらかしのこの台湾を、日本は、
 一生懸命に整備した。
  伝染病が多い地だったが、衛生面に於いても一生懸命
 に努力した。
  学校、ダムなどの社会資本の整備にも一生懸命に努力
 し、築いた・・
  (参考)化外の地(けがいのち、化外之地)とは、中
    華文明に於いて文明の外の地方を表す用語。
     中華思想では、中国の権力・法律が行き届いて
    いない地方のことをいい、また、その地方に住む
    民族を「蛮族」と呼んだ。
     中国の古代では、中原から遠く中華文化の影響
    が薄かった台湾・海南・新疆などのことを呼んだ。
     また、小中華思想のあった朝鮮やベトナムなど
    では、中国文明の行き届かない地域をもそう呼び、
    中原からはるか遠くの占城、真臘の外の地域や、
    北方遊牧民が立てた王朝を化外の地と見做し、朝
    鮮王朝は明の滅亡後に興隆した清を蛮夷とみなし
    ていた。
     宮古島島民遭難事件によると、日本政府は、日
    本人を殺害したこの事件に対し清朝に厳重に抗議
    したが、台湾の原住民は「化外の民」(国家統治
    の及ばない者)であるという清朝からの返事があ
    り、これにより、日本政府は1874年(明治7年)、
    台湾出兵を行った。
.
1913年、連邦準備銀行(FRB)が設置された。
  アメリカの国際金融資本が、なぜ、そんなに金を持っ
 ているのか?
  これは、まったく不公正な事が行われている。
  あまりにも・・堂々と行われているため、ほとんどそ
 の指摘がなされる事がない。
  まったく・・「打出の小槌(うちでのこづち)」状態
 なのである。
  (参考)打出の小槌:うちでのこづち、望む物の名を
     唱えながら打つと、それが出てくるという、小
     さい槌(つち)。
  アメリカ政府が、金が必要となった時、例えば、戦争
 の時など、莫大な金が必要となるが、その時・・、
  アメリカ政府は、国債を発行する。
  国債を印刷機で刷る。
  そして、その国債を、アメリカの中央銀行(FRB)に買
 ってもらう。
  世界の基軸通貨のアメリカ・ドルは、この中央銀行に
 発行権があるからである。
  中央銀行から得た金を使って、アメリカ政府は戦争が
 遂行できる。
  中央銀行は、アメリカ政府から買った国債を、市中銀
 行に買ってもらう。
  アメリカの中央銀行は、アメリカ政府に、アメリカ・
 ドルの金を渡したが、市中銀行から、また、金が入って
 来るので、結局、中央銀行が刷って発行した札(金)は、
 中央銀行のものになる。
  何の努力もしないで、中央銀行は金を手にすることが
 出来る。
  結局、中央銀行が、世界基軸通貨のアメリカ・ドル札
 を刷る行為は、自分の懐を肥やす「打出の小槌状態」と
 なる。
  この様な、アメリカ政府のアメリカ国債の借金は、べ
 らぼうに、莫大な額となっている。
  日本も、一生懸命、このアメリカ国債を買ってあげて
 いる。
  この様に「お得な立場の中央銀行」なのだが、公的機
 関ではない。
  ここが、また、不公正な所となっている。
  ある民間機関が、この様なお得な特別席に座っている
 アメリカなのだ。
  この100パーセント民間の銀行の大株主が、ロスチャイ
 ルド系の金融機関が握っている。
  何ら努力もしない「打出の小槌状態」を持つ金融機関
 なのだ。
  だから、18世紀に、ドイツのユダヤ系銀行マイアー・
 アムシェル・ロスチャイルドは・・、
  「自分に通貨の発行権を認めてもらえれば、法律は誰
 が作ってもいい」と、この濡れ手で粟状態の事を言って
 いる。
  通貨の発行権さえ握ればどうにでもなると言っている。
  因みに、日本の中央銀行は、日本政府が大株主となっ
 ている。
  アメリカ政府は、中央銀行から莫大な額の借金をして、
 その借金を返済させるために、中央銀行は、政策に口を
 出し、胃のままに政府をコントロールするという状態に
 なっている。
  通貨を支配するという事は、必然的に、国を、そして、
 世界を支配する事になって行く。
  現代の錬金術と言える通貨発行権は、巨大利権なのだ。
  まったく不公正なシステムが、実際、今、存在してい
 る。
  巨大な不労所得を享受