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(増補版)578E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年3月~1893年4月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)578E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年3月~1893年4月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年3月、大阪~神戸間で電話が開通した。
  3月25日時点での契約者数は、大阪141、神戸74。
  また、この頃、「モシモシ」という言葉が流行した。
1893年3月、筑豊興業鉄道が、若松駅構内炭積用桟橋架設工
 事一部竣工し、使用を開始した。
1893年4月1日、直江津線の横川~軽井沢間(11.3km)が開
 通した。
  碓氷峠は、日本で初めてのアプト式を採用した。
  これにより上野から直江津までが全通した。
  鉄道局は、難所の碓氷峠を日本で初めてのアプト式軌
 道を採用した。
  これまで、1885年に、高崎~横川間が開通していた。
  また、このアプト式は、1963年に、廃止された。
  また、この時、同時に、横川・丸山(信)および矢ヶ崎
 (信)・軽井沢間を複線として使用を開始した。
  そして、アプト式蒸気機関車による旅客列車4往復の運
 転を開始した。
  (運転時分:下り1時間18分、上り1時間20分、中間に熊
 ノ平信号場を設けた。
  なお、開通まで、碓氷馬車鉄道会社が、鉄道馬車によ
 って客貨を輸送していた。
1893年4月1日、西多摩郡・北多摩郡・南多摩郡の多摩3郡
 が、神奈川県から東京府へ移管された。
  三多摩の名の由来はこれ。
  水路の関係(水源問題)で・・東京の上水道の水源が
 多摩地区で神奈川ではなく、管理面で東京府へ移管しよ
 うとなった。
  きっかけは、1886年のコレラの大流行。
  この時、「多摩川上流で、コレラ患者の衣服が洗濯さ
 れた」という噂が広まった。
  (実際は、洗濯したのは水道水に影響しない多摩川支
 流であったが・・)
  東京への上水道となる玉川上水への汚染は無かったが、
 この後、管理面を一貫して強化するため、東京府へ移管
 する事となった。
  因みに、明治維新頃、この地は、「品川県」「韮山(
 にらやま)県」「入間(いるま)県」「西端(にしばた)
 県」だったが、
  1871年の廃藩置県で、神奈川県の所属となっていた。
1893年4月1日、鉄道局本庁が逓信省構内へ移転した。
1893年4月1日、長崎電灯株式会社が開業した。
  長崎市内に初めて電燈がついた。
  68戸に供給、取付け灯数129灯、うちアーク灯9灯
1893年4月2日、秋山好古(34歳)が、多美(23歳)と結婚した。
  陸軍少尉のころ、下宿していた旧旗本・佐久間家の長
 女・多美と結婚に至った。
1893年4月8日、青森~福島間の鉄道建設のために、青森に
 鉄道庁出張所を設置した。
  また、敦賀~富山間の鉄道建設のため、敦賀に、また、
 鉄道庁出張所を設置した、青森・敦賀に鉄道庁第三部派
 出所を設置した。
1893年4月11日、「文官判任以上退官賜金ノ件」改正公布(
 勅令第20号)
  朕茲ニ文官判任以上ノ者退官賜金ノ件ヲ裁可ス。睦仁
 (明治天皇陛下)、内閣総理大臣山縣有朋、大蔵大臣伯
 爵松方正義、勅令第九十八号、文官判任以上ノ者在官満
 一年以上十五年未満ニシテ退官シタル者ニハ退官現時ノ
 俸給半箇月分ヲ以テ在官年数ノ一箇年ニ当テ其年数ニ応
 スル金額ヲ一時支給ス但非職満期ニ由リ退官シタル者ハ
 其在職最終ノ俸給額ニ依リ之ヲ給ス、本令施行前ニ満年
 賜金若クハ一時賜金ヲ受ケタル者又ハ前項ノ賜金ヲ受ケ
 タル者再ヒ任官シ自後退官シタルトキハ前項ニ掲クル在
 官年数ヲ春再任ノ日ヨリ・・云々
1893年4月14日、出版条例を廃止して出版法を公布した(4
 月13日説あり)
  出版物取締り法規で、1869年5月の出版条例 (行政官達
  444号) と、1887年12月の出版条例 (明治20年勅令76号)
 を引継いで、新聞、定期刊行雑誌を除くすべての文書図
 画と、学術関係などの雑誌を取締りの対象とした。
  出版法は、基本的には、出版条例を踏襲したが、出版
 物の発行要件で、出版にあたっては発行日から到達すべ
 き日数を除いて3日前に内務省へ2部納本することとし
 た。
  また、出版届けを出すことや、出版物の末尾に発行者・
 印刷者の氏名・住所を記載することなどを決めた。
  そして、違反した場合には、執筆者・発行者の処罰の
 ほか、 出版物・紙型などの没収まで及んだ。
1893年4月15日、版権法が公布された(4月14日説あり)
  版権(はんけん)は、著作権の旧称で、出版権である
 著作物を複製・発売する権利を決めた。
  1899年に、著作権法 (明治32年法律第39号)(旧著作権
 法)が公布されるまでの間に用いられた。
  この当時の「版権」は、現在の著作権法での著作権と
 は異なっていて、著作物のうちの一部である「図書」な
 ど(概ね、現在の著作権法での「言語の著作物」にあた
 る)についての権利であって、
  脚本、音楽、写真、映画等は、その対象とされていな
 かった。
1893年4月、「集会及政社法」 改正
  1890年の「集会及政社法」では女性の政談集会や、政
 治結社への参加を禁じられていた。
  この法律の撤廃は女性運動の重要な課題となった。 
  日本の政府は、早くから女性への権利に目覚めていて、
 すでに、1871年には、津田梅子ら5人の女性をアメリカ合
 衆国に留学させていて、1872年には学制を発布して、「
 男女平等の義務教育」を実施していた。
  また、1874年には、東京に女子師範学校(現:お茶の水
 女子大学)を設立していた。
  アメリカは、まだ女性が差別されていて、アメリカで
 女性の参政権が認められたのは1920年である。
1893年4月、津村順天堂が開店し、婦人薬の「中将湯(ち
 ゅうじょうとう)」を発売した。
  ツムラの婦人薬、中将湯、第2類医薬品
  (1)更年期障害(のぼせ、不眠、イライラ)、冷え
    症に
  (2)16種類の生薬の婦人薬
  (3)創業以来のロングセラー商品
  効能・効果:産前産後の障害(貧血、疲労倦怠、めま
 い、むくみ)、血の道症、更年期障害、不安神経症、月
 経不順、月経痛、頭痛、肩こり、腹痛、腰痛、冷え症、
 のぼせ、めまい、耳鳴り、不眠症、息切れ、動悸、むく
 み、感冒
.  
  (今日の言葉)
.
  題:核兵器の攻撃兵器の種類によっては、日本の3分の1が蒸発してから、
   防衛出動するというのである・・
    今の憲法では、その様にしかできないと言うのである。
.
紀元前5万年、アボリジニの方々が、スンダランドからオー
 ストラリアに来た。
  その時以来、延々と、アボリジニの方々は、オースト
 ラリアに住み続けた。
  完全に、オーストラリアの地はアボリジニの方々の地
 となった・・国となった。
  だが、しかし、その時から50000年以上も後になって、
 キリスト教の白人たちがやって来た。
  今、紀元2000年が過ぎた頃である。
  このアボリジニの方々が、オーストラリアを国にして
 来た『50000年という年月』にどのくらいの重みがあるの
 かを考えて見なさい。
  1642年に、オランダ人のアベル・タスマンがタスマニ
 ア島を発見した。
  (このタスマニア島のアボリジニの方々も、白人キリ
 スト教徒に、この後、絶滅させられる)
  そして、このアベル・タスマンは、この後、ニュージ
 ーランドを発見している。
  17世紀末に、イギリス海賊のウィリアム・ダンビアが
 オーストラリア西海岸に上陸した。
  (結局、このイギリスがオーストラリアを奪う)
  このダンピアノ報告を受けたイギリス王立協会は改め
 て調査船を派遣した。
  1766年、イギリスは、ジェームス・クックを派遣し、
  1766年10月7日にニュージーランドを発見し、
  1770年4月20日に、オーストラリア東海岸を発見した。
  1770年4月29日に、シドニー南方のボタニー湾に上陸し
 た。
  クックは、この東海岸一帯をイギリス国王ジョージ3世
 の名において領有すると宣言した。
  (「天の名において、この領有を認めない」)
  そして、この地を「ニュー・サウス・ウエールズ」と
 命名した。
  そして、18世紀に後半に至ると、イギリスは、この地
 の開発を本格的に進めることにした。
  この計画の当初より、全住民のアボリジニの方々の殺
 戮が計画(全滅計画)として卑劣にもあった。
  そして、資源獲得と囚人対策があった。
  イギリスという国のこの方針により、先住民のアボリ
 ジニの方々は殺戮され始めた。
  アボリジニの方々に言わせれば、当然、『私たちの地
 が、イギリスに侵略された』となった(これが正論)
  そして、アボリジニの方々は、動物の狩りをされるよ
 うに射殺され続けた。
  「今日は、○○匹を獲った」と書かれた日記が残され
 ている。
  もしアボリジニの方々が、この逆の行為をしたら『正
 当』とイギリスは認めるのか?
  イギリスは、その考え方を受け入れられるのか?
  自分たちは、アボリジニの方々に対して行っておきな
 がら、その行為を、当然、受け入れられないだろう。
  その様なことを、イギリスはしたのだ。
  アボリジニの方々が、最新式の武器を持って、イギリ
 スへ上陸し、イギリスがやったことと同じことをやった
 なら、その行為を、イギリスは、認められるか?
  アボリジニの旗を立て、領有したと宣言したら・・、
  「君たちを同じことをしているのだ」という論理は、
 認められるか?
  イギリスに問う?
  または、悔い改めて懺悔せよ。
  キリスト教聖職者たちが、陰の任務として、『侵略の
 尖兵』としての任務を与えられて、世界のあちこちで植
 民地化の可能性を探るスパイ行為にうごめいていたが・・
  最悪の暗躍の極悪行為をしていたが・・
  すべての悲劇は、ここから始まった。
  アメリカ大陸のインディオの方々は、1000万人を越え
 る、途方もない数の方々が殺された。
  悪の殺戮行為を、歴史上、長い長い期間、やって来て
 いる。
  いい加減止めれば良いものを・・
  今・現代も、『形を変えて』、日本などで、色々な工
 作をしている。
  放送媒体にも潜り込んでいる、NHKにも潜り込んで
 いる。
  官僚にも、教育界にも、その他にも潜り込んでいる。
.
712年、古事記が、献上された。
  日本現存の最古の歴史書であり、文学で・・、
  この古事記に、既に、日本には『民の声は天の声』の
 考え方があった。
  この様に、『民主主義の心・考え方』は、日本古来か
 らの考え方・在り方だった。
  偉大な日本は、現代が理想としている民主主義を、す
 でに、見通し、そして、遠い昔から、実現していた。
  この書は3巻あり、序 (上表文) に、天皇陛下の天武
 天皇の命によって、稗田阿礼 (ひえだのあれ) が「誦習
 (しょうしゅう、書物などを口に出して繰り返し読むこ
 と)」していた『帝紀(皇室の記録)』『旧辞(神話・
 伝説)』を、元明天皇の命によって、側近の太安麻呂 (
 おおのやすまろ) が「撰録」し・・、
  712年(和銅5年)に、献上した。
  しかし、「誦習」「撰録」の具体的内容については諸
 説があり・・、
  天地の始りから推古天皇の時代までの皇室を中心とす
 る歴史が記され・・、
  その内容は、伝説を含む話や歌謡、系譜で・・、
  誦習を、「稗田阿礼の暗唱」という説もある・・、
  古事記原文は・・、
  「時に舎人有り。姓は稗田、名は阿礼、年はこれ廿八。
 人と為り聡明にして、目に度れば口に誦み、耳に払るれ
 ば心に勒す。即ち阿礼に勅語して、帝皇の日継及び先代
 の旧辞を誦み習はしめたまひき。」
  ここの「誦み習はしめ」が、「暗唱説」と「誦習説」
 となっている。
  ただ、当時の字である漢文の古い記録の古語を、節を
 つけて朗々と訓読する技術を持っていた人・稗田阿礼と
 解されている。
.
1066年、イギリス人は、ノルマン人の国。
  イギリスは、1066年に、フランスのノルマンディ地方
 を支配していたノルマン人が、イングランドを征服して
 建てられた。
  だから、元々、フランスに居た民族だった。
  故に、イギリス王は、フランスにも、広大な領地を持
 っていた。
  このフランスで、国王による統一の動きが強まりと、
 このイギリス王の地が絡んで戦いが始まった。
  経済的に重要な毛織物の中心地フランドル地方、天然
 の良港ボルドーを巡るフランス南西部での英仏の対立が
 激化して行って、戦争が起こった。
  このいざこざは継続して行く・・、
  その時から約271年後の1337年、フランス王は、イギリ
 ス領のボルドーと、この地方・アキテーヌ盆地を取り返
 そうとする。
  しかし、イギリス王エドワード3世は、自分の母が、
 フランス王の妹だったことを理由に、フランス王位を要
 求した・・そして、武力行使に出た・・派兵した。
  こうして戦端が開かれた・・
  長い長い戦いの幕「百年戦争(1337年~1453年)」の
 愚かなる戦いの幕が開いた。
  フランス貴族は分裂した。
  その為、戦いは一貫して、イギリスに有利に展開した。
  戦争中の1347年~1351年に、恐ろしい伝染病であるペ
 ストが、ヨーロッパ全土に蔓延し、大流行した。
  キリスト教の教義による「天のみ清浄」という洗脳で、
 地は汚(けが)れたものとされ、糞尿を道にまくという
 例の様な不衛生さが町を汚し、ペスト菌を媒介するネズ
 ミが増え・・ペスト流行をさらに悪化させた。
  このペストの大流行で、ヨーロッパ人の3分の1の人た
 ちが死んだ。
  1428年に、キリスト教の神がかり的な話で、神のお告
 げがあったとジャンヌ・ダルクという少女が登場する。
  白い馬にまたがり、聖母マリアの旗を持っていた。
  フランスは戦況を盛り返した。
  しかし、迷信だらけのキリスト教が、またも、この少
 女を魔女として、焼き殺してしまう。
  ジャンヌ・ダルクは、1431年に、19歳で、キリスト教
 聖職者の汚い「引っ掛け尋問」で魔女にされてしまう。
  ノルマンディ地方の都市ルーアンで「魔女」として処
 刑された(焚刑で焼き殺された)
  1453年に、イギリス軍が、ドーバー海峡に面した都市・
 カレーを除くフランス領土を放棄する事で戦争は終わっ
 た。
  イギリスは、ブリテン島だけとなった(スモール・ブ
 リテンの誕生)
  この後、バラ戦争(1455年~1485年)を始める。
.
1096年、第一回十字軍、
  とても聖戦などは言えないような戦いで、無実の住民
 の虐殺が実態の様相だった。
  イスラエルの住民の5万人のほとんどは殺された。
  そして、本来の目的の様に略奪が行われた。
  残った住民は、1万人に満たなかった。
  イスラム教徒側は、最初、何のための攻撃だかが理解
 できなかった。
  キリスト教聖職者(ローマ教皇のあおり)は嘘をつい
 た。
  何らエルサレムを奪ったなどとの行為は無かった。
  それなのに十字軍の行為は行われた。
  この様に、企てられた悪行の軍隊だった。
  しかし、卑劣にも、この様な企てが何回も行われる。
.
1774年、アメリカ第一回大陸会議
.
1776年7月4日、アメリカが建国された。
  大陸会議がアメリカ独立宣言を採択し、アメリカ合衆
 国が成立した。
  それから・・アメリカは、建国以来約240年・・その内、
 219年間、アメリカは戦争をしている。
.
1821年、オスマン帝国の崩壊は、1821年のギリシャ独立戦
 争から始まった(~1829年)
  アメリカは、「グローバリゼーション」を提唱してい
 るが・・、
  そして、これで、新しい人類社会の舞台が作れると主
 張しているが・・、
  これは明らかにアメリカの世界を繰る方策で・・、
  「アメリカ化」を目指していることは明らか・・、
  当然、アメリカの国益に通じる「アメリカの都合よい」、
 「アメリカが考えるグローバリゼーション」となってい
 る。
  このオスマンの時代の状況も・・これだった・・、
  オスマン世界に対抗したのが・・イギリス・フランス
 などだった。
  大きく強くなったオスマン帝国のイスラム世界に、手
 を焼いた(儲けが得られないと)イギリス・フランス・
 オーストリア・ロシアは・・、
  この時は・・「ナショナリズム」が良いのだと、しき
 りに言った。
  そして、オスマン帝国内の諸国・民族の自立心を呼び
 起こさせ・・オスマン帝国崩しを行なった。
  それによって・・オスマン帝国は、内部から崩壊して
 行った、そして、とうとう解体してしまった。
  今、アメリカは、このグローバリゼーションを行なっ
 ている・・この逆の立場・・目的は同じ・・、
  だから・・日本へ、しきりに、「グローバリゼーショ
 ンが良い」と吹聴している・・、
  日本を、かつてのオスマン帝国の様に「弱体化しよう
 としている」。
  オスマン帝国の崩壊は、1821年のギリシャ独立戦争か
 ら始まったが・・、その為、イギリス・フランス・ロシ
 アは、ギリシャの独立を支援した。
  そして、オスマン帝国の主力艦隊を壊滅させた。
  そして、1829年には、ロシアが、アドリアノープル(
 現:エディルネ、トルコ最西端の都市)を占領し、ギリ
 シャとセルビアの独立をオスマン帝国に認めさせた。
  そして、ギリシャは、イギリス・ロシアなどに支えら
 れて、ドイツから貴族を王様として招いて、ギリシャ王
 国を建てた(1830年)。
  まったく自分たちの都合よい様に・・グル(共謀者)
 となって武力行使をして、作った。
  そこには、利益のみが優先し、論理の正しさや、正義
 などは・・まったく無かった。
  また、自分の利益を保持したいイギリスは、このオス
 マン帝国の混乱を利用して、東地中海で、国益を得たい
 と、エジプト=トルコ戦争で、エジプトを支援した。
  1830年代に、オスマン帝国から独立させた。
  そして、1840年に、エジプトの太守の世襲を認めた。
.
1904年4月22日、ロバート・オッペンハイマーが生まれた。
  ユダヤ系アメリカ人の物理学者。
  第二次世界大戦の時、アメリカのロスアラモス国立研
 究所の所長として、マンハッタン計画を主導し、原子爆
 弾開発プロジェクトの指導者的役割を果たし、原子爆弾
 を作り上げた。
  このオッペンハイマーに次の言葉がある・・、
  「既に負けている日本に落とすべきではなかった」
.
1945年4月26日、リチャード・リー・アーミテージが生まれ
 た。
  アメリカ合衆国の軍人、政治家。
  アメリカのアーミテージ元国務副長官の言葉:
  「(靖国神社の参拝について)他国から参拝するなと
 指図されるようなことがあれば、逆に、必ず参拝しなけ
 ればならない」。
.
1945年8月6日、広島の市民の方々が生活する家々を見なが
 ら接近したアメリカ軍機は、原爆を、その市民の方々の
 真上に「アメリカが下した命令通り」に投下した。
  キノコ雲が上がった。
  そのアメリカ軍機は、命令通りにその後の偵察をした。
  キノコ雲が上昇したあとには、何もない、蒸発した姿
 しかなかった・・、
  何もかもが蒸発した広島の町しか見えなかった。
  少し前にはあったあの市民たちが生活する姿は・・
 一瞬にして、何もかもが変わって・・無くなっていた。
  蒸発した町を見た「投下したアメリカ兵」は・・
  『何ていう事をしたんだ』と叫んだ・・
  これが、まともな人間の気持ち・・である、
  そして、この後、命令とはいえ、この卑劣な行為が重
 くこの米兵の人生を変えて行った・・
  今・現在は、ミサイルという兵器でなされる攻撃であ
 る・・
  何十発、何百発と・・、
  一度に、何発も発射される可能性のある攻撃・・この
 様な事態が考えられている。
  広島・長崎のような町々が・・いくつも生まれる・・
  ミサイルという人間が乗務しない飛行物体によって・・
  広島・長崎の時にはあった「かすかに残されたこの投
 下した人間の思い」もないという無機質な大攻撃が今・
 現代には存在する。
  しかし、日本は、憲法の鎖にしばられ、この憲法解釈
 から・・この様な攻撃に対して・・まったく苦しい防衛
 が強いられている。
  「1発目の核攻撃は甘受しなければならない状況に置
 かれている」・・と、国会で答弁された・・憲法がこの
 様に答えさせた。
  『最初の1発目の原爆攻撃で生き残った日本人が、防衛
 に出動する』という形・憲法の形となっている。
  普通の人間なら・・これでは、防衛だなんて・・これ
 では呼べない形となっている・・と
  日本人の死んだ人を山と積んでからでないと、憲法に
 よって、防衛の形はつくれない・・と
  現憲法のために・・防衛がある様で、ない形となって
 いる。
  中国の習近平が、オーストラリアで・・、
  「○○年には、日本は無くなっている」という発言の
 言葉があるが・・この言葉が、不気味に頭によぎる・・
 残る。
  疎(おろそ)かにされている日本の防衛が、完全に馬
 鹿にされている。
.
1945年8月6日、広島・長崎の原爆で亡くなった方たちは、
 まったくと言って死ぬべき理由が無い方々だった。
  アメリカは、「アメリカの若い兵士が救われた」と腹
 が立つ屁理屈を言ったが、
  アメリカは、「原爆投下を正当化している」が、
  投下の目的は、誰の目にも明らかのように「世界で、
 アメリカだけが保持した『極大な破壊力を持つ兵器』の
 世界への誇示」だった。
  アメリカは、誰の目にも明らかな様に、「戦後を、唯
 一保持する魔の破壊力の兵器で、世界を牛耳りたい、そ
 れをアメリカができる」・・だった。
  圧倒的軍事力による世界への君臨が、この時、意識さ
 れていた。
  広島・長崎の、あまりにも多い犠牲者の方々は、まっ
 たく死ぬべき理由のない「アメリカの卑劣な考え方」か
 ら実施がなされた犠牲者となられた。
  そのあまりにもひどい卑劣な破壊力は、アメリカは、
 実験場で事前に実施して、「事前に、充分、分かってい
 た」。
  しかし、広島・長崎に投下し、実施した。
  キリスト教の有色人種の蔑視観に洗脳された白人キリ
 スト教徒のアメリカにとって、「投下すべきではないの
 抑止」に働かなかった。
  だから、戦後の世界制覇への君臨の欲望の成就が、優
 先されてしまった。
  戦後、アメリカに対抗するだろう国・ソ連が、はっき
 り見えていた状況の中で、広島・長崎の方々を「無為に
 殺した」。
  ソ連は、そのアメリカの圧倒的破壊力を保持する軍事
 力に服従する道を取らず・・対抗する方針を選んだ。
  世界は、原爆を保持する二つ大国の対立構造となった。
  アメリカのイメージした「希望的なアメリカ一極支配
 体制」などという虚構の体制にはならなかった。
  次に、原爆保持数で圧倒しようという無益な競争が始
 まる。
  アメリカが、立脚した「圧倒的軍事力で世界制覇する」
 は、世界が真似て、その後、「世界の方針」となった。
  米ソの二大対立構造が世界へ波及した・・中国が、こ
 の方針で台頭した。
  そして今、アメリカと同等のの対抗軸に、中国も、今・
 現代、存在するという悲しむべき状況にある。
  アメリカが、「銃の無い社会」が実現できない様に、
 今、世界は、核兵器のない社会から遠く離れてしまった。
  そしてさらに、今、30歳代の若輩の者が「私のテーブ
 ルの上に『核兵器のボタン』がある」と言う世界となっ
 てしまった。
  広島・長崎の市民の方々への人命軽視のキリスト教に
 洗脳された判断から、この様な残酷な残念な経緯を至っ
 てしまった。
  人類は、キリスト教によって「大きく道を踏み外して
 しまった」。
  自国民優越思想を植え付けるキリスト教は、「異教徒
 は殺せ」の異端排除のキリスト教教義によって助長され
 る。
  この様なキリスト教だという事をまったく知らない明
 治の日本の諸兄は、ただ西洋崇拝の感情からキリスト教
 に寄した。
  しかし、だが、新島襄の様に、日本で聞いたキリスト
 教宣教師の美化する話と、実際、理想を抱いて渡ったア
 メリカに住んで見て、体験し、その相違の大きさに落胆
 した。
  新島襄も、自らも、有色人種として差別を受け、また、
 あちこちで毎日、差別される有色人種の姿を見て、キリ
 スト教の限界を、ここに至って「やっと知った」。
  キリスト教思考では人類は救えないと・・、
  すべての元凶は、キリスト教に由来すると・・、
.
1947年2月20日、アメリカを主体とする占領軍の総司令部(
 (GHQ)が、輸出品に製造国名の記載を命令した 。
  (Made in Occupied Japan)
  そして、アメリカの総司令官のダグラス・マッカーサ
 ー将軍の言葉・・
  「戦争において、軍略上、最も効果的な武器とされる
 ものは、食糧、その他の物資を外部の補給源に依存して
 いる兵力を、完全に封鎖する事である。
  日本軍が、ついに無益な抵抗を止めざるを得なくなっ
 たのは、他ならぬ・・この武器によってであった」。
  今・現在、食糧自給率が他の国より極端に低い日本が
 「まさしくこの状態にある」。
  農業を大切にしない日本。
  しかし、アメリカは、自国の農産品を日本へ売りたい
 がために、さらに、日本の農業潰(つぶ)しにかかって
 いる。
  まさしく、マッカーサーの言葉状態に、今の日本が、
 さらに、なって行く。
  だから・・これは、何も戦時中の事だけではない。
  今・現代、日本は、考えられないくらい「食料自給率
 が低い国」となっているのである。
  とうとう・・食糧自給率が、30%以下となった。
  (それも、改善されずに、年々、下がっている)
  そして、アメリカの農作物を買わされている。
  今、日本人は、「天国の極楽とんぼの状態に、贅沢に
 食べ物をパクパク食べているが??」、
  国の食糧倉庫は・・乏しいものである??
  戦後・・日本が、あれほど悲惨に日本の諸都市が、ア
 メリカの無慈悲な無差別爆撃で破壊されても・・日本に
 は、『あの時、豊かな農村があった』。
  戦後の奇跡の復興と言ったって、この豊かな農村、ま
 た、この地へ、農作物を買い出しに行った「食べるもの
 のない都市の人たち」へ、着物など、直ぐに必要という
 物でも無いものと交換してくれた『優しい農家の方々』
 が、豊かな農産物と共に、日本の農村には、大勢、居ら
 れた。
  この農村の優しさが、空襲で何もなくなって困ってい
 る人々への優しい心が、『戦後の爆発的復興の起爆剤と
 なった』・・
  これを知ってか知らずか・・今の日本がある。
  しかし、今、アメリカは、日本の『命の源泉』の、こ
 の農村の農業を壊している。
  今の日本は、自転車操業の食糧サイクルの中で、「天
 国の極楽トンボの食糧状態」の中で、問題の深刻さに気
 付いていない。
  マッカーサーが言う様に、かつての日本軍の様になら
 ないように・・、
  中国が、南シナ海を、自分の領土にしたい目的の一つ
 が・・これ。
  日本の物資を運ぶ「シーレーンの遮断」。
  日本の首ねっこを掴みたいのだ。
  リスキーな日本は、目覚めなければならない。
  無頓着な・・お人好しな・・温厚な日本人・・死ぬ直
 前まで・・その死が迫っている事が分からぬ民族・・、
  偉大なる功績と、長い歴史を持つ日本が・・日本文化
 が・・その中で豊かに育まれて来たが・・その明日は・・
 これほど儚(はかな)いものだったのかと憂える時代の
 中に、今ある。
  すべてをアメリカに依存して・・それで良しとして・・
 自らの努力を・・知らないふりをして・・放棄している。
  「国防をする」を「戦争をする」と取り違えて・・ま
 ったく「自らを守ろうとしない」・・
  20XX年に、天国で、天国へ行った日本人へ、「国防の
 努力を怠(おこた)ったからですよ」と言われるだろう。
  また、「アメリカが守ってくれる」と言ったって・・
 「ここに来てしまったのですね」と言われるだろう。
  アメリカにしてみれば、アメリカの都市のその一つに・・
 核が落ちるという事を考えたら・・、
  日本に核が落ちたからって、安易に核反撃をする手が
 縮(ちぢ)こまってしまうということ・・
  自らを守ることを、他人に頼っていては始まらないの
 だ。
  核の傘は、「夢の傘である可能性が高いのだ」。
  今、日本は、スイスの武装中立国の様に、スイスの様
 な核を持った武装中立国の様に・・ならねばならぬ。
  テレビで、非武装中立を論じた者がいたが・・殺され
 てもいいのか?と聞かれて、「良い」と元気に言ったそ
 の御仁が・・
  「そのことを、あなたの妻や子にまで押し付けるので
 すか?」と問われて、返事に窮したが、
  そして、ああだこうだと言ってはいたが・・最後に自
 虐的に「お花畑論理でした」と絞り出すように吐いた言
 葉が、「その実態を表わしている」。
  自分だけなら勢いよく格好良く言ってはいたが、愛す
 る人々、妻・子供・日本の方々のこと・・他の人々の命
 の話しに話が及ぶと、その無責任論理の展開が出来ない
 ことを・・ここに至って知る。
  無責任論理で「妻や子と一緒に自殺行為は出来ない」
 ということを・・やっと知る・・
  愛する妻や子にも、他の人々にも「生きる権利がある」
 ・・当然・・
  その人々を守り抜く責任もある。
  安易な非武装中立論は唱えられない・・
  「国防」と「戦争」は違うのだ。
.
1962年10月22日 、キューバ危機。
  アメリカは、キューバに、ソ連軍のミサイル基地が建
 設中であると発表した。
  そして、抗議し、その撤去を要求した。
  そして、1962年10月22日以降、アメリカは、183隻の戦
 艦と1190機の戦闘機を動員して、キューバの海上封鎖を
 実施した。
  アメリカ大統領のJ.F.ケネディは、キューバから攻撃
 があった場合には、ソ連によるものとみなして報復する
 とした。
  アメリカの海上封鎖に、ソ連が譲歩してミサイルを撤
 去し、衝突は回避された。
  第三次世界大戦の直前だった。
  これまでの経緯・・、
  1959年1月、キューバに、カストロの革命政府が成立し
   た・・そして・・アメリカは、
  1961年1月に、キューバ、アメリカ両国は断交した。
  1961年4月、ケネディ政権は、反カストロ分子のキュー
   バ侵攻を援助したが、これに失敗した(ピッグス湾事
   件)。
  1962年1月、米州機構からのキューバを除名し、食糧・
   医薬品以外の全面禁輸などにより、政治的・経済的
   なキューバの孤立化をはかった。
.
1984年、イギリスのサッチャー首相が、EUに拠出してい
 る金が、馬鹿らしくなって、「返してくれ」と拠出金払
 い戻しを要求した。
  「不労所得の金」と、「汗水流した金」は差別せよ。
  インターネット決済の場合、その様なシステムを導入
 して、汗水流した金の価値を上げよ。
  例えば、汗水流した学生のアルバイトの金には、コン
 ビニでの買い物をした場合、2割安くする・・とか。
  逆に、ギャンブルや競馬で得た大金の場合は、2割余計
 に支払わせるとか・・と。
  ここで思いがおよぶのが、キリスト教のこと・・何し
 ろ、キリスト教は、楽して手に入れる事しか教えない。
  その極端が、困ったら隣国の富を奪え・・(キリスト
 教の)神の義があるから、その様な行為は許されるのだ・・
 と説く。
  そして、その隣国の富をとことん奪う事を教える。
  「生娘は生かしておけ」とか、「奴隷にせよ」とか、
 「○○人は男だけ殺せ」とか、「△△人は皆殺しにせよ」
 とか・・と・・こんな事ばかりが聖書に書かれている。
  この様に、自己の利益にさといキリスト教民族は、自
 民族に利益をと、なりふり構わず、他民族を殺してまで
 して、自民族の利益を得ようとする・・、
  今、EU諸国は、「自己の主権の明け渡しにつながる
 件には反対し、反発を強くしている」。
  だから、EUが、まとまる訳が無い。
  EUのどの国も、「EUへの自分たちの拠出金」を少
 なくなるようにし、また、逆に、EUの歳出において、
 「自国に、より多くの補助金が入ってくるように画策す
 ることに奔走する」。
  その様な事に、「なんだかんだと理屈を付けて右往左
 往している」。
  何ら大所高所の観点のない「キリスト教民族が利益を
 自己へ引き入れようとする様な行為となっている」。
  楽ばかりを追い求めるキリスト教。
  プレゼント話の多いキリスト教。
  貰うことが常態化した国は、「EUからの補助金は、
 すでに重要な常態化した収入源」と位置付けている。
  貰うことが当然と化している。
  グローバリズムの音頭で始まったEUなんて、何ら美
 しくもなんともない。
  補助金を当てにする、貰うのが常態化したぐうたらを、
 さらにぐうたらにしている。
  だから、EUの予算交渉は熾烈(しれつ)を極め、「
 ヨーロッパは一つ」、「皆で協力して助け合うのだ」と
 いう理念は影も形もない。
  ヨーロッパが一つになるという理念は・・、
  逆に、各国のエゴがむき出しでぶつかり合い、「その
 理念と真逆」という真実の姿をまざまざと見せつけてい
 る。
  たっぷりと補助金を貰ったギリシャは、その国民性「
 宵越しの金は持たない」の使い方を「し続けている」。
  何ら国の発展に寄与していない補助金となっている。
  EUは、「人間、生きるに大切な食料確保」に注力し
 ている。
  どこかの国の様に「天から食べ物が降って来る」かの
 ような施策は取らない(日本はまったくダメ)
  この点、EUは、しっかり農業を大切に補助し保護し
 ている。
  全歳出の45パーセントは農業に対する補助金となって
 いる。
  この大きな財源に対して、毎年、熾烈な奪い合いが演
 じられている。
  「自国以外はすべて敵」の心境となっているEU内諸
 国となっている。
  そして、その補助金に対して、国別に格差をつけて差
 別化している。
  この様にしなければならない理由は、それなりにあっ
 たのだが、これが穏便にすまない訳となっている。
  抗議の嵐が錯綜しているEUとなっている。
  各国の恨みつらみも生じている。
  かつて、資源やエネルギーを仏独が取り合って戦争ば
 かりしていた愚かな状態を乗り越えようとして出来たE
 Uで、今、補助金の取り合いという新たな抗争・争いの
 事態が起きている。
  そして、開発補助金。
  これも、EU歳出の30%を占める大きな財源で、同じ
 様に取り合う事態が演じられている。
  嘘の報告書まで作って裏切りの奪い合いとなっている。
  オリーブ畑が広がっているはずなのに岩山ばかりの地
 だとか、オリーブの木の1本もない事態とか、車が無い所
 に道路を作る話とか、羊も居ない所に牧畜補助金・・な
 どなど・・と・・、
  こんな人を欺(あざむ)く取り合いとなっている。
  美しくもなんともない。
  賄賂も蔓延している部門もあるという、また、補助金
 の獲得がなされると、「個人の獲得金」に様に思って使
 われるとか・・
  日本が、朝鮮・韓国へ、どんどん金をつぎ込んで、共
 に豊かになろうと、山野に植林し、鉄道を引き、道路を
 作り、ダムを造り、学校を作り、衛生環境を良くしよう
 と邁進し人口が3倍にするなど、こんな姿の一端も無い。
  これに頭に来たイギリスのサッチャー首相は、1984年、
 イギリスが拠出した金を返してくれと、拠出金の払い戻
 しを要求した。
  イギリスは、EU拠出金の65%を支払わないで済むよ
 うになった(毎年の免除)
.
2013年12月、日本の大学の「英語化」の動きが活発になっ
 てきた。
  「英語化」とは、大学で英語による授業を増やすこと
 のほか、外国人教員の増員、留学生の増員、事務業務の
 英語化、などなどなど・・など・・
  仮の話であるが・・今、アメリカ全土の小学校の授業
 を・・、
  ハワイ州も、そして、アラスカ州も、そのアメリカ全
 土の州の小学校の授業を・・「日本語でしなさい」とし
 たならば、
  その様にすると、「アメリカの技術力が向上する」し、
 また、「アメリカ全土の道徳心が向上する」し、「アメ
 リカが、より幸せになる」からと、
  この様な理由を挙げながら、半分、強制的に、「アメ
 リカで行なわれている英語(米語)の授業を止めさせて」、
 アメリカ全土の子供たちの、小学生の授業を変えさせた
 ら、アメリカの方たちは、どのように思うだろうか?
  「そうするメリットがあるのですから」と言われ、
 「有無を言わせず」、「小学生の授業の日本語化が行わ
 れたら」・・、
  アメリカの方たちは、どのように思うのだろうか?
  何しろ、良い所が、色々とあるのですよ・・と。
  日本語にしないのは、おかしいでしょう・・と。
  アメリカは、フィリピンで、「このような事」を、や
 った・・やらされた
  そして、日本でも、戦後、アメリカはやろうとした・・
 そして、止めた・・だが、今また、やろうとしている。
  フィリピンの方たちの言葉を取り上げ・・、
  今、フィリピンは英語化している。可哀想に・・。
  母国語教育でなければ技術は育たない。
  母国語教育で文化をはぐくみ進化しなくてはならない。
  ・・・
  グローバル化の必要性が叫ばれる中、大学の「英語化」
 が進んでいる・・が
  英語の授業を増やし、英語が母国語の教員を増やし、
 留学生を増やし、事務職員にも英語が堪能な人たちを増
 やす。
  そうしなければ世界との競争に負けると国はいう。
  そのための予算ならつけるという施策の結果、各大学
 は競うように英語化に突き進んでいる。
  だが、在米25年の佐藤匠徳・奈良先端科学技術大学
 院大学教授は「こんなことをしていると日本の競争力が
 下がる」という・・・なぜか?
  授業の英語化すると・・当然、授業の質が低下する。
  日本語の質の高い言語を使わないマイナスと・・、
  日本語という母国語レベルに遠く及ばない語彙数、語
 彙の深さ・質などが低下した授業の質が高いと言えない
 のは説明する必要はない。
  (英語という言語は質的にまったく劣っている)
  キリスト教聖職者が、現代ではまったく使われなくな
 ったラテン語を、組織から要請されて習得するのに一生
 を費やしているという人もいる・・人生を無為に、無駄
 に時間を喪失している・・という話にも通じる(時間と
 労力の無駄遣い)
  英語が話せたから「グローバルな人間だ」は、アメリ
 カのプロパガンダ・嘘話し・・、
  英語がペラペラでも・・その筋のことがわからなけれ
 ばいつまでも阿呆である。
  英語に力を入れる偏った勉強は阿呆づくりとなる。
  特に幼児期からは悲惨だ。
  グローバルなら中国語だと言う御仁も居る。
  世界一の投資家はアメリカからシンガポールに移住し、
 御子息に中国語を習わせている。
  凋落の英語を嫌った。
.
2014年1月1日、中国の最新データーによる人口は、13億6072
 万人。
  人口調査するごとに人口が増える中国。
  最近では、「一人っ子政策の強制」によって、生まれ
 た子を届け出ないで隠し、その子が、調査で新たに見つ
 かり登録される。
  中国は、これを、頭をかかえないで、この人口を領土
 拡張に使っている。
  チベットへ行かせ、チベットの地は、とうとう漢民族
 が、一番多いという場所になってしまった。
  民主主義の世の中、住民の意思が尊重される、その住
 民の意思が、何をやっても「漢民族の意思」となった。
  チベットの地は、当然、チベットの地ではなくなって
 行く。
  そして、チベット民族への圧迫も行なわれていて、チ
 ベット民族が拡散され、追い出されることが、同時に行
 われて、チベットは、ますます漢民族の地となってしま
 った。
  日本へ難民となって来ている方が嘆き、本を出されて
 いる。
  中国は、こんなことを、「内モンゴル」でもやってい
 る。
  「ウィグル自治区」でもやっている。
  これらの地の名前は、近いうちに、漢民族の州の名が、
 「漢民族の州だ」として名付けられるだろう。
  チベット・モンゴル・ウィグルは消えるだろう。
  かつて、満州族の多くいた地、日本が満州国の建国を
 助けて差し上げたが、今は、そこに満州族は居ない。
  殺されたのか? 追い出されたのか?
  文化大革命時には、想像できないくらいの自国民を中
 国は殺した・・中国は、この様なことが何度も起きると
 いう国なのだ。
  何かが起きたのだ・・そうでなければ、この様な極端
 な変化は起きない訳だ。
  そして、この様な行為が、中国国内だけではなくなっ
 ている。
  オーストラリアの牧草地が、ドンドン中国人に買われ、
 今、中国人オーナーの牧場が多くなっている。
  その中国人オーナーが、オーストラリア人を雇うとい
 う逆転現象が起きている。
  金のある中国が、今、問題になっている。
  金を貸したギリシャが、その金の返済ができなくなっ
 たら、ギリシャの港を中国の軍艦が寄港できる形にして
 しまうという、金の力で、軍事的影響力の拡大を行なっ
 た。
  こんなことは、スリランカでも行っている。
  また、中国の狙いは、尖閣諸島だけではなく、この様
 な土地買い上げが、沖縄でも行われている。
  そしてまた、北海道の安い土地が、中国によって買い
 占められている。
  土地を現金化して大都市へ出たいという日本人の地主
 から買い上げている。
  かつて、バブルの頃、日本の東京の土地の値段で、ア
 メリカ全土が買い占められると言われた。
  金さえあれば何でもできると、今、中国は、その行動
 をしている。
  だから、今、北海道の「すすきの(薄野)」は、中国
 に乗っ取られたという。
  また、札幌に中華街の中国人町を造る計画が進行中と
 いう。
  日本の公的機関がそこへ地下鉄を通すという手伝いを
 しているという。
  今、中華街の某中国人の店に、毛沢東の肖像画が飾ら
 れていることの異様さや、異常さを不気味に感じている。
  また、何故か? 中国人のラーメン屋には、どこも、
 中国寄りの記事を書く朝日新聞が置いてある。
  この様な気になることが増えている。
.
2017年、サイバー攻撃に長(た)けた中国
  サイバー攻撃とは、コンピューターネットワーク上で、
 特定の国家、企業、団体、個人に対して行われるクラッ
 キング行為で、政治的、社会的理由に基づき、社会に混
 乱をもたらしたり、国家の安全保障を脅かしたりするこ
 とを目的とする破壊活動。
   そして、通信などのネットワークに侵入し、壊したり
 データを盗んだりし、市民生活や企業、政府、軍の活動
 に被害を与え・・、
  アメリカは、企業情報を中国が盗み、大統領選にロシ
 アが介入したと指摘した。
  しかし、アメリカのネット侵入による情報収集も、オ
 バマ政権時に発覚したりした。
  そしてさらに、データーを盗むだけではなく、相手を
 混乱させる目的からデーター改ざんなどもされている。
  このインターネット工作で、中国は、アメリカの最新
 鋭の『核弾頭技術』の情報を得た、集めていた。
.
2018年、アメリカは、現実的な使用可能な小型原爆で抑止
 力を向上させる必要がある・・とし・・、
  また、アメリカは、先制攻撃もあり得るとした。
  (参考)先制攻撃:先に攻撃すること、
  これを、別な表現をすれば・・
  今・現代、当然、日々、技術は進歩をしている・・、
  第二次世界大戦時に生まれた原子爆弾の威力も「格段
 に強力に、より大きくなっている・・
  原爆が生まれた直後の頃は、広島・長崎の都市が蒸発
 する爆発威力であったが・・、
  今・現代は、1発の原爆で、東京都・神奈川県・埼玉
 県・千葉県が蒸発する威力となっている。
  または、「日本は3発の核爆弾で蒸発する」とも言わ
 れている。
  アメリカは、この様な核爆弾を、広島・長崎投下型の
 核爆弾にする・・と・・、
  若しくは、さらに使いやすい小型爆弾を持つ方向に行
 く・・とした。
  そして、日本の防衛(国防)の考え方が、国会で議論
 されているが・・、政府は次の考え方を示した。
  日本の防衛(国防)は、日本国憲法に則(のっと)り
 実施されなければならないのは当然であり・・、
  その防衛姿勢を具体的に言えば、相手の武力攻撃があ
 った後に、防衛力発動を行なうという事となる。
  (憲法の攻撃武力の行使抑制でこの形になる)
  しかし、攻撃を受けたからと言って、最小限での防衛
 力発動となる。
  そして、その対応に於いて、日本は防衛のための武器
 だけの姿勢に留める。
  この様に大変厳しい防衛戦略となっている(憲法によ
 る抑制のために・・)
  例えば1例、ミサイル攻撃を受けた日本は、『1発目は、
 その攻撃を甘受しなければならない』。
  憲法に則って防衛を実施する形と言えば、この様な形
 となる・・と・・日本政府は示した。
  この占守防衛の形は、日本政府の一貫した形として来
 た・・これは、今後も変更せず堅持すると・・(以上)
  誰もが、楽しく、幸せな毎日を過ごして見過ごして来
 た日本の防衛・・しかし・・、
  その日常の平和・幸福を突き詰めて行くと、この様な
 形の上に立脚している・・砂上の楼閣なのだ・・
  1発目は甘受する・・つまり、関東平野の諸県や都が
 蒸発してから、防衛に動き出すということだ・・、
  もしくは、攻撃兵器の種類によっては、日本の3分の
 1が蒸発してから、防衛出動するというのである・・
  今の憲法では、その様にしかできないと言うのである。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)577E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年3月~1893年3月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)577E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年3月~1893年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年3月4日、グロバー・クリーブランドが第24代米大統
 領に就任した(第2期)
  恐慌と共に大統領になったような民主党の大統領であ
 ったが、恐慌から抜け出すことが出来なかった。
  労働者のストライキが頻発した。
  シカゴのプルマン寝台車会社のストライキは大規模と
 なり、アメリカ鉄道組合も同調し、ストライキは24州
 におよぶ大ストライキへと発展した・・
  グリーブランドは、連邦正規軍を出動させ、指導者を
 投獄の要求をし、ストライキはやっと収まった・・
  しかし、全米労働者の憤懣は最高潮に達した・・
  そして、内政の数々は失敗し、民主党は壊滅した。
  この二期目の彼の政治を、評論家は・・、
  「想像力がほとんど無く、国の経済的災害に圧倒され
 た大統領だ」と批判した。
  彼の一期目の政治は、先住民のインディアンから借り
 受けていた牧草地の契約を無効にした・・そして、放牧
 業者、および、インディアンの方々の双方の生活を苦し
 める様な政治をした。
  ただ、外交政策で良いことをした。
  実業界の利益追求から仕組まれたハワイ併合問題を認
 めなかった・・アメリカのペテン政策に正直に反対した。
1893年3月9日、朝鮮政府が、防穀令による日本側の損害を
 4万円余りと報告した。
  因みに、1891年12月、朝鮮政府に対して14万7000円の
 損害賠償の請求を行なっていた。
  1897年4月、11万円の賠償と公使召喚で妥結した。
1893年3月10日、象牙海岸地域がフランスの植民地となる。
  貿易商品が象牙であったことに由来して命名されたコ
 ートジボワールとガーナの沿岸部のこの地を、
  ヨーロッパ列強諸国はアフリカ大陸分割に乗り出し・・
 フランスはサハラ砂漠の北側(アルジェリア、モロッコ、
 チュニジア)だけでなく、サハラの南側(ニジェール、
 セネガル、マリ、トーゴ、コートジボアールなど)の広
 大なアフリカ地域を植民地にして行った。
  1843年に、フランスが、この象牙海岸の沿岸のアシニ
 などの諸首長と保護領条約を締結を経て・・
  1893年、フランスが植民地とし、フランス領植民地コ
 ートジボワールが誕生して65年間の植民地が始まる。
  公用語をフランス語にする。
  因みに、コートジボワールは、フランス語で「象牙海
 岸」という意味であるが、1985年に、国際機関がフラン
 ス語の国名を意訳しない様に求める決議を行なったので、
 『国名』を言う時は「コートジボワール」と言わねばな
 らない。
  そして、1960年になって、やっと、コーヒー・ココア
 農民組合を基盤にした、独立運動を主導したウフェボア
 ニが中心になり、フランスから独立を勝ち取ることがで
 きた。
1893年3月16日、鉄道庁長官に、松本荘一郎が就任した(井
 上勝依願免官)
  松本荘一郎は、播磨国(兵庫県)生まれ、大垣藩(岐
 阜県)藩士の推薦を受け同藩に出仕した。
  大学南校に入り、1870年、アメリカ留学して土木工学
 を学ぶ。
  1876年、帰国し、東京府御用係となり、そして、開拓
 使御用係、工部権大技長、
  鉄道庁に入り、鉄道庁長官となり、全国の鉄道敷設に
 貢献する。
  1898年に、帝国鉄道協会を設立している。
1893年3月17日、川越大火が発生し、1,302戸が消失した。
  20時15分頃、埼玉県入間郡川越町(現・川越市)で発
 生、旧城下の養寿院門前から火災発生の一報で半鐘が鳴
 り、町の消防22組が総出で消火作業に当たったが、
  北からの強風・連日の晴天続きによる空気の乾燥・消
 火用井戸水の使い果たしなどから火勢は土蔵の間を縫い
 短時間で南町・本町・多賀町・江戸町・上松江町・連雀
 町・鍛治町・相生町・志義町・久保町・鉄砲町・北久保
 町・南久保町・東明寺相生町・高澤町・猪鼻町に拡がり
 計17町を焼失。翌18日8時に鎮火した。
  当時の町域の3分の1に相当する1,302戸を焼失した。
  当地は、埼玉県で最も栄華を誇った商人の街だが、火
 の回りが速く、家財道具を持ち出せず全財産を失った者
 も出た。
  死者・負傷者は出なかった。
  罹災者1,014人は、光西寺や栄林寺などの寺院や川越学
 校などに設けられた11ヵ所の救助所に収容された。
  地元商人たちも、次々、金品を寄贈し、また、当地に
 縁の深い渋沢栄一らの義援金・現金・米・醤油などの生
 活物資に至るまでの救援もあり、
  商人たちは、耐火性に優れた蔵造りを、東京から職人
 を招いて再建に当った。
  大火後、2年から3年で、200棟を上回る蔵造りが建設さ
 れるという早さだった・・団結・協力・助け合いの強さ
 だった。
1893年3月20日、郡司成忠海軍大尉らの63人が、千島探検に
 出発した。
  郡司成忠(ぐんじしげただ)海軍大尉は幸田露伴の兄
 で・・、
  1875年、千島樺太交換条約の締結後、ロシアに対する
 脅威から北方の警備・防衛、千島開拓の必要を感じ、志
 を抱いた。
  海軍大尉まで進んだが、自らの志の実現のために、1893
 年に予備役となった・・そして、報効義会を組織し・・、
  1893年3月20日、35人が、ボートに分乗して東京を出発。
  19人は青森県鮫沖で死亡するが・・、
  16人が占守 (シュムシュ) 島に上陸、探検し、
  越年中に10人が死亡。
   その間、拓殖方法などを研究調査・・そして・・
  1896年、60人余りの同志を募り、家族とともに占守島
 に移住した。
  そして、部下と開発にあたって、農業、漁業の開発・
 開拓に成功した。
  日露戦争の開戦後に、カムチャッカへの進撃を行なっ
 た。
  しかし、失敗し、捕らえられ捕虜となる・・が、脱出
 を行なった。
  そして、海事・国防思想の普及や、北辺の警備・防衛
 思想の重要性を説いた。
  因みに、占守島は千島列島北東端の島で、日本の領土
 である。
  少なくとも、サンフランシスコ条約締結以来、領有権
 の帰属は未確定で、ロシアの実効支配下の島と言える。
  この占守島は、第二次世界大戦の終結後の1945年8月18
 日に、ソ連が不法にも、この占守島に卑劣にも攻撃を仕
 掛けて来た。
  そして、占守島の戦いが起き、8月21日まで続いた。
  終戦後であったが、優秀な日本軍は応戦し撃滅した。
  しかし、終戦後であったため、日本軍は武器を置いた。
  この根拠ない戦闘を仕掛けられた優秀な日本兵たちは、
 決して戦いに敗けてはいなかったが、法的根拠のない状
 態で(拉致状態で)シベリアへ連れて行かれた。
1893年3月26日、北海道炭砿鉄道の手宮~桟橋間が開通した。
  北海道炭砿鉄道は、単なる鉄道会社ではなかった。
  創立時は、室蘭~空知太間、および、夕張・空知の両
 炭鉱支線の鉄道を敷設し、
  あわせて、幌内・幾春別鉄道の払下げを受けて、鉄道
 業を営む鉄道会社でありながら、
  同時に、幌内炭鉱の払い下げを受け、幾春別・空知・
 夕張などの諸炭山から石炭を採掘し、石炭の輸送・販売
 を行なう石炭業を兼営した。
  その後、回漕業、骸炭(がいたん、コークスのこと)
 製造業、山林業などを兼営する。
  そして、1906年以降は、製鉄業、電灯業、煉瓦業、製
 材業を兼営し、
  1907年には、日英共同事業として日本製鋼所を設立す
 る。
  しかし、日露戦争後に経営危機に陥り・・
  1913年に、三井財閥の傘下に吸収された。
1893年3月29日、目黒火薬製造所・白金火薬庫が、海軍省か
 ら陸軍省(東京陸軍砲兵工廠)へ移管された。
  そして、軍用火薬や、坑山用火薬の製造及び貯蔵を行
 う。
  1893年度は、12万kgでしかなかった火薬製造量は、順
 次、設備の拡充に努めた結果、1897年度には、55万kgに
 達した。
  1923年、関東大震災で被災したため、群馬の岩鼻(高崎
 市)に施設を移転した。
  ここは、1878年、海軍の火薬製造所として建設が進め
 られ、1885年に完成していた。
1893年3月29日、三重県松坂市が大火となる。
  町の約半数に当たる1500戸余りが焼失した。
  午後7時頃、魚町二丁目あたりから出火、折からの烈風
 にあおられ、中町の松阪警察署に移り、伊勢(参宮)街
 道沿いの家並など、町の中心部のことごとくに延焼し、
 中町から愛宕町一帯が焼失した。
  翌3月30日の午後3時頃まで燃え続けた。
  罹災戸数:1318戸、罹災人員:4152人
  県庁から白米を送るなど、県内外から多くの義捐金や
 救助米が寄せられた。
  また、火災後の片付けのほか、罹災者への焚き出し、
 宿舎の提供、町内医師の無料診療・施薬、教員たちの「
 火災緊要書類調製」などが自主的に行われ、救助と復旧
 が図られた。
1893年3月、山縣有朋(やまがたありとも)が枢密院議長と
 なる(1838年~1922年)
  軍人・政治家、陸軍大将・元帥。
  1838年6月14日、長州萩藩(山口県)の蔵元付仲間とい
 う軽輩の家に生まれた。
  家庭的には恵まれず、母は5歳のときに病死し、妻:友
 子との間に3男4女をもうけたが、山県の死後も生きたの
 は次女のみであった。
  吉田松陰の松下村塾門下生として尊攘思想を学ぶ、
  1859年(21歳)藩命で、伊藤博文ら5名と京都に派遣さ
   れ、以来、尊王攘夷運動に参加した。
   この時の伊藤博文との関係が、この後に重きをなす。
  1863年(25歳)奇兵隊軍監に抜擢され、壇ノ浦支営司
   令となる。
  1864年(26歳)英米仏蘭の4国連合艦隊と交戦して負傷
   (4国艦隊下関砲撃事件)
  1868年1月(30歳)戊辰戦争に参加する。
   大村益次郎の姿を見て、この後、継いで行く・・、
  1869年(31歳)西郷従道と共に渡欧する。
   ヨーロッパ諸国の軍制を視察、この後、陸軍創設・
   徴兵令施行・軍人勅諭の発布など軍制の整備に努め
   て行く。
  1870年8月(32歳)帰国直後、兵部少輔となる。
   数日後、兵部大輔の前原一誠が辞任、そのため、実
   質上、明治維新政府軍部の最高首脳となった。
  1871年8月29日(33歳)廃藩置県の実施となる、また、
   山県の兵部大輔就任が重なった。
    直ちに、国軍の創設に着手する。
    薩摩・長州・土佐の3藩の1万の兵で、親兵を組織
   するとともに、
    東京、大阪、鎮西(小倉)、東北(仙台)の4鎮台を設
   置した。
    ヨーロッパでは数百年を要した兵権統一の大事業
   を一気に実行した。
  1872年(34歳)兵部省が廃止となり、代わって陸軍・
   海軍両省が設置され、陸軍大輔に任じられる。
  1873年(35歳)陸軍卿となる。
  1877年(39歳)2月、西南戦争、征討参軍となる。
  1878年(40歳)初代参謀本部長。
   参謀本部、監軍本部を設置し、統帥権の独立(参謀本
   部を陸軍省から独立させ)を進め、
    軍政(軍備・人事・予算など軍事に関する行政)と、
   軍令(統帥)の区別を明らかにした。
  1878年(40歳)「軍人訓誡」
  1882年(44歳)「軍人勅諭」を発布。
  1885年(47歳)初代内相。地方制度を整備する。
    第1次伊藤博文内閣で、はじめて軍務外の内務大臣
   に就任した。
    黒田清隆内閣でも引き続き内相を務める。
  1887年(49歳)官僚制度の出発点となる文官試験制度
   を施行した。
    国のエリートが国の組織に加わりやすくした。
  1888年(50歳)市町村制を公布(翌年施行)した。
    内務卿になるまで、陸軍卿(初代)、近衛都督、西
   南戦争(1877年)における征討軍参謀、参謀本部長な
   ど陸軍の枢要ポストを歴任した。
  1889年(51歳)12月~1891年5月、組閣(第1次山県内
   閣)
  1890年(52歳)この年まで内相を兼ね、全国を包括す
   る警察制度の実現にも努めた(1900年3月治安警察法
   公布)。
  1890年(52歳)陸軍大将
  1891年(53歳)元勲礼遇
  1892年(54歳)第2次伊藤内閣の司法大臣
   伊藤博文と共に明治政府の指導的立場となる。
   内務卿・枢密院議長・総理大臣等を歴任して行く。
  1893年(55歳)枢密院議長
  1894年(56歳)~1895年、日清戦争、第1軍司令官
  1898年(60歳)~1900年9月、組閣、再び首相に・・、
   以後、元帥に、そして、元老格として陸軍、政界、
   官界、警察に、そして、内政、外交のお目付け役と
   なる。
  1898年(60歳)元帥
  1900年(62歳)5月、軍部大臣現役武官制を設ける。
  1904年(66歳)~1905年、日露戦争、参謀総長兼兵站
   総監
    両戦争後に戦史編纂。
  1909年(71歳)朝鮮での伊藤博文暗殺。
    軍および政界を支えた。
    大正期(1911年)になると制肘力は衰え・・、
  1921年(83歳)宮中某重大事件で、山県が主張する婚
   約解消論が敗れると、小田原の古稀庵に閉じこもり、
   第一線を退く・・、
  1922年2月1日(85歳)死去。
.
  (今日の言葉)
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  題:近代の先頭を走るアメリカで、グローバル化の矛盾が
   限界に達している。
    グローバル化によって激しい歪みがある今、民主主義や
   資本主義が、レールを踏み外している。
    日本も、対岸の火事ではなく、経済格差や移民に伴う問題が
   必ず、何らかの形で噴出する。
.
紀元前5万年、ベーリング海峡を渡って、東ユーラシア大
 陸の人々がアメリカ大陸へ渡った。
  また、約3万年前~1万3000年前のウルム氷期の最寒期
 とされる頃に、ベーリング海峡地域は陸地化していて、
 いわゆるベーリンジアとなっていた。
  ユーラシア大陸のモンゴロイドは、このベーリング地
 峡を渡ってアメリカ大陸に進出した。
  (参考)ベーリンジア(ベーリング陸橋):現在のベ
     ーリング海峡付近に、上部洪積世の氷期に陸化
     していた陸地のこと。
      人類の新大陸への渡来の経路、および、時期
     と深くかかわりあう、その古環境とともに注目
     されていて、ベーリンジアいわれる。
      氷河形成による海水面低下により出現したも
     ので、陸橋が存在していたのは約5万年前から約
     3万5000年前までの期間と、約2万5000年前から
     約1万年前までの期間だという。
  日本には、「血は争えない」という言葉がある。
  ベーリング海峡が、まだ地続きだった頃、だから、大
 昔の大昔、日本などの東ユーラシア大陸の人々が、その
 地続きのベーリング海峡を歩いて渡って、アメリカ大陸
 へ行った。
  そして、とうとう、風の吹きすさぶパタゴニアまで、
 南アメリカ大陸の南の最南端まで行き着いた。
  だから、アメリカ大陸、北米・中米・南米、そして、
 その離島まで、その東ユーラシアの人たちで満ちた。
  北アメリカ大陸を見ても、北はアラスカなどのエスキ
 モーの方々、そして、アメリカ合衆国のアメリカ・イン
 ディアンの方々、その隣のメキシコ・インディオの方々。
  しかし、「カナダが未定となっている・・空白となっ
 ている」・・??
  何故なのだ??
  そこにも、人が居たわけだ・・東ユーラシアからの人
 が・・。
  そして・・それが・・分かった。
  最近、カナダへ旅した方の写真に、今は居ないカナダ・
 インディアンの方々の集落の写真があった。
  このカナダ・インディアンの方々の記念館もあった。
  「このカナダ・インディアンの方々は、今、存在して
 いるのですか?」との質問をした・・、
  かつてからの、以前からの疑問だったことを質問させ
 て戴いた。
  その方は、「黙って」居られた。
  その方の「その答え方」から答えは分かった。
  その方の答え方は、「そうだろう」と予想は出来てい
 た。
  やはり、「血は争えなかった」。
  隣国の富を、(キリスト教の)神の義があるからと、
 隣国の人々を殺戮してまでして「奪う事を是認する宗教」
 に洗脳されて、アメリカ合衆国と同じことをやっていた。
  カナダは、特に、「バッファロー狩り」で、食糧を奪
 う方法で、カナダ・インディアンの方々を絶滅させてい
 た。
  特に、アメリカ合衆国より寒冷の地・カナダでは、こ
 の攻撃方法は、たまらなかっただろう。
  このカナダの、特に、悲惨な事は、生き残りの方々が
 居ないことだ。
  また、完全に、その事実が覆い隠されている事だ。
  この悲惨な行為をしたという事を懺悔して、すべての
 事実を、すべての史実を、世界へ公表して、懺悔し尽く
 すべきだ!
  また、国の半分を返還して、完全絶滅させた「カナダ・
 インディアンの方々」を祈念すべきだ。
  (参考)血は争えない:この「血」は、『血統』(先
     祖から代々受け継がれてきた血のつながり、血
     すじ)を意味する。
      そこから、血=親、先祖を意味し、
      「子は、親と同じ道を歩むものが多い」とい
     うことを表している。
.
紀元前800年、ギリシャに、「民主主義が発祥した」と言う
 が・・、
  今・現代、民主主義が発祥した当時の民族とは、まっ
 たく違った民族となっている。
  その様なギリシャが、今、その様なことを言えるのだ
 ろうか?
  「かつて、民主主義を発祥させたギリシャに住んだ『
 かつてのギリシャ民族』とは違う・・今・現代のギリシ
 ャ人」とは言える。
  だから、それを言うなら、但し書きを付けて言わねば
 ならない。
  日本だって、今の様な移民政策をしていたら、この素
 晴らしい遺伝子を持つ日本民族とは違う日本民族となる
 であろう。
  素晴らしい素質と業績を持つ今の日本人は、消えて無
 くなってしまっているだろう。
  ギリシャは、紀元前800年に、民主主義を発祥させたが、
  紀元前2世紀に、ローマ帝国に組み込まれ、国柄ががら
 りと変わった・・風土もがらりと変わった。
  また、15世紀には、オスマン帝国に駆逐された。
  1829年に、ギリシャは、2600年間以上もの空白の期間
 を経て、やっと、ギリシャという国としての再興がなさ
 れた。
  ・・が、しかし、かつての、アテネはないと言って良
 い状態となっていた。
  荒れ果てて、人口もほとんど居なくなっていた。
  ほんのわずかな数・・4千人程度を数える程度だった。
  そして、この時、ギリシャ人ではなく、ドイツ王子が
 ギリシャ王となった。
  この様な歴史のギリシャには、スラブ民族が流入した。
  そして、アラブ民族が流入した。
  そして、さらに、ラテン民族が流入した。
  色々な民族が流入して、移民と言えば移民かもしれな
 いが、まったく栄光のギリシャは、何処に引き継がれた
 のか?と問えば、探しても見つからない様な状態となっ
 ていた。
  陸続きであって、民族の単一性が保たれたなんて、完
 全に言えない状態となっている。
  ギリシャの地域に居る古代とまったく違った「ギリシ
 ャ人と名のる人々」となった。
  日本もこの様になるのだろうか?
  アメリカだって、すでに、「ピルグリム・ファーザー
 ズの人々」とは、まったく違った人々が、国民となって
 しまっている。
  (参考)ピルグリム・ファーザーズ:アメリカに渡っ
     たイギリスのピューリタン(清教徒)たち。
.
16世紀~18世紀、フランスは、アンシャン=レジームの社
 会・政治体制だった。
  国民は、三つの身分に大別されていた。
  第一身分がキリスト教聖職者で、この層が最上位で虐
 げていた。
  そして、第二身分が貴族、第三身分に市民や農民が居
 た。
  キリスト教聖職者は免税特権を持っていた。
  この状態を風刺した絵が残っているが、「市民の上に
 石を乗せて押しつぶし、その石の上にキリスト教聖職者
 と貴族が乗っている」。
  社会のうまい汁を吸うキリスト教聖職者と貴族を糾弾
 している。
  市民や農民は、手足をばたつかせて喘(あえ)ぐ社会
 だった。
  アンシャン=レジーム・・旧体制。
  この圧迫がフランス革命の素地(そじ、もととなるも
 の)・・
.
17世紀後半~18世紀初頭、元禄文化
  日本の社会も安定し、農村における商品作物の発展と、
 それを基盤として都市町人の豊かなる台頭による産業の
 発展があり、経済活動が活発化していた。
  その様な社会の中で、文芸、学問、芸術が著しく発展
 した。
  庶民の生活・心情・思想などが、出版物や劇場を通じ
 て表現されていた。
  小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左
 衛門、絵画の尾形光琳や菱川師宣、工芸の尾形乾山、儒
 学の貝原益軒や新井白石、古学の山鹿素行や荻生徂徠、
 国学の賀茂真淵などは、日本の歴史上、凛然と輝く存在
 となっている。
  日本の施政者は、国民が豊かに安心して暮らせれば、
 国全体が栄えるという事を知っていた。
  また、天皇陛下の御役目は、国民が平和に暮らせるよ
 うにと祈る事だった。
  日本人は、古来より「殿様も農民も、一つの船に乗り
 込む」という人たちだった。
  日本には、古来より自然発生的な民主主義があり、何
 もヨーロッパに教えられたというものではなかった。
  この様な日本、この様な徳川の治世、古い昔からの日
 本の状態を、ヨーロッパからみれば「まったく信じられ
 ない」と感嘆の声を上げるに違いない。
  日本は平和で豊かな国だった。
  ヨーロッパのフランス革命のような、虐(しいた)げ
 られる農民の方々が、特権階級の貴族やキリスト教会に
 対して、武力によって革命を起こしたのとは、まったく
 違っている社会だった。
  ヨーロッパは、上の者が下の者を徹底的に蔑(さげす)
 み、下の者が上の者を徹底的に恨(うら)み憎(にく)
 む構造だった。
  革命では、長年(ながねん)鬱積(うっせき)したそ
 の憎しみからギロチンの嵐となった。
  日本は、何千年も持っていた「同じ船に乗っている」
 という感覚の社会だった。
.
17世紀末、ロシアが、カムチャッカ半島まで来た。
  ロシアは、生活することが難しいこの地・極寒の地で、
 生活する食糧などの生活必需品を求め、1792年に、ロシ
 アの最初の使節であるラックスマンが、日本へ派遣され、
 江戸幕府に通商を求めた。
  江戸幕府は、これを拒絶した。
  すると、ロシアは、日本人が居住して日本領となって
 いる樺太(サハリン)や、択捉島(エトロフ島)の日本
 の拠点を襲撃した。
  幕府は、松前藩に、北海道東部(東蝦夷)も管轄地(
 直轄地)として与え、ロシアに備えさせる国防任務をさ
 せた。
.
1786年、最上徳内が、日本の領土である国後島・択捉島を
 探検した。
  また、その北の得撫島(うるっぷとう)も探検し、日
 本の領土と主張し得る足跡を残した(~1799年)
  日本固有の領土の北方4島と得撫島が、この時、確定
 された。
.
1789年7月14日、フランス革命
  この日のバスティーユ牢獄の襲撃を契機として、フラ
 ンス全土に騒乱が発生した。
  このフランス革命で60万人もの方々が命を落とした。
  圧迫される民衆が、止むに止まれず起こしたフランス
 革命のバスティーユ襲撃。
  (参考)止むに止まれぬ:やめようとしても、やめら
     れない。そうするよりほかない。
  フランス革命が起きる前の社会情勢は『卑劣な最悪社
 会』だった。
  特に、権力を得たキリスト教聖職者が民衆を圧迫して
 いた。
  市民革命のフランス革命は、起きるべくして起きたの
 だった。
  農産物の不作もあって物価は高騰し、庶民の不満は頂
 点に達していた。
  1789年10月5日、パリの数千の女性方が武器を持って雨
 の中を、パリ市役所前の広場に集まった。
  そして、ヴェルサイユ宮殿に乱入し、国王と議会に、
 食糧を要求した。
  一部は暴徒と化し、ルイ16世は、この圧力により人権
 宣言を承認して、女性たちに連れられてパリのテュイル
 リー宮殿に家族と共に移り住んだ。
  ルイ16世一家は、これ以降、パリ市民に監視下で暮ら
 した。
  この様な市民の爆発が起きる原因、その圧迫の原因者
 は、貴族とキリスト教聖職者にあった。
  特に、キリスト教聖職者は悪辣だった。
  革命勃発以後、キリスト教聖職者などの特権階級の多
 くが、国外逃亡をしなければならないくらいだった。
  特に、1792年5月~1794年10月まで、キリスト教は徹底
 的に攻撃された(キリスト教は弾圧と称しているが?)。
  また、革命勃発以来、キリスト教聖職者の追放と、キ
 リスト教会への憤懣が爆発し、破壊と略奪が続いた。
  この様な状態を引き起こしたキリスト教は、それまで、
 権力と金を欲しがって行動していた。
  信徒を増やしたり、信徒が欲しいなんて全く関係ない
 という状態だった。
  権力のあるものにすり寄り、自らも権力を得て行った。
  そして、世俗の王を越える地位さえ得た。
  「キリスト教の教会前の門にヒザまづいて許しを乞う
 王さえいた・・カノッサの屈辱(1077年1月)』
  キリスト教聖職者は、民衆の搾取に関して、貴族に決
 して劣らず悪辣だった。
  生活も王侯貴族並みの贅沢三昧な生活をしていた。
  また、愛人も王侯貴族なみの数の愛人を囲っていた。
  キリスト教に偏するNHKは、決してこの様な放送は
 しない・・日本を貶める放送ばかりをするNHKとなっ
 ている。
  キリスト教は、納税の義務からも逃れていた。
  しかし、逆に、民衆からは、苛酷に税金を奪い獲った。
  18世紀後半、フランス革命の前の頃、キリスト教聖職
 者は、莫大な教会税を民衆に課していた。
  民衆は8割が農民だった。
  この農民が、貴族とキリスト教会を支えていた。
  民衆は、重い年貢の他に、地代、塩税、人頭税、賦役
 労働、水車使用料・竈(かまど)使用料などを支払わさ
 れた。
  裁判権も奪われ(キリスト教裁判所)好き勝手、やり
 たい放題に虐げていた。
、 フランス革命は、起きるべくして起きた。
  民衆は爆発した・・だから、フランス革命は残虐な復
 讐劇を演じた・・公開のギロチン刑の嵐が現出した。
  その後も、反乱が起き、恐怖政治が起き、大量殺戮が
 起き、キリスト教と貴族の圧迫の反動は「まったく卑劣
 な状況」となった。
.
18世紀後半、イギリスで綿糸をつくる紡績機や、綿糸で布
 を織る綿織物の分野で、早く大量に製品を製造できる機
 械が次々と発明された。
  また、石炭を燃料とする蒸気機関も改良され、紡績機
 や織機などの動力として用いられるようになった。
  人々は大きな工場に集められ、集団で働くようになっ
 た。
  生産量は飛躍的に増大した。
  人々も、かつての毛織物に代わって、インド産の木綿
 を原料にした綿織物の衣服を着た。
  かつては田園だった所に、黒い煙を吐き出す工場が立
 ち並ぶという都市が出現した。
  鉄道も発達し、工業を中心とする社会に変化して行っ
 た。
  19世紀半ばには、約50年遅れて、この生産システムが、
 フランス、ドイツ、アメリカに広がった。
.
1808年、間宮林蔵が、樺太全土をほとんど探検し、間宮海
 峡を渡って、大陸のアムール川流域まで探検した(~1809
 年)
  アングロ・サクソン風に言えば、樺太全土は日本の領
 土である。
  また、アムール川流域も日本の領土である。
.
19世紀末、李氏朝鮮(りしちょうせん)は1392年から1910
 年にかけて朝鮮半島に存在し、朝鮮王朝、朝鮮封建王朝
 と呼ばれた。
  1392年、高麗の武将・李成桂太祖(女真族と言われる)
 が恭譲王を廃して、自らが高麗王に即位した事で成立し
 た。
  朝鮮という国号は李成桂が、明の皇帝から下賜された。
  そして、1401年、明から冊封を受けた。
  17世紀以降、中国王朝が清に変わっても、引き続き冊
 封されていた。
  李氏朝鮮は貧しく、特に、末期の朝鮮半島は、大変貧
 しく、どうしようもない国だった。
  宗主国の清国と、ロシアと日本の間を右往左往した。
  そして、結局、日本に併合を求めて来た。
  改革開明派は、特に強く日本に期待し、求めた。
  日本は、国際条約に基づき、保護国として併合を行な
 った。
  国際社会は、至極当然のようにして何も言わなかった。
  アメリカやイギリスの様に武力によって併合したので
 はない。
  また、日本は、アメリカやイギリスの様な収奪はしな
 かった。
  資本を投下して、インフラの整備をして行った。
  また、あらゆる面の改善を行なった・・その結果、衛
 生環境も見違えるほど向上し、朝鮮半島の人口は『3倍
 になった』。
  また、捨てられ、忘れ去られていたハングル文字を復
 活させた・・また、普及させた・・
  今、ハングルが、韓国で便利に使われているのは、こ
 の時の日本の改善のお蔭。
  学校教育も充実させた・・学校をどんどん作った。
  朝鮮半島は、中国の宗主国の習慣におもねってハング
 ル文字を忌避し、漢字を使っていたが、日本がハングル
 を使いやすく合理的だと復活させた。
  清の冊封体制へのごま摺り体質を変えた。
  アメリカは、可哀想に、フィリピンを強引に異国の言
 葉・英語化したが・・、
  日本は、納得の上で、韓国・朝鮮に存在したもので、
 この様に改善した、今、韓国は、そのハングルが無けれ
 ばやっていけない社会となった。
  これは福沢諭吉の卓見だった・・
  諭吉のハングルと漢字の「漢字かな混じり」は優れた
 提案だった。
  この効果があり、朝鮮半島の教育は、急速に普及した。
  識字率は飛躍的に高くなった。
  近代化への路も急速に進んだ。
  この様な事を知っている東南アジアの国々は、韓国と
 違って、日本に本当に『期待した』。
  正しい行為は理解されている。
  この様な日本の『自立した独立国家としての形』を待
 望している。
  正しい日本の行為は、今、日本の財産となっている。
.
2016年、放送大学は嘘を教える。
  この様な講座なら聞かない方が良い。
  例えば1例、アメリカ合衆国のバッファローは乱獲され
 て絶滅寸前まで行ったと教えたが、これは嘘。
  正しくない。
  正しくは、先住民の方たちの絶滅を計画して、この目
 的のために、インディアンの方たちが食糧としていたバ
 ッファローを狩り続けた。
  その目的だけの為に、ひたすらバッファロー(アメリ
 カ野牛)を殺した。
  アメリカ・インディアンの方たちが、自分たちの生き
 る糧だから、大切に狩りをして来た大切なバッファロー
 を、無意味に、ただアメリカ・インディアンの方たちを
 絶滅させたいと、アメリカはバッファロー狩りをした。
  その写真が残っている。
  バッファローが無意味に大量に殺され、アメリカ西部
 の野原に山と無残に積まれている・・という写真がある。
  そして、そのバッファローの山の上に、アメリカ人(
 白人)が誇らしげに立っている。
  しかし、放送大学はこの事にまったく触れない。
  真実を放送しない。
  わざわざ日本国民の電波を使って「嘘講義をしている」。
  誤認混同を起こす嘘講義をやっている。
.
2018年、もはやEUという国は、いや、EUという地域は、
 国境線の内に閉じこもる地域と化した・・国々と化した。
  EUは、理想を掲げたが、どこかで道を誤った。
  今は、広がったEUの国境線の内に閉じこもる「理念
 とはまるで違った国・加盟国らの姿になった」。
  グローバリズムは終わった。
.
2018年、日本に来て、日本の国籍をとっても、日本に来る
 前の国の国柄を持っていて、前に居たた国の国柄を壊し
 たくないと、前の国の国柄を愛し、失いたくないとして
 いる、日本の国籍を取った日本人たち。
  日本の国柄を壊す、日本に来たこの人たち。
  韓国や中国から来た人に、この様な状態になっている
 人が多く居る。
  特に、最近、不気味なのは、日本人の様な顔をして、
 積極的に日本を壊す行動・実力行使をしていること。
.
2018年1月22日、「グローバル化にきしむ米国」と、この日
 の読売新聞は掲載している・・、
  「破綻するアメリカ」の著者・会田弘継氏(大学教授)
 が発言している。
  今、アメリカの中間層は、絶望感と疎外感を抱いてい
 るという。
  一部の富裕層のみの所得の伸びとなっている経済で、
 中間層は、置いてきぼりというより、貧困層に次々と脱
 落している・・と・・、
  そして、この層は、グローバリズムの要請である多文
 化主義などが「押し付けられている」と反発を感じてい
 る・・と・・、
  そして、グローバル化が、先進国の中間層以下を根源
 的に苦しめる構造になっている・・と・・、
  そして、これが、もはや一国では解きがたい難問とな
 っている・・と・・、
  近代の先頭を走るアメリカで、グローバル化の矛盾が
 限界に達している・・と・・、
  国家や民主主義を動かしてきた近代の制度が崩れ、バ
 ラバラとなる遠心力が働いていて、違いばかりが強調さ
 れている・・と・・、
  深い構造的な変化が起きて、巨大な精神的破綻が起き
 つつある・・と・・、
  グローバル化によって激しい歪みがある今、民主主義
 や資本主義が、レールを踏み外している・・と・・、
  日本も、対岸の火事ではなく、経済格差や移民に伴う
 問題が必ず、何らかの形で噴出する・・と・・、
  所得の分布割合などを見れば、日本もすでに、20世紀
 前半(後退した)水準に近づきつつあり、庶民の怒りが
 暴動(日比谷焼き打ち事件の様な)に転化しうる可能性
 は十分にある・・と・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)576E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年2月~1893年3月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)576E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年2月~1893年3月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年2月3日、日比谷練兵場跡地を日比谷公園とする旨、
 東京市が告示した(1903年に開園)
1893年2月5日、大村益次郎の銅像の除幕式が、靖國神社で
 行われた。
  日本初の西洋式銅像の序幕だった。
1893年2月6日、鉄道会議が、北越線の直江津~新潟~新発
 田間、
  山陰山陽連絡線の姫路~鳥取~境間、
  舞鶴線の京都~舞鶴間、
  和歌山線の高田~五条~和歌山間、
  中央線の八王子~諏訪~西筑摩郡経由名古屋間の線路
 を答申した。
1893年2月9日、パナマ運河疑獄で、フェルディナン・ド・
 レセップスらが有罪判決を受けた。
  F・レセップスはスエズ運河の成功で、国民的英雄だ
 った。
  このF・レセップスが、1880年に創設したパナマ運河
 会社は、パナマ運河建設に着手したが、設計上の誤りや、
 黄熱病や、雨期の氾濫などのために、工事が進まず、ま
 た、経理が乱脈であったため、数年後に資金が欠乏した。
  F・レセップスは、富籤(とみくじ)を認める新法律を
 制定することを政府筋に要望し、議会は、1888年6月に、
 この法律案を可決した。
  しかし、翌年・1889年2月、この会社は、多数の小株主
 の金を吸上げたまま行きづまり、破産した。
  これを隠そうとして、新聞や議会を買収、6億フランの
 社債を募集する立法を通過させた。
  しかし、1892年の秋、右翼の反ユダヤ人主義新聞『自
 由言論』によって、ユダヤ人の金融資本家 J.レイナック
 らが、パナマ会社と政府、大新聞の間に入って総額500万
 フランを贈賄したことが暴露された。
  贈賄工作に直接関わったのは、財務顧問のジャック・
 ド・レーナック男爵と、コルネリウス・エルツで、
  レーナックは右派を、エルツは急進派を担当していた。
  しかし、2人の対立から、レーナックは、贈賄先リスト
 を反ユダヤの新聞『ラ・リーブル・パロール』紙に持ち
 込んで事件発覚のきっかけを作ったのだった。
  調査の結果、100名以上の議員が連座する収賄事実が判
 明した。
  翌年・1893年の公判で、前土木相と会社重役が有罪判
 決を受けたが、他の容疑者は政治的配慮から不処分とな
 った。
  レセップスは精神錯乱の末1894年に病死した。
  レイナックは死体(自殺)で発見され、
  レイナックをゆすっていたもう1人のユダヤ人銀行家
 のC.ヘルツは、イギリスに逃亡した。
  政府もこの事実を認め、大スキャンダルとなったが、
 自殺者1名と数名の実力者が有罪になっただけで、もみ消
 された。
  急進社会党の党首 G.クレマンソーまでが連座して、政
 界を退き、第三共和政は右傾化して行った。
1893年2月9日、ヴェルディの歌劇「ファルスタッフ」が、
 ミラノのスカラ座で初演し、大成功だった。
  原作は、シェークスピアの『ヘンリー4世』と『ウィン
 ザーの陽気な女房たち』
  内容は・・、
  放蕩(ほうとう)で大酒飲みの老騎士ファルスタッフに
 恋文を渡された二人の女性(フォード夫人とページ夫人)
 が、お互いの恋文が同じ文面であることに気付き、女性
 たちが示し合わせ、機知を働かせてファルスタッフを懲
 らしめるという物語。
  その合間には、フォードの娘ナネッタと青年紳士フェ
 ントンの恋物語もあり、最後はファルスタッフが降参し、
 ナネッタの恋も成就してめでたく幕となる。
  老騎士フォルスタッフとウィンザーの町の人々の愉快
 な人間関係を軽妙に描き、とくに、生気あふれる人物描
 写のみごとさは比類ない喜劇となっている。
1893年2月10日、 「建艦之詔勅」
  軍艦建造費をめぐり政府と議会の対立ははげしく、2月
 10日詔勅が出されるに至り、解決した。
  帝国議会が、軍備削減を可決したため、内廷費の下付
 と官吏俸給の一割納付で、軍備を拡張することが詔勅に
 よって決まった。
  (建艦費補充は、官吏の俸給の1割納付と内廷費30万円
 ずつを6年間下付による)
  衆議院、政府弾劾奏上を議決。
  伊藤首相は勅諚によってこれを回避した。
1893年2月11日、筑豊興業鉄道の直方~金田間が開通した。
1893年2月15日、線路取調委員を廃し、線路調査掛を設置し
 た。
1893年2月23日、ルドルフ・ディーゼルがディーゼル機関の
 特許を取得した。
  ルドルフ・ディーゼルは、ドイツ人(生まれはフラン
 ス・パリ)で、幼少時代をフランスで過ごすが、普仏戦
 争で、一家はフランスから退去させられた。
  一家はロンドンに移住し、ディーゼルは、母国ドイツ
 に移り工業を学ぶ道を選択した。
  1880年に、ミュンヘン工科大学を主席で卒業した。
  この後、ディーゼルは、パリに戻り、製氷工場の設計・
 建設を手がける。
  ディーゼルは、フランス語とドイツ語両方に堪能で、
 両国から技術特許を取得することができた。
  このことは、単に、仕事上の利点だけでなく、両国の
 技術を同時に学べるという利点がディーゼルにあった。
  ディーゼルは、冷凍の仕事の関係上、熱効率の向上を
 目指していた。
  この頃のエンジンは蒸気機関のみで、水を沸騰させた
 水蒸気でピストンを動かすという蒸気機関の仕組みを改
 良しようとした。
  そして、水より沸点が低いアンモニアに着目した。
  そして、アンモニアを使った蒸気機関を開発した。
  しかし、試運転で爆発事故を起こしディーゼルは重傷
 を負った。
  この事故で、ディーゼルは既存の蒸気機関の改良では
 なく、新たな動力機関を開発したいとした。
  種々、努力の結果、1893年、新たな内燃機関の論文・
 「既知の蒸気機関と内燃機関を置換する合理的熱機関の
 理論と構築」を発表した。
  そして、この年、これによって特許を取得し、ディー
 ゼルエンジンの理論的な基礎を築いた。
  彼の研究は、ドイツの企業人の後援を得て改良され、
 1900年に、パリ万博に開発された内燃機関を出展した。
1893年2月25日、大石正巳在朝鮮日本公使が、朝鮮政府に対
 して防穀令における日本商人の損害賠償を請求した。
  日韓通商章程に基づく輸出禁止令であったが、担当地
 方官の手落ちで予告期間が短く不足していた。
  この問題は紛糾し、日本商人は、14万7000円の損害要
 求を出した。
  伊藤博文が清の李鴻章に斡旋を依頼して、これによっ
 て1893年年4月、11万円の賠償と大石公使の召還で妥結し
 た。
1893年2月28日、山陽鉄道の旅客運賃率が、上等は下等の2
 倍、中等は下等の1.5倍とすることで認可された(3月21日
 実施)
1893年2月、三友銀行のが廃業した。
1893年3月3日、日本体育大学の前身、日本体育会体操練習
 所の設立が認可された。
  設立当初は、体育(体操)教員養成を企図していたわ
 けではなかった。
  ただ、国民の体位、体力の向上を図るために「国民体
 育の振興」を目指した。
  これは、会員制の体育クラブで、現在のスポーツクラ
 ブやフィットネスクラブのようなものだった。
  しかし、国民一般の理解を得られなかった。
  民間体育(社会体育)の振興だけではなく、学校とい
 う窓口を通して事業の展開を行うという方針となった。
1893年3月4日、弁護士法が公布して、これにより代言人制
 度は廃止となる。
  日本の弁護士制度は、明治となって近代的司法制度が
 導入され、それとともに誕生した。
  その名称は代言人(だいげんにん)と言い、その地位
 は決して高いとは言えなかった。
  しっかりした資格制度も存在していなくて、悪質な者
 も居た。
  この年・1893年になって、近代的な「弁護士法」が制
 定され、初めて「弁護士」という名称も使われる様にな
 った。
  この頃の弁護士は司法省(検事正)の監督の下におか
 れ、その独占業務も法廷活動も限られていた。
  また、弁護士は、裁判官や検察官よりも格下とされ、
 試験制度も異なっていた。
  この様な状態は、1936年の法改正まで待たねばならな
 かった。
  また、1949年の新しい弁護士法が制定されて、国家権
 力からの独立性も認められた。
  そして、この年、日本弁護士連合会が結成され、司法
 試験によって裁判官、検察官、弁護士を一元的に選ぶこ
 ととなった。
  (史料)弁護士法(1893年)
  朕帝国議会の協賛を経たる弁護士法を裁可し茲に之を
 裁可せしむ
  御名御璽
  明治26年3月3日
             内閣総理大臣 伯爵伊藤博文
             司法大臣   伯爵山縣有明
  法律第7号 弁護士法
  第1章 弁護士の資格及職務
  第1条 弁護士は当事者の委任を受け、又は裁判所の命
     令に従い通常裁判所に於て法律に定めたる職務
     を行うものとす。但し、特別法に因り特別裁判
     所に於て其の職務を行うことを妨げず。
  第2条 弁護士たらんと欲する者は左の条件を具ふるこ
     とを要す。
   第一 日本臣民にして民法上の能力を有する成年
      以上の男子たること
   第二 弁護士試験規則に依り試験に及第したること
                    (以下略)
.
  (今日の言葉)
.
  題:人の影だけが黒く石の建物に残る写真があるが・・
    そこに蒸発した広島の人が居たことだけがことづけられた・・
.
18世紀初め、日本の経済活動は活発だった・・江戸の人口
 は100万人を超え、世界一の人口だった。
  鉱業の、佐渡(新潟県)の金山や生野(いくの、兵庫
 県)の銀山、足尾(栃木県)の銅山が開発された。
  生産された金・銀・銅からは貨幣が造られ、全国に流
 通したほか、ヨーロッパに輸出された。
  その他、酒造、漆器(しっき)、陶器、鋳物などの産
 業も発達し、各地で特産品がつくられるようになった。
  江戸幕府は、江戸を中心とする東海道などの五街道を
 整備し、宿場を設けた。
  関所を置いて、人々の通行を管理し、また、手紙を運
 ぶ飛脚制度を作り、交通・通信の便宜をはかった。
  将軍の所在地となった江戸は、「将軍のおひざもと」
 と呼ばれ、商人や職人が多数集まり、18世紀の初めには
 人口100万人を超えた。
  当時、世界最大の都市となった。
  大阪は、米、木綿、醤油(しょうゆ)、酒などの様々
 な物産の集散地となり、「天下の台所」と呼ばれて栄え
 た。
  各藩は、大阪に蔵屋敷を置き、年貢米や特産品の売却
 を商人に依頼した。
  集められた物産の多くは、菱垣廻船(ひがきかいせん)
 や樽廻船によって江戸に運ばれた。
  京都は、朝廷が所在する文化の都として、また、西陣
 織や漆器・武具・蒔絵(まきえ)など高級な工芸品を生
 産する手工業都市として栄えた。
  江戸、大阪、京都は、合わせて三都(さんと)と呼ば
 れた。
  この他にも、各地の城下町や門前町、宿場町が、それ
 ぞれの地域の特性と伝統を生かして発展した。
  この17世紀末のパリの人口は56万人、18世紀中頃のロ
 ンドンは60万人だった。
  また、日本の金・銀は、この頃のヨーロッパの経済に
 影響を与えるほどだった。
  また、この頃は、西日本の方が、農業や諸産業が発達
 していた。
.
1700年、江戸時代には、「ゆい」とか「もやい」とかの様々
 な相互扶助・助け合いの慣行があった。
  「ゆい」は、田植えなどで互いに力を貸し合うことで、
  「もやい」は、村で共同作業をして、利益を分け合う
 ことだった。
  また、没落した農家を協力して救い、再興する事もし
 ていた。
.
1901年、アメリカの新聞「ニューヨーク・タイムズ」は、
 驚きの目をもって日本の行政を報道した。
  「台湾統治を、日本は、奇跡的に成功させました」と
 報じた。
  中国(清国)からも「化外の地」として『関係ないよ』
 と見放されていた台湾を、毛嫌いされていた未開の地を、
 日本は、『瞬く間(またたくのま)に文明化した」と報
 じた。
  台湾は、オランダが統治した時もあったが、日本の様
 なこと・・行政は出来なかった。
  オランダは、インドネシアを数百年に渡って植民地に
 して、「うまい汁を吸って来た」が・・、
  インドネシアの方々から「苛酷(かこく)な搾取」を
 するばかりだった。
  この台湾の日本のような統治は、まったくと言ってし
 てなかった。
  このような発想・考え方は出来なかった。
  キリスト教は「隣国の富を奪うように教えている」が、
 この様な搾取の考え方に洗脳されていた。
  植民地は、収奪する地としか見ていなかった・・見れ
 なかった。
  日本は、第一次世界大戦などの戦争の後に、領土が割
 譲された場合でも、そこを搾取の対照とは見なかった。
  日本は、第一級の人材を派遣して、いかに文化的に豊
 かになってもらうか・・共に豊かになれるかを考えた。
  「より文明的な生活をしてもらうか」という事を第一
 義的に考えた。
  だから、学校の整備をした、そして、インフラの設置
 から始めた。
  電気を引いた・・水道を引いた・・鉄道を走らせた。
  道路を作った・・山に木を植えた・・などなど・・ダ
 ムも造った・・、
  日本は、まったく搾取の対象としていなかった。
  学校教育には、特に、基本だと力を入れて充実させた。
  日本の内地以上の国立大学まで作った。
  アメリカやヨーロッパの植民地では、まったく想像で
 きない様な、「このような事をした」。
  アメリカやヨーロッパは、自分たちだけに都合の良い
 形になることを優先した・・英語化したり、自分に都合
 よいことをした。
  また、インドは、可哀想な支配のされ方を、イギリス
 からされた。
  イギリスのインド支配は酷かった。
  搾取する対象としか見ない以上に、また、奴隷以下の
 扱いをした・・また、命を取った・・奪った。
  並木道にインドの方々が首つりにされて、その並木道
 のどの木にも、その様に木に吊るされたインドの方々が、
 いつまでも吊るされるという考えられない悪辣さだった。
.
1910年9月30日、朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)が、
 設置された。
  この朝鮮総督府は、第二次世界大戦の終了後も廃止さ
 れる事なく続けられた・・それが都合よいと続けられた。
  日本の敗戦にともなう連合国の指示によって業務を停
 止する通達があるものとしていた・・
  そして、政務総監・遠藤柳作によって、呂運亨らに独
 立に向けて朝鮮建国準備委員会の組織化の打診があった。
  しかし、この朝鮮総督府の行政は、その後も継続され
 た。
  行政権限が、北緯38度線以南の占領行政機関となった
 時になってアメリカ軍政庁へ引き継がれた。
  「日韓併合」の本にも書いてあるが、総督府時代の35
 年間に、日本政府が立て替えた朝鮮の歳入不足は、1428
 万円に上った。
  そればかりではなく、日本は、温かく韓国・朝鮮半島
 を支援していた。
  例えば1例だが・・司法と警察分野などに、日本政府が
 直接支出した金額は、立替金の数倍の9000万円以上があ
 る。
  現在の朝鮮・韓国の歴史では、この『日本の特別な特
 恵的支援』には一言も言及が無く、ふれていない、勿論、
 感謝の言葉もない・・ただ、侵略だけを強調している。
  これが如何に偏狭な史観であるかを、韓国は自覚しな
 ければならない・・
  その様にしなければ、将来は開けないことを韓国・朝
 鮮は知らなければならない。
  1910年8月29日には、明治天皇陛下から臨時恩賜金とし
 て3000万円が与えられた。
  日本は、何かと、色々と、韓国・朝鮮に温かく接して
 いた。
  また、韓国・朝鮮が、日本政府から借用していた2651
 万円も、日本の温情・優しさから、特に、言及しない状
 態にされた。
  しかし、2017年の韓国の発言などの状況を見ると、日
 本国民の納得に十分な所が得られ無い状況なので、以上
 のことは、改めて韓国の感謝の言葉が心からないならば、
 そっくり返金して戴くこととする方向へと行くべきだ。
  (この最後の卑劣な言い方は、韓国大統領の言い方を
  真似ているのだ)
.
1918年、ロシアに革命が起きている頃、ある日本人が、こ
 の革命の地に居た・・ロシアのシベリアの地に・・そし
 て、この革命を見ていた。
  その時、不安定な世情に、民心は揺れていた。
  「各地のコサック、及び、将校団は、日本軍の援助を
 熱望していたが、教育家、宗教家は、有色人種の後援を
 厭い(いとい、嫌って避ける)、米英などの白人の援助
 を願いつつあった」と。
.
1943年10月21日、東京で「出陣学徒の壮行会」が行われた。
  ある学徒出陣の一学生が書き残した・・、
  「大東亜の建設、日本の隆昌を願って、それを信じて
 死んでいく」・・と・・、
  (参考)隆昌:りゅうしょう、盛んなこと。栄えるこ
     と。隆盛。
  結果的に、アジアの諸国は、植民地収奪の社会から
 解放されて、独立し、自分で努力して得たものは、横取
 りされず、収奪されずに、自分のものとすることが出来
 るという、当然の社会が実現され、到来した。
  そして、「20世紀はアジアの時代」という時代が到来
 した。
  そして、21世紀は、それにさらにまして、輝かしく発
 展するアジアの国々で、アジアは、あちこちでキラキラ
 と輝きだしている。
  日本も、おかげさまで、平和を享受できる国になって
 います。
  あなた方の学徒出陣、若くして散ったあなた方の命は
 報われています。
  アジアの繁栄を開かせて戴いた・・その礎(いしずえ)
 となっておられます。
.
1945年5月27日、松岡金平(まつおかきんぺい)、ミャン
 マー(ビルマ)のモールメイン市街にて戦死・・陸軍少
 佐。21歳。
  1923年8月10日生まれ、富山県出身、静岡高等学校を経
 て、1943年10月東京帝国大学経済学部に入学。
  1943年12月1日、富山市東部第四十八部隊入営。
  松岡金平氏・陸軍少佐の遺言:・・、
  死の解決は一つ、自分の信ずるところに、満足して死
 ぬことである。
  それは自分の場合には、新たなる日本の建設、新しき
 大東亜の建設である。
  新しきものの建設、より偉大なるものの創造、これこ
 そ自分の生命を宿すに足るものである。
  自分のつたなき生命が、偉大なる日本とともに、新し
 き大東亜と共に生きて行くのだと信ずるなら、喜んで死
 んでゆける。
.
1945年8月6日、午前8時15分、アメリカは日本の広島市の人々
 の上に原爆を投下した。
  多くの方々が殺されたと言うより、「蒸発してしまっ
 た」。
  私の知人は、お母さんの指輪だけが台所に残されてい
 た・・と・・漏らした・・
  外したことのないお母さんの結婚指輪が、お母さんの
 骨も何もなく、ただ、台所の跡で見つかった・・と言わ
 れた。
  蒸発した方々を含めて、2ヶ月~4か月以内に16万6000
 人の方々が亡くなった。
  えいえいと築いてきた、そして、継続して来た「広島
 の歴史」、「家族の何もかも」が空気となった。
  すべてが消えた・・そして、長崎が・・蒸発させられ
 た・・女性の方々も、子供たちも・・すべてが蒸発させ
 られた。
  人の影だけが黒く石の建物に残る写真があるが・・そ
 こに蒸発した広島の人が居た。
  表通りのパン屋さんの歴史も蒸発した・・裏通りの本
 屋さんも、そして、横町のおばさん方のおしゃべりも、
 なにもかもが・・蒸発させられた・・跡形もなくなった・・
 1000年も、2000年も続いてきた営みのすべてが・・痕跡
 を残さず消えて無くなってしまった。
.
1945年8月6日、キリスト教国のアメリカという国は、「赦
 すということが大切だ」と言う・・
  ならば・・「赦すという事が大切だ」というなら・・、
 「原爆を落とす前に、広島の方々や、長崎の方々を赦し
 てもらいたかった」・・、
  「真珠湾の奇襲をしたから、当然だ」の言い方は『当
 然ではない』・・奇襲ではない・・アメリカは知ってい
 たではないか・・
  ましてや、「戦争を作ったのはアメリカ」・・ルーズ
 ベルト・アメリカ大統領も言っているように・・ルーズ
 ベルトは、はっきり、第二次世界大戦がはじまった時、
 「戦争を作った」と言った。
  彼の策略で、第二次世界大戦が始まったことは、歴史
 が証言している・・示している。
.
1945年、20世紀はアジアの世紀と言われるが、この年から、
 「アジアの繁栄の世紀」が始まった。
  「きけ、わたつみのこえ」の本で、「大東亜の建設」
 の注釈に、「日本を盟主に、アジア諸国の繁栄をはかる
 構想」とある。
  日本は、何と言われようと、この戦争の後に、アジア
 の方々が、アジアの各国は・・独立したのだ。
  これは、歴史の事実だ。
  イギリス・アメリカなどの欧米列強国から独立したの
 だ。
  それまでは、列強各国は、アジア諸国を植民地として、
 やっている事と言えば「利益の収奪」しかやってない。
  「(キリスト教の)神の義がある」と、自分勝手な「
 免罪符をデッチアゲテ」、自分たちは何でもやっていい
 のだと、自分の利になる事だけをしていた。
  植民地にされたアジア諸国の方々が苦しもうが、その
 痛さを感じず、ただただ、自分たちだけに利益が舞い込
 む事だけに邁進(まいしん)していた。
  何と言われようが、事実が・・アジアの国々の方々は
 もだえ苦しんでいた・・その様なアジアの国の方々は、
 解放されて、自由になれて、独立して、自分たちで稼い
 だものは、横取りされずに自分たちのものになり、当然
 のこと、自分たちの努力で自分たちの「幸せが享受でき
 るようになった」。
  これからは、「アジアの世紀だ」と言われるような時
 代を作った・・ますます、その様になって来ている。
.
1946年5月3日、東京裁判が開廷した。
  戦後、アメリカは、「すでにあった国際法」で裁かれ
 ずにいる・・一般市民の殺戮(広島・長崎の原爆投下や
 東京大空襲などの都市へのじゅうたん爆撃)は、れっき
 とした国際法違反・・この「既存の国際法」で裁かれる
 べきを裁かれずにいる。
  そして、「国際法に無い法律」を、さも存在した様に
 (わざわざ自分好みに作って)日本を裁いた。
  こんなことが・・「正義だと言えるわけがない」
  戦後の不公正な裁判は「正義ではない」。
  ここで正義が実現しなければ、国と国の『真の和解』
 は難しい。
  法律がないのに、アメリカは、日本を裁いた事を謝罪
 せよ。
  アメリカは、事後法を作って(法律がないのに、事が
 起きた後に法律を作って、法違反していると裁く、まっ
 たく筋の通らないこと)日本を裁いた。
  逆に、その時に有った国際法を、アメリカは自国に適
 用しなかった。
  アメリカは、日本の一般市民を狙って大量殺戮をした。
  これは、既にあった、当時に有った国際法に違反して
 いたのにである。
  しかし、この罪については、アメリカ合衆国はホッカ
 ムリした。
  まったく卑怯な事を、アメリカはしている。
.
1960年、日本が、実質経済成長率が約13%という高い伸び
 を示した。
  この年以来、10年間の年平均の伸び率が、10%を超え
 るという高率となった。
  この頃から、1979年代の初め頃までを、高度成長期と
 呼ぶ。
.
1981年、ギリシャが、EC(欧州共同体)に加盟した。
  そして、よりグローバル化しようとユーロ(欧州連合
 における経済通貨同盟で用いられている通貨)が造られ
 たが、ギリシャは、このユーロに、2001年に加盟した。
  しかし、卑劣な事に、ギリシャは、巧みな粉飾をして
 誤魔化していた。
  EC側は、この時、一部が、この事に感づいていた。
  しかし、ギリシャは、ヨーロッパの祖であり、
  また、民主主義の本家であるギリシャを、ECに加え
 たいばかりに、見て見ぬふりをした・・これが、後々、
 EUの命取りとなる。
.
1993年、EC(欧州共同体)が、EU(欧州連合)になっ
 た。
  より高いレベルでヨーロッパは統合したいと、グロー
 バリズムの夢が広がった。
  しかし、今(2017年)、そのEUは、「絶望にさいな
 まれている」。
  ヨーロッパの民主主義の理想を作るという夢は、かな
 り色あせてしまった。
  その夢が壊れる切っ掛けとなったのが、皮肉にも民主
 主義の元祖のギリシャだった。
  ギリシャが、最悪の財政状態だということを隠したと
 いう嘘と、そのギリシャに対するドイツの高圧的な態度
 が嫌われ・・タガが外れた。
  ギリシャを救える国が、ドイツしかないというのも、
 ギリシャの程度を越えた最悪財政と共に、最悪だった。
  また、押し寄せる難民の問題があった。
  難民救済に対する理想的な事を言っていたドイツも、
 その方針も、絵に描いた餅と化した。
  グローバリズムも・・「苦労バリズム」と化した。
  また、2011年になって、EUのお荷物国・イタリアが、
 流れ着くアフリカからの難民の多さに悲鳴を上げた。
  この時、ドイツが言い放った・・、
  「イタリアに来た難民保護は、イタリアの義務だ」・・
  冷たく突き放した。
  EU各国は、「ドイツに、EUの連帯などと言われた
 くない」という気持ちとなった。
  今、EUの連帯は、「風前の灯火(ともしび)状態」
 にある。
.
2004年、2ユーロ記念硬貨・・ユーロ圏で使用できる法定通
 貨を決めた。
  ギリシャは、2ユーロ硬貨にギリシャ神話のエウロベを
 刻んだ(各国が自由にデザインできる)。
  エウロベは、ヨーロッパの元(もと)を作ったと言わ
 れている。
  ギリシャは、それにプライドを持っている。
  EUに入ったというのに、「ギリシャという『国のプ
 ライド』をEUに、やはり、持ち込んだ」。
  連合を作ったからと言ったって、家族が大切な様に、
 国も大切なのだ・・が現れた。
  家族の様に、国からも離れられないのが実態なのだ。
  頭で思っても、心まで変えられない・・それが人間。
.
2016年、個人投資家として有名なジョージ・ソロスが中国
 から逃げた。
  ユダヤ系アメリカ人の投資家・投機家で、「イングラ
 ンド銀行を潰した男」と言われる凄腕男。
  2006年に、著作の邦訳の出版に合わせて来日したソロ
 ス氏は、当時、国際的に話題になっていた靖国神社問題
 への関心から、靖国神社と遊就館を訪問した。
  そして、次のような事も言った・・、
  かつて日本は、「正常な国家」とはいかなるものかと
 いう新たな模範を、世界に指し、誇らかに宣言した。
  日本は、世界、及び、各地の主要な国際統治機関の支
 援、困窮はなはだしい地域に対して行ってきた感銘深い
 規模の援助と救済によって、恐怖を手段とするよりも信
 頼の構築を目ざす国際社会が正しいとして、鮮烈な指針・
 インスピレーションを示し、また、泉源となり、投資の
 対象となってきた。
.
2017年12月12日、慰安婦像でもめていたサンフランシスコ
 市長のリー氏(65歳)が急死した。
  リー氏は、12月11日、市内で買い物中に倒れ、12日に
 亡くなった。
  中国移民の両親の間にワシントン州で生まれた。
  2011年に、サンフランシスコ市で初のアジア系市長と
 して当選した。
  今、アメリカでは、不法移民が1100万人という。
  このとてつもない多数の不法状況に、アメリカ国内は
 不満の声が多くなっている。
  「職を奪われる」「治安が悪化する」などが理由。
  また、サンフランシスコ市は赤化(共産化)が完了し
 ていると言われている。
  中国共産党の働きかけが最終段階になっていると言わ
 れている。
  慰安婦問題には、陰で操っている中国の存在がある。
  その慰安婦像建立を承認したサンフランシスコ市長の
 エドウィン・M・リー市長の何故かの急死・・?
  また、以下のニュースがある・・、
  当然、韓国に、自国の「名折れだ」の声もある。
  (参考)名折れ:なおれ、名誉をきずつけられること。
     名をけがすこと。不名誉。
  【ソウル=ニューシス】イ・ヘウォン記者=
  アメリカで、韓国人売春婦店舗を運営した事業主とそ
 の一党が、韓・米警察の連係共助で大量に捕まった。
  ソウル警察庁国際犯罪捜査隊は、韓国人売春業者サイ
 トを作ってアメリカ広告サイトに掲載した疑惑(売春斡旋
 など行為に関する法律違反)で韓国系アメリカ人キム某
 (38歳)を逮捕し拘束したと19日明らかにした。
  犯行を共謀し加担したキムの母親ハム・某(63歳)種と
 ウェプティジャイノキム某(42歳)など一味3人と売春事業
 主5人、売春女性40人などが、アメリカ捜査局が現地で、
 現行犯逮捕し、検挙し捜査中となっている。
  警察は、キムは、2014年3月からこの4月13日まで、ア
 メリカ、ニューヨークとニュージャージー一帯の29の売
 春業者のサイトを作って、アメリカ・オンライン広告サ
 イトにあげた。
  キムは、アメリカ捜査機関の取り締まりを避けるため
 に国内サーバーでサイトを作ったりして、広報代でも多
 額な手数料を稼いでいた。
  キムは、月570万ウォンほどの収益を上し、儲けた金で
 外車などを買っていた。
  韓国に戻っているキムを除いた残り一党は、アメリカ
 捜査機関が立件し、捜査中であり、売春女性40人は国外
 送還を進めている。
  警察関係者は、「アメリカ警察との協調・協力を通じ
 て、キム一党の犯罪収益金を還収する一方、売春女性送
 出ブローカーに対しても捜査する方針」と話した。
  これに関連して・・今、世界中で韓国人売春婦が問題
 となっている。
  2004年になってやっと売春禁止法が制定された韓国。
  だが、施行10年目を迎えて海外へ行く売春婦が急増し
 ていることが明らかになった。
  すでに、2010年の時点で、外国で売春する韓国人女性
 は全世界で約10万人いるとみられ、国別では日本に約5
 万人、オーストラリアに約2500人、グアムには約250人が
 滞在している。
  また、アメリカで23.5%が韓国人売春婦というデータ
 ーで、国別で断然トップで1番多い。
  また、2017年10月28日、東京・鶯谷で、韓国からの売
 春婦の多さにデモ『朝鮮人売春婦追放デモ』が行われた。
  その他、この類のニュースは多数あり。
  韓国・朝鮮は、中国に冊封されて来た長い歴史があり、
 国を挙げて接待し、また、可哀想だが、女性方が、中国
 へすべてを投げ出してかしずくかねばならないという状
 況の中に長く置かれて来た。
  ある意味、この破廉恥な歴史を隠そうと中国は韓国へ
 金を出して、無実の日本を悪者にしていると言える。
  また、韓国自体にも「女衒(ぜげん)」に対する後ろ
 めたさがある。
  こんな事をしなければ、韓国経済が成り立たないとは?・・
 と、泣いた韓国高官の話もある。
  韓国の卑劣さに、こんな事を書かねばならないことを
 憂(うれ)える。
.
2017年12月25日、この日の読売新聞に、「中国の工作」に
 対して、「各国が警戒している」と報じた。
  中国による外国政界や世論への工作が活発化している
 ことが相次いで明らかになったという。
  その為、各国は警戒を強めているという。
  そして、これは、習近平政権の中国の国家による方針
 だという。
  習近平は、世界第二の経済力を背景にして、自国の中
 国に、有利な体制を作ろうとしているという。
  自国・中国に有利な政治行動をとってもらう国を増や
 したい・・
  国際秩序形成において、中国主導で動く体制を浸透さ
 せたい・・、
  オーストラリアで、その様な巧妙な工作が起きていた
 り・・、
  そこで、オーストラリアは、「海外からの献金を禁止
 する法案」を議会に提出した。
  野党議員が、中国から多額の献金を受け取っていて、
 そして、党の方針に反した「南シナ海問題における中国
 の領有権を支持した」。
  ニュージーランドでは、国会議員に中国出身者が居て、
 その議員が、「中国スパイとみられる行動をした」との
 疑惑が生まれた。
  シンガポールでは、中国系の大学院教授が、「シンガ
 ポール以外の情報機関と連携」して、シンガポールの「
 政策や世論を操作し影響を与えた」・・国外追放となる。
  この情報機関は中国だと見られている。
  中国には、れっきとした「外国での政治・世論工作を
 担う部署」がある・・それが、共産党中央統一戦線工作
 部(統戦部)。
  外交官となって、操作する対象国の政治家と関係を持
 ち、人脈とする・・また、有望な中国人と関係をもって、
 同じく人脈として利用するのが手口。
  最近は、SNSによる工作を活発化させている。
  ドイツでは、ドイツ情報当局が、SNSで引っ掛から
 ない様に、中国の諜報活動についての警告を出した。
  中国のスパイ機関が、偽の経歴で、2017年だけでも
 1万人以上のドイツ人との関係を持ち、政界や官界に賛
 同者・協力者を作っている・・と。
  アメリカは、この様な情報を持っていて、アメリカ上
 院が「中国の影響力が拡大」をテーマとして公聴会を開
 いた。
  アメリカ上院議員は、「中国の政策批判者を脅迫しよ
 うとしている」と警鐘を鳴らしている。
  第二次世界大戦前後のアメリカ大統領だったルーズベ
 ルトの側近に、うようよと共産主義者が居たことは有名。
  そのあまりの酷さにびっくりしたアメリカは、その後
 に、「赤狩り旋風が吹き荒れた」。
  昔から、中国は、年がら年中、こんなことを、やって
 いるのだ。
  この様な事例は、まだまだ一杯ある。
.
2017年、EUの崩壊の恐れ・・
  今、ヨーロッパで起きているのは、共産主義国・ソ連
 の崩壊にも匹敵する人類最大の社会実験が、ガラガラ崩
 れていく事態・グローバリズムの崩壊である。
  EU崩壊の恐れがある。
  その実験の置き土産は、過剰な難民・移民の流入と共
 に、「テロリストの流入」だった。
  同時に、「ドイツの理想主義」も崩壊した。
  やはり、人智を超えた未知部分があって、矛盾が生じ
 た。
  これは、日本も他山の石とは出来ない問題で・・、
  かつて、理想と希望にあふれてEUが誕生したのだが・・、
  それから20年、EUの危機・ユーロ危機の到来は早か
 った。
  ドイツは、ボロボロになってしまった。
  最大の原因者であり、その債務者であるギリシャは、
 債権者の「EU、IMF(国際通貨基金)、ECB(欧
 州中央銀行)」の要求を、「やり方が民主主義に反する」
 と非難までして背を向けている。
.
2018年1月26日、この日の読売新聞が、アメリカが「核戦力」
 をもっと使用しようと、核戦力の役割を「拡大しようと
 する方針だ」と報じた。
  今、アメリカは、「核戦力体制見直し(NPR)」で、
 「核兵器による抑止」の役割拡大を打ち出す方針を固め
 た。
  通常兵器での攻撃には、従来、通常兵器で応じるとし
 ていたが・・、
  「通常兵器への反撃にも、核による報復を排除しない
 戦略を掲げ、小型核の開発を盛り込む」と・・、
  また、日本などの同盟国に対する「核の傘」を万全に
 する方針も明記される見通しだ・・と。
  2月初旬に公表される予定。
  オバマ前政権は、「核兵器の役割を縮小」を明記した
 が、今回は大きな方針転換をした。
  今回は、北朝鮮による核・ミサイル開発や、中国やロ
 シアの軍拡などで、前回策定時から脅威が大幅に高まっ
 たとの認識を踏まえ、核抑止の強化路線を明確にした。
  「核以外によって住民や基幹施設への大規模な攻撃」
 の場合、核以外であっても・・基本戦略として、核によ
 る報復をすることが「あり得る」としている。
  核攻撃以外の攻撃であっても、核で報復する可能性を
 排除しないとした。
  敵国の主要都市に壊滅的打撃を与える戦略核兵器に比
 べて、爆発力を抑えた小型核兵器の検討を盛り込む。
  敵国の基地や中枢施設の破壊を狙うときに使用するこ
 とが想定されている。
  また、読売新聞は、核使用のハードルが下がったり、
 核開発の競争が激化することの恐れを指摘している。
  今、アメリカは攻撃される可能性が高まっているが、
 その様な中でも、同盟国に対しても核兵器による「核の
 傘」を含む拡大抑止を確実に提供し続ける方針を明記す
 る見通しだという。
  潜水艦発射型の新たな開発も進めるという・・以上。
  この小型核を、日本への攻撃抑止力として、日本の
 潜水艦にも搭載すべきだ。
  日本国民、女性や子供をしっかり守れる体制を早くし
 っかり作るべきだ!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)575E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年1月~1893年2月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)575E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年1月~1893年2月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年1月22日、2世、河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)が
 死去した(78歳)、歌舞伎脚本作者
  江戸歌舞伎を大成し、近代の劇への橋渡しをした人。
  世話物を得意とし、散切(ざんぎり)物・活歴(かつれ
 き)物も試みた。
  「蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)」「三
 人吉三廓初買(さんにんきちさくるわのはつがい)」「天
 衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」などを
 書いた。
  (参考)散切物:明治維新以降の風俗を世話物として
     取り入れた歌舞伎の演目。
  (参考)活歴物:活歴は活 (い) きた歴史の意味で、
     明治初頭から明治20年代にかけて、9世市川団
     十郎によって上演された史実尊重の時代狂言。
1893年1月23日、アプト式機関車が試運転された。
  貨車2両を連結して推進運転を行った。
  横川~熊ノ平間に40分を要し、熊ノ平~軽井沢間に30
 分を要した。
  しかし、故障がおきて試運転は中止された。
  翌日以降、故障箇所を修理して、また、試運転を続行
 した。
  しかし、牽引が40トンを超えて連続運転すると缶圧が
 下がって、途中で停止してしまった。
  これは、指導したイギリス人が、アプト式の蒸気機関
 車の運転経験が無く、運転の操作方法を間違ったことに
 よった。
  この様な失敗を繰り返しながら、日々、工夫を重ね、
 練習運転を重ねた。
  3月末に至って、やっと営業運転のめどが立った。
  この様な経緯の中、この試運転の苦労が一般に伝わり、
 1893年2月、衆議院で、この碓氷線が、鉄道輸送の任に堪
 えられるか否か等について議会質問がなされた。
  井上鉄道局長官の答弁は・・、
  「アプト式は、近年の発明であるため、雇外国人に経
 験者がおらず、1月より、日々、試運転を行っている。
  現時点では、当初の目的に達していないが、鉄道とし
 ての効能を失うことは絶対に無い」・・と答弁している。
1893年1月31日、島崎藤村や北村透谷らが参加して、ロマン
 主義の月刊文芸雑誌「文学界」を創刊した。
  巌本善治の『女学雑誌』から派生し独立した同人雑誌。
  1893年1月~1898年1月まで58冊が発行された。
  島崎藤村、北村透谷、平田禿木、樋口一葉、上田敏、
 田山花袋らが書いた。
  1949年3月から、文芸春秋新社(後の文芸春秋)の発行
 する商業文芸雑誌へとつながっている。
1893年1月31日、日比谷公園が開園した。
  16万1636平方メートル(東京ドームの12.4倍)の都立
 公園。
  元の大日本帝国陸軍近衛師団練兵場である。
  付属として、日比谷公会堂、大音楽堂、小音楽堂、陳
 列場、日比谷図書文化館、テニスコート、児童遊園、軽
 飲食店、資料館、緑と水の市民カレッジ、松本楼など・・、
  震災時に清廉な水道水が無償で給水することが出来る
 災害用給水槽(水量:1500㎥)が設置もされている。
  ここに、幕末の時点、北側に御用屋敷・萩藩毛利家・
 佐賀藩鍋島家、南側に三草藩丹羽家・吹上藩有馬家・福
 知山藩朽木家・盛岡藩南部家・唐津藩小笠原家・狭山藩
 北条家の各上屋敷があった。
  明治になると、大名屋敷が廃され更地となって日比谷
 ヶ原と呼ばれた。
  1871年に、陸軍操練所が設置された(1885年、日比谷
 練兵場と改称)
  1893年、東京市が軍から払い下げを受け、日比谷公園
 と命名された。
  1901年、公園の設計が、種々なされたのち、ドイツ留
 学を終えたばかりの本田静六の案で決定され、
  1902年4月、着工・・
  1903年6月1日、仮開園した。
1893年1月、衆議院で軍艦建造費が否決された。
  第4議会が、軍艦建造費支出をめぐって政府と民党が対
 立した(~2月)
  この頃の世界は、アメリカ・ヨーロッパによる植民地
 化の真っ盛りであった。
  このような時、日本は軍艦建造費で対立し、否決され
 ていた。
  8年前の1885年、日本は内閣制度を発足させ、伊藤博文
 が初代の内閣総理大臣になっていた。
  憲法発布は、この4年前の1889年だった。
  幕藩体制が壊れ、やっと近代国家ができて来たという
 この時だった。
  中国の清は、どんどん大艦(大型軍艦)を建造してい
 た。
  政党も未発達な双葉マークの議会だった。
  この翌年、清と対決する日本が、この時、あった。
  1890年の第一議会から、日清戦争が始まる1894年の第
 六議会まで、議会と政府は、毎回、激しい対立を繰り返
 していた。
  第一議会の1890年は日本は凶作で米騒動が起き、産業
 界も恐慌で綿紡績業の操業短縮があると状況。
  世界も恐慌で生糸の輸出も駄目という時だった。
  第二議会の1891年は、景気は少し良くなったものの銀
 価格の低落で経済は波乱含み、生糸の輸出も少し好転し
 たがまだ不十分の状態、その中、政府と民党とは激しく
 対立し、伊藤博文の政治も足を引っ張られ、挙国一致で
 はなかった。
  1892年の第三特別議会は、選挙の大干渉でもめ・・、
 選挙戦で殺されるものが多数出るという状態。
  それでも、民党が多数当選し、政府側が敗れるという
 状態だった。
  議会は、当然のごとく、選挙戦での政府の激しい干渉
 が問題化して、もめ、激しい対立となった。
  政府は、軍艦建造費、製鉄所設立費、鉄道関係法案を
 提出するが、ことごとく否決されていた。
  しかし、中国の「膨大な軍事費による軍拡は見えてい
 る」という日本だった・・まさしく今・2017年~2018年
 頃の日本の状況とまったく同じだった・・
  もし、日本が、中国・清に敗れていたら、韓国・朝鮮
 の様に、日本も冊封されて・・属国の様になり・・卑劣
 な接待でも、何でもやって、女性方には可哀想だが、ご
 機嫌を取らなければならない属国になっていただろう。
  そのような時、日本の議会は、まだ、未発達で、もめ
 ていた。
  その様にならずに済んだ方々の働きが、どれだけあり
 がたかったか・・である。
  ただ、戦争反対と天の神に祈っているだけでは駄目な
 のである。
1893年1月、鉄道小包郵便取扱手続が制定された。
  この明治時代から、長年、郵便小包とともに小口荷物
 輸送の一翼を担っていた。
  鉄道小荷物輸送は、旧国鉄だけでなく地方や、大都市
 圏の一部の私鉄でも行われていた。
  国鉄の小荷物営業に関連して、駅構内での荷物積み下
 ろし業務や、トラックによる駅からの荷物集配業務等を
 受託する国鉄の関連企業があり、「鉄道荷物会社」と呼
 ばれていた。
  日本全国で21社存在したが、鉄道小荷物営業廃止の影
 響を受け、転廃業する社も生じた。
  存続している企業には「ジェイアール東日本物流(旧・
 東京鉄道荷物)」「ジェイアール西日本マルニックス(
 旧・大阪鉄道荷物)」等がある。
  しかし、1927年、鉄道省と運送業者が始めた集荷・配
 達を行う特別小口扱(宅扱)が日本最古の宅配便にあた
 るとされている。
  1976年(昭和51年)1月20日、大和運輸(現在のヤマト
 ホールディングス・ヤマト運輸)が「宅急便」のサービ
 ス名で行ったのが、宅配便のサービスの始まり。
  最初は関東地方のみで、1日目の取扱量は11個だった。
  通販へつながった経済効果は絶大。
  偉業(いぎょう、偉大な事業、優れた仕事)のスター
 トだった。
1893年2月1日、御真影・教育勅語の奉置方を各区郡役所、
 および、学校に布達した。
  学校への「御真影」下付の最初は、1874年5月だった。
  天皇陛下の巡行で、徳川将軍家に代わる新しい時代を
 民衆に知らせた。
  また、一般民衆も「参拝」「謹拝」をした。
  また、「県庁正殿二玉座ヲ設ケ県官順序ヲ遂フテ拝賀
 ス 但シ四日ヲ期シテ全管ノ衆庶二参庁参拝ヲ許ス」
 〔1874 (明治7 )年1 月, 筑摩県〕の史料の様に、御
 真影参拝がすでに行われていた。
1893年2月1日、プッチーニの歌劇「マノン・レスコー」が
 イタリアのトリノのレージョ劇場で初演された。
  当時、広く知られた恋愛小説の原作のオペラ化とあっ
 て好意的に受け入れられた。
  そして、これによって、、プッチーニは、「新進気鋭
 の作曲家」として高い評価を得た。
  フランスの小説家アベ・プレボーの代表作で、 1731年
 に、半自伝的小説『ある隠遁した貴族の回想と冒険』 (
 7巻) の最終巻として出版された。
  正式題名は、『シュバリエ・デ・グリューとマノン・
 レスコーの物語』・・、
  華美と贅沢を好み、愛と本能のままに生きる美少女へ
 の愛のために一切を捨て、破滅する聖職者志望の名門出
 の青年の悲恋物語。
  心理描写にすぐれ、この時代の代表的恋愛小説だった。
.
  (今日の言葉)
.
  題:この様な失敗を繰り返しながら、日々、工夫を重ね・・
   そして、震災時に清廉な水道水を無償で給水する
   そして、もし、日本が、中国・清に敗れていたら、韓国・朝鮮の様に、日本も冊封されて・・属国の様になり・・
       卑劣な接待でも、何でもやって、女性方には可哀想だが、ご機嫌を取らなければならない属国になっていただろう。
   そして、ただ、戦争反対と天の神に祈っているだけでは駄目なのである。
   そして、討究し、奥深さが、育まれていた。
   そして、人々は安心して生活の向上を目指した、働いた。
   そして、日本は、世界から「極東の憲兵」という言われ方をした。
   そして、その国が歴史と言葉を失う時に、その国は滅びる。
   そして、まだ、あの憲法なの・・?
   そして、NHKが、中国寄りの放送態度をする。
   そして、どの国も、その様に「力づくで流入を防いでいる」。
   そして、日本は・・ここが狙われている・・
.
427年、インドのナーランダに佛教大学が建てられた。
  インドのビハール州、ナーランダ中部にある世界最古
 の大学の一つ。
  ナーランダの佛教大学の遺跡は、予想をはるかに超え
 る広さを持っている・・広大で深遠なものだった。
  その大規模さは、日本の国立大学の比ではない。
  その遺構の規模は、縦5キロ、横11キロにおよぶ・・、
  1600年も前に、よくも造ったものと感嘆する・・、
  その遺構内には、赤レンガの大講堂から会議場、僧坊、
 教場、研究室、礼拝場などが見事な配置をもって建ち並
 ぶ・・、
  そして、そこで、数千人の学僧が集まって哲学や芸術、
 そして、医学や数学を討究(とうきゅう、深くつっこん
 で研究すること)していた。
  仏教の奥深さは、この様にして育まれた。
  インド政府が苦しい財政にもかかわらず、これを土中
 から1000年ぶりに完全に発掘した・・、
  偉大な事業だった。
  この事は、インド国民の方々に、どれほど強い誇りを
 抱かせたことか・・
  また、人智の奥深さを極める行為がなされた史実が明
 らかにされたことに、世界は感謝して、感嘆した。
  如何に古代インドが、先進的で素晴らしい文化の国で
 あったかを、哲学の王国であったかを、再び、目の前に
 立証された。
  この地に立つと、あらためてその偉大さに実感する。
  玄奘法師のような中国の学僧たちが、何故、あれほど
 までに危険を冒して、インドに行くことを望んだかが納
 得される・・
  世界最高の真理探究の地であった。
  憧憬と期待が・・真理を求める学僧たちの心を揺さぶ
 ったインドだった。
  この地は、ゴータマ・ブッダが訪れ、マンゴーの木立
 の下で説法をした。
  ここは、居住型の学校で、10,000人の生徒と、1500人
 の教員が、理想的な環境の中で思索し、探求の世界に居
 た。
  チベットの記録によると、インドの仏僧・竜樹(150年
 ~250年頃)が講義を行なったとされている。
  645年の唐の時代には、唯識派のシーラパドラが、玄奘
 三蔵に唯識を伝え、玄奘は657部におよぶ経典を中国に持
 ち帰った・・しかし・・、
  1193年、イスラム人の侵略によって大学は破壊された。
  (参考)竜樹:りゅうじゅ、インド仏教中観(ちゅうが
     ん)派の祖・・仏教を大成した。
      南インド出身・・若くして一切の学問に通じ、
     欲望は苦の原因であると悟り、出家した・・、
      出家して仏教を学び、後、ヒマラヤ山中で老
     比丘(びく)より大乗経典を与えられ、大乗仏
     教の基盤をなすことになる・・「
      「空(くう)」の思想を哲学的に基礎づけ、
     後世の仏教思想の全般に大きな決定的影響を与
     えた。
      一切因縁和合・一切皆空を唱え、大乗経典の
     注釈書を多数著して宣揚した。
      著作:「中論頌(ちゅうろんじゅ)」「大智度
     論」「十住毘婆沙論」など。
      サンスクリット名:ナーガールジュナ
.
1671年、菱川師宣は、町人の風俗を描いた浮世絵を始めた。
  (参考)菱川師宣:ひしかわもろのぶ、1618年~1694
     年、浮世絵を確立した最初の浮世絵師
      それまでは、絵入本の単なる挿絵でしかなか
     った浮世絵版画を、鑑賞に堪え得る独立した一
     枚の絵画作品にまで高めるという「重要な役割」
     を果たした。
      初めは、無記名で、版本の挿絵を描いており、
     初作は、1671年に刊行された噺本「私可多咄(
     しかたばなし)」であるとされている・・、
      翌年・1672年に、墨摺絵本「武家百人一首」
     (千葉市美術館所蔵)においてその名前(絵師:
     菱川吉兵衛)を明らかにした。
      その後、次第に人気を博し、墨摺絵入り本・
     絵本を数多く手がけた。
      「浮世百人美女」(1682年)刊「浮世続」(
     国立国会図書館所蔵)、(1683年)刊「美人絵
     づくし」(ボストン美術館所蔵)などに、市井
     の女たちを描写し、評判高く、生涯において100
     種以上の絵本や、50種以上の好色本に筆をとっ
     た。
  江戸の町、世は、戦いのない平和な社会だった。
  武士や庶民の間には学問が発達した。
  武家の社会では、儒学が時代を安定にして、平和な社
 会の構築に役立つとして、奨励された。
  朱子学の林羅山、陽明学の中江藤樹、
  「農業全書」を著(あら)わして農学を集大成した宮
 崎安貞、
  方程式の解法や円周率を発見したりし、数学(和算)
 を確立した関孝和など・・数限りない偉人が輩出される
 社会だった。
.
1700年頃、江戸の社会になって・・平和な社会が到来した。
  人々は安心して生活の向上を目指した・・働いた。
  江戸幕府の中央政府も、また、各藩の地方政府も農地
 の拡大に努めた。
  干潟や河川敷などで、新田が、どんどん活発に開発さ
 れた。
  また、大規模な新田開発が各地で行われた。
  江戸幕府が開かれてから100年の間に、全国の農地は
 2倍となった。
  また、農機具の改良・開発も行われた・・
  深く耕すことができる「備中鍬(びっちゅうくわ)」
 や、脱穀が能率よく素早くできる「千歯こき(せんばこ
 き)」などができ、農作業の能率が向上した。
  干鰯(ほしか)や油粕(あぶらかす)の肥料も用いら
 れるようになった。
  また、染料の原材料である藍(あい)や紅花(べにば
 な)、
  そして、麻布の麻や、綿布(めんぷ)の綿(わた)、
  菜種油(なたねあぶら)の菜種などの商品作物の栽培
 も広まった。
  また、養蚕(ようさん)も盛んになった。
  この様な農業の発展を受けて、他の産業も発展した。
  各地の城下町の建設も進み、家屋の建築も盛んで、木
 材需要も高まり・・林業が盛んになった。
  肥料の干鰯需要も活発で、その大量生産のため房総(
 今の千葉県)での網による漁業が盛んになったり、
  土佐(今の高知県)のカツオ漁やクジラ漁、
  そして、北海道のニシン漁やコンブ漁、
  瀬戸内海の塩田の製塩業も発展した。
  日本中が大開発の時代だった。
  また、産業の発展に付随して必要な交通も発達し、道
 路も拡充して行った。
.
1900年7月13日、アムール川(黒竜江)事件
  義和団の乱(1900年)が発生した時、義和団員の一部
 が黒龍江対岸のブラゴヴェシチェンスク(現:ロシア・
 アムール州州都)を占領した。
  かねてから、満洲全域への進出を計画していたロシア
 は、義和団と欧米列強を相手にしている清国側が、満洲
 に関わる余裕はないと見た・・考えた。
  そこで、1900年7月13日、ロシアの軍艦ミハイル号は、
 河上より銃撃を開始した・・そこで戦端は開かれた。
  何事も強引なロシアだった。
  1900年7月16日、ロシアは、ブラゴヴェシチェンスク事
 件で、混住する清国人約3,000名を、同地から排除するた
 めに虐殺した。
  さらに、1900年8月2日~8月3日にかけて、黒龍江・
 璦琿(あいぐん)事件では、義和団に対する報復として
 派兵されたロシア兵約2,000名が、黒河鎮に渡河上陸して、
 またまた、清国人を虐殺した・・この様な事を繰り返す
 ロシアだった・・、
  その結果、この時期に、清国人の約25,000名が、ロシ
 ア兵に虐殺された。
  死体は、アムール川に投げ捨てられ、遺体が筏のよう
 に川を下って行ったと言われている。
  これらの事件によって、江東六十四屯から清国人居留
 民は一掃された・・清の支配は失われた。
  (参考)江東六十四屯(こうとうろくじゅうしとん):
     アムール川(黒竜江)の左岸(東側)に広がっ
     ていた広い地で中国人居留区。
      ロシアの都市ブラゴヴェシチェンスクの南側
     (ゼヤ川より東)の一帯に64ヶ所の村落があっ
     たためこう呼ばれた。
  これらの事件と、これに続くロシアの東三省の中国東
 北部の、ロシアによる荒っぽい占領・・そして・・
  都合のよい時には日本に助けを求め、また、都合の悪
 い時は干渉するというヨーロッパ・アメリカの列強の干
 渉・三国干渉以来、高まっていた日本での対ロシア警戒
 感が、特に、一層、高められた。
  当時、世界最大のロシア陸軍と言われていた・・、
  この軍隊でもってロシアは、さらに、アムール川から
 南下をして行こうと、その機会を狙っていた。
  日本は緊張し・・世論も緊張した、そして、反ロシア
 大集会が、日本各地で開かれた。
  ロシアは、次に、朝鮮を狙い、そして、朝鮮を蹂躙す
 ると見られた・・
  シベリアを東へ東へと領土を拡張して来たロシアの領
 土欲は・・留まることを知らなかった・・止まりそうも
 なかった。
  そして、かつての「元の襲来」の様に、その次は日本
 へ侵略して来るに違いないと見られた・・その様な恐怖
 の世論の見方だった。
  そして、ロシアの行動が、日本の安全保障上「非常に
 危険な状況」となり、やむなく日露がぶつかり合う事に
 なって行く。
  中国の各派は、一致して、「ロシアの江東六十四屯占
 領の合法性を認めなかった」。
  第二次世界大戦後の、1991年以降・・
  中国とロシアが、長年の領土紛争に終止符を打つべく
 アムール川沿いの国境画定を行った際、
  江沢民総書記とボリス・エリツィン大統領による条約
 の中で、中華人民共和国は、正式にこの地に対する主権
 を放棄すると承認した。
  なお、中華民国(台湾国民政府)は、法律上は江東六
 十四屯に対する主権を「まだ放棄していない」。
  中華民国の政府が認める地図の中には、この場所は今
 でも「中国領」として表示されている。
.
1900年8月4日、北清事件(北清事変)・・天津を出発し、籠
 城者の救出へ向かった。
  列強各国が、日本に助けを求めて来た(ある意味、利
 用しようとした)
  本「誰のために」(石光真清の手記 4・中公文庫)に、
 以下の記述がある・・、
  明治33年(1900年)の中国市民の(ロシア軍による)
 大虐殺につぐ侵攻以来、大スラブ帝国の三色旗を翻し、
 君臨していたロシア軍が、木綿服で着ぶくれたみすぼら
 しい中国軍に武装を解かれて、国境のかなたに追われ行
 く姿を眺めた時、私は、歴史の変転の激しさと無情さを、
 眼と耳と胸にしみじみ感じた。
  (注意)北清事件と義和団事件とは違う・・、
     義和団事件(1899年~1900年)は、ヨーロッパ・
     ロシア・アメリカなどの列強の国々が、中国の
     領土を分割して、その土地を支配するという植
     民地化したいと、また、租借したりと中国に進
     出した。
      この事に対して、義和団という信仰集団が団
     結して反乱を起こし反抗した。
      義和団は、「扶清滅洋」という言葉を掲げた。
      扶清滅洋(ふしんめつよう)は、清朝を助け
     て、ヨーロッパ・ロシア・アメリカなどの列強
     を討ち滅ぼすの意味。
  北清事件(北清事変)は、1900年に起きたが・・、
  イギリスが、何度も、日本軍の参加を要請した・・
  そして、列強各国もこぞって日本の参加に賛成して、
  日本は、その様な状態のなかで、第五師団を派兵した。
  義和団の力が強く、手をこまねいていたからだった。
  義和団兵と清国兵に囲まれた籠城者を救出したかった。
  日本を主力とする列強各国の連合軍は、天津城を完全
 に占拠した。
  そして、ここで師団主力の集結をし、その集結を待っ
 て・・、
  1900年8月4日に、天津を出発した・・北京籠城組の救
 出の途についた。
  連合軍の総兵力は、22,000人だった。
  義和団・清国軍は、この数より多く、まさっていて、
 士気は高く、頑強に抵抗した。
  新聞記者だった菊池寛は以下のように書いた・・
  「真正直に北京の表玄関である朝暘門、東直門を爆破
 して、敵の主力と肉弾戦をやり、その数千を敗北させ、
 屍を踏んでわが公使館に達していく、いかにも日本軍ら
 しい、やり方であったと思う」と。
  「救援軍至るや、籠城の各国人は相抱擁して泣いた。
  殊に外国婦人などは、感極まって夢中に城門外に駆け
 出し、流弾にあたって死んだ者があったくらいである。
  60日振りで籠城軍は濠から出て天日を仰いだのであっ
 た」。
  日本は、この時の救出に大きな貢献をした。
  この時から、日本は、世界から「極東の憲兵」という
 言われ方をした。
.
1945年秋以降、GHQ(連合国総司令部)が、言論統制を
 行なった。
  新聞、雑誌、図書を含む出版物、通信、放送、映画、
 演劇、郵便などの検閲を始めた
  そして、GHQは、1928年1月1日から1945年9月に至る
 まで、刊行される図書の没収を指令した。
  卑劣な言論統制と思想統制を、日本に対して行なおう
 として、この様な事を始めた。
  アメリカは、『言論の自由の国』というが、まったく
 の嘘・・日本へは、この様な卑劣な事を行なった。
  自由に書籍などに日本人が触れるという事は出来なく
 された。
  日本全国の図書館や書店、そして、流通経路から没収
 がなされて行った。
  「言論の自由で、民主主義を達成するのだ」と言って
 いるアメリカが、この様な「野蛮な事をした」。
  没収されて読むことが得出来なくされた本は、7000種
 に及んだ・・「GHQ焚書図書」
  世紀の最大の歴史学者アーノルド・トゥインビーは言
 う・・、
  「その国が歴史と言葉を失う時に、その国は滅びる」
 と。
  アメリカは、フィリピンを植民地にして、卑劣にも、
 その言葉を奪った。
  フィリピンを英語化した。
  フィリピンの言葉を奪うという卑劣な事を行なった。
  今、アメリカは、日本を英語化しようとしている。
  まさに、日本の歴史と言葉を、アメリカは奪い、トゥ
 インビーが言うように、日本を滅ぼそうとしている。
  没収されたこの時の出版物は、アメリカに送られ、メ
 リーランド大学へ譲渡された(プランゲ文庫)
  原稿やゲラ、そして、検閲の為の調書類も含まれてい
 た。
  図書とパンフレット(71000タイトル)
  新聞(18047タイトル)、雑誌(13799タイトル)
  報道写真(約10000枚)、ポスター(90枚)
  地図(640枚)、検閲関連文書(600,000枚)
  1945年9月~1948年7月:事前検閲
  1948年8月~1949年10月:事後検閲
  日本人も雇われて検閲を行なった・・1947年のピーク
 時には8,100人居た(高給だった)
  アメリカ人軍属や将兵も加わり、総勢8,700人によって
 検閲が行われた。
  出版社は出頭を命じられた。
  占領軍への批判は厳しくチェックされた。
  (司令部に対する批判、憲法の想起行為、検閲制度、
 アメリカ合衆国への批判、英国に対する批判、極東軍事
 裁判批判、連合国に対する批判、第三次世界大戦への言
 及、大東亜共栄圏、戦争犯罪人の擁護、占領軍兵士と日
 本女性との交渉、抑えられた報道の公表などなど、口を
 閉ざされたタブーが一杯あった)
  そして、戦争肯定の内容や武士道に関するものは没収
 となった。
  戦前・戦中のものも没収された(5万冊以上がアメリカ
 へ送られ、アメリカ議会図書館と国立公文書館へ持って
 行かれた)
  日本側も原爆への記述を自主規制して気を使った・・
 これを「日本人の自己検閲」と言われた。
  研究書である「ドイツ戦争心理学」「航空心理」「国
 防心理学要論」なども没収された。
.
1947年5月3日、日本国憲法が施行された。
  日本は、アメリカの占領下であり、この様な体制下で
 行われた行為は「違法」という論理がある。
  憲法無効論は、日本国憲法の制憲過程に重大な瑕疵が
 あり、無効であるとするもので・・、
  また、日本の平和条約締結にともなって自動失効して
 いるとの論もある。
  憲法無効・失効論の述べるところは、憲法失効にとも
 ない、大日本帝国憲法を唯一の法源とすべしというもの
 があり・・、
  これは、あくまで、手続き上の議会主義的正統性に関
 するもので・・、
  旧憲法の改正手続きに則り、速やかに新たな自主憲法
 を策定すべしという論(石原慎太郎等)、
  ないしは、憲法の正当性を確保するべく日本国憲法を
 改正すべし(小沢一郎等)との論。
  アメリカ占領軍が、急遽(きゅうきょ)作って、成立
 はさせた現行憲法という成立に後ろめたさがある。
  この現行憲法の成立に携わった老齢となったアメリカ
 人は、「まだ、あの憲法なの・・?」と言ったという・・、
.
1960年、全国の映画館数が、7457館とピークに達する。
.
1988年、参議院の法務委員会で梶山静六国家公安委員長が、
 「(新潟の)アベック失踪事件は北朝鮮のものたちの疑
 いが濃厚」と答弁した。
  それまで、日本は、この拉致事件を隠ぺいする体制に
 あった。
  そして、この拉致行為は、2002年に、小泉首相が北朝
 鮮へ訪朝した際に、国防委員会委員長・金正日は、北朝
 鮮が拉致したと初めて認め、謝罪した。
  また、「死亡」したとされる8人に関する「死亡診断書」
 などの情報を提出したが、これらはすべて捏造であった
 ことを日朝実務者協議(2004年11月)で認めた。
  日朝平壌宣言では「国交正常化の後」、「経済協力を
 実施」することとなっているが、日本政府は「拉致問題
 の解決なくして国交正常化はありえない」と繰返し述べ
 た。
  その後の交渉で、北朝鮮が生存していたとした5人の拉
 致被害生存者について、一時帰国を条件に、2002年10月
 15日に、帰国が実現した。
.
1992年10月17日、アメリカのルイジアナ州で、ハロウィン
 の仮装をして、訪問する家を間違って訪ねた日本人留学
 生の青年が射殺された。
  16歳の高校2年生という未来ある青年だった。
  英語教師の母親の影響で、夢のアメリカ留学だった。
  ハロウィン特有の変なメーキャップなどはしていない
 という状態であるのに、
  また、間違えた家自体もハロウィンの装飾がしてある
 というハロウィン一色の状況の中で、
  また、日本人留学生は、異常な行動を示したという事
 でもなく、ちゃんとドアのベルを鳴らして訪問したとい
 う普通の行動と意思を示し、行動していたのにである。
  そして、間違えて行ったその家の相手に、「パーティ
 に来ました」と、はっきりと来た理由を示し、挨拶して
 いるのに・・、
  この男は、この日本人留学生の心臓を狙って撃った。
  威嚇射撃や、足元をを狙うなどの行動は一切せずに、
 心臓を撃った。
  殺意があるとしか言えないアメリカ人だった。
  しかし、アメリカの更に卑劣なことは、この卑劣な行
 為に対して、全員一致で無罪判決を下した。
  屋内に侵入した者への発砲は、この州の法律でも発砲
 はやむを得ないとされているが、この日本人留学生は、
 屋内に入ってもいないのに無罪とされた・・人種差別の
 なにものでもない・・アメリカは、この様な人種差別判
 決がいくらでもある。
  また、その卑劣さは、近距離(2メートル前後、弾が外
 れることはないという近距離)から心臓を狙うという、
 「殺人の意思しか持たないという行為」をされて未来あ
 る人生を閉じた日本人留学生の高校2年生だった。
  この様な有色人種蔑視判決は、黒人の方々が、特に、
 多く受け、そして、泣いている・・「卑劣なアメリカ」
 となっている。
.
2013年3月11日、東日本大震災二周年追悼式において、NH
 Kが、中国寄りの放送態度をする。
  NHKは、完全に中国に牛耳られている。
  公共放送の立場であるのに「もってのほかである」。
  NHKは、NHKの建物内に、中国だけに「中国のた
 めの特別スペース」を与えている。
  国民の受信料で成り立っている公正であるべき放送局
 のNHKが、「何故?中国だけに、この様な特別待遇を
 与えているのか?」
  また、NHKは、放送態度においても、中国寄りの放
 送をする。
  例えば1例、「東日本大震災」の「二周年追悼式典」の
 中継をしていた時、式典を主宰していた日本政府は、台
 湾を国賓として招待していた。
  しかし、この様な立場の「台湾代表が、献花するシー
 ンをカットして放送を中断した」。
  中国の力が働いていたと言われている。
.
2015年8月、移民や難民と称してEUに流入する人々・・、
 そのすべてが、本当の移民や難民なのか?
  EUへの数限りのないその流入は、まず、ハンガリー
 を経由していた。
  はじめのうちは「人道が叫ばれた」。
  しかし、とめどない、その多すぎる流入に対し、最初
 に悲鳴を上げたのが、このハンガリーだった。
  ハンガリーは、2015年8月から、国境線にその流入を防
 ぐ鉄条網の塀を築き始めた。
  EUは、初め、そのハンガリーの行為を非人道的と非
 難した。
  その声が、一番、大きかったのがドイツだった。
  しかし、1年も経つと、その声を上げるEUの国は、
 まったく無くなった。
  そして、塀を作っているEUの国は、ハンガリーだけ
 ではなくなった。
  多くのEUの国が、国境に軍隊を動員して、国境警備
 をして・・流入を防いでいるという「今となっている」。
  どの国も、その様に「力づくで流入を防いでいる」。
  そして、EUには、その行為を非難する声は、最早(
 もはや)、「まったく、ない」。
  ドイツでさえ、流入する人々の受け入れを規制し始め
 た。
  このドイツの、この規制以上に、他のEU諸国は、ド
 イツへ流入した人々を戻されるのではないかと恐れてい
 る。
  この様な事から、EUの「内政が乱れる」という懸念
 が強くなっている。
  超過剰に流入する人々によって、EUの形は揺らぐ。
  国柄が壊されていくEU諸国。
  以前のドイツ文明が、フランスの国柄が、オーストリ
 ーの雰囲気が・・無くなって行く、壊されて行く。
  グローバリズムで起きた状況が・・この様な結果の状
 況となっている。
.
2017年、日本は・・ここが狙われている・・
  日本の要石(かなめいし)を・・、
  だから、工作員はここを狙っている・・、
  ☆ 政治機構に潜り込む・・政党などへも・・
  ☆ 官僚機構に潜り込む・・特に、外交などの外務省
  ☆ 要な場所・土地・地域・ゾーン・・
  ☆ 教育の現場に潜り込む・・日教組を支配する。
  ☆ 放送媒体を牛耳る・・特に巨大放送媒体のNHK
  ☆ 国旗・国歌を否定する・・シンボルの否定
  ☆ 伝統的儀式の破壊と、考え方・道徳の破壊
  ☆ 日本の古来からの伝統の破壊
  ☆ 日本の要(かなめ)技術を奪う
  ☆ 人間関係・家族・家系の破壊
  ☆ 宗教を牛耳る・・などなど・・
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)574E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年1月~1893年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)574E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年1月~1893年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年、歌・流行・世相:
・流行:松の内に、トロロ汁を食せば、感冒にかからない
  という行為が流行し、山芋の値段が急騰した。
・流行:芸人の間で写真入の名刺が流行る。
・流行:碑を建てること
・流行:花合せ(3人で遊ぶ花札の遊戯のひとつ)
・流行:紙風船(花びら形の色紙を、袋状にはり合わせて
  作った玩具。息を吹き入れて膨らませ、手のひらで打
  ち上げて遊ぶ)
.
1893年、発明:
・ディーゼル(ドイツ)が、ディーゼルエンジンを発明し
 て自書で原理を理論的に解説した。

1893年、医・衛生:
・天然痘流行で11852人が死亡し、また、赤痢で41284人が
 死亡した。
.
1893年、環境・災害・防災:
・1890年代、バッファロー(アメリカ・バイソン)が、ア
 メリカの大地から姿を消す状態になった。
  絶滅寸前となった。
  1000頭を割った(約750頭というデーターがある)。
  白人のキリスト教徒が現れる前のアメリカバイソンの
 生息数は、約60,000,000頭も居た。
  この様に多かった野牛を白人アメリカ人は殺した。
  99.9987%のアメリカバイソンを、殺してしまったとい
 うアメリカ人だった。
  0.0012%しか生き残っていなかった。
  日本へ鯨のことでとやかく言う資格はない。
  更にひどい事に、この様にした行為の理由が、このバ
 イソンは、アメリカ・インディアンの方々(先住民)の
 大切な食糧だった。
  アメリカ・インディアンの方々の絶滅作戦の一環でこ
 のバイソンを射殺しまくった(非人道的な極悪行為)
  そして、そのバイソンを食べる訳でもなく、そのまま
 放置し、腐るがままにした(動物愛護の話もあったもの
 でもない)。
  1870年代中期の写真がある。
  バイソンの頭骨を積み上げた山の写真。
  その山の頂上で、白人アメリカ人が誇らしげに立って
 いる。
  この関係者が集めただけでも、この様な山のようなバ
 イソンが殺されたことを示している。
  30メートルもの高さがあろうかという巨大なバイソン
 の頭蓋骨の山・・そして、今・現在、そのアメリカ・イ
 ンディアンの方々が絶滅に瀕(ひん)しているという現状。
  非人道的な話この上ない卑劣な話である。
  衣食住のすべてを、バイソンに支えられていたアメリ
 カ・インディアンの方々だったのに・・、
  長い歴史の中で、このように暮らしを育んで来たアメ
 リカ・インディアンの方々のすべてを奪い取った。
  白人アメリカ人は、自分だけ良ければ良いというキリ
 スト教の教えに洗脳されて、この様な最悪行為をしたの
 だった・・キリスト教の神の義があれば、やってもいい
 のだという「まったく勝手な教義」に洗脳された輩の行
 為だった。
  アメリカ政府が、その行為を率先して奨励していた。
  卑劣極まりない。
.
1893年、その他:
・清水次郎長が死去した。
・自殺者調べ、1887年:5,823人、1988年:5,256人、
       1889年:5,852人、1990年:7,479人、
       1991年:7,499人、1992年:7,240人、

1893年1月1日、「度量衡法」が施行された。
  度量衡取締条例(明治8年8月5日太政官達第135号)を
 継承して、1891年3月24日に公布され、
  1893年(明治26年)1月1日に施行された(明治24年3月
 24日法律第3号)
1893年1月7日、星亨が、自由党の演説会で改進党を攻撃す
 る演説を行い、両派が対立した。
  改進党との対立が激化の結果、自由党は、政府の伊藤
 博文に接近して行った。
  1893年1月12日、衆議院は、明治26年度(1893年度)予
   算案を修正(軍艦建造費削減、官吏俸給・官庁経費
   の減額など871万円を削減)して議決した。
  1893年1月16日、政府が、「予算案修正は不同意」と表
   明した。
  1893年1月23日、衆議院が、内閣弾劾上奏案を上程し、
   15日間の停会を命じられた。
  1893年1月26日、貴族院が、田畑地価修正法案を否決し
   た。
  1893年2月7日、衆議院が、181対103で、内閣弾劾上奏
   案を可決した。
  1893年2月10日、「在廷ノ臣僚及帝国議会ノ各員ニ告グ」
   の詔書が出された。
   内容:「軍備拡張のため、内廷費毎年30万円ずつ6年
   間下付、同期間中は文武官俸給の1割を納付させて製
   艦費補助にあてることを命ずる」(建艦詔勅・和衷
   協同の詔勅)。
  1893年2月22日、衆議院が、予算案を修正(製艦費を認
   め262万円のみ削減)し、可決した。
  1893年2月26日、貴族院が、修正予算案を可決した。 
1893年1月8日、全国新聞記者同盟が、「新聞紙条例」の改
 正運動(交渉)を開始した。
  そして、1893年2月に、出版法・版権法、集会及政社法
 が先に成立した。
  その出版法・版権法の条文には、「新聞紙法」の文字
 が盛り込まれており、新聞紙法の成立が織り込まれてい
 たにもかかわらず、結局、新聞紙法案は同議会において
 成立をみなかった。
  そして、1897年、第10議会に、ようやく条例改正とい
 う形で改正が実現した。
  新聞紙条例改正は、議員によって他の言論関係条例の
 改正よりも重視されていたにもかかわらず、その改正の
 ハードルは高く、改正の実現に時間がかかった。
1893年1月16日、アメリカがハワイを奪い始めた。
  アメリカ公使の要請によりアメリカ海兵隊がイオラニ
 宮殿を包囲した。
  1893年1月17日、共和党が政府庁舎と占拠し、王制廃止
   とハワイ臨時政府樹立を宣言した。
  1893年1月22日、ハワイ王国でリリウオカラニ女王が廃
   位された(ハワイ王国の滅亡)
  1893年1月16日の出来事・・、
  ハワイのカメハメハ王朝の滅亡への策謀・・、
  アメリカ合衆国の息のかかったものが実権を得た。
  アメリカ合衆国からの移民で、アメリカと関連の深い
 サトウキビを扱う業者らが、さらに親米的な政権を打ち
 立てるため、政権の転覆を計画した。
  アメリカ海軍の軍艦ボストンは、首謀者サンフォード・
 ドールとロリン・A・サーストンを保護する名目でホノル
 ルに到着し、リリウオカラニは幽閉状態となった(デッ
 チアゲによる政権転覆)
  1月17日、ドールはハワイ臨時政府を打ち立て、王政の
 廃止を宣言した。
  翌年の1894年7月4日に、ドールはハワイ共和国の成立
 を宣言し、同国の最初で最後の大統領となった。
  サンフォード・ドールは、アメリカ合衆国メイン州出
 身の白人のキリスト教プロテスタント宣教師の家に生ま
 れた。
  そして、ハワイに移り住み、アメリカ合衆国の多国籍
 企業であるドール・フード・カンパニーを創業したハワ
 イのパイナップル王を従弟(いとこ)に持った。
  ドールの家はハワイで政治的な力を持って行き、また、
 ドールはハワイ王の弁護士となった。
  そして、1887年に至って、アメリカ合衆国系の経済人
 や政治家やサトウキビ農場主らが結成した政治組織・ハ
 ワイ連盟が武装蜂起に参加した。
  そして、白人市民たちが民兵組織を作った。
  そして、アメリカ合衆国生まれのドールは、その民兵
 の武力組織を後ろ盾にハワイ王の退位を迫った。
  そして、アメリカ人たちの系統の政治組織・ハワイ連
 盟は、ハワイ王・カラカウアに退位の代わりにアメリカ
 人のサーストンの起草して作った憲法を受け入れる様に
 迫り、受け入れさせた。
  この憲法は白人のみに投票権があるとした。
  不公正なそして不平等な憲法であった。
  そして、先住民のハワイ人を排除する目的で、一定以
 上の収入や資産があることを条件としていた。
  結局、アメリカ合衆国から来た白人のアメリカ系およ
 びヨーロッパ系の者たちだけに選挙権があるという憲法
 だった。
  これで選挙をすれば結果は明らか、表面は合法的に見
 えるが、不公平な基準のもとに白人のアメリカ系とヨー
 ロッパ系にハワイは乗っ取られることになった。
  この不名誉な憲法を武力で認めさせたので「銃剣憲法」
 と蔑(さげす)んで言われている。
  ハワイ王及びハワイ王室および大多数のハワイの先住
 のハワイ人の方々は実権を失った。
  ドールは最高裁判所判事になった。
  この後、余りにも横暴な白人のやり方に、ハワイ王の
 妹のリリウオカラニ女王が、1891年に、白人と対立して
 即位した。
  そして、白人が銃剣で作った憲法を廃案にして新しい
 憲法を起案した。
  ハワイは騒然となった。
  白人たちは危機感を持った。
  1893年1月16日、アメリカ合衆国は、アメリカ海兵隊を
 出動をさせ、ハワイ王宮・イオラニ宮殿を包囲した。
  翌日の1月17日には、ハワイを銃剣憲法で奪った白人た
 ちは、ハワイの政庁舎を占拠した。
  そして、ハワイの王政は廃止だと宣言した。
  そして、臨時政府が打ち立てられたのだと叫んだ(宣
 言した)。
  ドールは大統領に就任した。
  そして、合法政府だと周りの国に言わせた(承認させ
 た)。
  臨時政府は、アメリカ合衆国と併合したいと意思表示
 した。
  そして、ハワイの臨時政府の大統領にアメリカ合衆国
 の大統領が兼務する形で就任した。
  その後、報告書が出されるなど、半分、演技と思われ
 ることをやったりしたが、結局、ハワイは、アメリカ合
 衆国の一つの州となった。
  今、大多数だった先住民のハワイ人の方々は影も形も
 ない。
  この最後のハワイの女王であるリリウオカラニ女王の
 心を謳った、若い女王によって作られた「アロハ・オエ」
 がある。
  この歌は、白人たちの横暴を暗喩していると言われて
 いる。
  強引な国を乗っ取る行為に抗議していると言われてい
 る。
  また、女王は日本へ助けを求めたという話もある。
  多くの日本人が居たことも関係していると考えられる。
  その日本人たちの誠実な生活態度を見ているからだっ
 た。。
  1893年のハワイ王国の滅亡への動きは下記・・
  ハワイ王国のリリウオカラニ女王が、アメリカとの不
 平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発し
 たアメリカ系移民であるアメリカ人農場主らが、アメリ
 カ海兵隊160名の介入・侵略をさせて、ハワイ王国を滅
 亡させてしまった。
  ハワイ王政を潰(つぶ)して「臨時政府」を樹立した。
  完全な元アメリカ人のハワイ移民を使ったアメリカの
 傀儡(かいらい、人の手先となって思いのままに使われ
 る)のハワイへの乗っ取り行為・侵略だった。
  この時、日本は、あまりにも卑劣な行為の侵略である
 ので、邦人保護を理由に、東郷平八郎の率いる巡洋艦「
 浪速」他2隻をハワイに派遣した。
  そして、ホノルル軍港に停泊させて乗っ取り勢力・偽
 クーデター勢力を威嚇した。
  先住民の正統政府のハワイ王国女王を支持する先住民
 らは、日本の軍艦の来航を涙を流して喜び歓喜した。
  また、ハワイ在留日本人も、先住民の方々の女王支持
 派と同じ気持ちで行動をとった。
  しかし、アメリカによるハワイ併合は、この年・1898
 年に実現されてしまった。
  そして、その66年後の1959年8月21日、アメリカは、ハ
 ワイをアメリカの州とした・・当初の目的どおり・・
  今、中国が、このアメリカと同じことをやっている。
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、中国が、このアメリカと同じことをやっている。
   そして、富を吸われ続ける庶民は、もっと怒らなければならない。
   そして、外国から「ポルノレベルだ」と軽蔑されている。
   そして、何故?、日本の自衛隊は、アメリカ軍に信用されて、
       韓国軍は信用されないのか?
   そして、EUでは、どこの国も本音は移民に大不満。
.
紀元前6世紀、アケメネス朝ペルシャのダリウス大王が、西
 はエジプト、トルコから・・東はインド国境におよぶ史
 上最初の大帝国を建設した。
  そのダリウスが、自分の宮殿として作らせたのがペル
 セポリス。
  ペルセポリス:ペルシアのダリウス(ダレイオス1世と
 もいうペルシャの3代目の王)の建設したアケメネス朝の
 首都で・・、
  紀元前330年、アレクサンドロス大王によって破壊され
 た。
  現在のイラン南西部の都市・シーラーズの近郊に遺跡
 が残っている。
.
紀元前5世紀、オリエント世界の最初の大帝国の統一者・ダ
 リウス一世とクセルクセス王が、三度、ギリシャの奥深
 くに侵入し、戦ったが、スパルタやアテネの連合軍に敗
 北した(ペルシャ戦役)。
  この後、アテネは繁栄し、ギリシャ文化が完成した。
  これを通して、世界文化への貢献したという点で、画
 期的な意義を持つ。
.
紀元前331年、ペルセポリスの裏に「慈悲の山」と呼ばれる
 丘がある。
  そこに登り眺めると、この年、アレクサンダー大王の
 軍によって放火された「ペルセポリス炎上」の情景がよ
 みがえる。
  このマケドニア王の侵略戦争によって、どれだけのハ
 レムが燃え、女たちが引きずられ、男たちが虐殺された
 事であろうか・・、
  それからこの宮殿も焼失し、砂に埋もれ、ペルシャは
 幾度も異民族の支配を受け、王朝も四転五変した。
  そして、1925年に、パーラビ王朝が成立し、イランの
 独立がなった。
.
1582年6月21日、本能寺の変
  織田信長が、本能寺で「明智光秀が謀反(むほん)」
 と聞いた時、「是非(ぜひ)に及(およ)ばず」と言っ
 た。
  「信長公記」に書かれた言葉。
  信長の近くにいて、生き残った奥務めの女性が、この
 言葉を聞いていた。
  良し悪しなんかを判断したりする必要は無い!
  議論する暇などない、四の五の言わずにやれ!
  光秀をとやかく言うとか、和睦なんかとかに頭を巡ら
 す暇などない・・攻めてきたのなら戦うだけだ!
  蘭丸から「明智が者と見え申し侯」と聞いただけで、
 聞き返し確認することもなく、また、その他の情報を得
 ようともしなかった信長だった・・
  すべてを、その一言で分かった信長・・明智ならやる
 だろう・・と・・、
  この「是非に及ばず」を聞いた後、信長から離れてい
 た信長の息子である織田信忠がいる妙覚寺へ駆け込み、
 救援を求めた人物が居た。
  その人物を弥助と言い、キリスト教宣教師のアレッサ
 ンドロ・ヴァリニャーノが所有する黒人奴隷だった。
  救援に向かった信忠、戦い敗れて(多勢に無勢)この
 弥助は捕らえられる・・しかし、光秀は解放した。
  そして、後、結城秀康の側近として仕えたという。
  結城秀康は越前北の庄藩の初代藩主、そして、越前松
 平家宗家初代。
  因みに、この黒人の弥助は、勇敢に秀光軍と一生懸命
 戦ったという。
.
1808年、フェートン号事件。
  イギリスの軍艦のフェートン号が、長崎港に侵入した。
  そして、当時、イギリスと対立していたオランダの長
 崎商館をイギリスへ渡せと要求した。
  そしてまた、オランダ人を2人を捕らえたり、乱暴狼藉
 をした。
.
1837年、モリソン号事件
  日本は、1825年に異国船打払令を出していた。
  その12年後の1837年、浦賀(神奈川県)に、アメリカ
 船のモリソン号が来た。
  幕府は、モリソン号を砲撃し打ち払った。
  高野長英は、1838年に、日本の近海にはイギリスが支
 配する国が多くある。
  イギリス船は絶えず航行している状態で、この後、日
 本が海上輸送をするようになった時、その様に外国船の
 打ち払いをやっていては、今度は、逆に、日本の海運の
 邪魔をするようになるだろう」と言った。
  (注:高野長英は、イギリス船と勘違いしていた)
.
1890年、「うたかたの記」森鴎外の短編小説が、雑誌「し
 がらみ草紙」に発表された。
  識者は憂えた。
  1886年8月13日の夕の7時、バワリア王ルードビッヒ2世
 は、発狂し、ステルンベルヒの湖に身を投げ、死んだ。
  王は恋に悩んでいた。
  ドイツ留学中の森鴎外は、この事件に、驚き、心に衝
 撃を受け、1篇の創作をした。
  「うたかたの記」である。
  この時、鴎外自身も、あるドイツ少女と恋し、「うた
 かたの恋」を経験していた。
  鴎外が日本へ帰国した後、この少女は、鴎外を追い、
 日本へ来た。
  遠い日本へ、一心、はるばる来た、その娘を、鴎外は
 追い返した。
  若い鴎外に、その悲愁が、湖水に投身した美貌のバイ
 エルン国王に重なった。
  国王は、国の十数万の民の事も忘れ、恋に囚(とら)
 われたという。
  急峻な山の中にある国、その山の中腹に、贅沢な城を
 築いた。
  大工事に多くの犠牲になった民が居た。
  「国王のロマンの中の民」へ心がおよぶ。
.
1895年、孫文が日本へ逃れた。
  日清戦争の終結後に、孫文は、広州での武装蜂起(広州
 蜂起)を企てたが、密告で頓挫し、日本へ亡命した。
  1897年、宮崎滔天の紹介によって、政治団体・玄洋社
 の頭山満と出会い、頭山を通じて平岡浩太郎から東京で
 の活動費と生活費の援助を受けた。
  また、住居である早稲田鶴巻町の2千平方メートルの屋
 敷は犬養毅が斡旋した。
  長い間、清朝の満州民族の植民地にされていた漢民族。
  その漢民族の孫文は、「独立したい」「辮髪もやめた
 い(満州族の風習)」と言ってきた。
  この年・1897年、宮崎滔天らの援助で東京府池袋にて
 興中会、光復会、華興会を糾合して中国同盟会を結成し
 た。
  ここで、東京に留学中の蒋介石と出会った。
  清朝没落の前後、中国各地は、革命軍が放棄して大動
 乱の兆しが満ちる中国だった。
  1911年10月10日、共進会と同学会の指導のもと、武昌
 蜂起が中国で起きた・・各省が、これに呼応して独立を
 訴える辛亥革命に発展した。
  当時、孫文はアメリカにいた。
  独立した各省は、武昌派と上海派に分かれ、革命政府
 をどこに置くか、また、革命政府のリーダーを誰にする
 かで争った・・、
  1911年12月25日、孫文が、上海に帰着すると、革命派
 はそろって孫文の到着に熱狂し・・、
  翌年になって・・1912年1月1日、孫文を臨時大総統と
 する中華民国が南京に成立した。
  孫文を大総統に推戴(すいたい、おしいただくこと)
 する臨時政府が南京に樹立されて、国号を中華民国と改
 め、黄竜旗を廃して五色旗を掲げた。
  しかし、間もなく、旧軍閥を背景とする袁世凱(えん
 せいがい)が、共和政体を宣言するに至ったので、孫文
 は、事態を円滑に収拾するため、彼に地位を譲った。
  だが、政党の乱立と軍閥の割拠が前途多難を思わせる
 時代だった。
  この様な中国に、各国が政治的介入をした。
  この様な中、袁世凱は、軍備と財政の強化を図りたい
 と、この各国から借款を仰いだ。
  これに、イギリスが大きくかかわった。
  中国には、大国の各国が、複雑に関わっていた。
  この様な形で強くなった袁世凱政権は、孫文の民主革
 命派に弾圧を加えた。
  敗れた孫文は日本に逃れ、中華革命党を組織した。
  1914年(大正3年)7月のことだった。
  この月に世界大戦が起こった、8月に、日本が参戦した。
  日本は、イギリス軍とともに協力して、青島(チンタ
 オ)のドイツ要塞を包囲し・・、海軍は、南下してドイ
 ツ領南洋諸島を攻撃し上陸した。
  1897年~1898年にかけて、列強各国は、中国に独占的
 な特殊権益を獲得して来ていた。
  例えば、イギリスは長江流域に、ロシアは東三省(と
 うさんしょう、中国東北部)、フランスは広東、広西(
 こうせい、広西チワン族自治区)、雲南など・・を。
  日本は、この時、初めて、これ等の列強各国の様な山
 東省を得た。
  これまでのヨーロッパ諸国やアメリカによる中国大陸
 植民地化の歴史に、この時、日本も入った。
  また、満蒙に大きな脅威を築いてきたロシアに対して
 の、防衛地帯を築けた。
  日本産業の原料市場と消費市場が出来た。

1917年2月23日、ロシア革命(二月革命)
  ペトログラードで国際婦人デーにあわせてヴィボルグ
 地区の女性労働者がストライキに入り、デモを行った。
  食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」とい
 う要求が中心となっていた。
  他の労働者もこのデモに呼応し、数日のうちにデモと
 ストは全市に広がった。
  要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。
  ニコライ2世は、軍にデモやストの鎮圧を命じ、ドゥー
 マ(ロシアにおける議会)には停会命令を出した。
  しかし、鎮圧に向かった兵士は次々に反乱を起こして
 労働者側についた。
  (史料)ロシア革命の時、ハルピンは無政府状態に陥
 (おちい)り、本月7日同地総領事は外務大臣に出兵準備
 を請願したる次第なり。
  9日黒沢中佐よりの電報によれば過激派の外務大臣トロ
 ツキイは、労兵会にて、日本は露国に宣戦することなか
 るべきも自己の為め如何なる奇策を行なうやも計り難し
 と述べたり。
.
1924年12月、中国の錦朝線が開業した。
  中国(支那)大陸における最大の利権国であるイギリ
 スが、満蒙の利権や儲け話を掘っておくわけはない。
  錦州から赤峰に至る錦赤鉄道を計画し、その第一歩と
 して錦州から朝陽に至る錦朝鉄道の敷設権を秘かに獲得
 していた。
  たまたま第一次世界大戦があって着工が遅れていた。
  この様なイギリス利権に対し、日本も、同様な利権を
 求めた。
  しかし、日本人が一生懸命努力をしても、イギリス人
 たちに、その利権はさらわれて行った。
  歴史・・、
  1921年4月、錦州駅~北票駅間の建設が開始された。
  1924年12月、「錦朝線」として開業した。
  1933年2月、金嶺寺(現:北票南駅)~凌源駅の建設が
   開始された。
  1933年10月、凌源駅~平泉駅間の建設が開始された。
  1934年4月28日、平泉駅~承徳駅間の建設が開始された。
  1936年6月16日、錦州駅~承徳駅間が全線開通して「錦
   承線」に改称された。
  1938年11月、承徳駅~古北口間が開通し、「錦古線」
   に改称された。
  1945年、日本の敗戦、および、国民党軍の補給路遮断
   のために共産党軍によって古北口~承徳間が廃止さ
   れた。
  1953年、京承線建設のための測量が開始され、承徳~
   古北口の旧線は大坡道~拉海嶺間の連続四段スイッ
   チバックが非常に非効率であることから、新線を作
   り直すことになる。
  1960年、承徳~古北口間が新線が開通し、京承線とし
   て開業した。
  全長は、447キロメートル。
  中国からは感謝の言葉の一つもない。
.
1929年、大恐慌が起きた。
  アメリカ・イギリスの先進諸国は経済的打撃が大きく、
 大幅に経済が縮小した。
  しかし、日本及び日本傘下の朝鮮・台湾は、若干、停
 滞する程度で、経済が発展し進展した。
.
1932年3月1日、満州国が建国された。
  日本は、満州の建国を応援した。
  その建国の理念に「五族協和」があった。
  しかし、民族のるつぼというべきカナンの地の宗教=
 キリスト教には「異民族排斥の考え方・教義」の「異教
 徒は殺せ」があった。
  しかし、この様な考えとはまったく違う理念「五族協
 和」の下に満州は建国された。
  日本が応援する満州には、満州人(女真族)も、ウィ
 グル人も、モンゴル人も、「皆、懐に抱かれる」の考え
 の下にあった。
  しかし、今・現在(2017年)、この地に満州人はまっ
 たく居なくなったという・・殺されたのか? 移住させ
 られたのか?
  そして、今・現在(2017年)、中国は、チベットの地
 へも、ウィグルの地へも、モンゴルの地へも、漢民族を
 大量に入れて(移住させて)、どの地域も一番多い民族
 は漢民族という地へと変えた・・
  その様な形で、国柄を変えて、すべてが漢民族の地と
 している行為が行なわれている。
  沖縄が、北海道が、この様な憂き目にあわないとは言
 い切れない状況の現在となっている。
  対馬は、韓国人の移住が酷(ひど)いという。
  中国は、武力を伴う「力によって」この行為を遂行さ
 れている。
  チベットの場合、チベット仏教の僧侶の方々が、自分
 の身を焼くという悲惨な形の抗議行動を行なっている。
  2016年の時点で、160人以上の僧侶の方々が、尊いこの
 行動をなされた。
  ベトナム戦争時においても、アメリカの「力による抑
 圧」に対し、ベトナムの仏教僧侶の方々が、やはり、焼
 身することによって抗議活動がなされた。
  まったく痛ましい事である。
.
1938年、日本・朝鮮・台湾がつくるグループは、1913年以
 来、飛躍的に発展した。
  F・ヒルガート著の「工業化の世界史」には、世界各
 国の工業生産の伸長率が記されているが・・、
  その著によれば、1913年=100として、1938年の時点で、
 1番伸長したのが朝鮮で560(5.6倍)、2番が日本で510
 (5.1倍)、3番が台湾で490(4.9倍)となっている。
  これに対し、アメリカは150(1.5倍)、イギリス120
 (1.2倍)である。
  この数字を見ても、いかに素晴らしい発展を、日本・
 朝鮮・台湾がしていたかがわかる。
  韓国は文句を言う理由はない・・
  アメリカ・イギリスの4倍以上の伸長をして発展をして
 いた。
  この時の世界の平均の伸長率が180であるから、アメリ
 カ・イギリスが特に悪いと言う訳ではない。
  この時代は、不景気の時代であった。
  その影響下に、それなりにアメリカ・イギリスも受け
 けていたという所だった。
  ただ、日本・朝鮮・台湾のグループは、その世界不況
 の影響を受けずに、破竹の発展を遂げていた。
  だから、台湾は、日本統治時代を感謝している。
  国が発展したと、しかし、朝鮮・韓国は、この事に、
 まったく触れずに日本を貶(おとし)めてばかりしてい
 る。
  恩を仇で返す国となっている。
.
1947年6月8日、日教組(日本教職員組合)が出来た。
  日教組は、子供たちの「個性を育てるのだ」とか、「
 感性を育てるのだ」とかという理屈で、何でも好き勝手
 に、教師自らやり、また、子供たちにやらせていて、そ
 れを良いとしている。
  この「個性」と「感性」を育てるという名目で、日教
 組は、子供たちを「自由放任」にする。
  下手に日教組の教師が口を出さない方が「良いのだ」
 という方針でいる。
  だから、子供たちの思った通りのことが出来る。
  そして、「何でもあり」の状態となる。
  卒業式でクラッカーを「バン!」と鳴らす。
  「個性のある卒業式ではないか」という理屈で問題に
 されない。
  この様な子供たちが育って、成人式の式場でも、クラ
 ッカーを「パン!」と鳴らす、
  酒に酔って式場で大声を上げる・・
  この様な人間が出来てしまう・・日教組方針の教育の
 結果がこの状況となっている。
  教師が口を出さないという日教組方針は間違っている。
  何ら指導をされない子供たち・・子供たちの教育を受
 ける権利が無視されているという状況にある事に、日教
 組は気付かない。
  放任していることで・・個性が育てられているので・・
 教育しない放任が「教育なのだ」と日教組は言う。
  これは詭弁である。
  キリスト教徒のアメリカ人たちは、アメリカに渡って
 来た初期に、厳寒期のアメリカの厳しい環境の地で越冬
 ができずに、若い女性を殺して食したが、この殺人を越
 冬のために殺したのだと、「悪」という論理を薄めたり、
 隠したりしているが、この論理と同じ詭弁なのだ。
  日教組も教師の立場を放棄している事に気付いている
 が、気付かないふりをしている。
  また、中には洗脳されて気付きもしない教師がいる。
  教育の破壊現象が起きている。
  教師の本分が尽くされていないのを気付かない。
  悪の指導をしている日教組は、鉄面皮に、半分、悪と
 分かっていても「よし」としている。
  卒業証書を校長先生から、後ろ向きでもらったり、背
 中に、垂れ幕を付けた服装で卒業式に出たり・・、
  教師もジーパンとジャージーで・・「アメリカの作業
 服姿で出席」したり、国旗・国歌をないがしろにしたり・・、
  この様な「何ら指導がなされていない」状況にしてい
 る日教組の指導方針に問題の原点がある。
.
1971年、この頃のトルコ労働者の夢は、西ドイツやスエー
 デンに行き、そして、働き、そこで、ドイツの女性と結
 婚して、永住して、もう二度とトルコに帰って来たくな
 い、
  そして、今、大量に人々は流れている。
  このトルコ・・まだ、9割の家に電気が来ていない。
  ドイツの産業は、安い労働力だと大喜びしている。
  今、日本も同じことをしている・・中国人と韓国人の
 大量流入となっている。
.
2013年3月11日、東日本大震災二周年追悼式が行われた。
  東日本大震災の震災一周年の追悼式で、民主党政権は
 台湾にひどいことをした。
  台湾代表は、各国大使と同じ席すら与えられず、一般
 の招待者と同じ二階席に行かされ、指名献花も無かった。
  総額300億円近い、アメリカに次ぐ額の募金をしてくれ
 た国に対して、この態度は極めて失礼と言う以上に非人
 間的だった。
  二周年追悼式は、自民党の時は、台湾を国賓として参
 列して戴いた。
  中国と南北朝鮮は欠席した。
  中国は、台湾を国として認める態度に反発した。
  韓国の欠席理由は、いつもの様に「意味不明の話」が
 伝わってきた。
  ここに記すのも馬鹿々々しい話だった。
  安倍首相は、台湾を国賓として参列して戴いたことに
 ついて、「礼節を大切にしたい」と語った。
.
2016年4月15日、アメリカの1%か、せいぜい数%の大金持
 ちが、富の99%を所有している。
  まったく不公平なキリスト教国・アメリカという国で
 ある。
  この富の不平等さは、「まったく卑劣だ」と・・唾棄
 する以外にない。
  当然、『民の富を収奪しなければ』こんなことが出来
 る訳がない。
  99%の大多数の民の富が、せいぜい数パーセントの大
 金持ちによって奪われるという封建状態の政治となって
 いる。
  これを、「格差」という言葉でマスコミは綺麗に表現
 する・・「掠奪状態的だ」などと露骨に糾弾したりはし
 ない。
  そして、この格差は、「ますます、拡大している」。
  こんなきれいな表現で、この問題を終わらせてはいけ
 ない。
  合法的とされる現行の法律規制のなかで、民の富を収
 奪している「ほんの一部の金持ちたち・富豪たち」。
  民へ利益還元すべき事も行わずに・・
  「民への分配」をしないから、この富豪たちのところ
 に富が、『ますます蓄積』されて行く。
  当然、社会システムが、適切ではないのだと言える。
  適切なら・・こんな極端な状況になる訳はない。
  この調整の方法の一つが「税制」である。
  税の財源を、当然ながら富が蓄積している所へ求める。
  それが当たり前なのだが・・
  金持ちや、富を蓄積している大企業へ求めるのが当然
 なのだが・・、
  ここにグローバル化なる「お化け」がある・・
  グローバル化が進んでいるので、税を高くすると、恩
 になった母国を、恩も何も関係ないと、その母国を出て
 行ってしまう。
  だから、「おいしいグローバル化への道」を大きな声
 で叫ぶ輩・グループが居る。
  ある意味でキリスト教もグローバル化を利用したいた
 めにグローバル化を叫んでいる。
  大企業やお金持ちが、逃げて行っては母国にとっては、
 元も子もなくなってしまう。
  今、世界一の投資家が、アメリカからシンガポールへ
 移っているが、個人的にもこの様な事がなされているが、
 (そして、子供には中国語を習わせているという)この
 様な事が簡単になされてしまう。
  限りなく税金を0へ向けて行かねばならないという性格
 を持ってしまう。
  むやみやたらに大企業に税はかけられない。
  逆に、大企業が国外に逃げるのをつなぎとめる様にと
 税金を安くする行為がなされている。
  または、逃げた大企業は戻っておいでと・・
  これを、今、アメリカのトランプ大統領がやっている。
  そしてまた、他国の大企業に進出してもらいたい国は、
 税金を安くして大企業誘致に懸命になる・・大富豪も同
 じに・・、
  税金の安い海外へ資産を移したりしないようにと・・
  その様なことのできない大多数の貧民は、「それは税
 金逃れだ」に見える・・
  それを躍起にやる世界になっている。
  (読売新聞、2016年4月15日)で、三木義一氏が、税負
 担を軽くするには「節税」「脱税」「租税回避」の三つ
 があり・・、節税は合法、脱税は違法、税制回避は節税
 と脱税の間にあるグレーゾーンだと言う。
  租税回避が、「タックスヘイブン」だ。
  (参考)タックスヘイブン:「租税回避地」という意
     味で、外国資本&外貨獲得の為に、意図的に税
     金を優遇(無税または極めて低い税率)して、
     企業や富裕層の資産を誘致している国や地域。
  産業が無い国や地域が、外国から投資を呼び込むのに
 つかっているが・・有効。
  「パナマ文書」が世界で取り沙汰されている。
  利益追求する大企業が、活用したいという面があり、
 利益拡大を求める大株主も租税回避を促している面があ
 る。
  多くの税負担をすべき富裕層や大企業が、国境の外へ
 と逃げる。
  国境の外の法律の届かない所へと逃げる。
  社会の破綻である。
  節操のなくなった大企業や大金持ち層が、こんな事を
 今、している。
  日本に育てられた子供や家族、残した日本の人たちに
 大きくしてもらった大企業が、恩も何も感ぜずに、日本
 から出て行く。
  「パナマ文書」に、国の模範となるべき「国のリーダ
 ーたち」が、自己だけの利益追求の欲に負けて、名を連
 ねている・・公表された名は、ここでは伏せるが・・
  世の末の形相を呈している。
  税のシステムの破綻行為をしている。
  アイルランドと言う国も、この手を使って大企業を誘
 致している。
  民主主義の破壊行為国となっている。
  周辺国からの苦情に、「税率の決定は各国の権利だ」
 と「けつまくりの反論」をしている。
  (参考)尻を捲る:しりをまくる・けつをまくる:
     居直ること。物腰を急に変えてけんか腰の様相
     を呈することなどを意味する表現。
  アイルランドへ、国際社会があってこそ、貴方の国・
 アイルランドも成り立っているのでしょうと反論したい。
  大企業は多国籍企業となり、大富豪も、莫大な資金を
 投入して節税と称して税金逃れをしている。
  アメリカというキリスト教国は、この流れに節操なく
 先鞭をつけた・・グローバル化が都合が良いと・・
  富を吸われ続ける庶民は、もっと怒らなければならない。
.
2016年、日教組は、「国際理解」という事を完全にはき違
 えている。
  また、意図的に詭弁(きべん)を弄(ろう)し、日本
 を冒涜している。
  また、日教組は、「ジェンダーフリー」を運動方針に
 している。
  だから、「ひな祭りなどの伝統文化」を否定している。
  この様な自分たちだけの判断基準を、子供たちに押し
 付けている。
  何でも屁理屈を付けて、理由なき理由を付けて反対す
 る日教組。
  日教組のこの言い掛かり的に、日教組の組織に付いて、
 文句を言うならば、日教組の組織は、圧倒的に、男性が
 多い組織になっている。
  故に、女性の日教組の組合員を増やせ、そして、どう
 しても女性組合員が増えないなら、女性組合員と同数に
 なるまで、男性組合員を減らせ。
  こんな男女格差のある組合員数は、ジェンダーフリー
 に反する。
  女性組合員と同数になるまで、男性の日教組の組合員
 の首を斬れ。
  毎日、この事を教室で、児童・生徒に言って洗脳教育
 せよ、マインド・コントロールせよ。
  そうすれば自分たちの主張が、程度の低い詭弁だと分
 かるだろう。
  もういい加減に、子供たちを繰る日教組活動を止めよ。
  頻繁に、性教育をするのが正しい訳がない、それも、
 だんだん過激な性教育をするようになっている事を日教
 組は反省せよ。
  また、低学年に、無節操に秘め事を話すことも悔い謹
 めよ。
  これは、電車の露出狂と同じ行為だという事に気付け。
  何も知らぬ子供たちへ、2時間も過激なレベルの性教育
 をするというのは「犯罪だ」。
  こんなことを6回も、7回もやるという。
  それも複数の露出趣味的手合いの教師が、複数で組に
 なってやるという。
  こんな異常さが許される訳が無いことを気付け。
  そんな行為、教育の名の下の犯罪行為をする権利はな
 い。
  10歳になるか、ならぬかの幼い子供に対して、教育と
 いう名に隠れた「言葉による性犯罪」である。
  「ペニスの洗い方」を多くの10歳の子供たちが、居並
 ぶまででリアルに話す必要はない。
  話したら犯罪行為だ。
  あまりに露骨なので、これ以上は控えるが、この紙上
 でも具体的指摘表現を憚(はばか)る犯罪行為をしてい
 る日教組の教師たち。
  外国から「ポルノレベルだ」と軽蔑されている。
.
2017年、我が国政府が表明している安全保障の方針・・
  我が国を守り抜く総合的な防衛体制の構築
 ☆厳しい安全保障環境の中、戦略環境の変化や国力国情
  に応じ、実効性の高い統合的な防衛力を効率的に整備
  し、統合運用を基本とする柔軟かつ即応性の高い運用
  に努める。
 ☆政府機関・地方公共団体・民間部門との間の連携を深
  め、武力攻撃事態等から大規模自然災害に至るあらゆ
  る事態にシームレスに対応するための総合的な体制を
  平素から構築していく。
 ☆その中核を担う自衛隊の体制整備に当たっては、統合
  的・総合的視点から重要となる機能を優先しつつ、各
  種事態の抑止・対処のための体制を強化する。
 ☆核兵器の脅威に対しては、核抑止力を中心とする米国
  の拡大抑止が不可欠であり、その信頼性の維持・強化
  のために米国と緊密に連携していくとともに、弾道ミ
  サイル防衛や国民保護を含む我が国自身の取組により
  適切に対応する(抜粋)
 https://www.cas.go.jp/jp/siryou/131217anzenhoshou/gaiyou.html
.
2017年、日教組は、「強制だ」と言って拒否し、最終的に、
 それを排除する行為をする。
  与えれば・・『強制だ』と言う。
  自分たちが好きなこと、すきなものには、その様な事
 は、当然、言わない。
  ・・が、しかし、「自分たちが気に入らないものに、
 『強制だ』と言って受け入れない。
  『強制だ』を、受け取り拒否の看板にしている。
  指示・指導をしても「強制だ」と言う。
  結局、自分たちの好き勝手をしている。
  しかし、自分たちの給料は貰う。
  たまには、「強制だ」と受け取りを拒否をしてみなさ
 いと言いたい。
  結局、「管理されたくない」というところに帰結する。
  自分の好きな事「だけ」を・・自分の好きにやりたい
 のだ。
  自分たちの好きに、「子供たちを教育したい」「自分
 たちの好きに洗脳したい」なのだ。
  だから、「法律で決まった事もやらない日教組」とな
 っている。
  日教組の、教師の、好きに、子供たちをマインド・コ
 ントロールをしたいのだ。
  日教組は、「強制」という言葉で、自分たちの好きで
 ないことは、『強制的に拒否』し、強制的に排除し、受
 け付けない。
  日教組は、この様な方法で、自らのイデオロギーを子
 供たちに『強制』している。
.
2017年、韓国軍は、アメリカ軍にまったく信用されていな
 い。
  それは、朝鮮戦争の時から始まっていた。
  昨日・今日、始まったことでは無い。
  朝鮮戦争という激戦を戦う中で、気が付くと周りに韓
 国軍が居なかったという窮地をアメリカ軍は体験した。
  アメリカ軍は、冷や汗をかく様なことを、朝鮮戦争の
 時から何度も味わされて来た。
  韓国軍の幹部が嘆(なげ)く・・「何故?、日本の自
 衛隊は、アメリカ軍に信用されて、韓国軍は信用されな
 いのか?」と・・この韓国軍幹部の漏らし嘆いた言葉の
 答えはこれだった。
  これに対し・・「日本軍は、いつの時でも、正面から
 堂々と来た」・・「汚い事は一切しなかった」・・「こ
 の様な戦い方をするのは日本軍だけだ」とアメリカ軍は
 その裏付けを話した。
.
2017年、日教組の子供たちへの思想教育は『大罪である』。
  日教組は、まだ、発達途上の子供たちの頭に、洗脳教
 育をし、マインド・コントロールをしている。
  「日の丸」や「君が代」の日本の国柄を示す根本を壊
 そうとしている。
  「日の丸」「君が代」は戦争になるからと、何ら脈絡
 のない恐怖をたたき込んでいる。
  「天皇陛下」を「天皇」といい、恐怖の対象のように
 教える。
  絶対尊称は使わない日教組。
  「日の丸」の赤は、日本によって殺された人々の血の
 色だと、どぎつい表現の悪印象をマインド・コントロー
 ルするやり方で、子供たちを洗脳している。
  日教組に言わせれば、赤だって、黒だって、黄色だっ
 て、こんな言い方で「日本のすべてを悪く言いたい」の
 だろうが??
  『いかにして平和を守るか?』という、本来、教えな
 ければならない事の微塵も日教組は教えない。
  教えるべきことをしない日教組のお粗末となっている。
  『いかにして戦争を抑止するのか?』という、これこ
 そ教育すべき課題で・・、
  この様な重要な教育課題を放棄している日教組となっ
 ている。
.
2017年、ECという形を使ってドイツは伸びた。
  EUでは、どこの国も本音は移民に大不満。
  今、香港が、チベットやウィグルと同じように、どん
 どん中国本土の中国人がどんどん入って、香港が中国化
 しているという。
  数年働いて、お金がたまると、家族を呼び寄せるとい
 うパターンとなっている。
  オーストラリアにも、どんどん中国人が入って、その
 様な中国人は、積極的な行動家なのでオーストラリアの
 子供たちが駆逐されるという。
  日本のゲームばかりして「のほほんとしている子供」
 は移民に駆逐される。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)573E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年1月~1893年1月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)573E2/3:2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1893年1月~1893年1月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1893年、出来事:
・内閣:第二次伊藤内閣(1892年8月8日~1896年9月18日)
・小学校の祝祭日の唱歌として「君が代」などが選定され
 た。
・海軍省が、下瀬火薬を水雷用として採用した。
・シカゴ万博(1893年5月1日~10月3日)
・エジソンが映画を発明した。
・野口英世が医師の書生となった。
・スウェーデンのスヴェン・ヘディン(地理学者、探検家)
 が、トルキスタン(西はカスピ海、東は中国、北はアラ
 ル海、イルティシュ分水界、南はアフガニスタン北部、
 イラン国境に及ぶ地域 )や、西蔵(せいぞう、チベット
 の西南部分)や、新疆(しんきょう、ジュンガル、モン
 ゴルとウィグル)の調査をした(~1897年)
・アメリカ移民の親米派によるクーデターで、ハワイに共
 和国が誕生し、ハワイ王国が滅亡した。
・松平容保が没した(1835年~1893年、58歳)
・毛沢東が中国湖南省に生まれた。
 中学校も師範学校もこの省の都の長沙で過ごした。
.
1893年、国際:
・ハワイ王国が滅亡させられた・・アメリカの属領となる
 (1893年1月22日)
・アフリカのギニアが、1890年にセネガルから分離してフ
 ランスの植民地となった。
  この後、フランス領ギニアと改称。
  そして、対フランス戦争が、1891年から7年間続いた。
  フランス領コートジボワールは、1880年代からヨーロ
 ッパ列強によって激しくアフリカ諸地域が争奪される卑
 劣な「アフリカ分割」が始まると、1893年に、フランス
 の植民地フランス領西アフリカとされた。
・モロッコで、スペインとリーフ地方のベルベル人との間
 で3次にわたり「リーフ戦争」が勃発した(~1925年)
 ヨーロッパの武力の強い国が、弱小のアフリカの国を好
 きに掠奪した。
.
1893年、経済・金融・貿易:
・アメリカに始まった恐慌は、各国で、恐慌の同時性とな
 って現れ、特に、鉄鋼、自動車、建設の諸部門では、ア
 メリカおよび西ヨーロッパ(EC)において深刻でだっ
 た。
.
1893年、物価:
・薬飴煉製20銭(7日分)
.
1893年、産業:
・御木本幸吉が世界で初めて真珠の養殖に成功した。
・エルモア・マニュファクチャリング・カンパニーが設立
 された。
 アメリカのオハイオ州クライドの自動車メーカー。
 最も小型は、1904年型の「エルモア・コンバーチブル・
 ラナバウト」で、4人が乗車でき650米ドルで販売された。
 当時市場で最も安価な自動車だった。
.
1893年、交通:
・新橋汽車課汽車監督雇のイギリス人フランシス・ヘンリ
 ー・トレビシックが、機関車・客車・貨車・線路縦断面・
 転車台・信号機・分岐器等の形式図面集を作った。
・北陸線の敦賀駅~今庄駅間の葉原トンネルが着工された
 (空気圧縮機のシュラム式削岩機を用いて掘削した)
・神戸・京都・横浜・品川の各停車場に連動装置を設備し
 た。
 連動装置は、駅構内の信号機と転てつ機を関連づけて全
 体的な保安機能を実現して、列車を安全に運行させるた
 めの装置のこと。
・下等車に「うすべり(薄縁、布の縁を付けたござ)」を
 取り付けた。
.
1893年、食:
・神谷傳兵衛が浅草「みかはや銘酒店」で日本初のカクテ
 ルを発売した。
 神谷バーの看板メニューでもあった。
 「夢のカクテール」と呼ばれて太宰治や林芙美子ら数多
 くの文学作品にも登場した。
.
1893年、報道:
・文学の分野が不振だというが、さかんだった時期などな
 い。これからの問題だ(毎日新聞)
・東京弁護士会の創立。
 予想どおり、発言者が多く、大声ばかりの混乱の会議(
 東京日日新聞)
.
1893年、論・文学・本・芸術:
・勝海舟『開国起源』、洋装3冊(宮内省出版)
  旧幕臣の勝海舟が編纂した書で、1893年に成った3巻で、
 日本がどのようにして開国し、開国後どのような外交を
 行なったかを記述した。
  対象とした時期は、1830年代~1867年まで。
  前半は重要な事件の項目別に、後半は編年体に構成さ
 れている。
  条約、幕府の達(たっし)、外国公使と老中との対話
 書、外国奉行をはじめ諸幕臣の上申書や評議書などを全
 文引載し、ところどころに勝が解説を付した。
・本:文芸雑誌 「文学界」 創刊
 1898年1月まで58冊発行された明治のロマン主義の月刊誌。
 北村透谷、島崎藤村、平田禿木、樋口一葉、上田敏、田
 山花袋らが書いた。
・本:「西伯利(シベリア)地誌」刊行(1893年12月出版)
 参謀本部:出版者、
 漢族と対立しているモンゴル族など歴史・社会・文化の
 深い理解が必要だった。
 軍事活動に民族学の知識が必要だった。
・本:陸羯南「原政及国際論(げんせいおよびこくさいろ
 ん)」 (1893年8月刊)
 西欧諸国は、自国に不利益な場合は守らないという万国
 公法なんて存在する意義があるかという論を張る。
 西洋キリスト教国の専横だと見る。
 西洋の規準を西欧以外に押し付けると見る。
 国の主権の平等性は無いと主張する。
 遵守の義務を負わされるのは、アフリカ・南洋・東洋の
 国だけだと主張する。
 今・現代にも、大いに通用する論を張っていた。
・本:井上円了「妖怪学講義録 第1号」
 妖怪学は、応用心理学の一部分として講述するものにし
 て、これに「学」の字を付するも、決して一科完成せる
 学を義とするにあらず。 ...
 今これを集録し、その部類を分かち、さらにその後、研
 究したる事実を増補し、左に「妖怪学講義」として掲載
 することとなれり。
 これを講述するは、哲学ならびに心理学研究に志ある者
 に、裨益(ひえき、ある事の助け・補いとなり、利益と
 なること)するところあるは明らかなり。
・本:田鎖綱紀「新式速記術」
 たくさりこうき、1854年8月、南部藩士の次男として盛岡
 在田鎖村で生まれる。
 15歳で上京し、大学にまなび、誌上で速記を始めて見て、
 1872年、カーライルから速記を見せられ、速記を学ぶ。
 1880年、東京麹町元園町に下宿し、日本語速記法の立案
 に努力した・・10年がかりで草案活動を続け、1882年9月
 19日、時事新報に「日本傍聴記録法」を発表した。
・本:東京書籍出版営業者組合「図書総目録」
 出版情報の基盤整備・・1902年に東京書籍商組合が上記
 名に改名され、改組され、9回に渡って刊行した「図書総
 目録」の序文には以下のように書かれている・・、
 「書籍と読書家との間に立つ所の目録が無かったならば、
 読書家の求める題目に就いて、又著者に就いて如何様な
 書籍が世に行はれてゐるといふ事、又読書家の求める書
 籍が如何様な出版事項の下に在るといふ事などが、一向
 に不明であるであらう」・・と。
・本:叢書「帝國文庫」
 1893年~1897年の博文館が発行した文学の叢書。
 毎月2冊発行した。全50冊。
 軍書、稗史(はいし、世間の噂などを歴史風に書いたもの)、
 人情本、黄表紙(絵を主として会話や簡単な説明で筋を
 運ぶ滑稽文学)、洒落(しゃれ)本(主に江戸で刊行され、
 遊離での遊びと滑稽を描写した読み物)などを網羅した。
 「真書太閤記」は特によく売れた。
・本:叢書「平民叢書」 (出版年:1984年説あり)
 出版者:民友社
 6冊(第1~10巻、号外合本)
 第1巻、19世紀之大勢
 第2巻、世界経済上之変動・・
 第9巻、哲学変遷史、附・近世哲学の大勢
・本:叢書「拾二文豪」(出版年:1903年説あり)
 著者:塚越芳太郎
 出版者:民友社
 トルストイ、滝沢馬琴、近松門左衛門、柿本人麻呂及其時
 代、シエレー、バイロン、頼山陽及其時代、トルストイ、
 シルレル、ユーゴー、エマルソン、ジョンソン、新井白石、
 カーライル、荻生徂徠、マコウレー、ヲルヅヲルス、ゲー
 テ、
・論:坪内逍遥「我が國の史劇」
 坪内逍遥は、1893年10月~1894年4月にかけて早稲田文学
 に、演劇における「小説新髄」ともいうべき「我が国の史
 劇」を発表した。
 日本で最初の史劇論である・・史劇=歴史劇。
 「史劇とは、件の個々の人物をば、專ら過去の世間に取り、
 且つ之れを過去の特殊なる事情境遇の間に立たしめて、件
 の千占唯一體なる自然人間の甼等旨を殊なる過去相のうち
 に現示せんと力むるもののみ。」。
・論:伊東忠太「法隆寺建築論」
 東京帝大大学院に在籍していた伊東忠太が、この年、「法
 隆寺建築論」を発表した。
 中門や金堂内部の柱の中間部は、膨らんだエンタシスで、
 これはパルテノン神殿などの円柱と同様のものと論じ・・、
 そして、これは、古代ギリシャ建築の影響であるとした。
 これに気付いたのは、伊藤が最初という訳ではないが・・、
 伊藤のこの論が世に広まった。
 そして、この法隆寺観が、当時の建築学界に受け入れられ、
 大勢が同意するところとなった。
 そして、この時代の支配的認識の枠組みとなった。
 (古代ギリシャ文化的な法隆寺観の原点となる)
・「老猿」(高村光雲)この年のシカゴ万国博覧会に農商務
 省の依頼で個人出品した。
.
 (今日の言葉)
.
 題:逆に、かつてのアメリカと強い結びつきのあったヨーロッパが
  疑問の行動をとる・・クエスチョンだ・・??
.
紀元前430年、ギリシャのアテネという都市は、直接民主制
 だと・・理想的な様に言われ・・今・現代、その様に語
 られている。
  この当時を、よく見てみると、その直接民主制の政治
 に参加できた人は3万人。
  この人々の意見が、平等に、公正に、どのように諸意
 見が聞けたのか?・・そして、諸意見が言えたのか?
  そして、その諸意見がどのように討議され・・、
  そして、どの様にその討議の意見が収斂(しゅうれん)
 され、収れんが図られて・・理想論に近づいたのか??
  3万人の集団が・・できたのか??
  これは、非常に・・疑問である・・
  また、これ以外にも、この時代、アテネ市民は12万人。
  9万人が除外されていた。
  それが、女性と未成年者であり・・男尊女卑があった。
  また、8万人の奴隷が、市民でもなく、数も数えられる
 こともなく存在していた。
  奴隷という卑劣な地位に置かれ、考えの下に置かれた。
  この人々には、政治の「せの字」もなかった。
  これの、「どこが理想的だ」というのだ。
  人権さえ認められない人々が存在し、また、女性を除
 外するという卑劣な社会だった。
  こんな卑劣な社会を「理想だとデッチ上げる」のが、
 ギリシャを原点だと言う「ヨーロッパのプロパガンダ(
 嘘宣伝)」だ。
  そして、結局、この仮想を原点とするヨーロッパは、
 キリスト教を宗教とする国々は・・
  良く見れば仮想で空虚な状態を・・しっかりした原点
 を持っているのだとプロパガンダせざるを得ない・・そ
 して、それを引き継ぐキリスト教国のアメリカも、「正
 統なのだ」と同じ様にプロパガンダする・・嘘の話なの
 だ。
.
1753年、J・P・プラッシーが生まれた。
  キリスト教の宗教性を、学問的に究めるための聖書学
 という事を始めたJ・P・プラッシーが、この年に生まれ
 た(1753年~1826年)。
  そして、この学問は、時代が進むほど、研究が進めば
 進むほど、
  キリスト教の悲劇が極まって行ったという経過をたど
 った。
  そのキリスト教の悲劇は、新約聖書学という近代の学
 問で、厳密に、精緻に、研究をすればするほど、万人を
 説得できるような、確実不動のイエス像の再構成の見通
 しが、暗くなって来ることであった。
  研究によって再建されたイエス像は、たかだか蓋然性・
 妥当性の域を出なかった。
  例えまた、再建されたとしても、イエスの思想は、新
 約思想の部分にしかならず、全体になり得ないというも
 のだという事が判明した。
  また、この部分的なイエスの思想を使って、新約思想
 の本質を探ろうとしたら、原始キリスト教団の多くは、
 切り捨てられてしまうという結果となった。
  また、そのイエスの思想は、その肝心な神学的根拠が
 明白ではない。
  つまり、
  『キリスト教は、基礎からしっかり積み上げられるよ
 うな宗教ではない』と、分析された結果となった。
  砂上の楼閣的な宗教だとの研究結果になって行った。
  キリスト教は、研究が進めば進むほど、宗教として成
 り立ちえない事が明白になって行った・・その様な、研
 究の歴史となった。
.
1863年、朝廷の攘夷の要求に押された幕府は、この年、各
 藩に攘夷を行なうよう命じた。
  これを受けて長州藩は、下関海峡を通過するアメリカ
 商船に砲撃を加え、攘夷を決行した。
.
1882年3月、伊藤博文は、「憲法取調の大命」をうけ、横浜
 を出航し、この年の5月に、ベルリンに到着した。
  ドイツの憲法学者グナイスと、モッセらに付いて講義
 を受けた。
  しかし、伊藤博文に、憲法の神髄を教えたのは、その
 後、8月8日、オーストリアに行き、ロレンツ・フォン・
 スタインに教えを受けた後だった。
  伊藤博文は、その感激を、その歓喜を、岩倉具視へ手
 紙で伝えた。
  「スタイン博士の講和は私の感格を興起(こうき、勢
 いが盛んになること)せしめました」と。
.
1923年、日本郵船は、長崎~上海間に週2便の日華連絡船「
 上海丸」「長崎丸」を就航した。
  長崎市民にとって上海は「下駄ばきで行ける外国」と
 なった。
.
1956年、地方教育行政法(「地方教育行政の組織及び運営
 に関する法律」の略称)が施行された。
  会社に入って、「入社」して、その会社の「社則」や、
 「社旗」や、「社歌」に対しての信義(しんぎ、真心を
 もって約束を守り、相手に対する務めを果たすこと)を
 果たし、重んじなければならない。
  そこを、「内心の自由」を主張して、反対を唱えたら・・、
 「退社が言い渡される」「減俸が言い渡される」・・と
 なる。
  これは当たり前だ。
  公立小学校~大学においても同じだ。
  今、日本で、「内心の自由」だからと、奔放な行為が
 日教組・教職者によって行われている。
  国旗や国歌を無視している。
  そして、それを、子供たちに押し付けている、子供た
 ちが見ている。
  それが、「思想」や「信条」に変わったって同じだ。
  私立においても同じだ。
  例えば、私立のキリスト教系学校において、「内心の
 自由」「思想」「信条」を主張して、キリストに反目し
 たり、イエスに反目したりしたら、その教職者の立場は、
 必ず失われる。
  国であろうと、地方自治体であろうと同じだ。
  何ら変わる所はない。
  教えられる側、児童や生徒には、罪はない。
  毅然とその罪を問わないところに問題がある。
  会社に忠誠を誓わない社員には、即、退社を命じるの
 と同等。
  法律で決まっていることをしない「法律違反者」を取
 り締まらずにいる異常な状態は改善されなくてはならな
 い。
  この問題を長らく放置し、法律違反者を野放しにして
 来た「お目つけ部署」が、この様な状況にした・・ここ
 が悪かった。
  締まりのない無法状態となってしまった。
  「教育長の指導なり、命令が、まったく無視されてい
 る」と報告を受けているのに、「困った事だ」で手をこ
 まねいていて、終りにしている。
  地方教育行政法43条の2項に、「上司の命令に忠実に従
 わなければならない」とある。
  この法律に違反しているのが、はっきりしているのに
 だ。
  違反しているのに、この上司(教育長)は、何年も、
 事態を改善しないで、手をこまねいて放置していた。
  職務命令が出せない「保身の教育長」が、見透かされ
 た。
  日教組と対立する事をしない、または、怖いと・・職
 務をまっとうしていない。
  日本は、この様な教育長を糾弾する部門が必要な国に
 なってしまった。
  だから、国や国民と、何ら関係ない日教組が、「日本
 の根幹の教育を牛耳る事態」となってしまった。
  いい子になっている教育庁・教育委員会との間に挟ま
 った「校長先生」が、大勢、自殺する日本になってしま
 った。
  日教組委員長が、北朝鮮に何度も行くような組織、そ
 して、職員から集めたカンパを北朝鮮に渡し媚(こび)
 を売るような組織・・日教組。
  (参考)地方教育行政の組織及び運営に関する法律
    (服務の監督)
    第43条:市町村委員会は、県費負担教職員の服務
     を監督する。
     2、県費負担教職員は、その職務を遂行するに当
     つて、法令、当該市町村の条例及び規則並びに
     当該市町村委員会の定める教育委員会規則及び
     規程(前条又は次項の規定によつて都道府県が
     制定する条例を含む。)に従い、かつ、市町村
     委員会その他職務上の上司の職務上の命令に忠
     実に従わなければならない。
.
2017年、日教組とキリスト教が連携し、提携している。
  キリスト教の歴史で・・キリスト教を宣教していく過
 程で・・、
  キリスト教は、「信徒が増えてほしい」「金が欲しい」
 「権威が欲しい」・・と、あらゆるものと「くっついた」。
  他国の宗教の教義さえ、節操なくどんどん取り入れた。
  「宗教として、節操のない事でも、何でもやる」とい
 うキリスト教の体たらくだった。
  イエスの誕生日も、全く不明であったが、当時、隆盛
 を誇っていたミトラ教の「盛大に行われていた『冬至の
 祭り』の日」をイエスが誕生日としてしまった。
  馬小屋での誕生も、当時、その様な話が、あちこちに
 あったがそれを取り入れた。
  また、自分の宗教に無かった「天使」も、他宗教から
 持って来た。
  そして、真似たと思ったら、「大天使」の例のごとく
 天使をどんどん作った。
  そして、その天使たちをキリスト教のヒエラルキー(
 序列)と同じく、上下をどんどん作って言った。
  「ヒエラルキーのキリスト教」と言われる如く、序列
 の宗教性が強くなって行く。
  地場の宗教の「相手の教義」さえどんどん取り入れた。
  それは、信徒を増やしたい、金が欲しい、権威が欲し
 いが故の行為だった。
  権威が欲しいとして取った策の1つが「大学とくっつく
 こと」だった。
  特に、頭をもたげて来ていた大学の医学関係とだった。
  当時は、町の人たちは、人々が頼りにしていた人は、
 『助産婦さんたち』だった。
  農家の女性が、豊かな伝統を引き継いで、また、豊か
 な知識で・・助産婦の仕事以外にも・・病気からも人々
 を救っていた(医師の役目もしていた)。
  大学医学とつるんだキリスト教は、この助産婦の方々
 を狙った・・弾圧した。
  キリスト教は、この助産婦の方々を「魔女」に仕立て
 て攻撃した。
  そして、世間を煽(あお)って・・殺した。
  夜、野草を煎じて薬を作っている姿を「魔女だ」と言
 いふらした。
  町の皆が来るキリスト教会が、この悪行為の中心だっ
 た。
  キリスト教の魔女裁判所が、キリスト教会内に作られ、
 キリスト教聖職者が裁判官になり、拷問が行われ、絶対、
 生きて帰って来れない状況で監禁され・・殺され、魔女
 にされた女性の財産は、キリスト教会に没収された。
  焚刑に使った薪の代金まで、キリスト教会は請求した。
  この1例の様な悪行為は、まだまだ、キリスト教には
 たくさんある・・一杯ある。
  『東洋医学の漢方』のように、西洋にも薬草学が立派
 にあった。
  しかし、この西洋の薬草学は、キリスト教のこの魔女
 殺しの悪行為によって滅んでしまった。
  そして、今、キリスト教とつるんでいる日教組は・・、
 「日の丸」「君が代」を、この魔女の如くに「忌み嫌わ
 れるもの」として・・排斥している。
  また、何事にも偏頗(へんぱ)に考える癖のある日教
 組には・・、「『いただきます』という丁寧語を使って
 はいけない」という指令・指示がある・・教義がある。
  キリスト教と同じ様に、「害ある教義」の如くに唱え
 ている。
  「『いただきます』が差別を生む」というのがその理
 屈である。
  人間関係に上下関係を生んでいると言う。
  そんなことを言ったら、キリスト教なんて上下だらけ
 のヒエラルキー(序列)宗教だ。
  だから・・日教組は、提携しているキリスト教の「こ
 の序列の差別を治すこと」をするべき・・、
  日本語には「丁寧語」の他に「謙譲語」という言葉が
 あり、日本の素晴らしさ、良さを作っている。
  こんな日教組教師に、子供の教育を任(まか)せてい
 ると、言葉の使い方も粗雑になり、ガサツになってしま
 う。
  国語の勉強以前の問題だ。
  また、日教組は、儀式を、「権威を押し付けるものだ」
 と言う。
  儀式を悪いことだとする(ならば、提携しているキリ
 スト教のミサの宗教儀式はどうなるのだ?)
  日教組は、儀式の「厳粛さを感じさせるのもいけない」
 と言う。
  何でもかんでもいけないとして、やりたい放題にさせ
 ている。
  こんな教育だから、成人式で暴れる新成人が出来てし
 まう。
  日教組は、クラッカーを鳴らすのも自由と教える。
  踊り出すのも自由であると教える。
  自由が良いのだと洗脳する。
  「パーン、パーン」とクラッカーが鳴る卒業式がある
 が、日教組の考え・指導・意向で行なわれている。
  こんな日教組の洗脳がなされている子供たちなので、
 成人式も大騒ぎに騒ぎ出すのだ。
  あるべき姿を教えないで、自由だから何をやっても良
 いと間違ったことを教える日教組に責任がある。
  日教組もキリスト教も、日本の文化・良さを壊したい
 としている。
  日本の国柄を壊したいとしている。
  キリスト教が、「頑張るな」という運動をしている・・
 勤勉な日本の良さを否定している。
  キリスト教は、楽にする話ばかりをしている。
  受けの良い・・「いいとこ取りの宗教」となっている。
  結婚式のキリスト教・・、
  そして、「プレゼント」だとか、「眼前の楽な話ばか
 り」をする宗教となっている・・深さはない。
  日教組もこのキリスト教に洗脳されている。
.
2017年、スリランカと中国の結びつきが強くなっている。
  中国の一帯一路政策の一端で、今、中国のスリランカ
 での巨大プロジェクトが動いている。
  中国が、この様にスリランカを重視するのは、スリラ
 ンカの位置が、シーレーン(海上交通路)の重要な位置
 を占めているから・・、
  シーレーンの要衝がスリランカなのだ。
  中国は、今、インド洋沿岸の国々で、次々と港を建設
 している。
  『真珠の首飾り』と言われる戦略を進めている。
  スリランカの最大の都市・コロンボの大プロジェクト
 は、習近平国家主席が出席して起工式が行われた。
  中国の第一の国家事業だ。
  今、強大な埋め立てが進められている。
  25万人が暮らす巨大な港湾都市を造るとされている。
  東京ドーム60個分の広さの土地で、投資金額が1600億
 円という。
  国際金融センターが設置され、港湾都市のモデルを作
 ろうとしている。
  2014年からすでに工事は始められ・・、
  スリランカ金融の中心地にしようとしている。
  この様なスリランカにインドは気をもむ。
  しかし、インドとスリランカは、2009年まで内戦が続
 けられていた。
  中国は、スリランカ政府に武器を提供した。
  そして、中国の存在感を高めた(かつて、アメリカが
 中国でやったこと)
  内戦が終了後、「スリランカ最大援助国としての地位」
 を確保した。
  かつて、第二次世界大戦直前、アメリカが、中国に武
 器を大援助して、日本に対抗させて、中国を戦わせて、
 日本の疲弊を狙ったように・・中国も最大のスリランカ
 の武器援助国となった。
  中国とインドは国境でもめている如く、犬猿の仲だ。
  スリランカ南部の小さな漁港・ハンバントタの場合は、
 中国は巨額な金を貸し付けた。
  そして、それをもとにして、開発が進められているが・・
 大きな問題がある・・そこが・・中国の狙いなのか??
  この港が利用される頻度は、1日に1隻・・程度。
  まったく理屈に合わないことに・・中国は金を出して
 いる・??
  何でか?? ここに中国は金を貸し付けて港を作るの
 か??
  返済が滞るのは目に見えている。
  中国が貸した金の額は・・9000億円・・こ様な巨額・・
 スリランカは、中国に対してこの様な債務を負っている
 という。
  『返済するのに400年かかる』と、スリランカのカルナ
 ナヤケ財務相は言った・・お手上げだと言いたいように・・、
  そこで・・、
  スリランカ政府と中国政府が取り交わした『合意文書』
 には・・見た目が美しくことが書かれていた・・、
  債務の軽減のために・・
  「中国へバンドン港の99年間の運営権を与える」、
 そして、その「治安警備の権限も与える」・・だった。
  スリランカ海軍に変わって『中国海軍』が警備を行な
 う・・と・・、
  スリランカ港湾局会長は・・言った、『これでは、中
 国の植民地だ』
  『どんな中国の船が入港してくるのか? 私たちには
 まったくわからない』・・と・・、
  そして、地元の僧侶は、『植民地化への道だ』、『大
 きな国の小さな国に対するやり方だ』・・と、
  内戦が終結した後、インドとスリランカとの間に「し
 こりが残った」・・その隙間に入って来た中国。
  2015年、インドのモディ首相が、28年ぶりに、スリラ
 ンカを訪問して、「関係改善に努めている』が・・??
  また、2016年4月に、インドによる経済協力を約束する
 関係強化も進められているが・・??
  そして、スリランカ東部のトリンコマリ港のインドの
 手による開発も始められたが・・??
  また、モディ首相は、インドから移り住んだインド系
 タミル人の人たちの地を訪ね、1万棟の住宅建設をすると
 約束したが・・?? 
  「同じ民族です」と繋がりの強さも話したが・・??
  スリランカの人々からも・・「インドとスリランカは
 家族なようなものです」との声も聞かれたが・・??
  インドは、中国の一帯一路の路線に多きな疑念の気持
 ちを持っている。
  2017年、北京で行われた一帯一路フォーラムに、イン
 ドは出席をボイコットした。
  インドの周辺国で進む、中国の拠点づくりが、「イン
 ドの大きな脅威」となっている。
  そして、インド外務省は言う・・、
  「中国の一帯一路は、国の主権を侵し、また、逆に、
 開発支援を受けた側が借金で苦しんでいる」と非難した。
  インドの隣の国・パキスタンでの中国がやる建設では、
 インドが主張している領土・国境を侵していて、これも、
 「インドの主権にかかわる」と強く批難されている。
  これに対し、案の定、中国も強く反発した。
  強い武器を持つ中国は、強気で押し切る態度を続けて
 いる。
  中国・潜水艦のスリランカ港の入港を、スリランカ政
 府は拒否した。
  また、これを、インドは、「中国による挑発だ」と言
 った。
  アメリカは、2006年に、インドに対する政策を大転換
 して、民生用の原発技術や、核燃料を提供する原子力協
 定を結んだ。
  これまで、アメリカは、NPT=核拡散防止条約にも
 参加しないで核兵器開発して、核保有するインドに対抗
 し・・30年間、関係が冷え込み・・関係が途絶え、対抗
 していた・・これを、大転換した。
  やはり、アメリカは、「中国と対する事・・対抗する
 こと」・・これを第一義(最も大切な根本的な意義)と
 した。
  インドは今、最大のアメリカ製武器の輸入国となって
 いる。
  それまでは、2006年までは、すべてロシアから買って
 いた。
  今、インドとアメリカの結びつきは強い。
  日本もインドとの結びつきは強い。
  これに、オーストラリアも入って・・4か国となってい
 る。
  インド政府筋も、この4か国との結びつきが強まる方向
 にあると発言している。
  この様な、世界での経過の中にある中国・・韓国との
 結びつきは強い・・が・・
  中国は、中国が捏造した南京事件で日本を虐(いじ)
 め、そして、中国にそそのかされた韓国は、無実の慰安
 婦問題で、日本を虐めて、中国の言いなりになっている。
  世界に慰安婦像を建てるのは、中国の金となっている。
  しかし、この図も、だんだん世界にその真の姿が分か
 られて来て、理解されなくなって来ている・・
  この後、ますます、バカにされる様になって行くだろ
 う・・そして、最後は、逆に、反発されることとなって
 行くだろう。
  中国と強く結びつく北朝鮮の核は、非常な脅威で、韓
 国は、その脅威によって北朝鮮に接近しているが・・そ
 の道は先細りとなるであろう。
  逆に、かつてのアメリカと強い結びつきのあったヨー
 ロッパが疑問の行動をとる・・クエスチョンだ・・??
  利益に目がくらんで・・金だけの状態で・・理念や理
 想はそっちのけの醜(みにく)い姿を見せている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)572E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月~1892年12月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)572E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月~1892年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年12月24日、「民法・商法施行延期法」が公布された(
 11月24日説あり)
  御雇い外国人のフランス人・ボアソナードは、フラン
 ス民法を中心として、オランダ民法、イタリア民法など
 を参考にして、10年の歳月をかけて日本民法を起草した。
  種々の国内の手続を経て、1890年4月と10月に分けて民
 法が公布された(「旧民法」という)
  しかし、批判が始まり、施行を延期して内容を修正す
 べきだという延期派と、予定通り施行すべきだという断
 行派との間に激しい論戦が起きた(民法典論争)
  今までの日本の良き美俗(びぞく、うるわしい風俗や
 習慣)を破壊するなどという意見が出た。
  1892年、民法商法施行延期法律案が帝国議会に上程さ
 れ、1892年5月に貴族院で、1892年6月に衆議院でそれぞ
 れ可決され・・、
  そして、この日、民法及商法施行延期法律が公布され
 た。
1892年12月、大阪角座で、大谷馬十(おおたにばじゅう)
 らが、初めて男女混合劇を上演した。
1892年12月、正岡子規が日本新聞社に入社した。
  東京帝国大学国文学科を中退して、入社した日本新聞
 社に、福本日南、三宅雪嶺、千葉亀雄、佐藤紅緑、長谷
 川如是閑らがいた。月給15円。
  そして、、「日本」紙上を中心に文学活動を行い、『
 獺祭書屋俳話』を連載、俳句、短歌の革新運動を進め写
 生論を提唱した。
1892年12月12日、伊東祐亨(いとうすけゆき)が、横須賀
 鎮守府司令長官となる。
  伊東祐亨(1843年6月9日~1914年1月16日)武士(薩摩
 藩士)、海軍軍人(元帥海軍大将)、華族(伯爵)。
  初代連合艦隊司令長官。
  海軍兵学校長の海軍中将子爵・伊東祐麿は兄。
  飫肥(おび)藩主伊東氏に連なる名門の出身。
  開成所でイギリスの学問を学んだ。
  勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、陸奥宗
 光らと共に航海術を学ぶ。
  戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍した。
  1882年、海軍大佐に任官、「龍驤」、「扶桑」、「比
   叡」の艦長を歴任。
  1892年12月12日、海軍中将に任官、横須賀鎮守府長官
   兼海軍将官会議議員を拝命。
  1893年、常備艦隊長官を拝命。
  1894年の日清戦争に際し、7月18日に連合艦隊司令長官
   を拝命・・その約2ヶ月後・・
  1894年9月17日12時50分から始まった黄海海戦。
   日本の連合艦隊と、清国の北洋水師(中国北洋艦隊)
   との間の海戦では、戦前の予想を覆(くつがえ)し
   て、清国側の大型主力艦を撃破した。
   (日本側の旗艦「松島」の4217tに対し、清国側の旗
   艦「定遠」は7220tと、倍近い差があった)
   黄海の制海権を確保し、この戦いの転回点となった。
1892年12月8日、乃木希典(のぎまれすけ)が、近衛歩兵第
 1旅団長となった。
  乃木希典(1849年12月25日~1912年9月13日)武士(長
 府藩士)、軍人(陸軍大将)、教育者、伯爵。
  「乃木坂」に名を残している人。
  長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(馬廻、
 80石)と壽子(ひさこ)との三男として、江戸の長府藩
 上屋敷(毛利甲斐守邸跡、現・東京都港区六本木)に生
 まれた。
  兄たちのように夭折することなく壮健に成長して欲し
 い、という願いが込められて幼名は無人(なきと)。
  10歳まで生活した江戸の長府藩上屋敷は、かつて、赤
 穂浪士の武林隆重(武林唯七)ら10名が切腹するまでの
 間預けられた場所であった。
  無人も赤穂浪士に親しみながら成長した。
  幼少時は虚弱体質で、臆病だった。
  友だちに泣かされることも多い子供だった。
  父の教育は、極めて厳しかった。
  「寒い」と不平を口にした7歳の無人に対し、「よし。
 寒いなら、暖かくなるようにしてやる」と述べ、無人を
 井戸端に連れて行き、冷水を浴びせたという。
  16歳の源三(無人を改め)は、学者となることを志し
 て父・希次と対立した後、出奔して、長府(現・山口県
 下関市)から70km以上離れた萩(現・同県萩市)まで徒
 歩で赴き、兵学者の玉木文之進への弟子入りを試みた。
  玉木家は、乃木家の親戚筋であった。
  文之進は、源三が希次の許しを得ることなく出奔した
 ことを責め、武士にならないのであれば農民になれと述
 べ、源三の弟子入りを拒絶した。
  しかし結局、源三は玉木家に住むことを許され、文之
 進の農作業を手伝う傍ら、学問の手ほどきを受けた。
  1864年10月(15歳)から、萩藩の藩校・明倫館の文学
   寮に通学。
   一方で、1864年12月から一刀流剣術も学び始める。
   この年、友人らと盟約状を交わして、長府藩報国隊
   を組織。
  1865年(16歳)第二次長州征討が開始されると、
  1865年(16歳)5月、萩から長府へ呼び戻される。
   長府藩報国隊に属し、山砲一門を有する部隊を率い
   て小倉口(現・山口県下関市)での戦闘(小倉戦争)
   に加わる。
  1866年(17歳)長府藩の命令に従い、明倫館文学寮に
   入学(復学)。
   この後、越後方面に進軍していた報国隊に加わりた
   いため(藩が出陣を許さなかった)何としても出陣
   したいと脱藩。
   しかし、脱藩して馬関(現・山口県下関市)まで来
   たところで捕まり、明倫館に戻される。
  1868年(19歳)2月、報国隊の漢学助教となる。
  1868年(19歳)11月、藩命により伏見御親兵兵営に入
   営してフランス式訓練法を学ぶ。
  1869年(20歳)8月、京都河東御親兵練武掛となる。
  1870年(21歳)2月4日、豊浦藩(旧長府藩)の陸軍練
   兵教官として、馬廻格100石を給された。
  1870年(21歳)2月、一刀流修業も「目録伝授」となる。
  1872年(23歳)1月3日、黒田清隆の推挙を受け大日本
   帝国陸軍の少佐に任官し、東京鎮台第2分営に属す
   (大抜擢)
  1875年(26歳)12月、熊本鎮台歩兵第14連隊長心得に
   任じられ、小倉(現・福岡県北九州市小倉北区)に
   赴任した。不平士族の反乱の恐れ。
  1876年(27歳)、福岡県秋月(現・同県朝倉市秋月)
   で旧秋月藩士の宮崎車之助らによる「秋月の乱」が
   起きる・・乃木は、他の反乱士族との合流を図るた
   め東進する反乱軍の動向を察知し、秋月の北に所在
   する豊津(現・同県京都郡みやこ町豊津)において
   これを挟撃して、反乱軍を潰走させた。
    秋月の乱の直後、山口県萩(現・同県萩市)で萩
   の乱が起こった。
    この乱の最中、弟の正誼は反乱軍に与して戦死し、
   学問の師である文之進は自らの門弟の多くが反乱軍
   に参加したことに対する責任をとるため自刃した。
  1877年(28歳)2月5日、西郷隆盛が私学校における幹
   部会議で挙兵を決断した。この情報を政府はいち早
   く政府側は察知した。
  1877年(28歳)2月14日、鎮台司令長官・谷干城の命を
   受けて小倉から熊本に到着し作戦会議に参加した。
    乃木は、小倉の歩兵第十四連隊を率いるために16
   日に熊本を出発し、17日夜に福岡に着、そこで薩軍
   の鹿児島出発の報を受けた。
    乃木は、この西南の役で各地で激戦・死闘を展開
   する・・田原坂の戦い・・など、重傷を負って野戦
   病院に入院するも、病院から脱走して戦地に赴こう
   とした。
   (この時の後遺症で左足がやや不自由となる)
    乃木は、薩摩軍に包囲される窮地もある。
    連隊旗も失うということもあり、「待罪書」を送
   り、厳しい処分を求めたりもした。
  1878年(29歳)1月25日、東京の歩兵第一連隊長(抜擢)
  1878年(29歳)2月14日、旧薩摩藩藩医の娘・お七(結
   婚後・静子〉と結婚。
  1883年(34歳)2月5日、東京鎮台参謀長に任じられる。
  1887年(38歳)1月、政府の命令で、陸軍少将・川上操
   六とともにドイツ帝国へ留学(1888年6月10日まで)
   ドイツ軍参謀総長モルトケから紹介された参謀大尉
   デュフェーについて、『野外要務令』に基づく講義
   を受ける。
    次いで、ベルリン近郊の近衛軍に属し、ドイツ陸
   軍の全貌について学ぶ。
    また、軍医として留学中の森林太郎(森鴎外)と
   も親交を深め、その交友関係は以後、長く続く。
    帰国後、乃木は軍服を常に着用し、生活はとこと
   ん質素にした・・芸妓の出る宴会は絶対出席せず。
    これを、作家・松田十刻氏は、「復命書」で軍紀
   の綱紀粛正を諫言した以上、自らが模範となるべく
   振舞わねばならないと考えての結果と分析している。
    乃木は、第11旅団(熊本)に帰任した後、近衛歩
   兵第2旅団長(東京)を経て、歩兵第5旅団長(名古
   屋)となった・・しかし・・、
  1892年(43歳)病気を理由に2度目の休職に入る。
   休職中の乃木は、栃木県の那須野に購入した土地(
   現・同県那須塩原市石林、後の那須乃木神社)で農
   業に勤しんだ(上司との意見の相違か?)
    その姿を「農人乃木」と呼ばれた。
  1892年(43歳)12月8日、10か月の休職を経て復職し、
   東京の歩兵第1旅団長となった。
1892年12月、この月に刊行した『鉄道線路各種建造物明細
 録』(第1・第2編)によると、この時期の官設鉄道におけ
 る踏切道設置箇所は番舎の設備ある箇所313、番舎の設備
 のない箇所4828計5141箇所。
1892年12月、筑豊興業鉄道が、若松に工場を開設した。
  若松製作所設立(後の国鉄若松工場)
  この鉄道は・・、
  1891年、筑豊若松~ 直方間が開通し・・、
   日本経済の近代化に大きな役割を果たした筑豊の石
   炭輸送の産業鉄道として活躍した。
  1897年10月、九州鉄道と合併した。
   石炭輸送が拡大するにつれ、九州鉄道と競合するこ
   とになり、両社株保有株主からの要望が強くなり、
   この年の10月に、九州鉄道と合併し、国及び地域の
   近代化・発展に貢献した。
  明治時代に入った日本は、鉱山解放、鉱区の出願が自
 由とした。
  1887年以降、大手資本が参入して、生産規模が拡大し
 て従来の川ひらたによる水運が限界となり、陸運鉄道の
 敷設、積出港としての若松港、洞海湾の開発が緊急課題
 となった。
  そこで、この筑豊興業鉄道が、北九州地区で九州鉄道
 に次いで二番目に敷設された私設鉄道となった。
  1891年8月、若松~ 直方間開通時の機関車は4両、石炭
 貨車(6t)は95両であったが、送炭量の増大にあわせて、
  1896年、機関車30両、石炭貨車は1022両まで飛躍的に
 増加した。
  一方客車は、19両から22両と殆ど増えておらず、典型
 的な石炭輸送の産業鉄道であった。
  機関車は、米国から輸入、石炭貨車は当初英国から購
 入し、逐次、国産車も新設された。
  これらの修理に、1892年、若松駅構内に若松工場を創
 設した
.
  (今日の言葉)
.
  題:大東亜共栄圏:ベトナムに残留した日本兵の内、約600人が・・、
    日本の敗戦後も残留し、ベトミンに合流して独立戦に参加した。
.
1745年、伊能忠敬が生まれた(1745年~1818年)
  伊能忠敬がつくった伊能中図(ちゅうず)は非常に正
 確な地図で、この地図の存在を知った西洋列強は、日本
 の技術の高さに驚いた。
  この地図は、今、東京国立博物館の所蔵されている。
  また、同様に田中久重(ひさしげ、1799年~1881年)
 の「からくり人形(弓曳童子、トヨタコレクション蔵)
 は、複雑な驚くべき動きをする。
  現代の科学技術から見ても非常に高度である。
  田中は、電気機器メーカー東芝の創始者。
  この歴史ある会社・東芝が、今、元アメリカの会社の
 債務を被(かぶ)り、会社が無くなるほどの窮地にある。
  アメリカの策にはまった感がある。
.
1860年代、日本の浮世絵が、この頃からヨーロッパへ数多
 く渡った。
  新鮮なその画風が、ヨーロッパの芸術家たちへ大きな
 衝撃と影響を与えた。
  浮世絵は、ロンドン万国博覧会(1862年)やパリ万国
 博覧会(1867年)を機に、広くヨーロッパへ紹介された。
  浮世絵は、浮世(世の中)の名の通り、江戸の町人た
 ちの浮世を題材に、日本人の日常生活を、芸術的に美し
 く表現されていた。
  日本の繊細な絵師たちは、木版画の特徴を良く生かし
 た。
  一方、19世紀後半のヨーロッパは、キリスト教の抑圧
 で宗教画や神話画のみが描かれるという時代だった。
  その抑圧から脱却したいと、もがいている時だった。
  新しい絵画を求める機運が高まっていた。
  フランスでは「モネ」「ドガ」「ルノアール」「セザ
 ンヌ」など、印象派と呼ばれる画家たちが、新しい芸術
 運動を展開していた。
  その様な時に、浮世絵は海を渡って行った。
  万国博覧会で浮世絵に接したヨーロッパの人々、キリ
 スト教世界に圧迫されていた芸術家をはじめとした人々
 は、その日本の明るい、町人などの人々が生活をエンジ
 ョイする姿に感動した。
  その奔放な構図や大胆な色彩にも衝撃を受けた。
  そこには、人々が幸せな生活をしている姿が描かれて
 いた。
  梅を愛(め)でる安藤広重の「名所江戸百景」の「亀
 戸梅屋敷」に感銘を受けた「ゴッホ」は、「花咲く梅の
 木」を描き、まるまる真似た、「模写だ」と言える行動
 をするぐらいの衝撃と影響を与えた。
  日本の画家たちの明るい先見性ある絵画に魅せられた
 西洋絵画界の人々が「そこに居た」。
  非常に多くの西洋画家たちが、節操なく真似た、そし
 て、模範とした。
  葛飾北斎の北斎漫画は、彼らの教科書的存在だった。
  「ジャポニズム」という一つの流れを示す言葉も生ま
 れた。
  陰鬱なキリスト教文化から脱却したい人々へ、新しい
 時代にふさわしい人間や自然の自由な見方を教えた。
  日常の中に美があるという「素晴らしい偉大な見方」
 を示した。
  美は天に求めなくとも、キリスト教のその様な固定観
 念から脱却して・・、
  その日常・実生活を大切に大事にする「その日常の周
 りにこそある」という事を示した。
  完全なる虚構のキリスト教の「天のみある」という固
 定観念を否定した。
  今を生きるあなたの周りにこそ「幸せや喜びがある」
 という事を教えた。
  伊勢参りを楽しむ人々、美しい富士山を愛でる人々、
 川遊びを楽しむ人々、夜の屋台のソバ屋を取り囲む人々、
 一生懸命に桶を作る職人、川を渡る人々、旅にあって茶
 屋で茶を楽しむ旅人・・その例はつきない・・人々が、
 生を楽しむ江戸時代の平和な姿が数限りなくそこに描か
 れていた。
.
1880年代、純潔十字軍が社会浄化運動を行ない、アメリカ
 純潔連合、アメリカ自警協会、アメリカ社会衛生協会な
 どの組織がつくられ、アメリカ女性の娼婦を「白人奴隷
 (性奴隷)」と表現し卑しめた。
  そして、卑劣な行為なのが、公娼制度を「白い奴隷制
 度」とセンセーショナルに扱って、女性方を貶(おとし)
 めた。
  また、第二次世界大戦の時、パリへアメリカ軍が入っ
 た時、アメリカなどの連合軍によって制圧されたパリで
 は、ドイツ人と親密であった女性たち(性の関係者)を、
 頭を刈って、服を引き裂いて、市中を引き回した。
  この人権無視の行為、女性方へ、これ以上ないという
 卑劣な貶め行為をした。
  この完全に人権を無視した「このアメリカ軍の行為」
 は裁かれねばならない。
  また、無実の日本の従軍慰安婦問題を、韓国は、これ
 だけをひたすら取り上げて問題にするが・・
  韓国は、在韓米軍慰安婦問題を、まったくうやむやに
 している・・握りつぶしている。
  また、韓国は、日本女性を強姦し犯した行為、辱(は
 ずかし)めた行為についても目をつぶっている。
  また韓国は、ベトナム戦争の時、元寇の時などなど、
 自国の都合の悪い話には目をつぶっている。
  しかし、ひたすら日本を貶める行為だけは行なうとい
 う卑劣なやり方を世界で続けている。
.
1946年2月26日、アメリカ主体の占領軍のダグラス・マッ
 カーサー最高司令官の言葉・・
  「降伏後も、日本本土の封鎖は継続され、拡大強化さ
 れている」
.
1948年、アメリカが、卑劣にも、言論封鎖した本「アメリ
 カの鏡・日本」が出版された。
  ヘレン・ミアーズは、1920年代から日米両国が開戦す
 る直前まで東洋史・地政学を研究し、二度にわたって中
 国本土と日本を訪れ調査した人。
  第二次世界大戦の間は、ミシガン大学、ノースウェス
 タン大学などで、日本社会について講義をしていた。
  そして、連合国軍占領下の日本で、GHQの諮問機関
 「労働政策11人委員会」のメンバーとして、戦後の労働
 基本法の策定に大きな役割を果たした。
  その様なアメリカ人のヘレン・ミアーズは・・アメリ
 カへ帰国後の1948年、「アメリカの鏡・日本」を書いた。
  その中で、ヘレン・ミアーズは、戦争原因について、
 以下のように書いた(概要を記す)
  「戦争原因を種々分析し考究すると、アメリカは、思
 想や人種的に見ていて、経済的な要因をアメリカは、完
 全に認めていない。
  (アメリカは、独りよがり的に正義の行為をしたと、
 理念的側面のみを言いたいのだろうが)、
  事実が・・実際に行われたアメリカの政策や、アメリ
 カ政府の公式な説明などを分析すると、『日本政府の理
 解や解釈が正しい』と裏付けられる。
  アメリカは、アメリカ企業や、イギリス企業のために、
 『日本の貿易競争力を抹殺しよう』としていた。
  この目的を達するためのアメリカの政策や、イギリス
 の政策を・・実施しようとして引き起こしたものだ。
  この戦争は、日本というアジア民族が、アジアの中に
 台頭するのを好ましくないとして阻止したものだ。
  この様な経済的要因に戦争原因が、明らかにあること
 に対して、アメリカは認めたくないとしているが、実際
 は、日本の解釈が正しいと裏付けられている。
  アメリカのイデオロギーによるところに戦争原因があ
 るという主張は、完全に否定される。
  (記述)日本軍による真珠湾攻撃以来、我々アメリカ
    人は、日本人は近代以前から好戦的民族なのだと
    信じこまされた。
     しかし、前近代までの日本の歴史を振り返ると、
    同時代のどの欧米諸国と比較しても平和主義的な
    国家であったといえる。
     開国後、近代化を成し遂げる過程で日本は、国
    際社会において欧米先進国の行動に倣(なら)い、
    「西洋の原則」を忠実に守るよう「教育」されて
    きたのであり、その結果、帝国主義国家に変貌す
    るのは当然の成り行きだった。
     以後の好戦的、侵略的とも見える日本の行動は、
    我々欧米諸国自身の行動、姿が映し出された鏡と
    いえるものであり、東京裁判などで日本の軍事行
    動を裁けるほど、アメリカをはじめ連合国は潔白
    でも公正でもない。
     また、日本が、大戦中に掲げた大東亜共栄圏構
    想は、アメリカのモンロー主義と同様、そのよう
    な構想・主義は、「西洋の原則」として広く認め
    られている。
.
1961年9月22日、アメリカで、黒人の方々が、また、差別さ
 れた。
  黒人の方々は、白人アメリカ人のその差別行為に対し
 て服従していた今までとは違い、その卑劣な差別を無く
 そうとの行動を始めた。
  1961年の出来事は悲惨だった。
  あらゆる差別がなされていたが、バスの差別への抵抗
 行動についてその概略を記すと・・、
  抵抗行動をする黒人たちの「乗客たち」が、そろって
 団結し、『白人用の待合室』に入ろうとした時、警備に
 あたっていた警官たちが、その黒人たちを逮捕した。
  理由は、治安妨害と警官の命令に対する不服従だった。
  今まで、この様な場合、白人アメリカ人たちが殴り掛
 かっていたのだが、今回は、その様な暴漢たちの行動を
 起こさせないためだったからと後から説明された。
  ミシシッピ州選出の上院議員とケネディ司法長官との
 間で、事前に打合せられていたことだった。
  白人優越主義が充満し染まったアメリカだった。
  このミシシッピ州のバーネット知事は、「黒人は、わ
 れわれ白人とは違う。
  キリスト教の神が、黒人を罰するために、彼らを白人
 とは違う姿にお創りになったのだ」と、公言するような
 社会だった・・知事だった。
  逮捕された「乗客たち」は、全員が有罪とされた。
  罰金刑が言い渡されたが、罰金を払わないで監獄に入
 ることを望んだ、それが、あくまで抵抗する行為の態度
 だと判断された。
  「自由のための乗車運動のこの運動家たち」は、監獄
 に連行された。
  この様な事件が、アメリカのあちこちで起きるという
 卑劣なアメリカの状態だった。
  監獄は、これ等で捕まった黒人の方々の群れで充ち溢
 れた。
  この年・1961年9月22日、州際交通委員会は、「州境を
 越えて運行する車両は、『人種、肌の色、信条、出身国
 の違い』によって座席を区別してはならない」と、当然
 の決定をした。
  また、「これらの車両は、『人種差別をしているター
 ミナルを使う事は出来ない』とした。
.
1973年、オイルショック
  1970年代、株価の下落幅は緩やかながらも、世界恐慌
 が本格化した1930年代のそれよりも底が深かった。
  1973年10月6日に、第四次中東戦争が勃発した。
  これを受け10月16日に、石油輸出国機構(OPEC)
 加盟産油国のうちペルシア湾岸の6カ国が、原油公示価格
 を1バレル3.01ドルから5.12ドルへと1.7倍に引き上げる
 ことを発表した。
  翌日・1973年10月17日に、アラブ石油輸出国機構(O
 APEC)が、原油生産の段階的削減(石油戦略)を決
 定した。
  また、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)諸国は、
 1973年10月20日以降、イスラエルが占領地から撤退する
 までイスラエル支持国(アメリカ合衆国やオランダなど)
 への経済制裁(石油禁輸)を相次いで決定した。
  さらに、1973年12月23日には、石油輸出国機構(OP
 EC)に加盟のペルシア湾岸の産油6カ国が、1974年1月
 より原油価格を5.12ドルから11.65ドルへ引き上げると
 決定した。
  日本の消費者物価指数は、1974年は23%上昇し、「狂乱
 物価」という言葉まで生まれた。
  OPEC諸国の国際収支黒字は、1973年には、10億ド
 ルであったが、1974年には、約700億ドルと急増した。
  一方、発展途上国向けの民間銀行貸し付け額は、1970
 年の30億ドルから1980年の250億ドルに跳ね上がった。
  100年近く続いた石油価格の安値が、1970年代に破ら
 れた。
  このような時、インドネシアをはじめとするASEA
 N諸国は、日本を頼りにするばかりでなく、日本をでき
 る限り助けようとしてくれた。
  アイゼンハワー政権のダレス国務長官が、日本が講和
 独立後に、朝鮮戦争特需に代わる新たな経済市場が必要
 と考えた時に目をつけたのが東南アジア市場だったが、
 東南アジア諸国の指導者たちも、この方針を支持し、日
 本企業の東南アジア進出を支援した。
  1973年の、OPEC(アラブ石油輸出機構)が中東戦
 争を有利に運ぶために、石油供給を削減して、石油ショ
 ックが起こったこの時に・・、
  日本政府は、内密にOPECのリーダーであるサウジ
 アラビアのフェイサル国王に、日本向け石油の供給増加
 を依頼したのだが・・、
  その際に、同じイスラム教徒として、国王との仲介を
 してくれたのが、アラムシャ副首相やモハメッド・ナチ
 ール首相らインドネシアの指導者だった。
  彼らは、次の様に語って、日本への支援を求めた。
  (大東亜戦争によって)キリスト教徒(オランダ)に
 支配されていた我々イスラムの民を救い、その独立を支
 援してくれたのが日本であり、日本は、イスラムの味方
 だ。
  2005年、小泉首相の靖国参拝に関して、中国政府が、
 ヒステリックな批判を繰り返していた時にも・・、
  ちょうど、訪日していたインドネシアのバンバン・ユ
 ドヨノ大統領は、「国のために戦った兵士のお参りをす
 るのは当然のことだと思う」と参拝を支持した。
.
1989年、日米構造協議(にちべいこうぞうきょうぎ)
  日米構造協議は、アメリカと日本の間で、日米貿易不
 均衡の是正を目的として・・、
  1989年~1990年の間、計5次開催された2国間協議、
  ・・と、公式に説明されているが・・
  これは美しく「公式に説明されている言い方」で、日
 本の人々は、これにプロパガンダ(嘘宣伝)され、洗脳
 されている。
  そして、さらに、1993年に、「日米包括経済協議」と
 名前を変えて、1994年からはじまる、「年次改革要望書」
 「日米経済調和対話」と、日本はさらに要求をされ続け
 ている。
  表面上は対等とされているが、これが曲者(くせもの)
 である。
  アメリカは、毎年、「日本は不公正だ」と言って、日
 本に「要求事項を突き付けて来ている」・・それだけ。
  これが、日本国民の皆が働いて、そして、稼いだお金
 が、アメリカへ流れ出れているシステム。
  「日米の衝突、ドキュメント構造協議」という本には、
 「これは、第二のアメリカによる、日本への占領政策だ」
 と書かれている。
  アメリカは、今、現代でも、日本から利益を吸い上げ
 ている。
  日本を属国のようにしている・・日本の国の施政権に
 まで口をはさんで来ている。
  完全に内政干渉状態となっている。
  しかし、それを言ったってアメリカは、そんなことに
 お構いなしでやって来ている。
  同時に、『日本の大切な国柄』まで壊そうとしている。
  日本は、それに、「反発できない仕組み」に置かされ
 ている。
  アメリカのやり方は、「国会議員などの議員」「官僚、
 監督官庁など」「企業、業界団体など」・・など・・と
 多岐に渡って「広範囲に攻めて来る」。
  いつもの「アメリカのやり方」で・・自国へ利益が
 転がり込むように・・利益が得られるなら「礼儀も、節
 操も、道義も、正義も、何も関係ないの状態」で・・や
 って来る。
  長い間、黒人の方々が、「奴隷という『人間としての
 人権・自然権』まで剥奪されて、アメリカの建国を成
 し遂げた・・影の真実の功労者であるように・・、
  今、日本が、日本の国柄を壊されながら「アメリカに
 利益を吸い取られている」。
  (参考)自然権:法的規定以前に人間が本性上もって
     いる権利。
      伝統的「自然法」を社会形成の積極的な構成
     原理に援用した際に生れた近代的な観念。
  日本は、常に貢がされている。
  まったく対等な立場にない状態で「日米構造協議で、
 日本の、アメリカへの貢システムが行われている」。
  中曽根首相は、感極まって、「日本人の一人一人が、
 アメリカ商品をもっと買え!」と叫ぶような、数々の歴
 史が、延々と数限りなく連なっている・・
  この様な日米構造協議で、一方的に要求が突き付けら
 れている。
  (建前は双方で公平となっているが、しかし、違う・・
  一方的に要求を突き付けられている)
  日本は、常に貢がされるという、まったくの対等な立
 場にない状態で、日本の、アメリカへの貢システムが行
 われている。
  キリスト教国=アメリカは、「(キリスト教の)神の
 義があれば」という理屈で、何をやっても良いという頭
 にある、正義なんだという頭でやって来る。
.
1993年11月1日、欧州連合(EU)が発足した。
  1951年、パリ条約が調印され、欧州連合(EU)の統
   合の始動である欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)が
   設立された(1952年説あり)
   これによって国際的な部門統合の動きが始まった。
   ECSCは、超国家主義と国際法の原理に基づいて
   設立し、ヨーロッパの経済に寄与しようとした。
    また、加盟国間での統合によって、仏独間で繰り
   返された悲惨で無益な資源の取り合いなどの争いを
   避けようとした。
    後になって、ヨーロッパ合衆国の樹立の考えが出
   て、欧州防衛共同体と欧州政治共同体という2つの新
   たな共同体の設立が案出された。
  1957年3月25日、ローマ条約が調印され、欧州連合の2
   つの基本条約(欧州経済共同体設立条約と欧州原子
   力共同体設立条約)が調印された。
   1958年1月1日、ローマ条約が発効したが、この後、
    大幅に修正された。
  1958年~1969年、フランスのシャルル・ド・ゴール大
   統領の影響が大きい時代で、欧州が統合される形で
   はなく、国家が連合されるという形が良いのだとい
   う意見が強まった時代。
  1970年、欧州政治協力(EPC)が発足した。
  1979年、欧州通貨制度(EMS)が設立された。
   欧州統合への進展はあるが、2度の石油危機などによ
   って各欧州国家は内向きにあった時代。
  1985年、域内市場白書が採択された。
  1986年、単一欧州議定書が調印された。
   これによって非関税障壁の撤廃などにより巨大な市
   場が誕生した。
  1993年11月1日、マーストリヒト条約発効によって、
   EUが誕生した。
  2005年5月29日、フランスが欧州憲法条約を否決した。
  2016年6月23日、イギリスがEUを離脱した。
    欧州連合離脱国民投票で離脱派が多数となって、
   イギリスは、離脱が決定した。
    欧州統合の拡大が果たして良いのか?の質が問わ
   れる時代となった。
  このイギリスがEUを離脱したのは、英連邦はどうな
 るかの問題もあった。
  イギリスが中心となっているこの連合が、EUという
 ヨーロッパ連合に入るのか?という事に対して・・
  「英連邦諸国もヨーロッパ連合に入る」かの方向?
  結局、イギリスのEU離脱はその問題に答えを出した
 行動だった。
  EUという統合は、良い面だけが見られている。
  しかし、そのEU周辺国は、逆の面からみると、「あ
 るグループから仲間はずれにされている」という面があ
 る。
  教室で「いじめグループがつるんでいる」という状況
 が作られている。
  EU内という「仲良しグループが上手くやっているだ
 け」で、EU周辺国が経済的に困ることに対して「お構
 いなし」という問題である。
  今(2017年)時点、EUは壊滅への道を歩いている。
  名前だけが美しい「グローバル化」への動きの衰退が
 始まっている。
  権力で、名前だけ美しくしたアメリカ主導のグローバ
 リズムの虚構が明確になって来ている。
  何故か? キリスト教という宗教がこの一翼を都合よ
 く利用している。
.
2015年、中国の偉大なる金融規模
  かつては、日本のメガバンクが並んだ銀行の資産ラン
 キングに、今、その状況は、まったく変わって・・中国
 の銀行が並んでいる。
  世界の銀行総資産ランキング(USドル、billion十億)
  1、中国工商銀行(中国)3616
  2、中国建設銀行(中国)2939
  3、中国農業銀行(中国)2817
  4、HSBホールディングス(イギリス)2670
  5、中国銀行(中国)2629
  6、BNPパリバ(フランス)2400
  7、JPモルガン・チェース(アメリカ)2350
  8、三菱UFJフィナンシャルG(日本)2323
  9、バンク・オブ・アメリカ(アメリカ)2140
  10、クレディ・アグリコル(フランス)1911
  以上の様に・・何と!中国が世界を制している状況な
 のだ。
  上記を国別にすると
  1、中国12001(46.0%)
  2、アメリカ4761(18.3%)
  3、フランス4311(16.5%)
  4、イギリス2670(10.2%)
  5、日本2323(8.9%)
  計  26066
  以上の様に、世界の約半分を持つ中国と、「圧倒的な
 中国の時代」となっている。
  この金融力で、金の力で中国はあらゆることをやって
 いる。
  上記は、約1/10兆円と見ることが出来る。
  中国は、日本の国家予算の約12年分の規模に相当する。
.
2017年10月、中国は変わった・・中国は経済成長をしてい
 る・・そして、政治的に中国はより強国になるという目
 標に向かって、今までと違った方針を採り始めた・・
  その方針変更の一つが、中国へ行った企業が、中国の
 共産主義体制に組み込まれるという行動が、され始めた。
  中国のGDP成長率は、2008年から2010年にかけて、
 6.4%から12.2%へ、倍近くに跳ね上がった。
  因みに、2017年7月期~9月期は、6.8%である。
  中国経済は、以前ほどではないとしても拡大を続けて
 いる。
  また、中国の都市部の公共工事や企業の設備投資を示
 す固定資産投資は、前年の7.5%増、
  不動産開発投資は・・・8.1%増、
  個人消費は・・・・・ 10.4%増、
  輸出は・・・・・・・・7.5%増となっている。
  習近平国家主席は、「2010年の2倍にする」という目標
 を立てたが、ほぼ達成のメドをつけたとした。
  そして、2035年から今世紀半ばには、「総合的な国力
 で世界トップレベルの国家になる」という。
  そして、これからは「質の高い成長を目指す」と強調
 した。
  今、中国で、党の企業への関与が強まっている。
  中央規律検査委員会という中国の国家組織は、企業と
 いう民間企業の中に、党組織(共産党組織)を設置させ
 ている。
  そして、共産党員が監督を行なっている(国家の監視
 下に置かれた企業という形になった)
  外資企業でさえ・・70%がこの党組織を設置している。
  共産党の企業に対する関与も強まっている。
  「企業の統治が、党に乗っ取られる可能性が増してい
 る」。
  もう完全に中国は、投資対象国ではなくなった。
  資本が奪われるだけ、
  また、特許などの知的財産や、技術ノウハウなどが奪
 われるだけ、
  そして、国家レベルですべてが奪われるだけ・・、
  共産党の一党独裁の政治形態が、如実に企業経営(私
 企業の経営)に関与して来て・・、
  その民間企業も、共産主義の社会形態を構成する一部
 だと処理されていく・・共産党組織社会の中へ組み込ま
 れて行く・・、
  国民を利さない企業は悪だ・・、
  企業だけが利するのは悪だ・・、
  『企業努力で利益を得た』との論理は成立しないのだ。
  企業利益は、中国の国家と中国国民へ、総べて還元せ
 よ・・になって来た。
  中国の共産主義体制に組み込まれて行く外資企業・・、
  (この外資系企業というのが、日本や世界から中国へ
 行った企業のこと)
  中国で儲けさせて戴くは、昔の甘い夢となった。
  「中国での営業展開で企業を大きく伸ばすは、過去の
 話となった」。
  共産主義の北朝鮮を、陰で支援し、「核とミサイルを
 持たせた・・中国」。
  この北朝鮮とともに、かつての様な共産圏グループを
 陰で形成している・・中国。
  その中国に、かつて共産圏の国だった東ドイツで育っ
 たメルケル氏(アンゲラ・メルケル首相)が裏で連なっ
 ている。
  今、このドイツが、中国との結びつきを強め、中国経
 済と大きく関(かか)わっている。
  (参考)メルケル氏:アンゲラ・ドロテア・メルケル、
     第8代ドイツ連邦共和国首相、
      家系は、共産圏のポーランド系でポーランド
     人の祖父がドイツに徴兵されて来て定住。
      メルケルは、ハンブルグ生まれだが、生まれ
     てすぐに共産圏の東ドイツへ移住。
      そして、東ドイツで弟1人と妹2人が生まれ
     ている。
  中国は、このドイツまで超高速鉄道で結ぶのだと、一
 帯一路を謳(うた)い上げている。
  やる事のスケールは大きい。
  資源のない日本が、かつて・・、
  その大切な資源を、輸入ができないという・・締め付
 けられるという・・「卑劣な攻撃」を受けた・・
  ABCD包囲網が作られて、ニッチモサッチモ行かな
 い状況にされた・・、
  米びつには食べるコメが無い、工場を動かすにも石油
 が無いという状況にされた・・が・・、
  今、中国は、南シナ海を封鎖して、かつてのABCD
 包囲網と同じことをしようとしている。
  資源がまったく無い日本・・、
  また、食糧自給率が他の国では考えられないくらい低
 いという日本・・、
  (自分の国で作っている食糧だけでは、日本国民は飢
 え死にする・・飢餓になる)
  今は、パクパク食べているが・・、
  日本は海で囲まれた特殊事情の国・・という事は、陸
 路で何とかあちこちから運び込むという事が出来ない国。
  これが最大弱点なのだ・・日本という国は・・、
  これを脱するには、日本が中国の従属国となって、南
 シナ海を、日本へ石油や食料を運ぶ船を通らせてもらう
 他はなくなって来るという状況が・・起きる。
  かつて、アメリカがやったことを・・、
  (アメリカは策動してパナマを手に入れた)
  何でもアメリカがやったことを真似る中国が、アメリ
 カがやったABCD包囲網と同じことを、今、南シナ海
 でやろうとしている。
  (参考)ABCD包囲網:第二次世界大戦が起きる直
     前、アメリカ(A)が、イギリス(B)、中国
     (C)、オランダ(D)に呼び掛けて、
      日本へ石油や食糧・鉄などあらゆる資源・原
     料などの物資が入らない様に、経済包囲網を張
     った。
      「首を絞める事と同じ」卑劣な事をやった・・
     これが戦争の原因となった。
      結局、軍事力が弱い国は、何でもやられてし
     まうのだ・・卑劣な事でも何でも・・
.
2017年12月23日、ベトナムの独立戦争を助け、そして、戦
 った日本兵の父は・・
  この様な記事が、この日の読売新聞に記された。
  「ベトナム北部に住むベトナム人姉妹が、第二次世界
 大戦(大東亜戦争)後も、進駐先の同国・ベトナムに留
 まり、再び、植民地にしようとするフランスとの独立戦
 争に、ベトナムに加わって、ベトナムの独立を助けた父
 親の元日本兵を探している。
  父親は、1954年に、目的を達して日本に帰国して以降、
 消息が不明となった。
  来年は、日越外交関係樹立45周年にあたり、姉妹は「
 交流が一層活発になるこの機会に、父の消息にも関心を
 寄せてほしい」と願っている。
  姉妹は、タンイエン県在住のグエン・ティ・ミーさん
 (69歳)とグエン・ティ・ビンさん(64歳)。
  姉妹が、1975年に、53歳で亡くなった母親から聞いた
 ところでは、グエン・バン・マオというベトナム名を使
 っていた父親は、第一次インドシナ戦争終結の1954年、
 ベトナム政府の方針で日本に帰国した。
  父親に関する文書類は、写真1枚を除いて、すべて破棄
 され、日本名も不明となった。
  マオさんは、第二次世界大戦後、自らの意思と使命感
 でベトナムに残り、ホー・チ・ミンらの率いるベトナム
 独立同盟軍(ベトミン)に参加した。
  そして、同県のベトミンの軍事学校で教官を務めた。
  同校の近くの商店主だった母親が、26歳の時に、二人
 は結婚して、家庭を持った。
  マオさんは、帰国する際、妻に、「私は、日本で革命
 運動をしなければならない。あなたは、ここに居て下さ
 い」と言ったという。
  ミーさんは、「よく肩車をしてくれる優しい父だった。
 妹を抱いた母と私が、父を乗せて去っていく車に泣きな
 がら追いすがろうとしたことを覚えている」と話す。
  父の去った後、母親も病気がちになり、治療費の捻出
 のために自宅を売らねばならなかった。
  姉妹は、木を切って薪にして売り、生活をしのいだ。
  「父親との再会はあきらめていた」が、今年(2017年)
 天皇陛下と皇后陛下の両陛下が、ベトナムを御訪問なさ
 り、その際、元残留日本兵の家族と両陛下との面会が実
 現したとニュースで知り、「父の消息だけでも知りたい
 との思いが募ってきた」と話す。
  ハノイ在住で、元残留日本兵の調査を続けている小松
 みゆきさん(70歳)は、「軍事学校の教官だったという
 事は、旧日本軍でもそれなりに地位にある人だったはず」
 と指摘し、
  「1954年に、第1陣として帰国した約70人の中にいる可
 能性が高い」としている。
  ベトナムに残留した日本兵の内、約600人が、日本の敗
 戦後も残留し、ベトミンに合流して独立戦に参加したな
 どとされる。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)571E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月~1892年12月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)571E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月~1892年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年12月13日、渋沢栄一襲撃事件
  水道鉄管を外国製を主張する渋沢栄一への凶徒襲撃事
 件が起きた。
  結局、国産の鋳鉄会社の納入遅延や不良品の不正納入
 などが発生して、大部分の鉄管は外国製品を輸入し、使
 用するに至った。
1892年12月18日、チャイコフスキーバレエ「くるみ割り人
 形」が初演された。
  チャイコフスキーが作曲した『眠れる森の美女』が、
 1890年に成功し・・
  その次作として、マリンスキー劇場の支配人であった
 イワン・フセヴォロシスキーは、ドイツのE.T.A.ホフマ
 ンの童話 『くるみ割り人形とねずみの王様』 を原作と
 するバレエを構想した。
  そして、再度、チャイコフスキーに作曲を依頼した。
  筋は、ホフマンの童話に基づき、マリウス・プティパ
 が台本を手掛けた。
  そして、振付も担当する予定であった。
  しかし、プティパは、リハーサル直前に病に倒れ、振
 付は、後輩のレフ・イワーノフに委ねられた。
  初演は、この日、サンクトペテルブルクのマリインス
 キー劇場で行われた。
1892年12月20日、伊達宗城(だてむねなり) が逝去した。
  (1818年9月1日~1892年12月20日、75歳)
  伊予宇和島藩8代藩主、伯爵、政治家。
  1818年、江戸に生まれる。
  1827年(9歳)4月、宇和島藩主・伊達宗紀の仮養子と
   なる。
  1828年(10歳)10月、宇和島藩家臣・伊達寿光の養子
   となったが、
  1829年(11歳)4月11日、嗣子となり得る男子に恵まれ
   ない藩主宗紀の養子となる。
   宗紀の五女・貞と婚約して婿養子の形をとったが、
   貞は早世してしまい、婚姻はしなかった。
  1844年(26歳)養父の隠居に伴い藩主に就任する。
   宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、
   木蝋の専売化、石炭の埋蔵調査などを実施した。
   幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、
   更に長州より村田蔵六(大村益次郎)を招き、軍制
   の近代化にも着手した。
   福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩
   主・島津斉彬とも交流を持ち「四賢侯」と謳われた。
   この四賢侯は、幕政に積極的に意見を言い、老中首
   座・阿部正弘に幕政改革を訴えた。
   阿部正弘死去後、1858年(40歳)に大老に就いた井
   伊直弼と将軍継嗣問題で真っ向から対立した。
   13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、
   宗城ほか四賢侯や水戸藩主・徳川斉昭らは、次期将
   軍に一橋慶喜を推した。
   一方、直弼は紀州藩主・徳川慶福を推した。
   直弼は大老強権を発動、慶福が14代将軍・家茂とな
   り、一橋派は排除された(安政の大獄)
   これにより宗城は、春嶽・斉昭らとともに隠居謹慎
   を命じられた。
   養父の宗紀は、隠居後に実子の宗徳を儲けており、
   宗城はこの宗徳を養子にして藩主の座を譲ったが、
   藩政に参画した。
   謹慎を解かれて後は、再び、幕政に関与する。
  1862年(44歳)薩摩藩が起こした生麦事件の賠償金を
   幕府が支払うことに反対した。
   その一方で、生麦事件を引き起こした当事者である
   島津久光とは交友関係を持ち、公武合体を推進した。
  1863年(45歳)末には参預会議、
  1867年(49歳)四侯会議に参加し、国政に参与したが、
   短期間に終っている。
  1866年(48歳)イギリス公使ハリー・パークスがプリ
   ンセス・ロイヤルで宇和島を訪れた際、お忍びで同
   艦を訪問した。
    パークス一行上陸時は、閲兵式に続き純和風の宴
   で接待し、宇和島を離れる際には藩の旗印と英国国
   旗を交換し、
    さらに、同年後日、アーネスト・サトウ宇和島訪
   問の際には、日本の将来について、天皇陛下を中心
   とした連邦国家にすべしという意見交換をするなど、
   外国人とも積極的に交流した。
  1867年(49歳)12月、王政復古の後は新政府の議定(
   閣僚)に名を連ねた・・しかし・・
  1868年(50歳)戊辰戦争が始まると、心情的に徳川氏・
   奥羽列藩同盟寄りであったので、薩長の行動に抗議
   して、新政府参謀を辞任した。
  1869年(51歳)民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設の
   ためイギリスからの借款を取り付けた。
  1871年(53歳)欽差全権大臣として清の全権李鴻章と
   の間で日清修好条規に調印し、その後は、主に外国
   貴賓の接待役に任ぜられた。
   しかし、その年に中央政界より引退。
  1881年(63歳)日本に立ち寄ったハワイ国王カラカウ
   アを接待し、それに対する返礼として勲章を授与さ
   れている。
   カラカウアより宗城に授与された勲章は、宇和島伊
   達文化保存会に保存されている。
  1884年(66歳)宇和島伊達家は、華族令によって伯爵
   を授けられた。
  1891年(73歳)養嗣子の宗徳が宗城の維新時の功によ
   って侯爵に陞爵された。
  1892年、東京の今戸屋敷で病没された。享年75歳。
1892年12月20日、大阪紡績工場で火災。
  大阪紡績会社三軒家工場火災
  明治のこの頃、綿製品が日本最大の輸入品だった。
  そこで、明治10年代(1876年~85年)に、政府は、同製
 品の国内生産化を進めるため、紡績業の育成を国策とし
 て取り上げた。
  そして、2000錘の糸を紡ぐ紡績機を輸入し、資金面で
 保護し奨励策を行った。
  しかし、2000錘という規模の小ささや、水車を原動力
 とすることからくる立地条件の制約、国産原料の不適正、
 経営、技術上の未熟などがあり、成功しなかった。
  この時、第一国立銀行頭取の渋沢栄一は、輸入綿糸の
 巨額なことに驚いて、当時の代表的な綿関係商人や貿易
 商に呼びかけて、
  また、旧大名や華族たちの資金を活用し、錘数1万500
 錘という大規模な大阪紡績会社(現・東洋紡)を設立した。
  1882年11月、大阪三軒家工場落成した。
  1883年の翌年7月、操業を開始し、近代紡績産業確立へ
 の基礎を作った。
  しかし、この日、業界のトップを走っていた、同工場
 が大火災を起こした。
  第二号工場2階南端にある第39号ミュール紡績機の運転
 が突然止まり火を噴き、
  こわれたガラス窓から吹き込んだ風によってあたり一
 面が火の海と化し、火元の二号工場を始め一号工場も全
 焼した。
  特に、二号工場3階の綛場(かせば:製品の仕上げ工場)
 で、夜間修業中の多くの女子工員が作業をしていたが、
 火の回りが早く、逃げ場を失い階段で折り重なって倒れ
 た。
  95人が死亡、22人負傷、紡績機3万台が焼損した。
  しかし、同社は、この災害を逆に最新式の紡績機導入
 の機会ととらえて一新し、いっそう業績を上げたという。
  (参考:大阪府編「大阪百年史:近代紡績業の生成」
1892年12月22日、横川~軽井沢間軌条の敷設終了(碓氷峠
 がアプト式)
  着工より1年9ヶ月という驚くべき短工期で、500人あま
 りの尊い人命が捧げられ、その犠牲者の方々お蔭で工事
 は完成した。
  横川~軽井沢間の路線決定までは紆余曲折があった。
  1884年より本格的測量が始まり、ケーブルやループ、
 スイッチバック等、複数のルートが候補にあがり、そし
 て、選定された。
  その後の現地踏査の結果、和美峠・入山峠・中尾線の
 3ルート案に絞られたが、急勾配のため、技術的に、ま
 た、予算的に困難であり、政府は決定に苦労していた。
  1890年、欧州留学中の技師から、ドイツのハルト山鉄
 道のアプト式を碓氷峠に採用してはどいうかという報告
 があった。
  アプト式を前提にして3ルート案を比較研究した結果、
  1891年2月、最短ルートとなる中尾線ルートをアプト式
 で建設することが決定された。
  1891年3月19日に着工。
  パウナルをはじめとする欧州から来た鉄道技師達が設
 計を行い、本間英一郎らの日本人技師と一丸となって建
 設にあたった。
  途中に熊ノ平信号場を設け、随道26ヶ所、橋梁18ヶ所、
 最大勾配66.7パーミル。
  全線距離11.2㎞、このうち約8㎞の最大66.7パーミル急
 勾配区間にラックレールを敷設、途中4箇所の普通軌道と
 の接合点にはエントランス(枕木とラックレールとの間
 にバネを設置し、機関車のピニオンとラックレールがス
 ムーズに噛み合うようにした区間)が設けられた。
  横川から丸山信号場までの約2㎞は25パーミル、熊ノ平
 信号場内は平坦線とし給水・給炭設備(全列車が熊ノ平
 に停車し蒸気機関車に給水を行った)が設けられた。
  当時は、軌道資材の製造技術がまだ無かったため、ア
 プト区間の鋼鉄製枕木などドイツ製が多用された。
  1892年7月には横川機関庫が新設された。
  1892年12月22日、着工よりわずか1年9ヶ月で多くの犠
 牲者の方々のお蔭で工事は完了した。
  この工期は、当時の技術水準としては驚くべき短さで
 あった。
  橋梁などに使用された煉瓦は、埼玉県川口や軽井沢塩
 沢などで製造された。
  その数、約1000万個と言われている。
  当時の技術を結集して作られた建築物のこの遺構は、
 100年以上の風雪を耐え、今なおしっかりと残っている。
  この工事の資材運搬には、碓氷馬車鉄道が活用された
 が、馬車鉄道は碓氷線開業とともに廃業した。
  (参考:碓氷線概史)
.
  (今日の言葉)
.
  題:中国による外国政界や世論への『工作が活発化』
   していることが相次いで明らかになり、各国が警戒
   を強めている・・
.
16世紀~18世紀、この間の300年間、ヨーロッパは、戦乱に
 明け暮れた。
  それとともに、驚くほど軍事技術が発達した。
  同じく、この間の250年間、東アジアは、そのヨーロッ
 パとは逆に、対照的に、平和な時代にあった。
  日本も、1600年の関ケ原の戦い以降、267年間の平和な
 江戸時代であった。
.
1770年、インドからイギリスへ輸出された綿織物の輸出額
 は、この年、150万ポンドだった。
  この輸出額は、1800年に、ピークとなり350万ポンドの
 約2.3倍になった。
  以後、1800年頃から始まったイギリスからの綿織物輸
 出は、このインドからの輸出を圧迫し始め、インドの輸
 出量を漸減させた。
  1820年には、イギリスからの輸出に、インドからの輸
 出は追いつかれ、同等額となった。
  そして、1830年には、インドからの輸出はとうとうゼ
 ロとなり、無くなった。
  イギリスに追い付かれてから10年間という急激な衰退
 をさせられたインドだった。
  その後も、イギリスからの輸出は増え続け、1840年に
 は600万ポンドに達した。
  この様な経緯の中で、インドは完全に経済破たんのお
 手上げ状態で、インドの方々は、多数の労働者や職人の
 方々が失業した。
  1857年に至って、イギリスに雇われていたインド兵士
 (セポイ兵)が、イギリスの圧迫に抵抗して反乱を起こ
 した。
  イギリスに好きにやられて、いいようにやられて、不
 満の極致にあった
  インドの手交業者や農民の方々は、このセポイ兵と一
 緒になって反抗した。
  インド全体の、全国的なイギリスに対する不満の爆発
 となった・・インド全体の反乱となった。
  イギリスは、自国が儲かれば良いのだの、自国の利益
 のみに捉われ、「インドは我々の植民地だ」として考え、
 インドへの配慮はまったくなされなかった。
  イギリスの大工場で安く大量生産された製品で、イン
 ドの方々の生活基盤を完全に奪い、破壊した。
  その逆に、インドの植民地で大きな利益を得ていたイ
 ギリスは、贅沢品だった貴族だけの飲み物の紅茶の例の
 様に、イギリスの一般庶民にまで普及するような潤った
 社会となっていた。
  犠牲のインドの収奪の利益を享受した。
  完全にインドの富を吸い上げていた。
  それとともに、また、中国・清から輸入するこの高価
 なぜいたく品の紅茶など、多額の支払いが生じていた。
  イギリスは狡猾に、この支出を何とかしたいと「卑劣
 な事を考える」。
  イギリスは、支払いのための銀の流出が膨大となる事
 に対しての対策は・・、
  このイギリスの卑劣な対策は、「極悪の極致に達して
 いた」。
  安い植民地のインドの労働力を使って「麻薬のアヘン
 を作らせて、それを、中国へ売って、支払いの銀の流出
 を止めようと・・卑劣に考えた」。
  それが実行された・・中国の方々は、当然、「麻薬ア
 ヘンの中毒」となった・・そして・・中国は亡国状態と
 なった。
  中国政府は、何度も何度も、アヘンの禁止令を出した。
  しかし、イギリスは、それに関係なく卑劣に売り続け
 た。
  逆に、それに、言い掛かりをつける。
  イギリスは、「自由貿易を妨げた」と自分勝手な、自
 分に都合の良い屁理屈をつけて、イギリス軍艦を出動さ
 せた・・そして、戦争を仕掛けた。
  国防力の弱い中国・清は、イギリスに勝てる状況では
 なかった。
  それでも、中国・清は、2年間、一生懸命、戦った。
  しかし、圧倒的な力の差のあるイギリスに屈した・・
 そして、不平等な、屈辱的な条約を結ばされた。
  どこまでも卑劣なイギリスだった。
  中国は、イギリスの植民地の様な「半植民地となった」。
  この様な情報は、しっかり、日本の英俊(えいしゅん、
 特に優れている人)な人々は掴んでいた。
  その状況を日本へ伝えた一つが、「オランダ風説書」
 だった。
  それを、しっかり読んでいた。
  またさらに、素晴らしい事は、この書を、教育水準の
 高かった日本の庶民の方々も読んだ。
  そして、日本の庶民の間に広まった。
  汚いやり方をするこのイギリスの行状は、日本の庶民
 に知れ渡った・・、
  「この汚いイギリスめ!ひどい事ばかりしやがって」
 という気持ちにさせた。
.
1940年7月末〜9月初、杉原千畝がビザ発行をする。
  杉原千畝の謎の幾つかに、新しい視点を加えて考察し
 た研究者に・・「満州国外交官をなぜ辞めたのか?」と
 いう疑問があった。
  杉原千畝にはキャリアが無かった・・
  ノンキャリア(普通の職員)だった杉原が・・ソビエ
 トとの北満鉄道の譲渡交渉に成功して脚光を浴びた。
  それで、満州国で仕事を与えられた・・活動する場を
 持った。
  しかし、何故か? 満州を棄てた。
  人間関係がうまくできなかったと言われている。
  橋本欣五郎大佐との関係が考えられている。
  陸軍は、杉原に多額の報奨金を用意した・・そして、
 陸軍のスパイ・謀略の要として活躍してもらいたいと思
 った。
  杉原は、外交関係職員としての情報関係に関わってい
 た。
  ソ連は、杉原を国外退去処分にしたように、結果的に、
 その活動は見破られていた。
  杉原は、情報を得るためにロシア人(ソ連人)を妻と
 したが、逆に、スパイをされていたとも言われている。
  日本は、その様な杉原を、リトアニアに派遣した。
  やはり、外交職員としての情報を得る仕事としてだっ
 た。
  リトアニアのカウナスにおける「六千人の命のビザ」
 といわれる行為も、立場上、ビザ発行の立場にない杉原
 の権限外の行為だった。
  故に、日本に帰国後、日本の外務省から処分を受けた。
  杉原を、差別したり、虐(いじ)めたりする意味では
 ない・・当然の処分だった。
  キリスト教は、ここを嘘を言って杉原を美化した。
  立場にない杉原は外交電報の分析から、杉原が確信犯
 的に外務省本省と駆け引きを行った。
  権限のあるビザ発行ではなかった。
  当然、「権限外の事はするな」と外務省に言われてい
 た・・ここを、キリスト教は、「ドイツと同盟をしてい
 た日本は、ユダヤの方々を差別して、ビザ発行はするな
 と日本は杉原に言った」と、またまた、日本を貶める「
 嘘八百」を言った。
  日本はユダヤの方々を差別していない。
  ビザの発行をしていた。
  日本は、ドイツへ、逆に、「ドイツの様にはしない」
 とはっきりと言っていた。
  この様な経緯の中で、無効の私文書である「ビザらし
 きもの」を杉原は発行した。
  ユダヤの方々は、日本が差別していないことをすでに
 知っていて。
  日本と関係している満州へ逃れて来た。
  満州は、「ビザがあろうが、なかろうが」、ユダヤの
 方々を受け入れた。
  杉原の様なびザが無くても、受け入れた。
  そして、日本の神戸で受け入れた。
  ユダヤの方々を乗せた船が、日本に到着するとき、日
 本政府の船が出迎えたくらいだった。
  杉原のビザの行為は、無くても良い話だった。
  ビザ発行の行為を、「本省(外務省)の指導を無視し
 たのではない」と、「人道的行為だ」と、妻の幸子と共
 に一緒に「ビザ発行の行為」をして、妻を証人にしたい
 と考えていた。
  研究者は、ポーランドからやって来たユダヤ難民の方々
 は、「必ずしもナチスの迫害だけではなく、ソビエトの
 脅威にもさらされていた」と言う。
  杉原が、ユダヤ難民にビザを発行したのは、1940年7月
 末〜9月初めである。
  この時は、1939年9月、独ソのポーランド分割が起き、
  そして、1941年6月の、独ソ戦争勃発の直前の期間とな
 る。
  1939年11月には、ソビエトのフィンランド侵略(冬戦争)
 があり、1940年には、バルト三国併合が進められた。
  ドイツの脅威だけではなく、ユダヤの難民の方々は、
 ソビエトの脅威にも囲まれていた。
  ナチスのユダヤ人迫害は、戦時中から連合国側には知
 られていたが、日本人は知らなかった。
  一般の日本人が知ったのは、戦後10年もしてからだっ
 た・・
  戦後に、ソビエトが管理していたアウシュヴィッツ収
 容所が、ソビエトの誇張した情報操作(400万人の死者数
 など)を経て・・白日の下になった。
  また、隠された史実が明らかになった・・ユダヤの方々、
 難民の方々に冷酷な態度を、イギリスやアメリカ、フラ
 ンスはとり続けていた。
  このことは、日本では、ほとんど知らされていない。
  フランスのヴィシー政権などは、ナチスに言われなく
 ても、『独自に』、一万数千人のユダヤの方々が殺され
 ることを知っていても、その前提で、収容所への移送行
 為をしていた。
  1939年、ユダヤ難民を乗せてパレスティナに寄港した
 「タイガーヒル号」を委任統治国イギリスは、不法難民
 として銃撃し、「撃退」した。
  イギリスは、アラブの石油利権に拘(こだわ)り、戦
 後もユダヤ人の移民を妨害し続けた。
  ハンブルクを出てアメリカ保護領だったキューバまで
 行きながら、アメリカは、「移民法の定員」を理由に拒
 否した。
  結局、引き返し、難民の大半がアウシュヴィッツに送
 られた(セントルイス号事件)。
  これらの事件に前後して、ポーランド人やリトアニア
 人によるユダヤ人襲撃(ポグロム)も各地で頻発し、多数
 のユダヤ人の方々が殺されていた。
  国外脱出を試みても成功するとは限らない。
  ドイツ、チェコ、ルーマニア、至る所でユダヤ人の方々
 の財産は没収されていた。
  国外に逃れても、一定の金額を持たない人は入国を拒
 否され、引き返せば収容所行きが待っていた。
  アメリカやヨーロッパの態度が、この時のユダヤの方々
 に置かれていた状況だったのだ。
  また、因みに、東条英機も、ユダヤ人の方々を保護し、
 同時代の満州国、上海、神戸のユダヤ人の方々を、日本
 が保護した事例は多い・・
  杉原の行為以前に、この様な行為を、日本は、既に、
 行なって、ユダヤの方々を救っていた。
.
1945年6月4日、沖縄戦において、アメリカ軍が、日本人の
 捕虜を連行しないことは、一般的に知られていたが、「
 黙認されていた」。
  みんなが知っていて、日本兵を連行しないで殺戮して
 いた。
  太平洋の戦場における連合軍将兵は、『しばしば故意
 に』、降伏した日本軍将兵を殺害していた。
  アメリカ合衆国の、オーストラリア将兵の書いた日記
 についての研究論文を発表したリチャード・オールドリ
 ッチによれば、連合軍将兵は、捕虜を処刑したと、
  ダワーは、「多くの例がそれを告げている・・(中略)
 ・・捕虜となった日本軍将兵は、即座、もしくは、収容
 所への連行途中に死亡した」とされていると・・、
  また、オールドリッチによれば、アメリカ軍が捕虜を
 連れて行かなかったことは『よくあることだ』としてい
 る。
  この分析は、イギリスの歴史家ニール・ファーガソン
 も認めていて、支持している・・、
  1943年、「(アメリカによる)秘密諜報報告によれば、
 アイスクリームと3日間の休暇だけが約束されており・・
 (中略)・・アメリカ軍将兵に降伏した日本将兵を殺害し
 ないよう説得すること」としていると述べている 。
  それほど、捕虜の日本の将兵が殺されていた・・、
  ファーガソンは、これらが、1944年後半、日本軍将兵
 捕虜が1:100の割合で処刑されたと述べている。
  (1%の捕虜しか・・捕虜として生き延びられなかった・・
 99%の日本兵は、捕虜となっても、故意に、わざと殺さ
 れていた)
  その同じ年に、連合軍最高司令部により、捕虜を捕ら
 ないことにより情報収集に影響を及ぼしていたため、「
 捕虜を捕らない」方針を抑える努力するよう勧告・・、
  (酷い状況なので回りくどい言い方をしているが・・
 早く言えば、あからさまに言えば、途中で殺すなという
 勧告)、情報を取るための日本将兵を降伏させ捕虜とす
 ることを奨励させた。
  また、ファーガソンは、連合軍司令部が、戦死者と日
 本軍捕虜の比率を改善改善する処置をとり、1945年中頃
 までには1:7に改善されたと付け加えている。
  (今まで100分の1しか生き延びれなかったが、7分の1
 が生き延びられるようになったという話で・・、
 しかし、まだ、85%の捕虜の日本兵が・・殺されていた)
  とくに有名な話が・・1945年6月4日に始まった沖縄戦
 において、アメリカ軍が日本人の捕虜を連行しないこと
 は、一般的に知られていて、黙認されていた。
  シュトラウスは、卑劣にも、「捕虜の連行が危険だか
 ら」と言い訳した。
  だから、「部隊を危険にさらすという理由から、上官
 が捕虜を連行することに反対していた・・」と言う。
  (バターン行進なんかで、日本は、捕虜を殺しもしな
 いで、何万という捕虜を丁寧にしていたのにである)
  アメリカは、捕虜を連行する場合、しばしば、「彼ら
 を連行するには、あまりにも面倒があったため」という
 理由で、輸送途中で射殺した。
  ファーガソンは、「日本軍将兵や、ドイツ将兵が、降
 伏することによる不名誉や懲戒処分などを恐れたわけで
 なく・・、
  むしろ、捕虜となっても殺されるかどうかということ
 が兵士にとって重要であり・・、
  殺される場合ならば(殺されると分かっているならば)
 当然、戦うほうを選択した」・・と・・、
  捕虜という生き延びる方策を示して、そして、捕虜に
 して殺すという卑劣さを批判している。
  この様に、アメリカ軍などの連合軍による戦争犯罪は
 多い(第二次世界大戦)・・卑劣なアメリカ軍だった。
.
1946年5月、このとき開かれた極東国際軍事裁判(東京裁判)
 に、インド代表判事としてラダ・ピノード・パール判事
 が派遣された。
  この東京裁判で、インドのパール判事だけが「全員無
 罪」を判決し、主張した・・しかも、アメリカを批判し
 た。
  インドの法学者で、ヒンドゥー法を専攻し、コルタカ
 大学教授で、国際連合国際法委員長だった。
  パール判事は、判事全員一致の有罪判決を目指す動き
 に反対した。
  また、平和に対する罪と人道に対する罪は戦勝国によ
 り作られた『事後法』であり、事後法をもって裁くこと
 は『国際法に反する』などの理由で、「被告人全員の無
 罪」を主張した(「パール判決書」)
  このパール判事の考え方は、「当然の正義」となって
 いる。
  この東京裁判の「落とし穴を後から作って、その穴に
 落とすという卑劣なリンチ(私刑)」は、今後、永久に
 批判されることとなる。
.
1981年1月4日、ミャンマー第33回独立記念日に・・、
  自国民であるミャンマー人でも授与されていない 「ア
 ウンサン勲章 (ビルマ独立運動闘士)」 を7人の日本
 人に対して授与するとミャンマー政府が発表した。
  両国の関係者を驚かせたが・・、
  受賞者7人全員は、鈴木敬司大佐を含む元「南機関」
 (大日本帝国陸軍所属)メンバーであった。
  このことを、「 恩を忘れない・・ ミャンマー」とア
 ジアの人々へ賞賛と感動を与えた。
  ミャンマーの建国記念日には行進が行われるが、今で
 も最初に演奏する曲は 『軍艦マーチ』となっている 。
  他にも、日本の軍歌 『日本陸軍の歩兵の歌』 『愛馬
 進軍歌』などをそのまま使われている。  
  日本以外のアジアの国でも、130年前に作られた大日本
 帝国の曲『軍艦マーチ』を大切にして戴いている。
.
1989年4月15日、天安門事件(大量虐殺事件)
  4月15日の総書記の死の追悼行動から始まり、6月3日深
 夜から6月4日未明にかけて起きた虐殺で終わった。
  政治改革に積極的だった胡耀邦元総書記の死がきっか
 けだった。
  胡耀邦の葬儀までに、政治改革を求める学生を中心に
 10万人の人々が天安門広場に集まった。
  抗議運動自体は、胡耀邦が死去した1989年4月15日から
 自然発生的に始まった。
  統制がなされておらず、指導者もいなかった。
  抗議の参加者の中には、中国共産党の党員、トロツキ
 スト、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を
 要求する声に反対していた改革派の自由主義者も含まれ
 ていた。
  デモは、最初は、天安門広場で、そして、広場周辺に
 集中していたが、のちに、上海市を含めた国中の都市に
 波及していった。
  鄧小平の決定により、5月19日に、北京市に戒厳令が布
 告された。
  武力介入の可能性が高まったため、趙紫陽総書記や知
 識人たちは、学生たちに対し、デモの平和的解散を促し
 た。
  しかし、学生たちの投票で強硬派が多数を占め、デモ
 継続が強行されたため・・首都機能は麻痺に陥った。
  1989年6月4日未明、中国人民解放軍は、軍隊と戦車で
 北京の通りに移動した・・そして、民主化を求めて集結
 していた学生を中心とした一般市民のデモ隊に対し、無
 差別に実弾を乱射した・・武力弾圧と大量殺戮を行なっ
 た。
  (市民に向けて、無差別発砲や装甲車で轢き殺し、多
 数の死傷者となった)
  1989年6月5日付の文書に、中国軍が、重武装部隊を早
 い段階から投入し、殺傷能力が高すぎるため国際条約で
 使用が禁止されている銃弾を使用するなどしていたとの
 記載もある。
  衝突のあと、中国共産党当局は、広範囲に亘って抗議
 者とその支持者の逮捕を実行した・・
  外国の報道機関を国から締め出した。
  自国の報道機関に対しては、事件の報道を厳格に統制
 した。
  戒厳令布告に反対した趙紫陽(当時)は、総書記ほか
 全役職を解任された。
  そして、2005年に死去するまで、自宅での軟禁下に置
 かれた。
  中国の隠ぺいによって、犠牲者数がまちまちであった
 が・・、
  事件後29年を経た2017年12月25日の読売新聞に、イギ
 リス外務省の機密公文書を、イギリス公文書館が開示し
 た事でわかった。
  以下、その記事の抜粋・・
  天安門事件・・「最低死者数:1万人」推計・・
  発生直後に、中国政府関係者が「1万人」と推計してい
 たと、イギリスの駐中国大使が、イギリス本国に伝えて
 いた機密公文書が開示された。
  中国当局が公式発表している死者数は319人。
  中国当局が当初から、相当数の犠牲者が出ているとの
 認識を持っていた可能性が出て来た。
  文書は、武力鎮圧の翌日の1989年6月5日に、アラン・
 ドナルド駐英大使が、イギリス外務省に送ったもの。
  「信頼できる情報源」で、中国の中央政府に当る国務
 院関係者から得たという情報に基づき、武力鎮圧の状況
 を詳述している。
  文書では、「民間人死者の推計は最低1万人」と記載し
 ている。
.
2014年4月8日、日本の新潟県佐渡の「道の駅」の土地が1円
 で・・中国に買われた。
  「中国人の旅行者を呼ぶから」と言われ、そして、売
 ったという。
  今、日本の土地を爆買する中国であるが、この日の日
 付で産経新聞に以下の記事がある・・、
  道の駅、研修施設に「1円売却」、深まる中国依存
  佐渡島の表玄関・両津港から約3キロ。
  県道65号を車で10分ほど走ると、道の駅「芸能とトキ
 の里」(佐渡市吾潟)に着く。
  ところが、目立つ場所に「学校法人・新潟国際芸術学
 院佐渡研究院」の看板が掲げられ、レストランも土産店
 もない。
  この施設はもともと、JA佐渡と佐渡汽船グループが
 設立した「佐渡能楽の里」が運営していたが、観光客の
 減少で経営不振となり解散。
  絵画教室などを運営する学校法人・新潟国際芸術学院
 (東富有理事長、新潟市中央区)が、建物部分(延べ床
 面積約3600平方メートル)を1円で購入した。
  同学院は、土地もJA佐渡から無償で借り受け、1923
 年6月から研修施設として利用している。
  「持っていても税金がかかるだけ。二束三文でも手放
 したかった」。
  地元のベテラン市議は、「1円売却」の経緯をこの様
 に話した・・後略・・
.
2017年8月28日、中国の資本力が・・世界中でうごめく
  アメリカの超金持ちのエスタブリッシュメントの1%の
 人々は、アメリカの政治を動かしている。
  所得格差は、さらに広がっている。
  現時点の資本主義のメカニズムが、彼らに金が集まる
 ようになっている。
  かつて、日本に、バブルと呼ばれた時代、日本の東京
 の土地代でアメリカ全土が買えると言われた。
  資本主義システムがその様な流れにさせた・・
  日本の「東京の土地の価値」が、「アメリカ全土の土
 地の価値」以上であるから、購入可能となったという。
  そんなことが出来るからと言ったって「やる様な日本
 ではない」が、資本主義システムの流れの中で、その時
 代は・・その様な状況になっていた。
  アメリカのエスタブリッシュメントの方々が持つ資本
 力で、『世界の土地を買おうとすれば、バブルの日本が
 アメリカ全土を買えたように、やろうと思いさえすれば、
 それは、かなりの事が可能だろう」。
  今、中国の銀行が、かつての日本の銀行の様に、世界
 のトップを占めている。
  中国の4大銀行の勢いは凄い。
  今、ドイツが、中国へすり寄っているが、その様な勢
 いのある中国なのだ。
  中国資本が、オーストラリアの農場を買い占めている
 という。
  その中国農場主の下で働く人が、オーストラリアの人
 なのだという。
  中国は、この資本力で世界を牛耳ろうとしている。
  AIIB(アジアインフラ投資銀行)で、また、一帯
 一路構想で、巨大な資本力を背景に、世界を牛耳ろうと
 している。
  その中に、日本の土地の買い漁(あさ)りがある。
  北海道の山が買われ、町が買われて、今、北海道が凄
 いというが・・東京の不動産も、「中国が、良いお得意
 さんだ」という。
  参考:2017年8月28日・・産経ニュース
  中国資本の買収「とんでもない事態が進行」
  特別ツアー参加者が報告書 
  2017年7月に、産経新聞社が実施した北海道をめぐる特
 別ツアーの参加者が、訪問先の様子などをまとめた報告
 書を作成した。
  特別ツアーは、産経新聞連載「異聞 北の大地」(産
 経ニュースでは「北海道が危ない」で掲載)の筆者、宮
 本雅史編集委員が案内役として同行し、外国資本に買収
 された北海道の森林や水源地などをめぐるという内容だ。
  7月23、24の両日に開催され、本紙読者ら20人が参加し
 た。
  報告書を作成したのは「新しい歴史教科書をつくる会」
 (東京都文京区)の越後俊太郎事務局長で、写真をふん
 だんに使ったリポートに仕上がっている。
  例えば、航空自衛隊千歳基地や千歳空港を見渡せる千
 歳市内の中国人別荘地に関しては「空港を監視できる位
 置にやすやすとつくられてしまっている。
  安全保障上、相当に問題あり」と指摘し、中国資本が
 買収した伊達市内の山林内にあるゴルフ場跡地について
 は「買収されて6年以上にもなるが、商売なら「なぜ放置
 されているのか?」理解に苦しむ。
  造成された土地などを手っ取り早く手に入れ、「中国
 人流入の受け入れ先」として活用しているのではと勘ぐ
 りたくなる」と分析している。
  喜茂別町にある中国人専用のプライベートゴルフ場に
 ついても「関係者以外立ち入り禁止」の看板があること
 を踏まえ、「『私有地につき、立ち入り禁止』となれば、
 中をみることができない。
  ここに多くの中国人が入り込んでしまえば、その調査
 は事実上かなり難しくなる」との見方を示し、「つまり
 日本にいながら『治外法権』の場所ができあがってしま
 う。
  これもまた、安全保障上、極めて危険と言わざるを得
 ない」と警鐘を鳴らした。
  表紙を含めた全13ページの報告書の「まとめ」では、
 「(北海道の土地が)中国資本に買われている問題につ
 いては、一応の認識はあったが、実際に現地を訪れ、本
 当にとんでもない事態が進行していることを肌で感じる
 ことになった」と率直な感想を記している。
  さらに、越後氏は「中国資本は決してもうけるために
 土地を買ってなどいない。
  飛行場の近くの高台、港の苫小牧市(中略)、多くの
 中国人が外部と接触を断っても自給自足できるよう、山
 奥の広大な土地を確保して、宅地・水源・電力を準備す
 る。
  これは中国が『きたるべき時』のために備えを着々と
 進めているとしか考えられない。
  非常に背筋の凍るような思いがした」とし、法規制の
 必要性などに触れた上で「この問題に気づいた人間が、
 できる範囲で声をあげ、取り組むほかない」と締めくく
 っている。・・以上
  また、【世界ミニナビ】中国資本の旺盛な土地買収は
 極北にまで・・の記事もある。
.
2017年12月25日、TOKYO・MXの番組名「ニュース女
 子」で、以下の様な発言があった・・、
  「対馬が、韓国にどんどん買われている」
  「対馬は韓国の看板ばかりで、また、韓国語ばかり」
 ・・と・・、
  そして、対馬の現状について・・
 「土地、ホテル、料理店、釣り宿などが韓国資本家に
 よって買収が対馬の至る所で行われている」・・と・・、
  そして、これ以上に・・「日本人の名義が借りられて、
 買占めが行われている」・・と・・、
  しかし、日本人の名義であるため、その実態は掴(つ
 か)めないという。
  地方自治体が掴む数字以上に、土地や建物の買収は進
 んでいるものと見られている。
  廃業した民宿が、民宿のお手伝いさんの名義で買収さ
 レたりしているという。
  また、「大亜ホテル」というホテルが韓国資本によっ
 て建てられた。
  税制優遇がなされたという話があるが、韓国資本によ
 る対馬での観光業で、利益金は韓国に還元される(日本
 の利益にはならない)。
  厳原町の中心街は、「アリラン通り」と呼ばれる様に、
 また、地元向け薬局が、韓国人に買収されて韓国料理店
 に変わった様に、韓国人向けの看板、居酒屋、レストラ
 ン、免税店などハングル語に溢れている。
  アメリカには、安全保障上の問題があれば、外国企業
 の買収を止められる「エクソン・フロリオ条約」がある。
  アメリカは、事後法を作って買い戻したり、中国資本
 の買収が酷い時に、オバマ大統領が「NО」と言ったこ
 ともある。
.
2017年12月25日、中国による外国政界や世論への『工作が
 活発化』していることが相次いで明らかになり、各国が
 警戒を強めている・・
  こんな記事が読売新聞に記されている・・
  金のある中国は、その金に物を言わせて、何でもやり
 始めている・・
  以下は、その内容の概要・・
  習近平(シージンピン)政権は、世界第2の経済力を背
 景に、自国に有利な政治行動を取る国を増やし、中国主
 導の国際秩序を浸透させようとしており、そうした活動
 の一環とみられる。
  「外国勢力が、(オーストラリアの)政治プロセスに
 影響を与えるため、前例がなく、ますます巧妙な工作を
 している」
  豪ABC放送(電子版)によると、オーストラリアの
 ターンブル首相は5日、海外からの献金を禁止する法案
 を議会に提出し、背景をこう説明した。
  同国では、野党・労働党のサム・ダスチャリ上院議員
 (当時)が、中国人企業家から多額の献金を受け取り、
 南シナ海問題で、党の方針に反して中国の領有権主張を
 支持したことが政治問題になっていた。
  (日本にも、この様な政党や議員が居るのか??)
  ターンブル氏は、中国を標的にした法案ではないと強
 調しつつ、「ダスチャリ氏は、オーストラリアを売り渡
 した」とも述べた。
  中国外務省の耿爽(グォンシュアン)副報道局長は、
 定例記者会見で、法案について「中国に対する偏見に満
 ちている」と反発した。
  工作活動の一端は、ほかでも明るみに出ている。
  ニュージーランドでは9月、中国出身の国会議員を巡る
 「中国のスパイ」疑惑が取りざたされた。
  議員は、「スパイではない」と否定した。
  シンガポールでも8月、政府が、リー・クアンユー公共
 政策大学院の中国系の教授(現在は米国籍)が「外国の
 情報機関と連携してシンガポールの外交政策や世論に影
 響を与えた」として、妻とともに国外追放したと発表し
 た。
  地元メディアなどは、この情報機関を中国とみている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)570E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月~1892年12月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)570E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年12月~1892年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年12月1日、甲武鉄道会社が、中等および上等の賃率を
 低減した。
1892年12月3日、皇族方の肖像の販売が黙許(もっきょ、
 無言の内に許すこと)される。
  京都大学の研究によると、従来の「御真影」の研究で
 は、
  天皇陛下を「現御神」とする国体イデオロギーを民衆
 に植え付けて行った「イコン」としてとらえられていた。
  だが、そうした「御写真」のすべてが、そうした儀礼
 の対象となっていなかったと説明する。
  この様な「御写真」は、全体から見ればごく少数に過
 ぎないと説明する。
  明治以来、皇室の御写真の大多数は、学校や官庁など
 の公共空間ではなく、各家庭の内部に持ち込まれていた。
  明治期より、市中で手に入れることが出来、新聞や雑
 誌にも掲載されていた。
  雑誌界は、1890年代の頃より、皇室グラビアを読者獲
 得のための貴重な品として、重用していた。
  また、新聞は、1920年代のころには、皇室写真が紙面
 に載らなかった日を探すのが難しいほど、新聞社は、天
 皇陛下の御一家の方々の写真を用いる様になっていた。
  今、NHKや一部マスコミが、国家イデオロギーの話
 をして・・悪のイメージを作ろうとしているが・・
  「国体イデオロギー形成だ」のイメージを植え付け、
 そして、洗脳しようとする国を貶めるプロパガンダだ。
1892年12月4日、関西鉄道会社が、鉄道局との間に連絡運輸
 の契約を締結した。
  12月15日から、会社線各駅と官設鉄道大阪・京都・馬
 場の3駅相互間で連絡乗車券を発売した。
1892年12月9日、東京湾北部でM6.2クラスの地震が発生した。
  (6月3日説あり)
1892年12月12日、坪井航三(49歳)が、海軍兵学校の校長
 となる。
  坪井航三は、周防国三田尻(現 山口県防府市)の出身。
  1843年4月、医師・原顕道の二男として生まれ、藩医・
   坪井信道の養子となった。
  1863年(20歳)庚申丸(長州藩で建造された西洋式帆
   船)に乗り、外国船の砲撃に参加した。
   遊撃隊士として戊辰戦争に従軍。
   日本海軍の発足後は、甲鉄艦副長を務めた。
  1871年(28歳)アメリカ海軍アジア艦隊の司令長官ジ
   ョン・ロジャーズの下で、旗艦コロラドで乗艦実習
   をした。
  1872年(29歳)離任し帰国するロジェーズ少将に従い
   渡米し、ワシントンD.C.にあるコロンビアン・カレ
   ッジ付属中学校(現在のジョージ・ワシントン大学)
   に学んだ。
  1873年(30歳)12月、官費海外留学生の一斉帰国命令
   に従い・・、
  1874年(31歳)7月、帰国した。
   帰国後、第一丁卯艦長となる。
  1894年(51歳)日清戦争時、第一遊撃隊司令官を務め
   る。
   単縦陣戦法を唱え、豊島沖海戦、黄海海戦に勝利。
   特に、黄海海戦では単縦陣の先頭に立って指揮し、
   優速を利して北洋艦隊の背後に回りこみ、海戦の主
   導権を握ることに成功する。
   日清戦争が始まるまで、日本海軍は、連日、単縦陣
   と横陣の二手に分け模擬海戦を行ったが、坪井の主
   張する単縦陣がいつも勝った。
   しかし、当時、横陣を有利とする主張も強く、単縦
   陣で実戦に挑むのは勇気がいることだった。
   彼は、単縦陣にこだわり、率いる第一遊撃隊は戦闘
   のみでなく偵察、航行の時も単縦陣の陣系を崩さな
   かった。
   黄海海戦で、清国海軍の軍艦に乗り日本海軍の動き
   を見たフィロ・マクギフィン米海軍少佐は・・、
   「日本海軍は終始整然と単縦陣を守り、快速を利し
   て有利なる形において攻撃を反復したのは驚嘆に値
   する」と、日本海軍の単縦陣を高く評価した。
   以後、単縦陣は海戦のセオリー(理論。学説)とな
   った。
1892年12月13日、第1回鉄道会議を招集して、議員より広軌
 道建議案を提出した。
  1869年11月、明治政府は、廟議で、東京~京都間の幹
 線鉄道、東京~横浜間、京都~大阪~神戸間、琵琶湖近
 傍~敦賀間の支線を敷設することを決定した。
  この鉄道網を実現するためには、まず軌間(ゲージ)
 を決定しなければならなかった。
  日本の鉄道の軌間は、当時、イギリスの植民地であっ
 たオーストラリアやニュージーランドと同じ3フィート
 6インチ(1067ミリメートル)の狭軌で敷設された。
  そのプロセスの詳細は不明である。
  しかし、当時、民部兼大蔵大輔であった大隈重信の回
 顧では・・、
  1870年4月、建築師長のお雇い英国人エドモンド・モレ
 ルと会見したとき、軌間の説明を受け・・、
  「元来が貧乏な国であるから、軌幅は、狭い方が宜か
 らう」と答えたという。
  当時、イギリスでは、ゲージ論争が活発に行われてい
 て、経済発展が遅れている地域では、4フィート8イン
 チ半の広軌道よりも、狭軌道の方が適しているという議
 論が優勢であった。
  そうしたなかで、井上も、「多少欧人の諸論を研究」
 したが、「我国の如き山河多く、又、屈折甚しき地形に
 在りては、三呎六吋ケージを適当とす」と判断した。
  すなわち、イギリスなどで採用されている4フィート
 8インチ半のゲージでは、「過大に失して不経済」であ
 り、
  「殊に、当時の勢にては、広軌にて百哩を造らんより
 は、寧ろ、狭軌にて百三十哩を造らんこと国利最も多か
 らん」と考え、狭軌を採用するよう大隈に進言した。
  その結果、廟議も、3フィート6インチの狭軌道を採
 用するにいたった。
  1892年に、銀行条例が改正され、第十五銀行が積立金
 を株主に割り戻すと、
  華族は、大金を得た。
  雨宮は、かねて、「日本の鉄道を広軌に改築せねばな
 らぬ」と考えていたので・・、
  500万円で1000マイルの全鉄道を広軌に改築するという
 計画を立て、華族に、出資を促すと多くの賛同を得た。
  そこで、参謀次長であった陸軍の川上操六を動かして
 補給利子を得ることにし、さらに、井上勝にも同意を求
 めたが、「豈に図らんや、井上は、頑として応ぜなかっ
 た」。
  井上の軌制論は、次第に動揺した。
  1900年5月、鉄道時報社の記者のインタビューで、鉄道
 が、「今日の如く発達するなれば、無論、欧米の通り広
 軌道が適当だ」と・・広軌改築をほのめかした。
  しかしながら、井上は、なお・・、
  「今日でも、鉄道を速成するには、矢張、現行のゲー
 ヂが或る意味に於ては適当ならん」と・・、
  鉄道をさらに延長するには、狭軌道の方がよいとも述
 べている。
  その後、日露戦争を経て・・
  1906年3月、鉄道国有法が公布されると、井上は、はっ
 きりと広軌改築を主張するようになった。
  井上は、駕籠を主要な乗り物としていた時代に、狭軌
 道を採用したのはやむを得なかった。
  むしろ、狭軌道を批判するほど経済が発展したことを
 喜ぶべきであると強弁しているが・・、
  一方で、3000マイルの路線を、一昼夜のうちに、広軌
 に改造したというアメリカの事例をひきながら、日本で
 も、「広軌改造」を実行すべきであるとした。
  1909年5月の、それから3年後、井上は・・、
  「只慙愧(ざんき)に堪へない事が一つある、夫れは、
 我国に鉄道が出来てから四十年になる、其時、なぜ、ゲ
 ージを四呎八吋の広軌にして置かなかつたのか、
  日清戦役には、彼の様に勝ち、日露戦役にも彼の様に
 勝ち、露国を満洲より追ひ払ふやうな進歩を我国に予期
 して居たならば、マサカ、狭軌にしては置かなかつたに
 と、余は、全く先見の明がなかつたのを頗る(すこぶる、
 大いに)愧(は)ぢて居る次第だ」と、鉄道創業期に、
 狭軌鉄道を採用したことを心から悔いた。
  (2013年、釧路公立大学で講演された老川慶喜氏の論
 文を参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:今、オーストラリアの農場が、中国人にどんどん買われ、
    逆に、そこで働く労働者が、オーストラリア人になっているという。
    日本の北海道も中国化しているという・・、
.
815年、嵯峨天皇が、近江へ行幸された時、梵釈寺(ぼんし
 ゃくじ)の僧・永忠(えいちゅう)より茶を献じられた。
  後に、嵯峨天皇は、茶の栽培を命じられた。
  信楽焼で有名な滋賀県甲賀市信楽町は、その様な地。
  俳人・小林一茶は・・、
  「しがらきや 大僧正も 茶摘み唄」と詠んでいる。
.
16世紀、スペインについて、本は次の様に記述する・・、
  「16世紀まで、西欧諸国に大きな支配力をふるったこ
 の国は、いま国民総生産(GDP)は低くても、国土の
 いたる所に珠玉の様な文化遺産を残している」・・と・・
  しかし、この文化遺産と言ったって、南米・中米・北
 米の先住民の方々、インディオの方々から奪った金で作
 ったもの・・
  インディオの方々は、今、そのほとんどが絶滅させら
 れている。
  わずかに残った種族の方々が、存在はしては居るが・・、
  このスペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者たち
 が、人類史上で最悪の事を、長年に渡ってしでかし、全
 滅させた。
  キリスト教の考え方・教義から「この卑劣な行動とな
 った」。
  わずかに生き残ったインディオの方々は、この殺戮者
 から逃げることが習慣となっていて、今でも山の中を走
 り回っている・・留まることを村のタブーとしている・・
 この可哀想な習慣・性(さが)となっている・・
  山の中で走る行動が・・悲しい習性となって続けられ
 ている・・
  また、別の地域のある村では、男性が総べて殺されて、
 このスペインのキリスト教徒とキリスト教聖職者たちの
 強姦によって・・その村人のすべてが混血の人となって
 しまった・・
  この様な悪行の状況の結果が、今のスペインにある。
  キリスト教に偏向するNHKは、日本を貶める放送だ
 けをしていて・・この様な放送はしないというNHKと
 なっている。
.
1758年、今も、中国の地で苦しむウィグルの方々・・
  ジュンガルは、17世紀に有力になったモンゴル人の部
 族の方々の事で・・オイラト系である。
  族長ガルダンはチベットのダライ=ラマと結び、内モ
 ンゴルのハルハ地方に進出した。
  康煕帝は、内モンゴルに2度出兵してガルダンを攻め、
 ガルダンを自殺させた。
  ジュンガルは、なおもチベットに入り、抵抗を続けた
 ので、康煕帝は、皇子をチベットに派遣しジュンガルの
 勢力を排除し、チベットを支配下においた。
  ジュンガルは、その後も、タリム盆地を拠点に清朝へ
 の抵抗を続けたが、雍正帝に続いて、乾隆帝時代にも激
 しい清側の攻勢を受け、1758年に滅亡した。
  その支配領域は、清朝の藩部の一つ、「新疆(新疆ウ
 イグル自治区)」となった。
  (参考)オイラト:モンゴル民族の中の有力部族で、
     チンギス=ハン一族と婚姻関係を持ち、モンゴ
     ル帝国解体後も、モンゴル高原西部を中心に活
     動していた。
      15世紀に強大化し、一時、その族長エセンが、
     全モンゴルを統一し、エセン=ハンを称した。
      エセンは、明に侵攻し、1449年には、土木堡
     (現在の河北省張家口市)で明の皇帝正統帝(
     英宗)を捕虜としている(土木の変)。
      その後、モンゴル高原東部のモンゴル人、い
     わゆる韃靼(タタール)のダヤン、ついでアル
     タンに討たれ、衰えた。
      17世紀に、再び、中央アジアに勢いを盛り返
     し、ジュンガルとして知られるが、1757年、清
     に討たれ滅亡した。
  そして、中国の資源は、『人』。
  チベットやウィグル自治区へ、この地域へ、中国の人
 (漢民族)を、多量に、多数を、送り込んでいる。
  チベットの方々が多く住む地や、ウィグルの方々が多
 く住むから自治区とされたこの地は、今や、一番多く住
 んで居るのは『漢民族となってしまった』。
  民族の多さで自治区となっていたその国は、今、おぼ
 ろげに・・人為的になされている。
  だから・・東京なんて・・1300万人が住んでいるなん
 て、中国の人口を考えれば『笑い話』・・少数の小民族
 なのだ。
  日本の10倍以上の中国の『人口大国』が・・やろうと
 思えば、日本人なんて少数民族となってしまう・・明日
 のチベットや、ウィグルや、モンゴルの如く・・そして、
 消された満州族の如くになる・・
  今、チベットやウィグルや内モンゴクルが「消されつ
 つあることを思え!」。
  満州人が多いので、日本が、かつて、建国を助けてあ
 げた満州国は、中国は、その後、一生懸命、漢民族を送
 り込んだ・・そして、今、満州国は消滅している・・
  そして、今、その満州人はどこに行ってしまったのか?・・
 殺されたのか?・・その満州人は居ないという・・
  満州国は、今は、完全に過去の話、おとぎ話の様にな
 っている・・
  沖縄なども、中国には、中国のものだという声もある
 というが、何でも言う中国なのだが・・??
  NHKが、中国に媚(こび)を売っているのが、なん
 とも気持ちが悪い・・??
.
1854年2月、アメリカのペリーが神奈川に上陸した。
  そして、約500名の兵士も上陸した。
  ペリーの『日本遠征記』には、下記の記述がある・・
  「(日本人には)読み書きが普及しており、見聞を得
 ることに熱心である。
  ・・彼らは自国についてばかりか、他国の地理や物質
 的進歩、当代の歴史についてもなにがしかの知識を持っ
 ており、我々も多くの質問を受けた」
  「日本人が、ひとたび文明世界の過去・現在の技術を
 有したならば、機械工業の成功を目指す強力なライバル
 となるであろう」
  「日本人は一生懸命に働くが、時々の祭日をもって埋
 め合わせをし、また、夕方や暇なときには勝負事や娯楽
 に興じる」
  「若い娘は姿よく、美しく、立ち居振る舞いは大変に
 活発で自発的である。
  それは、彼女たちが比較的高い尊敬を受けているため
 に生じる、品位の自覚から来るものである」
.
1856年8月21日、日米和親条約に基づき、この日、下田に
 着任したアメリカ総領事ハリスは・・、
  日本とあめりかが、貿易を開始するために、新たに
 通商条約を結びたいと要求した。
  幕府は、朝廷の許可を得てから条約を結ぼうとした。
  政治の権限を、朝廷から与えられていた幕府が、この
 様な手順を踏んで、「朝廷の許可を得ることをするのは
 前例のない事だった」。
  アメリカを撃退する「攘夷をするか?」・・「通商条
 約を結んで開国するか?」・・
  この問題は、国論を二分する大問題となった。
  京都の朝廷は、にわかに国政の中心舞台となった。
.
1863年6月25日、下関戦争
  孝明天皇の強い要望により、将軍・徳川家茂は、文久
 3年5月10日(1863年6月25日)をもって攘夷実行を約束し
 た。
  長州藩は、馬関海峡(現:関門海峡)を通過する外国
 船への砲撃を実施した。
  しかし、逆に、米仏の報復に逢い惨敗した。
  高杉晋作は、下関の防衛を任せられ、この6月に、廻船
 問屋の白石正一郎邸において、身分に因らない志願兵に
 よる奇兵隊を結成した。
  そして、阿弥陀寺(赤間神宮の隣)を本拠とした。
  しかし、1863年9月に、教法寺事件(8月16日、奇兵隊
 と他の隊とのトラブル)の責任を問われ総監を罷免され
 た。
  京都では、薩摩藩と会津藩が結託したクーデターであ
 る八月十八日の政変(1863年9月30日)で長州藩は追放さ
 れた。
  1864年1月、晋作は、脱藩して京都へ潜伏した。
  桂小五郎の説得で、2月には、帰郷するが、脱藩の罪で
 野山獄に投獄され、
  1864年6月に、出所して謹慎処分となる。
  1864年8月20日、長州藩は、「禁門の変」で敗北して朝
 敵となった。久坂玄瑞は自害した。
  8月に、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4
 カ国連合艦隊が下関を砲撃、砲台が占拠された。
  この事によって、晋作は、赦免されて和議交渉を任さ
 れた。
  24歳の晋作は、交渉の席で(通訳を務めた伊藤博文の
 後年の回想では)講和会議で、連合国は数多の条件とと
 もに「彦島の租借」を要求してきた。
  晋作は、ほぼ全ての提示条件を受け入れたが、この「
 領土の租借」についてのみ「頑として受け入れようとは
 しなかった」。
  結局、取り下げさせることに成功した。
  (古事記を暗誦して有耶無耶にしたと言われる)
  これは、清国の見聞を知っていた晋作が、「領土の期
 限付租借」の意味するところは、「日本の植民地化であ
 る」と深く見抜いていたからだった。
  もし、この要求を受け入れていれば、日本の歴史は大
 きく変わっていたと伊藤は自伝で記した。
  幕府による第一次長州征伐が迫る中、長州藩は、幕府
 への恭順は止むなしとする保守派が台頭した。
  1864年10月、晋作は福岡へ逃れ、平尾山荘に匿われた。
  しかし、晋作と同じ派の家老の処刑を聞いて、再び、
 下関へ帰還した。
  1864年12月15日夜半、伊藤俊輔(博文)率いる力士隊、
 石川小五郎率いる遊撃隊ら長州藩諸隊を率いて功山寺で
 挙兵した。
  後になって、奇兵隊ら諸隊も加わった。
  そして、元治2年(1865年)3月、晋作は、俗論派の首
 魁・椋梨藤太らを排斥して藩の実権を握った。
  そして、この月、晋作は、海外渡航を試みたいと長崎
 でイギリス商人グラバーと接触するが、反対された。
  1865年4月、晋作は、下関開港を推し進めたことにより、
 攘夷・俗論両派に命を狙われた。
  そこで、愛妾・おうの(後の梅処尼)とともに四国へ
 逃れ、日柳燕石を頼った。
  1865年6月、桂小五郎の斡旋により帰郷。
  元治2年(1865年)1月11日付で、晋作は、高杉家を廃
 嫡されて「育(はぐくみ)」扱いとされ、
  1865年年9月29日、藩命により谷潜蔵と改名する。
  慶応3年(1867年)3月29日、新地100石が与えられ、谷
 家を創設して初代当主となる。
  (明治20年、晋作の遺児・谷梅之進が高杉東一と改名
 し現在に至る)。
  高杉本家は義兄の春棋が継いだ。
  再度の長州征討に備え晋作は、防衛態勢の強化を進め
 た。
  慶応2年(1866年)1月21日(一説には1月22日)、彼が
 桂小五郎・井上聞多・伊藤俊輔たちと共に進めていた薩
 長盟約が、土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎・土方久元の
 仲介によって京都薩摩藩邸で結ばれた。
  1866年5月、伊藤俊輔と共に薩摩行きを命じられ、その
 途次、長崎で、蒸気船「丙寅丸」(オテントサマ丸)を
 購入した。
  慶応2年(1866年)6月7日、第二次長州征伐(四境戦争)
 では、晋作は、海軍総督として「丙寅丸」に乗船し、戦
 闘指揮を執った。
  周防大島沖で、幕府艦隊を夜襲してこれを退け、林半
 七が率いる第二奇兵隊等と連絡して周防大島を奪還した。
  小倉方面では、艦砲射撃の援護のもと奇兵隊・報国隊
 を門司・田ノ浦に上陸させて幕府軍を敗走させた。
  その後、小倉城近くまで進撃したものの肥後藩・細川
 家の軍勢に撃退され戦況は停滞した。
  しかし、7月20日、将軍・徳川家茂が死去すると、7月
 30日に、肥後藩・久留米藩・柳川藩・唐津藩・中津藩が
 撤兵した。
  幕府軍総督・小笠原長行も、海路で小倉から離脱した。
  残された小倉藩が、8月1日、小倉城に火を放ち逃走し
 た・・このため幕府軍の敗北が決定的となった。
  幕府の権威は大きく失墜した。
  これは、翌年の慶応3年(1867年)11月の大政奉還へと
 つながった。
  その後、晋作は、肺結核を桜山で療養するが、慶応3年
 4月14日(1867年5月17日)に死去した。享年29(満27歳)
 だった。
  臨終には、父・母・妻と息子がかけつけ、野村望東尼・
 山県狂介・田中顕助が立ち会ったという。
  奇兵隊は、長州藩の正規兵とは別に創設された軍隊で、
 長州藩の正規兵は、武士で構成されていたが、武士階級
 は全体の1割に過ぎず、この武士だけでは戦えないと判断
 した高杉晋作が、農民であれ商人であれ志があれば入隊
 を認めるという規則を設けて創設した。
  身分制度にうるさい当時の封建社会では画期的な軍隊
 だった。
  全体の構成は、武士が半分、農民四割、商人その他一
 割だった。
  この奇兵隊に習い、身分を問わない軍隊が、次々に長
 州で創設された。
  それらを総称して「諸隊」と呼ばれた。
  諸隊は、最も多い時期で400隊を数え、一大兵力として
 長州を支えた。
  奇兵隊は、1864年の禁門の変以降、四カ国聯合艦隊と
 の対決、第二次長州征伐(四境戦争)、戊辰戦争と主要
 な戰場で活躍し、その存在感を増した。
  地元の下関では・・次のような声もある・・
  「奇兵隊などというのは、どこにも行き場のない、荒
 れくれ者の集まりだった。
  仕方がないから、奇兵隊にでも入るか、という感じじ
 ゃった。
  やれ、あの家の鼻つまみ者が奇兵隊に入ったとか、町
 の者は噂した」との声もある・・また・・
  奇兵隊隊士・金子文輔の日記には、隊士数人で、俵山
 温泉(現:長門市)に湯治に行ったら・・、
  「余輩入浴すれば他の浴客皆去る」(文久三年九月四
 日の条)・・とある。
  奇兵隊は、身分を問わず入隊できた。
  そして、入隊希望者は、諸隊に入れば武士として取り
 立ててもらえるという噂があった。
  しかし、実際、赤根武人が、士気高揚のために藩へ願
 い出たが、「却下された」。
  入隊は、原則的に「志ある希望者」となっていたが、
 実際は・・「半ば強制的に入隊させていた」こともあっ
 たという。
  農民の記録では、「命(めい)により入隊」させられ
 た者も多く・・、
  「自分たちこそが明治維新の原動力」という自負があ
 りながら、充分な論功行賞も行われないまま「使い捨て」
 となった。
  家に戻っても、次男・三男は、養子にも行けず、
  耕す田畑もなく・・嫁も貰えない。
  冷や飯を食わされるだけの余生という状況は、彼らに
 とって受け入れられなかった。
  このこともあって、高杉晋作が、萩で評価されたのは
 ずっと後の時代になってからだった。
  しかし、やはり・・日本の気概(きがい、困難にも屈
 しない強い意気。気骨)を見せ、イギリスに、その様な
 日本人の姿を見せ、植民地化を封じた晋作は、「これだ
 けでも、大きな仕事をした偉人だった」。
.
1867年11月15日、坂本龍馬、暗殺される。
.
1868年4月6日、五箇条の御誓文
  明治天皇陛下が、新しい国づくりの大方針を明らかに
 し、明治政府の基本方針を示された。
  一、広ク会議ヲ興シ、万機公論二決スへシ
  (会議を開いて、広くみんなの意見を出し合い、すべ
   ての政治は世論に従って決めるべきである)
  一、上下心ヲ一ニシテ、盛二経綸ヲ行フヘシ
  (身分の違いをこえて、みんなの気持ちを一つにし、
   国を治める施策をしっかり進めるべきである)
  一、官武一途庶民二至ル迄、各其志ヲ遂ゲ、人心ヲシ
   テ倦マサラシメンコトヲ要ス
  (公家と武家が一体となり、一般の庶民でもその望み
   がかなうようにし、人々の気持ちが飽きて嫌になる
   様なことがないようにする必要がある)
  一、旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道に基クヘシ
  (古くからの悪い習慣をやめて、世界に通用する正し
   い道理に従うべきである)
  一、智識ヲ世界二求メ、大二皇基ヲ振起スヘシ
  (智識を広く世界に求めて、大いに天皇陛下が国を治
   める事業の基礎をふるいおこすべきである)
.
1868年(明治元年)、政府は、農民が、田畑に何を作付け
 するかは自由であるとし、田畑の売買も認めるとした。
  さらに、政府は、全国の地価(土地の金価格)を定め、
 土地所有者を確定して、『地券』を公布した。
  地券には、所有者・面積・地価・地租(税金)などが
 記されていて・・
  この地券を元に、1873年、政府は、地租改正に着手し
 た。
  地価の3%にあたる地租を、貨幣で納める制度に改めた。
  これにより、政府の歳入は安定した。
  土地所有者に、納税の義務を課し、財政基盤は固めら
 れた(江戸時代は米を物納した)
.
1871年8月29日、廃藩置県
  日本の2回目の無血革命。
  大久保利通らの新政府の指導者たちは、全国の藩を一
 挙に廃止した。
  薩摩・長州・土佐の各藩から集められた天皇陛下直属
 の約1万の御親兵を背景に・・、
  1871年7月、東京に滞在していた元藩主たちを皇居(元
 の江戸城)に集め、天皇陛下の名において廃藩置県の布
 告を言い渡した。
  廃藩置県は、分権的な制度である藩を廃止して、中央
 集権制の下での地方組織である県を置くことで、藩に残
 されていた「軍事と徴税の権限」をも新政府のものとし
 た。
  これによって、農民から集められた年貢は、藩ではな
 く、新政府の管理下に入ることになった。
  武士は失業したが、武士の禄は、その後しばらく、新
 政府が肩代わりして給付した。
  新政府は、反乱を恐れていたが、大きな混乱はなかっ
 た。
  新たに置かれた県には、新政府から派遣された県令(
 県知事)が治めることになり・・、
  日本は、統一された中央集権国家となり、中央政府の
 権力が高まった。
  1871年7月、全国に、3府(東京府、京都府、大阪府)
 302件が置かれ、半年後には3府72県となり・・、
  1888年に、ほぼ現在の区分となった。
.
1872年、学制が発布された。
  「必ス邑二不学ノ戸ナク家二不学ノ人ナカラシメン事
 ヲ期ス
  (カナラズムラニフガクノコナクイエニフガクノヒト
 ナカラシメンコトヲキス)
  「学事奨励二関スル仰セ出サレ書(ガクジショウレイ
 ニカンスルオオセイダサレショ)」より・・
.
1873年、徴兵制が公布された。
  20歳に達した男子は、士族・平民の区別なく、すべて
 兵役に服することになった。
  今、日本も、体験入隊者には「特別な栄誉を与える制
 度」を設けるべきだ。
  今、中国からの人が自衛隊に多く入隊しているという。
  この逆が・・果たして「あるのだろうか」??
.
1941年12月1日頃、日本が、ハワイの真珠湾を攻撃する1週
 間から10日ぐらい前のこの頃、ハワイの新聞に、「日本
 が攻めて来る」という記事が掲載された。
  それも、大々的に大きな字による報道だった。
  また、ルーズベルト大統領の言葉に、「私は戦争を作
 った」という言葉がある。
  また、この新たな事実・・ハワイの新聞報道による事
 実がある様に・・、
  アメリカは「奇襲だ」「奇襲だ」と言うが、これは完
 全な嘘という事が、歴史が、また、明らかにした。
.
1961年、アメリカは、ベトナムで卑劣な「枯葉剤を撒く」
 ・・「汚い・卑怯な手」を使った。
  この枯葉剤を撒くことを、何と、1975年までの15年間
 も続けた。
  この事によって、多くの死産が起き、また、奇形児が
 生まれた。
  戦争が終わった後でも、長くベトナムの方々を苦しめ・・
 影響の大きい悪の行為、卑劣な行為をアメリカは行った。
  これは、ベトナム戦争で、敵のベトコンの秘密ルート
 を見つけるためで・・、
  密林の樹木の葉が茂る事で、ベトコンの動きが見つけ
 られないために、この樹木の葉を枯らす「魔の薬剤」を、
 盛んに、アメリカは撒き続けた。
  この場所は、日中戦争の時に、日本の敵の中国・蒋介
 石軍へアメリカが、武器弾薬を与え、そして、支援した
 「援蒋ルート」の一つだった。
  (援蒋ルートは何本もあった)
  アメリカは、また、ベトコンの敵が、ベトナム住民の
 人々の家へ隠れるため、ベトナム住民の方々の家を焼い
 た。
  その住民の方々と共に、「ベトコンの敵を殺戮するの
 だ」として、住民の方も、もろとも、焼いた。
  村全体を「一気に焼いてしまう事」も行なった荒っぽ
 い卑劣なアメリカだった。
  女性も子供もお構いなく、この様な攻撃をするアメリ
 カだった。
  延々と長い期間に渡って、この攻撃は行われ続けた。
  ナパーム弾という燃焼性の高い薬剤を使った爆弾を投
 下して、無差別に、すべてを焼き殺した。
  大変多くの、言葉では言い尽くされないほど多くの方々
 が、ベトナムの方々が、一般住民の方々が・・焼き殺さ
 れた。
  日本軍は、いつの時でもしっかり軍服を身に着けて戦
 い、戦わない方々へ危害が及ばない様にしたが・・南京
 攻略戦の時も、中国軍はこの様な卑劣な事をした・・軍
 服を脱いで一般住民の中に隠れた。
  日本は、この住民の中に隠れた中国兵と戦ったが、一
 般住民の方々へ向かって爆弾などは、当然、投下する様
 な卑劣な事はしなかった。
  このベトナムのような、アメリカ軍の様な、卑劣な戦
 い方はしなかった。
  まったく、ベトナムでの、アメリカ軍の戦い方は、卑
 劣で荒っぽかった。
  非人道的な・・忌(い)むべき、蔑(さげす)むべき
 戦い方のアメリカだった。
  一般住民の方々が、何人、無為に殺されたというのか・・
  この事こそ、東京裁判ではないが、「ベトナム裁判を
 開催して、アメリカを糾弾すべきである」。
.
1962年9月30日、こんなに近代になっても、アメリカは、ま
 だ、あちこちで人種差別をしていた。
  人種差別国=アメリカは、黒人の方々を差別し、事件
 も多発していた。
  この日、ミシシッピ州のオックスフォードにあるミシ
 シッピ大学で、かつて、朝鮮戦争で戦功をあげた戦士の
 黒人の方ジェームズ・H・メレディス氏の入学を巡って、
 卑劣な人種差別の妨害行為が発生した。
  あまりにも卑劣なので詳細は記さないが、死者が2人出
 て、
  また、多くの方々が重軽傷を負った。
  非常に大規模な抵抗・騒ぎだった(アメリカ白人たち
 は人種暴動を言った)
  大統領は、ジョン・F・ケネディだった。
  内戦のような状況だった。
  南北戦争を思わせる人種抑圧社会のアメリカだった。
  この中心に卑劣な「根っからの白人優越主義者」の知
 事ロス・R・バーネットが居た。
  結論を先に言えば「この黒人学生・メレディス氏は、
 入学を勝ち取った」。
  成績優秀で、翌年の1963年8月に、このミシシッピ大学
 を見事に卒業した。
  メレディス氏は、この後、公民権運動の熱心な活動家
 になった。
  まだまだ、人種差別国=アメリカは、公民権運動をし
 なければならないという状況の人種差別国の状態を続け
 る。
  アメリカ各地に、黒人の方々を奴隷として虐げ、そし
 て、その後も、延々と続く人種差別の虐げ行為、アメリ
 カ各地に懺悔の銅像を立てよ。
  これから、まだまだ、公民権運動が展開されねばなら
 なかった。
.
1974年1月15日、西沙諸島(パラセル諸島)の戦い(~1974
 年1月20日)
  西沙諸島(パラセル諸島)の領有権を巡って、中国(
 中華人民共和国)とベトナム共和国(以下、南ベトナム)
 が武力衝突し、交戦した。
  海戦によって、中国艦隊が、南ベトナム軍艦1隻を撃沈
 した。
  そして、南ベトナムが支配していた島嶼(とうしょ、
 島。島々)に部隊を上陸させて・・占領した。
  中国政府は、この戦いで、島々を占領した後、中国人
 を移住させて住まわせたり、中国人民解放軍を駐屯させ
 たりして、支配を強化した。
  この南シナ海にある既存の島での建設や、埋め立てに
 よる人工島の建設は、主に、ベトナムとフィリピンが何
 十年も行って来ていた。
  ベトナムは21島、フィリピンは8島の領有権を主張して
 いる。
  台湾とフィリピンは、領有権を主張する島の一部に軍
 を駐留させているが、ベトナムはUNCLOSの規則に
 従って島には軍を置いていない。
  (参考)UNCLOS:通称・略称は国連海洋法条約
     で、17部320条の本文などで構成されている。
  中国は、南シナ海での建設に出遅れたが、これまでに
 ない規模で、今、建設を進めている。
  過去1年半の間で、中国は、これまでのどの国よりも
 多くの建設を行った。
  また、中国は、他の国が行ってない事をしている・・
 それは、兵器を配備する事をしている。
  アメリカは、東南アジア諸国による建設行為には反応
 を示さなかったが、中国の動きに対しては、積極的に反
 対姿勢をとっている。
  南シナ海で、アメリカ海軍は、第二次世界大戦以降、
 継続的に活動している。
  カーター国防長官は、今後も活動を続ける確固たる意
 志があると表明している。
  アメリカは、南シナ海は公海であり、同海域での領有
 権は、「海洋法に関する国際連合条約(UNCLOS)」
 によって決められるべきだとしている。
  この南シナ海問題で、中国は、大きな読み間違い・錯
 誤をしている。
  中国の姿勢の根底には「大国意識」がある。
  南シナ海問題で、「ベトナムとの問題が大きくなって
 も、簡単に解決できる」と思っていた。
  中国の大国が、ベトナムとの二国間交渉によって、大
 国の圧力を見せながら「解決できる」と見ていた。
  しかし、「そのように事が運ばない世界」となってい
 る。
  このベトナムに、インドなどが接近し、「ベトナムが、
 ロシアから潜水艦を買うと、訓練施設の提供をした」。
  潜水艦の要員の養成には、シュミレーターが必要だが、
 この様な施設での養成の協力を行なう事になった。
  (インドは、ロシアから、すでに、同型の潜水艦を購
 入している)
  インドのベトナムを助ける介入となり、日本もこのベ
 トナムやフィリピンの沿岸警備隊に巡視艇を供与した。
  また、ベトナムは、オーストラリアとの戦略対話とイ
 ンテリジェンスの共有を始め、有益情報が受けられるよ
 うになった。
  中国の思惑通りにいかなくなっている。
  中国の台頭は、周辺国の協力関係を強固にした。
  二国間で、大国の思惑で、解決できると考えても、そ
 の様な「大国のエゴが通る世界ではなくなっている」。
  しかし、南ベトナム軍は、この西沙諸島の戦いで、哨
 戒艇ヌータオが撃沈され、
  哨戒艦リ・トン・キェトも大破したほか、残る2隻も損
 傷し、人的損害も多数の死傷者が出たほか、49人が捕虜
 となり、うち1人はアメリカ人の軍事顧問だった。
  因みに、中国軍は、掃海艇「389号」が大破したほか、
 駆潜艇「274号」も損傷した。
  人的損害は、中国側によると戦死18人、負傷者67人で
 あった。
  中国海軍の勝因は、速力や武装、特に、近接戦に有利
 な速射砲の数において中国艦が優っていた。
  ベトナム艦は、船体こそ大型でも速力が遅くて武装も
 大口径砲が少数しかなく、より小型の中国艦に圧倒され
 た。
  また、戦術面でも、ベトナム側は、速力のばらつきが
 大きいためもあって、陣形を組んでおらず、しかも不利
 な接近戦を自ら挑むなどの問題があった。
  この戦いの結果、西沙諸島から南ベトナムの勢力は追
 い出され、完全に中国の実効支配下に置かれることとな
 った。
  中国軍は、永興島に4階建ての建物やヘリポートを整備
 し、戦車部隊やミサイル艇を駐留させるなど要塞化を進
 めた。
  今まで、ベトナム戦争終結後から、ベトナム統一を遂
 げたベトナム社会主義共和国(旧・北ベトナム)政府が、
 中国に対して西沙諸島の領有権を主張して、外交交渉を
 求めたが、中国政府は応じて来なかった。
  1988年には、中国は、2600m級の本格的な滑走路を有す
 る飛行場まで完成させ、南シナ海支配の戦略拠点として
 いる。
  1988年、中国軍は、ベトナム支配下にある南沙諸島(
 スプラトリー諸島)にも侵攻すると、ベトナム軍を撃破
 して、ここも勢力下においた(南沙諸島海戦)。
.
1991年11月26日、アメリカが、フィリピンのスービック軍
 港(スービック海軍基地)から撤退した。
  アメリカは、10年間の使用期限延長を望んだが、フィ
 リピン上院は拒絶し、1991年11月26日に、返還された
  遡(あかのぼ)ること19世紀、アメリカは、フィリピ
 ンを植民地にした。
  まったく卑劣な事をした。
  この事により、今、フィリピンの方々は、完全にアメ
 リカを嫌っている。
  フィリピンの方々は、1898年の米西戦争(アメリカと
 スペインの戦争)以来、アメリカが、スペインに代わっ
 ての卑劣な侵略以来、フィリピンの方々は、アメリカに
 怒りを感じていた。
  そして、20世紀の1991年11月26日、フィリピンの方々
 は、アメリカをスービック海軍基地から追い出した。
  アメリカ兵による、フィリピン女性への強姦などにも
 その心底に怒りがあった。
  第二次世界大戦の時にも、アメリカ兵が、フランスの
 パリへ入った時、パリの町の至る所で、あからさまにア
 メリカ兵は、パリの女性(パリジェンヌ)を犯し、強姦
 した。
  あまりにも目にあまる状況だったので、パリ市長が、
 アメリカ軍上層部へのクレームを申し入れるような酷(
 ひど)い状況だった。
  やはり、このフィリピンにおいても、同じ卑劣な行為
 をアメリカ軍兵士はした。
  この事にも、フィリピンの方々は怒りを感じていた。
  フィリピンの上院は、16対17の票決でフィリピンから
 のアメリカ軍の撤退を決定した。
  この時、フィリピンの方々は、喜び浮かれた。
  これほどアメリカ軍は、フィリピンの方々を抑圧して
 いた。
  アメリカは、どの国へ侵攻、進駐しても、その国の女
 性の方々を犠牲にしていた。
  何の改善も見られず、同じ破廉恥を続けていた・・ア
 メリカはこの事から逃げていた・・まったく無責任状態
 だった。
  日本は、第二次世界大戦後、「慰安所を作れ」と、ア
 メリカから言われ・・日本は言われた様に作ったが・・
 卑劣な事件は、後を断たなった。
  アメリカ兵が銃を持って病院を襲い、看護婦をはじめ、
 妊婦の方々まで犯した・・この様な事件が多発していた。
  また、通学中の小学生が襲われ犯されたり・・あまり
 の多さに、アメリカは、『その様な新聞報道はするな』
 と命じるくらい、報道規制をかけるくらい酷いアメリカ
 だった。
  サンフランシスコにこの銅像を立てよ!
  フィリピンの方々の喜びは、この様なアメリカ軍を追
 い出した喜びだった。
.
2017年、今、オーストラリアの農場が、中国人にどんどん
 買われ、逆に、そこで働く労働者が、オーストラリア人
 になっているという。
  日本の北海道も中国化しているという・・、
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
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(増補版)569E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年12月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)569E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年12月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年11月5日、東洋自由党に日本労働協会が設立される。
  東洋自由党は、この日に、大井憲太郎を中心とする自
 由民権運動の左派が組織した。
  これに先立って大井は、大阪事件の関係者ら急進勢力
 とともに、院外活動組織である東洋倶楽部を結成した。
  そして、自由党の反動化に抗していたが・・、
  1892年6月に、自由党を脱党して、小久保喜七、新井章
 吾らの大阪事件に連座した人々と新党を結成した。
  その政綱は、「皇室の尊栄」「民権の拡張」「国権の
 発揚」を説いたもので・・、
  対外強硬策を軸とした反政府活動に特徴があった。
  機関紙として『新東洋』を発行した。
  そして、さらに、政綱実現のための機関として普通選
 挙期成同盟会、日本労働協会、小作条例調査会をおいて、
 労働者や貧民の政治的経済的地位の向上を期した。
  第4議会と第5議会において、4人の代議士を出したが、
 その過激な政策のため、議会主義と相いれず、1年あまり
 の活動ののち、翌年・1893年12月に解散した。
  大井らは、その後、国民協会、熊本国権党などの国家
 主義政党とともに、大日本協会派として活動を続けた。
1892年11月8日、第27回アメリカ大統領選挙が行われた。
  第24代アメリカ大統領グロバー・クリーブランド(任
 期:1893年3月4日~1897年3月4日)が選出され、返り咲
 いた。
  この大統領の1期目は、旱魃(かんばつ、長い間雨が降
 らないで、田畑などが乾いてしまうこと)に苦しむテキ
 サスに、穀物種子を支給するための特別支出金を「認め
 なかった」。
  そして、インディアンの方々から不法に借り受けてい
 た牧草地の契約を「無効にした」。
  インディアンの方々の生活を苦しめ大統領だった。
  この頃、鉄道網の行き過ぎた拡大の問題があった。
  1893年から深刻な恐慌が始まった。
  ストライキが頻発した。
  この大統領は、ストライキを鎮圧するため、連邦正規
 軍を派遣して、抑圧した。
  また、ストライキ指導者を投獄するように要求した。
  労働者の不満の中に、やむなくストライキは収まった。
  この頃、アメリカは西部の開拓も終わり、次の目標で
 ある「海外の領土」に食指を伸ばす論議が活発だった。
  (他国の領土を侵略して行こうという侵略主義が花盛
 りのアメリカだった)
  この大統領は、キューバの砂糖算出を注目した。
  また、この地は、戦略的に重要な場所だとした。
  ハワイなども注目されていた。
  (アメリカの太平洋・大西洋の領土漁りの時代が始ま
 った)
  イギリスとギアナとベネズエラとの取り合いの紛争も
 始まっていた(1895年~1896年)
  この大統領は、1908年に死去し、国葬が行われた。
1892年11月29日、第4回帝國議會が開かれた(~1893年2月
 28日)(通常会)
1892年11月、(氷川清話)勝海舟が、日光に保晃会(ほこ
 うかい)の碑を建てた。
  保晃会は、二社一寺(二荒山神社、東照宮、輪王寺)
 の社寺長職を中心として、社寺修繕に協賛した会で・・、
 1879年(明治12年)に設立された。
  日光の社寺は、江戸時代には、幕府によって、定期的
 な修理が、日光の町に常駐した職人集団によって行われ
 ていた。
  それは、その時代時代の最高の技術水準でもって行わ
 れていたが・・
  明治となって・・幕府からの援助が絶たれ、また、
 1871年に政府によって発せられた神仏分離令が影響して、
 荒廃した。
  そこで、この会は、この二社一寺の修理修繕を行なう
 善行に乗り出した。
  初代会長には松平容保が就かれた。
  碑は、勝海舟が、石碑を石巻から特別な東北本線の汽
 車で運び、字も文も勝海舟が書いた。
  碑の大きさは、高さ約6m、幅3m、石の厚さ30cm、
  しかし、1897年(明治30年)に、日本政府は、「古社
 寺保存法」を制定し、文化財の保護に乗り出した。
  日光には、「日光社寺修繕事務所」が設置され、政府
 及び二荒山神社、東照宮、輪王寺によって組織された。
  そして、社寺の修理を担当した。
  専任の技師を置き、その指導・監督のもとに、破損の
 著しい建物から順次、根本的な修理が行われた。
  そして、1929年には「国宝保存法」が制定され、
  さらに、1950年には「文化財保護法」が制定され、
  「日光の社寺」の建造物は、それぞれ「国宝」ならび
 に「重要文化財」に指定された。
  1998年には、世界遺産に推薦された区域が「史跡」に
 指定された。
  現在、建造物の修理工事は、専門技術者のいる(財)
 日光社寺文化財保存会(旧日光社寺修繕事務所)が各所
 有者から工事を受託して行なっている。
  修理方法は、破損の程度によって、根本的な修理(解
 体修理・半解体修理)と維持的な修理(屋根葺替・部分
 修理・塗装修理)とに分けらる。
  修理の際、専門技術者が詳細な調査・設計・管理にあ
 たり、修理完了後は修理の記録を取りまとめた修理工事
 報告書を作成している(長く技術が保存される)
  建造物彩色技術は、「文化財保護法」で定められてい
 る「選定保存技術」として(財)日光社寺文化財保存会
 が技術保持団体として認定されている。
  また、修理技術者の実務研修も実施されていて技術の
 向上を図っている。
  1999年に、世界遺産に「日光の社寺」という登録名で
 登録された。
  登録範囲:日光東照宮
       日光二荒山神社(別宮・本宮を含む)
       日光山輪王寺(大猷院霊廟も含む)
  登録対象物:国宝9棟、重要文化財94棟、合計:103棟
       および「日光山の景観」
  登録理由:人間の創造的才能を表現する傑作
       人類の歴史上重要な時代を例証する建築様
      式、建築物群、技術の集積または景観の優れ
      た例。
       顕著で普遍的な意義を有する出来事、現存
      する伝統、思想、信仰または芸術的、文学的
      作品と直接にまたは明白に関連するもの。
      (以上の登録基準をクリアした)
1892年12月1日 正岡子規(25歳)が、新聞「日本」に入社
 した。
  1880年(13歳)旧制松山中学(現・松山東高)に入学
   した。
  1883年(16歳)同校を中退して上京。
   受験勉強のために共立学校(現・開成高)に入学。
  1884年(17歳)旧藩主家(松山藩)の給費生となり、
   東大予備門(のち一高、現・東大教養学部)に入学
   した・・そして、常盤会寄宿舎に入った。
  1890年(23歳)帝国大学哲学科に進学した。
   しかし、文学に興味を持つ。
  1891年(24歳)国文科に転科した。
   この頃から「子規」と号して句作を行った。
  松山中、共立学校で同級だった秋山真之(あきやまさ
 ねゆき、海軍軍人、日露戦争時に東郷司令長官の下で作
 戦担当参謀)と、松山在住時からの友人であり、
  また、共通の友人として勝田主計(しょうだかずえ、
 大蔵官僚、政治家、大蔵大臣、文部大臣)がいる。
  東大予備門では、夏目漱石・南方熊楠・山田美妙らと
 同窓だった。
  大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で・・
  1892年(25歳)新聞『日本』の記者となり、家族を呼
   び寄せ、そこを文芸活動の拠点とした。
  1893年(26歳)「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくは
   いわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始した。
  1894年(27歳)夏、日清戦争が勃発する。
  1895年4月(28歳)近衛師団つきの従軍記者として遼東
   半島に渡った。
   上陸した2日後に、下関条約が調印されたため、
  1895年5月(28歳)第2軍兵站部軍医部長の森林太郎(
   鴎外)等に挨拶をして、帰国の途についた。
    その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。
  1895年7月(28歳)須磨保養院で療養したのち、松山に
    帰郷。
  喀血した(血を吐いた)ことから、「鳴いて血を吐く」
 と言われているホトトギスと自分を重ね合わせ、ホトト
 ギスの漢字表記の「子規」を自分の俳号とした。
  1897年(30歳)俳句雑誌『ホトトギス』(ほとゝぎす)
   を創刊し、俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句
   の世界に大きく貢献した。
   漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。
  1900年8月(33歳)大量の喀血
  1902年9月(35歳)死去。満34歳。
   東京都北区田端の大龍寺に眠る。
  辞世の句:糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
       痰一斗糸瓜の水も間にあはず
       をとゝひのへちまの水も取らざりき
.
  (今日の言葉)
.
  題:ロシアは、膨大な武力を誇示して、この地を奪った。
    武力のない状況の中で、領土を奪われ続けた日本があった。
.
1552年1月29日、日本に来たザビエルは、宣教師の派遣先に
 「どうか、もっと優れた人を日本に派遣してください」
 と手紙を書いている。
  そして、「どうか適当でない人物は、派遣しないでほ
 しい」とクレームを言っている。
  キリスト教宣教師のレベルが低かったことを愚痴ると
 ともに、キリスト教宣教師を超越する、日本のレベルの
 高さがあり、このザビエルの言葉となった。
  ザビエルは、1549年に日本に来ているから、日本に来
 て3年間を経て、つくづく、このことを感じたのだろう。
  また、ザビエルは、日本人を、「これは、今までに発
 見された中で最も優れた国民です」と言っている。
  また、「日本人に勝る国民は見当たらないのだろうと
 思います」とも言っている。
.
1564年、家康が、この年に、『徳川』に改姓した。
  キリスト教のシャロームは、平和を意味するというが?
 このキリスト教の言うヘブライ語のシャロームには、「
 戦って異教徒が居なくなった地の平和」の意味していた。
  キリスト教は、戦争を否定する宗教ではなく・・、
  キリスト教の基本的考え方に、「(キリスト教の)神
 の義によれば、人を誅しても良い」がある。
  キリスト教は、一事が万事、この考え方であるから、
 民族が飢えに窮した時、「(キリスト教の)神の義があ
 るから」と、隣国の富を奪いに行った(この様な戦いの
 多くの記述が聖書にはある)
  その行為を許すキリスト教という宗教だった。
  朱子学では、主君を説く・・、
  その主君に、二種類の主君があると説く・・、
  その一つが「王者」であり、もう一つが「覇者」であ
 ると・・、
  そして、絶対的な忠誠を尽くすべき相手は、覇者では
 なく「王者だ」と説く。
  それは、「覇者」は、力で相手を倒して天下を取った
 者の事だが・・、
  「王者」は、「徳」で天下を治める人を意味する。
  家康は、この事を知っていた・・それで、元々の姓で
 あった「松平」を「徳川」に改めた。
  また、家康の改姓の意見として以下の説明もある・・
  改姓には2つの理由あり・・、
  1つが、1564年(永禄7年)、家康は、三河の国を事実
 上、支配下に置いた事で、朝廷に三河の領主である事を
 認めてもらい、それに相応しい官位を求めた。
  しかし、松平家は土豪であり、官位は名門しか貰う事
 が出来なかった。
  そのため、松平姓のままでは官位を得る事は難しく、
 近衛前久に間に入ってもらって、神祇官の吉田兼右に、
 家康の希望に沿う姓を探してもらった。
  その結果、「徳川」という姓が、家康の希望に適うも
 のとなり・・
  改姓の勅許を得て、同時に、従五位下・三河守に叙任
 された。
  三河守は、かつて、三河を領有していた今川義元と同
 じ官職であり、これによって、名実共に三河の領主であ
 ることが示された。
  2つ目が、徳川に改姓する事で、松平姓との家格の違
 いを表した。
  家康が、徳川に改姓した当時の松平氏は、14~16家に
 分かれていた。
  そして、一門衆的な同盟関係で結ばれていた。
  家康が、徳川に改姓する事で、他の松平一族との家格
 の違いを示した。
  そして、松平一族との関係をそれまでの同盟関係から
 徳川と松平との主従関係へと変えようとした。
  元康から家康への改名については・・、
  家康は、8歳から12年間を今川家の人質として駿府で過
 ごした。
  元康の「元」は、今川義元から一字拝領したもので、
 それは、松平家が今川家の支配下にある事を示していた。
  1560年(永禄3年)、今川義元が桶狭間で織田信長に討
 たれた時、家康は、義元の子・氏真に「義元の弔い合戦
 をするように」と進言したが、氏真は動かなかった。
  氏真が、いっこうに動かないので、家康は家臣からの
 進言もあって、今川家と断交した。
  そして、織田信長と和睦し、同盟を結ぶ道を選んだ。
  そのため、家康の元康から家康への改名は、今川家と
 の決別を意味していた。
  尚、家康は「源義家」を尊敬していたので、「家」の
 字はその「義家」から採ったものという。
.
1590年6月23日、八王子城の戦い
  小田原城の落城の10日前、八王子城で激しい戦いがあ
 った。
  八王子市は、東京都内で最多の人口56万人を要するが、
  豊臣秀吉が、日本を制覇する直前、この八王子の地は、
 戦国大名の北条氏が治めていた。
  山梨方面からの敵に備えるため、北条氏照は、1582年
 頃、この地・八王子の深沢山(標高460m、因みに、この
 近くに有名な高尾山・標高600メートルがある)の中に城
 を築いた。
  安土城を模したと言われている。
  しかし、城の命運は短かった。
  1590年6月、築城されてから8年後、豊臣秀吉の家臣だ
 った前田利家や上杉景勝らの軍勢が、当時、超一級の軍
 勢が押し寄せた。
  これから始まる小田原城攻めの前哨戦として、攻めて
 の軍勢ははやっていた。
  八王子城は、わずか半日で落城した。
  小田原城の落城の10日前のこの戦いを知る人は少ない
 が、そして、戦いは半日と短いが、その戦いは激烈を極
 めた。
  豊臣側の犠牲も大きかった。
  事実上、この戦いで、日本の戦国時代の幕が降ろされ
 たと言える。
  後に、日本を手中に収めた徳川家康は、この地を重要
 視し、天領とし、軍事・交通の要衝とした。
  宿場町「八王子宿」として栄え、また、八王子は、「
 桑都(そうと、八王子の異称。養蚕業や絹織物の生産が
 盛んであったことから)」として栄えた。
  また、八王子織物として発展した。
  ピークは、1965年に迎え、発展は続いていた。
  ネクタイは、全国の6割~7割が、八王子産と言われた。
.
1808年、北方の地を探検していた間宮林蔵が、江戸幕府の
 命により、松田伝十郎に従って樺太を探索した。
  間宮林蔵は、樺太を探検し、その全貌を確認した。
  樺太が、島である事も確認した。
  この時以来、この地に日本人が居住した。
  当然、アングロサクソンなら、この地を我が領土・日
 本の領土と主張する・・その様にしていた。
  だから、この時、この地は同様に、我が日本の領土と
 なった。
  時が経て、後になって、ロシア人がこの地に来た。
  また、時が経て、ロシア人がドンドン来るようになっ
 た。
  先住して居た日本人は、江戸幕府へ、この樺太の地へ
 もっと日本人を送ってもらいたいと要請した。
  そのうち、ロシア人は主張した・・「ロシアは、樺太
 が、日本人とロシア人の『雑居の地』と認めて貰いたい」
 と言って来た。
  日本は、時の経過の中で、ロシアに、この様に言われ
 るようになってしまった。
  そして、「樺太が、ロシアの言う様に、日本人とロシ
 ア人の雑居地だと認めさせられた」。
  しかし、先住である日本人と、後から来たロシア人と
 の間で、度々、紛争が起きる様になった。
  このような時、イギリスは、日本とロシアが戦争をす
 れば、樺太はおろか北海道まで奪われるだろうと言って
 来た。
  この時、日本は時代が変わって、明治政府になってい
 た。
  ロシアは、膨大な武力を誇示して、この地を奪った。
  日本は、ロシアとの戦争・衝突を避けるために、1875
 年、ロシアと「樺太・千島交換条約」を結んだ。
  樺太をロシアに渡し、その代わり千島列島が日本の領
 土であるという事にしたのだった・・が・・
  領土なんて、こんな形で、簡単に奪われてしまうもの
 なのだ・・
  今、あなたが居る地も・・あなたの子供たちの時代に
 は、どこかの国のものになっているかもしれません。
  今、「国防」と「戦争」をごちゃ混ぜにして、「大切
 な国防の必要性」を否定する人が多い状態の現状がある。
.
1818年、フレデリック・ダグラスが生まれた(~1895年)
  黒人のフレデリック・ダグラスが、本当の「奴隷解放
 の父」である。
  アメリカのWASP(W:白人、AS:アングロサク
 ソン、P:キリスト教プロテスタント)たちが、嘘で作
 り上げた「リンカーンの奴隷解放の父」は偽物(にせも
 の)である。
  リンカーンは奴隷解放の父ではない、逆に、「有色人
 種への蔑視観を持った弾圧者」であった。
  特に、インディアンの方々への「虐殺命令」はその極
 みである。
.
1827年、最初の黒人新聞「フリータイムズ・ジャーナル」
 が、ニューヨークで創刊された。
.
1829年、デビッド・ウォーカーが、「アピール(訴え)」
 をボストンで公刊した。
.
1830年、全国黒人集会が、アメリカのフィラデルフィアで
 開催された(大規模な「黒人集会運動」の始まり)
.
1831年、アメリカのバージニア州で、ナット・ターナーら
 の奴隷たちの反抗行動が起きた。
  アメリカの白人たちは卑劣にも暴動と称した。
.
1831年、ウィリアム・L・ガリソンが、「リベレーター(
 解放者)」をボストンで発行した。
.
1832年、ニューイングランド奴隷制反対協会が設立された。
.
1833年、アメリカ奴隷制反対協会が設立された。
.
1840年、アメリカで奴隷制廃止を掲げる自由党が、黒人の
 方々の努力で結成された。
.
1840年、世界反奴隷制大会が、一番多く奴隷貿易をしたイ
 ギリスのロンドンで開催された。
.
1845年、アメリカが、傲慢な汚い手を使って、メキシコの
 地・テキサスを併合した。
.
1946年、メキシコ戦争(~1948年)
  アメリカが、汚い方法でメキシコの領土を奪って行く、
 戦争となった。
.
1862年、アメリカの首都・ワシントンで奴隷制度有償廃止。
  黒人の黒人奴隷制廃止主義者のダグラスらは、自由党
 に入党し、
  1844年、ジェイムズ・バーニーを大統領選挙に出馬さ
 せた。
  そして、その自由党の綱領には、すでに、「首都ワシ
 ントンの奴隷制廃止」の要求が掲げられていて、たとえ
 如何なるところでも奴隷制度は自然権に反すると表明し
 ていた(首都ワシントンでさえ、この様な状態)
  黒人の方々は、この約20年も前にすでに、この要求を
 掲げていた。
.
1863年、黒人の黒人奴隷解放運動家のフレデリック・ダグ
 ラスが、黒人奴隷の解放や黒人の立場の改善について、
 リンカーン大統領と協議した。
  しかし、南北戦争が終わってもアメリカ社会の改善は
 見られなかった。
  そして、黒人の方々は失望し、白人たちと平等になる
 という夢を捨て、アメリカのある地域で黒人の方々だけ
 で社会を作ろうという運動をして行った。
  ダグラスは『あきらめるな』と説いた。
  そして・・最近になって、ようやく、アメリカで黒人
 の方々の歴史に、日が当たって来た。
  今まで、黒人の方々の歴史は、白人アメリカ人たちに
 よって隠されて来ていた(このダグラスの活動なども・・)
  「アメリカの民主主義」とアメリカが言ったって、ア
 メリカ民主主義の「民」には、黒人の方々の『民』が抜
 け落ちているという軽蔑すべき状況にあった。
  不当なアメリカの地で、不滅の偉業を成し遂げている
 黒人の黒人奴隷解放運動家も、忘却の彼方へ消し去られ
 ようとしていた。
  アメリカは、黒人の方々を、白人と平等の立場に置く
 ことを頑(かたく)なに拒絶した。
  「不利な条件の下で黒人の方々が、どれほど偉大な事
 を成し遂げようとも、アメリカは、卑劣にもそれを抹殺
 した」。
  20世紀のダクラスと言うべきW・E・Bデュボイスは、
 「白人世界で黒人であることは、単に、個人としての侮
 辱や機会喪失だけを意味するものではない」と・・「偉
 大な功績までも抹殺される」と嘆いた。
  そして、ダグラスを発掘し研究したフィリップ・S・
 フォーナーは、「偉大なフレデリック・ダグラスの名前
 は、リンカーンの名前と並び置かれるべきだ」と言った。
  この事は世界記憶遺産に登録すべきだ。
.
1865年3月、アメリカの解放民局(難民、解放民および放棄
 地対策局)の『期限延長と権限拡大』を、黒人の方々は
 勝ち取った。
  黒人の方々の必死の闘いの勝利だった。
  しかし、この後、アメリカには、『奴隷解放の反動』
 の嵐が吹き荒れて、解放民局は活動を停止した。
  アメリカは、奴隷解放を行なう解放民局を停止させた。
.
1865年、アメリカ合衆国憲法の「憲法修正第13条(奴隷制
 度の廃止)」が制定され・・『卑劣な奴隷制度を決めて
 いたアメリカ合衆国憲法』が、やっと、修正された。
  しかし、まだ、黒人奴隷の方々が、奴隷という卑劣な
 身分から解放されるという訳ではなかった。
.
1865年、アメリカで、クー・クラックス・クラン(KKK)
 が、テネシー州で結成された。
  卑劣な事に、この黒人の方々を殺戮する白人集団は、
 全米に急速に拡大されて行った。
  何と、400万人が所属したという記録がある。
.
1866年、公民権法が成立。
.
1868年、憲法修正第14条(黒人の公民権付与)成立。
.
1869年、版籍奉還
  新政府の中心となっていた薩摩藩、長州藩、土佐藩、
 肥前藩の4藩は、藩主が願い出て、その藩の領土(版)と
 人民(籍)を天皇陛下に返還した。
  他の藩も相次いでこの行動を模範にして整然と従った。
  完全な無血革命であった。
.
1871年、日清修交条規
  第1条:日清両国は友好を深め、互いに領土を尊重し合
     う。
  第2条:もし他国からの不当な干渉があれば、両国は相
     互に援助し合う(一部要約)
.
1876年、小笠原諸島を日本の領土とした。
  各国の承認を得た。
  英国船が、英国旗を、すでに、立てる事をしていたが、
 アメリカが反対して日本の領土と確定した。
  日本は、すでに、江戸時代に幕府がこの地を調査し日
 本の領土としている(日本は、碑を建てている)
  日本人が居ないという状態で、無人島で、国旗を掲げ
 たら、「自分の領土だ」と主張できるとしたら・・その
 国の領土になるのだとしたら、世界中が紛争だらけにな
 る。
  アボリジニの方々が、既に、先住し生活をしているの
 に、英国に奪われたという例もある。
  はたして、この逆が成立するのか・・
  アボリジニの方々が、英国へ行って、アボリジニの旗
 を立てたら、イギリスはアボリジニの方々の国になるの
 か・・
.
1890年、カール・ベンツが、この年に、四輪自動車ビクト
 リアを完成させ、時速32キロメートルで走った。
.
1936年10月、スペインのトレドを奪いとったフランコ将軍
 らの反乱軍は、マドリードのスペインの首都を目の前に
 しながら、それから2年6ヶ月、マドリードに入ることが
 出来なかった。
  世界中から、スペイン人民戦線政府の危急を聞いて駆
 け付けた義勇兵による国際旅団が、このマドリード防衛
 のために戦い、フランコ軍の占領を防いだ。
.
1945年7月28日、B-25爆撃機がニューヨークのエンパイアス
 テートビルディングに衝突した、14名の死者。
.
1945年8月6日、午前8時15分、アメリカが広島に原爆を落と
 し、また、長崎に原爆を落したのは・・、それも非常に
 多くの人々が、その一発の原爆で死ぬと分かっているの
 に・・、
  自国の、アメリカの実験場で確かめているのに・・、
  その悲惨さを「まざまざと見て知っている」のに・・、
 広島に落とし、また、二日後に、その卑劣な兵器・原爆
 を長崎に落とす・・この様な最悪な卑劣な事をしたアメ
 リカ・・、
  日本は、すでに、滅茶苦茶にすべてが破壊されて・・、
  反撃が出来ない状態であったのに・・、
  その様な日本に・・アメリカは原爆を落した。
  その必要性は・・「完全になかった」・・
  なのに・・原爆を落としたアメリカだった。
  総べて、100%アメリカの勝利で、すべてが支配下にあ
 る状態の中で、「原爆など落す必要の無い日本」・・
  日本の敗戦は決定的だった・・その様な所に・・、
  アメリカという国は・・原爆と言う最悪の卑劣な兵器
 を使った。
  石油という国の活動の大本(おおもと)を断って・・、
  日本の国の活動の血液の石油を断ったアメリカ、
  日本をその様な状態にしたアメリカ、
  その様なことまでしたアメリカが、終戦の直前の日本
 は、その「石油さえまったくない状態」の日本、
  さらに、すべての工場などの生産手段がすべて破壊さ
 れている日本、
  この日本が、アメリカに立ち向かえる状況は『皆無』
 という状況の中に・・
  原爆を落す必然性はまったく無いのに・・落した、
  アメリカが言う「落す理由の屁理屈な論理」は、「ア
 メリカの兵士を救った」という理由で・・「まったく成
 立する理由ではなかった・・論理ではなかった」。
  石油がどうなっていたかだけでも考えれば、その確実
 なその先(落す必要ない)が明確に見え・・、
  そして、アメリカの論理が屁理屈である事も明確に見
 える。
  アメリカは、次の展開する社会を見ていた・・まった
 くの自分だけの利益で・・論理性が無いのにやった・・、
  まったくの新しい兵器を手に入れた状況の中のアメリ
 カが居た。
  脅威の破壊力のある新兵器・原爆、その威力を『実際
 に』使ってみたかった。
  そのアメリカの『卑劣な心の犠牲』となった広島・長
 崎の方々だった。
  心から怒りが湧く・・「実施してみたい・・その誘惑
 に負けたアメリカ」があった。
  真珠湾のアメリカの卑劣な嘘も「歴史が、明確にアメ
 リカの嘘を立証している」・・そんなことは言えないよ
 と・・、
  本当にアメリカは嘘を言い続けて歴史を歩んで来た。
  インディアンの方々のこと、黒人の方々のこと、隣国
 の領土を奪ったメキシコのこと、ハワイ諸島など太平洋
 の島々を奪ったこと、フィリピンの大統領が怒った様に、
 フィリピンでやったこと、中国・蒋介石と隠れてやった
 卑劣なことごとなど・・キリスト教国・アメリカの歴史
 はこの事々が連なっている。
.
1947年6月8日、日本教職員組合が設立された。
  日教組と略称されるこの組織は・・左派と呼ばれるグ
 ループに牛耳られた。
  その活動の結果、『左派系諸国と親密』となっている。
  日教組の委員長が北朝鮮へ何度も挨拶に行くという活
 動などをしている。
  そして、日教組の「平和学習」は、洗脳学習となって
 いる。
  未熟な子供たちが繰られている。
  戦争の恐怖ばかりで脅す教育法を採っている。
  冷静に考えるという教育方法ではない。
  平和とどう守るべきかの肝心な教育はされていない。
  どうしたら戦争は起きないのだろうという肝心な教育
 もなされていない。
  日教組の平和学習のパターンは・・
 ☆戦争は悪い⇒戦争はしたくない⇒憲法に戦争しないと
  書いてあるから⇒憲法は改正しない・・、
 ☆戦争は怖い⇒戦争に関係ない人も死ぬ⇒戦争は怖い事
  ばかりだ・・、
 ☆戦争に賛成する人は家族が死んでもいいと思っている
  人⇒家族が死んででも戦争に勝ちたいと思っている人・・、
 ☆憲法が戦争しない様にしている⇒憲法がなくなれば戦
  争が起きる⇒戦争が起きれば家族が死ぬ⇒私は生きて
  いたい・・、
 ☆戦争はしたくない⇒戦争で死ぬのは残酷⇒憲法を守り
  たい・・。
  戦争の恐怖を植え付けて、憲法改正は悪だと「政治的
 イデオロギー」を子供たちに洗脳している。
  常に、このパターンの結論に子供たちを導く「マイン
 ド・コントロール」になっている。
  日教組の平和学習は、「いかに平和を守るか?」や、
 「いかにして戦争を抑止するか?」の肝心な教えなけれ
 ばならない点、学ばねばならない点が、完全に欠落して
 いる、欠けている。
  まだ、精神的に未熟な子供を「いいように繰る」。
  これこそ思想教育となっている。
  日教組はそのことに口をつぐんでいる。
.
1953年3月11日、アメリカの卑劣な人種差別行為の「ジム・
 クロウ」に対抗する黒人の方たちが、バスの座り方を自
 由にした・・当然の主張だった。
  卑劣な「ジム・クロウ」が横行するアメリカ。
  公園・公衆トイレ・駅の待合室・水飲み場などの公共
 施設などにおいて、どこでも『黒人の方々は差別された』。
  また、民間施設でも、レストランの室内のトイレは、
 白人専用」で、レストランの脇の外に、ペンキで殴り書
 きで乱雑に『ブラック』と書かれた粗雑なトイレが、黒
 人の方々のトイレだった。
  それでも、レストランに入れるのは良い方で、映画館・
 ホテル・キリスト教会・喫茶店などで、黒人の方々の利
 用は排除された。
  バスの座席は、前が白人専用で、黒人の方々は、バス
 の後部へ追いやられた。
  黒人席が満席になっても、白人席に空席があって、座
 ることができても、そこに、黒人の方々は座ることは出
 来ず、後部に立ったままに居るしかなかった。
  この様な時、1953年、黒人の方々の抵抗の抗議を発す
 る行動が起きた。
  ルイジアナ州の州都バトンルージュで、黒人指導者が、
 当然の主張「誰でも空いている席には座ることが出来る」
 を市条例で制定をすることを強く求めた。
  しかし、こんなことも市は決める事は出来なかった。
  市は、「黒人は後部座席から席を占め、白人は前部座
 席から席を占める」と決めた。
  これは、卑劣な差別の追認だった。
  市は、これで要望に応えたとした屁理屈を言った。
  黒人の方々は、この条例が、施行された1953年3月11日、
 バスの前から座り始めた。
  バスの運転手には、黒人の方は居なくて、全員が白人
 だったが、このバスの運転手がこの黒人の方々の行動に
 抗議した。
  白人のバス運転手のストライキにまで発展した。
  州司法長官の採択が必要な事態まで大きくなり、市条
 例は、州法違反とされた。
  まったく卑劣な事態が起きるアメリカだった。
.
1955年12月1日、人種差別行為を懲りなく続ける「人種差別
 国=アメリカ」のアラバマ州の州都モントゴメリーで、
 また、卑劣な事件が起きた。
  仕事に就かれた黒人女性のローザ・パークス女史は、
 バスに乗って帰宅の途についた。
  長い立ったままの仕事で、体はくたくたに疲れていた。
  バスの前部の白人専用席のすぐ後ろの席に座った。
  ある停留所で白人たちが乗って来た。
  バスの白人の運転手は、ローザと共に居た3人の黒人乗
 客に席を譲る様に命じた。
  他の3人の黒人の乗客は、すぐ運転手の命令に応じたが、
 ローザ・パークス女史は、静かに、そして、はっきりと
 「ノー」と拒絶した。
  彼女は、警察に逮捕された。
  これが、始まりだった。
  これには、『人間の尊厳と自由を否定するアメリカ』
 の軽蔑すべき様相が示されていた。
  当時のモントゴメリーの人口は、白人75000人、黒人の
 方々45000人だった。
  バスの利用者の3分の2は黒人の方々だった。
  黒人の方々は結束して「バス乗車拒否運動」を始めた。
  この運動を指導したのが、弱冠26歳のマーティン・ル
 ーサー・キング師だった。
  キング師は、インドのヒンズー教の指導者のガンジー
 師を敬愛していて・・、
  キング師は、このガンジー師と同様の「非暴力的抵抗
 行動」を展開した。
  1955年12月5日から、「バス乗車拒否運動」は開始され
 た。
  卑劣な事に、アメリカの権力を持つ政治家や、経済的
 権力を持つ白人銀行家や、白人の実業家、白人判事とい
 う社会の権力を持つ者たちが、アメリカ社会の高い社会
 的、経済的な階層からも弾圧が加えられた。
  アメリカの中軸に居る人でさえ、黒人の方々へ人種差
 別した。
  また、暴力行為を行うKKKの白人集団も加わった。
  卑劣な事に、立場を利用して、社会的地位のある者た
 ちは、警察権力を動かした。
  この抵抗運動の黒人の指導者たち・100人以上を逮捕さ
 せた。
  そして、留置所に拘留させた・・そして、告訴までさ
 せた。
  卑劣な白人たちのアメリカ社会だった。
  白人たちの暴力集団・KKKは、黒人の方々へ暴力を
 働き続けた。
  この輩たちは、逮捕されることはなかった。
  白人キリスト教会の差別に耐えられずに作った黒人の
 方々の教会が爆破された。
  指導者の黒人のキング師にも危害が加えられた。
  キング師の家には爆弾が投げ込まれた。
  しかし、黒人の方々の結束は固かった。
  弾圧や暴力にインドのガンジー師の無抵抗主義で耐え
 た。
  バスの乗車拒否運動のために、自家用車の相乗り組織
 もできた。
  遠い道を歩いて通う黒人の方々も多かった。
  白人たちは、この様な卑劣な行為を1年間も続けた。
  1956年11月13日、連邦最高裁判所は、「バスの人種隔
 離は違憲」との判決をやっと下した・・当たり前の判決
 だった。
  それによる命令が、モントゴメリー市へ、1956年12月
 20日に下された。
  正義の通らない、卑劣な社会のアメリカの、まだ、最
 近の事件だった。
  アメリカ社会は、まだ、未熟な遅れた社会にある。
  それは、遅れた宗教=キリスト教の教義「有色人種蔑
 視観」に影響されている。
  この事件は、黒人の方々の輝かしい結束が証明された
 事件だった。
  黒人の方々の『栄光の史実』がまた一つ増えた事件だ
 った。
.
1957年1月20日、ドワイト・D・アイゼンハワー、第34代ア
 メリカ大統領の二期目の任期が始まった(~1961年1月20
 日)
  この再選される前、前年の秋の大統領選に、再選され
 ることを狙っていたアイゼンハワー大統領は、黒人の方々
 を虐げるアメリカについての発言を避けていた・・ダン
 マリを決め込んでいた。
  この様に、アメリカは、まったく卑劣な状況にあった。
  黒人のルーシーという女学生が、勉学に就くことに対
 し、差別をしていた。
  アメリカ中が・・国全体がこの事で揺れていた。
  しかし、アメリカ大統領のアイゼンハワーは、大統領
 選に再選されたいために、何も言わない作戦を取った・・
 大統領の地位にあるのに、国が大揺れに揺れているのに、
 何も必要な措置を取らないという態度を決め込んだ。
  「国民感情に関わる問題では、法の実施にあせりは禁
 物で性急に事を運べはかえって禍を招く」と言い訳を言
 った。
  そして、さらに、人種差別主義者の行動を弁護する発
 言さえした。
  アイゼンハワーは再選された。
  この様な、同じ問題が、また、アメリカのアーカンソ
 ー州のリトルロックで起きた。
  1957年8月29日に、知事がやはり、再選されたいために
 人種差別をした。
  9人の優秀な黒人の学生を、入学させようと決定してい
 たリトルロック・セントラル高校。
  入学決定の裁判所の命令が、既に、判決されていたに
 もかかわらず、新学期が迫ったこの時、三選を目指して
 いた州知事(オーベル・E・フォーバス)は、選挙戦を
 有利にしようと、新学期が始まる前日の9月2日に、「も
 しも、明日、(黒人との)人種共学が強制的に実施され
 るなら、私はこの地域の平和と秩序を維持する事は出来
 ない」と声明した。
  そして、突然、250人の武装した州兵を、リトルロック
 高校へ出動させた。
  そして、学校を包囲する強硬手段をとった。
  卑劣な事に、表向きは「平和と秩序を維持する」であ
 ったが、実際に与えられた任務は、「黒人生徒の登校を
 武力によって阻止する」ということだった。
  この州兵以外にも、この事に刺激された大勢の白人群
 衆も集まった。
  彼らは、罵声と暴力的威嚇をした。
  黒人学生は、やむなく登校をあきらめた。
  だが、連絡の取れなかった一人の黒人の女学生が、一
 人で登校して来た。
  この女学生(エリザベス・エックスフォードさん)は、
 たちまち、これ等の白人暴徒たちに取り囲まれ、「黒ん
 坊(ニガー)を殺せ」などの叫びと怒号を浴びせられ、
 やはり、登校は出来なかった。
  こんなことが延々と続くアメリカ・・黒人の方々は虐
 げられている・・卑劣なアメリカ・・これ以下は、軽蔑
 を込めて略す・・、
  リンカーンの話は「まったくの絵空事」のアメリカ・・
.
1971年、色川大吉氏は、東京経済大学の名誉教授だが、著
 書「ユーラシア大陸思索行」で言う・・、
  異質なもの、人々、文化、環境を見て歩き(1971年)、
 そのユーラシア大陸における都市構造の様々な方と、文
 明の諸類型を発見し、それによって、日本の社会の人間
 関係のあり方の特質や文化的位置を、一層、際立たせる
 事に役立つと考えた・・と・・、
  つまり、異質さの中に、自分たちとの、その異質さに
 自分たちをより分かり、また、分かることによって自分
 たちをより際立たせることに役立つと、
  自分たちの発展のためには、異質さこそ必要だと。
  多様さの中に、異質もあって、自らの発展も実現でき
 る・・と。
  キリスト教は、異質をこの様には、まったく見ない、
 見れなかった。
  また、その様に『見るな』と、マインド・コントロー
 ルし、洗脳した。
  異質を異端と捉(とら)え、異質排除・異端排除のキ
 リスト教の教義によって「異端は、殺された」・・異端
 審問・・
  「異教徒は殺せ」のキリスト教教義・考え方だった。
.
1990年9月、日本の地価が、ピークに達した。
  数字上、東京都の地価が、米国全土の地価と同等にな
 った。
.
1995年、移民で壊れて行くイギリス。
  経済での復活の可能性が無くなったイギリス。
  また、グローバル化の風潮が、国柄(くにがら、その
 国の特質・持ち味)を破壊し、薄めさせ、国の影がかす
 れて行く。
  イギリスが熔けて無くなって行く。
  企業経営者・作家の河添恵子氏のYouTubeを御覧くださ
 い。
  https://www.youtube.com/watch?v=-Bg24EOmQzk
  この20年、ヨーロッパ全体も壊れて来ている・・と・・、
.
2005年2月、日本とアメリカの外務大臣と防衛大臣が、中国
 への関与政策などを話し合った。
  (日米間の緊密化の努力、東アジアへの対応などに、
 日本の能動的な地域政策の構築が、今後、より必要)
  日米両国の外務、防衛大臣で構成される「日米安全保
 障協議委員会(2+2、ツー、プラス、ツー)」は・・、
 2005年2月に、両国の共通目標を確認した。
  国際テロの根絶、民主化の推進、開発支援、地域協力、
 中国への関与政策のすべてが、共通戦略目標に中に入っ
 ている。
  従って、地域と国際社会の平和、安定、繁栄のために
 共通戦略目標の実現のための日米間の協力を緊密化する
 努力とともに、米国の東アジアへの関心に対応するため
 にも、日本も能動的な地域政策の構築が求められている
 ・・と・・、
.
2007年9月10日、アメリカの雑誌・タイム(TIME)が
 名誉棄損をした・・名誉棄損裁判で負けた。
  インドネシアの最高裁判所は、ジャカルタ地方裁判所
 と控訴院の判断を覆し、インドネシアのスハルト元大統
 領に対する『タイム・アジア』の名誉毀損を認定した。
  損害賠償1兆ルピアの支払いを命じた。
  訴えの対象となったのは、スハルト大統領が270億米ド
 ル以上(320億ドル)の金を海外に移したとする記事。
.
2016年1月1日、ヒットラーの「我が闘争」が、この日から、
 再出版された。
  著作権が切れたためで、今までは規制されて来た(イ
 ンターネットでは読めたが・・)
  戦後この様な時間が流れたのに、相変わらずの「情報
 管理社会」の今がある。
.
2016年2月29日、アメリカの人種差別
  (読売新聞、2016・2・29)の記事に・・、
  アメリカ合衆国が白人偏重だとある・・、
  キリスト教の考え方に影響されたアメリカ合衆国が、
 白人偏重だと批判されている。
  その1例となっているのが・・『アカデミー賞』。
  騒動の発端は、2016年1月のアカデミー賞候補者の発表。
  男優、女優の計20人が、2年連続で「全員白人」と判明
 した。
  「旧態依然の白人至上主義だ」と批判に火が付いた。
  こんな人種差別は、「ノーベル賞」でも行われている。
  白人キリスト教社会がしている人種差別は、今・現代
 でも延々と行われている。
.
2017年12月8日、蒋介石の弾圧、究明推進
  この日の読売新聞に標記の記事がある・・
  そしてまた、「台湾で法案可決」「銅像など撤去か」
 の表題もある・・
  日中戦争の時、アメリカが隠れて支援した蒋介石、そ
 して、日中戦争にアメリカは参戦して、蒋介石と一緒に
 なって日本と戦った・・真珠湾のはるか前にアメリカは
 日本と戦っていた・・アメリカは『それはボランティア
 だ』と言ったが、大統領の命令書が見つかって、アメリ
 カのウソがばれた・・
  この標記の件の記事を抜粋して書くと・・
  「台湾で国民党の独裁政権を率いた蒋介石、蒋経国父
 子時代の政治弾圧の真相究明などを推進する法案が5日に
 可決された。
  独裁下で弾圧された民主化活動家を中心に結成された
 与党・民進党による『歴史清算』の一環。
  台湾メディアは蒋介石の銅像が一掃される可能性を伝
 えている。
  台湾では日本による統治が1945年8月15日に終わった。
  その後、国民党支配が始まり、同党が中国大陸で共産
 党との内戦に敗れ、台湾に移った後は権威主義的な統治
 が強化された。
  1947年2月には、煙草(たばこ)を売っていた台湾出身
 女性を役人が殴打したことをきっかけに住民の国民党へ
 の不満が爆発。
  全土に広がった抗議行動を国民党が武力弾圧した「2・
 28事件」が起きた。
  国民党が敷いた戒厳令が全土で解除された1992年11月
 までの間には、共産主義者や国民党独裁に反対する台湾
 独立派を弾圧する「白色テロ」も行われ、被害は20万人
 に上るとも言われる。
  中国から来た外省人と戦前から台湾に住む本省人との
 分断は、今も傷痕を残す。
  今回可決した法律は、こうした人権侵害などをただす
 事が目的で、行政院(政府に相当)に設置される専門委
 員会が真相究明と被害者の名誉回復を進める。
  蔡英文総裁は6日、「目的は和解であり闘争ではない。
  (この過程を経て)違う台湾に生まれ変わる日が来る
 事を望む」と述べた。
  法律には「公の施設や場所にある権威主義統治社会の
 象徴」を撤去、改名するという条文がある。
  蒋介石をたたえ、巨大な銅像を展示する中正記念堂が
 「最初の対象」(聯合報・れんごうほう、台湾の日刊紙)
 になるとの報道もある。
  名称に蒋の別名「中正」を付けた約200の道路、約30の
 学校、蒋介石の肖像画をデザインした貨幣や紙幣が対象
 になる可能性も指摘され、行政院が否定する一幕もあっ
 た。
  (参考)白色テロ:為政者や権力者、反革命側(君主
     国家の為政者あるいは保守派)によって政治的
     敵対勢力に対して行われる暴力的な直接行動の
     こと。
  (参考)行政院(ぎょうせいいん):中華民国におけ
     る「国家の最高行政機関」(中華民国憲法53条)。
      内閣と各省庁を併せたものに相当する。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)568E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年11月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)568E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年11月23日、ピエール・ド・クーベルタンがオリンピ
 ックを提唱した。
  クーベルタンは男爵で、1863年生まれのフランスの教
 育者。
  古代オリンピックを復興させ、「近代オリンピックの
 創立者」と言われている。
  歴史書のオリンピアの祭典の記述に感銘を受け、古代
 オリンピックの復興を演説し、近代オリンピックを提唱
 した。
  そして、賛同者によって国際オリンピック委員会が設
 立されて・・、
  1894年6月23日、パリで、スポーツ競技者連合の会議が
 開催された時、その席上で、古代オリンピックにならっ
 た近代オリンピックの開催と、その為の国際オリンピッ
 ク委員会(IOC)の設立が決定された・・そして・・
  1896年のアテネ・オリンピックの開催につながった。
  この時、オリンピック讃歌が演奏された。
  この讃歌は、この第1回の大会のために、ギリシャの詩
 人パラマが詩を書き、同じく、ギリシャのオペラ作曲家
 スピロス・サマラスが作曲した。
  この後、この曲は忘れられていたが・・
  1958年、東京で、IOC総会が開催される間際、日本
 のIOC委員である東竜太郎へ、ギリシャのIOC委員
 から「第1回アテネ大会のオリンピック讃歌の譜面が見つ
 かった」と連絡が来た。
  その古い楽譜を、日本人が編曲し、また、訳詩して、
 62年ぶりに復活させた・・そして、集まったIOC委
 員の前で演奏した。
  集まった委員たちは感動し、以後、この曲を正式なオ
 リンピック讃歌とすると決定がなされた。
  因みに、東京オリンピックの開催は、1964年。
  五輪のマークも、クーベルタンが考案し、1920年のア
 ントワープ大会以降、開会式で使われている。
  彼は、第2代の国際オリンピック委員会の会長となって
 いる。
  しかし、「オリンピックは、勝つことではなく参加す
 ることにこそ意義がある」は、彼の言葉ではない・・他
 人の言葉を引用しただけ・・、
  また、クーベルタンは、社会進化論の信奉者で、「優
 れた人種は、劣等人種に社会的恩典を与えなくてもよい」
 と考えていた。
  1936年のナチス・ドイツのヒットラーの主催するベル
 リン大会を、クーベルタンは非常に喜んだ。
1892年11月24日、民法・商法の施行延期法を公布した。
  1890年に公布された旧民法は、1893年1月から実施され
 ることになっていた。
  しかし、1889年の東京大学法学士会の「民法は天賦人
 権論に基づき社会の人倫を破壊するもの」との反対意見
 の発表から論争が起こった。
  穂積八束(ほづみやつか、東京帝国大学法科大学長、
 衆議院議員、法典調査会査定委員)などは、国情にそぐ
 わないなどの意見を述べた。
  穂積の言葉である「法出デテ忠孝亡ブ」は非常に有名
 となった。
  因みに、氏は、日本法律学校(現在の日本大学)の設
 立に参画している。
  また、この翌年の1890年に公布された民法典、および、
 商法典の実施可否を巡って、延期派と断行派に国論を二
 分するはげしい論争が起こった(民法典論争)
  1880年以来、本格的な編纂が開始された民法は・・、
  1890年4月に、フランス人ボアソナードの起草になる財
 産法の部分が、同年・1890年10月に、日本人委員の起草
 になる身分法の部分が、いずれも元老院・枢密院の審議、
 修正を経て公布され、1893年1月1日から施行されること
 になっていた。
1892年11月25日、第四通常議会が召集された。
  第4回帝国議会の開催、1892年11月29日開会~1893年2
 月28日閉会 (通常会)
1892年11月27日 伊藤博文が、交通事故に遭遇した。
  伊藤博文の人力車が馬車と衝突し、伊藤首相は、しば
 らく意識不明の重体となった。
  井上馨内務相が、この日に臨時首相代理となり、1993
 年2月27日までの約2ヶ月間を務めた。
  この頃の道路は、今・現代の様では、当然、無く・・、
 非舗装で、雨が降れば水が溜まるところもあった。
  この頃は、自動車が表れる直前の頃で、人力車や馬車
 が一般的な乗り物だった。
  現代の自動車の様に、多くの台数が道を往来していた
 訳ではないが、けっこう事故は多かった・・、
  因みに、自動車は、1907年頃から利用され始める。
  また、自動車の出初めには、自動車を避ける方法を人々
 が慣れていなくて・・上手ではなく事故が多くなった。
  危険を感じ・・くもの巣を散らす様に逃げ惑ったとい
 う・・そのため、かえって車に轢(ひ)かれたという。
  運転手側、歩行者側、共に、双葉マークだった。
  多いのが馬車との接触事故、車におどろく馬の暴走に
 伴う事故が頻発した。
1892年11月28日、讃岐鉄道会社が、旅客運賃を改定した。
  讃岐鉄道は、香川県にあった会社線で、高松から琴平
 まで・・金刀比羅宮へ向かう参拝客の輸送を目的に設立
 された。
  この会社は、1890年に、女子の出札社員の募集をした
 が、成功しなかった。
1892年11月30日、千島艦事件(11月25日説あり)
  愛媛・松山沖で、日本の軍艦の水雷砲艦「千島」が、
 イギリス船と衝突し、沈没した。
  乗組員70人余が溺死した。
  沈没補償を巡って、日英両国間で係争事件となった。
  フランスで建造され、フランスから神戸へ回航中の日
 本の軍艦・水雷砲艦「千島」が、イギリス商船・ラヴェ
 ンナ号と、愛媛県堀江沖で衝突し、千島が沈没し、74名
 の乗務員が溺死した。
  日本政府は、ラベンナ号に不当航行の過失があったと
 して、翌年・1893年5月に、その所属会社P&O(ピーア
 ンドオー)汽船会社を相手取って、85万円の損害賠償を
 請求して、横浜のイギリス領事法廷に出訴した。
  これに対し、会社側は、逆に、10万円の損害賠償を求
 めて反訴した。
  第一審は、会社側の要求が不当だとされて、反訴が却
 下された。
  会社側は、その判決を受け、上海(シャンハイ)の領事
 法廷に控訴した。
  1893年10月、裁判長は第一審判決を破棄して、会社側
 を支持した。
  そのため、日本の世論は、その不当性と日本政府の処
 置を非難し、湧きたった。
  野党の反政府諸派が、議会内外でこれを利用して、第
 二次伊藤博文内閣が推進する条約改正交渉に反対する運
 動を展開した。
  1893年12月、衆議院は解散となった。
  日本政府は、さらに、ロンドンのイギリス枢密院に上
 告した。
  1895年7月、枢密院は、上海領事法廷の判決を破棄して、
 横浜の領事判決を復活した。
  本訴は、ふたたび横浜領事庁で争われることになった。
  1895年9月、和解となって、和解が成立した。
  会社側は、訴訟費用のほか、英貨1万ポンド(邦貨9万
 余円)を支払う事となり、事件は落着した。
1892年11月30日 伝染病研究所が設立された。
  (北里柴三郎・福澤諭吉・森村市左衛門らによる大日
 本私立衛生会伝染病研究所・・)
  北里柴三郎博士によって、最初の伝染病研究所が東京
 の芝公園内に建設され、設置された。
  福沢諭吉師が、北里博士に協力し、無償で別邸を貸与
 した。
  土地は福沢の所有で、研究資材は森村市左衛門の寄付
 によった。
  (参考)森村市左衛門:武具商・陶磁器業などを営ん
     だ森村財閥の当主。
      遠江国森村(現:静岡県菊川市)出身で、旗
     本屋敷などに出入りする武具商。
      日米修好通商条約で横浜が開港されると、横
     浜で外国人から洋服・靴・鉄砲・懐中時計など
     を仕入れ、土佐藩・中津藩などに販売を始めた。
      この頃、中津藩の福沢諭吉と知り合った。
  ここは、後に、大日本私立衛生会の所属となり、研究
 所を国へ寄付し、内務省の管轄となった。
  1914年(大正3年)12月、 私立伝染病研究所(現・東
 京大学医科学研究所)が内務省から文部省に移管され、
 東京大学に合併される時、
  初代所長・北里柴三郎は、移管に反対して所長を辞任
 した。
  この時、志賀潔を始めとする研究所の職員全員が一斉
 に辞表を提出し、総辞職となった(伝研騒動といわれる)
  本来の目標の遂行に懸念を抱いた北里柴三郎は・・、
  1914年11月5日に、新たに私費を投じて、私立・北里研
 究所を設立・創立して、信念を貫いた。
  1918年、北里研究所が社団法人として認可された。
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  (今日の言葉)
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  題:200発~300発の北朝鮮のミサイルが、日本に向かったら・・
    それを防ぐことは不可能という現在の日本がある。
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1223年、運慶(うんけい)が没した。
  運慶の生年は不祥である。
  運慶は、仏師であり、南都(現:奈良県)を拠点とし
 た奈良仏師の流れを引いている。
  宇治の平等院(京都府)の阿弥陀如来坐像(国宝)は
 定朝(じょうちょう)が造立した。
  運慶は、この流れを汲む。
  定朝以後、仏師は三つの派に分かれた。
  それが、「院派」「円派」「慶派」で、運慶は慶派で、
 運慶の父・康慶には、この「運慶」の他に「快慶」「定
 慶」らがいる。
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1598年、キリシタン大名が武器の供給を受ける。
  キリスト教は、日本で弾圧を受けたと一方的に言うが、
 これは嘘、いつものキリスト教のプロパガンダ(嘘宣伝)
 である。
  キリスト教から、武器や弾薬の供給を受けた九州の弱
 小の不利な状態の大名は、そのキリスト教宣教師からの
 武器・弾薬の供給をあてにした・・そして、キリシタン
 大名となった・・背に腹は代えられずで、信仰上でキリ
 シタン大名になったのではなかった・・それ故、息子や
 孫の代ではキリシタン大名ではなくなっている。
  この大名たちは、武器・弾薬供給者のキリスト教宣教
 師たちに頭が上がらなくて・・キリスト教宣教師たちの
 やりたいことを好きにやらさせた。
  キリスト教宣教師たちは、信徒を煽(あお)って、信
 徒と共に、仏教寺院や神社などを破壊し打毀(うちこわ)
 した・・弾圧した。
  この様な最中(さなか)、長崎県曙町(あけぼのまち)
 にある、悟眞寺は開かれた・・抵抗・弾圧の中に開いた。
  この長崎県のキリスト教勢力の強い状態の中、浄土宗
 を布教しようと、厳しい弾圧を受けながら、僧・玄故(
 げんこ)上人は弾圧に立ち向かった。
  日本は、キリスト教を弾圧したと言うのはキリスト教
 の嘘宣伝であって・・
  また、例えば、長崎出島のオランダ商館が、キリスト
 教式の埋葬の仕方で、埋葬を行いたいと江戸幕府に願い
 出れば・・、
  1654年に、幕府は、その許可を出し・・そして・・
 出島近くの墓地で、希望のとおりに埋葬が行なわれた。
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1871年12月23日、岩倉使節団が出発した(~1873年9月13日)
  この岩倉使節団が、欧米に2年間近く派遣された時、
 伊藤博文は、大使の岩倉具視に次ぐ副使となった。
  到着して、英語が話せる伊藤は、使節団を代表して演
 説した。
  その中で、伊藤は、数百年続いた我が国の古い制度は、
 「1個の弾丸も放たれず、一滴の血も流されず、撤廃され
 た」(廃藩置県の事を言っている)と述べた。
  そして、日本の国旗にある赤い丸は、「今まさに洋上
 に上ろうとする太陽を象徴し、我が日本が欧米文化のた
 だ中に向けて躍進するしるしであります」と述べた。
  これを聞いた聴衆は、万雷の拍手をした。
  この演説は「日の丸演説」と言われて有名。
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1874年、殖産興業に関する「大久保利通の建白書」・・
  「そもそも国の強弱は、人民の貧富によるものであり、
 人民の貧富は物産の多少とかかわりがある。
  そして、物産の多少は、人民が工業に励むかどうかに
 根差すが、そのおおもとは、何処の国でも政府の指導奨
 励によるのである」。
  国の中心に居た大久保利通は、外国の機械を購入し、
 また、外国の知識人を招聘した。
  惜しまず資金をこの面に投入した。
  そして、速やかな技術の日本への定着を狙って、製糸
 や紡績などの官営工場を建設した。
  そして、その要点を掴(つか)んで来ると、その工場
 を民間に払い下げ、進んだ外国技術の広範な国内定着を
 して行った。
  江戸時代に、すでに、日本にあった近代的工業生産の
 意識が、この時、大きく花開いて行った。
  それを支えたのが、日本の高い教育水準にあった人た
 ちだった。
  日本に、すでにあった土台の上に、導入した西洋技術
 がより成熟して行った。
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1877年(明治10年)5月、幕末の志士・桂小五郎(木戸孝允、
 鞍馬天狗のモデルとも言われている)が死去した。
  そして、この年、東京大学が、最初の総合大学として
 設立された。
  そしてまた、民間でも慶應義塾、同志社、東京専門学
 校(早稲田大学の前身)が設立され、日本に西洋の学問
 が定着して行った。
  それにつれて、医学や物理学、そして、化学などのあ
 らゆる分野で、日本人による本格的研究が始まり、そし
 て、世界的な業績を残す人々が出始めた。
  世界的な発明や発見が、相次いで生まれて行った。
  その主な方々だけでも・・、
 ・北里柴三郎(破傷風血清療法の発見)、
 ・志賀潔(赤痢菌の発見)、
 ・野口英世(黄熱病の研究)、
 ・鈴木梅太郎(ビタミンB1の発見)、
 ・高峰譲吉(ジアスターゼの創薬)、
 ・木村栄(緯度変化の研究)、
 ・大森房吉(地震計の発明)、
 ・長岡半太郎(原子模型の研究)らの方々だった。
  また、文化・芸術に関する方面でも日本人の優秀さが
 示されて行った。
  文学者としては・・、
 ・写実主義の坪内逍遥(小説神髄)、二葉亭四迷(浮雲)、
 ・ロマン主義の島崎藤村(若菜集)(詩集)、与謝野晶
  子(みだれ髪)(歌集)・・そして・・、
 ・ロマン主義から自然主義への動きの中に国木田独歩(
  武蔵野)、田山花袋(布団)、石川啄木(一握の砂)
  (歌集)、森鴎外(舞姫)(高瀬舟)、夏目漱石(吾
  輩は猫である)(こころ)・・など・・、
  新しい日本の文学の出発点には、坪内逍遥が居た。
  そして、日清戦争の前後に、人間の自由な感情を重視
 するロマン主義が起き、島崎藤村らが活躍した。
  日露戦争の頃には、人生や社会の現実をありのままに
 描く自然主義文学が盛んになって、田山花袋らが注目さ
 れた。
  森鴎外は、ヨーロッパ文学を紹介し、晩年には歴史小
 説を書いた。
  また、明治時代の芸術面では、西洋の近代芸術が、堰
 (せき)を切ったように押し寄せて来る中で、日本の伝
 統文化とは何かを深く考えた時代だった。
  文明開化の頃、日本の古い仏像や美術は価値のないも
 のとする欧米崇拝の風潮となった。
  これによって多くの仏像や寺が壊され、捨てられた・・
 また、貴重な芸術作品が海外へ流出した。
  これを救ったのが東京大学の外国人教師であったフェ
 ノロサだった、また、岡倉天心だった。
  伝統芸術を保存する事と復興する事に努めた。
  日本の芸術作品の価値が再評価された。
  狩野芳崖らは新しい日本画のあり方を模索した。
  洋画では、高橋由一や浅井忠らが写実的な油絵を描い
 た。
  また、彫刻では高村光雲らが活躍した。
  音楽では滝廉太郎らが活躍した。
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1884年12月4日、朝鮮で甲申事(こうしんじへん)変が起
 きた。
  金玉均(きんぎょくきん、1851年~1894年)が、朝鮮
 で政変(クーデター)=甲申事変を起こした。
  しかし、中国・清国軍が介入して3日で失敗した。
  この頃、朝鮮は、清国の冊封国として、属国化してい
 た。
  しかし、その清国との関係は、崩壊の危機にあり、国
 を守るにはこれに依拠するより、この従属関係を打破し
 て、独立近代国家の形成を図らなければならないとして
 いた(金玉均らの急進改革派の独立党の考え)
  この朝鮮の急進改革派は、日本との連携を強化したい
 とした。
  しかし、事変は失敗し、金玉均は日本に逃れた。
  金玉均は、後になって、中国に渡り、上海で暗殺され
 た。
  金玉均らの急進改革派は、明治維新後の日本のように
 自主独立の国を目指し、また、明治政府の進める殖産興
 業政策の様に新しい朝鮮を生み出し、近代化したいとし
 ていた。
  ここには、この8年前の1876年の日清修好条規によって、
 朝鮮を開国に踏み切り、独立国家として見る内容・姿に
 目が開かせられていた。
  また、清国の様な見方「朝鮮を冊封国として利益を収
 奪する対象の属国」としては、日本は、まったく見なく
 て、朝鮮を「開国した独立の国家としたい」としていた。
  その日本の考え方に、金玉均らは、朝鮮の開化を目指
 した。
  そして、1870年代の後半より、日本に接近していた。
  金玉均は、近代技術の導入と軍事力強化のために洋務
 開花論を唱えた朴珪寿の影響を強く受けた。
  また、1879年、開化派の李東仁を、金玉均らは、日本
 に密入国させた。
  そして、福沢諭吉や後藤象二郎などの日本の先人らと
 接触させ、交流も深めていた・・
  金玉均らの開化論は、一朝一夕で出来た開花論ではな
 かった。
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1891年6月、川上音二郎一座が、東京で初めて、壮士芝居を
 開演した。
  満都の人気を集めて大当たりした。
  1891年2月、自由党の壮士であった川上音二郎は、角藤
 の芝居に刺激されて、書生芝居の一座を起こした。
  そして、「板垣君遭難実記」等をもって、大阪堺の卯
 の日座で旗揚げをした。
  川上は、企画性にすぐれ、また、事業家でもあった。
  また、妻の川上貞奴のひきで後継者にめぐまれ、やが
 て宿願の東上ができることとなった。
  1891年6月、「板垣君遭難実記」と「監獄写真鏡」を東
 京・鳥越の中村座で上演し、大評判となった。
  この川上の成功は、「壮士芝居」の元祖・角藤定憲の
 あとをついで「壮士芝居」発展の道を開き、さらには「
 新派」発生への糸口になった。
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1894年7月25日、日清戦争が始まった(~1895年11月30日)
  日清戦争の時、日本は、徹底的に、『兵士に国際法を
 教えた』。
  日本本土から、わざわざ教える係の者を派遣をしても
 教えた。
  アメリカやヨーロッパでもやらないことをした。
  逆に、アメリカは、卑劣な事をした。
  敵から情報を得るために、「罪を問わないから白状せ
 よ」と、白状を誘惑した。
  この様な事から、戦場では、国際法を遵守する精神が
 無くなって来た。
  国際法違反をしても許されるという心が働いた・・そ
 の様なことをアメリカは行なっていた。
  自国の兵の国際法違反を、厳然と罰しないアメリカ。
  兵士が、まず、「第一に守らなければならない国際法」
 を、ないがしろにする様なアメリカだった。
  だから、国際法で守られるはずの戦場の日本の病院が
 襲撃された。
  この様な風潮を、アメリカは生まれさせた。
  この様な事例をNHKは放送しない・・日本を貶める
 事例ばかりをNHKは放送している。
  不公正な卑劣な放送姿勢のNHKとなっている。
  日本の貶める番組ばかり製作して放送するNHK。
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1894年9月17日、黄海海戦(清との海戦))
  清国は、目ざましく軍備を増強して行った。
  例えば、海軍力は、1881年(この海戦の13年前)には、
 清国と日本は、所有する軍艦は共に3隻であったが、清国
 は大型艦で、日本の艦艇は貧弱だった。
  しかし、清国は、その後も大型艦をどんどん作り・・、
  1887年には、清国10隻、日本は4隻と、圧倒的な清国の
 海軍力となった(2017年の中国と日本との差の様に)。
  日本も中国の脅威に、1888年(この海戦の6年前)から、
 艦船数を増やす努力をして行った。
  また、大型艦を増やして行ったが、中国・清に追い着
 くことは、しばらく出来なかった。
  しかし、1892年(海戦の2年前)には、ほぼ対等の状態
 にたどり着くようになった。
  この様な中で、1894年9月17日に、黄海海戦を、日清
 両国は戦った。
  日清戦争は、中国で戦われたと思われ勝だが、朝鮮半
 島でその多くが戦われた。
  清国軍が威海衛から渡海し、朝鮮のソウル(当時の漢
 城)近くに上陸し、日本と交戦したりした。
  また、平城近くでも戦っている。
  日本軍は、九州や沖縄から出撃して行った。
  この黄海海戦は、日本海軍・連合艦隊と清国海軍・北
 洋艦隊の間で戦われた海戦で・・、
  『近代的な鉄甲蒸気船同士で行われた世界史上初の大
 規模な海戦』だった。
  この海戦の結果、日本は勝利をおさめた。
  清国海軍は、大幅に戦力を低下させ、黄海と渤海の制
 海権を失った。
  日本の連合艦隊司令長官は、伊東祐亨(いとうすけゆ
 き)海軍中将だった。
  清国の損害5隻喪失、大中破で、日本の喪失は無し、
 大破4隻だった。
  海戦の場所は、黄海、鴨緑江沖。
  1894年午前10時過ぎ、両艦隊がお互いの煤煙を確認し
 た。
  連合艦隊は、直ちに、戦闘態勢を取って急接近した。
  北洋艦隊も、日本艦隊を迎え撃つ体制にした。
  連合艦隊は12隻で、第一遊撃隊4隻、そして、司令長
 官の率いる本隊6隻、そして、本隊後方に2隻だった。
  北洋艦隊は14隻で、連合艦隊より2隻多く、本隊10隻、
 そして、4隻が続いた。
  12時18分、連合艦隊司令長官は、攻撃開始の国際信号
 旗・旗旒信号(きりゅうしんごう)を発した。
  北洋艦隊は、楔形の横列陣で、連合艦隊に直進して来
 た。
  12時52分、本隊の旗艦「松島」が距離3500mで砲撃を
 開始した。
  12時55分、第一遊撃隊も、北洋艦隊右翼に回り込み距
 離3000mに近づき砲撃を開始した・・速射砲で猛烈な砲
 火だった。
  北洋艦隊は、連合艦隊に突進して、衝角戦(しょうか
 くせん、体当たり攻撃で、船復を破り大浸水を起こす)
 にしようとした・・そして、双方、砲火を交わし被弾。
  13時5分、北洋艦隊の艦が火を噴く、30分後に沈没。
  そして、北洋艦隊のもう1隻も多数被弾し、火を噴き
 戦闘不能となる。
  日本側も第一遊撃隊「吉野」が被弾し、弾薬が誘爆し
 て火災が発生した。
  この様な戦いが延々と続いた。
  日本側に、幸運な命中弾などもあり「赤城」は危機を
 脱したりした。
  また、連合艦隊の「西京丸」が、魚雷3本を発射された
 が喫水が浅いのが幸いして、その1本が船底の下を通過し、
 命中を免れ、九死に一生を得た。
  15時10分、連合艦隊第一遊撃隊、距離3700mで、本隊
 と共に北洋艦隊へ十字砲火を発射した。
  15時15分、北洋艦隊は大打撃を受け、3隻で火災が発生。
  北洋艦隊に戦線離脱する艦も現れる(敵前逃亡で、海
 戦後に斬首の刑に処された)
  つられて、逃亡を途中まで試みる北洋艦隊の2艦があり。
  北洋艦隊が集中砲火を浴び・・1隻沈没。
  15時30分、北洋艦隊の30.5㎝砲弾が、連合艦隊「松島」
 に命中、大破し炎上する。
  16時7分、「松島」、鎮火するも被害甚大、舵が不調。
  北洋艦隊も味方の火災、逃亡、沈没が続いて、四分五
 裂となる・・2隻を残して、4隻が戦線離脱体制となる・・
 他の2隻も退却を始める・・連合艦隊の第一遊撃隊が追撃
 態勢に移る。
  16時45分、司令長官が、交戦する本隊の各艦に進撃を
 中止し、旗艦「松島」に集結信号を出す。
  16時48分、第一遊撃隊が逃走する北洋艦隊の1隻に追い
 付き、攻撃開始し、命中度が高く、艦首から沈没した。
  17時40分、再集結した連合艦隊本隊は、順次、南方へ
 後退する。
  それを見た、残った北洋艦隊2隻も退却を開始した。
  17時45分、第一遊撃隊が敵艦を追おうとしたが、司令
 長官からの「合流せよ」の信号が発せられ引き返す。
  20時、伊東司令長官は、旗艦を「橋立」に変更して移
 乗、大破した「松島」は呉軍港へ帰還させる。
  翌日・18日1時15分、「西京丸」、朝鮮半島の日本海軍
 根拠地に帰還。
  3時30分、北洋艦隊の1隻が帰還中に被弾による舵の不
 調から座礁し、放棄された。
  5時50分、連合艦隊の1隻が根拠地に帰投。
  18日12時から連合艦隊司令部は、帰投した北洋艦隊を
 再補足の目的で発進したが・・発見できず。
  その後、日本海軍の水雷部隊が、帰投した北洋艦隊を
 発見し、威海衛の戦いをする。
  2隻撃沈、1隻大破・座礁、その後自沈、4隻は鹵獲(ろ
 かく、戦いで得る・ぶんどる)して日本海軍に編入。
  これによって北洋艦隊は降伏。
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1904年2月8日、日露戦争がこの日に始まるが・・、
  日露戦争の開戦前・・、ロシア帝国は、満州から兵力
 を引かず・・、
  逆に、シベリア鉄道によって兵力を増強し続けた。
  日本とロシアの兵力差は、完全にロシア有利だった。
  ロシア:日本の兵力差は・・、
  歩兵・・1740:156大隊、
  騎兵・・1085:54個中隊、
  火砲・・12000:636門、
  総兵力・・207万人:20万人、
  戦艦・・11:6、
  装甲巡洋艦・・12:6、
  巡洋艦・・10:12、
  総トン数・・45:26万トン。
  ロシアは、圧倒的な大国だった。
  そして、満州は、ロシア兵だらけだった。
  また、ウラジオストクと大連が、ロシアの軍港で、完
 全に日本はロシアの脅威に囲まれていた。
  そして、ロシアは、1900年に起きた義和団事件を口実
 に、満州へ2万の兵を送り込んで来た。
  そして、そのまま居座った。
  そして、朝鮮半島の国境を越えようとしていた。
  この時、外交官の小村寿太郎の意見が、『日英同盟を
 結ぶべき』の意見だった。
  この意見が政府を動かし、政府の方針となった。
  1902年、日英同盟は締結された。
  因みに、義和団は、郷村(ごうそん)の自衛組織を基
 盤とした「中国の伝統宗教の流れをくむ組織」で、外国
 人を排斥し、殺害行為をし・・、
  そして、北京の各国公使館を包囲した。
  その為、日本やイギリス、アメリカ、ロシアなどの8ケ
 国が連合軍を送り、鎮圧した。
  日英同盟において、イギリスは、東アジアに勢力を拡
 大するロシアを押さえたいとしていた。
  ロシア勢力拡大への懸念から日英同盟を結びたいとし
 ていた。
  ロシアは、日本の10倍の国家予算を持つ、また、軍事
 力も10倍以上だった。
  そして、満州の兵力を増強し続け、朝鮮国境をついに
 越えた。
  そして、朝鮮北部に軍事基地を建設し始めた。
  この勢いは止まる気配はなく、放置すればロシアの強
 大な勢力圏が構築され、領域は不安定な状況となること
 がはっきりしていた。
  日本は、手遅れになることを恐れた。
  ロシアの強硬な進出が原因だった。
  朝鮮は、ロシアの支配下に入りつつあった。
  イギリスやアメリカは、朝鮮半島が、ロシアの支配下
 になることを望まなかった。
.
1904年2月8日、日露戦争
  日露戦争は、日本の生き残りをかけた、安全保障上の
 戦いだった。
  当時、世界最大の陸軍大国だったロシア。
  日露戦争は、何処の国も日本が敗けるだろう、日本が
 勝利することは無いだろうと見ていた。
  巨人に挑(いど)む小さな日本の漫画をフランスの新
 聞が掲載しているが、世界中の見方は、まさに、この漫
 画のごとくだった。
  しかし、世界中の予測に反し、日本の勝利で終わった。
  これは、植民地にされていた人々へ希望を与えた。
  将来の民族の独立の夢を描かせた。
  ヨーロッパで、この結果を、特に、喜んだ国は、長年、
 ロシア帝国に抑圧されていたフィンランド、ポーランド、
 トルコの人々だった。
  この国々の人々は、日本の勝利を熱烈に歓迎した。
  しかし、有色人種への蔑視観がある白人キリスト教国、
 特に、アメリカに、将来、白人社会を脅かす有色人種と、
 日本は見做され、「警戒すべき黄色人種」という黄禍論
 が巻き起こった・・これが、世界大戦へつながっていく。
 ☆中国革命の父・孫文の言葉・・、
  「日本がロシアに勝った結果、アジア民族が独立に対
 する大いなる希望を抱くに至ったのです」。
 ☆インドの独立運動家で、後の首相ネルーの言葉・・、
  「もし、日本が、最も巨大なヨーロッパの国に対して
 よく勝利を博したとするならば、どうしてそれをインド
 が成し得ないと言えるだろう?」。
 ☆イランの詩人・シーラーズイーの言葉・・、
  「立憲制によってこそ日本は偉大になった。
  その結果、かくも強き敵に打ち勝つことが出来るのだ」。
 ☆エジプト民族運動の指導者ムスタファー・カミールの
 言葉・・、
  「日本人こそは、ヨーロッパに身の程をわきまえさせ
 てやった唯一の東洋人である」。
.
1905年9月5日、日露戦争が終わる。
  日露戦争で、隠れた逸話となっている話が・・、
  「陸軍大将の乃木希典は、日露戦争の後、敗れたロシ
 アの将軍の助命に奔走した。
  助命のための様々な努力をした」。
  大東亜戦争(第二次世界大戦)において、アメリカは、
  日本の将兵を罪に落とす法律を後から作ってまでして、
 日本の将軍を殺したが・・、
  まったくの正反対の不正義な行為をしたアメリカだっ
 た。
  この卑怯な卑劣な、後から法律まで作って罪に落して
 殺す不正義な行為は、長く歴史に書き留められることに
 なる。
.
1928年2月、初めての普通選挙。
  有権者の数が、人口の約20%で、それまでの4倍近くに
 増えた。
  この選挙の結果、政友会が第一党になった。
  1925年に普通選挙法が成立し、納税額にかかわらず25
 歳以上の男子全員が選挙権を得た。
.
1937年12月17日、南京に入城し、式典を行った。
  日本の中世において、日本の武士は、正々堂々とお互
 いが名乗りを上げて戦った。
  自分が、敵に対して戦う者であると『明示』し(どこ
 の誰だかを言った)、そして、戦った。
  また、武具をはっきり付け、身を固めているので戦う
 者いだと「敵にもはっきり分かった」。
  これは、戦わない者に類が及ばない様にという、戦う
 者の「配慮でもあった」。
  戦わない者が死ぬ様なことが無いようにという「心配
 り」だった。
  それが武士であり、武士道であり、日本人の優しさだ
 った。
  しかし、近代になると、この戦わない者を逆に狙うと
 いう「ならず者的な輩」が出て来た。
  「軍需工場を狙います」とアメリカ国内で了解を得て
 いた原子爆弾を、広島・長崎の町の真ん中に、一般市民、
 女性や子どもたち、赤ん坊も居る人たちが生活する真上
 に、アメリカは原爆を落した。
  中国兵も、いつの時代も、「敵の裏をかく・卑怯な事
 を常にする」という歴史にあるが・・、
  中国兵は、軍服を脱いで、逆に、一般庶民の中に隠れ
 た。
  一番「やってはいけないこと」をやった。
  軍服を脱いで、一般庶民の姿をして、一般庶民の中に
 隠れて、日本兵を狙い撃ちにした。
  一般市民に類が及ぶと分かっていても、中国兵は、こ
 のやってはいけない、一番否定されている「軍人の卑劣
 行為」を南京で行った。
  一般市民に類がおよぶと分かっていても、中国兵は、
 この卑怯な事をした。
  やむなく、一般市民に混じる中国兵と戦う羽目に陥(
 おちい)った。
  蒋介石の司令部は、自分たちの兵士を置いて、先に逃
 げるという、これも一番やってはいけない最悪な卑劣な
 事をして逃げた。
  アメリカが、この司令部を一般の兵士より先に連れ出
 すというハレンチな事をやって、日中戦争に参戦した。
.
1996年12月、日本版NSCへの一歩・・
  日本に、いざという事が起きた時・・国民の命を守る
 ために・・
  緊急事態が起きた時、迅速な対応が図れるため、内閣
 総理大臣の判断によって、自衛隊の部隊が迅速対処でき
 るようになった。
  安保会議、及び、閣議で決定された「我が国の領海、
 及び、内水で潜没航行する外国潜水艦への対処について」
 により、自衛隊の部隊が、わが国の領海、及び、内水で
 潜没航行する潜水艦に対して浮上・掲旗要求、退去要求
 を行うにあたり、あらかじめ閣議において、その基本方
 針と手順を決定しておいた。
  これにより個々の事案発生時に、改めて個別の閣議決
 定を経ることなく、内閣総理大臣の判断により、自衛隊
 の部隊が迅速に対処し得るようになった。
  「日本版NSC」を機能させるために、こうした手法
 を検討する余地があるかもしれない・・と、政府は説明
 している。
  朝日新聞など、日本を何かと正視していないメディア
 のアンケート調査は、「まゆつば」である。
  アンケート調査なのだから正しいのだというが、これ
 が、「データで嘘を言う方法」という本もある如く、嘘
 が作られている。
  メディアは言う、「国民に調査をすると、第一位に経
 済対策をしてくれ」と答えている。
  「北朝鮮などの脅威に対する対策への要望は、その後
 だ」となっている・・と。
  これは、「今日そして明日、まず、女房・子供が、飯
 を食わせられるようにしてくれ」という国民の声であっ
 て、差し迫っている飢餓を回避したいという要望なので
 ある。
  そして、結局、広島・長崎の方々の様に、「火だるま」
 になることから、愛する人々を救いたいという要望の先
 に来ている結果なのである。
  アンケートの取り方に「仕掛けがある」のである。
  一つを選べとなっている。
  現政権への最重要課題となっている。
  ならば、「まず、飢えないようにしてくれ」が第一位
 の声になる・・
  メディアは、この様な仕方で嘘をついている。
  「実験計画法」という学問があるが、実験結果におい
 ても、非常に微妙な差によって結果が大きく違って来る
 ことは常識なのである。
  実験をした人の違いによっても、同じ実験をしている
 のに結果が違ってしまうとか・・、
  実験した日時の違いによっても結果が違ってしまうと
 か・・
  実験なんかは、同じことをすれば、同じ結果になるか
 と言えば、「そう簡単にはならない」のである。
  ましてや、色々な想念が頭を巡っている人間に対する
 アンケートにおいて、その設問の仕方などで大きく変わ
 って来るのは当たり前なのである。
  アンケートを受けた時、アンケートを取るメディアが
 自分たちの考えている理想としている結果に導こうとし
 ている質問側のアンケートの取り方に遭遇した事がある・・、
  この様なことで、国の大切な問題である国防に関する
 ことが・・、
  戦後・70年以上すぎているのに、疎かにされて来て・・
  そして、このアンケートの様な日本の今がある。
  200発~300発の北朝鮮のミサイルが、日本に向かった
 ら・・それを防ぐことは不可能という現在の日本がある
 のにである。
  それでも、国防論を後回しにするのか・・
  今日・明日の食べる事が大切なのか・・

1996年(平成8年)、皇后宮(きさいのみや)陛下御歌
  海陸(うみくが)のいづへを知らず姿なき
  あまたの御霊(みたま)国護(まも)るらむ
  (歌意)
  この日本の國の海も山河も平野も總べて國の爲に生命
 を捧げた數多の英霊の御魂によって護られてゐます。
  皇后陛下のお言葉
  慰霊の旅では、戦争の被害の最も大きかった四地域を
 訪れましたが、この訪問に重ね、戦争で亡くなった全て
 の人々の鎮魂を祈りました。
  戦争により、非命に倒れた人々、遺族として長い悲し
 みをよぎなくされた人々、更に戦争という状況の中で、
 運命をたがえた多くの人々の上を思い、平和への思いを
 新たにいたしました。
.
2005年12月9日、「男女共同参画基本計画改定にあたっての
 要望書」
  自由民主党が、過激な性教育・ジェンダーフリー教育
 がなされている状況を調査するための「実態調査プロジ
 ェクトチーム」を結成した。
  そして、内閣府に於いて検討されている首記の件につ
 いて、過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プ
 ロヘクトチームは、2005年3月に発足以来、10ヶ月間にわ
 たり、実態調査したりして、教育の正常化を目指すため
 論議を重ねて来た。
  そのための全国的な実態調査も行い、寄せられた3500
 もの実例を調査・分析した。
  その結果、「ジェンダーフリー」という名のもと、過
 激な性教育が行われ、また、「家族の否定教育」が行な
 われていることが分かった。
  同時に、教育現場でこの様な暴挙が堂々と行われてい
 る根拠が、男女共同参画基本計画を恣意的(しいてき、
 論理的な必然性なく、思うまま)に解釈し、組合組織の
 活動方針としていることなども現場での調査で確認され
 た。
  文献にも、以下のような記述がある・・、
  日教組は、「ジェンダー・フリー」を推進した。
  ジェンダー・フリーには、ひな祭りなどの伝統文化を
 否定する。
  「球技を男女一緒させる」という話もある。
  その場合、女性を保護する意味もあって「(一緒に)
 球技をさせると、男子と女子の差がある」と質問しただ
 けで、「それは男女差なのか?」という言葉が返って来
 る。
  偏頗(へんぱ、片寄って不公平なこと)な性差イデオ
 ロギーで押し切る日教組である。
  女性の良さの話をしようと「女らしさ」と、男という
 「男らしさ」を話に出したら、それを頭から否定する。
  これでは、逆に、日教組は、「女性を虐げている」こ
 とになる。
  日教組は、「中性」が良いという。
  「男性」と「女性」を否定している。
  世に存在している「男性も駄目」「女性も駄目」と主
 張している。
  こんな立場で、教育ができる訳がない。
  こんな変な考え方から発展して、「専業主婦」という
 言葉すら使うなという。
  そして、この教育を子供たちにする。
  日教組は、「性に捉われないのが良い」と悦に入って
 (えつにいる、満足して喜ぶ)いる。
  女性の良さを美化し、逆に、男性の良さは美化できな
 い日教組の組織。
  古い封建的観念を否定的に持っている、また、まった
 くの封建的観念に浸っているという日教組。
  こんな組織で明日ある教育ができる訳が無い。
  また、日教組は言う、「男らしさ、女らしさを否定し
 ない、しかし、それにとらわれないものを大切にする」
 と。
  しかし、これは、詭弁(きべん、道理に合わない、言
 いくるめの議論、ごまかしの議論)なのだ。
  女らしさ、男らしさを否定しないと言いながら、「女
 らしさ」という事を否定している。
  「とらわれない」ために、女らしさを言い、男らしさ
 も言うのが正解なのが分からない。
  その様な封建的観念の論者となっている。
  広く封建的観念から脱却できない日教組となっている。
  また、文献に、下記の様な記述もある・・、
  日教組に感化された教師たちが、性教育という錦御旗
 を立てて・・教室で何をしでかしていたのかは、子供た
 ちにした、その詳細は分からないが・・その教師の話が、
 何であったかを、家に帰って来た子供の行動で分かる。
  その母親が仰天したのは、何も知らなかった子が、妹
 の上にまたがって腰を振っているのを見て、母親は、卒
 倒しかけたという。
  教師が、こんなことまで実演した。
  日教組に感化された教師が、教室でやったことは、い
 たずらに興味を持たせ、焚き付け行為をしたということ
 だった。
.
2011年3月11日、東日本大震災(M9.0)、日本海溝で起き
 た巨大地震と津波・・
  宮城県東南東沖などの一帯を震源地とする未曾有の大
 震災。
  1000年に1度と言われた規模。
  死者は、2万名を越える残念な災害が起きた。
  震災直後、混乱の中、決してパニックになることなく、
  当然のごとく暴動や掠奪も起きず、整然とした行動が
 とられ、ボランティアの方たちと、その後の行動をした。
  世界中は、震災報道もしたが、日本人のその後のこの
 様子も、称賛の中で報道した。
  日本の民度の高さを称賛した。
  公共心や道徳心に驚嘆した。
  その根を支える性善説の宗教心に驚嘆した。
  長く日本人の心にあったものは失われていなかった。
  少子高齢化とか、長いデフレなどで、社会は縮小して
 いると言われ、マイナス・マインドが洗脳され、マイン
 ド・コントロールされているが、何ら日本人の特質は、
 失われていず、
  逆に、その特質は磨きがかかり、高い資質になってい
 ると言える。
  何しろ前向きに性善説的に物事をとらえ、日本の長い
 歴史で蓄積した潜在能力を引き出して行くことが、肝心
 なのである。
.
2017年11月27日、日英が地位協定の協議へ
  (読売新聞、2017年11月27日)に表記の表題の記事が
 載った。
  これは、日本とイギリスの両政府が、自衛隊とイギリ
 ス軍が、互いの国で円滑に活動できるようにするため、
 法的な立場を明確にする「協定を締結しよう」との方針
 を決めた。
  今後、協議を重ねて行くが、協定の名は「訪問部隊地
 位協定(VFA)」。
  昨年・2016年、イギリス空軍が来日し、初の2国間訓練
 が実現した。
  来年・2018年には、イギリス海軍の最新空母を日本近
 海に展開して、海上自衛隊と訓練を行うほかに・・、
  陸上自衛隊とイギリス陸軍との共同訓練も実施する方
 向で検討中。
  防衛省幹部は、「日英間の信頼関係をアピールし、ア
 ジア太平洋の抑止力につなげる狙いもある」と。
  日英は、12月の2プラス2で、新型空対空ミサイルの試
 作についても合意する。
  試作品は、2023年度頃の完成を目指す方針。
  イギリスなど6カ国が共同開発した中距離空対空ミサイ
 ル「ミーティア」に、日本製の高性能センサーを組み合
 わせて命中精度を向上させるという内容。
  装備品の共同開発が実現すれば、同盟国のアメリカ以
 外では初めてとなる。
  日英の安保協力は、すでに、安倍内閣の下で推進され
 て来ていて・・、
  2013年7月に、装備品の共同開発を進める協定を結んで
 いる。
  そして、2014年度から、ミサイル技術の共同研究も始
 めている。
  また、今年・2017年1月には、自衛隊とイギリス軍が、
 弾薬などを融通し合える物品役務相互提供協定(ACS
 A)を締結している。
  また、今年・2017年8月~9月には、メイ英首相が来日
 して国家安全保障会議(NSC)に出席し、「日英の安
 保協力をさらなる高みに引き上げる」ことを確認してい
 る。
  (参考)訪問部隊地位協定:共同訓練や災害救援など
     で一時的に国内で活動する外国軍の法的地位を
     定める協定。
      長期駐留を前提にした日米地位協定と異なり、
     事件・事故の裁判権などは含まないケースもあ
     る。
      日本では2014年に協議入りしたオーストラリ
     アとのVFAが近く合意に達する見通し。
.
2017年、今、ドイツは、アメリカとの関係が、安全保障上、
 国の命運を握るという死活的だった時代は、今・現代、
 去っている。
  ドイツは、グローバル化が正しいのだとの風潮に煽(
 あお)られ、その流れの中で移民も受け入れて来た。
  15年間続けた移民も、100万人を越えた。
  移民は、「ドイツに同化するより」ドイツの文化を破
 壊し、過去のものとした。
  ある地域からは、すっかりドイツ文化が消えた。
  その移民は、難民として人道的面もあったが、あまり
 の流入数、その多さ・・その異質の文化や習慣も、その
 数と共に一緒に入って来て、過去からの「いつものドイ
 ツの日常」は消え去った。
  今、また、その「移民の家族」を呼び寄せる問題が起
 きている。
  移民・難民は、ドイツの生活レベルの高さから、その
 ほとんどがドイツに定住している。
  そして、その地域と周辺ドイツとの格差問題も生まれ
 ている。
  (新しくドイツ人となった元移民・難民の人々と、ド
 イツに居た人々との格差問題)
  グローバル化が正しいとしたアメリカは、主に、経済
 的理由から、アメリカのエスタブリッシュのグローバル
 企業の論理から「その正しさが唱(とな)えられた」が、
  建国からの移民の流入で、「人種のるつぼ」とアメリ
 カは化したが、その人種間の異質文化を乗り越えること
 が出来ずに、人種差別行為に明け暮れている。
  異質な人々を、中世のヨーロッパで、特に、ユダヤの
 方々がその対象とされ、「ゲットー」という特定地域を
 決められて押し込められた・・
  この如く、今・現代において、アメリカで、黒人の方々
 をゲットーに押し込めている(ニューヨークの黒人街な
 ど)
  結局、グローバル主義の行き先に、いつの時代になっ
 ても乗り越えられない人種問題が横たわっている。
  人間の本質を尊重する、その個性を尊重する、その違
 いを尊重する・・が正しいが・・それを乗り越えること
 が出来ないのが実態となっている。
  「グローバルだ」と無理に混ぜ、軋轢(あつれき)を
 乗り越えろと命じるが、結局、非人道的行為を引き起こ
 す事態・始末になっている。
.
2017年12月1日、ロシアが、千島に対艦ミサイル
  標記の表題で(読売新聞、2017年12月1日)が報じる・・、
  また、その表題は、「配備計画、北方領射程、米に対
 抗か」とある。
  ・・以下に、それを参考に記すと・・
  ロシア紙イズベスチヤ(29日付)は、ロシア軍が千島
 列島マトゥア島(日本名:松輪島)とパラムシル島(日
 本名:幌筵島・ほろむしるとう)に基地を建設し、地対
 艦ミサイルを配備する計画を進めていると報じた。
  アジア太平洋地域で活発に展開するアメリカ軍に対抗
 する狙いとみられる。
  ロシア軍は来年(2018年)、マトゥア島とパラムシル
 島で、最新型地対艦ミサイル「バル」(最大射程120キロ)
 と「バスチオン」(同600キロ)の配備に取り掛かると
 いう。
  専門家が派遣され、基地建設のための調査やミサイル
 の配備場所の選定に入っているという。
  ロシア軍は昨年(2016年)11月に国後島に「バル」を、
 択捉島に「バスチオン」を配備し、両島に計3500人の兵
 力を駐留させている。マトゥア島に地対艦ミサイルが配
 備されれば、カムチャッカ半島から北方領土の択捉島ま
 で射程に入るといい、同紙は「オホーツク海を押さえ、
 沿海地方とサハリン州を敵の攻撃から守ることができる」
 としている。
  マトゥア島とパラムシル島は第二次世界大戦中、日本
 軍が対米防衛の拠点として重視し、滑走路や港湾を整備
 し兵力を配置していた。
  軍事専門家のアレクサンドル・モズガボイ氏は同紙に
 「(当時の)日本人は両島の戦略的な重要性を理解して
 いた。
  現在の国際情勢を考慮すれば、ロシアの軍事力の配備
 は理に適っている」と指摘した。・・以上・・
  アメリカのルーズベルト大統領が、第二次世界大戦(
 大東亜戦争)の時、ソ連のスターリンをそそのかして、
 日本を攻める武器・弾薬までも、ソ連にまで運んで、日
 本と戦えと言った・・
  そしてまた、日本の領土を取っても、アメリカは何も
 言わないという「うまい話」でそそのかして、日本を攻
 めさせ(国際法違反で成立しない戦いまでして)日本か
 ら奪った地に、今度は、日本やアメリカを攻撃するミサ
 イルが配備された・・と、報じたニュースだった。
  こんなことを、アメリカのルーズベルト大統領がして
 いなければ、この地に、日米安保のミサイルが配備でき
 ていたであろう。
  この様な事から、北方領土・千島列島・南樺太は、日
 本に返還がなされる可能性は完全に薄い(ロシアの国際
 法違反のままの状態となる)
  また、トランプ大統領の行動が、この様な形で、事態
 が展開して来て・・、一(いち)・・北朝鮮だけではな
 く、ロシアが敏感に反応し・・ますます、高性能な武器
 に囲まれた地となった。。
  事態はますます、日本が孤立する状態となった。
  丸腰状態の日本が居る状態となっている・・防衛に責
 任を持て!
  (戦争は嫌だ・・戦争反対だと叫んでいるだけで・・
 女性や子供たちを・・家族たちが守れるなら・・戦争が
 起きないのなら・・苦労はいらない)
  その世論を繰っている・・恐怖心を起こさせているだ
 けのNHKの罪は重い!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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共通テーマ:日記・雑感

(増補版)567E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年11月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)567E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年11月~1892年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年11月12日、官吏の勤務時間を、夏期を除き、退庁時
 間を1時間延長した。
  これによって、拘束8時間制となった(閣令第6号) (
 11月22日説あり)
  因みに、江戸時代の幕藩体制の頃の武士の執務時間は
 6時間だった。
1892年11月14日、高等官官等俸給令公布(勅令第96号)
  この法令によって、親任官以外の高等官が9等分され、
 親任官・一等官・二等官が勅任官、三等官から九等官まで
 が奏任官と定められた。
  (参考)官庁に勤める者を、官吏と管吏でない者(嘱
     託・雇員など)に分け、
      官吏は、高等官と判任官にわけた。
      また、高等官は、親任官と勅任官と奏任官に
     分けられた。
      親任官は、天皇陛下の親任式を経て任命され、
      勅任官は、高等官一等と二等を言い、
      奏任官は、高等官三等~九等を呼んだ。
1892年11月14日 山田顕義が死去した。
  山田顕義(やまだあきよし、1844年~1892年)陸軍軍
 人・政治家。
  1844年10月9日、山口県(長州長門・萩藩士)に生まれ
 た・・藩の海軍頭を務めた山田顕行の長男。
  吉田松陰の松下村塾に学び、京都を中心に尊王攘夷に
 活躍し、蛤御門の変に敗れ、品川弥次郎らと御楯隊(み
 たてたい)を結成、四国連合艦隊とも戦った。さらに、
 元治(げんじ)の内戦にも活躍。
  1864年8月20日(20歳)の禁門の変に参加した。
  1864年(20歳)の江戸幕府の長州征討では高杉晋作の
 下で「丙寅丸」の砲隊長として幕府艦を撃破した。
  1868年(24歳)の戊辰戦争では東征大総督参謀として、
 越後、東北、箱館・五稜郭と奮戦し功をたてた。
  明治維新後となって・・
  1869年(25歳)兵部省に出仕し、兵部大輔・大村益次
 郎の下で兵部大丞(ひょうぶだいじょう)を務めた。
  大村の死後は、遺志を継いで兵制の確立に力を注いだ。
  1871年(27歳)陸軍少将、そして・・、
  1871年12月23日(27歳)岩倉遣外使節に理事官として
 随行して随行し、フランスをはじめ、欧米の兵制を視察
 した。
  1873年(29歳)帰国して東京鎮台司令長官となった。
 また、清国特命全権公使を拝命した。
  1874年(30歳)佐賀の乱が勃発し、司法大輔(しほう
 たいふ)を兼任して、その鎮圧に当った。
  1874年(30歳)台湾出兵の閣議決定に反対を唱えた。
  1877年(33歳)西南戦争の際は、別働の征討第2旅団司
 令長官として活躍した。
  1878年(34歳)陸軍中将(西南戦争の功による)
  1878年(34歳)刑法草案審査委員となり、法典編纂事
 業に寄与する一方、元老院技官を兼任・・そして・・
  1879年(35歳)参議に就任、内務卿、工部卿を兼任し
 て歴任。
  1882年(38歳)皇典講究所の設置に関与する。
  1883年(39歳)司法卿になる。
  1884年(40歳)伯爵を授けられる。
  1885年(41歳)内閣制度創設以後も、第一次伊藤博文
 内閣の司法相に入閣し務めた。
  1887年(43歳)この年から法律取調委員長を務め「法
 典伯」の異名をとるほどの熱意で、刑法はじめ法典編纂
 に尽力し、法典の整備をした。
  1889年(45歳)大隈重信外相の条約改正案に「大審院
 に外国人判事を任用する」という譲歩的事項が含まれて
 いたことが「憲法違反」として世論の攻撃にさらされる
 と、帰化法の制定を閣議に提案し、外国人判事の採用を
 可能にしようとした。
  1889年(45歳)皇典講究所の所長に就任し、また、日
 本法律学校(のちの日本大学)、国学院を創立した。
  1890年(46歳)民法はフランス人ボアソナード、商法
 はドイツ人レースラーの原案起草を得て、共にこの年の
 公布にこぎつけた。
  しかし、フランスに範をとる民法が、日本の国情に合
 わないという法典論争の議論が起こった。
  山田は早期施行を主張したが、結局、両法ともに施行
 されなかった。
  1891年(47歳)大津事件では、担当大臣として大逆罪
 適用を主張した。
  1891年5月(47歳)大津事件が無期徒刑の判決直後に辞
 任、病気のためだった。
  第一次伊藤内閣の司法相、黒田・第一次山県・第二次
 松方の各内閣でも司法相を歴任(1891年・47歳まで)
  1892年(48歳)枢密顧問官となったが・・
  1892年11月11日、死去、49歳。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカ軍は、日本の本土防衛のために駐留しているのではない・・
    アレクシス・ジョンソン国務次官から、ニクソン大統領に提出されたメモ
.
1676年、ナサニエル・ベイコンの反乱。
  アメリカ・バージニアで起き、黒人の方々の抵抗・反
 乱として初めてのものだった。
  弾圧による不満の極致にあった黒人奴隷の方々が立ち
 上がった。
  これに不満を抱いていた開拓者も加わった。
  この年に、メリーランドでも反乱が起きた。
  1739年9月9日、サウスカロライナでカトーの黒人奴隷
   の反抗。
   これは最大の蜂起と言われている。
   捕まった奴隷の方々は、そのほとんどが処刑された。
   生き残った少数は、西インド諸島の市場に売却され
   た。
   サウスカロライナ州議会は法律を作って、黒人奴隷
   の方々の移動を制限し、また、教育も制限し、組合
   結成も制限した。
  1770年3月5日、自由黒人クリスバス・アタックスが、
   「ボストンの虐殺」で軍の銃弾に倒れた。
   イギリスの締め付けが厳しい事で反抗した。
  1773年1月6日、「フェリックス」、解放を求める奴隷
   の請願書
  1773年4月20日、ピーター・ベステスと他の奴隷、解放
   を求める請願書 
  1773年6月、マサチューセッツのハッチンソン総督・オ
   リヴァー副総督の本国あて私信が暴露される。
   植民地人の自由を制限することを主張していた。
   マサチューセッツの黒人が、議会に自由を求める請
   願書を提出。
  1775年、イギリス軍に参加する奴隷には自由を与える
   という、破廉恥な方法で兵士を集める「バージニア
   総督・ダンモア卿の布告」
  1776年、独立宣言が行われる年になって、やっと、ア
   メリカ軍が自由黒人の軍隊参加を承認した。
   後追いの処置となっている。
   黒人嫌いのリンカーン大統領は、黒人の軍隊参加を
   渋っていた。
   黒人の方々は、何度、頼んでも許可しないリンカー
   ンを軽蔑し、すでに、軍隊へ飛び込んで参戦してい
   た。
.
1789年、アメリカ合衆国憲法が制定された。
  「3/5条項」や奴隷貿易存続などを承認したことにより、
 このアメリカ憲法が奴隷制度を容認する状態となる。
.
1790年、フランス領ハイチで奴隷革命が起きた。
  そして、1803年に黒人共和国が成立した。
  アメリカの黒人奴隷の方々は、これに大いに勇気づけ
 られた。
.
1793年、アメリカで逃亡奴隷取締法が成立した。
  この年、イーライ・ホイットニーが、綿繰機を発明し
 た。
  これが綿花栽培の発展の契機となる。
  そして、この綿畑に黒人奴隷の方々が、大勢、連れて
 来られる。
.
1794年、アメリカ白人のキリスト教教会が、黒人差別をす
 ることに対して、黒人のリチャード・アレンが、最初の
 黒人の教会をフィラデルフィアに設立した。
  この年には、奴隷制反対協会の全国大会が、フィラデ
 ルフィアで開催されている。
.
1896年、アメリカというキリスト教国が、『黒人差別をし
 ても良い』という判決を出した。
  まったく破廉恥な軽蔑すべき判決で・・、
  施設などが平等であれば、黒人を白人から隔離しても
 その行為は憲法違反にはならない・・という連邦最高裁
 判所の判決で・・、
  アメリカの下級裁判所ではなく、最高裁判所が出した
 という卑劣な判断だった。
  こんなにはっきりした明確な人種差別行為を、アメリ
 カ特有な屁理屈で「人種差別ではない」として人種差別
 を行なった。
  この判決が、アメリカの基本的考え方として適用され、
 どこでも、アメリカ中で、堂々と、黒人の方々を差別す
 るという行為が行われた。
  アメリカという国の怖い所は、宗教的な偏見で、明ら
 かに筋が通っていない事でも、アメリカ特有の屁理屈か
 ら「不正義」を「正義」としてしまう。
  これは、黒人の方々のみならず「非白人」の「有色人
 種全般」に適用された。
  このアメリカという国の「人種関係全般を支える法的
 原理」になった。
  これから「バス」で、「学校」で、「教会」で、あら
 ゆるところで人種差別が堂々とアメリカ中で行われる。
.
1900年6月20日、義和団事件(~1901年9月7日)
  この事件で、中国は、列強各国に賠償金を支払う事に
 された。
  アメリカは、この金を、キリスト教関係へ流した。
  そして、中国でのキリスト教の布教活動を活発化させ
 た。
  キリスト教系の学校が、多数、創設された。
  また、多数のキリスト教宣教師が中国へ渡った。
  アメリカでの募金活動も広がった。
  そして、キリスト教系の人と莫大な金が中国へ流れた。
  (しかし、結果的にキリスト教信徒は増えなかった)
  1927年、一地方軍閥にすぎない蒋介石が、北京に政府
 樹立の宣言をするや、アメリカは承認して中央政府とし
 た。
  キリスト教宣教師は蒋介石と連合した。
  この動きの中にアメリカ雑誌の「タイム(TIME)」
 「ライフ(LIFE)」創立者のヘンリー・ルースが居
 た。
  しかし、信徒が増えないという状況で、募金打ち切り
 と宣教師の引き上げが検討されるようになった。
  そこで、キリスト教宣教師たちが使った手が、日本を
 貶(おとし)めて、アメリカにおいて、再び、中国に関
 心を向けさせるという手だった。
  キリスト教牧師のマギーは、南京市民を撮影して、ア
 メリカの政府関係者や、新聞記者に見せて、反日を煽っ
 た・・中国への同情と関心を喚起した。
  この例の様なキリスト教関係者の反日行動があちこち
 でなされた。
  上海のボイントン宣教師は、新聞記者や外交官へ、テ
 ィンパーリィ記者(オーストラリア人記者、実は、中国
 国民党宣伝機関のイギリス支部責任者)が金で依頼され
 て執筆した南京事件などを吹聴した。
  この様な色々な行動の中で、アメリカにおける反日感
 情が作り出されて行った。
  1937年に至って、ルーズベルト大統領の「日本を疫病
 患者に見立てた卑劣な批難演説」となる。
  そして、日本が戦争に負けて、東京裁判に於いて、キ
 リスト教聖職者のマギーは、証言で、見てもいない日本
 のありもしない卑劣な行為を言い続けた。
  反対尋問に於いて、マギーは、見ても居ないことを、
 延々と色々、言っていることが一つ一つ嘘だと暴露され
 た。
  特に、キリスト教宣教師たちの語ったその言葉の嘘・
 悪口・雑言はその極致にある(エスピー報告)
  当時の日本側の馬淵逸雄中佐(上海派遣軍報道部)も
 以下の様に指摘している・・
  「それ(南京の外人記者)にもまして悪影響の種をま
 いたのは、アメリカ宣教師たちの悪質デマ通信であった。
  あたかも入城した日本軍が鬼畜の行動をしたかのごと
 く通信をし、世界の対日感情を悪化させた・・(中略)
  首都・南京の占領も、この二つの事件(パネー号事件、
 および、レディバード号事件)とキリスト教宣教師のデ
 マ宣伝とによって、その対外的価値を半減した」・・と。
  今でも、キリスト教は日本を貶めている。
  そして、日本のシンボルである「国旗」と「国歌」に
 対しての貶め行為は酷いものである。
  この貶め行為が、日本に定着して来ると「表から消え
 る」というキリスト教である。
  キリスト教に偏するNHKは、盛んにその肩代わりを
 している。
  そして、そのNHKの息のかかる「放送大学」も、N
 HKにゴマを摺っているのか、盛んに日本を貶めている、
 また、キリスト教の「巧妙なる伝道行為」をしている。
.
1901年、官営の八幡製鉄所が開業して、鉄鋼の国産が開始
 された。
  それに伴い、造船業も発展を遂げた。
  日露戦争の後には1万トン以上の造船も可能となった。
  『日本の産業革命』と言われる時代が始まった。
  日本のこの目ざましい近代産業の発展は、江戸時代以
 来の民間の高い教育水準がそこにはあった。
  また、国民の勤勉さがあった。
  四民平等の施策によって、国民に自分の努力と工夫に
 よって人生が切り開かれる社会体制があり・・、
  また、渋沢栄一(埼玉県深谷の豪農の生まれ)の様な
 有能な民間の実業家が、多数、登場した。
  また、日本の施策が優秀で、日本の発展のための的確
 な施策がなされて行った。
  重点的になされた「交通網の拡充」も最適切だった。
  産業の発展を支えた。
  1889年には、東海道線の新橋~神戸間が全線開通した。
  そして、全国の鉄道網が拡大して行った。
  また、馬車などの通行が可能なように、道路も整備さ
 れて行った。
  地方の都市や農村にも鉄道が通って、それまでの街道
 筋に変わって、駅周辺が新たに発展した。
  農村も様々な副業が試みられ、生活水準も向上した。
  米食が普及し、人口も着実に増加して行った。
  子女を製糸工場に出稼ぎに出したり、都市に移住して
 工場の労働者になる人々も、多数、出る状況にあった。
.
1905年9月5日、日露戦争が、日本勝利で終わった。
  日露戦争の後、ロシアは、東アジアでの動きを止めた。
  南下政策もあきらめた。
  そして、活動拠点を、再び、ヨーロッパへ移し、進出
 を模索した。
  ヨーロッパの情勢は、そのため、緊迫するものとなっ
 た。
  ドイツは、すでに、1882年に、オーストリアとイタリ
 アとで三国同盟を結んでいた。
  そして、海軍力を強め、海外へ進出をした。
  これを恐れたイギリスは、ロシアとフランスに接近し
 た。
  ロシアは、1891年に、フランスと露仏同盟を結び、ま
 た、1907年には、イギリスと英露協商を結んだ。
  また、1904年には、英仏協商が結ばれている。
  そこで、この三国(イギリス、ロシア、フランス)は、
 1907年に、三国協商を結びドイツを包囲し、ドイツなど
 の三国同盟と対峙(たいじ、にらみ合って対立すること)
 した。
  これによってヨーロッパは、緊張が高まって行った。
  この時、日本は、1902年に、日英同盟を結び、1905年
 の日露戦争の戦勝の後、1907年には、ロシアと日露協約
 を、また、フランスと日仏協約を結んだ。
  日本は、三国協商の三国とのつながりを強めた。
  この頃、バルカン半島に緊張が高まった。
  民族の独立を目指す運動が高まった。
  この地域に利害を持つイギリスをはじめとする三国協
 商の列強諸国と、ドイツをはじめとする三国同盟の列強
 諸国は、この独立運動を利用して勢力を伸ばそうとした。
  そのため、バルカン半島は、「ヨーロッパの火薬庫」
 と呼ばれた。
  一触即発の緊張状態となり、この状態が続いた。
  これは、東アジアの中国の軍閥が割拠する頃の状況と
 同じ様な緊張状態だった。
  バルカン半島で、ヨーロッパ列強各国がうごめくこと
 が良くて、「満州ではダメ」なんて言えない状態だった。
  こんなことをしでかして来たヨーロッパ各国が、満州
 で日本をとやかく言うような事が出来るのか・・?
  そして、結局、1914年、オーストラリア皇太子夫妻が、
 ボスニアのサラエボで、親ロシアのセルビア青年に殺さ
 れると(サラエボ事件)、これを切っ掛けとして第一次
 世界大戦を起こしてしまった。
  他人(ひと)の事をとやかく言えない状況をやってい
 た。
.
1905年、日清戦争後、中国から、日本の近代化に学ぼうと
 して、多数の留学生が日本に来て・・そして・・
  1905年、孫文は、東京で留学生を中心に中国同盟会を
 結成した。
  そして、三民主義を掲げて、清朝を打倒する運動を開
 始した。
  1911年、中国では、民衆の反政府運動と軍の反乱が結
 び付いて、多くの省が清朝からの独立を宣言して、辛亥
 革命(しんがいかくめい)が起きた。
  1911年、そして、この年、南京に革命派の代表が集ま
 って孫文を臨時大総統に選びんだ。
  1912年の翌年に、中華民国の成立を宣言した。
  首都は、南京に置かれた。
  清朝政府の実力者だった袁世凱(えんせいがい)は、
 この革命派と結び、皇帝を退位させて清朝を滅ぼした。
  そして、その引き換えに孫文から大総統の地位を譲り
 受けた。
  しかし、袁世凱は、大総統に就任してから、自己の権
 力強化を図った。
  袁世凱は革命派を弾圧し始めた。
  その後、中国は、統一性を失って行った。
  権力を持つ地方政権である大小の軍閥が発生すること
 によって、各地方がバラバラに支配されるようになった。
  この一地方軍閥が蒋介石。
.
1917年2月23日、2月革命(~1917年2月27日)
  ロシアの崩壊はこの日のデモが切っ掛けだった。
  日本と衝突した日露戦争の際の1905年の第1次ロシア
 革命、
  第一次世界大戦中の第2次ロシア革命は、いずれも民
 衆の暴動から始まった。
  その中から1917年に世界最初の社会主義政権ソヴィエ
 ト=ロシアが誕生し、最後の皇帝ニコライ2世は処刑さ
 れ、ロマノフ朝は終わりを告げた。
  1917年2月23日、ペトログラードで国際婦人デーにあわ
 せてヴィボルグ地区の女性労働者がストライキに入り、
 デモを行った。
  食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」とい
 う要求が中心となっていた。
  他の労働者もこのデモに呼応し、数日のうちにデモと
 ストは全市に広がった。
  要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。
  ロシアは、ドイツとの戦争が長引いて、庶民は食糧難
 にあえいでいた。
  そして、都市の市民に暴動がおこり、これに兵士が加
 わった。
  これを契機としてロマノフ王朝が倒れた。
  国外に逃亡して革命の機会を待って居たレーニンは、
 直ちに、この機会を利用した。
  レーニン派は、武装蜂起し、兵士と労働者を中心にし
 て、代表者会議(ソビエト)を拠点とする政府を作った。
  そして、他の党派を武力で削除し、共産党の一党独裁
 体制を築いた。
  ソビエト政府は、ドイツとの戦争をやめ、革命に反対
 する国内の勢力との内戦に没頭した。
  ロマノフ王朝の皇帝一族を処刑し、また、共産党が敵
 とみなす資本家、キリスト教聖職者、地主、貴族、知識
 人らの多数を処刑した(ロシア革命)。
.
1917年12月、日本の軍艦の艦隊が編成されてヨーロッパへ
 派遣された。
  1902年に日英同盟が結ばれ、また、1907年には日仏協
 約や日露協約を結んだ日本は、第一次世界大戦において、
 この三国協商の側について、ドイツなどの三国同盟側と
 戦った。
  ドイツの潜水艦が、イギリス・フランスなどの協商側
 の商船を警告もなく無制限に攻撃する作戦をしている事
 から、日本は軍艦を地中海へ派遣して(イギリスの要請)、
 マルタ島を基地として、三国協商の輸送船団を、ドイツ
 の潜水艦から守った。
  また、ドイツの租借地であった中国の山東半島の青島
 (チンタオ)を攻撃した(この近くに有名な租借地・威
 海衛はイギリスの租借地がある)。
  また、日本は、太平洋の赤道以北のドイツ領の島々を
 攻撃した(赤道以南はオーストラリアおよびニュージラ
 ンドが統治)。
  また、遼東半島の関東州などのドイツ租借地を攻撃し
 た(因みに、ドイツやイギリスは、中国のあちこちに広
 大な租借地を持っている)
.
1918年、シヘリア出兵
  アメリカやヨーロッパ諸国は、ソビエト政府の共産主
 義に強い警戒心を抱いていた。
  長年、シベリアを勢力圏におさめ、南下するロシア及
 びソ連の脅威を、日本も受けていた。
  このアメリカ・ヨーロッパ諸国・日本は、ロシア領内
 で孤立したチェコスロバキア部隊の救出と、革命阻止と、
 シベリアへの影響力を持つことを目的に、共同して出兵
 した。
.
1921年、第二回全黒人地位改善協会大会が開かれた。
  アメリカは、とことん黒人の方々を虐(しいた)げる
 国だった・・軽蔑すべき国だった。
  アメリカの自国だけでなく西インド諸島やアフリカの
 新大陸にまでその魔の爪先を伸ばして・・虐げた。
  黒人の方々は、リンチや人種的抑圧、その他さまざま
 な差別を激しく非難した。
  そして、抵抗行動として「税金の不払い」「黒人差別
 法の無視」「暴力には『手段を選ばぬ』自己防衛」をと
 った。
  1921年に、ニューヨークで開かれた第二回全黒人地位
 改善協会大会は、アメリカの全地域から集まっただけで
 なく、西インド諸島や南アメリカ、アフリカからも多く
 の黒人の方々が集まった。
  この黒人指導者のガーウェイは、「アフリカ帝国」の
 樹立を宣言し、自らその臨時大統領に就任した。
  黒、赤、緑の三色の国旗も制定した。
  このガーウェイの行動の重要な所は、この後に、アメ
 リカ全土を席巻する「公民権獲得運動」への発展して行
 くところだった。
.
1923年3月3日、タイム(TIME、雑誌)が、ヘンリー・
 ルースによって創刊された。
  アメリカにおける初の週刊ニュース雑誌だった。
  2009年の発行部数は340万部。
  また、ヘンリー・ルースは、1936年11月23日、アメリ
 カで写真を中心としたグラフ雑誌の「ライフ(LIFE)」
 を創刊している。
  この雑誌は、1967年~1970年頃に850万部の最盛期の
 最高発行部数を記録した(1972年12月29日の1862号で休
 刊した・・1978年に復刊したが、2000年に再び休刊)
  このヘンリー・ルースは、中国の山東省に生まれた。
  父は、北京で布教活動に従事していた医師だった。
  そして、この父親は、中国で、燕京大学(えんきょう
 だいがく)をはじめとするミッション系大学を設立に貢
 献した。
  (因みに、この燕京大学は、1952年、中国政府によっ
 て解体されている)
  そして、このヘンリー・ルースは成長して、アメリカ
 に戻ると、上記した様にニュース週刊誌『タイム』と、
 写真週刊誌『ライフ』を創刊した。
  ヘンリー・ルースは、『タイム』の表紙に蒋介石を使
 った。
  そして、『ライフ』には、日本軍の爆撃にあったとい
 う赤ん坊の嘘のデッチアゲ写真を載せた。
  中国への同情を掻き立てるためであり、募金を募って
 蒋介石を支援した。
  メディアの媒体を使って日本を貶(おとし)め行為を
 盛んにした。
  アメリカの国民の方々の反日感情を掻き立てた。
  「ライフ」も「タイム」も反日で、親中国の宣伝誌だ
 った。
  (今・現在も、アメリカでは、巨大な中国資本で、日
 本の悪宣伝が行われている。
  サンフランシスコでは、韓国の慰安婦像の建立を中国
 が支援している)
  また、キリスト教宣教師の父を持つ、このヘンリー・
 ルースは、宣伝媒体・映画も使った。
  ニュース映画『マーチ・オブ・タイム』を製作して、
 野蛮な日本を掻き立てた。
  そして、その日本と戦うけなげな中国というイメージ
 を盛んに宣伝した。
  2018年(来年)、日本のキリスト教は、これと似た方
 法で日本を貶める映画を公開する予定だという。
  遠藤周作の「沈黙」の原作を改作して、嘘でデッチ上
 げて作り直し、キリスト教を美化して、日本を貶める映
 画を公開する予定だという。
.
1923年、日英同盟がワシントン会議で失効した。
  当時のイギリス外相のバルフォアは・・、
  「20年も維持し、その間、二回の大戦に耐えた日英同
 盟を破棄することは、たとえそれが不要の物になったと
 しても忍び難いものがある。
  だが、これを存続すればアメリカから誤解を受け、こ
 れを破棄すれば日本から誤解を受ける。
  この進退困難を切り抜けるには、太平洋に関係のある
 大国全てを含んだ協定に代えるしかなかった」・・と。
.
1928年、老将軍の張作霖は、この年まで満州を支配下に置
 いていた。
  張作霖は、北京の「中央政府」に権力を得たこともあ
 ったが、満州の地の地方的軍閥で・・張作霖は、満州を
 自分の私領と思っていた。
  そして、二度、満州の独立を宣言した。
  1928年、張作霖が爆死すると、息子の張学良が、父の
 領地と軍を引き継いだ。
  張学良は、親イギリス的で、統率力は父ほどではなく
 低かった。
  その為、「共産系匪賊(ひぞく、集団を成して略奪な
 どを行なう賊)」に荒らし回られた。
  住民の心は、張学良の政治を悪政と感じ、張学良から
 離れていて、独立を求める気運の中にあった。
  中国情勢は混沌(こんとん、区別が立たず物事が入り
 混じっている状態)としていた。
.
1937年8月13日、中国の南京で起きたこと・・この日、蒋介
 石軍が、突然、上海の日本租界を攻撃を始めた(第二次
 上海事変)
  この攻撃から南京事件につながる日中戦争が始まった。
  この頃、日本は、軍を引き上げようとしていた。
  日本政府は、1937年7月28日、揚子江沿岸に在留してい
 た日本人約29,230名の引き揚げを訓令した・・そして・・
  1937年8月9日までに上海への引き揚げを完了していた。
  また、軍も引き上げようとしていた。
  そして、アメリカは、中国の数々の軍閥の中で、中国・
 蒋介石軍を支援した。
  まだ、中国国内のあちこちに、色々な軍閥が割拠して
 いるのに・・、
  1928年6月、この蒋介石が、北京で政府を作ったと宣言
 したからというのがその理由だった。
  ただそれだけの理由だった。
  そして、アメリカは、この蒋介石へ、武器・弾薬を与
 えた。
  日本の消耗を狙った消耗戦があった。
  日本が消耗したら、今度は、自分が出て行くつもりだ
 った。
  アメリカは、後になってベトナム戦争の時もこの作戦
 を使った。
  そして、イギリスは、中国で膨大な権益を持っていた。
  そのため、日本と連合して、時には治安行動を行なう
 という事もあった。
  (1902年~1923年、日英同盟を結んでいた・・特に、
 第二次日英同盟の時に攻守同盟を結んだ・・そして、第
 三次日英同盟の時に、日本は、第一次世界大戦を連合国
 として参戦した)
  1937年のこの時に、上海に居た日本軍は、日本に戻ろ
 うとしていた。
  この様な時、アメリカの支援を受けた蒋介石軍は、多
 くのその支援物資とともに、屈指の精鋭部隊である3万人
 の大部隊で、上海の国際共同租界の日本人区域を包囲し
 た・・ここから日中戦争が始まった。
  そして、1937年8月13日、攻撃を仕掛けた。
  この時、上海に居た日本軍は少数であった。
  日本軍の内訳は、上海陸戦隊2200、日本に引き揚げよ
 うと漢口から引き揚げてきた特別陸戦隊300など4000人だ
 った。
  日本に戻ろうとしていた日本軍は、日本へ戻ることが
 出来なくなった。
  当然、その戦闘を行なうという状態となった。
  日本領事は、国際委員会を招集して、中国軍の撤退を
 要求した。
  しかし、中国軍は攻撃されたからだと真っ赤な嘘を主
 張した。
  そして、また言った「中国軍は攻撃されない限りは攻
 撃しない」と・・まったくの嘘の話を主張した・・中国
 は、中国側の責任を全く認めなかった。
  日本は、やむなく派兵を要請した。
  戦いは拡大して行った。
  この戦いの詳細は・・1937年8月13日午前10時半、中国・
 蒋介石軍は、日本軍陣地に対して機関銃による射撃を、
 突然開始する事から始まった。
  物資の豊富な蒋介石軍は強力だった。
  午後5時頃には、中国軍はあちこちの橋を爆破した。
  砲撃も激しかった・・日本軍は応戦した。
  そして、5時頃、戦いが収まりそうにないと判断した日
 本の司令官は、全軍の戦闘配置を指令し、激烈な戦闘が
 開始された。
  長谷川清海軍中将(海軍上海特別陸戦隊及び第三艦隊
 司令長官)は、戦争回避をしたいと考えていた・・、
  長谷川中将は、1937年7月から、華北での戦火拡大から
 考え、中国軍はすでに開戦を意図していると察していた。
  日本への攻撃を意図した蒋介石は、中国・蒋介石軍を、
 無錫や蘇州に20万人以上の大部隊を待機させ、戦争の準
 備を整えていた。
  戦いが始まって、日本は、この様な状況も察知し、こ
 の部隊への爆撃命令が出された。
  日本艦艇も蒋介石軍機によって空襲された。
  この蒋介石軍の空襲で、フランス租界や国際共同租界
 も爆撃された。
  路上にいた729人が即死し、861人が負傷した。
  また、避難所も蒋介石軍に空襲され1012人が死亡、1007
 人が負傷し、民間人の多数が犠牲となった。
  これも、中国・蒋介石軍は、日本軍機によるものだと
 嘘を承知で誤った内容を発表した。
  日本の爆撃も、九州から渡洋爆撃をするなど拡大した。
  この様な戦闘の結果、1937年11月中旬頃、日本は、や
 っと、その蒋介石軍を退けることが出来た(3ヶ月間の戦
 いだった)
  蒋介石軍は、南京へ退却して行った。
  ここで、日本軍は、日本に凱旋できるはずだった。
  「上海戦を制すれば、ただちに軍事行動を停止し、欣
 然(きんぜん、よろこんで)日支の友交をおさむるに吝
 (やぶさ)かならず(軍令部第一部甲部員/支那事変処理)」
 ・・喜んで日支の友好に努める・・だった・・
  退却する蒋介石軍を追撃するか否かの時に、日本のマ
 スコミ(NHKを初めとする日本のマス・メディア)は
 報道で煽った・・そして、参謀本部から11月19日に追撃
 命令が出た。
  日本には、追撃することに対しての反対意見もあった。
  報道の煽(あお)りでこの意見が封じられた。
  南京に入場するときに、日本では「ちょうちん行列」
 で祝った(1937年12月13日)が、この様に、日本国民を煽
 ったNHKをはじめ日本のマスコミは、大きく軍の行動
 の判断を狂わし、動かした。
  南京へ向かう日本軍を、NHKはじめマスコミは、そ
 の都度、詳細に報道し、その報道に日本国民は煽られた。
  「南京城に日章旗が翻(ひるがえ)るまで」とNHK
 はじめマスコミは報道合戦を繰り広げた。
  1937年12月7日、南京に・・日本軍が迫ると、アメリカ
 は、蒋介石や蒋介石軍の司令部の者たちを、アメリカ軍
 の2機の飛行機やパイロットまで出して連れ去った。
  アメリカは、『救出』と言いたいのだろうが、これは、
 完全に日本軍と蒋介石軍との戦いへの介入だった。
  アメリカの参戦だった。
  ここで起きた悲劇は、多くの蒋介石軍の兵士が置き去
 りにされたことだった。
  この事から悲劇が始まった。
  アメリカによって、中国・蒋介石軍の指揮・命令系統
 が無くなされた。
  指揮・命令系統のない中国・蒋介石軍の兵士が戦場に
 残された・・卑劣な状態である。
  可哀想なのが中国の一般の方々・民衆の方々だった。
  指揮・命令系統のない蒋介石軍兵士は、一般の中国民
 衆を守れる状態ではなくなった。
  逃げ惑う中国・蒋介石軍兵士となった。
  その逃げる兵士を、蒋介石軍の下級将兵が、自軍の兵
 士へ向かって「逃げるな」と銃撃した。
  この様な「乱れに乱れた南京の状況」が現出した。
  降参して来る右の蒋介石軍兵士が、左から、やはり、
 降参して白旗を上げて来る蒋介石軍兵士が騙して銃撃す
 るという事もあって、右の兵士も左の蒋介石軍兵士とも、
 再び、銃撃戦になるという事も起きた。
  また、中国軍艦が、白旗を上げて降参しているので、
 日本の軍艦が近づいて行くと魚雷を発射して逃げるとい
 う中国軍艦のやり方・・、
  中国は、騙したってなんだって勝てばよいという考え
 方のやり方を昔からやって来た。
  騙される方が悪いという、国際法もあったもんじゃな
 いという中国だった。
  三国志(歴史書)を読めば分かる。
  日本の様に正々堂々と戦うのを良しとするのではなく、
 騙し合いの中国・世界である。
  卑怯なことだってなんだってやるという国だった。
  また、最悪なのが・・中国の民間人に隠れて、民間人
 の服に着替えて(軍服を脱いで)、そして、日本兵を狙
 撃して殺すという卑劣な卑怯な方法を多用した。
  こんなことをしては、中国の民間人に類が及ぶ(るい
 がおよぶ、他人の非が降りかかり、巻き添えを食う)の
 を分かっていてもやるという中国兵だった。
  まともな兵士なら、絶対、やってはいけない卑怯な行
 為だった。
  (日本を貶める事ばかり放送するNHKは、この様な
 事をまったく放送しない。日本を貶めてばかりいる)
  中国の庶民の方々を守る責任のあるものを奪い去った
 アメリカは、その指揮系統を無くしたアメリカの罪は非
 常に重かった。
  上海で・・攻撃を開始された日本は、アメリカが沖縄
 を攻めて来たように、南京まで攻めて行ったのであって、
 当然、侵略ではない。
.
1940年7月、アメリカの予備選で、黒人の方が排除されると
 いう事態が起きた。
  黒人の方々が投票することが出来ないという事が起き
 たのである。
  まったく卑劣な事がテキサス州で起きた。
  この事は、最高裁まで争われるという裁判になった。
  しかし、何と! テキサス州の最高裁判所は、その黒
 人の方への排除は適法だったと判決した。
  裁判所は、「政党の私的行為だから」とその判決理由
 を述べた。
  選挙には、すべて政党はつきものである・・この判決
 は、アメリカ特有の屁理屈だと言いたい。
  アメリカ大統領につながる予備選が私的行為である訳
 がない。
  この原告の黒人の方の投票できなかった事に関しての
 この屁理屈判決は、連邦最高裁判所まで持ち込まれた。
  ここでやっと、この4年後の1944年4月に、先の判決が
 ひっくり返り、「黒人の方の主張が認められた」。
  アメリカという国は、最近まで、この様に低劣な人種
 差別が激しい国だった。
  今・現在においても、完全に、この卑劣な人種差別が
 無くなっているとは言えない国である。
  「歴史のないアメリカ」は、まだまだ未熟な国なので
 ある。
.
1950年、卑劣な人種差別国・アメリカは、朝鮮戦争(1950
 年)の頃になって、やっと、アメリカ史上、初めて、「
 黒人の方々が、差別を受けず、白人と隔離なき統合され
 た軍隊」として動員された。
  リンカーンの奴隷解放なんてどこにあるのかというア
 メリカだった。
  1945年になって、やっと、アメリカ大統領が、大統領
 行政命令で連邦レベルで黒人差別を否定したことによる
 結果で、州法が制定される実施例が出た。
  この年に、ニュージャージー州とニューヨーク州に、
 雇用における人種差別を禁止する法令を州法によって制
 定した。
  (アメリカ北部の州も、やっと、この様な法令を制定
 した。
  アメリカ北部は人種差別をしていないなんて言うのは、
 完全なアメリカのプロパガンダ・嘘宣伝である)
  人種で雇用を差別することが、やっと、禁止された。
  肌の色や出身国や信条で、就業機会の差別をしてはい
 けないとされた。
  就業を妨げたりしてはいけないとされた。
  まったく遅いアメリカの法令化だった。
  しかし、まだまだ、卑劣な事に、州内の色々な公共施
 設における人種差別に関しては、そのままとされた。
  黒人の方々が、白人と同じ『市民的権利』を持つとす
 ることが出来ないアメリカだった。
  (トイレの差別など、乗り物の差別など・・などなど)
  この後、長くアメリカは、あらゆるところで『この差
 別を続けた』、今でもあるとさえ言える軽蔑すべき状態
 にある(この銅像を建てなさい・・)
  まったく差別のない日本とは大きく違う劣悪な人種差
 別国アメリカである。
.
1964年、アメリカに公民権法が、やっと、成立した。
  黒人の方々への差別を無くす法律がやっと成立した。
  (差別行為者はWASP)
  黒人の方々の大変な苦労がやっと実った。
  そこに、何と多くの黒人の方々の血が流された事であ
 ろうか・・
  そこには、白人・アメリカ人の悍ましい(おぞましい、
 身震いするほど嫌な感じ)人種差別の行為があった・・
 厳しく糾弾されるべき行為があった。
  黒人の方々の長い絶えざる広範な闘いが、そこに必要
 だった。
  (この闘いの指導者である黒人のキング師は暗殺され
 た)
  リンカーンの奴隷解放宣言は何だったのだろうか・・?
  何ら生かされていないというアメリカだった。
  キリスト教国・アメリカのWASP(W:白人、AS:
 アングロサクソン、P:キリスト教プロテスタント)の
 差別行為・圧迫行為は酷(ひど)かった。
  しかし、この卑劣な差別は、まだまだ、アメリカで続
 いている。
  キリスト教の教義「有色人種蔑視観」の洗脳により根
 深くアメリカに根付いてしまっている。
.
1971年8月24日、『核の傘」は幻影・・
  アメリカは日本を守らない。
  アメリカの「対日政策の見直し」により、核の傘は日
 本防衛の為ではないと明記された。
  アメリカの核の傘で守られているというのは幻想。
  本「仮面の日米同盟」の52頁などに、以下のような意
 味の記述がある・・、
  在日しているアメリカ軍は、日本防衛のために在日し
 ているのではない
  アメリカ軍の日本を防衛するコストはゼロである。
  「国家安全保障検討メモ(NSSM)122号」における
 「対日政策の見直し」の指示を受け、国務省が1971年8月
 24日付けでキッシンジャーに提出した文書ちょり・・
  「日本を協力的にとどめることを確保するコストには
 次のようなものが含まれる。
  核の傘の維持と米抑止力の信頼性。
  核の傘は、いずれにしても米国が自国の防衛のために
 疑いなく維持するので、核の傘の提供によって、日本の
 防衛に対する直接的なコストはかかっていない。
  日本国内、および、その周辺に配備されたアメリカ軍
 部隊は、アジアにおける米国の他の防衛公約を満たすの
 が第一の目的であり、日本防衛の為ではない」
.
1971年12月29日、アメリカ軍の駐留は、日本防衛ではない。
  日本は、目を覚まさねばならない。
  日本は、日本防衛のために立ち上がらなければならな
 い。
  アメリカ軍は、日本の本土防衛のために駐留している
 のではない・・
  アレクシス・ジョンソン国務次官から、ニクソン大統
 領に提出されたメモより・・、
  「在日アメリカ軍は、日本本土を防衛するために駐留
 している訳ではなく(それは日本自身の責任である)、
 韓国、台湾、及び、東南アジアの戦略的防衛の為に駐留
 している。
  北大西洋条約機構(NATO)と違って、日本とは、
 統合司令部に関する取り決めがなく、何らかの種類の統
 合計画もない・・
  このように、在日、及び、在沖縄米軍基地は、ほとん
 どすべてがアメリカ軍の兵站の目的のためにあり、戦略
 的な広い意味においてのみ日本防衛に務める。
  こうしたより大きい立場からの安全保障の思考は、日
 本自身の安全保障を直接的に損ねる、と我々は感じるか
 もしれないが、この見解は、多くの、多分ほとんどの日
 本人には共有されていない。
  日本人の多くは、アメリカ軍の存在は脅威とみなして
 おり、アメリカ軍の使用によって、日本自身が作り出し
 たわけではない紛争に日本を巻き込む恐れがあるとみて
 いる」。
  春名幹男氏著「仮面の日米同盟」(47頁~48頁)
  https://www.youtube.com/watch?v=RUtjdMpJZdk
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)566E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年10月~1892年11月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)566E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年10月~1892年11月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年10月、神戸工場で、汽車監督リチャード・フランシ
 ス・トレビシックの指導のもとに、1B1形タンク機関車の
 製作を開始した。
  リチャード・フランシス・トレビシック(1845年~1913
 年)は、イギリスの鉄道技術者で、蒸気機関車の発明者
 の一人であるリチャード・トレビシックの孫。
  リチャード・フランシスは、1888年に来日し、お雇い
 外国人として、主に官設鉄道・神戸工場の汽車監察方な
 どを務めた。
  1904年まで、勤務している。
  日本初の国産蒸気機関車となった860形蒸気機関車の製
 作を指導し、その後も、独特な様式を持った機関車を数
 種類製作した。
  弟のフランシス・ヘンリー・トレビシックも、鉄道技
 術者で、兄よりも早く1876年に来日した。
  そして、官設鉄道新橋工場の汽車監察方などを歴任し
 た。
  兄弟ともに、日本の機関車技術の向上と定着に大きな
 役割を果たした。
1892年11月1日、黒岩涙香が新聞「万朝報」を創刊した。
  万朝報(よろずちょうほう)朝報社、社主:黒岩涙香。
  小型4ページの日刊新聞で、「一に簡単、二に明瞭、三
 に痛快」の編集方針のもとに社会正義に根ざした。
  相馬事件や〈蓄妾の実例〉などの上流社会のスキャン
 ダル記事や娯楽記事、社会記事や多様な雑報記事、涙香
 の翻案探偵小説などを載せて発展し、江戸っ子の人気を
 博した。
  1893年に、山田藤吉郎の経営していた再刊の《絵入自
 由新聞》を合併した。
  1900年頃から、内村鑑三、幸徳秋水、堺利彦らの論客
 を迎え、社会批判を展開し、進歩的色彩の強い言論新聞
 となった。
  日露開戦前には、一時、非戦論を主張したが・・、
  日露戦争を前にして黒岩が主戦論に転じたため、非戦
 論の内村、幸徳らは退社した。
  また、報道体制の確立にもおくれをとったため、新聞
 界の主流から次第に離れ、大正期憲政擁護運動で一時的
 に人気を回復したが、
  1920年、黒岩の死後衰退、
  1940年9月、『東京毎夕新聞』 (1910年:創刊、1941年:
 廃刊) に吸収合併された。
  なお、社会事件を表現する「三面記事」は、この万朝
 報の4ページ立ての3面に記載されたことに由来する。
1892年11月1日、北海道炭礦鉄道会社線の追分駅~夕張駅間
 (42.8km)が開業した。
  沿線の炭鉱から産出される石炭を積出港に運搬する役
 目を担った。
1892年11月1日、旅客運賃を改正し、下等100マイル未満は
 1マイル1銭2厘、100マイル以上220マイル未満は1銭、
  220マイル以上は8厘とし、中等は下等の5割増し、上等
 は下等の2倍半となる。
  また、全線にわたり、小荷物配達扱を開始し、配達作
 業を内国通運に請けおわした。
  (東京では日本橋から2里以内、地方では駅から1里半以
 内が配達区域だった)
1892年11月6日 大井憲太郎が、東洋自由党を結党した(11
 月5日説あり)
  大井憲太郎、樽井藤吉らを中心とする自由民権運動の
 左派が組織したが・・、
  これに先立って、大井は、大阪事件の関係者ら急進勢
 力とともに、院外活動組織である東洋倶楽部を結成して、
 自由党の反動化に抗していたが・・、
  1892年6月に、自由党を脱党、小久保喜七、新井章吾ら
 大阪事件に連座した人々と新党を結成するに至った。
  その政綱は、「皇室の尊栄」「民権の拡張」「国権の
 発揚」を説いたもので、対外強硬策を軸とした反政府活
 動に特徴があった。
  機関紙として『新東洋』を発行、
  さらに、政綱実現のための機関として普通選挙期成同
 盟会、日本労働協会、小作条例調査会をおき、労働者、
 貧民の政治的経済的地位の向上を期した。
  第4、5議会において、4人の代議士を出したが、その過
 激な政策のため議会主義と相いれず、1年あまりの活動の
 のち、翌年・1893年12月に解散した。
  大井らはその後、国民協会、熊本国権党などの国家主
 義政党とともに、大日本協会派として活動を続けた。
1892年11月6日、ホームズ彗星が発見された。
  この年、エドウィン・ホームズが発見した。
  2007年10月24日~25日未明(日本時間)にかけて、ペ
 ルセウス座の付近にあったホームズ彗星は2日足らずの間
 に17等星から2等星台にまで(約40万倍)明るくなった。
  明るく黄色い“星”として肉眼でも容易に見ることが
 できるようになった。
  この様な急激な増光(アウトバースト)は、彗星から
 大量のガス、または、チリが突然放出されたことによる
 ものと説明されている。
  なお、この彗星は、1892年に、発見された時も同様の
 アウトバーストを起こしていた。
1892年11月8日、米国大統領選挙でグロバー・クリーブラン
 ドが勝利し(返り咲き)第24代大統領となる(在任期間:
 1893年3月4日~1897年3月4日)
  ニューヨーク州のグロバー・クリーブランドが、現職
 の大統領ベンジャミン・ハリソンを破って復帰し、アメ
 リカ史の中で唯一返り咲きを果たした大統領となった。
  クリーブランドは、1888年の大統領選挙では、一般投
 票でハリソンに勝っていたが大統領となれず・・、
  1892年では、一般投票、選挙人投票共に勝利した。
1892年11月10日、東京下谷に市村座が開場した。
  市村座は、江戸三座の一つで、江戸時代中期から後期
 にかけて江戸町奉行所によって歌舞伎興行を許された芝
 居小屋だった。
  これを、官許三座とか、公許三座と言った。
  市村座は、1663年頃、興行権を村山座から譲り受けた
 名義1世市村羽(宇)左衛門(3世市村羽左衛門)が創
 設したのに始まる。
  そして、この年に、下谷二長町(にちょうまち、現在
 の台東1丁目)に 三階建煉瓦造の新劇場を建てて移転し
 た(開場式:11月12日)
1892年11月11日、国民新聞、「最暗黒の東京」を連載開始。
  国民新聞に、松原岩五郎の貧民街の様子を取材した「
 最暗黒之東京」の連載が始まった。
  今の日本は、夢のような良い社会になったが・・この
 当時は、まだまだ日本は貧しかった・・この様な社会が
 あった。
  この新聞は、1890年2月1日に、徳富蘇峰が創刊した日
 刊紙で・・、
  記者の松原岩五郎は、スラムに入り込んで、残飯屋の
 様子などを『最暗黒の東京』にまとめた。
  松原は1日3回、士官学校に行って、ひとザル(およそ
 15貫目=約56㎏)50銭で残飯を引き取り、これを1貫目
 およそ5〜6銭ほどで販売した。
  ・・以下、その一節・・
  タクアンの切れ端から食パンの屑、魚の骸(あら)や
 焦げ飯など、膨大な量を荷車で運んだ。
  《この残物を買う者如何(いかん)と見渡せば、皆そ
 の界隈貧窟の人々にして、これを珍重する事、実に熊掌
 鳳髄(ゆうしょうほうずい=珍味中の珍味)もただならず
 というべく。
  我らが荷車をひきて往来を通れば、彼らは実に乗輿(
 じょうよ)を拝するが如く、老幼男女の貧人ら皆々手ご
 とに笊(ざる)、面桶(めんつう=1人盛りの食器)、重
 箱、飯櫃(めしびつ)、小桶(こおけ)、あるいは丼、
 岡持(おかもち)などいえる手頃(てごろ)の器什(う
 つわ)を用意しつつ路(みち)の両側に待設けて、今退
 (ひけ)たり、今日は沢山にあるべし、早く往(ゆ)か
 ばやなどと銘々にささやきつつ荷車の後を尾(おい)て
 来るかと思えば、店前(みせさき)には黒山の如く待構
 えて、車の影を見ると等しくサザメキ立ちて、さながら
 福島中佐(シベリア単独横断した英雄)の歓迎とも言う
 べく颯(さっ)と道を拓(ひら)きて通すや否や、我れ
 先(さ)きにと笊、岡持を差し出し、2銭下さい、3銭お
 くれ、これに1貫目、ここへも500目(1目は1匁)と肩越
 に面桶(めんつう)を出し腋下より銭を投ぐる様は何に
 譬(たと)えん、大根河岸、魚河岸の朝市に似て、残物
 屋に似て、その混雑なお一層奇態の光景を呈せり。
  そのお菜(かず)の如き漬物の如き、煮シメ、沢庵等
 は皆手攫(てつか)みにて売り、汁は濁醪(どぶろく)
 の如く桶より汲みて与え、飯は秤量(はかり)に掛くる
 なれど、もし面倒なる時はおのおの目分量と手加減を以
 てす》
  ある日、士官学校からの出物が止まり、「飢饉」状態
 が3日続きました。
  松原は厨房に頼み込んで、豚エサの餡殻、肥料用のジ
 ャガイモ、洗った釜底のご飯などを持って帰ると、人々
 は大喜びで我先にカネを出し始めました。
  松原は、豚のエサに値段をつけて売る自分の姿を見て、
 「世の中で語られる道徳や、行われる慈善は、必ずしも
 本当の道徳や慈善ではない」と痛恨の叫びをあげるので
 した。
.
  (今日の言葉)
.
  題:擬制とされた事で、押し通した・・
.
紀元1世紀~2世紀、日本で、この時、既に、字が用いられ
 ていたらしいという証拠が発見された。
  (読売新聞、2017・11・15)によると、福岡県筑前町
 の薬師の上遺跡(弥生時代中期~後期)から完全な形の
 硯(すずり)が出土した。
  専門家は、「弥生時代に、日本で文字が書かれていた
 可能性を示す発見」とした。
  硯は、長さ15.3センチ、幅6.3センチ、厚さ0.9センチ。
  薄い墨の痕跡が数か所あることが分かった。
  現代のような墨だまりはない。
  朝鮮半島で出土した硯と同じ砂質頁岩(けつがん、粘
 土で固まってできた水成岩で、板状でやわらかく、薄く
 てはがれやすい)製・・、
  そして、形も似ている事から硯だと判断された。
  一緒に出土した土器から1世紀~2世紀とされた。
  これまで弥生時代の硯は、福岡県糸島市の三雲・井原
 遺跡や松江市の田和山遺跡などで破片が見つかっていた。
.
626年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)
 が生まれた。
  中大兄皇子の和歌に次のものがある・・、
  妹(いも)が家も 継ぎて見ましを
  大和(やまと)なる 大島の嶺(ね)に
  家もあらましを
  万葉集(日本最古の和歌集、巻二・九一)
  〔訳〕愛する君よ、君を、いつも身近に目にしていた
    いのにそれができなくてもどかしい。
     君の家が、大和の大島の嶺(みね)の頂(いた
    だき)に在(あ)って欲しいものだ。
     そうすれば、いつも君のことを目にしていられ
     るのに。
  都(みやこ)が飛鳥(あすか)から難波(なにわ)に
 遷(うつ)って大化の改新(たいかのかいしん)と呼ば
 れる新政が行われていた時のこと・・、
  若き皇太子の中大兄(なかのおおえ、後の天智天皇・
 てんじてんのう)には旧都飛鳥(あすか)に残してきた
 恋人がいました。
  鏡王女(かがみのおうきみ)です。
  いつもその人を身近に感じていたいために、家が山の
 頂上に在ればいいのに・・と、恋人たちは思いもよらな
 いことを思っていた。
  そして、この恋歌を受けとった鏡王女の返歌は・・、
  秋山の 木(こ)の下隠り(したがくり)
  行(ゆ)く水の 我こそ増(ま)さめ
  思(おも)ほすよりは
  万葉集(巻二・九二)
  〔訳〕秋の山々の落葉の下を流れ行く水のように、皇
    子(みこ)をお慕い申し上げるわたくしの心は、
    皇子が、わたくしをお思いくださる御心よりも深
    うございましょう。
     お逢いしとうございます、わたくしも。
  秋の山々の落葉を伝い、流れゆく木の下蔭(したかげ)
 の水は、目には見えませんが、実は大量の水を湛(たた)
 えています。
  王女の歌はその水に、中大兄のへの愛を託したもので、
 黄葉(もみじ)した秋の山々を背景に、深い愛情がつつ
 ましく語られています。
  鏡王女については、近年の発掘調査などにより、舒明
 (じょめい)天皇の皇女で、中大兄の異母妹ではないか
 と言われています。
  王女の御陵(ごりょう)を訪ねた時、遅咲きの満開の
 桜に包まれた王女は千年の眠りについていました。
  (国文学者・石丸晶子氏の文があまりにも美しいので
  参考にさせて戴きました)
.
1866年、アメリカのこの年の南北戦争の後、アメリカが奪
 った新領土と植民地・・、
  アメリカは、本当に、侵略国家だった。
  ミッドウェー諸島(1867年)、
  アリューシャン列島(1867年)、
  アラスカ(1867年)、
  フィリピン(1898年)、
  ハワイ諸島(1898年)、
  グアム島(1898年)、
  ジョンストン島(1898年)、
  ウェーク島(1899年)、
  米領サモア(1899年)、
  パルミア島(1912年)、
  そして、中国の利権獲得へ
.
1905年、ベンガル分割令が出された。
  これは、イギリスのカーソン(インド総督)が出した
 命令で、インドの方々の反イギリス闘争の分裂を狙った。
  しかし、逆に、インドの方々の自治要求運動が激化し
 た。
  しかし、イギリスは、さらに強くベンガル分割令反対
 運動を抑えつけた。
  帝国主義の植民地支配が強まる中で、インドの民族運
 動・反イギリス闘争も力による強い抵抗となって行った。
  イギリスのインド総督を狙ったテロ事件などが起こっ
 た。
  第一次世界大戦が始まると、反イギリス闘争を進めて
 いた革命家は、好機と考えて、武装蜂起を計画するグル
 ープも現れた。
  1915年には、ラホール事件の武装蜂起が鎮圧されて。
  逮捕者が4000人、処刑された方が800人・・という犠牲
 者を出してしまった。
  この時の英雄的な行為者の一人ラース=ビハリー=ボ
 ース氏は、日本に助けを求めた、そして、亡命した。
  これらの過激な反イギリス闘争は、「ガダル(反乱の
 意味)」と呼れた。
  (アメリカの黒人の方々の反抗を、「暴動」と呼ばさ
 れて、悪の印象操作をされたプロパガンダ・嘘宣伝を思
 い出す)
  イギリス当局は、1915年に、インド防衛法を制定し、
 インド人の方々の政治活動の自由を制限した。
  そして、危険人物を予防拘束するという卑劣な事を行
 なってまでして取り締まった。
  インドの方々の抵抗運動が功を奏し、イギリスのイン
 ド担当相のモンタギューは、1917年に、第一次世界大戦
 の後に、インドへ自治権を与えることを約束し、宣言し
 た・・しかし・・
  卑劣にも・・その約束を無視して、イギリスは、一転
 してインド支配の強化に乗り出した。
  1918年には、ローラット法を制定し、翌年、施行して
 弾圧を強化した。
  インドの方々は、反イギリス闘争を激化させた。
  第一次世界大戦(1914年~1918年)の後、民族自決の
 気運が、さらに、高まった。
  新たに国民会議派の指導者となったガンジーによって、
 1919年~1922年に、第1次非暴力・不服従運動(サティヤ
 ーグラハ運動)が盛り上がった。
  1919年4月6日、ガンジーの指導の下に、全国的なハル
 タール(同盟休業)が行われた。
  インド最初の組織的な民族運動が展開された。
  イギリスは必死に弾圧した。
  一部のインドの方々は暴徒化し、アムリットサール事
 件が起きた。
  非暴力主義の指導者ガンジーやネルーは、約束されて
 いたインドの自治権の返還をイギリスへ要求した。
.
1908年3月、アメリカの大艦隊が日本に来た。
  日本を威圧する目的だった(脅し行動)
  また、大艦隊の威勢を世界に誇示する目的だった。
  日本の戦艦が7隻しかない時に、このアメリカの艦隊は
 16隻だった。
  戦艦は白く塗られていた。
  幕末の「黒船」に対して、「白船」と呼ばれた。
  日本は、国をあげて歓迎した。
  横浜に入港した日には、日本の人たちは、小旗を振っ
 て歓迎し、万歳を連呼した。
  アメリカ海軍兵たちは、パーティ攻めにあった。
  また、アメリカ兵たちを乗せた列車が駅に着くと、1000
 人もの小学生が、アメリカ国家を歌って迎えた。
.
1914年、全黒人地位改善協会(世界黒人開発協会アフリカ
 社会連合:UNIA-ACL)が設立された。
  黒人解放指導者の黒人のマーカス・ガーベイは、1887
 年にジャマイカで生まれた。
  アメリカの様な卑劣な黒人差別の無いジャマイカで育
 った。
  1912年(25歳)イギリスのロンドンに向かった。
  1914年(27歳)ジャマイカに帰国。
    ガーベイは、アフリカから来た幾人かの黒人から、
   つぶさに白人のアフリカ侵略の話を聞いた。
    その白人の卑劣な植民地主義と、人種的抑圧に強
   い憤(いきどお)りが沸いた。
    このことから全黒人地位改善協会を設立した。
  1916年(29歳)3月23日、アメリカに渡った。
    黒人のための職業訓練校を、ジャマイカに建設す
   る資金を集めるためだった。
  1916年(29歳)5月9日、ニューヨーク市で最初の講演
   を行った。
    全黒人地位改善協会の本部をニューヨークに移転
   させた。
    そして、機関誌を発行した。
    機関誌名は、「黒人世界(ニグロ・ワールド)」
   と言った。
    彼の運動は、たちまち、多くの黒人の方々の支持
   を集めた。
  1919年(32歳)までに、各地に30の支部を持ち、機関
   誌の「黒人世界」は、たちまち有名になった。
  1922年(35歳)会員数は、アメリカだけで200万人、全
   世界で400万人となった。
   (1920年8月、アメリカで400万人の記述もある)
    しかし、ガーベイの最後は悲惨だった。
    アメリカ合衆国の政治的意図があったと言われて
   いる事だが・・、
  1925年(38歳)ガーベイが投獄された・・そして・・、
  1927年(40歳)釈放され、ジャマイカへ強制送還され
   た。
  1929年(42歳)ジャマイカで初の政党を設立した。
  1935年(48歳)イギリス(ロンドン)へ行く。
  1940年(53歳)6月10日、死去した。
  ・・それから24年後・・
  1964年11月、ジャマイカ政府は、ガーベイを、ジャマ
   イカの国民的英雄に選出した。
.
1917年7月17日、白鹿丸(はくしかまる、11,000載貨重量ト
 ン)が進水した。
  浅野造船所(後の日本鋼管鶴見)で建造された大型貨
 物船。
  この頃、日本で建造された汽船の中で最大の白鹿丸が、
 この日に進水した。
  この頃、日本の造船業界は、空前の好景気の中にあっ
 た。
  第一次世界大戦という景気刺激があった。
  軍需品の輸出も急増していた。
  重工業も急速に発展した。
  また、三井、三菱、住友などの財閥は、金融や貿易、
 造船などの多角経営で急速に力を伸ばした。
  戦争の形態が、国家を挙げての総力戦で行う形になっ
 ていて、これが、この様に関係する世界となった。
.
1919年(大正8年)1月14日、パリに到着した日本全権団は、
 『人種差別撤廃』提案成立のため、各国と交渉を開始し
 た。
.
1919年1月18日、パリ講和会議が開かれた。
  この会議で、日本は、「国際連盟規約に、人種差別撤
 廃条項を盛り込む決議」を提案した。
  (あまりにも、白人社会に、有色人種の差別が多く、
 卑劣で、レベルの低い社会が現出していたので、日本は、
 その様な行為を無くそうとして提案した)
  この提案に対して、「白人の移民しか許さないという
 白豪主義のオーストラリア」は、強硬に反対した。
  また、アメリカは、自国の西部諸州が、「勤勉で優秀
 な日本人移民を排斥する運動」を起こしたりしていて、
 有色人種差別をしているという社会情勢からも反対した。
  しかし、日本の正義の提案は、世界の有色人種国家か
 ら賛意を集め、また、注目も集めていた。
  そして、当然、投票の結果は11対5で、日本の提案は多
 数意見となった・・賛成多数だった・・そして、議決さ
 れる予定だったが・・
  しかし、議長役のアメリカのウィルソン大統領が、重
 要な議題は「満場一致を要する」と独断で決定し・・、
  そして、「否決だ」と宣言した。
  日本の当然の正義の提案は、世界から多大な共感を得
 ていたが、「世界の意見とはならなかった」。
  公正な『正義の社会を築く』ことに棹(さお)をさす
 アメリカだった。
.
1919年1月18日、パリ講和会議
  第一次世界大戦の戦後処理のため、パリで講和会議が
 開かれ、そして、ベルサイユ条約が結ばれたが・・、
  日本は、戦勝した五大国(アメリカ、イギリス、フラ
 ンス、日本、イタリア)の一国として出席した。
  戦勝国は、アメリカの参戦で勝つことが出来たので、
 アメリカのイニシアティブによって進められ、最後には、
 アメリカの提案を受け入れた。
  アメリカの代表は、アメリカの最高責任者である大統
 領のウィルソンだった。
  ウィルソンは、14カ条の提案をした・・、
  ・保護貿易の廃止。
  ・軍備の縮小。
  ・民族自決に基づく植民地問題の公平な解決。
  ・あらゆる国家の政治的独立と領土保全を目的とした
   連盟の設立・・など。
  そして、1920年、アメリカの提案どおり国際連盟が発
 足した。
  しかし、アメリカは、提案者でありながら、国内の意
 見統一が図れないという理由で、アメリカは、国際連盟
 に参加しなかった。
  また、苛酷な賠償金の返済を、敗戦国のドイツへ課し
 たため、ドイツは卑劣な巨額のその賠償金の返済に喘(
 あえ)いだ。
  結局、この解決を求めた行為が、まったく無駄となっ
 て、逆に、第二次世界大戦の誘発の原因を作った。
  アメリカの「他の国の意見をあまりにも聞かない独裁
 的な、また、独断的な行動」が、何ら解決を与えた事に
 はならななかった。
  第二次世界大戦の悲劇が、また、生まれる事になった。
  また、卑劣にも、アメリカは提案しておきながら、国
 際的な解決の場である国際連盟に参加しないという状況
 に居つづけた。
.
1921年12月~1922年2月、ワシントン会議、
  この会議で、日本は、不利で、不公正な、海軍主力艦
 の保有率に決められた。
  アメリカ・イギリスの4割も少ない艦船しか持てなくさ
 れた。
  (アメリカとイギリスが連合軍を組めば、日本は、そ
 の30%の主力艦しか持てないという状態に、大幅に制限
 された)。
  だが、日本は、まじめに、よくこの約束を守った。
  また、アメリカの差し金(さしがね、陰から人をそそ
 のかして、あやつること)で、日英同盟が、この時に解
 約させられた。
  また、中国の山東半島を返還させられた。
  日本は、条約や、第一次世界大戦の勝利国としての功
 績として、正式に条約によって得ていたが、返還の圧力
 がかけられ、返還するに至った。
  何故だか、日本だけに、不利な条件が押し付けられた。
.
1927年4月18日、南京国民政府が樹立された。
  1927年4月、上海クーデターを起こした共産党勢力や
 労働組合を、蒋介石は粛正を行なった・・そして・・、
  1927年4月18日、南京に南京国民政府を樹立した。
  (参考)上海クーデター:1927年4月12日、中国におい
     て、北伐に呼応して第三次上海暴動を引き起こ
     していた労働者を、右派国民革命軍(司令官:
     蒋介石)が、武装解除の命令に応じないで抵抗
     したため、デモを行っていた労働者・市民に対
     して発砲し、虐殺した。
  アメリカやイギリスは、この蒋介石が、南京を首都と
 して「南京政府を樹立する」と、これが、中国の中央政
 府だとして承認した。
  この蒋介石の様な軍閥は、中国のあちこちに居たのに
 である。
  何ら蒋介石が中央政府とされる理由も無いのに、アメ
 リカ・イギリスは、南京政府を中央政府だとした。
  まったくのお好み決定だった。
  リットン調査報告でさえ、「中華民国」を「中央政府
 だ」という考え方は、「法的擬制(ほうてきぎせい)」
 に過ぎないとしていた。
  (参考)擬制:ぎせい、実質は異なっているものを、
     法的取扱いにおいては同一のものとみなす。
      そして、同一の効果を与える。
      そして、この擬制は反対の事実の主張を許さ
     ない。
      つまり、この事例では、蒋介石の政府は、実
     質的にも中央政府ではないが・・、
      法的取扱いに於いて、中央政府だとみなし、
     反論は許さない。
  だから、南京政府は、たまたま、外国勢力から中央政
 府だとみなしてもらって、認められているだけだった。
  ならば、満州に居た人たちが、満州国を建国したこと
 と「どこが違うのだ・・?」
  アメリカは、後から、違うと言い出したが・・?
.
1932年3月1日、満州国が建国された(建国宣言)
  中国は、今現在(2017年)、漢民族が政権を取ってい
 る・・毛沢東も漢民族である。
  過去の中国の歴史には、色々な民族が、中国の政権を
 取って来た。
  この中国の地・領域には、種々の民族が政権を形成し
 て来た歴史にあった。
  そして、中国の領域には、昔から今でも、色々な民族
 の方々が居る・・生活している。
  そして、問題は、アメリカ・イギリスが、漢民族の蒋
 介石政権を「中央政府だ」と承認したところから始まっ
 た・・
  (1928年11月に、アメリカが、そして、1928年12月に
 は、イギリスとフランスが・・漢民族の蒋介石を、中央
 政府だとすると都合が良いとして決めた・・漢民族に、
 この領域を与えたこととなった)
  そして、さらに、問題を深刻化しているのは・・この
 アメリカなどの決定に端を発している事なのだが・・
  今・現在の中国の政権の中華人民共和国(中共)の漢
 民族の政治指導者は・・その地に生活し生存している種々
 の方々・民族の独立権を奪っているところにある。
  中国領とされた新疆ウイグル自治区は、この先、ウイ
 グルの「ウ」の字も無くなって中華人民共和国(中共)
 の領土そのものだと主張されるだろう。
  「チベット自治区」もそうだ・・このチベットの「チ」
 の字も無くなるだろう。
  このチベットの地に・・どんどん漢民族が流入してい
 る・・させている。
  人口比が逆転して来ている・・チベット人は排除され
 ている・・殺されてもいる・・どこもかしこも、こんな
 調子である。
  内モンゴル自治区は影が薄くなっている。
  この地域は、大幅な行政区画の変更が行われて中国名
 の省の名が付けられてしまった。
  内モンゴル人民共和国は、一時、可哀想な事に、歴史
 に名を止(とど)めるだけの地位に落され、置かれた。
  かつて、立派な独立国を形成したことがあるこの民族
 の地であるのにである(今は中共に組み込まれてしまっ
 ている)。
  南シナ海も、急に、我が領域だと中共は主張し、国連
 の主要機関である国際司法裁判所が中共の領域ではあり
 ませんよと言ったって、「関係ない」の態度をとってい
 る・・中共とは、このような国なのだ。
  かつて、中国は、万里の長城を築いたが・・その万里
 の長城の先は、「化外の地」で「関係ない地」で、我々・
 中国とは関係ありませんよとした。
  その様な地の・・万里の長城のはるか北の「中国が化
 外の地とした満州」に、「満州人の居住する地」に、日
 本は、手助けをして「満州国を建国した」。
  今・現代、中共は、この歴史に懲(こ)りたのか?
  この地から満州人の方々を追い出した。
  今・現代、チベットで、中共が、チベットの方々を追
 い出し、どんどんと漢民族を送り込んでいるように。
  結局、今・現代、かつての満州国があった地は、今・
 現代、漢民族が多く住む漢民族の中共という国になって
 いる・・ほとんど満州人は居ないという。
  中共は、沖縄も、「俺のものだという声」を発してい
 る声が聞こえるが、時の経過とともに、この様なやり方
 で、今・現代の沖縄の方々は追い出され、漢民族が住む
 沖縄となる可能性は・・否定できない。
  日本の「満州人の方々の満州国を建国した行動」は・・、
  日本は、当時、一番多かった満州人の方たちの国とし
 て独立の手助けをしたが・・「満州人の方たちだけの国
 では無いという理念」を掲(かか)げた。
  「満州人の方たちと共に五族協和の理念」を掲げた。
  「満・蒙・漢・韓・和の五民族が協調して暮らせる国」
 を目指した。
  この理念ゆえに、ユダヤの方々が逃れて来た時も大き
 く手を広げて受け入れた。
  この満州の中に漢民族も入っていて、排除は、当然、
 していない。
  その建国の手続きにおいても、それまで、アメリカや
 イギリスなどの米欧列強の国がやって来た事と同じにや
 り、また、「法と秩序に最大限配慮」してやった。
  アメリカも国連も、最初、何も問題にしなかったごと
 くである。
  日本は、アメリカなどの米欧列強に学んだ様にして手
 助けした・・法を守る努力をした。
  終始、アメリカや米欧列強の様にやった。
  日本は、アメリカなどの米欧列強に対する責務である
 とさえしていた。
  日本は、漢民族を追い出してはいない。
  しかし、群雄割拠して、あちこちに出来ていた中国の
 一つである軍閥(張学良)に対してだけは、秩序を保つ
 警察行動を行なった・・責任を果たした。
  中国の蒋介石の国民政府が、国連に提訴し、問題とな
 ったが、この中国の一地方の軍閥の蒋介石が、国連に提
 訴して、問題となった(アメリカ・イギリスが提訴した
 のではない)
  そして、アメリカや国連は、当初の態度と違えて、こ
 の段階から、一方的に自分たちが根拠なく承認していた
 国民政府(蒋介石)側に立った。
  問題は、まったくないのにである。
  問題は、国際事件となった・・仕立てられた。
  満州人の居るこの領域が、歴史的に、漢民族の統治す
 る地となったことが無いという「化外の地としている地」
 を、アメリカなどの米欧列強は、その状況を変えようと
 した。
  しかし、アメリカなどの米欧列強は、中共の前政権の
 清国と条約を結んだ・・そして、その清国は、満州人の
 政権だから、満州王朝だから、満州の領域まで、外国に
 付与された特権が及ぶのだと言った。
  だからと・・ここからアメリカなどの米欧列強の屁理
 屈が始まった・・、
  「だから、(漢民族の)国民政府に、満州まで主権を
 及ばせる権利がある」・・と。
  前記の()部分を、アメリカなどの米欧列強は擬制(
 ぎせい)している。
  (参考)擬制:ぎせい、実質は違うのに、そう見なす
     (見せかける)こと。法律で、異なるものを法
     律上同じと見なして、同じ効果を与えること。
  結局、アメリカなどの米欧列強は、この擬制で押し切
 った・・筋が通らぬ無理を通した。
  自分たちの利益のために。
  中国(国民政府)は、筋が通らない事が分かっていた
 ので、この主権を主張する事は出来なかった。
  アメリカなどの米欧列強の世界史なんて、どこを見て
 も、その底を掘り下げて行くとどこもかしこも、皆、こ
 んなもの・・無理を押し通す・・
  その基本には、キリスト教の「有色人種への蔑視観」
 と、その裏返しの「白人の優越観」がある(見下し観)。
  これが、すべてを狂わせている・・素直な正義が通ら
 ない世界となっている。
.
1947年7月21日、オランダが、再び、インドネシアを植民地
 にしようと、インドネシアに侵略した。
  このオランダを含む連合国が、第二次世界大戦後の東
 京裁判で、日本を「侵略の罪」で裁いている最中に・・、
  その日本を侵略したと裁く・原告側に立っていたオラ
 ンダは、インドネシアに「露骨な侵略」をしていた、そ
 して、インドネシアの方々を殺戮していた。
.
1965年9月30日、9月30日事件が起きた。
  インドネシアの方々の、その近代の歴史は、オランダ
 の植民地支配の苦痛の歴史だった。
  その苦痛から逃れ出られたのは、インドネシアの初代
 大統領になった国民的英雄・スカルノ氏らの功績だった。
  旧日本軍は、このインドネシアに残り、この推移に大
 いに貢献し、アジア解放の目的の一つを果たした。 
  1000人の日本兵は、日本に帰らず、インドネシアの独
 立戦争を助けた・・、
  国の代表となったスカルノ氏は、当然のこととして、
 オランダの植民地体制を壊した。
  また、アメリカなどの外国企業の資産を接収し、外資
 の排除も図った。
  また、オランダの手先になっていた華人の影響も排除
 し、地場産業の振興を図った。
  自立経済の樹立を目指した。
  アメリカとスカルノ政権は険悪となった。
  アメリカのCIAが、スカルノ政権の転覆をはかって
 いるという「うわさ」も流れた。
  この様な状況の中、イギリスの肝いりでマレーシアが
 建国されると、この国との関係も厳しくなり・・、
  インドネシアは、国連も脱退をせざるを得ない状態に
 なった(国際的孤立化)。
  そして、インドネシア国内の一体化も崩れて行った・・
 アメリカの工作か??
  その様な国内状況から、今でも不明部分が多いが9・30
 事件が起きた。
  この日、大統領親衛隊第一大隊長の率いる部隊が、軍
 事行動を開始した。
  翌日までに、陸軍の高級将校6名を殺害し、国営ラジオ
 局を占拠し、「9月30日運動司令部」と名乗って、「イン
 ドネシア革命評議会」の設置を宣言した。
  この様な経緯の中で、スカルノ氏からスハルト氏への
 権限移譲が行なわれた。
  そして、この9月30日事件の翌年・1966年2月、インド
 ネシア軍の指導的立場となったアリ・ムルトポ准将が来
 日した。
  そして、佐藤栄作首相、福田赳夫外相と会談した。
  ムルトポ氏は、次のように訴えた・・、
  「東南アジアは、これまで、アメリカ・ソ連・中国の
 代理戦争をして来ました。
  このアメリカ・ソ連・中国を入れないようにASEA
 N(東南アジア諸国連合)という垣根を作ります。
  1967年に、その構想を発表します。
  中国、ソ連、ベトナムに対抗する政治連合です。
  共産国の出方次第では、軍事連合にするかもしれませ
 ん。
  しかし、我々が、政治団体とか軍事団体を結成すると
 言えば、アメリカに壊されてしまうので、当分の間は、
 文化、観光、経済の団体という形の覆面をするつもりで
 す。
  日本にぜひ協力して戴きたい」・・と。
  日本の気付かない新たな動き・・9月30日事件以降の
 インドネシアやマレーシア、シンガポールなど東南アジ
 アのリーダーたちの思いは・・、
  「もうこれ以上、巨大な諸国・・象の様に(アメリカ、
 ソ連、中国)に、我々の士地を荒らされてはかなわない」
 と考え、ピースゾーン(平和地域)としてのASEAN
 建設に一致して動いていた。
  日本は、スハルト大統領体制が発足すると、直ちに、
 大規模なODA(政府開発援助)を供与して、インドネ
 シア政府を支援した。
  1967年、ムルトポ准将の言葉通り、タイ、フィリピン、
 マレーシア、インドネシア、シンガポールと反共を国是
 とする5カ国でASEANが誕生した。
  1976年、総理大臣に就任した福田赳夫は、
 翌年・1977年、東南アジア諸国を歴訪し、マニラで、A
 SEANを全面的に支援する事を約束した。
  この演説は、「福田ドクトリン」として、ASEAN
 諸国から、今でも高く評価されている。
.
1981年1月20日、アメリカと中国は、一体的な軍事関係が
 樹立されている。
  この時に、ロナルド・レーガンが、第40代アメリカ大
 統領になった(~1989年1月20日)・・が・・、
  このレーガン政権時代、マイケル・ビルズベリーは、
 政策計画のための防衛補佐官を務め、「レーガン・ドク
 トリン」と呼ばれる秘密援助プログラムの実施を担当し
 た。
  1975年~1976年に、アメリカが、中国との情報と軍事
 関係を樹立することを勧告する外交政策と国際安全保障
 に関する記事を発表されたが・・、
  このロナルド・レーガンや 、 ヘンリー・キッシンジ
 ャー 、 ジェームズ・シュレシンガーが公式に推薦した
 この提案は・・、
  カーター・レーガン政権時代のアメリカの政策となっ
 た。
  そして、このマイケル・ピルズベリー(米国防総省顧
 問)の言葉・・、
  「かつてアメリカは、日本に黙って中国軍を支援して
 来た」・・と語った。
  (参考)マイケル・ピルズベリー:
  1945年、米カリフォルニア生まれ。
    米スタンフォード大学卒業(専攻は歴史学)後、
   米コロンビア大学にて博士課程を修了。
  1969年~1970年、国連本部勤務を経て、
  1973年~1977年、ランド研究所社会科学部門アナリス
   ト、
  1978年、ハーバード大学科学・国際問題センターのリ
   サーチフェロー、
  1981年、国務省軍備管理軍縮庁のディレクター代行、
  1984年、国防総省政策企画局長補佐、
  1986年~1990年、議会上院アフガン問題タスクフォー
   ス・コーディネーター、
  1992年~1993年、国防総省総合評価局特別補佐官、
  1998年~2000年、国防総省特別公務員(米国国防科学
   委員会)、
  1997年~2000年、米国防大学客員研究フェロー、
  2001年~2003年、国防総省政策諮問グループメンバー、
  2003年~2004年、米中経済・安全保障検討委員会シニ
   ア調査アドバイザー、
  2004年以降、現在も国防総省顧問を続けながら、ハド
   ソン研究所中国戦略センター所長を務める。
     米外交問題評議会と米シンクタンクの国際戦略
   研究所(CSIS)のメンバーでもある。
   著書:『Chinese Views of Future Warfare』『China
 Debates the Future Security Environment』などがある。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)565E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年10月~1892年10月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)565E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年10月~1892年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年10月8日、ラフマニノフ前奏曲嬰ハ短調が、モスクワ
 にて初演された。
  モスクワ電気博覧会の祝賀会において、作曲者(セル
 ゲイ・ラフマニノフ)自身によって、初演された。
  この初演の後、演奏会全体の中からこの曲のみが取り
 上げられ、「熱狂を捲き起こった」との記事が掲載され
 た。
  https://www.youtube.com/watch?v=p9zSyYd04EU
  セルゲイ・ラフマニノフ(1873年~1943年)ロシアの
 作曲家、ピアニスト、指揮者。
  裕福な貴族の家系の出身だが、セルゲイの生まれた頃
 は、一家は、すでに、かなり没落していたようだった。
  セルゲイは、多感な才能を感じさせる子供だった。
  4歳の頃、すでにその才能を気づかされた。
  姉たちの家庭教師が、セルゲイの音楽の才能に気付い
 た。
  そこで、ペテルブルグからピアノ教師が呼び寄せられ
 た。
  しかし、9歳の時、ついに、一家は破産し、所領は売ら
 れた。
  ペテルブルクへ移住し、まもなく両親は離婚した。
  音楽の素養のあった人物・父は、セルゲイの下を去っ
 た。
  奨学金の助けを受け、セルゲイの音楽の才能を目覚め
 させるペテルブルク音楽院の幼年クラスに入学した。
  しかし、話は順調にはいかなかった・・
  学校を抜け出しスケートをするという状況で、12歳の
 時には、全学科の試験で落第するという状態だった。
  悩んだ母は、親戚のピアニストに相談し、モスクワ音
 楽院に転入する事にした。
  モスクワに寄宿した家=ズベーレフ家のスベーレフは、
 厳格な指導をする事で有名なピアノ教師だった。
  ピアノ演奏の基礎を叩き込まれた。
  また、このズベーレフ邸には、著名な音楽家が訪れる
 という家で、セルゲイは、あの有名なチャイコフスキー
 に才能を認められた、そして、目を掛けられた。
  モスクワ音楽院では、多くの著名な先生から様々な音
 楽的知識を学ぶというセルゲイだった。
  セルゲイが、この様な師のスベーレフ邸を去るのは、
 セルゲイが、作曲への衝動が押さえきれなかったからで、
 この点でセルゲイは、師・スベーレフの作曲の禁止の指
 導と対立した。
  彼は、父方の叔母の嫁ぎ先の家に身を寄せた。
  1891年には、18歳で、モスクワ音楽院ピアノ科を首席
 で卒業した・・そして、卒業生に与えられるという大金
 メダルを得ての卒業だった。
  セルゲイ・ラフマニノフは、この年・1891年、ピアノ
 協奏曲第1番を完成させた。
  1892年には、このモスクワ音楽院の作曲家を卒業し、
 卒業制作として歌劇「アレコ」を書き上げ、金メダルを
 授けられた。
  そして、1892年10月8日、前奏曲嬰ハ短調を初演した。
  聴衆は熱狂した。
  翌年・1893年11月6日、チャイコフスキーが亡くなる。
  セルゲイ・ラフマニノフは追悼のために「悲しみの三
 重奏曲第2番」を作曲した。
  この後の彼・・すべてが順調だったという訳ではなか
 った。
1892年10月12日、アメリカで忠誠の誓いの暗誦が初めて行
 われた。
  (アメリカ) 忠誠の誓いは、アメリカ合衆国への「忠誠
 心の宣誓」である。
  忠誠の誓いは、しばしば合衆国の公式行事で暗誦され、
  アメリカ合衆国議会の会期もまた、忠誠の誓いの暗誦で
 開始される。
  また、アメリカの多くの公立学校では、星条旗を掲げ
 て「忠誠の誓い」というのをしている。
  日本の公立学校でも、同様の事をするべきであるが・・、
 まったくなされる様子はない・・それどころか・・
  日本のNHKに代表されるマスメディアは、『日本貶
 め行為』を盛んに行っている。
  また、キリスト教が、宗教とは別であろうに、日本の
 貶め運動を盛んにしている。
  キリスト教は、日本の国旗である「日の丸掲揚反対」
 し、
  そして、日本の国歌である「君が代の斉唱の反対」を
 している。
1892年10月14日、両毛鉄道会社の旅客運賃改正認可されて、
 賃率1マイル(=1.61㎞)について下等100マイル未満1銭
 2厘、 100マイル以上220マイル未満1銭、 220マイル以上
 8厘、中等は下等の5割増し、上等は下等の2倍半となった
 (11月1日から実施された)
1892年10月19日、日本鉄道会社線の上野駅~大宮駅間の複
 線工事が完成し、翌日の10月20日から使用開始した。
  (荒川橋梁の複線工事完成は、1896年4月1日)
1892年10月19日 東京九段の靖国神社(当時:東京招魂社)
 の大村益次郎の銅像が竣工した。
  (除幕式は翌年・1893年2月5日に執行された)
  因みに、靖国神社は、旧称を東京招魂社といい、戊辰
 戦争以降に日本国内外の事変・戦争で戦没した軍人・軍
 属を祭神とする神社。
  また、大村益次郎は、江戸時代の1824年に、長州藩の
 医師の長男として誕生し、オランダ医学を学ぶ傍ら西洋
 兵学を修め、後に、長州藩の兵制の近代化に貢献した。
  西洋式装備の常備軍「奇兵隊」の整備・育成を始めと
 する成果は、幕府軍を撃破した第二次長州征伐における
 戦いで遺憾なく発揮された。
  戊辰戦争渦中の上野戦争では、彰義隊を一日で鎮圧す
 るなどの活躍をした。
  兵制化を指導するなど、後の日本陸軍創設の中心人物
 でもあった。
1892年10月22日 最初の特別大演習が栃木県で開かれ、明治
 天皇陛下が統監(とうかん、統轄し監督すること)され
 た。
  明治天皇陛下が御行幸し、市内向明館が御在所となる。
  天皇陛下の天覧の下、宇都宮平出原で第1回陸軍特別大
 演習が行われ、陸軍東京第1師団、同仙台第2師団、およ
 び、近衛師団が参加した。
  総勢3万人による大日本帝国初の大軍事演習となった。
  これ以降、御行幸(御幸)地の平出原は「御幸が原」
 と呼ばれるようになった。
  1892年10月26日、観兵式
1892年10月28日、筑豊興業鉄道会社線が開設され、直方駅
 ~小竹駅間(6.2km)が開業した。
  直方駅は、1891年8月30日に筑豊興業鉄道によって開設
 され・・、
  1899年から、筑豊地区の石炭輸送の拠点駅とするため
 に拡張工事が行われ・・、
  筑豊炭田の各地からやって来る石炭車がここで行き先
 別に編成しなおされて送り出されるようになった。
  13本の仕分け線が設けられ、2つの出発信号機が設置さ
 れ、若松・西八幡・上戸畑へと送り出されていた。
  ヤードに、照明灯が設けられ、昼夜を分かたず列車を
 送り出す作業が行われていた。
  1910年3月には、新駅舎が建設された。
  しかし、第二次世界大戦後は、エネルギー革命によっ
 て石炭の出荷が減少、筑豊地区では1958年から石炭輸送
 が減少に転じた。
  これによって直方駅作業も縮小され、1984年2月1日、
 貨物取り扱いが廃止された。
1892年10月29日、伊沢修二の呼びかけで、国立教育期成同
 盟会が発足した。
  1892年12月に、第一回請願書(東京府伊沢修二以下
 10162名)で帝国議会に提出し・・また・・、
  1893年2月に、第二回請願書を提出している。
  伊沢修二(1851年~1917年)は教育運動家で、高遠藩
 (長野県伊那地方)の下級武士の長男に生まれ、
  1870年(19歳)藩の貢進生(こうしんせい、各藩から
   推薦を受け大学南校に入学下生徒のこと)として大
   学南校に入学した。
  (参考)大学南校:神田一ツ橋(錦町)の旧開成所跡
     に設置された。
      洋学教育を担当し、1870年7月の「本校」閉鎖
     後に制定された「大学南校規則」によれば、外
     国人教師による外国語の課程である「正則」、
     日本人教師による日本語の課程である「変則」
     から構成され、外国語学・西洋地歴・数学など
     を科目とする「普通科」修了ののち法理文の各
     「専門科」に進学することになっていた。
      また、同年以降、各藩からの貢進生募集(259
     藩より300余名)や海外への官費留学生派遣(日
     本最初の欧米留学生は南校からの派遣である)
     などの施策も行った。
  1872年(21歳)文部省出仕。
   第一番中学幹事、愛知師範学校校長を歴任。
  1875年~1878年(24歳~27歳)師範学科取り調べのた
   め高嶺秀夫、神津専三郎とともにアメリカに派遣さ
   れ、ブリッジウォーター師範学校で教育学を学ぶ。
    帰国後、東京師範学校に勤め、
  1879年(28歳)校長。
   かたわら、体操伝習所主幹、音楽取調掛長などに任
   命され、洋式体操、および、小学唱歌の創始と普及
   に貢献した。
  1886年(35歳)文部省編輯局(へんしゅうきょく)局
   長となり、教科書の編集出版行政に従事。
  1888年(37歳)東京音楽学校初代校長。
  1890年(39歳)国家教育社を創立して社長となり、国
   家教育主義運動を起こす。
   そして、1890年5月、全国教育者大集会の席上、「同
   志ノ人士ヲ糾合シ以テ一社ヲ設クル」よう提案した。
   そして、賛同した教員・教育関係者たちを中心に結
   成された・・そして・・、
   1890年10月、教育勅語発布をうけて、教育勅語の普
   及を活動の中心に据えるとともに、「国立教育運動」
   を主導した国立教育期成同盟会を設立した。
  1891年(40歳)官を辞し、国家教育社に拠り、学制改
   革運動(→学制)、義務教育費国庫負担運動(→義
   務教育)などに挺身。
  1895年(44歳)台湾総督府随員として台湾へ、学務部
   の創設に努力し、
  1896年~1897年(45歳~46歳)学務部長。
   帰国して貴族院議員となる。
  1899年~1900年(48歳~49歳)東京高等師範学校校長。
  1903年(52歳)楽石社を創立し、吃音矯正、視話法の
   普及に尽力した。
  著書:『教授真法』(1875年)、『学校管理法』(1882
 年)、『教育学』(1883年)、『視話法』(1901年)な
 ど。
  1958年には『伊沢修二選集』が刊行された。
1892年10月、豊田佐吉(25歳)が、東京浅草で機屋(はた
 や、反物を作る家、はたを織る家)を開業した。
  豊田佐吉(とよださきち、1867年~1930年)はトヨタ
 自動車へつながる人である。
  日本で最初の木製の豊田式自動織機の発明者、実業家。
  1867年2月14日、静岡遠江(とおとうみ)吉津村に、父:
   豊田喜一郎:機大工(はただいく)の長男に生まれ
   た・・貧農でもあった。
   新学制によって初等教育を受けた最初の世代だった。
   名古屋に出て織物工場の職工となる。
   若い頃から織機改良に関心を持ち、発明家を目指し、
   小型の織機の製作にも打ちこんだ。
  1890年(23歳)木製人力織機を開発した。
   次々に改良織機を生み出した。
  1897年(30歳)豊田式木製動力織機を発明した。
  1898年(31歳)60台の織機で綿布の生産を開始した。
   やがて三井物産の援助を得て事業を本格化した。
  1899年(32歳)自動織機の特許を受ける。
  1905年(38歳)日露戦争終結。
    この後、まもなく発明した軽便で輸入品より遥か
   に廉価な力織機は、地方中小織物業の力織機化を急
   速に推進するうえで重要な役割を果たした。
    佐吉は、小幅の半木製の織機から広幅の鉄製織機
   に至るまで各種の織機を次々に発明し、発表した。
    ものつくりへのこだわりは、佐吉をバックアップ
   した三井物産との意見対立を招くこともあった。
    また、この年、名古屋織布会社を創立し、三井物
   産と中京・関西の資本家が出資して、佐吉と共に織
   機の大量生産と販売を試みた・・成功しなかった。
  1906年(39歳)豊田式織機株式会社を創立した・・成
   功しなかった。
  1910年(43歳)経営陣と対立して独立。
  1924年(57歳)杼換(ちょかん)式自動織機を完成した。
  1926年(59歳)豊田式自動織機が完成し、これを量産
   するために、同年、トヨタ自動車の前身である豊田
   自動織機製作所(現:豊田自動織機)を設立した。
   「世界の織機王」の名声を得た。
  1929年(62歳)マジックルームと称されたこのプラン
   トの特許使用権は、イギリスのプラット社に自動織
   機の特許権を譲渡されたが、その譲渡代金は、自動
   車開発資金に充用され、豊田自動車成立の礎石のひ
   とつとなった。
  1930年10月30日、逝去した。64歳。
   事業家として腕をふるうかたわら、内外150件に及ぶ
   特許を確立した。
   独創的なアイデアとして注目された環状織機は、い
   くつかの特許を得たが、完全に仕上げられないまま
   世を去った。
   勲三等、藍綬褒章を受章。
.
  (今日の言葉)
.
  題:こうして、一人の勇敢な日本海軍少将の家での、
    忘れることのできない夜の会合は終わった・・アジア解放の一つの顕彰
.
1607年、イギリスが、北アメリカ領土(現:アメリカ)の
 最初の恒久的植民地を建設した(現:バージニア州、ジ
 ェームズタウン)
  1619年、20人のアフリカ黒人の方々を、オランダ船に
   よって、ジェームズタウンへ拉致して来た(イギリ
   ス人たちは、卑劣にも「輸入した」と称した)
    卑劣にも、アメリカに植民して、早々に、黒人の
   方々を人家畜の様に使役して、国づくりを始めた。
    アメリカを創ったのは、「アフリカ黒人の方々だ」
   と言ってよい。
    しかも、1620年のピルグリム・ファザーズが来る
   前である。
    この様な黒人の方々を顕彰する記念堂を建設する
   べきである。
  1620年、ピルグリム・ファザーズと自画自賛する輩た
   ちが来た。
    その者たちの41人が、船上で「メイフラワー誓約」
   に署名する。
    しかし、先住民のインディアンの方々を完全に無
   視していた。
  1641年、マサチューセッツで、「奴隷制度は正しいの
   だ」と法律に決めた。
    国づくりの早々に、奴隷制を合法化するという非
   人道的行為が行われた。
    以後、これが悪例として真似され、他の植民地で
   もこれに倣った。
    アメリカは、最初から奴隷を合法とし、奴隷とさ
   れた黒人の方々によって建設がなされて行った。
  1663年、バージニアで、最初の大規模な奴隷にされた
   黒人の方々の『大規模な反抗行動』が起きた・・当
   然の行動だった。
    アメリカ白人たちは、この異議申し立ての行動を
   『黒人暴動』と破廉恥な言い方をして、黒人の方々
   を弾圧し、蔑視した。
  1672年、イギリスが、王立のアフリカ会社を設立させ
   て、大規模な『奴隷貿易(人身売買行為)』を始め
   た。
    イギリスは、国の政策として、国策として、イギ
   リスという国が先頭に立って、卑劣な行為「黒人の
   方々を拉致して来て、その黒人の方々を物の様に売
   る」という犯罪行為を始めた。
.
1881年10月5日、アトランタ博覧会が開かれた。
  この博覧会には、33の州とアメリカ合衆国外の6つの国
 から1,013点の展示品が集まった。
  しかし、デトロイトの新聞が、自虐的に・・、
  「アトランタの博覧会には、テネシー州のリンチも、
 アメリカの特産物として出品されるべきであった」と書
 いた。
  (リンチ・私刑で、黒人の方々が、黒人蔑視思想であ
 まりにも多く、アメリカのあちこちで殺されていた)
  アメリカでは、卑劣な行為(黒人の方々への殺戮行為)
 が、リンチ(私刑〉として横行していた。
  この様に低劣なアメリカ社会に対し、黒人の知的な開
 放家デュボイスは、リンチ事件に対して・・、
  「我々は、そうしたことに、いつまでも耐えて行くつ
 もりはない。
  仮に、死ななければならぬものなら、(キリスト教の)
 神よ、乾草の様にではなく、人間らしく身を滅ぼさしめ
 よ」と言った。
  キリスト教は、その教義「異教徒は殺せ」と、「有色
 人種への蔑視」によって多くの異教徒と有色人種を殺戮
 して来た。
  そして、黒人のデュボイスは、「せめて人間らしく殺
 してくれ」と叫んだ。
.
1905年9月4日、日本は日露戦争に勝利し、アメリカ東部の
 ポーツマスで、『ポーツマス講和条約』をロシアとの間
 で調印した。
  そして、日本は、1905年10月10日、この講和条約を批
 准し、ロシアは、1905年10月14日に批准した。
  この講和内容で、「日本は、ロシアから南満州鉄道の
 営業権を譲り受けた」。
  (ロシアは、東清鉄道の内、旅順~長春間の南満洲支
 線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡した)
  しかし、まだ、この後も、この満州地域の北には、常
 に、ロシア(ソ連)の脅威が、この後も存続し続けた。
  また、中国は、国民政府軍と共産党軍がぶつかり合い、
 この満州に向かって、南から国民政府軍が、力をおよぼ
 して来ていた・・満州はその様な空白地域だった。
  (南からも、北からも圧迫が続くという状況)
  そして、アメリカにとって・・、革命をした共産主義・
 ソ連は、それまでの帝政ロシアより「ずっと危険な対抗
 勢力」の存在となった。
  共産主義・ソ連は、アメリカなどの『帝国主義を否定』
 した。
  共産主義・ソ連は、帝国ロシア時代のアメリカなどの
 米欧列強との『不平等条約』を認めず・・、
  また、アメリカなどの米欧列強が、特権を享受してい
 るシステムの『基盤そのものを否定』し、直撃した。
  そして、中国の蒋介石・国民政府が、アメリカなどの
 米欧列強にとって都合がよく・・、
  そして、中国・国民政府の蒋介石が、南京に軍事政権
 を樹立すると、これを中央政府として承認した。
  これは、中国のおけるソ連勢力を弱める目的もあった。
  そして、これでも、アメリカなどの米欧列強は、中国
 国内に高まって来ている民族主義による、外国人排斥運
 動の高まりを恐れていた。
  また、これまで、アメリカなどの米欧列強が、帝国主
 義の直接手段で、中国から奪って来た以上の「力と革命
 的スローガン」で、ソ連が、中国の権益の獲得行動をす
 るのではないかと恐れた。
  この様な状況の中で、満州事変が起きた。
  また、この頃、アメリカなどの米欧列強が、中国での
 権益を守り、権益を拡大しようとする行動において、ア
 メリカなどの米欧列強同士の対立が生じていて、潜在的
 な大きな問題となっていた。
  争っているのは、ただ単に、日本と中国という構図で
 はなかった。
  ロシア革命によって、より攻撃的なソ連が生まれ、そ
 のソ連が加わったという複雑な様相の中国だった。
  満州事変を、アメリカなどの米欧列強が承認した「中
 国・南京政府」が、国際連盟に提訴したことにより、こ
 の事のみが、特に、国際舞台の上に上がり、とやかく論
 議されることとなった。
  この満州鉄道だって、アメリカなどの米欧列強も、利
 権(鉄道租借権)を中国から得ていた。
  日本も、同じ様に条約によって、正式に、また、法的
 に得た合法的財産となっていた。
  アメリカなどの米欧列強が、その自国の財産を守るた
 めに、中国に軍隊を駐留させているが・・これと同じよ
 うに、日本も軍隊を駐留させていて、そして、それは、
 何らおかしなところがある訳ではなかった。
  (日本は、条約によって正当に駐留させている訳であ
 って・・侵略なんかではない)。
  アメリカなどの米欧列強は、上海、天津など、あちこ
 ちに軍隊を駐留させ、軍艦を中国の河川に往来せさてい
 るという状況だった。
  満州事変も、日本の財産を守るための警察行動だった。
.
1910年~1930年、第一次大戦の頃より、アメリカ南部の黒
 人の方々は、ブラック・ベルトと呼ばれたその地帯から、
 アメリカ北部の都市へ移住した。
  ジェームス・アレンは、その数を、100万人以上にのぼ
 ると推定している。
  しかし、この黒人の方々も、北部において差別された。
  都市生活に慣れていない彼らに待っていたものは、「
 南部も、北部も変わらないアメリカの人種差別」だった。
  キリスト教に洗脳された差別だった。
  賃金は安く、住居も「ゲットーと蔑(さげす)み呼ば
 れた隔離された貧民街の一区域」に押し込められた。
  住む自由も与えられなかった。
  「日本を貶めるだけのNHK」は、決してこの様な事
 を放送しない。
  1919年の夏を頂点として、この頃に頻繁(ひんぱん)
 に起きていた黒人の方々の抵抗行動は、こうした社会的
 背景があった。
  1919年7月のシカゴで起きた人種反抗は最大であった。
  黒人の方々の「栄光の抵抗行動」の歴史的事実となっ
 ている。
  逆に、白人アメリカ人にとっては、非人道的行為・差
 別をしたという「歴史的汚点」となっている。
  この時、白人アメリカ人は、黒人アメリカ人を差別し
 て「黒人の方々が、泳いではいけないという海」を勝手
 に決めた。
  17歳の黒人青年は、イカダに乗って遊ぶうちに、知ら
 ない間に、うっかりこの地域に入ってしまった。
  これが始まりだった。
  黒人青年は、何ら悪くは無かった。
  この様な区域を作った白人アメリカ人に「すべての悪
 さ」があった。
  しかし、黒人青年は、白人アメリカ人たちに殺されて
 しまった。
  黒人の方々の抗議の嵐は3日間も続いた。
  人種戦争の様相と化した。
  そして、23人の黒人の方々が殺され(白人の死者数は
 15人)、傷つけられた黒人の方々は1342人(白人178人)・・
  また、数百軒の黒人の方々の家屋が焼き払われた(焼
 かれた白人の家屋は・・ほとんどなし)。
  因みに、この年、日本は、国際条約の場で、「人種差
 別撤廃」を提案している。
  1919年1月14日に、パリに到着した日本全権団は、人種
 差別の撤廃提案を成立させるために、各国と交渉を開始
 した。
  しかし、米欧各国の思惑から成立しなかった。
  そして、このアメリカで差別を受けていた黒人の方々
 は、この講和会議の日本の人種差別撤廃案に期待をして
 いた。
  日本の説明で・・うまく運んでいたが、アメリカのウ
 ィルソン大統領が『議長裁定』により法案を成立させな
 かった。
  この事に対し、アメリカ黒人の方々は、自国政府の行
 動に対して、多くの都市で人種暴動が勃発させ、その卑
 劣さを訴えた。
  悲しいかな・・この行動においても、多くの黒人の方々
 の多くの命が失われた(この様な事を放送しないNHK
 ・・日本を貶める放送はよくするNHK)
.
1927年3月24日、南京事件
  こう名付けられる事件を、アメリカは起こした。
  アメリカは、中国・南京で、アメリカ戦艦を使い、南
 京砲撃の武力行使をしている。
  日本領事館などを含む外国領事館と居留民に対する砲
 撃だった。
  日本の政策は、この事件によって大きく変わった。
  その意味で、重大なアメリカの武力行使だった。
  しかし、アメリカは、自国民を守る「警察行動だ」と
 言った。
  (しかし、これと同じ様な事変である、満州事変は、
 警察行動ではないと、アメリカは主張した)
  (参考)事変は、「異常な出来事」のこと、そして、
     「非常の出来事」のこと)
  満州事変は、当初、アメリカは何も言っていなかった
 が・・後になって、このトラブルのことを過大に扱った。
  アメリカは、後になって、「ことさら大きくしたい」
 アメリカに変わった。
  この頃、中国は盗賊だと言い訳を言うが、中国・正規
 軍がトラブルを、色々と起こしているという時世だった。
  また、この事件の3日前の1927年3月21日には、中国の
 国民政府軍(蒋介石軍)は、上海を占領している。
  そして、この日の前日の1927年3月23日には、南京を攻
 略しようと「南京城を包囲」している。
  完全に、中国・国民政府軍とアメリカは、共同戦線を
 張って、中国において日本を攻めて来ていた。
  宣戦布告なしの、アメリカの中国における「日本との
 戦端が開かれた事実」の一つである。
.
1927年、中国革命軍が、イギリスの租借地を攻撃して取り
 返した。
  中国は、漢口と九口を、1861年に、イギリスの租借地
 にされ・・、
  1898年には、その租借地領域を拡張されているが・・
  1927年のこの時、中国革命軍は、この租借地を攻撃し、
 イギリス軍を駆逐し、この地を取り戻した。
  アメリカは、満州事変を、「日本が侵略した」と言い
 つのるが、中国にしてみれば、アメリカなどの米欧列強
 の方が、広い地域を奪っていて、ひどいと感じていた。
  この戦闘は、この中国の不満が爆発した戦いだった。
  因みに、アメリカは、上海、天津、温州に租借地を持
 っている。
.
1928年、中国・清朝が滅亡した後、中国各地には、私兵を
 抱(かか)えた軍閥が群雄割拠した。
  孫文の後を継いだ国民党の蒋介石は、各地の軍閥と戦
 い国内統一を目指した・・『戦国時代の様相』だった。
  そして、1928年、蒋介石は、北京を抑えて新政府を樹
 立した。
  今・現代、まだ、その様な戦国時代から、中国は100年
 も経っていない・・
  その様な国・・文化は熟成していない・・
.
1929年10月24日、アメリカに始まった世界恐慌は、世界を
 経済的混乱に陥(おとしい)れ、苦しめた。
  1922年に、イタリアに「ファシズムの政府」が生まれ、
 独裁政治を始めた。
  これが、ムッソリーニのファシスト党だった。
  そして、1935年に、このファシズムのイタリアは、エ
 チオピアへ侵攻した。
  そして、このファシズムが、1929年の世界恐慌後、経
 済混乱に苦しみ、経済的に困窮する国々に広がった。
  アメリカ発の恐慌は、この様な世界を現出した。
.
1929年、大きくなるナチス党
  ドイツは、第一次世界大戦後、巨額な賠償金を背負わ
 されて苦しんだ。
  物価は高騰した。
  庶民は生活に苦しみ、不安の中に暮らしていた。
  ここに生まれたのが「ヒトラーの率いたナチス党」だ
 った。
  ヒトラーは、「民族の栄光の復活」を掲げた。
  国民も賛同して行った。
  1929年に始まった世界恐慌は、ナチス党を大きくした。
  恐慌によるドイツ経済の悪化と・・、
  ベルサイユ条約の賠償金支払い方法としてヤング案が
 合意されると、ドイツ国民の反発を呼び、ナチス党は支
 持を集めて行った。
  (ヤング案は、1929年9月1日に遡及して適用された・・、
  ドイツの支払いは遅滞した。
  また、世界恐慌の経済混乱の影響があっても・・、
  当事者各国の協調によって、このヤング案は堅持され
 た)
  1932年7月、選挙でナチス党(ナチ党)は、全584議席
 中230議席を獲得し、ついに第一党となった。
  そして、翌年の1933年1月30日には、ヒトラーのナチス
 党は、政権を握り、ヒトラー内閣が発足した・・そして、
 独裁体制を作った。
  ここから酷い世界史が始まった。
  切っ掛けは、アメリカから始まった世界恐慌と第一次
 世界大戦のドイツに対する苛酷な責任追及だった。
.
1930年、世界恐慌、日本に波及、不況状態となる(前年の
 1929年に起きたという説がある)、
  日本の農村は、アメリカ向けの生糸の輸出額が激減し
 たことによって・・、
  農村の暮らしは、極限の貧しさに一気に転落して行っ
 た。
  この昭和恐慌・・娘を身売りさせるという悲しい話も
 聞いた・・まだ、日本は発展途上の国だった・・
  ほぼ1932年頃まで続く・・、
  この年・1930年、ロンドン軍縮会議で、日本は、不利
 な協定を受け入れざるを得ない状況となった。
  軍部から不満の声が出た。
  また、政府が、野党から厳しく攻撃された。
  この様な世情不安の時、浜口雄幸首相は、暴漢に襲わ
 れ重傷を負い、そして、1831年8月26日、死に至った。
  経済も波乱状態の上に、政治も波乱の時代だった。
.
1931年9月18日、アメリカやヨーロッパの列強諸国は、初め、
 満州地域への関心は「まったく無かった」・・
  ほとんどと言ってよいほど「関心の欠片(かけら)」
 も無かった。
  だから、当初は、アメリカは、日本の行動を、当然、
 侵略だなんて言っていない。
  その様な歴史的記録は一切ない。
  アメリカは、後になって、都合で「侵略だ」と言い出
 した。
  当初は、アメリカは、ただ単に、日中双方に、事変の
 戦闘を停止するように求めただけに過ぎなかった。
  また、同様に、国際連盟も、同じ様に、戦闘の停止を
 求めたに過ぎなかった。
  そして、国際連盟は、それ以上を問題としないで「休
 会に入ってしまった」ほどだった。
  そんな調子だった・・が・・後から、火がついたよう
 に日本を攻めて来た・・
.
1931年9月18日、そして、アメリカは、この時の満州事変が、
 後になって、自国に有利に使えそうだと、ことさら過大
 に取り扱われてしまう様になった。
  アメリカはじめ米欧列強の植民地で起きたことは、国
 内の事件として処理されていたが・・ことさら、日本の
 事は過大に取り扱われた。
  特に、この満州事変がそうであった。
  中国が国連に提訴したが、アメリカなどの入れ知恵の
 感がする。
  例えば、イギリスは、植民地のインドで、インドの方々
 を、さも猛獣狩りをするようにして、インドの方々を、
 毎日のように、殺戮していたが・・、
  また、道の木々に、インドの方々を吊るして殺し、そ
 のままの「吊るしたまま」にして・・インドの方々は、
 同胞の方々のその様な状態を、毎日、見せつけられると
 いう状況だった・・が・・、
  また、アメリカは、フィリピンで、60万人ものフィリ
 ピンの方々を殺戮するという様なことをしていたが、
  これらが、国連で討議されるようなことはなかった。
  国内問題とされ、「警察行動によってだ」とされた。
  しかし、満州事変は、ひたすら拡大的に取り扱われた。
  アメリカなどの米欧列強の思惑通りの推移だった。
.
1933年5月31日、塘沽協定(とうこきょうてい)が、この時、
 河北省塘沽において日本と中国との間に締結された(停
 戦協定)。
  これによって、柳条湖事件に始まる満州事変の軍事的
 衝突は停止された。
  この中国との停戦協定が結ばれ・・1934年3月1日には、
 溥儀(ふぎ)が皇帝として即位し、満洲国は帝政に移行
 した。
  国務総理大臣(国務院総理から改称)に、鄭孝胥(後
 に張景恵)が就任した。
  満州国は、五族協和、王道楽土建設のスローガンのも
 と、満州には、日本の重工業が発展したりして、経済成
 長をした。
 中国人が、著しくその様になった満州へ流入して来た。
  (参考)五族協和:ごぞくきょうわ、満州国の目指し
     た理念で、「和(日)、韓、満、蒙、漢(支)」
     の五族が協調して暮らせる国を目指した。
  (参考)王道楽土:おうどうらくど、満州国の建国理
     念で、アジア的理想国家(楽土)を、西洋の武
     による統治(覇道)ではなく、東洋の徳による
     統治(王道)で造るという意味。
  この地域は、荒野も多かった・・種々の民族が住む地
 でもあった。
  ロシアが不凍港が欲しくて模索し、ウスリー河、アム
 ール川流域を手に入れたりした様に、確定的な地ではな
 く・・、
  また、近年まで、中国とロシアが国境で揉めたがごと
 くの状況であった。
  また、必ずしも、中国の領土という事でもなく・・、
  しかし、ここに先住する多くの民族の独立の権利は、
 喪失させられてしまった。
  今・現在、満州国があった地には、ほとんど満州人は、
 居なくなってしまった状態だという。
  チベット人の方々が、チベットに居られなくなってい
 る様に・・
  因みに、万里の長城のはるか北方のこの地は、中国は
 「化外の地としていた」。
.
1935年、アメリカ外高官のマクマリーの中国情勢について
 の見解・・、
  「人種意識がよみがえった中国人は、故意に自国の法
 的義務を軽蔑し、目的実現のために向こう見ずに暴力に
 うったえ、挑発的なやり方をした。
  そして、力に訴えようとして力で反撃されそうな見込
 みがあるとおどおどするが、敵対者が何か弱みのきざし
 を見せると、たちまち威張り散らす・・
  中国に好意を持つ外交官たちは、中国が外国に対する
 敵対と裏切りを続けるなら、遅かれ早かれ、一二の国が
 我慢しきれなくなって手痛いしっぺ返しをしてくれるだ
 ろうと説き聞かせていた」。
  また。。、
  幣原喜重郎(元外務大臣)の中国の外交に対する見解・・、
  「日本は、不平等条約の辛酸をなめ、その撤廃を図(
 はか)るにあたっては、列国を攻めるよりもまず己(お
 のれ)を攻めた。
  打倒帝国主義などと叫ばずして、まず静かに国内政治
 の革新に全力を上げた。
  帝国主義時代において、我々の先輩の労苦は容易なら
 ざるものがあったが、国内の近代化が達成されると、列
 国は快く対等条約に同意した。
  日本は、外国人が治外法権を享有(きょうゆう、当初
 から、初めから持つこと)した時代でも、列国の帝国主
 義を呪うことなく国を進歩させた。・・
  我々は、必ずしも日本の先例の通りにしろという訳で
 はないが、シナ(中国)が早く平等の地位を占めること
 を望むがゆえに、同国官民の自重を求めざるを得ない」。
  中国に、ロシア革命の影響を受けて外国人排撃の暴力
 が横行していた頃に対する言葉・・、
.
1936年12月12日、西安事件
  西安(シーアン)は、中国・陝西省(せんせいしょう)
 の中心都市で、古都・長安である。
  中国・共産党は、抗日で国共両党が協力することを呼
 びかけた。
  しかし、蒋介石は、まず国内の共産党勢力を倒し、そ
 の後に、日本軍と戦うという方針を変えなかった。
  国民党軍の戦いの方針は次第に変わって行く・・、
  中国国内には、ロシア革命に刺激されて、外国勢力の
 排斥の風潮があったが・・、
  アメリカに武器・弾薬を供給されている国民党軍は、
 当然、外国勢力の米欧は敵ではなく、外国勢力で日本だ
 けを敵として認識させられて行く。
  共産党軍は、圧倒的な兵力を持つ国民党軍に追い詰め
 られた。
  満州地方の軍閥で、日本軍に駆逐された張学良は、蒋
 介石に、共産党及び共産党軍を討伐する事を命令されて
 いたが、内心は共産党の抗日の呼びかけに賛同していた。
  張学良は、1936年12月12日、蒋介石を西安で監禁した
 (西安事件)。
  そして、共産党との内戦の停止を迫った。
  そして、強引に同意させてしまった。
  この様に拘禁された蒋介石が西安に来た理由は・・、
  共産軍が、国民政府軍の共産党の討伐戦により21万人
 から7万人まで大幅に勢力を弱め、陝西省・甘粛省の2省
 に追い詰められていた。
  このため、蒋介石は、共産軍を殲滅する最後の軍議を
 西安で開いて、20個師団と100機を超える航空機を投入し
 て2週間から1月間以内に、8年間にわたる対共産党軍戦を
 終わらせようとしていた。
  蒋介石の言葉(将軍たちへの訓示)・・
  「剿匪(共産党軍を殲滅する意味)の完全成功まで、
 いまや最後の5分間の段階に来ている。
  各自はこの機会を逃すことなく、勇敢迅速に行動して
 ほしい」・・と、繰り返し命令した。
.
1937年12月、中国の国民政府軍の蒋介石が、南京が陥落し
 たので、さらに、中国奥地の重慶へ首都を移した。
  そして、対日戦を続けた。
.
1947年7月21日、オランダが、インドネシアに侵攻した。
  オランダは、戦後、インドネシアを再び植民地としよ
 うと不当な戦争をした・・それは侵略戦争と言えた。
  オランダはインドネシアを侵略した。
  日本によって、インドネシアを追い出されていたオラ
 ンダは、そのままで過去300年以上の甘い汁を吸い続けた
 利権をあきらめるような国では無かった。
  (参考)オランダは、日本へ、1941年12月10日に、宣
     戦布告した・・そのため、日本は、インドネシ
     アのジャワ島へ上陸部隊を送った。
      オランダ軍は、1942年3月10日に、日本軍に
     全面降伏した。
      日本は、オランダ軍に監禁されていたスカル
     ノ(後のインドネシア大統領)やハッタなどの
     指導者を解放し、協力体制を取った。
  卑劣にも、オランダの副総督ファンモークは、スカル
 ノの独立宣言を無視した。
  そして、インドネシアの港町スラバヤに、イギリス軍
 とともに上陸した。
  欧米列強は、いつも、卑怯である・・弱小国に、いつ
 も、この様に連合を組んで侵略する。
  (街のやくざが群れる様に・・日本も、まだ近代化し
 ない幕末に、これでやられ、大金をむしり取られた)
  オランダのファンモークは、「インドネシア人は、日
 本軍が降伏した現在、オランダ軍が上陸すれば、インド
 ネシアは、直ちに、元通り従順な植民地になるに違いな
 い」と考えた。
  しかし、「インドネシアは、日本軍によって羊が虎と
 なっていた」とオランダは驚愕した。
  (日本は、すでに、自衛ができるようにと、インドネ
 シア軍を教えていた(郷土防衛義勇軍・ペタの育成)・・
 それは、オランダの差別的な弾圧政策と雲泥の差があっ
 た)
  イギリス軍は、連合軍の管轄として、日本兵の武装解
 除、本国輸送などの役割を果たすために来たという名目
 もあったのだが(言い逃れ)・・このインドネシア独立
 戦争に関わり、大きな犠牲を出した。
  それ故、1946年11月になって、軍隊を撤退させた。
  しかし、オランダは諦めなかった。
  1947年7月21日に、戦車、飛行機、機関銃で武装した部
 隊約10万人を投入した。
  (この後、オランダは、1948年12月19日にも、二度目
 の大規模侵攻をする)
  そして、大規模な攻撃に出た。
  インドネシア共和国軍は独立に燃えていた。
  しかし、兵員こそ200万人もいたが、武器は、大東亜
 解放の旧日本軍から秘密裏に渡された小銃4万丁ほどに
 過ぎず、大半の兵士は竹槍を手に立ち向かった。
  オランダ軍は、瞬く間にジャワの大部分と、スマトラ
 油田地帯を含む産業地帯を占領した。
  オランダの「明らかな侵略戦争」は、世界中の非難を
 浴びた。
  国連安保理は、「オランダの敵対行動の即時停止」と
 「平和的手段での解決」の決議案を採択した。
  しかし、オランダは、この決議案を受け入れて、停戦
 に応じるかと見せかけたが、占領地域からの軍隊撤退を
 拒否した。
  外交交渉は暗礁に乗り上げ、局地的戦闘が続くという
 状態だった・・
  国連決議なんて何の役にも立たない状況だった。
  1948年12月20日、オランダは、再度、空挺部隊による
 第二次攻撃を開始し始めた。
  オランダとのインドネシア独立戦争では、日本軍人の
 数千人が、戦後も、インドネシアに残って、インドネシ
 ア軍を助け、共に戦った。
  その日本人英雄の中には、インドネシア国立英雄墓地
 に祀られている人々もいる。
  国際世論は、特に、インドを始めとするアジア諸国は、
 オランダによる都市の無差別爆撃に激しい非難を浴びせ
 た。
  (アメリカが、日本にも散々やった、無実の市民が居
 る都市の無差別殺戮爆撃である)。
  国連安保理も、1949年1月28日、オランダに対して、イ
 ンドネシアから撤兵するよう勧告する決議案を採択した。
  アメリカ議会の中では、これ以上、軍事行動を続ける
 ならば、マーシャル・プラン(アメリカによる欧州経済
 復興援助)を打ち切るべきだという声が出た。
  これが、最終的にオランダを諦めさせた。
  結局、国連による非難決議だけでは、オランダの侵略
 に対する有効な阻止手段とは・・悲しいかな・・ならな
 かった。
  3年半の独立戦争で、インドネシアが払った犠牲は、
 死者:80万人、負傷者:1000万人を超えた。
  しかし、オランダは謝罪するどころか、戦費を賄(ま
 かな)うためにオランダが発行した軍票60億ドルのイン
 ドネシア政府による弁済、オランダ人官吏への恩給支給、
 オランダ人所有の不動産の権利承認などを要求した(臆
 面もない不当な要求)
  (参考)臆面もなく:おくめんもなく、遠慮すること
     なく、図々しく・・
  インドネシア政府は独立確保のために、オランダの要
 求のすべてを呑んだ。
  ここまでしてから、やっと、再度の侵略の心配がなく
 なった1963年に、インドネシアは、「オランダの要求を
 否認する」という声明を出した。
  その時の外相であったルスラン・アブドルガニー氏は、
 次のように語った・・、
  「インドネシアは、ようやく力がついてから、全世界
 の見ているところで、オランダとの約束を全部破り捨て
 ました。
  つまり、植民地主義と戦うには力がなければ勝てない
 のです。
  オランダと戦う力、つまり軍事能力を戦時中、日本が
 与えてくれたおかげで我々は独立することができました」
 と語った。
  エピソード・・、
  1945年8月16日の終戦の翌日、前田精海軍少将は、スカ
 ルノとハッタを自らの公邸に受け入れ、インドネシア独
 立宣言の打ち合わせを行った。
  この会議は、8月16日23時から始まり、翌・8月17日の
 午前2時過ぎまで続いた。
  会議には50人ほどが出席していた。
  その間にも、多数の青年グループ達が会議の結果を待
 っていた。
  日本人は、前田の他に日蘭商業新聞記者・吉住留五郎、
 第一六軍軍政監部司政官・三好俊吉郎、海軍嘱託・西嶋
 茂忠が同席した。
  後に、インドネシア共和国初代外務大臣となるスバル
 ジョは自著の中で、1945年8月17日未明に行われた独立
 準備委員会による独立宣言に関する会合について・・
  「こうして、一人の勇敢な日本海軍少将の家での、忘
 れることのできない夜の会合は終わった」と述懐してい
 る。
  1976年(昭和51年)、前田は、インドネシアの建国功
 労章を授与された。
  アジア解放の大東亜戦争の一つの顕彰であった。
  (参考)顕彰:けんしょう、功績などを一般に知らせ、
     表彰すること。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)564E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年9月~1892年10月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:*(増補版)564E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年9月~1892年10月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年9月、ロシア皇帝のアレクサンドルⅢ世は、シベリア
 鉄道建設反対派の蔵相・ヴィシネグラツキー(1849年~
 1915年)を更迭した。
  この当時、ロシアは首相職がなく、蔵相職が事実上の
 政府の最高責任者だった。
  シベリア鉄道の建設計画は、1882年に、アレクサンド
 ル3世によって決定され、
  1891年から実行に移された。
  (全長8000キロに及ぶ膨大な計画で、建設費が巨額の
 ための着工遅れた)
  この時の蔵相がヴィシネグラツキー。
  このヴィシネグラツキー蔵相は、財政均衡を重視し、
 鉄道建設に、終始、難色を示して来ていた。
  しかし、皇帝は、人口の稠密(ちゅうみつ、ちょうみ
 つ、隙間もないほど多く集まっていること)状態の改善
 と、
  当時、中国において、イギリスとドイツが半植民地化
 して、美味しい汁を吸い、勢力拡大していた。
  これに、対抗して加わりたいとした(このロシアと、
 この後、日本はぶつかる)
  また、イギリスは、アムール河やウスリー河の地域を
 も侵略・拡大しつつあり、覇権を獲得しつつあった(中
 国の最大の植民地獲得国・イギリス)
  この地域の人口1200万に対して、ロシア人7万3000人
 (0.6%)という、ほとんど居ないという状況だった。
  しかし、ロシア皇帝は、鉄道敷設によって、この地域
 の領土確保をしたいとした。
  皇帝は、建設着工式に、皇太子のニコライ2世を出席さ
 せ、日本にも立ち寄らせ・・大津で暴漢に襲われる事件
 が起きた。
  ロシア経済は、急成長していたものの、まだ、植民地
 収奪の先輩の西洋列強諸国に比べると劣っていた。
  皇帝は、鉄道反対派のヴィシネグラツキー蔵相を解任
 し、鉄道建設を良く知るウィッテを蔵相に任命した。
1892年10月1日、小包郵便業務が開始した。
  小包郵便取扱(小包郵便法を実施した)
  日本は、郵便制度の超先進国で、日本において通信制
 度が現れたのは、伝馬などを利用して公用通信に供した
 「大化の駅制」だった(645年の大化の改新時に、唐にな
 らって日本は始めた)。
  この駅制は盛衰を続け、鎌倉時代に至って飛脚が出現
 する。
  戦国時代には、大名の書状送付に飛脚が頻繁に利用さ
 れるなどの発達を経て・・、
  徳川時代(江戸時代)には、幕府の整備により、武家
 や町人までもが利用できる飛脚屋・飛脚問屋などの制度
 が発達した。
  また、幕末期には、開国され、各国領事館も設置され、
 その公文書が蒸気船や軍艦によって運搬させた。
  また、日本国民の手紙も便乗させた(領事館郵便)
  そして、これが、業容を拡大し、独立の局舎を設けて
 専任の従業員を抱えた。
  これが在日外国郵便局で、アメリカ・イギリス・フラ
 ンスが、横浜・兵庫・長崎に持った。
  この在日局は、各国の郵便ルールに従った。
  切手販売、手紙引受、押印という基本的な業態が行わ
 れた。
  因みに、横浜の居留地では、サザーランド切手が使わ
 れた。
  明治時代に入って郵便となり・・、
  1870年5月、駅逓権正となった前島密が、太政官に郵便
 制度の創設を建議した。
  1870年6月、前島が上野大蔵大丞に差添し、渡英したこ
 とで、郵便制度創設の建議は、後任の駅逓権正・杉浦譲
 と各地の官史に引き継がれた。
  1871年1月24日、「書状ヲ出ス人ノ心得」及び「郵便賃
 銭切手高並代銭表」、「郵便規則表」等、郵便に関する
 一連の太政官布告が公布された。
  1873年、そして、特に、それまでの法制を改めた1873
 年の郵便規則が布(し)かれ・・、
  1882年、郵便条例・・そして・・
  1892年、小包郵便法が補完された・・そして・・、
  1900年、旧郵便法が、明治憲法下で公布され、統合さ
 れて、近代的な郵便法制が確立した。
  日本は、郵便事業は、大切な国家事業であるとの認識
 で精力的に進められて来た。
1892年10月1日、乗車綴切符取扱手続を制定し、施行した。
  「綴切符」は、1冊100枚つづりで、上・中・下等に共
 通して使用できた。
  乗車区間・運賃など、発売の都度、記入する方式だっ
 た。
1892年10月1日、両毛鉄道会社が、日本鉄道会社への業務委
 託を解除して、業務の自営を開始した。
  両毛線は、関東平野の北部を東西方向に結び、栃木、
 佐野、足利(あしかが)、桐生(きりゅう)、伊勢崎(いせさ
 き)、前橋などの都市を連ねているが・・、
  これ等の都市は、江戸時代から機業地(きぎょうち、
 絹・木綿その他の布を織る事業地)として知られ、
  この地域を相互に連絡する目的で、1888年~1889年、
 両毛鉄道によって開業した。
  (新前橋~前橋間の一部は、1884年に、日本鉄道によ
 り開業する)
  そして、日本鉄道への統合を経て、1906年に国有化さ
 れた。
1892年10月1日、シカゴ大学が開校した。
  アメリカのイリノイ州シカゴにある私立大学で・・、
  1890年に創立された。
  ロックフェラー財団の経済的援助と、初代学長ウィリ
 アム・レイニー・ハーパーをはじめ、歴代学長の識見や
 指導力によって急速に発展した。
  都市社会学を開拓・推進したシカゴ学派。
  初代総長W・R・ハーパーは、真の学術研究中心大学
 の創造を目ざし、学部課程のカレッジ教育、大学院教育、
 専門職業教育、地域社会へのサービス奉仕、大学出版部
 活動など、高等教育の活動と考えられるものはすべて大
 学に取り込もうとして取り入れ、研究重視の新しい総合
 大学の創造に尽くした。
  1896年、教育実験学校を設置
  1919年、オリエント研究所が設けられ、
  1920年代、シカゴ学派と呼ばれる都市社会学の研究者
   が輩出・・、
  1929年、30歳で第5代学長になった教育学者ロバート・
 R・ハッチンズ(1899年~1977年)は・・、
  古典による一般教育カリキュラムを導入、ジョン・デ
 ューイの教育実験学校の設置、四学期制の創始(クォー
 ター制)、成人のための公開講座やプログラムの開始、
 大学前期教育としてのジュニア・カレッジの考え方、女
 性に対する平等な教育や就職機会の開放(シカゴ・プラ
 ンによって特色あるカレッジ教育)を行なって、アメリ
 カ高等教育の先駆けとなったことから大学の名を高から
 しめた。
  大学の課程、研究分野として生物、自然、社会、人文
 などの科学領域 (学部、大学院共通) があり、大学院の
 専門部門として商学、神学、法学、医学、社会事業など
 がある。
  また、成人対象の経営など実学系プログラムも含む一
 般教養を学ぶグラハム・スクールも擁している。
  そして、学部課程よりも、大学院レベルの学生数が圧
 倒的に多い。
  図書館、研究所、病院などの諸施設を有し、成人教育
 講座、通信講座も置かれている。
  2003年現在、教員数2160人、学生数約1万3400人(学部
 課程の学生は約4400人)。
1892年10月4日、乾電池の発明
 世界で初めて、日本人の屋井先蔵(やいさきぞう)が、
 完全な乾電池を完成させ、特許を出願した。
  佐久間象山(1811年~1864年)は、すでに、日本人とし
 て初めて電池(ダニエル電池:液体式か?)を製作してい
 たが・・、
  1863年、世界に誇る日本人による乾電池の発明者:屋
   井先蔵が、新潟県長岡の越後長岡藩士屋井家に生ま
   れる。
  1869年(6歳)父が死去し、叔父に引き取られる。
  1875年(13歳)東京の時計店の丁稚となるが、病気の
   ため帰郷する。
    そして、修理工として年季奉公をした後、東京高
   等工業学校(現・東京工業大学)の入学に臨むが失
   敗。
    独力で永久自動機などの研究をする。
  1885年(22歳)電池で正確に動く「連続電気時計」を
   発明した。
    しかし、使用した電池が、液体式のダニエル電池
   などで、手入れが必要なうえ、冬場は凍結し、使え
   なくなった(乾電池の開発動機)
    日中の会社の仕事をしてから後の、夜に、電池開
   発を続けた。
    3年間の平均睡眠時間は3時間程度だった。
    東京物理学校(現:東京理科大学)の実験付属の
   職工ともなって頑張った(屋井は産学協同の先駆者
   とも言える)
    正極(+極)に薬品が沁み出し、金具腐食が起き
   て使えなくなることが問題だった。
    この点の改良に悩まされ、苦労した・・しかし・・
   炭素棒にパラフィンを含浸することにより解決策を
   見い出した。
  1887年(24歳)「乾電池」が発明された。
    しかし、日本における乾電池の特許の第一号は、
   屋井ではなく、高橋市三郎となっている。
    海外では、ドイツのガスナー、デンマークのヘレ
   センが、1888年に、乾電池の特許を取得している。
  1891年(28歳)「連続電気時計」が特許として認めら
   れた。
    (わが国の電気に関する初めての特許)
    また、この年に、繁(しげ)と結婚をしている。
  1894年(31歳)に、日清戦争が勃発し・・、
    ある日、発行された号外で、満州において使用さ
   れた軍用乾電池の大成功に関する記事が掲載された。
    従来の液体型の電池が使われていたら、満州の寒
   気で使用できなくなっていたが、
    乾電池であるから、満州の寒気に乾電池だけが使
   用できた。
    号外で、「満州での勝利は、ひとえに乾電池によ
   るもの」と報道された。
    新聞は、この乾電池が、屋井のものであることを
   聞きつけ、取材され、翌日の新聞にこれが書かれた。
  1910年(47歳)屋井乾電池販売部を、神田区錦町一丁
   目に新築して立ち上げ、同時に浅草神吉町に工場を
   設け、乾電池の本格量産にとりかかった。
    現在の乾電池のスタイルを確立していた。
    海外品との競争にも勝ち、国内乾電池界の覇権を
   掌握するまでに発展し、「乾電池王」とまでうたわ
   れるようになった。
  1927年6月1日(63歳)若いころからの刻苦勉励がたた
   ったのか? 屋井は、胃がんに侵された。
    そして、急性肺炎を併発して急逝された。
   (享年63歳4か月だった)
    残念なことに、屋井乾電池は、後継者を得なかっ
   た・・そして・・
  1950年(昭和25年)屋井乾電池の名が、乾電池工業会
   の名簿から消えてしまった。
  2014年、世界最大の技術者団体、電気電子技術者協会
   であるIEEEマイルストーン(IEEE=The Institute
   of Electrical and Electronics Engineers 、本部
   米国)が、この年、屋井先蔵らの栄誉を顕彰した。
  尚、エピソードとして、要確認情報だが・・、
  発明にしたにもかかわらず、貧乏のため乾電池の特許
 を取得はできなかった。
  (特許取得料が高額で出願できず・・もし、世界特許
 に出願していたら、日本に特許料が入り、国も潤ってい
 たであろう)
  また、乾電池を発売した当初、大半の世論は「乾電池
 などという怪しいものが正確に動くはずがない」という
 見方で、屋井先蔵の乾電池は全く売れなかった。
  さらに、持病の為に寝込む日が続き、生活は貧窮を極
 めた。
  さらに、屋井先蔵の乾電池の価値を知った外国人が、
 万博にて自分が発明したものだと主張したため、しばら
 くの間、世界で最初に乾電池を発明したのが、屋井先蔵
 であると認知されなかった。
  (電池工業会のホームページなどを参考にした)
.
  (今日の言葉)
.
  題:北朝鮮の核とミサイルは完成している・・日本は、完全に射程範囲内に入っている。
  この核抑止力の為・・アメリカの原潜と核ミサイルを乗員ごと、とりあえず1隻・・買え!!
.
紀元前1200年頃、ペトラ遺跡
  エドム人がペトラ付近に住み始めた。
  1985年、ユネスコの世界遺産に登録された・・、
  また、2007年、新・世界七不思議に選出された。
  ペトラ遺跡は、ヨルダンにある遺跡。
  死海とアカバ湾の間にある渓谷(岩礁地帯)にあり、
 自然の崖にある要害(ようがい、地勢がけわしく、敵を
 防ぐのに適している所)となっている。
  紀元前1200年頃から、エドム人たちがペトラ付近に居
   住した。
  紀元前300年頃に、文化が発祥・・、
  紀元前1世紀頃から、立地条件の良さから、古代ナバテ
   ア人の有力都市として栄えた。
   エドム人たちは、南へとナバテア人たちに追いやら
   れた。
   ナバテア人は、アラビア付近の貿易を独占し、栄え
   た。
  紀元前64年、ローマのポンペイウス将軍に、ナバテア
   人は支配下に置かれた。
   ローマは、ナバテアの自治を認め、課税した。
   ローマ風建築の造営が始まった。
  紀元後105年、ペトラが反乱を起こすが(武力の格差)、
   ローマに降伏させられる。
  紀元後106年、ペトラとナバテア人は、ローマの属州と
   して完全に組み込まれた。
   この頃から、墓を使わなくなる。
  紀元後365年、地震が起き(363年説あり、ガリラヤ地
   震)、多くの建物が崩壊し、また、水路網も破壊し
   た。
   この後、キリスト教を受け入れ、キリスト教に改宗
   させられる。
  5世紀初め、大洪水が起きた。
   完全な岩礁地帯であるので、農業は出来ない。
   また、雨が降ると、鉄砲水となって渓谷内をその水
   が流下(りゅうか、流れ下ること)して行った。
   都市は流された。
   ナバテア人はダムを作って対策を取った。
  6世紀後半まで生存した。
   水道管を通して給水設備を作り上げた。
   ナパテア人は、砂漠に水を引くことで農業が可能と
   なった。
   雨水を貯水した。
   テラコッタ(粘土で作った素焼きのもの)によって
   水を浸透しにくくして貯水し、また、水を通した。
   王宮には巨大なプールがあった。
  663年、イスラム帝国によって征服された。
   ペトラは、次第に衰退へ向かう・・、
  748年頃(749年説あり)また、ガリラヤ地震が起きた。
   大きな被害が発生し、ついに、ナパテア人はペトラ
   を断念し、放棄する。
  1812年、スイス人探検家(ルートヴィヒ・ブルクハル
   ト)が発見し発表した。
  20世紀初頭から発掘調査がなされ始めた(現在も続行
   中)
  2014年現在でも、なお85%が未発掘となっている。
   荘重(そうちょう、厳かで重々しいこと)な東側入
   口は有名、宝物殿(エル・カズネ)、列柱通り、ロ
   ーマ劇場、宮殿の墓、北の壁、大神殿、凱旋門、翼
   を持ったライオンの神殿、博物館、砕石場、水路、
   ダム、ローマ兵の墓、べビのモニュメント・・など
.
19世紀、欧米列強は、自分たちの植民地の卑劣な虐(いじ)
 め支配を、歪曲した言い方で正当化した。
  19世紀は、「重荷を担った白人」とか、「未開民族の
 啓蒙」とか・・という言葉で正当化し、この言葉が新聞
 紙面に踊った。
  20世紀になると、「解放」とか、「後進地域の自決権
 と民主化を行なってあげた」だった。
  いずれの時も、自分たちの搾取の行為を、勝手に、ま
 た、都合のよい言葉で正当化し、自分たちの利益を非人
 道的行為で得ていた。
  そして、アメリカは、第二次世界大戦後、日本を「元
 の島国に戻すという方針の目的を持った」。
  そして、アメリカは、中国を、ロシアの対抗勢力にし
 ようと考えた。
  アメリカの勝手な「やりたい放題」だった。
  そして、世界へ向かって「日本は、狂暴で貪欲だから
 だ」と説明し、アメリカは正当なのだと宣伝した。
.
1897年11月、中国の山東省で、ドイツ人カトリック宣教師
 が殺害された事件を口実に、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世
 が山東省に派兵し、膠州湾を占領し、そのまま清政府か
 ら同地を租借地として奪った。
.
1905年7月、アメリカの黒人の方々の解放へ向けての活動で
 ある「ナイアガラ運動」の第1回会議が開かれた。
  これは、アメリカにおける公民権運動の先駆となった
 運動で・・、
  アメリカの黒人社会運動家W・デュ・ボイスの呼びか
 けだった。
  教員や編集者などの急進的な黒人の代表者の方々が、
 黒人の権利獲得のために、黒人を組織化しようとした。
  第1回会議は、1905年7月に、ナイアガラ瀑布付近のカ
 ナダ領フォートエリーで・・、
  W・デュ・ボイスら黒人知識人が集まり・・、
  すべての黒人の方々が、差別反対運動を展開すること
 を訴える宣言をした。
  そして、人種や、皮膚の色に基づく差別の撤廃、成年
 男子の普通選挙権、教育の機会均等などを発表した。
  第2回会議は、翌年・1906年8月に、J・ブラウンの蜂
 起の地であるバージニアのハーバーズフェリーで行われ
 た。
  そして、黒人の方々のための完全な人権の確立、公共
 施設における差別の撤廃、だれとでも交際できる権利の
 獲得、黒人保護のための効果ある法律の制定、子弟の教
 育の保障を要求をした。
  1909年、資金難やワシントン派との抗争などの影響で、
 運動体としては大きく成長できず、この年、全国黒人向
 上協会の前身にあたる全国黒人委員会に合体することに
 なった。
  組織としては発展的解消ということになった(1910年
 説あり)
  組織体の解消とはなったが、その果たした役割は大き
 かった。
  この「ナイアガラ運動」という知的な黒人の方々によ
 って、黒人差別制度に対する抵抗運動を起こしたことは、
  また、「近代的な黒人解放運動家」が、少数だが、再
 び、戦闘的積極的な黒人の方々が立ち上がって行った。
  また、1881年には、アラバマ州のタスキーギに、黒人
 の方々のための「職業教育の大学」が創設された。
  徳性のある中産階級の黒人の方々が生まれ、白人と尊
 重し合う階層の人々が生まれることを目指した。
.
1906年、アメリカのサンフランシスコ市の教育委員会が、
 日本人や朝鮮人学童の隔離教育を決定した。
  極東の異人種に対する卑劣な隔離政策。
.
1910年8月、日韓併合
  日本は、アメリカやイギリスが、植民地支配としてア
 ジアでやっていた略奪一方の植民地搾取行為と違って・・、
  日本が、朝鮮・韓国でしたことは・・、
  朝鮮・韓国社会に役立つこと、社会インフラの巨大投
 資をするなど、多岐にわたって行った。
  しかし、韓国は、なんだかんだと日本を貶(おとし)
 める。
  ダムを作り、鉄道を引き、学校などを建てて教育制度
 を充実させ、行き渡らせたりなどなど・・その日本の貢
 献をまったく評価しないで無視する・・逆に、日本を貶
 める。
  2014年の韓国の教科書には、ありもしない記述がなさ
 れている。
  それは、「鉄道建設のための用地買収に応じない反日
 地主を捕らえ公開銃殺をした」と、感受性の鋭い子供た
 ちの教科書に、この様な嘘記述をした・・、
  これは、まったく根拠のない嘘話であり、作り話であ
 る。
  何で、今まで、「徒歩で行かなければならない所」を、
 鉄道敷設をして、「すぐに行けるようにしますよ」と言
 われて反対し、死ぬ様な事までの行為をするのか??
  本『歪められた朝鮮総督府』には・・、
  「総督府が、民衆や義兵を、実に十万人単位で虐殺し
 た」という嘘があると記したものだが・・、
  なぜ日本人は、韓国人ばかりを虐殺したのか、他地域
 では起きていないことを、「した」というのか? その
 原因など・・どう考えても理由がわからない。
  この韓国の虐殺話は嘘で、作り話なのである。
  十万人単位の虐殺の記録が、『まったくない』という
 状況なのである。
  しかし、韓国は、「虐殺された、虐殺された」の話だ
 けが存在するという状況にしている。
  感謝の「かの字」もない。
  その膨大な死体は・・どう処理されたのか?
  ナチスのようにその処理場が必ずある訳だ。
  そして、その処理場があって、行為があったと言える
 のだ。
  その様な事の立証も、証明も、韓国は出来ない。
  特殊な処理工場や大きな遺構など、なんでも韓国は立
 証できるはずなのだが、その立証行為もできないし、立
 証しようともしない。
  ただただ、日本に対して悪口を言うだけ・・、
  韓国の言うその虐殺人数の痕跡が何もないという事は、
 ただ、嘘を言うだけ、デッチ上げを言うだけとしか言え
 ないこととなる。
  韓国という国は、昔からこの様な国なのである。
  日本がそれをしたというなら、日本側にその特殊部隊
 が居る訳だ。
  半端な数ではない、その人数は、昨日・今日、殺され
 たという程度の話ではない、行為ではない、そんな簡単
 にできる行為ではない。
  韓国の誠実な立証行為が必要な話なのだ。
  万単位の人間の死体が埋められたというなら、必ず分
 かる人数で、規模なのだ。
  発掘すれば多くの、大量の遺骨が出る訳だ。
  その、何一つ、韓国は立証していない、立証できない
 事という話に、これまでの時間の流れが立証している。
  そんなウソ話を、韓国は、子供の教科書に記述して、
 何も知らない子供を繰っている・・洗脳している。
  日本に対する嫌悪感を、ただただ、植え付けている・・、
.
1910年、日韓併合について、アメリカとイギリスは反対も
 しなかった・・それは、条約による正式な「双方の合意」
 に基づくものとの当然の見方をした。
  世界も、当然、その見方であった。
  しかし、嫌日国家の韓国は、その様には考えない。
  アメリカとイギリスは、逆に、日本に朝鮮(韓国)に
 『居てもらいたい』と考えていた。
  積極的な「日韓併合・賛成論」なのである。
  ロシアが、朝鮮(韓国)に居る事が許せなかった。
  また、朝鮮(韓国)自身も、また、中国も、西洋勢力
 が朝鮮(韓国)に居るより、日本が居る方が良いとした
 事実があった。
  そして、「西洋勢力から遠ざかりたい」とした。
  それまでの欧米列強のえげつない収奪に辟易していた。
  また、アメリカ・イギリスの本当の狙いは中国であっ
 て、朝鮮(韓国)はどうでも良かった(美味しい中国だ
 けで十分だと)
  その証拠に、1870年代半ばまで、朝鮮(韓国)は、何
 ら、欧米列強と関係のない状態に置かれていた。
  関心外の朝鮮(韓国)だった。
  日本は、その間、数々の戦いを列強各国と行っていて、
 痛い目に会い、罰の大金を払わされていた。
.
1910年8月、日韓併合のこの頃、「日朝同祖論」という思
 想が日本に風靡した。
  そして、日本では、朝鮮(韓国)人との結婚を奨励し
 たりした。
  朝鮮(韓国)を特別に大切に扱おうとして、『血縁共
 同体』を強調した。
.
1910年8月、日韓併合がなされて、朝鮮(韓国)の内政は、
 正されて行った。
  それまでの韓国の国内は乱れに乱れていた。
  アメリカ人のハルバートは、本「朝鮮滅亡」に書いて
 いる・・
  「裁判は、金の力で正義の秤(はかり)が上下する」
 と・・、
  また、「文明国なら、たちまち民衆の反乱を呼び起こ
 すに相違ない様な不正かつ野蛮な事件を見聞きしないで
 済む日はない」と・・云々・・とある。
.
1911年、辛亥革命(しんがいかくめい)で清朝が滅んだ。
  ラストエンペラーの溥儀(ふぎ)が紫禁城を追われ、
 中華民国が生まれた。
  しかし、いくつもの軍閥が入り乱れて勢力争いをする
 という乱れた状況となった。
.
1919年11月7日、日本が、日本委任統治領「南洋群島」を、
 ヴェルサイユ条約の批准によって委任統治を開始した。
  (~1945年8月15日まで、ポツダム宣言受託により領有
 権を放棄したとされている)
  第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約(
 1919年6月28日)によって、日本が委任統治をする事にな
 った。
  日本は、南洋庁を置いて、島々を開拓し、産業の扶植
 を行なった。
  そして、学校を建て、教育も行った。
  第一次世界大戦では、アメリカは、日本にドイツと戦
 いなさいと言って、ドイツが敗れるとドイツの持ってい
 た太平洋上の島々(南洋群島:北マリアナ諸島、パラオ・
 マーシャル諸島、ミクロネシア連邦)を日本にくれた。
  国連のお墨付きの承認の日本の委任統治領となった。
  しかし、この様なアメリカは、第二次世界大戦の後は、
 アメリカは、日本のこの領土を得た。
  アメリカ信託統治領「太平洋諸島」とした。
  そして、アメリカは、終戦後すぐに、ビキニ環礁にお
 いて、原子爆弾の実験をし、放射能で汚染した。
  そしてまた、その後、水爆実験場ともして、幾度とな
 く核実験の放射能汚染で、住民の方々を泣かす様な行為
 をした。
  悲しいかな、住民の方々は、核アレルギーの精神疾患
 を持つ様な方々にされてしまった。
.
1922年2月6日、九カ国条約(ワシントン)
  ワシントンでの会議によって・・、
  第一次世界大戦で、日本は、ドイツに対してアメリカ
 と共に戦ったが・・、
  そのドイツから得たドイツの中国権益の返還などを・・、
  この時、後になっての1922年に、アメリカなどから求
 められた。
  ドイツの権益を得る時、日本は、国際法上においての
 問題もない「中国との条約」を交わしていた。
  日本は、条約で、中国の主権を尊重し、領土保全と門
 戸開放も確認し、機会均等も確認してもいた。
  この時の「山東省のドイツ権益(膠州湾)」の返還な
 どが求められ・・決められた。
 この九カ国は、アメリカ・イギリス・フランス・イタリ
 ア・ベルギー・オランダ・ポルトガル・中国・・そして、
 日本の九カ国だった。
  何で、条約で「いいですよ」と了解した中国が居るの
 だ・・と言いたい・・アメリカの命令・・、
  アメリカは、中国の大都市に大租界を持ち、軍隊を駐
 留させ、中国の河川や海上に自国・アメリカの砲艦を遊
 弋(ゆうよく、艦船があちこちを航行すること)させて、
  そして、治外法権の特権を持っていた。
  そして、中国以外にも、アジアのあちこちに覇権を持
 つ第一の大国だった。
  また、中国での勢力権を持って支配していた。
  国際連盟は、日本と満州との結びつきについて、何ら
 非難するという事もなく認める形にあったのだが・・
  つまり、アメリカは、れっきとした中国の大覇権国で
 あり、アメリカより狭い日本の満州との関わりに、非難
 が起きる状態ではなかった。
  この様な日本を、アメリカは、「日本が侵略した、侵
 略した」と称した。
  日本が侵略国なら、アメリカこそ「大侵略国」だった。
  つまり、アメリカは、アメリカの勢力圏だと思ってい
 た中国に、日本が来て・・「その日本が目障りとなって
 来ていた」。
  また、日本の勢力圏を取りたいためもあった。
  そこには、「まだ弱小国である日本」が、中国に勢力
 圏を持ったという蔑視観もあった。
  日本が、アジアの小国が、西洋列強の様な事をやった
 という面を咎(とが)めた。
  アジアの民族が、そのアジアに、勢力圏を持つという
 怖さもあった。
  歴史的には、「アメリカ・イギリスによる膨張する日
 本を抑え込む行動」と記されている。
  幕末に、「列強の連合」に押え込まれた日本であった
 が、この時も、この状況の様に、日本は、また、抑え込
 まれる立場に置かれた。
  また、この時、アメリカが合意し、アメリカとの間で
 交わされていた石井・ランシング協定も破棄された(手
 のひら返し)
  この九カ国条約は、「アメリカの外交上の勝利」と言
 われた。
  しかし、この条約の卑劣な所は・・また、劣った所は、
 『チベット人、トルキスタン人、モンゴル人、満州人、
 回教徒の方々などの存在を無視し、このすべてを、漢民
 族に与えた』ところにあった。
  これ等の民族の方々の「独立権をも無視した」・・
  これが、今・現在においても、虐げられ、苦しめられ
 ている状況が、今なお続き、現出し、その苦悩が極まっ
 ている。
  アメリカなどの列強の「欲得で世界をいじくった」『
 未解決の大きな罪』となっている。
.
1922年11月13日、アメリカ連邦最高裁判所が、「黄色人種
 (日本人を指している)は、『帰化不能外国人』であり、
 帰化権はない」とする判決を出した。
  まったく、驚くべき破廉恥な判決である。
  人種差別の悪が極まった判決である。
  この様な判決を出す国自体をさえ軽蔑する。
  この判決は、『すでに帰化した日本人の権利』まで剥
 奪できるとした。
  また、第一次世界大戦で、アメリカ兵として従軍し、
 死を賭して戦った日本人移民(日系アメリカ人)にまで
 帰化権を(時を遡って)認めず、剥奪した。
  (注)法律を、時を遡って適用するという事はあり得
    ない行為・・
  この時の判決の趣旨説明は・・
  「1790年当時の(帰化)法の立案者が考えたことは、
  アメリカに居住していた黒人やインディアンを除外す
 る目的で作られたが、
  これら2人種だけを、当時は除外の対象としていたとい
 うのは真実かもしれないが、
  法律立案者の意図が、その2人種だけに限られると解釈
 するのは法の肯定的形式を無視することになり、
  本規定は、黒人とインディアンを除外すると言ってい
 るのではなく、
  実質的に、自由白人のみを「帰化権有資格者」に含め
 ると言っているのであって(白人優越思想)、
  つまり、法の意図するところは、建国の父が白人とし
 て認めていた人のみに市民権を授与し、
  逆に、それに当てはまらない何者にもこれを拒否する
 という事だ」・・と・・、
  さらに、アメリカは、『ケーブル法』を制定し、二世
 女性にまで直接的な攻撃を加えた・・、
  ケーブル法は、いかなるアメリカ人女性でも、「帰化
 不能外国人」と結婚した場合、「アメリカ市民ではなく
 なる」と規定した。
  (市民権剥奪で脅して、白人女性の日本人との結婚を
 否定し、拒否した)
  そして、またさらに、アメリカは、1924年に、さらに
 さらに『異常な法律』を制定する。
.
1933年9月、フランクリン・D・ルーズベルト(第32代アメ
 リカ大統領、在任期間:1933年3月4日~1945年4月12日)
 の言葉・・、
  「朝鮮(韓国)の独立は、その戦略的位置に鑑(かん
 が)み、日本の死命を制する大事であった。
  したがって、日本は、朝鮮(韓国)が名実ともに独立
 する事を心から願っていたのである。
  しかしながら、独立は悪政に潰された。
  朝鮮(韓国)国民の能力を超えるものであった。
  朝鮮(韓国)が、中国、または、ロシアの手に落ちる
 のを防ぐため、日本は二度の戦争を経て、朝鮮(韓国)
 を保護下に置くことを宣言した。
  この実験は失敗した(戦争には勝ったが・・)。
  そこで、1910年に締結した併合条約によって、日本は、
 (朝鮮・韓国の)廃墟の上に新しい朝鮮(韓国)を建設
 する責任を担ったのである」。
  水野錬太郎「現代の日本」1933年9月
.
1940年、アメリカが、中国に武器・弾薬を渡していたが、
 その「援蒋ルート」が、日本軍によって、1940年の北部
 仏印進駐と、1941年の南部仏印進駐によって遮断された。
  アメリカは、1937年の日中戦争が始まって以降、秘密
 裏に、中国・国民政府(蒋介石)軍へ武器・弾薬などを
 援助した・・、
  また、後に、秘密裏に参戦もして、日本軍と交戦して
 いた。
  時を遡って、この事を見てみると・・、
  第一次世界大戦の後、世界一の経済大国となったアメ
 リカで、1929年、株価が大暴落し恐慌が起こった。
  不況の波は世界中におよび、怖(おそ)ろしい世界恐
 慌となった。
  悲惨な世界恐慌の嵐にもまれて日本は苦しんだ。
  この恐慌の後、日本国内に、ドイツやソ連のような国
 家体制の下での統制経済を理想とする風潮が広がった。
  また、1933年頃から、広大な植民地を持っていたイギ
 リスやフランスなどは・・経済のブロック化を行なった。
  イギリスやフランスなどは、本国と植民地との経済的
 な結びつきを強め、その経済圏の内部で重要な商品の自
 給自足を図りつつ、高い関税をかけて圏外の商品を締め
 出すブロック経済の政策をとった。
  日本は、この後、このブロック経済から締め出される
 という卑劣な虐(いじ)めに会う。
  また、さらに、ABCD包囲網という卑劣な連合体制
 で、よってたかって経済的孤児とされた。
  大切な物品の輸入が出来ない状況とされた。
  まったく、国が存立の出来ない状況に置かれ、このた
 め、自衛のための戦争をせざるを得ない状況に追い詰め
 られて行った・・第二次世界大戦へ至る道へ追い込まれ
 て行った。
  日中戦争においても、アメリカは、中立を守っている
 風を装った・・が・・、
  卑劣な事に、中国・国民政府(蒋介石)を秘密裏に支
 援していた。
  蒋介石を援助するルートという意味の「援蒋ルート」
 があった。
  援蒋ルートには、仏印ルート、ビルマルート、香港ル
 ート、ソ連ルートがあった・・、
  後になって、隠せなくなってアメリカは、公然と支援
 を行なうようになった。
  これも、アメリカと日本との戦争の原因の一つとなっ
 た。
.
1941年、日本と第二次世界大戦を戦うという「この年のア
 メリカ」であったが、この様な時にも、盛んに私刑(リ
 ンチ)をして、黒人の方々を死刑にするという卑劣なア
 メリカがあった。
  黒人の方々の・・何と多くの血が、流された事であろ
 うか??
  黒人の方々は・・、黒人の方々への差別を無くす法律
 を、アメリカ国内に成立させて来た。
  本当に誇らしい歴史を刻んで来た。
  リンカーンなんかじゃない・・黒人の方々の努力だっ
 た・・命をかけた戦いだった。
  このアメリカが、外国へ法を説く時には、「民主主義」
 を説いた。
  ・・が、しかし、このアメリカの民主主義が分からな
 い国には、アメリカは、『正義をかざして』、「武力を
 行使する」ことまでして、「アメリカの民主主義を強制」
 した・・それが『正義なのだ』と称した。
  しかし、自国・アメリカ国内の黒人の方々に対しては、
 この民主主義の『民』さえない状態だった。
  黒人の方々を、暴力で殺戮する白人・アメリカ人で組
 織される集団が、いくつもできるというアメリカだった・・
  そして、アメリカ国内のあちこちで、黒人の方々の殺
 戮行為が横行した。
  アメリカ国内に、その国土に、風土の中に、この様な
 状況が定着していた・・軽蔑すべき状況だった。
  白人優越=黒人蔑視の人種偏見の社会だった。
  キリスト教の教義・考え方「有色人種蔑視」に洗脳さ
 れ、大々的に宣伝されていた。
  また、社会は、絶えず暴力を扇動し、黒人の方々を迫
 害するという状況だった。
  私刑(リンチ)が絶えず行なわれるという、「卑劣な
 死刑が行われる」という卑劣さであった。
  1890年~20世紀初頭が、その中でも特に酷かった。
  1882年~1947年の期間を、ざっと調べただけでも3426
 件のリンチがあった。
  凄まじいリンチ社会だった。
  アメリカが、日本に戦争・第二次世界大戦を仕掛けた
 1941年も、アメリカという国は、盛んに有色人種への
 蔑視から来るリンチをする社会だった。
  また、アメリカを動かす「アメリカ北部」。
  その中心的な位置にいる「アメリカ北部資本家」。
  独占段階に達したアメリカ資本主義。
  たんに黒人の方々を搾取するのではなく、労働者階級
 全体を搾取していた。
  その為に作りだされた法制的、暴力的、イデオロギー
 的なアメリカ特有な収奪体系で社会は動いていた。
  この差別の風潮は、北部諸都市の雇用、住宅をはじめ
 様々な所で現れた。
  「ジム・クロウ」という言葉がはやった。
  (参考)1896年、アメリカ最高裁判決:「隔離は差別
     ではない」「隔離すれども平等」と判決した。
      この判決の考え方・理屈で、差別が合法とさ
     れて、差別が、全国的に堂々となされるアメリ
     カ社会であった。
      卑劣なアメリカ社会は、このジム・クロウ制
     度が、黒人の方々への差別の法体系として全面
     的に発展した。
      そして、長期間に渡って続いた。
      ホテル、学校、キリスト教会、病院、映画館、
     レストラン、バス(乗り物)、トイレ、投票権
     など、あらゆるところで、入場拒否、隔離行為、
     差別などが行なわれた。
      公立学校でさえ差別された。
      キリスト教徒の新島襄が、日本に居る時、美
     しい話をキリスト教宣教師に言われて、アメリ
     カに行ったが・・有色人種の日本人の新島襄は、
     卑劣な人種差別に会い、まったくキリスト教と
     アメリカという国に失望する。
      ほとんどすべてのキリスト教会も、厳格な人
     種隔離の原則を採用するというアメリカだった。
      この卑劣な判決があって、黒人の方々の運動・
     行動もまったく正当化されなかった。
.
1948年1月6日、アメリカ陸軍長官ロイヤルが、演説中「日
 本を反共の砦(壁)にする」と発言した(反共・封じ込
 め政策開始)
  1948年6月、ヨーロッパでは、共産勢力の台頭を防ぐた
 めマーシャルプランが発令された。
  また、日本については、日本と他のアジアの労働者の
 質を現実的に比較して、
  日本の工業施設を、戦後賠償としてアジアに移転させ
 てしまうより、役務賠償や日本で生産した工業製品によ
 る現物賠償が有力という現実的な判断が深まり、日本製
 造業の見直しの機運を盛り上げた。
  さらに、日本の経済的自立の立ち遅れが、アメリカの
 占領費用負担に繋がるという納税者の論理も働いていた。
.
2016年7月6日、読売新聞(2016・7・6)によると・・、
  中国は、財政が困窮するギリシャの最大の港(ピレウ
 ス港)を買った。
  そして、このたび、この港を活用した経済協力の拡大
 で両国は一致した。
  「地中海最大のコンテナ積み替え港にしたい」と、中
 国の習近平国家主席は述べた・・と読売は伝えた。
  「本音は、中国艦船の軍港として使いたい」と言われ
 ている。
  中国の世界戦略の中のヨーロッパ地域の拠点となる。
.
2017年11月1日、韓国が、ユネスコの『世界の記憶(世界記
 憶遺産)』に申請した『慰安婦問題の関連資料』の登録
 が見送られた(読売新聞、2017年11月1日)
  日本政府は、「適切な対応がなされた」と評価した。
  2015年には、これも嘘の「南京大虐殺の文書」が、中
 国の申請で登録されるというミスがあったばかり・・、
  これは、審査の中立性や透明性のない中での登録だっ
 た。
  今後、当事者間で、事実関係や歴史認識について、見
 解が異なる案件は、話し合いがまとまるまで審査を保留
 することになった。
  慰安婦問題について、韓国は、『慰安婦問題の真実を
 未来の世代に伝え、不幸な出来事が再び起きないように
 教育する努力」が政府の責務で、登録に向けて「外交的
 努力を続けて行く」と表明した。
  韓国政府は、韓国政府が音頭をとって、韓国の若い女
 性方たちを組織して、外資を稼ぐため、慰安所を作って、
 売春行為を韓国政府の官制で行わせて来た。
  不幸な出来事が再び起きないよう、未来へ伝えるため
 教育する努力が政府の責務と言うのならば、この長く続
 いた韓国政府の外貨稼ぎの官制慰安所の話もユネスコへ
 登録申請をすべきであるし、また、韓国の小学生の教科
 書にも書くべきである。
  また、韓国は、冊封下にあった中国に、長い期間、
 慰安婦接待を常にして来た韓国政府の行為をも教えるべ
 きであり・・、
  また、アメリカ軍への慰安婦所を作って、長い期間、
 韓国女性方たちへ外貨稼ぎをさせたことも、また教科書
 に書くべきだし、
  また、ベトナム戦争時の韓国兵のベトナム女性への行
 為などもユネスコへ申請し、かつ、小学生や中学生など
 へ教育の努力を、その様に言われるのなら・・おやり下
 さい。
  この様な、女性の人権を踏みにじる行為を、数々、韓
 国政府もろともやって来ましたと教育しなさい。
.
2017年、北朝鮮の核とミサイルは完成している・・日本は、
 完全に射程範囲内に入っている。
  この核抑止力の為・・、
  アメリカの原潜と核ミサイルを乗員ごと、とりあえず
 1隻・・買え!!
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)563E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年9月~1892年9月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)563E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年9月~1892年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年9月7日、現行のボクシングの基礎となるクインズベ
 リー・ルールを適用した初のボクシング公式試合が開催
 された。
  この日の世界ヘビー級タイトルマッチで、ジョン・L・
 サリバン対ジェームス・J・コーベットで適用された。
  クインズベリー・ルールは、1865年、ロンドン・アマ
 チュア・アスレチック・クラブのジョン・グラハム・チ
 ェンバースによってルールが定められ、
  第9代クインズベリー侯爵ジョン・ショルト・ダグラス
 が保証人となったことで成立したので、彼の名を冠し「
 クインズベリー・ルール」と名付けられた。
  それまでは、ロンドン・プライズリング・ルールズで、
 このルールから変更された点は・・、
  (1)リング:一辺が24フィート(7m32cm)の四角形
  (2)1ラウンドを3分、インターバル1分
  (3)5オンスグローブ着用
  (4)投げ技の禁止
  (5)10カウント以内に立ち上がれない場合はKO負け
  (6)ベルト以下への打撃の禁止
  (7)腰より下の抱込みの禁止
  (8)倒れた相手への攻撃禁止、蹴り技、頭突き、目玉
    えぐりの禁止
1892年9月10日、九州鉄道会社線の門司駅~熊本駅間の各駅
 と、山陽鉄道会社線の神戸駅~尾道駅間の各駅との間に
 大阪商船会社所属の尾道~門司間航路を介して、旅客・
 貨物の連絡運輸が開始された。
1892年9月13日、イギリスのアームストン曲馬団(Harmston's
 circus)が来日し、興行を開始した。
  このアームストン親子の興行は、「アームストン大曲
 馬」と言われ、両国の回向院で行われた。
1892年9月16日、九州鉄道会社が、経費節減のため、前年に
 引続いが職員の給料を減額し、人員整理を実施した。
  1873年から1896年は、世界的な大不況で、構造不況と
 言われる不況だった。
  この大不況は、1873年恐慌に始まったが・・、
  原因は、広範な産業分野における生産力の向上があっ
 た。
  その増産、特に、銀の増産によって、価格が下落した。
  増産は、新知識・技術の発展による新鉱山の発見と、
 電解精錬の効率化だった。
  採掘量が増え続け、また、その雑多な鉱石からも銀が
 得られるようになった
  そして、ドイツ帝国は、普仏戦争で獲得した50億フラ
 ンの賠償金で、ロンドン市場などから金塊を買い上げ、
 種々の法律を成立させて金本位制を採用し、
  また、デンマーク、スウェーデン、ノルウェー、オラ
 ンダ、フィンランドも金本位制へ移行した。
  (フランス、アメリカは、その前に金本位制になって
 いる)
  この様な動きの中で、ドイツは、当時の年間銀産出高
 の3倍の6000トンの銀(旧銀貨)を鋳潰(いつぶ)して
 売却(予定)した。
  この大量売却見込みは、銀の単価を下落させた。
  世界の金融バランスは大崩れし、資金引上げにあう国
 が出たり、公定歩合の大幅引き上げ騒動などが起きた・・
 そして、銀価格は急下落した。
  経済バランスは完全に崩れ、穀物移動も混乱し、金流
 出も急激で、フランス銀行は危機的水準に陥った・・な
 ど・・世界は大混乱・・、
1892年9月25日、全国に15ヶ所あった商業会議所の連合体と
 して「商業会議所連合会」が結成され・・、
  また、第1回全国商業会議所連合会も開催された。
  商業会議所は、商工会議所の旧称で、
  1890年の商業会議所条例によって設置されていた。
  (参考)商業会議所:商業会議所条例によって市域を
     単位に組織された地域別の資本家団体で、
      この年・1892年に、全国商業会議所連合会が
     結成され、全国的連合会としての性格をもつよ
     うになった。
  商業会議所は、商工業に関する制度や法律などについ
 て資本家の立場から意見を発表し、
  商工業の発達を図ることを目的として活動を始めた。
  これまで、1887年に、イギリスの商法会議所連合会議
 の件が官報に報じられるなどして来て、
  1890年の商業会議所条例の設置の時より、全国組織の
 必要性が唱えられていた。
  そして、この日に、関西地区の5つの商業会議所の呼び
 かけで、京都にて、第1回の連合会が開かれた。
  今後は、年1回の定期会と、必要に応じて臨時会を開く
 事などの規則が定められた。
1892年9月26日、スーザ吹奏楽団がニュージャージー州で、
 第1回の公演をした。
  ジョン・フィリップ・スーザ(1854年~1932年)は、
 アメリカの作曲家で吹奏楽指揮者、ワシントンD.C.に生
 まれた・・
  父は、ポルトガルの出身で、ワシントンの海軍軍楽隊
 のトロンボーン奏者・・母はドイツ人。
  幼い頃から音楽を得意として、
  ワシントンやフィラデルフィアの劇場でバイオリン奏
 者、指揮者として活躍し
  1880年(26歳)海兵隊軍楽隊(大統領の儀礼用)の楽
   長に就任した。
  1892年(38歳)軍楽隊を辞任し、みずからのスーザ吹
   奏楽団を組織した。
    この年、デヴィッド・ブレイクリーという興行師
   の誘いで楽団を辞任し、「スーザ吹奏楽団」を結成
   した。
    この日・1892年9月26日に、ニュージャージー州
   プレインフィールドで第1回の公演を行い、そのまま
   全米各地への演奏旅行に出発した。
    ブレイクリーの根回しが少々雑だったのか、公演
   は必ずしもすべて成功とは行かなかった。
  1896年(42歳)、ブレイクリーが急死し、その報を聞
   いて帰る船の中で浮かんだメロディーを元に作曲さ
   れたのが『星条旗よ永遠なれ』だった・・、
  1914年(60歳)第一次世界大戦の勃発に伴い、スーザ
   吹奏楽団を解散し、海軍軍楽隊訓練所長として復役
   した。
    終戦後に、軍楽少佐まで進んで退役し、
   その後、再び、吹奏楽団を再結成し、レコーディン
   グや演奏旅行をした。
  1932年(78歳)3月6日、ペンシルベニア州でコンサー
   トを開いた後、帰って来たホテルで急死した。
  作曲作品には、行進曲、オペレッタ、舞曲、歌曲など
 があり・・、
  『星条旗よ永遠なれ』『忠誠』『ワシントン・ポスト』
 『自由の鐘』『士官候補生』『美中の美』など行進曲 を
 136曲を作曲し、「マーチ王」と呼ばれた。
  このほか『エル・カピタン』オペレッタも手がけた(
 この行進曲もある)。
  チューバを改造してスーザフォーンを作った。
1892年9月27日、官吏療治料支給方が公布された(明治二十
 五年勅令勅令第80号)
1892年9月、米原・彦根間軟弱路盤に水防石垣を造成した。
1892年9月、筑豊興業鉄道が、複式6輪連結テンダ機関車を
 使用した(複式機関車使用の最初)
  複式機関車は、複式機関を搭載した蒸気機関車で、
  これは、蒸気機関が全盛のころ、船舶用蒸気機関で熱
 効率を高めるために一定の成果を挙げていた。
  これを蒸気機関車にも取り入れようとするのは当然で、
 様々な形式が試みられた。
  構造が複雑になって、整備に手間がかかった。
  そして、この年・1892年、日本に輸入された最初の複
 式機関車が、国鉄8000形蒸気機関車9号機だった・・
  そして・・その翌年・1893年には、国鉄860形蒸気機関
 車が、何と、日本で最初に製造された。
1892年9月、下瀬火薬が発明された。
 大日本帝国海軍技師・下瀬雅允(しもせまさちか)が実
 用化した爆薬(炸薬として砲弾、魚雷、機雷、爆雷に用
 いた)で・・、
  1893年に、日本海軍は、この火薬を採用し、下瀬火薬
 と名付けた。
  日露戦争当時の日本海軍にも採用され、日露戦争には
 大いに活躍し、大戦果の一因となった。
  因みに、日清戦争には間に合わなかった。
  この火薬は、ピクリン酸を成分とし・・、
  ピクリン酸は、1771年に、ドイツで染料として発明さ
 れていたが・・、
  100年後になって、爆発性が発見された。
  猛烈な爆薬であるが、同時に消毒液としての効果もあ
 る。
  しかし、ピクリン酸は、容易に金属と化学結合して変
 化してしまう為、鋭敏な化合物を維持する点で実用上の
 困難があった。
  下瀬雅充は、弾体内壁に漆を塗り、さらに内壁とピク
 リン酸の間にワックスを注入して、この問題を解決した。
  なお、日本海軍規格の下瀬火薬(下瀬爆薬)は、ほぼ
 純粋なピクリン酸で、 爆薬として用いた場合の爆速は
 7,350m~7,800m/s・・、
  爆速は、爆薬が爆轟現象をおこした場合の、爆轟の伝
 播速度で・・、
  ニトログリセリン(爆速7,700m/s)は、有名なノーベル
 が実用化し、ダイナマイトなどに加工される。
  因みに、最大の爆速を持つヘキサニトロヘキサアザイ
 ソウルチタン(爆速9,400m/s)は、2017年時点で、実用化
 量産されている爆薬の中では最大威力を持つ。
  この爆薬は、スーパーコンピューターによって、分子
 内の電子軌道計算を行ない、理想的な爆薬としての化合
 物の構造の計算が先にあった。
  こうして、先に分子構造を決定したうえで、合成法が
 研究され、実用化されたもので、天然には存在しない。
  爆速は、ニトログリセリンの1.22倍・・、
  用途は広く、砲弾などの炸薬からマルチベース火薬(
 多成分系無煙火薬)の原料として弾薬・実包などにも使
 用されている。
  破壊力をトリニトロトルエン(TNT)比に換算したRE係
 数は2.04であり、国連の危険物輸送に関する勧告ではTNT
 換算190%とするように通達されている。
  1999年、旭化成工業で、メタノール溶媒でα型、β型、
 γ型のヘキサニトロヘキサアザイソウルチタンを溶解さ
 せ、溶媒を蒸発させて結晶を析出させることで第四のε
 型結晶が発見された。
.
  (今日の言葉)
.
  題:1000年の恨みは、ここにこそある。
.
1937年8月13日、第二次上海事変(大東亜戦争の始まり)
  この戦いから長い戦争が始まる・・故に、この戦いか
 らを日中戦争としている。
  (盧溝橋事件は4日後に解決しているので、日中戦争に
 は含めないという歴史的考え方で、ここから『大東亜戦
 争』が始まった)
  この戦いは、アメリカの大量の物量に補強された中国
 国民政府(蒋介石)軍、そして、その大部隊が、上海の
 「日本租界」を幾重にも包囲し、攻撃を開始して来た。
  この中国(蒋介石・国民政府軍)の攻撃開始によって
 戦いは始まった(日本から始めた戦争ではない)
  日中戦争は、日本と中国・国民政府(蒋介石)軍との
 戦いであって・・、
  卑劣な事に、中国・共産党軍は、日本と国民政府軍を
 戦わせ、消耗させ、どちらかが倒れた後に出て行こうと
 の作戦を立てた。
  このため、日本は、中国の現政権の中国・共産党軍と
 は戦っていない・・
  現政権の中国共産党軍は、戦勝国ではない。
  また、表面的には、日本と、この中国の国民政府軍と
 が戦っているように見えるが・・、
  実質的には・・アメリカが、中国・国民政府軍へ武器・
 弾薬を援助していた・・その為、この日中戦争は、日本
 とアメリカの消耗戦であった。
  このため、日中戦争が、泥沼化し・・長引いて行くの
 は当たり前だった。
  アメリカの目的の一つが、「日本を消耗させたい」で
 あった。
  アジアに台頭する日本を、アジアでイニシアティブを
 取らせたくないアメリカは、「何しろ、日本を叩きたい」
 があった。
  アメリカは、ベトナム戦争の時の様に、最初は、ベト
 ナム軍に戦わせていたが、徐々にアメリカ軍が介入した
 ように、この日中戦争も、アメリカ軍と、直接、日本は
 戦端を交えた。
  しかし、このことを、アメリカは卑怯な事に秘密にし
 た。
  しかし、れっきとしたアメリカの公式文書に、アメリ
 カ軍が派遣されていることが記述されている・・
  この事が知られると・・更に卑怯な事に、アメリカは、
 最初、ボランティアだと言い逃れした・・、
  しかし、アメリカ軍の中国派遣の正式な公式文書があ
 ることが分かった(大統領の命令書)
  アメリカは、「真珠湾攻撃の時が、初めての日米戦争
 の始まりだ」と言っているのは、「まったくの嘘」の発
 言である。
  アメリカは、真珠湾攻撃前の日中戦争において、隠密
 に日本と戦端を交えている。
  そして、この中国・国民政府軍へのアメリカの武器弾
 薬の支援を止めさせようと、日本は努力したが・・、
  アメリカの、この中国・国民政府軍の蒋介石軍への武
 器弾薬の援助のルートを遮断(援蒋ルートの遮断)の目
 的で、日本は、この目的をはっきり説明して(アメリカ
 が、援蒋ルートを使って武器弾薬の支援をしているから
 戦争は続く、そのため、この援蒋ルートを遮断する目的
 で南部仏印へ進駐すると説明して)・・、
  1941年7月、日本軍は、サイゴン(現:ベトナム・ホー
 チミン)に入った(南部仏印進駐)
  この様に、明確な説明があったのにもかかわらず、ア
 メリカは、日本のこの行為に対して、懲罰的な対応を日
 本に対して行なった。
  在米の日本資産を凍結した。
  また、対日石油輸出の全面禁止をした・・また・・、
  その他種々の行為・・そして、「ABCD包囲網」と
 言われる国々によって、戦争的行為を日本に対して行っ
 た。
  これは、今・現代、ここまでされれば戦争は起きてし
 まう、これは、事実上の日本に対する「宣戦布告である」
 と言われている。
  最初から、アメリカには、アジアに台頭する日本が目
 障りで、「日本を叩きたいとの思惑があった」。
  この思惑を見破られないため、アメリカは、あれこれ
 と小細工をしていた。
.
1937年9月23日、中国、抗日民族統一戦線が結成されたと言
 われているが・・?・・これは嘘・・、
  西安事件後を契機に、壊滅寸前の共産党は、コミンテ
 ルンの方針もあり国民党との合作に活路を見つけようと
 した。
  (参考)コミンテルン(Comintern)は、1919年から
     1943年まで存在した、共産主義政党による国際
     組織。 別名:第三インターナショナル。
  しかしながら、国民党内の共産党不信は根強く、合作
 の交渉を捗(はかど)らなかった。
  それに対し、北京盧溝橋事件と上海で起きた日本軍と
 の軍事的衝突の矢面に立たされた蒋介石国民政府は、ソ
 連との中ソ不可侵条約締結と共産党の合法化による共産
 主義勢力との連携で難局の打開を試みた。
  最近の研究による新事実は、今まで、抗日民族統一戦
 線は結成されていたというのであったが、
  実際は結成されていない・・
  国共合作の成立は疑わしく、成立してないとされてい
 る。
  作為された史実が書き換えられている・・誰が作為し
 たか・・?
  第一次の国共合作(1924年~1927年)も失敗している。
  この様な中国・・このような状況下で、北京郊外の盧
 溝橋で日中両軍の小規模な衝突が発生し(1937年7月7日、
 盧溝橋事件)・・、
  共産党は、発生の翌日・1937年7月8日、全面交戦を呼
 掛けたが、現地で停戦協定が結ばれ(4日後の7月11日)
 戦火の拡大はおさまった。
  そして、上海で、日中両軍は航空戦を含む全面的な戦
 闘状態に入った(8月13日、第二次上海事変)
  中国・国民政府(蒋介石)は、ソ連と中ソ不可侵条約
 を締結し(8月21日、同29日発表)、
  アメリカ・イギリスの大量の物資援助も入れて、精鋭
 の大部隊をつぎ込んで日本へ攻撃を仕掛け・・全面戦争
 となった。
  アメリカとイギリスは、大量武器援助をして、日本と
 戦争をしなさいと『けしかけた形』となった。
  後に、アメリカ軍は、直接、日本と戦端を開く。
.
1938年3月、ユダヤの方々が、シベリア鉄道のオトポール駅
 に、ドイツの迫害を逃れて、ビザを持たずに到着した。
  日本は、ビザのないこのユダヤの方々を救済した。
  杉原千畝がビザ発給をしない時・・発給をする、大分、
 以前の事である。
  ユダヤの方々が、満州に近いこの駅に到着したのは、
 日本がユダヤの方々を差別なく受け入れる事を知ってい
 るからだった。
  日本は、このユダヤの方々を、「亡国の民」として、
 ビザを持たないこのユダヤの方々を満州へ受け入れた。
  そして、後に、日本の神戸などへ行き、内地で受け入
 れられている。
  当然、日本は、満州へ入国することを認めた。
  この頃、日本は、ドイツと友好関係にあったが、(ド
 イツとの同盟関係は、まだ、結ばれていない)
  ハルピン特務機関長の樋口季一郎少将(東条英機の部
 下)は、満州国建国の「五族協和」の理念からも人道的
 に対応していた。
  救援列車を次々とオトポール駅へ向かって出した。
  この事を知ったドイツは、日本に抗議して来た。
  しかし、日本は、ドイツの属国ではないと、きっぱり
 とドイツの抗議を撥(は)ね付けた。
  この後も、このルートで、多くのユダヤ人の方々を日
 本は救援した。
  (参考)五族協和(ごぞくきょうわ、Five Races Under
     One Union)は、満州国の建国の基本理念で、民
     族政策において「和(日)・韓・満・蒙・漢(
     支)」の五民族が協調して暮らせる国とする。
.
1940年7月、杉原千畝が、この時、職権を越える違反行為で
 「ビザの発給行為」をした。
  杉原が、この行為をした時、日本はドイツと同盟を結
 ぶ以前で・・、
  しかし、杉原千畝が、キリスト教徒であったことから、
 キリスト教は、この杉原千畝を美しくデッチ上げた。
  杉原千畝を美化したいがため、杉原千畝がビザの発給
 の出来ない身分であることを隠した。
  杉原千畝の『重大な違反行為』であることを隠した。
  また、キリスト教は、日本がドイツと同盟をしていた
 からと嘘を言って・・ドイツがユダヤ人を迫害したよう
 に、日本もドイツから同じ行動をとるように言われてい
 たと、キリスト教は、この事についても嘘をデッチ上げ
 た。
  それ故、キリスト教は、「日本は、ユダヤ人へのビザ
 発給に反対だった」と、嘘の屋上屋を重ねる重大なウソ
 話をデッチ上げ、日本を貶(おとし)めた。
  キリスト教徒の杉原千畝を美化したいがため、日本と
 いう国をも貶めた。
  日本は、ドイツと同盟をした後でも、堂々とユダヤの
 方々を救済していた。
  そして、抗議するドイツを撥ね付ける日本だった。
.
1941年12月8日、真珠湾攻撃
  第二次世界大戦(大東亜戦争)のことで嘘ばかり言う
 アメリカ。
  アメリカは、日本と戦争をした、「勝利すると分かっ
 ている戦争」をした・・日本を叩きたかったからだった。
  日本の「戦争を終わらせる打診」も無視ばかりしてい
 た。
  アメリカは、日本の「完全破壊」を目指していた。
  完全にキリスト教の「シャロームの教義の考え方」だ
 った。
  キリスト教のシャロームの教義の考え方は、「完全破
 壊の後に平和が来る」という平和の考え方だった。
  知識水準の高い方々から、「すべてを破壊して、誰も
 居なくなった地に、キリスト教会を建てて何になる」と
 言われていた。
  そして、アメリカは、原爆も試してみたかった。
  戦争を終わる時もこんな調子で、嘘ばかりの、不誠実
 なアメリカだった。
  戦争を始める時も、「日本を叩きたい」があって、日
 本を追い込んで行った。
  また、「戦争はしたくない」というアメリカ国民の方々
 の世論を卑劣な方法で変え、そして、操作した。
  アメリカ大統領のルーズベルトが、イギリスのチャー
 チルと会談した時に、「そのことについて話をしている」。
  そして、「日本の真珠湾攻撃を奇襲だ」と仕組んだ。
  そして、アメリカ国民の方々の非戦論の世論を転換さ
 せた。
  また、アメリカのルーズベルト大統領は、アメリカ国
 民の方々の非戦論を変えるために・・次のことを仕組ん
 だ・・、
  アメリカは、第二次世界大戦(大東亜戦争)を戦う正
 当性を、「日本が、世界征服を目論(もくろ)んでいる
 からだ」と嘘のデッチ上げの話を作って言った。
  歴史上の検討においても、これは、明らかに、「アメ
 リカ国民の方々が非戦論であったため、このアメリカ国
 民の方々を煽る意味でプロパガンダ(嘘宣伝)した」と
 分かっている。
  アメリカ大統領のルーズベルトは、奇襲でも何でもな
 い真珠湾攻撃を「奇襲された」と言ったが、アメリカ国
 民の方々へ嘘を言ったが・・、
  ルーズベルト大統領は、日本が攻める前日に「明日(
 あした)、日本が攻めて来るよ」と親族に口を滑らせて
 言っている。
  それほど、日本の奇襲性はなく・・事前に知っていた。
  この様に、『日本の奇襲」という嘘話を否定する事実
 は一杯ある・・
  アメリカの真珠湾へ向かう戦艦の無線交信だって完全
 傍受されていて、解読されていた。
  刻々とハワイへ迫る日本連合艦隊、それを、逐一、傍
 受しているアメリカだった。
  日本だって、ハワイの真珠湾に、「今、アメリカ艦隊
 が集結している」ということを知っていた。
  その逆においても、日本の連合艦隊が日本を出発した
 時から、アメリカは完全にその行動を知っていた。
  それは当然だった・・最大の破壊力を持つ敵の艦隊を、
 常に、把握していなければならないという「一触即発の
 危機の時」であった。
  日本の連合艦隊の無線は、そのすべてを傍受していた。
  また、日本の連合艦隊より、航行速度の遅い日本の潜
 水艦の複数隻が、先行して真珠湾へ潜航してしている。
  この日本の数々の潜水艦が、すべてアメリカ軍艦と交
 戦し、日本の潜水艦兵士はそのほとんどが戦死した。
  しかし、その日本の潜水艦兵士を、アメリカは救助し
 ている。
  急に、日本の兵士が、海の中から出て来る訳はない・・
  これ等の事のすべてを、アメリカは隠した。
  「日本の奇襲だ」という嘘を作るために・・、
  この日本の潜水艦と、アメリカの軍艦が交戦している
 事を隠し、アメリカ国民の方々へ伝えなかったアメリカ。
  1隻や2隻の潜水艦ではない。
  複数の日本の潜水艦と真珠湾攻撃の前に交戦をしてい
 る。
  このことのすべてをアメリカ国民の方々へ隠した・・
 世界の人々に隠したアメリカだった・・不埒な、不誠実
 なアメリカだった。
  日本の奇襲をでっち上げたいばかりに、その交戦は「
 クジラだった」とおとぎ話のような嘘を言った。
  日本と戦争をして日本を叩きたいアメリカは、あらゆ
 る嘘をデッチ上げていた。
  真珠湾攻撃のはるか以前から、中国へ軍隊を派遣して
 いる事も隠し、武器を中国へ渡している事も隠し、日本
 を攻撃していることも隠し・・卑劣の数々のアメリカだ
 った・・
  そのデッチ上げの一つが『日本が、世界征服をしよう
 としている』・・
  だから、日本と戦争をするのは正義なのだという嘘だ
 った。
  アメリカは、国民の方々へ、頭にこびりつくほど繰り
 返し言った・・「アメリカは、世界を征服しようとして
 いる日本を駆逐する正義がある、戦争をする正義がある」
 と・・、
  それなら・・??
  何処(どこ)で?
  何時(いつ)?
  誰(だれ)が?・・その様なことを言っていたか?
  アメリカは、この疑問に対して「一切、答えられない
 アメリカ」だった。
  日本は、この点でも、「濡れ衣を着せられた」。
  アメリカは、戦争を始める以上、立派な理由を、アメ
 リカの国民の方々へ、「嘘でも言いたかった」。
  しかし、その理由は虚構であって、アメリカの正当性
 は無い。
  この非常に大事なことを・・アメリカは嘘でデッチ上
 げた。
  アメリカは、今でも、この事を説明ができない・・説
 明していない。
  逆に、「アメリカのデッチ上げである」と歴史は示し
 ている。
  アメリカは、戦争をすれば、確実に勝てる相手である
 日本を、戦争をして潰そうというアメリカの意図を歴史
 家は明白に示している。
  今は、日本の真珠湾攻撃についても、アメリカが、真
 珠湾攻撃の「奇襲だ」という話をでっち上げたことが明
 白になっている。
  日本を戦争へ至らせ様と、色々とやって来たアメリカ
 の破廉恥行為も明白になっている。
  自分の言って来た裏付けを言えないアメリカと共に、
 何が明白になったのかが「分かる今」となっている。
  歴史は誤魔化せない・・時とともに真実が出て来る。
  日本は、戦争回避を、必死に、それまでアメリカと折
 衝をしている。
  しかし、そのすべてをアメリカは撥ね付けた。
.
1941年12月8日、日本は、真珠湾攻撃をしたが・・、
  日本の手の内を完全に知っていたアメリカ。
  だから、日本の行動のすべてを知っているアメリカは、
 4隻の航空母艦のすべてを隠した。
  さすがに、戦いに最大に重要な航空母艦だけは・・隠
 さざるを得なかった。
  結果、日本は、アメリカの航空母艦が、最大の攻撃目
 標であったが、その巧妙に隠された航空母艦は捜し出せ
 ずに、1隻の航空母艦に対してすらも、損傷すらも与えら
 れなかった。
  日本は、真珠湾攻撃の何時間も前に、マレー半島に上
 陸するために、日本の艦船群を終結させていた。
  しかも、この日本の輸送船団の上空には、日本艦船を
 護衛するための日本の九七式戦闘機がぶんぶん飛んでお
 り、
  この時、哨戒(しょうかい、敵の襲来を見張って、警
 戒すること)していたイギリス機と遭遇し、戦闘し、日
 本軍機が撃墜している。
  前の日にこんなことまで起きている、イギリス機が、
 先に撃ったかは不明であるが、哨戒機が敵機と遭遇し、
 発見したら無線で『確実に報告する』のが任務である。
  近くに、れっきとしたイギリス軍1個旅団が配置され
 ているのである。
  上陸した人数だって、秘かに2人や3人何て話ではなく、
 日本軍5300名が上陸したのである。
  アメリカと一触即発のこの時に、この真珠湾攻撃前の
 日本の艦船の終結は、当然、確実に、この地域を守るイ
 ギリスに知る所となっていた・・はずだ。
  「真珠湾攻撃前に、マレー半島に、日本軍は艦船を集
 結させ、そして、日本軍が上陸しました・・イギリス軍
 はまったく知りませんでした」・・などという話が成立
 するわけが無い。
  そうであるなら、まったく馬鹿々々しい話である。
  しかし、アメリカの論理は、このマレー半島での日本
 の軍事行動まで、イギリスが知らせなかったのか、何だ
 かに口を閉ざした・・そして、真珠湾は奇襲だったと言
 い張った。
  本当に、馬鹿々々しいがそのような話になっている・・
 そこには、嘘つきのアメリカがそこに居る。
  マレー半島に上陸した日本軍は、イギリス軍と激烈な
 戦いを展開した。
  日本は宣戦布告をしていた。
  日本は、「自存自衛のための戦いである」と宣言して
 いた。
  そして、「アジアの解放を図るための戦いだ」という
 ことの「大東亜戦争」と命名していた。
  今、現在、アメリカは、「日本の放送で、『大東亜戦
 争』と放送する事に、クレームを付けている」。
  日本の放送において、「大東亜戦争」と言えないとい
 う「放送の自由」が、アメリカによって、今だに奪われ
 ている。
  アメリカという国は、日本にこの様な事までしている。
.
1942年、日本を解放軍として迎えたインドネシアの人々。
  数百年に渡ってオランダの植民地とされたインドネシ
 アでは、昔から一つの伝説が口伝えに語り継がれていた。
  「今に、北方から黄色い人々が現れて、圧政者を追放
 し、トウモロコシの実がなる頃には立ち去る。
  そうして、我々は解放される」・・と。
  インドネシアの方々は、日露戦争で、日本海軍がバル
 チック艦隊を破って大勝利を収めたことを知って、「北
 方から来る黄色い人々とは、日本人の事に違いない」と
 信じる様になり、秘かに、日本の南進を待ち焦(こ)が
 れた。
  1942年、日本軍がオランダ軍を破り、進駐すると、イ
 ンドネシアの方々は道端に集まり、歓呼の声を上げて日
 本軍を迎えた。
  日本軍は、オランダを追放してくれた解放軍だった。
  日本は、3年半の期間に、PETA(ペタ〉と称する軍
 事組織の訓練、中等学校の設立、共通語の設定など、後
 のインドネシアの独立の基礎となる多くの改革を行なっ
 た。
  (参考)PETA(ペタ):インドネシアの方々の軍
    隊の祖国防衛義勇軍Tentara Pembela Tanah Airの
    略称。
     1942年、日本軍は、オランダ軍をやぶり、日本
    軍は、は解放のためにやって来た英雄として歓迎
    された。
     また、インドネシアの方々の民族意識の覚醒を
    させた。
     その様な経緯の中、PETAは、1943年の設立
    から終戦までに、ジャワ全土で66大団が編成され、
    約3万3000のインドネシア人将兵が日本式軍隊教育
    の下で養成された。
     日本のインドネシアの方々への活動と支援は、
    オランダの圧政下で、その経験から来た地位と社
    会的環境に甘んじていたインドネシアの方々へか
    なりの影響を与えた。
     この様な中から、スカルノのような政治指導者
    も生み出されるという良いきっかけが作られて行
    った。
  これまで、インドネシアは、350年間続いた軍事力を背
 景にしたオランダによる植民地支配の圧政が続き、苦し
 められて来ていた。
  オランダ人、および、ヨーロッパ人は、この資源が豊
 かな国・インドネシアを『エメラルドの首飾り』と呼ん
 で、その美味しい資源をしゃぶりつくした。
  最初、1596年、オランダは、ヨーロッパ諸国が欲して
 いる香辛料をインドネシアに求めた。
  (冷蔵庫のないこの時代、すぐ腐る肉の臭みを消すこ
 の香辛料は、銀と同じ価値を持つくらい高価であった)
  1602年、オランダは、インドネシアを国ごと自分のも
 のにしようと軍事力を行使し、侵略した。
  この後、すでに侵略していたインドの東インド会社を
 拠点に、例のヨーロッパ列強のやる様に、インドネシア
 からの収奪の限りを尽くした。
  小国のオランダも、その350倍の大きな国・インドネシ
 アを、350年間、好きなようにして利益の限りを吸い上げ
 た。
  軍事力(暴力)の限りを尽くして、インドネシアの方々
 の土地を次々に奪った。
  そして、自分の儲けの大きい作物(香辛料、砂糖、コ
 ーヒー)とさせ、作らせた。
  当然、インドネシアの方々の食糧は無くなった。
  そんなことはお構いなしのオランダだった。
  インドネシアの方々を、オランダが奪ったプランテー
 ションで、「奴隷農場栽培」をさせた。
  食糧の栽培は許さなかった・・
  逆らうと、さらに食糧が手に無い入らない仕組みを、
 オランダは、卑劣にも構築した。
  当然、インドネシア社会には、悲惨な状況・餓死者が
 出た。
  そして、ただの様な超安い賃金で、子供のころから働
 きづめにされた。
  オランダ人は、優雅で快適な生活を送っていた。
  当然、独立の意識は芽生え、幾度となく、戦いも起こ
 したが、その度に、武力の格差が大きく、力なくインド
 ネシアの方々は制圧された。
  そして、その様な反抗の後には、多くのインドネシア
 の方々が、見せしめの拷問や虐殺に会った・・
  卑劣な事に、女性や子供に至るまで、オランダは、こ
 の様な行為を行なった。
  また、オランダに都合が悪いからと、教育の努力は、
 まったくなされず・・そして、愚民化政策が行なわれた。
  そして、キリスト教への改宗を強制し、改宗した者を
 優遇し、差別した・・
  そして、その者たちを良いポジションに付け卑劣な差
 別・・警察官や軍人などの行為をした。
  また、有色人種蔑視観から、インドネシアの方々の人
 権を軽視し、女性は簡単に強姦された。
  その様にして、生まれた混血の子供たちを、中間支配
 層として育て、キリスト教のヒエラルキー(序列)の教
 義で仕分けした(民族の分断も狙っても居た)
  経済は、インドネシアの方々に、携わらせなかった・・
 華僑に行わせた、そして共に、経済的搾取を行なった。
  これは、インドネシアの方々の憤懣を、華僑へ向かわ
 せて、オランダ自身へ直接、憎悪が向かわない様に目論
 んだ結果でもあった・・この点において、オランンダは
 常に、良い子の位置に居られた。
  オランダは、差別的な地域を構築し、環境の良い一角
 に集団で住み、別荘の様な豪邸の居住空間には、差別し
 て・・インドネシアの方々が近づくことを禁止した。
  また、インドネシアの方々が、集会や団体行動をする
 ことを禁じた。
  これは、当然、インドネシアの方々の団結と、その抵
 抗行動を恐れたからだった。
  3人のインドネシアの方が、路上で話をする事すら許
 さなかった。
  この禁止処置を侵せば、反乱罪とされ、処罰された。
  また、インドネシアの方々に、国家意識を持たせない
 様にした・・
  その為に、全国各地にあった320種族語をそのまま
 にさせた・・一つの標準語にまとめさせることは・・そ
 の企ては、「絶対」という厳命で許さなかった(これを、
 オランダを追い出した日本が、インドネシアの方々へ標
 準語を作ようにと促し、努力をした)
  今(2017年)、日本を悪くプロパガンダしようという
 動きが、また、活発的になっているから注意を要する。
  今、真実を隠し、日本を悪く悪く言う動きがある。
  因みに、終戦の時、日本の将兵が、インドネシアに
 1000人も残り、インドネシアの独立戦争に加わり、イン
 ドネシアの独立を目指して戦った方々が居た。
  この様な事をする民族は、日本だけで、歴史上、この
 様な行動する・・行為をする・・国民は居ない。
  インドネシアの方々の身になれば、独立を助けたくな
 る民族が・・「日本民族なのだ」。
.
1945年3月26日、沖縄戦(~6月23日、約3ヶ月間)
  アメリカ軍が、沖縄県慶良間諸島の座間味島に上陸し、
 沖縄戦が始まった。
  凄まじい激戦が行なわれた。
  日本の指揮官の牛島満大将、長勇(ちょういさむ)中
 将、大田実中将が戦死した。
  また、アメリカ軍指揮官のサイモン・B・バックナー
 大将が戦死した。
  戦力:日本116,400人、アメリカ連合軍548,000人
   (1:4.7)
  損害(死者、行方不明者):
     日本、沖縄県民間人94.000人
        兵士28,228人
        県外(兵士)65,908人
     アメリカ、総死者数20,195人
          戦傷者55,162人
          戦闘外傷病者26,211人
     イギリス、死者85人
          戦傷者82人
  物的損害:日本、特攻機1,895機
          戦艦1
          軽巡洋艦1
          駆逐艦1
          その他航空機1,112機
          戦車27輌
       アメリカ、駆逐艦16
          その他艦艇20
          航空機768機
          戦車272輌
          海軍艦艇368損傷
       イギリス、空母5隻損傷
          航空機98機
.
1945年7月25日、保戸島空襲
  終戦まであと数日というこの日、アメリカ軍がこの島
 を空襲した。
  そして、小学校が爆撃され、小学生が、大勢、死んだ。
  大分県津久見市の半島の突端、手の届きそうなところ
 に浮かぶ島=保戸島。
  この島に、この日の午前10時頃、アメリカ軍機が襲っ
 た・・保戸島空襲が起きた。
  アメリカ軍は爆弾を投下し・・また、アメリカのグラ
 マン戦闘機が機銃掃射をした。
  一般島民は逃げ惑(まど)った。
  保戸島国民学校(現:保戸島小・中学校)にもグラマ
 ン戦闘機が来襲し、爆弾を投下した。
  児童・生徒たちのいる校舎を直撃した。
  1年生と5年生の全員が死んだ。
  また、他学年を含め児童・生徒124人が犠牲になった。
  また、教師2名も犠牲となり、学校に来ていた教師の子
 1名も犠牲となり、127名の尊い命が絶たれた。
  何で、ここを攻める必要があるのか?
  何で、ここを攻める理由があるのか?
  この時、小学校3年生だった鈴木研治氏は、一命を取り
 留め・・この時、亡くなった妹(1年生)の昭代(あきよ)
 さんの遺体を探した。
  誰が誰なのか判別できないほど損傷の激しい遺体が横
 たわる学校中を捜した。
  昭代さんの「指1本だけでも見つかってほしい」と捜し
 た。
  しかし、「とうとう見つける事は出来なかった」と鈴
 木氏は語った。
  鈴木さんは、今、お寺の御住職になられている。
  そして、戦災殉難者追善法要をされている。
  参列した中学3年生は、「小学生の時から、毎年、法要
 に参加している。
  現在、毎日、平和な保戸島で、私よりずっと幼い子供
 たちが空襲で亡くなったことを、最初に聞いた時は信じ
 られなかった。
  そんな悲しいことが二度と起こらないよう、私たちが
 保戸島空襲を伝え続けて行きたい」と語った。
.
1985年、この年まで、韓国に、アメリカ軍兵士相手の慰安
 婦所があった。
  実は、慰安婦像は、この事を訴えるために存在してい
 る。
  おとなしくて、優しい、弱い日本をあげつらっている
 が・・
  これは、朝鮮戦争で荒れた国を復興するために韓国と
 いう国が、在韓米軍を新たな復興への資金源としたこと
 に起源がある。
  お粗末な事に韓国という国が、韓国女性を人身御供に
 した。
  その後ろめたい怒りを日本へぶつけた・・、
  この膨大な金は、韓国ヤクザに地価の金として流れ、
 ヤクザの温床ともなった。
  韓国は、ベトナム戦争時には、ベトナムにまで派遣し
 た。
.
2010年、韓国に、可哀想な話であるが、この年まで、「キ
 ーセン・ハウス」という、韓国の国営の慰安婦所があっ
 た。
  これも、外貨を稼ぐために韓国の国が設けていた。
  韓国の某氏が、涙を流して、「この様な事までしなけ
 ればならない国の経済状態です」と泣いたという。
  ソウルのキーセン・ハウスは、「清雲閣」「大苑閣」
 「三清閣」の「3閣」が有名な慰安所だった。
  また、伝統的なキーセン・ハウスで残っていた「梧珍
 庵」 (오진암) は、この年、閉店した。
  何も、韓国が、デッチ上げの嘘で騒ぐ、一時期の日本
 人兵士対象の慰安婦ばかりでなく、
  韓国は、卑劣な事に、常に、自国民や、駐韓アメリカ
 人兵士を対象に、『常態化した形』で慰安婦の接待所を
 作って行って来た歴史がある。
  また、中国に冊封され、属国化された韓国・朝鮮半島
 は、中国に対しても、常態化した、そして、慣習的に、
 常に、盛んに慰安婦接待を行なって来た歴史がある。
  (参考)高麗から李氏朝鮮末期まで『約1000年間』、
     常に、2万名~3万名の妓生がおり、
      また、卑劣な事に、自国民を対象に、李朝時
     代には官婢として各県ごとに10名~20名、郡に
     30~40名、府に70名~80名ほどが常時置かれて
     いた。
      行政の一業務として行った糾弾すべき事実が
     ある。
      それこそ女性の人権を、長い歴史の間、踏み
     にじって来たという『世界遺産に登録すべき項
     目』がある。
      『朝鮮の女性方の1000年の恨みは、ここにこ
     そある』。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)562E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年8月~1892年9月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)562E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年8月~1892年9月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年8月11日、鉄道庁の定員を改正した(勅令第72号)
1892年8月15日、イギリスで第4次グラッドストン内閣が成
 立した(~1894年)
  総選挙で自由党が僅差で第1党となり、グラッドスト
 ンは82歳となっていたが首相となった。
  82歳の年齢は、イギリス史上初で「大老人 Grand
 Old Man」と言われた。
  1893年9月、グラッドストンは、新たなアイルランド自
 治法案を議会に提出した。
  下院では可決されたが、上院で保守党・自由統一党の
 反対で、大差で否決された。
  グラッドストンは、上院改革を断行してでも法案を通
 すつもりだった。
  しかし、高齢のため指導力が低下し、1894年3月、84歳
 で辞任した。
  アイルランド問題について・・彼が追求したアイルラ
 ンドの解放というアイルランド問題の解決は、保守勢力
 の抵抗で実現できなかった。
  しかし、この国民的な課題に対して、貴族の既得権に
 固執する上院に対する批判が強まり・・、
  20世紀に入って、1911年の議会法制定で、上院の権限
 は大幅に制限され・・、
  1914年、ようやくアイルランド自治法が成立した。
  しかし、第一次世界大戦の勃発によって実施は延期さ
 れ、さらに、アイルランド側の『完全独立』を求める運
 動が激化し、解決は遠のいてしまった。
1892年8月16日、関西鉄道会社が運賃を値下げする。
  中等運賃を下等運賃の5割増に改めた(従来は、下等運
 賃の2倍だった)
1892年8月17日、露仏軍事協定(秘密協定)が成立した。
  ロシア・フランス間に成立した政治的および軍事的な
 相互援助同盟で・・、
  この頃、経済的対立を含んだヨーロッパ情勢は混迷し
 ていた。
  1890年、独露間の再保障条約が満期となり、ドイツが
 その延長を拒否したことから・・、
  1891年から公然化して、ロシアとフランスが接近し、
 対ドイツ防衛同盟の性格を帯び、発展して行った。
  1891年に、政治協定を結び・・、
  1892年、軍事協定(秘密協定、1918年まで秘密にされ
 た)を締結した。
  また、1894年1月4日に、フランスが、軍事協定承認を
 通告して同盟関係(軍事協約)が確定した。
  また、イギリスが加わって三国協商となって、三国同
 盟(ドイツ・オーストリア・イタリアの軍事同盟、1882
 年成立)と対立した。
  ドイツ帝国のヴィルヘルム2世は、世界政策を掲げ(ビ
 スマルクを退け、自身が前面に出て、帝国主義的膨張政
 策をとった。列強の既得権とぶつかると、軍事力を背景
 にした行動を示した)、
  艦隊法(イギリスを仮想敵国として、対抗できる海軍
 を建設するという目的)の制定以降、イギリスとの建艦
 競争に突入した。
  そして、3B政策(ベルリン・ビザンティウム・バク
 ダードを鉄道で結び、ドイツの影響下に置く)を企図し
 て、ロシアとの関係も悪化させた。
  露仏同盟は三国協商の土台となり、また、それは日英
 同盟と結びついて対独包囲網を形成した。
  日本が、第一次世界大戦でドイツと戦う流れとなる。
1892年8月27日、アメリカのメトロポリタン歌劇場が火災と
 なる。
  1883年10月23日に竣工した最初のメトロポリタン歌劇
 場の建物で・・、
  ブロードウェイ39丁目~40丁目にかけて建てられた。
  設計は、J.クリーヴランド・キャディ 、
  この火災の後、大規模な修復を経て・・、
  1966年に、現在のニューヨーク市マンハッタン区リン
 カーンセンターに移転するまで使用された。
  この劇場は、歴史的建造物として認められず、1967年
 に解体された。
  移転後の現在の歌劇場は、アメリカ随一のオペラ・ハ
 ウスとなっている。
1892年8月、第一次松方内閣が総辞職し、伊藤博文が後継内
 閣を組閣した(詳細は、前掲を参照ください)
1892年8月、津田梅子が、アメリカ再渡米より帰国した。
  津田梅子は、津田仙(旧幕臣・東京府士族)・初子夫
 妻の次女として、江戸の牛込南御徒町(現在の東京都新
 宿区南町)で、1864年12月31日に生まれた。
  父・仙は幕臣であったため、幕府崩壊とともに職を失
 った。
  父・仙は、北海道開拓使次官の黒田清隆(女子教育に
 も関心を持っていた)が企画した女子留学生に梅子を応
 募させた。
  そして、同年・1871年、岩倉使節団に随行して渡米。
  5人のうち最年少の満6歳であった。
  アメリカでは、ジョージタウンの日本弁務官書記のチ
 ャールズ・ランマン夫妻の家に預けられた。
  1882年(18歳)11月、日本へ帰国した。
  帰国した梅子は、幼少からの長い留学生活で日本語能
 力はむしろ通訳が必要なほどになってしまい、日本的風
 習にも不慣れであった。
  1883年(19歳)、伊藤博文と井上馨邸での夜会で再開。
  この頃から、伊藤家へ英語指導や通訳のため雇われ、
 伊藤家に滞在し、下田歌子から日本語を学ぶ、また、歌
 子の私塾の英語教師となる。
  1885年(21歳)、伊藤に推薦されて、学習院女学部か
 ら独立して設立された華族女学校で英語教師をする。
  梅子は、上流階級的気風には馴染めなかったようで・・、
  この頃、縁談が何度かあるが・・断り・・生涯未婚で
 居ようと思ったようである。
  1888年(24歳)、留学時代の友人が来日して会い、再
 度の留学をしたいと思った。
  そして、父の仙の知人で、日本の商業教育に携わって
 いたウィリアム・コグスウェル・ホイットニーの娘・ク
 ララの仲介で留学希望を伝え、学費免除の承諾を得て、
 校長の西村茂樹(教育者、文学博士、道徳振興団体「日
 本弘道会」創設者)から2年間の留学を許可された。
  1889年(25歳)7月、再び渡米した。
  この後、1900年(36歳)7月、父の仙や、アリス・ベー
 コン、大山、瓜生、桜井彦一郎らの協力者の助けを得て、
 「女子英学塾」(現在の津田塾大学)の設立願を東京府
 知事に提出し、認可を受けると東京麹町区に開校し、塾
 長となった。
1892年9月1日、釧路鉄道の標茶駅~跡佐登駅間(41.8km)
 が開通した(開業:1892年9月8日)
  1872年に、佐野孫右衛門により、アトサヌプリ山麓の
 硫黄山で硫黄採掘が始まり・・
  当初は、馬と川船によって釧路まで運ばれていたが、
 後に、標茶まで馬搬になり、標茶から湧比別(後の五十
 石)まで50石船で、湧比別から釧路は100石船で運搬した。
  標茶に大規模な精錬所が建設され、鉄道の敷設が望ま
 れた。
  故に、釧路鉄道は、北海道東部の硫黄山で産出される
 硫黄の輸送を目的とされた。
  北海道内では2番目(北海道の私鉄では最初)の鉄道。
.
  (今日の言葉)
.
  題:アメリカの最重要の要人が、『GHQが、日本国憲法(第9条:戦争放棄等)を
   作らせたのは間違いだった』と言った。
.
1865年3月、アメリカの解放民局(難民、解放民および放棄
 地対策局)の『期限延長と権限拡大』を、黒人の方々は
 勝ち取った。
  黒人の方々の必死の闘いの勝利だった。
  しかし、この後、アメリカには、『奴隷解放の反動』
 の嵐が吹き荒れて、解放民局は活動を停止した。
  アメリカは、奴隷解放を行なう解放民局を停止させた。
.
1867年3月、アメリカの黒人の方々は、ジョンソン大統領
 (第17代大統領アンドリュー・ジョンソン)と対峙し、
 黒人の方々独自の『再建法』を成立させた。
  また、上院の承認なしに政府の要人を大統領が勝手に
 罷免する事を禁じた『官職保有法』を制定させた。
  しかし、この後、反動の時代が来て、これらの黒人の
 方々の努力は、完全に崩壊し、無になって行く。
  「根強い反動のアメリカ」があった、黒人奴隷制に戻
 ろうとする動きが、この後に、アメリカに始まる。
.
1869年、アメリカの大陸横断鉄道が完成した。
  アメリカの・・西部へのインディアンの方々の地への
 侵略行為、奪取行為に、この鉄道は大きく関係した。
  中国も、このアメリカの行為を真似して、チベットへ
 の鉄道をいち早く完成させた。
  アメリカの鉄道網の伸長はめざましかった。
  1860年には、3万マイルだった鉄道が・・、
  1880年には、9万3000マイル・・、
  1900年には、19万3000マイルとなった。
.
1873年、アメリカに経済恐慌が起きる。
  アメリカで、資本の集中が進み、特定の所へ資本が集
 積されて行った。
  1879年、スタンダード石油が、トラストを成立させた。
  また、その他、アメリカ国内に、巨大なトラストが、
 多数、作られて行った。
  アメリカは、独占資本主義の世界となった。
  資本家(特に、北部資本家)がやりたい放題の世界と
 なった。
  1890年に、シャーマン反トラスト法が制定された。
  この様なアメリカ社会が、米西戦争を起こさせた。
  アメリカは、領土欲のある帝国主義国家と一層なって
 行った。
.
1876年、アメリカの憲法修正が行われた。
  1870年頃~1876年までの頃、ワシントンの国会には、
 14人の黒人下院議員と2人の黒人上院議員が生まれた。
.
1877年、この年の夏、アメリカ最初のアメリカ全土におよ
 ぶ鉄道の大ストライキが起きた(北部資本家の悪行への
 抵抗)
  アメリカは、狡猾(こうかつ、悪賢いこと。悪い事ば
 かりして、悪い方面にばかり知恵がまわること)だった。
  自分だけの勝手な理屈で、『自分さえよければ良い』
 が、常に、そこにあった。
  この頃、黒人の方々は、「アメリカ北部の資本家と、
 南部のプランター」の『連合支配』に苦しんだ。
  黒人の方々は、その強烈な圧力に対峙(たいじ)して
 行かなければならなかった。
  この支配は、非常に強靭な支配で、黒人の方々を苦し
 め、そして、迫った。
  「奴隷制のあった時代」への、完全な揺り戻しだった。
  大統領職が転がり込んだヘイズ大統領(第19代大統領、
 任期:1877年3月4日~1881年3月4日)は・・、
  南部から連邦軍を撤退させて、その揺り戻しを助長さ
 せた・・、
  また、この年・1877年夏から、アメリカ最初のアメリ
 カ全土におよぶ鉄道の大ストライキを「弾圧した」。
  大統領のヘイズは、「資本家側にまわって」資本家を
 擁護し、労働者を弾圧した。
  アメリカ南部では、復活した旧奴隷所有者が、黒人の
 方々を搾取する新しいシステム=「プランテーション奴
 隷制度に変わる刈分小作制度(シェアクロッピング・シ
 ステム、Share cropping system)」を出現させ、黒人の
 方々から利益を搾り取った・・
  また、アメリカ北部の独占資本家たちも、南部のこの
 様な搾取制度を最大限に利用して、南部を支配した。
  そして、アメリカ北部も「おいしい搾取の汁を吸った」。
  また、南部の黒人の方々を、その様な虐げた状態にし
 ておくことによって、アメリカ北部の労働力を低廉な状
 態にしておくことが出来ることから、アメリカ北部資本
 家も最大限にこの動きを利用し関与した。
  アメリカ北部の白人労働者の労働条件改善闘争を押し
 止めることに使った。
  アメリカ北部の資本家と南部プランターとの利益は一
 致していた。
  また、卑劣な事に、この北部資本家が、また同時に、
 南部の土地所有者となり、黒人の方々から、『直接に』
 搾取した。
  儲かれば人権なんて関係ないという北部も南部もない
 アメリカだった。
  弱者の方々を虐げる「アメリカ北部と南部が共同する
 社会・・非人道的社会」が現出した。
  しかし、この様な苦悩の中から黒人の方々は、また、
 立ち上がって行った。
  緑背紙幣(グリーンバック)運動やグレンジャー運動
 が、1870年代~1880年代初めにかけて湧き起こった・・、
  そして、これを受けて人民党運動が、アメリカ全土に
 展開されて行った。
  (参考)緑背紙幣(グリーンバック)運動:リンカー
     ンが発行した緑背紙幣の価値暴落に苦しんだ農
     民などの人々の運動。
  (参考)グレンジャー運動:1870年代にアメリカ中西
     部を中心に起った農民運動。
      南北戦争後まもなく、農産物は過剰生産の結
     果、価格が下落の一途をたどり、農民の生活は
     破綻の危機にあった。
      この農民の方々の不満が組織化されて行きグ
     レンジャー運動となった。
      その初めは、農務省の一官吏が設立した「農
     業保護」組織が通称グレンジであり、
     この組織の会員がグレンジャーと呼ばれた。
      この団体は、初めは、政治活動に参加しなか
     ったが、1873年の恐慌後は、積極的に政治運動
     に進出した。
      農民に最も身近な問題・・鉄道会社の運賃や
     倉庫保管料の規制、税制改革などを州議会に訴
     えるようになり・・、
      1874年には、約150万人の会員となった。
  この様な南部の闘争と北部の労働運動が結びついて、
 政治運動として発展し・・、
   1891年には、既存政党に対抗して人民党(ピープル
 ズ・パーティ)が結成された。
  (参考)人民党:アメリカ南部(特にノースカロライ
     ナ州、アラバマ州、テキサス州)の貧しい白人
     綿花農家や、アメリカ中西部の平原にある州(
     特にカンザス州とネブラスカ州)の追いつめら
     れていた小麦農家などを支持基盤とした。
      農本主義と、銀行、鉄道、エリートに対する
     敵意という急進的な運動形態を採った。
      労働組合と連衡する場合もあれば、
      1896年には、民主党が、人民党の大統領候補
     者ウィリアム・ジェニングス・ブライアンを公
     認した。
  アメリカ北部政権が、プロパガンダ(嘘宣伝)する「
 アメリカ北部政権の偉人・リンカーンが奴隷解放しまし
 た、それで、黒人の方々が奴隷の身分から解放されて、
 自由を獲得しました」なんていう話は、まったくの作り
 話で・・その様な状況では『まったくない』。
  黒人の方々の血を吐くような戦いが、それも長い戦い
 があった。
  そして、アメリカは、今・現在においても、まだまだ
 黒人の方々を虐げている。
  その根っこには、「キリスト教による有色人種への蔑
 視観と洗脳がある」。
  この洗脳が、なかなか無くならずに続いている。
  今でも、黒人の方々を差別する行為が続いている。
  KKKが復活しているニュースも報道された。
.
1880年、アメリカの工業力が、イギリスを抜いて世界一に
 なった。
  1860年には、イギリス、フランスに次いで第3位だった。
  また、1870年には第2位。
  アメリカは、この1880年代を境に、農業国から工業国
 へ転換した。
.
1880年代、アメリカの西漸運動による、アメリカ西部への
 侵略行為は、この頃、太平洋岸に達した。
  1890年の第11回国勢調査でその開拓線の消滅が表明さ
 れた。
  アメリカの開拓線が消え、この後、太平洋の国々を奪
 って行く・・ハワイの悲劇など・・フィリピンの悲劇な
 ど・・そして、フィリピンを土台として中国へ・・
.
1900年、アメリカの発展、この年、製造工業が130億ドルに
 なった。
  これは、1860年が19億ドルで、その約7倍となった。
 ☆また、1900年の賃金労働者数が530万人であり、1860年
  の131万人の約4倍となった。
 ☆また、1900年の投下資本額が90億ドルであり、1860年
  の10億ドルの約10倍となった。
.
1914年、アメリカの発展、1914年に、アメリカは、鉄鋼が
 世界第2位で、機械工業が第4位だった。
  これは、1860年には、首位部門が農業生産に関すると
 ころだった(農業から工業への転換)
.
1945年2月8日、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大
 統領は、ソ連のスターリンと秘密会談を行い、対日本戦
 への戦いに参戦することを促した・・誘った。
  そして、日ソ中立条約の『一方的破棄』をソ連に促し、
 そそのかした・・アメリカのルーズベルトの悪行の一つ・・、
  この密談は、日本領の南樺太と千島列島、満州国の権
 益(南満州鉄道や港湾などが含まれる)がソ連のものと
 なるという美味しい話(えさ)で誘った。
  しかし、このアメリカ大統領ルーズベルトが行なった
 この密約の「領土に関すること」は、『領土の不拡大』
 を規定し、宣言した『大西洋憲章に違反する行為』だっ
 た。
  (参考)大西洋憲章は、1941年8月9日から8月12日に行
     われた大西洋会談において・・、
      アメリカ合衆国大統領のフランクリン・ルー
     ズベルトと、イギリス首相のウィンストン・チ
     ャーチルによって調印された憲章で、世界構想
     として述べたもので、世界各地に適用されると
     した、故に、この後、世界の各国が参加を表明
     し、遵守を誓った。
      この中には、「領土の拡大意図をもって戦争
     をすること」も否定され・・さらに、なお・・、
      「領土を変更するときは関係国の人民の意思
     を尊重する」ことが決められた。
      しかし、アメリカは、自分の都合が悪くなれ
     ば、この様な事を無視し、破るアメリカだった。
.
1945年6月、日本は、6月頃から戦争終結をめぐる最高指導
 者会議を何度となく開いた。
  日本は、対日参戦を秘密に決めた(ヤルタ密約)、そ
 して、その参戦の準備を進めているソ連に、そうだとは
 知らず、連合国との講和の仲介を依頼していた。
  ポツダム宣言が発表されると、鈴木貫太郎首相や主要
 閣僚は、条件付きの降伏要求である事に着目し、これを
 『受諾する方向となった』。
  しかし、陸軍は反対し、本土決戦を主張してゆずらな
 かった。
  日本政府は、当然、仲介依頼をしているソ連の返答を
 待った。
  原爆投下は、その様な状況の中に落とされた・・
  アメリカは、ソ連から、「日本が戦争終結したいとの
 仲介」を求められて来ていることを、ソ連のスターリン
 から知らされていた・・にもかかわらず無視し、卑劣に
 も、広島に、そして、長崎へ、原爆を投下した。
.
1945年8月9日、深夜、昭和天皇陛下の御臨席のもと御前会
 議が開かれた。
  ポツダム宣言の即時受託について、意見は賛否同数と
 なった。
  8月10日午前2時、鈴木首相が、天皇陛下の前に進み出
 てご聖断を仰(あお)いだ。
  天皇陛下は、『ポツダム宣言の即時受託』による日本
 の降伏を決断された。
  以下は、この終戦の御聖断の後、昭和天皇陛下の御発
 言を迫水久常書記官長が証言している・・、
  「・・この様な状態で本土決戦に臨んだらどうなるか、
 私は非常に心配である。
  あるいは日本民族は、みな死んでしまわなければなら
 ないことになるのではないかと思う。
  そうなればどうしてこの日本という国を子孫に伝える
 ことが出来るのか。
  一人でも多くの国民に生き残っていてもらって、その
 人たちに将来ふたたび立ち上がってもらう以外に、この
 日本を子孫に伝える方法はないと思う。
  ・・みなの者はこの場合、私の事を心配してくれると
 思うが、私はどうなってもかまわない。
  私はこういう風に考えて戦争を即時終結することを決
 心したのである」(迫水久常書記官長の証言より)
.
1945年8月10日、午後8時すぎ、その旨を同盟通信社のモー
 ルス信号と、日本放送協会の海外向け放送が伝えた。
  『世界に対する、事実上の日本の終戦の意思表示とな
 った』・・ソ連の参戦の意味は、一層、無くなった。
  善意ある正義のアメリカであれば、『ソ連の参戦を停
 止させるべきだった』・・その様にしないアメリカであ
 ったため、各地での悲劇が起きた・・特に、ソ連の満州
 の虐殺行為と多数の拉致行為など・・、
.
1946年、この年の1946年まで「日ソ中立条約は有効だ」と
 いう事を、日本とソ連の間で条約により約束されていた。
  アメリカのルーズベルト大統領が、1943年10月に、ソ
 連へ「対日戦に参戦する」ように要請した(歴史書には
 この言葉が使われている)・・要請と言っても・・その
 話には、卑劣な事に、ソ連が喜ぶ、そして、とくをする
 餌(えさ)の話が付けられていた・・このニュアンスが
 消えている。
  その話は・・ソ連が参戦すると得るだろう「千島列島
 や樺太」を、ソ連の領土にする事をアメリカは認めると
 話しかけた・・「奪ってしまえば・・」という悪辣な誘
 いである。
  領土欲のあるスターリンは、ソ連は、その話に乗った。
  ルーズベルトは、この様な性格のスターリンを良く知
 っていた。
  ここに、新たな悲劇が始まった。
  ソ連は即座に、敗戦濃厚となっているドイツを破った
 後に参戦すると回答した(即答した)。
  即、回答するような美味しい話を、アメリカは、ソ連
 へ持ちかけ、そそのかした・・そして、その戦いの武器
 まで、アメリカはソ連へ運び入れ・・渡した。
  そして、事実、その通りとなった・・というより、武
 器までもらったら、その通りになるでしょう・・、
  この時のはるか以前に、日本とソ連は、 1941年4月13
 日に、「日ソ中立条約」を締結していた。
  この条約によって、ソ連は、極東に配備していた部隊
 を西部へ移送し、モスクワ防衛線へ投入した。
  そして、この条約は5年間、『1946年まで有効』という
 事まで決めていた・・約束していた。
  そして、その時に、さらに延長するかどうかを決めよ
 うとなっていた・・この様にも決めていたのである。
  その様な事を知っているのに、アメリカ大統領のルー
 ズベルトは、自分さえよければ良いの勝手な思惑で、ソ
 連に誘いの話をした。
  この事による悲劇は・・1945年8月8日にやって来た。
  ソ連は、対日攻撃を開始した。
  長崎に原爆が投下される前日だった。
  日ソ中立条約の『一方的無視』の破棄の参戦だった。
  アメリカのルーズベルト大統領の誘い水どおりとなっ
 た。
  1945年8月9日、ソ連は、満州になだれ込んだ。
  戦場は、満州以外にも、北朝鮮・南樺太・千島列島に
 おいても戦闘状態となって行った。
  1945年5月のドイツ降伏後、ソ連は、シベリア鉄道を
 フル稼働させて、満州国境に巨大な軍事力を集結させて
 いた。
  突入してきたソ連軍は、満州の荒野を開拓していた満
 州開拓団として行った日本の一般市民を襲った・・家族
 の方々は逃げまどった。
  特に、国境付近の開拓居留民の多くの方々は、この進
 攻したソ連軍に踏みにじられ虐殺された・・逃げまどっ
 た。
  さらなる悲劇として、このソ連軍の暴挙に乗っかって、
 匪賊(徒党を組んで略奪・殺人などを行う盗賊)となっ
 た者たちに日本の方々は餌食とされた。
  当時、満州の首都の新京だけでも14万人の日本人市民
 が居た。
  地獄となった人々・日本人家族たち、そして、1945年
 8月11日に、この日に新京から逃げる18本の列車が出た(
 正午頃までに)。
  逃げられた日本人家族は、3万8000人だった。
  逃げた3万8000人のうち、53%の20310人という半分以上
 が軍人関係家族だった。
  そして、44%の16700人が満鉄関係の家族だった。
  ほとんどが、この両方で97%で、脱出のための仕立てら
 れた列車は、軍と満鉄の家族のためだった。
  残りは、大使館関係者750人(2.0%)、そして、民間人
 家族は240人(0.6%)であった。
  ほとんどの一般日本人市民・開拓団民の方々は、満州
 に置き去りにされた。
  満州に残された一般の日本人の方々に悲劇が始まる。
  ソ連軍突入で、即座に、多くの方々が亡くなったが・・、
  歴史として語り継がねばならない事件の一つは・・、
  1945年8月12日の満州の麻山付近で、約400名の日本の
 方々が、追い詰められ悲惨なうちに集団自決(自殺)し
 た事件・・、
  この様な事件は、この地の各地で起きた。
  興安街付近では、東京荏原開拓団で行った方々が中国・
 暴民に襲撃されて、約400名の日本の方々が虐殺された。
  また、仁義仏立開拓団の日本の方々が、ソ連の機甲部
 隊の一斉射撃を受け、600名以上が虐殺されたなどなど・・
 など、筆舌につくせぬ事ごとが起きている・・、
  1945年8月14日には、葛根廟(かっこんびょう)事件が
 起きている。
  満州の葛根廟鎮において、日本人の避難民の方々の約
 千数百人の方々が、この人たちは、9割以上が婦女子で、
 この人たちが、ソ連軍や中国人に襲撃され、1000人以上
 のほとんどの方々が・・ソ連軍に虐殺されている。
  別な場所でも、白旗を上げているのに関わらず・・、
 ソ連の戦車の機関銃が火を噴き、この銃撃で、多くの方々
 が亡くなっている。
  また、避難する方々を焼き殺したり、機関銃を撃ちな
 がら、掃射をしながら・・引き殺したり・・、
  ソ連軍の戦車のキャタピラに巻き込まれて・・引き殺
 された日本人の方々が・・宙に舞ったりしたという悲惨
 な光景が伝えられている。
  そのあと、ソ連軍戦車は、丘の頂(いただき)に戻り、
 また避難民の方々を、めがけて突入しながら・・繰り返
 し、繰り返し・・機銃掃射や攻撃するということを執拗
 に繰り返した。
  完全に軍人ではない『非戦闘員の方々』への殺戮行為
 で、国際法で違反とされる、許されていない行為で・・
 『あからさまな非人道的違反行為をするソ連軍』だった。
  東京裁判で裁くべきだった・・が、差別的な、また、
 不公正なこの裁判で、裁かれる訳はなかった・・
  また、トラックで来たソ連兵が、民間人の、避難民の
 生存者を見つけ次第・・次々と、銃剣で刺したり・・、
 射殺したりした。
  2時間ぐらいの間に、女性や子供を主体とした1000人
 以上の方々が殺害されてしまった。
  男性は、兵士に駆り出されたりしていたので、南方方
 面へ転戦したりしていたので、ほとんどが女性や子供た
 ちが多いという状態だった。
  そのあまりにもの悲惨さに、自ら命を絶つ、自決・自
 殺する日本人の方々も、多い状態だった。
  頼みの日本の軍隊は、既に、南転と言って、南方諸島
 の激戦地に行って居なかった、日ソ中立条約もあったし・・、
  僅かに残った日本軍も奮戦したが、全滅したりしてい
 た。
  そして、その避難民の方々、僅かに残った生存者にも、
 襲撃が執拗に続いた。
  中国人も暴徒化して、身に付けている下着まで奪って
 行った。
  乳房を鎌で切り落とされる女性、川に逃げで溺死する
 人々、幼い子供達への襲撃、国民学校の児童たちの死・・、
 悲惨な・・地獄であった。
  子供を連れた母子に、子供を奪い、母は棒で殴りつけ
 られ、殺されたりした。
  親が殺された子供たちは、生き残った大人たちのとこ
 ろに集まっていたが、暴民たちは、その子供たちに襲い
 かかり、奪って行った。
  この子供たちは、売られたりするのが一般的だった。
  悲しいことに、8月15日の終戦が完全に過ぎてもソ連の
 襲撃などは続いた(日本の終戦の通達は8月14日)
  ソ連兵などに見つかり、暴行を受け、強姦される女性
 たちも多かった。
  また、ソ連兵は、家に火を付けて回った。
  隠れていた家に、火を付けた枯れ草を投げ入れられて、
 焼け死んだ人たちなども多かった。
  また、中国残留孤児や中国残留婦人となった方々も多
 く居た。
  これは、明らかにソ連は軍人であり、軍隊である。
  一般民間人に対する殺戮行為は、「戦争犯罪」である。
  無差別な大量虐殺のジェノサイドである。
  ナチスのユダヤの方々に対する行為を、ドイツの方々
 のジェノサイド行為であるとの反省行動と同様な行為を、
 ソ連は、なすべきである
  また、共犯であり間接原因者であるアメリカも、反省
 を表明すべきである(謝罪文を書きなさい)。
  アメリカが、原因者の一端に居る事は、今後も免れ得
 ない。
  満州人や朝鮮人には襲撃しなかった。
  日本人を狙っての行為だった。
  ソ連兵の卑劣な行為が多かった、女性方は暴行された。
  ソ連兵は、物を奪い持ち出す様に、日本人女性方を車
 に乗せて連れ去った。
  その様な女性が、ボロボロになって帰って来る場合も
 あった・・そしてまた、若い女性が牡丹江に流されて行
 くという姿もあった(帰れずに川に身投げ)。
  行方不明となってしまった女性方が数知れず居た。
  ソ連参戦で、色々な事があったのだが、抜粋的に記し
 ているのだが・・、
  次の記述も、戦争が終わっているというのに、起こさ
 れたことである。
  戦争が終わっているのに起こされているので、ソ連の
 不法行為であるが・・、
  1945年8月22日に、日本が無条件降伏をしているのに、
 ソ連は日本を攻めた。
  何と!戦争も終わって、引き揚げる方々へ、日本の引
 揚者を乗せた船が、ソ連軍の潜水艦の攻撃によって沈没
 させられた。
  それも2隻もある・・小笠原丸と泰東丸である。
  1708名の尊い命が、日本へ向かって帰国の途にあった
 日本人の方々が亡くなった。
  樺太からの婦女子を主体とする引揚者の方々だった。
  この2船の外にも、白旗を掲げたにもかかわらずソ連
 潜水艦は攻撃し、沈没させられた船がある。
  667名の方々が亡くなった。
  ソ連との平和条約の締結時には、これら上記のことな
 どの補償をソ連はするべきである。
  そして、満州では、まだまだ悲劇が続いていた。
  1945年8月27日には、ソ連軍に『連日に渡り強姦』を
 され続けていた日本人女性の方々が・・可哀想な事に、
 集団自決をするという事が起きた。
  この悲惨過ぎる事件が起きた場所は、満州国吉林省だ
 った・・敦化(とんか)事件という。
  悲惨な強姦の多い状況は、筆舌につくせない。
  また、ソ連兵は、日本人を使役し、線路などもはがさ
 せたりした。
  そして、その線路は、持ち去るという様な事までした。
  1945年8月27日には、ソ連軍に遭遇した日本人の開拓団
 の一般の方々が、ソ連軍から攻撃を受けた。
  950名の方々が亡くなられた。
  そして、まだまだ悲劇は続いた。
  その為、行く末に希望を無くした方々の514名が後に続
 くと、集団自決した。
  この他にも、この様な事例は多数。
  終戦後に、ソ連は酷いことを不法を続けている。
  1945年9月2日に、東京湾内に停泊するアメリカ戦艦ミ
 ズーリ号の甲板で、日本政府全権の重光葵と大本営(日
 本軍)全権の梅津美治郎、及び、連合各国代表が、降伏
 文書(休戦協定)に調印しているが、
  この様な状況であるのに、不法にもソ連は、まだまだ、
 日本を攻撃を続けていた。
  ソ連が、勝手に続けていた不法行為が、やっと止めた
 のが・・1945年9月5日だった。
  この日に、ソ連軍が、やっと、日本への攻撃・戦闘行
 動を止めた。
  ソ連は、ポツダム宣言受諾も無視し、また、日本の降
 伏文書調印をも無視し、何もかも無視して不法行為をし
 ていた。
  戦闘行動を続けていた。
  ソ連が支配下に置いた地域は、国後(くなしり)・択
 捉(えとろふ)・歯舞(はぼまい)・色丹(しこたん)
 の北方4島、および、千島列島全域・南樺太・朝鮮半島・
 満州だった。
  ルーズベルトアメリカ大統領のソ連参戦の誘い水とお
 りの行動だった。
  アメリカ大統領のルーズベルトの、『千島列島や樺太
 の領土をソ連が得ることを容認するから」と・・、
  ソ連の対日参戦を餌を付けて促(うなが)していた悪
 辣行為が・・、
  日本人の無実の・・一般の方々の、あまりにも悲惨な
 大きな悲劇も起こされいた。
  これでも・・以上は一部の抜粋です。
.
1950年8月9日、エイズ薬開発者が生まれた。
  この偉大な医学者が、日本の満屋裕明先生で、この日
 に生誕された。
  死に至る病気と、世界中で恐れられていた「エイズ・
 ウィルス感染症」の治療薬を作り出した。
  この真の救世主である満屋裕明(みつやひろあき、1950
 年8月9日~)先生は・・、
 日本のウイルス学者で、熊本大学医学部内科学の教授・・、
  そして、アメリカ国立がん研究所内科療法部門レトロ
 ウイルス感染症部部長でもあり、
  国立国際医療研究センター臨床研究センター長(2012
 年~)などなど・・要職を色々と持たれている方・・、
  1985年(35歳)の時、アメリカ国立衛生研究所で、世
 界初のHIV治療薬「AZT」を開発した。
  同時に、論文発表もされた・・
  これは、しっかしとした「世界最初の開発者・発明者
 である」と証明している文献となっている。
  当然、特許権者である・・が・・、
  (参考)AZTは・・抗ウイルス化学療法剤で・・、
     強力な抗ヒト免疫不全ウイルス(HIV)作用
     を示す。
      HIV特有の逆転写酵素を阻害し、正常細胞
     への影響は少ない。
      本剤は、後天性免疫不全症候群(エイズ)及
     び、治療前のCD4リンパ球数500/mm3以下の症
     候性、及び、無症候性HIV感染症の患者にお
     いて、臨床的な有用性が認められている。
      主な副作用は、貧血、及び、白血球減少。
  満屋裕明先生のこの功績、この開発に対し・・、
  アメリカでの特許権は、実験に協力していたバローズ
 ウェルカム社が、満屋先生に無断で特許を出願してしま
 った・・(不正行為)・・、
  さらに卑劣な事に、発明・開発者欄に、満屋裕明先生
 の名前を書かずに出願した・・独占的に奪った行為・・、
  当然、書くべき・・そして、当然、書かねばいけない
 発明者である満屋先生の名前を書き入れなかった。
  そして、特許権を取得してしまった。
  完全に、特許権を奪う行為をした。
  また、満屋先生は、同社が高価格でAZTを売り出し
 たことが不本意で・・(先生は、エイズに苦しんでいる
 方々へ安価に薬を提供したかった)
  その為、当然の怒りを示され・・さらに、新しいHI
 V治療薬の開発・研究へと励まれた。
  先生のさらに偉大な所は、第2、第3のエイズ治療薬
 を新たに開発されたところだった。
  世界で2番目と3番目のHIV治療薬(「ddⅠ
 (en:Didanosine)」と「ddC (en:Zalcitabine)」)を開発
 された。
  これ等の薬を、満屋先生は、ライセンスを企業に与え
 る際に、『適切な価格での販売』を条件にしている(苦
 しまれている患者の方々を救うことに主眼を置かれてい
 る)
  この事例の様に、アメリカは、日本の重要な特許を、
 今まで「いくつも奪って来ている」。
  満屋先生は、2007年に、紫綬褒章を受され・・2015年
 には、日本学士院賞を受賞された・・また、慶応医学賞
 など受賞多数となっている。
  エイズは、かつては、死を意味していたが、今では、
 早期に治療開始によって、先生の功績のお蔭で、その様
 な状況ではなくなった。
  世界は、今でも、エイズ患者が増え続けるという状況
 にあり、ますます、先生の功績の恩恵を受ける人々が増
 え続けている。
  エイズ(後天性免疫不全症候群:AIDS)は、ヒト
 免疫不全ウイルス(HIV)の感染によって引き起こさ
 れ、1型と2型があり、日本では、1型が流行している。
  性感染が多く、また、血液を介しても感染する。
  また、感染した母親から出産時に新生児に感染する危
 険もある。
  そして、血液で汚染した針の使いまわしの感染もある。
  HIVは、免疫を制御するCD4陽性細胞(T細胞、
 マクロファージ、樹状細胞など)に選択的に感染し、自
 らの遺伝子をヒトの遺伝子に組み込む。
  その後、感染したCD4陽性細胞を破壊しながら増殖し、
 一部の感染細胞は破壊されることなく休眠し、人の体内
 で長い期間潜伏する。
  このため、HIV感染症は自然に治癒することはない。
  薬剤治療でも根治ができない。
  急性期HIVに感染すると、感染後2週間目から4週
 間目くらいの間に、HIVは、急激に体内で増殖を始め、
 CD4陽性リンパ球が破壊されて行く。
  この時期は、発熱・のどの痛み・だるさ・下痢など、
 風邪やインフルエンザに似た症状から、筋肉痛や皮疹な
 どが出る場合もある。
  2006年には、満屋先生が、アメリカの研究者との共同
 研究で開発したHIV治療薬「ダルナビル (en:Darunavir)」
 が、アフリカの方々や途上国の方々が、特許料を払わず
 に使える医薬品として世界で初めて国連の機関に登録さ
 れた。
  それ故、満屋先生は、エイズ治療薬を4つも作られた。
  研究を開始する時(初め)、満屋先生は、「アメリカ
 でエイズの研究をしないか?」と皆が言われた時、あま
 りにも酷い病気・死に至る病気であるため、皆がしり込
 みをした。
  しかし、満屋先生は、自ら進んで研究を始められた。
  この様な経緯から・・満屋先生は、この素晴らしい功
 績をあげられた(佐藤健太郎著「世界史を変えた薬」を
 御覧ください)
  この大変素晴らしい功績、多くの人類を救済をされて
 いる業績・・、当然、ノーベル賞級の人類貢献であるが、
 キリスト教国に甘い・・偏するノーベル賞検討委員会は、
 今だに、先生へ、ノーベル賞を送っていない。
  「エイズが駆逐された」という現代になっても・・
  その功績が偉大であると明白となった現時点に至って
 も、
  世界中の方々が、安心領域の病気となったという現在
 においても、先生へ、ノーベル賞は送られていない。
  30年以上も前に作られた功績であるが、まだノーベル
 賞は送られていない。
.
1953年11月、ニクソン・アメリカ副大統領が来日した。
  そして、『日本の憲法に、第9条(戦争の放棄)を入
 れたのは間違いだった』と言った。
  このニクソン発言は、日米協会が主催した午餐会で発
 言された。
  この時のニクソン発言は・・、
  「日本の非武装化は、1946年の時点では正しかったと
 しても、1953年の段階では間違いではないだろうか」と
 言った・・そして・・さらに、
  「私は、この場で、1946年に、アメリカ合衆国は過ち
 を犯したことを認めよう」・・と・・、
  アメリカの最大級の要人・ニクソンが・・、
  1946年の日本の憲法改正によって、『アメリカが、日
 本を非武装化したのは誤りであった』と明確に意思表示
 して・・示した。
  しかし、このニクソン副大統領の発言を、朝日新聞は、
 いつもやる様に、偏向報道をした。
  朝日新聞は、読者に誠実に正確に伝えないで、事実を
 歪曲して伝えた・・、
  肝心の「憲法改正は誤りであった」とする主旨は、そ
 の肝心部分の記述は削除した。
  結局、また、嘘を伝える朝日新聞となった・・、
  「日本が、自由と独立を欲するならば、適当な防衛力
 を維持しなければならない」というところを強調しただ
 けだった(朝日新聞、1953年11月19日、夕刊)
  結局、嘘記述となった朝日新聞は、ニクソン副大統領
 の公式の場における重要発言を隠してしまった・・、
  「当時のGHQの指導による大日本国憲法を改正した
 日本国憲法(第9条:戦争放棄等)は誤り」・・と、
  公式の場で明確に発言しているのにである・・
  公正に報道せず、自紙に都合の良い記事を捏造する形
 になった・・この様な性癖が染み付いている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)561E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年7月~1892年8月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)561E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年7月~1892年8月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年7月22日 徳島県下の大水害(7月23日説あり))
  明治25年(1892)7月23日朝、台風が高知市付近に上陸
 して山陰に抜けた。
  徳島県は暴風雨、洪水、高潮の大災害に見舞われ、そ
 の上山岳の崩壊も数知れなかった。
  県下の被害は8月2日現在で死者311人、負傷者89人、家
 屋の全壊2,635戸、流失644戸、半壊2,559戸、潮入36,242
 戸、船舶478艘、堤防決壊57km、海水浸水6,799町、雨水
 浸水19,653町等に及んだ。
  山岳崩壊では、保瀬の大崩壊が25日10時頃起こり死者
 47人を出し、高磯山の崩壊が25日11時に起こり対岸の集
 落の15戸65人を埋没させるなどした。
1892年7月23日、岡山地方に未曾有の大雨
  盆を覆すが如き大雨で、旭川、吉井川、百間川、砂川
 等増水し、石関町、下出石町堤防2ヶ所の決壊を期に各
 所で破堤し、溢水と混合して市内一円高きは軒に達し低
 きは床上数尺の大洪水となる。
  風 速 直東30m/s(23日08時) 気 圧 737.6㎜Hg(=984mb)
  雨 量 23日06時~18時の12時間166㎜ 23~24両日の降
 雨総量245.4㎜
  出水高点 旭川:岡山1丈7尺、御野2丈3尺 吉井川
 :上道1丈8尺 砂川:上道1丈5尺
1892年7月25日、徳島県保瀬の大崩落
  徳島県下に津波・山崩れ・大洪水が起こり大災害とな
 る。
  明治25年(1892)7月25日、豪雨が海部川上流や那賀川
 上流を襲ったため、保瀬で大崩壊(土量約200万立米)が
 起こり、海部川の水を堰き止めた。
  このため、寒が瀬一帯は濁流に没し、4戸埋没、8戸流
 失、死者47人に被害を出し、上流一里半の樫谷の大杉の
 鞘が水に隠れ、さらに上流の轟神社の扁額が半分水に浸
 かった。(「海部郡誌」による)
  堰き止められた水が一斉に流下して大氾濫を起こすか
 も知れないという情報は上流から下流に伝えられたため、
 下流部では人的被害はなかった。(「海南町史上巻」に
 よる)
  明治25年(1892)7月25日の豪雨時に、保瀬で崩壊が発
 生し(崩壊土量200万立米)、天然ダム(湛水量1,400万
 立米)が形成され29時間後に決壊したが、事前に避難。
  明治25年(1892)7月25日、台風に伴う集中豪雨により、
 海部川中流右岸の保勢(保瀬)で大規模崩壊が起こり、
 4戸が埋没し、住民11人と山稼ぎ人36人が生き埋めとなっ
 た。
  崩壊土砂は河道を閉塞し、巨大な天然ダムを形成した
 ため、湛水によって8戸が流出し、9人が水死した。
  さらに天然ダムの決壊により、下流域で流出2戸、半壊
 11戸の被害が出たが、高潮被害と重なり、天然ダム決壊
 による被害のみを分離することは難しい。
  天然ダム決壊の恐れは事前に下流に知らされ、決壊時
 には鉄砲、大砲、狼煙などで伝達された。
  明治25年(1892)7月25日午前10時頃、川上村大字平井
 の保瀬の右岸山上が大崩壊した。
  山の土砂が海部川を堰き止め、洪水は逆流し、寒ヶ瀬
 一帯は濁流に襲われた。
  この大崩壊のため、埋没4戸、洪水による流失8戸、死
 者47人を出した。
  この災害は、大戸の崩壊とともに徳島県下の山岳崩壊
 中特筆すべきものである。(「海部郡誌」による)
  明治25年(1892)7月25日、長時間の暴風雨と満潮が重
 なって、海部川は至る所で堤防が決壊し大洪水となった。
  16時間にもわたる暴風雨で増水した海部川が河口での
 満潮によって堰き止められ、池内徳蔵「諸経歴概要記」
 によると、25日午前5時に最高水位となり、水嵩は海部川
 堤上3尺内外であった。
1892年7月30日、第1次松方内閣総辞職(8月8日説あり)
  第1次松方内閣は、大蔵大臣の松方正義が第4代内閣総
 理大臣に任命され、1891年5月6日~1892年8月8日まで続
 いた。
  選挙干渉により、6月に入ると、他の閣僚からも辞表提
 出者が相次ぎ、
  7月に、白根・安場らの更迭が決定されると、同月27日
 には処分に消極的であった軍部大臣が揃って辞表を提出、
 これを見た松方は自らも辞表を提出した。
1892年7月、歌舞伎座で「怪談牡丹灯籠」が初演された。
  三遊亭円朝の傑作『怪談 牡丹燈籠』が、この時、三世・
 河竹新七の脚色によって歌舞伎化され、
  五代目・尾上菊五郎主演で歌舞伎座で上演され、空前
 の大当たりとなった。
  そして、この時以来、人気演目として定着した。
1892年8月1日、北海道炭砿鉄道会社線の室蘭駅(現:東室蘭)
 ~岩見沢駅間(134.5km)が開業した。
1892年8月6日、伊沢修二が、小学校教育費の国庫補助を要
 求するため、国立教育期成同盟会の結成を提案した。
  この後、教育費国庫負担の請願書を・・、
  国立教育期成同盟会は、1892年12月に、第1回請願書
 (東京府伊沢修二以下10,162名)、
  翌年・1893年2月に、第2回請願書(宮城県阿部三右衛
 門以下703名)を帝国議会に提出した。
  日本には・・教育の重要性の認識は勿論、公平性、機
 会均等などの思想が根付いていた・・
  この後の台湾・朝鮮などの地においても、
  日本の内地と同等、または、それ以上の教育施設の充
 実などを図って行く。
  伊沢修二(1851年6月30日~1917年5月3日)は、日本の
 教育者、文部官僚で、近代日本の音楽教育、吃音矯正の
 第一人者。
  信濃国高遠城下(現在の長野県伊那市高遠町)の高遠
 藩士の子として生まれる。
  下級武士のため極端な貧乏の暮らしに育った。
  1861年(10歳)より藩校進徳館で学び、
  1867年(16歳)に江戸へ出府。英語を学ぶ。
   その後、京都へも遊学して蘭学などを学ぶ。
  1869年(18歳)には藩の貢進生として大学南校(のち
   の東京大学)に進学した。
  1872年(21歳)には文部省へ出仕し、のちに工部省へ
   移る。
1892年8月8日、第二次・伊藤博文内閣が成立した。
  政局の安定を目指した元勲内閣であったが波乱含みで
 あった。
  この日、第一次・松方正義内閣が総辞職し、第二次・
 伊藤博文内閣が発足した(1892年8月8日~1896年8月31日)
  ふたたび、伊藤博文が内閣を組織し、陸奥宗光とのコ
 ンビで不平等条約の改正を行なった。
  野党の政府批判、外国との条約改正点の折衝などで苦
 労多き国会運営が続いた。
  また、日清戦争も起きた。
  挙国一致体制で動き、勝利によって政権は安定化した。
  しかし、この戦争の後、ロシアが中国・清に変わって
 朝鮮へ進出して来た(日本は、朝鮮から遠ざけられた・・
 これを、野党は、外交の失策と政府批判の題目とした)
  明治天皇陛下の信任が厚く、詔勅によってしばしば政
 局の危機を乗り切った。
.
  (今日の言葉)
.
  題:紀元1世紀~2世紀、キリスト教聖書ができた。
   そして、この頃、ハワイ諸島が、ポリネシア人に発見された。
   そして、この経緯と同じことを、今、中国がやっている。
.
紀元1世紀~2世紀、キリスト教聖書ができた。
  そして、この頃、ハワイ諸島が、ポリネシア人に発見
 された。
.
200年~250年頃、ポリネシア系住民が、ハワイ諸島を発見
 し移住した。
  そして、住み付き、ハワイ諸島の所有者となった。
  時を経て(約1700年を経て)・・、
  1881年、ハワイ国王が、日本に来た時、国王からの
 提案があった。
  そして、その後、12年後、その関係もあって・・
  1893年、アメリカが、ハワイの王政を廃止し、ハワイ
 を乗っ取った時・・、
  日本は、東郷平八郎を艦長とする巡洋艦「浪速」と「
 金剛」などの戦艦をハワイに派遣した。
  ハワイにいる日本人の保護を名目としていたが・・、
  「ハワイ王政が、武力で倒されるという非常事態にあ
 って、ハワイの方たちを守ろうとした」。
  東郷平八郎(後の元帥)は、戦艦「浪速」をホノルル
 港に停泊させることで、アメリカ軍ににらみを利かせ、
 アメリカによるハワイ併合を遅らせた。
  実質的には、アメリカへの抗議であった・・アメリカ
 は激怒した。
  アメリカのハワイ王国の奪取は、明らかに一方的な侵
 略であった。
  当時、ハワイには、日本人移民が2万人以上(当時の
 人口の約50%)を占めていた。
  アメリカ人は約7000人で、日本移民の3分の1にすぎ
 なかった。
  この時のことがあるため、「ハワイの方たちは、日本
 や東郷平八郎に対しては、感謝の気持ちを大きくしてい
 る」。
  そして、この年・1893年、アメリカ系移民は、ハワイ
 王国のリリウオカラーニ女王を幽閉し、
  「廃位します」という書面に無理やりサインさせ、ハ
 ワイ女王を廃位させた。
  さらに、卑劣な事に、ハワイ王国第8代の女王であるリ
 リウオカラーニ女王を有罪にして、重労働五年の判決を
 下した。
  この時、女王は「アロハ・オエ(私の愛をあなたに)」
 という悲しい曲を作った。
  (1)雨が誇らしげに尾根を横切り 、
    森の中を通り抜けていく
    未だ開かぬ蕾を探しているかのように
    山あいに咲くレフアの花よ
  (2)あなたにアロハ あなたにアロハ
    木の陰に佇む心優しき人
    去っていく前に
    もう一度あなたを抱きしめよう
    また会えるその時まで
  (3)懐かしく暖かい思い出が胸をよぎる
    ついこの間のことのように
    愛する人よ 我が愛しき人よ
    真心は決して引き裂くことはできない
  (4)私はあなたの素晴らしさをよく知っている
    マウナヴィリに静かに咲くバラの花
    そこにいる啼かない鳥たち
    そして木の陰にいる美しい人
  (5)あなたにアロハ あなたにアロハ
    木の陰に佇む心優しき人
    去っていく前に
    もう一度あなたを抱きしめよう
    また会えるその時まで
  歌詞の内容が、雨を共和制実現を目指す白人勢力、花
 をハワイ王国の国民の暗喩と考えれば、王国の滅亡が目
 前となった当時の状況や、女王の心情に驚くほど見事に
 符合する。
  このことから、1893年の初演には、強引なアメリカに
 よる従属国化・併合に対する女王の反発であった。
  ハワイの歴史・・概歴・・
  250年頃、ポリネシア系住民(今のハワイの原住民の
     方々)が移住し、ハワイ諸島の所有者となる。
  300年頃、イースター島へ、ポリネシア人が到達。
  400年頃、ポリネシア人がハワイ諸島へ、
  900年頃、ポリネシア系住民が、再度、ハワイ諸島へ
     移住。
  12世紀後半、ポリネシア系先住民が、ハワイ諸島を族
     長を立て、支配した。
  1778年、イギリスのジームス・クックが、ハワイ諸島
     を発見した・・と欧米系の歴史は記すが、本当
     の発見者は、ポリネシア人の方々・・、
  1781年、ロシアが南下し、アラスカへ入植した(侵略
     行為)。
  1790年、カメハメハ王が、ハワイ島の王となり統治す
     る。
  1794年、ハワイ島以外の全島統治者のマウイ島大族長
     が死去した。
  1794年、イギリスが、カメハメハ王を統治者と認知し、
     支援する。
  1795年、カメハメハ王が西洋の武器を活用して、マウ
     イ島やオアフ島を攻略する。
      そして、ハワイ全島を支配下に置き、ハワイ
     王朝を樹立し、統治する。
  18世紀後半、イギリス・フランス・スペインなどヨー
     ロッパ植民地帝国が来航する。
  1816年、露米会社が設立された⇒カウアイ島を保護下
     に置く。
  1817年、カメハメハ大王が、シェーファーを追放。
     1816年に座礁したベーリング号奪回の交渉役と
     して派遣された船医シェーファーが、会社に独
     断でカウアイのカウムアリイ王と密約を結び、
     ワイメア河口にロシア砦を建設した。
      その為、カメハメハ大王との仲が険悪になり、
     シェーファーはカウムアリイに追放された。
  1820年~1880年、捕鯨貿易の寄港地となる。
  1820年、アメリカ人が来島(キリスト教宣教師たち・・
     結局、この輩たちが、ハワイ滅亡の悪の結果を
     もたらして行く)、教育、政治、経済に介入、
     影響力を行使する。
  1823年、プロテスタンティズム・西欧化が推進される。
     ⇒1935年、初の製糖会社が設立される。
     ⇒カトリック禁止令を出さざるを得なくなる。
  1835年、製糖産業が操業される(経済的侵略が始まる)
  1840年、ハワイ憲法が公布され、アメリカ・ヨーロッ
     パ諸国の干渉が激しい、産業を育成して独立を
     維持しようとする、立憲君主制へ移行(西欧近
     代化という名目)
  1842年、アメリカの良識国民派が、ハワイの植民地化
     に反対する。
  1844年、アメリカ・ヨーロッパ系白人が、ハワイ政府
     の要職に就任することが可能とされる。
  1850年、外国人が「土地を所有することが出来る」と
     認可される(土地という領土を奪っていく)
  1851年、ハワイ政府が、アメリカの保護領となること
     を宣言する。
  1852年、アメリカ議会で、ハワイ併合案が提出される。
  1862年、外国人土地保有75%に(もう、ほとんど乗っ
     取られた)⇒人口問題。農園労働者不足となる。
  1875年、アメリカとハワイの米布互恵条約が締結され
     た(不平等条約)
      経済のアメリカ市場への依存が開始する。
  1878年、ハワイ王国の女王がアロハ・オエを書く。
  1881年、日本に、ハワイ国王カラカウア1世が来日した。
      明治天皇陛下と赤坂離宮で会談した。
      そして、日本へのハワイ国王の提案内容
     (1)カラカウア王の姪で王位継承者のカイウラ
       ニ王女と、山階宮定麿親王(後の東伏見宮
       依仁親王)との縁組。
     (2)日本・ハワイの合邦(連邦)
     (3)日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷
       設。
     (4)日本主導による「アジア連邦」の実現。
  1885年、労働契約移民制度が実施された。
  1887年、ハワイ王国が、本格的に、アメリカの傀儡と
     なるのは、1887年の憲法修正以降で・・、
      この年、米布互恵条約が更新され、アメリカ
     が、真珠湾の独占使用権を獲得した。
      親米派が、改革党を結成した⇒反米派は、国
     家改革党を結成した。
      ベイオネット憲法公布(王権が弱体化される)
      女王が、議会を閉会した⇒親米派が、公安委
     員会を結成した⇒アメリカのハワイ公使が、ア
     メリカ国軍の海兵隊の上陸を要請した⇒公安委
     員会が、暫定政府を樹立した。女王に廃位を勧
     告した⇒女王は強引に廃位を認めさせられた。
  1889年、ウイルコックスが反乱した。
      改革党選挙で大敗⇒女王即位。王権派・国家
      改革党支持、政局混迷、
  1891年、欧米人の登用などをせざるを得ない状況とな
     り(近代化の名目)、その中で女王即位⇒政局
     混迷の状況へ、
  1892年、親米派がハワイ併合クラブを結成した。
  1893年、親米の反王政派により、リリウオカラニ女王
     がイオラニ宮殿に幽閉され、暫定政府の樹立さ
     れ、政権奪取(クーデター?)で王朝滅亡、欧
     米諸国は暫定政府を承認した(当初からのハワ
     イ奪取の茶番劇)
      日本の巡洋艦が、ハワイ諸島へ抗議の意味も
     あって派遣された。アメリカは激怒した。
  1894年、ハワイ共和国ができ、ハワイ王国が滅亡させ
     られた。
  1898年、アメリカが、ハワイを併合した。
  1959年8月21日、アメリカが、ハワイを自国の州とした。
      立派な政府があって、住民も支持をしていた
     その王国が消え・・アメリカとなった。
.
1837年、リンカーンが28歳の時、以下のような発言をした・・、
  「奴隷制度は、不正と悪政にねざすことを信じるが、
  しかし、奴隷廃止論の公布は、その害悪を減ずるより
 はむしろ増大させるものと信ずる」と、奴隷解放の反対
 理由を言っている。
  また、リンカーンの言葉(1858年、49歳)・・
 「これまで、私(リンカーン)は、黒人が投票権をもっ
 たり、陪審員になったりすることに賛成したことは一度
 もない。
  彼らが、代議士になったり白人と結婚できるようにす
 ることにも反対だ。
  皆さんと同じように、白人の優位性を疑ったことはな
 い」・・、
  さらに、リンカーンの言葉(1861年3月4日、52歳)・・、
  「奴隷制度が布かれている州におけるこの制度に、直
 接にも間接にも干渉する意図はない。
  私はそうする法律上の権限がないと思うし、またそう
 したいという意思もない」。
  黒人歴史家のレローヌ・ベネットは、1968年に・・、
  リンカーンを、『白人至上主義者』と呼んだ。
  この時、広く注目を集めた。
  批評家は、リンカーンが、民族的な中傷を用い、黒人
 を冷笑するジョークを話し、社会的平等に反対すると主
 張し、解放奴隷を別の国に送ることを提案したことに、
 苦情を言っている。
  リンカーンの擁護派は、
  彼が大半の政治家ほど悪くはなく、
  政治的に可能な限り奴隷制廃止論の側で巧みに進展さ
 せた「道徳的先見家」だったと弁護している。
  (参考)人道主義:じんどうしゅぎ、人間性を重んじ、
     人間愛を実践し、併せて人類の福祉向上を目指
     す立場。
.
1858年8月21日、リンカーン対ダグラス論争
  リンカーン(49歳)と、黒人のスティブンス・ダグラ
 スとの論争は、この日を第1回として、7回、奴隷制につ
 いて論争をした。
  その時、リンカーンは以下のような言葉を言った・・、
  「私(リンカーン)は、白人種と黒人種の社会的政治
 的平等を如何なる形でも、もたらすことに賛成はしてい
 ないし、これまでもそうではなかった。
  私は、黒人を有権者にすることも、陪審員にすること
 にも、賛成していないし、
  彼等〈黒人)が、役職者になる資格を与えることとか、
 白人と結婚するとかということにも賛成しておらず、こ
 れまでもそうだった。
  さらには・・、
  「白人種と黒人種の間には身体的な違いがあり、
  2つの人種が、社会的政治的平等という条件で共に暮
 らすことを永久に禁じることになると考えている。
  彼等が、そのような生活をできない限り、
  彼等は、上等と下等の地位があるべき状態に留まり、
  他の人と同様に、私は上等の地位が白人種に割り当て
 られていることに賛成する・・」・・
  まったく、黒人の方々の人権を無視した発言をしてい
 る。
.
1860年代、イギリスの経済的なピークは、1860年代であっ
 たと言われている。
  そして、その30年後の1890年代までには、その優位さ
 をほぼ失った。
  そして、1970年代には、イタリアと同程度の経済規模
 まで落ち込んだ。
  その間、約100年である。
  人生100年の時代と言われているが、一人の世代で、
 イギリスについて、この様な事が言われている。
  日本は、1980年代が、飛ぶ鳥を落とす状態だった。
  日経平均株価は、1989年12月29日に、3万8915円87銭の
 市場最高値を記録した。
  そして、2017年10月11日に、2万881円27銭という21年
 ぶりの高値になったと報じられた(戻り率53.7%)
  今、戦後、最長の好景気と言われている。
  今、北朝鮮の事を含め、また経済も含め、日本は、転
 換点に居ると言える。
  足元をしっかりして「次のステップ」へ進まないと、
 イギリスの如くになる。
  日本は、20世紀後半に高度成長した。
  世界は、「日本は、もうすぐ、欧米全部を組み合わせ
 た以上に大きくなる」と予測され、見られていた。
  しかし、そうはならなかった・・、
.
1862年8月17日、ダコタ戦争(リンカーン、53歳)
  アメリカのミネソタ州南西部のミネソタ川沿いで、ア
 メリカインディアンのダコタスー族との戦い。
  居留地の移動を、何度も強いられたインディアンの方々・・
  (白人・アメリカ人は、肥沃な土地が欲しくて、イン
 ディアンの方々の地=アメリカ西部の地をインディアン
 の方々を西へ西へと追いやって行った)
  (また、追いやられた居留地と言ったって、畑作もま
 まならないような地だった)
  その様な状況であるため、インディアンの方々は、食
 料をアメリカ政府に頼っていた・・また、その条件での
 移動でもあった。
  しかし、この時は、飢餓状態にさせられ、戦争という
 より、飢餓から来る反抗であった。
  (また、白人・アメリカ人は、インディアンの全滅を
 狙って、インディアンの方々の食糧であるアメリカ野牛・
 バイソンの絶滅を行なっていた・・
  白人・アメリカ人は、「不要な野牛狩り」をして、野
 牛の頭だけが、西部の原野に山のように積まれている写
 真が残っている・・
  その野牛の山の頂上に、白人・アメリカ人が得意そう
 にして立っている)
  この戦いで、卑劣にもアメリカは、38名のアメリカ・
 インディアンのダコタ族を、一斉絞首刑を行なった。
  そしてまた、ミネソタからの追放という、アメリカが
 よくやる民族浄化を行なった。
  この時のアメリカ大統領が、第16代のエイブラハム・
 リンカーン(在任期間:1861年3月4日~1865年4月15日)
 だった。
  大統領就任後、1年5か月という、リンカーンのおじい
 さんの仇(かたき)を、就任早々に取ったのだった、
  リンカーンのインディアンに対する態度は、常に徹底
 排除の姿勢を崩さず、アメリカ・インディアンの大量虐
 殺の指揮を取り続けた。
  リンカーンについての解説にも・・「黒人奴隷に関し
 ては『奴隷解放の父』と呼ばれているリンカーンだが、
  インディアン民族に対しては、弁護士時代から大統領
 時代にかけて、終始徹底排除の方針を採り続け、大量虐
 殺を指揮している」・・と記されている。
  民族浄化とも言われるロング・ウォーク・オブ・ナバ
 ホ(厳寒期の遠い地への居留地移動)や、ダコタ戦争を
 始めとする多くのインディアン戦争は、リンカーン政権
 下で行われた・・まったく卑劣な行為だった。
  そして、リンカーンのこの『目には目を』の行為は、
 弁護士時代から始まっていて、インディアン方々の居住
 地取り上げに奔走した。
  その一つが、西部方面へのインディアン領土への鉄道
 拡張だった・・卑劣なインディアンの土地権利の抹消処
 理・・その行為を、多数、手がけた。
  リンカーンが「無効(neutralized)だ」としたインデ
 ィアン部族の方々の土地に対する書類は、現在も数多く
 残されている。
  リンカーンは、執念を掛けて、インディアン民族に対
 して、終始徹底排除の方針を採り続け、大量虐殺を指揮
 した。
  当時の保留地は、外に出ることを許されない完全強制
 収容所の状態だった・・食糧を獲ったり、作ったりでき
 る訳がない。
  また、卑劣にもリンカーンは、ミネソタのダコタ族と
 の連邦条約を一方的に破棄した。
  そして、ミネソタ州にあるインディアンの方々の居留
 地を強制没収した。
  そして、無慈悲にもインディアンの方々をノースダコ
 タ等の他のスー族の保留地に強制連行した。
  ミネソタに、それでも残っていたダコタ族に対しては、
 州を挙げての『皆殺し政策』が行われた。
  女性や子供にまで、インディアンであれば誰であろう
 とを問わず「賞金をかけた」。
  その様にして、徹底絶滅が図られた。
  リンカーンのやり方は、この様な虐殺方針だった。
  当然、リンカーンが責任者としてそこに居た。
  そして、1863年の夏、リンカーンは、ジェームズ・カ
 ールトン准将に、南西部のナバホ族インディアンの討伐
 を命じた。
  当然、無理な命令に、ナバホ族は、ダコタ族同様に、
 抵抗した。
  また、カールトンは、ナバホ族の土地に金鉱があると
 睨んでいた。
  指令者のリンカーンは、1864年に、以下の命令をした・・、
  「ナバホ族8500人の、300マイル(483キロメートル、何
 と、東京から大阪近くの距離である)離れた東にあるアパ
 ッチ族の強制収容所「ボスク・レドンド」への徒歩連行
 を命じる(ロング・ウォーク・オブ・ナバホ)」だった。
  この強制連行の途上で、何百人もの死者が出た。
  厳寒期の中、そのほとんどが、子供や老人だった。
  そして、「ボスク・レドンド」で、ナバホ族は、強制
 労働をさせられた。
  女性は、アメリカ軍兵士から強姦された。
  乳幼児のほとんどは、生まれて間もなく、過酷な環境
 下で死んだ。
  結局、リンカーンが死んで和平条約が結ばれたが・・、
  その1868年の和平条約が調印されるまでに、2000人以
 上のナバホ族が死んだ(ナバホ族だけで・・)。
  この様なリンカーンの先住民であるインディアンの方々
 への虐殺事例は多くある。
  この原因の一つが、リンカーンという名前が、インデ
 ィアンに殺害された父方の祖父「エイブラハム・リンカ
 ーン」にちなんで命名されたというところにもある。
  アメリカ北部政権のシンボルになっているが、この様
 な人物である・・
.
1865年4月14日、リンカーン大統領暗殺事件が起きた。
.
1870年3月、リンカーンの黒人奴隷解放で、『めでたし、め
 でたし』という状態ではなかった。
  まだまだ、卑劣な状態のアメリカだった。
  リンカーンの奴隷解放で「すべてが終了した」と思わ
 せたが、それが、アメリカのプロパガンダ(嘘宣伝)で
 もあった・・
  まだまだ、アメリカは、卑劣な事を黒人の方々へ行っ
 ていた。
  そして、やっと、1870年3月に至って、黒人の方々は、
 「選挙権を勝ち取った」。
  「選挙権を与える」という事が、上から目線で認めら
 れた(憲法修正第十五条)
  1863年の奴隷解放宣言から7年2ヶ月の黒人の方々の闘
 いの後だった。
  また、黒人の方々は、闘いの成果として「公民権侵害
 に対する処罰法」を制定させた。
  黒人の方々は、初めて、アメリカという自分たちの国
 で選挙権を行使することが出来る事となった。
  卑劣なアメリカだった。
  政治上の意思表示が出来る状態が、やっと黒人の方々
 の手に入った。
  本当に遅れた国=アメリカで、民主主義もないアメリ
 カだった。
  黒人の方々も、やっと、州議会に選ばれ、自分たちの
 生活について考えを言える立場を得た。
  いくつかの州では、州議会の下院議員の半数近くが黒
 人議員となった・・
.
1870年、この頃までに、アメリカの北部政治は、完全に今
 までとは違ったものとなった。
  何と!! 北部は、『南部を市場として収奪する場』
 として位置づけた。
  奴隷制廃止運動の指導者であるサディウス・スティー
 ブンスは言った、「プランターの大土地を没収して、こ
 れを、黒人や貧しい白人に無償で分配せよ」・・と・・
  そして、「黒人と貧しい白人との同盟」が進んで行っ
 た。
  アメリカ北部の傲慢な資本家に向かって、労働運動も
 盛んになった。
  飛躍的に成長した北部の産業資本家たちは、南部の旧
 奴隷所有者たちへの再建運動が進み過ぎるのを恐れ出し
 た。
  国内市場として南部が開放されると、その南部プラン
 ターと手を結んで、南部を北部資本家の収奪の場にした
 くなった。
  この様な北部産業資本家の思惑が政治を動かして行っ
 た。
  アメリカ北部政治は変質して行った。
  1870年頃までに、完全に変質した。
  ここに、北部政治と黒人の方々との乖離(かいり)が
 あった。
  黒人の方々は、「旧奴隷所有者たちの再建運動」への
 反対活動が始められた。
  対立軸は、黒人の方々の「大土地所有者たちの土地(
 旧奴隷所有者たちの土地でもある)を分配せよ」という
 立場と・・、
  北部資本家は、「今までの南部を、市場として取り込
 もうという、だから、旧奴隷所有者たちを再建しよう」
 という立場があった。
  アメリカ北部政権は、この北部資本家の立場にいた。
  この様な反動的な動きに、黒人の方々は、当然、「旧
 奴隷所有者たちの再建運動反対活動」を開始したが、こ
 の黒人の方々への白人・アメリカ人の攻撃も始まった。
  銃のあるアメリカ社会・・、その銃を持った白人・ア
 メリカ人たちによって襲撃された。
  「KKK(クー・クラックス・クラン、1865年に結社
 されていた)」「黒十字騎士団」「白バラ騎士団」「白
 つばき騎士団」などの秘密結社だった。
  たちまち、アメリカ社会に広がった。
  総帥を「大魔王」などと称した。
  頭からすっぽり三角の覆面を被り、幽霊のような姿で
 顔を隠した。
  そして、黒人の方々を襲撃して、殺戮した。
  深夜、馬にまたがり町や野原を疾走した。
  その白い姿に黒人の方々は、恐れ慄(おのの)いた。
  威圧する奇妙な姿の行動は効果があった。
  黒人の方々の家を襲い、殺戮したりした。
  また、投票行為を妨害したり、黒人の方々に味方する
 白人をも平気で殺害した。
  黒人の方々が、教育や啓蒙活動をすると、その学校や
 教師まで襲った。
  1870年頃が最悪だった。
.
1872年5月、アメリカで、大赦法が制定された。
  反動の法が出来た。
  黒人の方々の必死の努力と血まみれの戦いによって得
 た権利=人権、当然の持って生まれた権利であるべきも
 の=人権、
  その当然の人権を、戦いを経なければ得られないとい
 う遅れた社会・アメリカに生まれた黒人の方々、
  その当たり前の権利がない黒人の方々の「その人権」
 がやっと得られて来たと思われたアメリカに・・、
  反動の嵐が・・吹き荒れて来た。
  事の発端は・・アメリカ北部資本家たちが、アメリカ
 南部を市場として取り込んだら「もっと儲かるだろうと
 考えた」からだった。
  当然の権利を得ようと活動する黒人の方々が、その足
 を引っ張る形になった・・
  奴隷制復活への動きだった。
  それ故、その活動家の黒人の方々へ、当然の権利を得
 ようとする黒人の方々へ、顔に覆面をした白人・アメリ
 カ人が・・結成された秘密結社が・・襲った。
  種々の秘密結社が生まれ、その結社に、黒人の方々は
 襲撃され、意味なく無為に殺された。
  また、白人優越=黒人蔑視のキリスト教観に洗脳され・・
 有色人種蔑視観がを持った者たちの暴力がアメリカに吹
 き荒れた。
  そのような時、1872年5月に、「大赦法」が制定され
 た。
  黒人の方々を虐げていた旧支配階級の者たちへ大赦が
 与えられ、
  また、政治的権利も種々与えられ、全面的に復活した。
  そして、奴隷解放活動をしていた「解放民局」も活動
 を停止した。
  そして、この時、大統領になったユリシーズ・グラン
 トも悪だった。
  (参考)第18代アメリカ大統領:ユリシーズ・グラン
     ト、任期:1869年3月4日~1877年3月4日、
  このグラントは、南北戦争の最終局面で、南部軍のリ
 ー将軍をアポマトックスに降伏させたグラント将軍だっ
 た。
  このグラントは、大統領となって、まったく腐敗と汚
 職の中にいた。
  北部軍の歴史的将軍も「地に落ちた輩」となっていた。
  この大統領のこの時を、「アメリカ政治の最も堕落し
 た時」と言われている。
  また、この時、政党も堕落していた。
  共和党や民主党も堕落にまみれていた。
  そして、この様な堕落の時を経て、次の大統領選がや
 って来た。
  1876年11月、開票して民主党が勝利した。
  しかし、共和党は、サウスカロライナ州などで不正が
 あったと、クレームを付けた。
  民主党の勝利を認めなかった。
  話は決着がつかず年を越した。
  そして、1877年2月、政治的取引がなされた。
  共和党は、「サウスカロライナとルイジアナの両州の
 連邦軍の撤退」を条件にして、共和党の大統領の当選権
 を得た。
  何と! 逆転である。
  共和党は、その2州などの南部を、民主党の支配下に置
 くことを了解した。
  この時、同時に、黒人の方々の今までの努力も、まっ
 たく無に帰した。
  この時、大統領が転がり込んで来た大統領が、第19代
 アメリカ大統領:ラザフォード・ヘイズ、任期:1877年
 3月4日~1881年3月4日・・である。
.
1893年、ハワイ王国の滅亡
  ハワイ王国のリリウオカラニ女王が、アメリカとの不
 平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発し
 たアメリカ系移民であるアメリカ人農場主らが、アメリ
 カ海兵隊160名の介入・侵略をさせて、ハワイ王国を滅
 亡させてしまった。
  ハワイ王政を打倒して「臨時政府」を樹立した。
  完全な元アメリカ人のハワイ移民を使ったアメリカの
 傀儡(かいらい、人の手先となって思いのままに使われ
 る)のハワイへの乗っ取り・侵略であった。
  この時、日本は、あまりにも卑劣な行為の侵略である
 ので、邦人保護を理由に、東郷平八郎の率いる巡洋艦「
 浪速」他2隻をハワイに派遣した。
  そして、ホノルル軍港に停泊させて乗っ取り勢力・偽
 クーデター勢力を威嚇した。
  先住民の正統政府のハワイ王国女王を支持する先住民
 らは、日本の軍艦の来航を涙を流して歓喜した。
  また、ハワイ在留日本人も、先住民の方々の女王支持
 派と同じ気持ちで行動をとった。
  しかし、アメリカによるハワイ併合は、この年・1898
 年に実現されてしまった。
  そして、その66年後の1959年8月21日、アメリカは、ハ
 ワイをアメリカの州とした・・当初の目的を達成した。
  今、中国が、このアメリカと同じことをやっている。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive

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(増補版)560E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年7月) [真を求めて 皆様とともに幸せになりたい]

題:(増補版)560E2/3:1/3:気になった事柄を集めた年表(1892年6月~1892年7月)
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい・・日記・雑感)
.
1892年6月22日、与党中央交渉部を母胎として、中立議員ら
 が国民協会を結成した。
  国民協会は、西郷従道を会頭、品川弥二郎を副会頭と
 する山県有朋系の官僚出身の保守主義者を中心として結
 成された国家主義的政党で、藩閥政府を擁護した。
  中国の軍拡を見て、軍備強化の必要性を主張し、また、
 製鉄所の建設など実業の振興の必要を主張した。
  条約改正問題で、第2次伊藤博文内閣と対立して与党的
 地位を失った。
  日清戦争後に、藩閥政府が、自由党や進歩党などの「
 民党」との提携に至ると、藩閥勢力の中でも最も保守的
 な山県有朋との関係を強めたが・・、
  党勢は、創立当初は70名を擁した議員が、選挙ごとに
 減少し・・衰退の一途をたどり・・、
  1898年8月には、21名となり・・、
  1899年に、品川の枢密院入りで支柱を失い・・、
  1899年7月4日に解党した。
  翌日、帝国党となって再出発した。
1892年6月26日 弁護士総会を、初めて東京で開催した。
  現在の弁護士制度ができる前は、「代言人」と呼ばれ
 ていた。
  1880年5月13日に、代言人規則が全面改正され、代言人
 組合の結成が義務付けられた。
  それを受け、1880年6月27日、横浜代言人組合が設立さ
 れ・・
  1880年6月29日に、東京に・・
  1880年9月30日に、大阪に設立された。そして・・
  1892年に、弁護士法が成立し、代言人は弁護士へ、代
 言人組合は弁護士会へと、法律によって改名した。
  この頃の弁護士は、司法省(検事正)の監督のもとに
 おかれ、その独占業務も、法廷活動に限られていた。
  弁護士は、裁判官や検察官よりも格下とされ、試験制
 度も異なっていた。
1892年6月27日、震災予防調査会が設立された(7月15日説
 あり)
  震災予防調査会は、1892年6月27日~1925年11月14日に
 設置されていた文部省所轄の地震や震災に関する研究機
 関で・・、
  1891年の濃尾地震の被害の大きさに衝撃を受けた関谷
 清景らが・・、
  地震の予防は出来なくても、被害を最小限に食い止め
 る方法を研究することは可能である・・として、
  帝国議会に対して、そのための研究機関の設置を建議
 した。
  明治政府もこれを受けて、この年に、震災予防調査会
 で、「震災予防に関する事項を攻究し其施行方法を審議
 する」ことを目的とし、文部省所轄の研究所として設置
 された。
  (参考)関谷清景(せきや きよかげ、1854年12月11日
    (1855年1月28日)~1896年1月8日)は、日本の地
     震学者。世界初の地震学教授。
1892年6月、東京~大阪間に4重電信機が導入された。
  最初期の電信は、1本の線で1通信しか送信できなかっ
 た。
  取扱量を増やそうとすると、電信線を増設するしかな
 かった。
  1890年代のニューヨーク市の電信柱は、電線だらけと
 なった。
  そこで、通信スピードを上げて短時間で多くの情報を
 送れるようにと、効率化をしようとしたが、結局は、電
 信技手の手送りの時代で、決定的改善策とはならなかっ
 た。
  ここに、「多重通信技術」が生まれた。
  1本の線で2倍、4倍と同時使用できる技術で、コストの
 低減に劇的な効果があった。
  1853年に、オーストリアのギントルが、二重通信法を
 発明した・・そして・・、
  1868年~1872年に、スターンズが、二重通信の実用性
 を上げる発明がなされ、
  1874年に至り、エジソンが、四重通信法を発明した。
  スターンズの方法は、送信と受信が同時に出来るとい
 うもので、この双方向通信で能率を倍加させた。
  エジソンは、振幅パルス変調を取り入れ、1回線を4倍
 にした。
  (参考)パルス振幅変調(パルスしんぷくへんちょう)
     は、情報信号の振幅をパルス信号の系列で符号
     化(エンコード)する、パルス変調の一つ。
1892年6月、スイスで、ブリエンツ・ロートホルン鉄道が開
 通した。
  ブリエンツ・ロートホルン鉄道は、スイスのブリエン
 ツからブリエンツ・ロートホルンの山頂へ登る登山鉄道。
  この登山鉄道は、ラック式鉄道(歯軌条鉄道)で、2本
 のレールの中央に、歯型のレール(歯軌条、ラックレー
 ル)を敷設して、車両の床下に設置された歯車(ピニオ
 ン)とかみ合わせて、急勾配を登り下りする。
  この歯車で、推進力と制動力の補助とする。
  因みに、このラック式鉄道に対して、車輪とレールの
 間の摩擦力(粘着力)によってのみ駆動と支持を行う通
 常の鉄道を『粘着式鉄道』と呼ぶ。
1892年7月1日、九州鉄道会社線の門司・博多・小倉・福岡
 の4駅と、筑豊興業鉄道会社線の直方・若松両駅との相互
 間で連絡乗車券の発売を開始した。
1892年7月3日、大磯海水浴場開き行われた。
  大磯町は、神奈川県の南部に位置する町で、相模湾や
 高麗山、鷹取山などの豊かな自然が暮らしの場に近接し、
  また、長い時間をかけて郷土が培ってきた伝統や文化
 が大切に受け継がれ、
  自然的、歴史的、文化的に魅力のある町として発展し
 てきた。
  1885年(明治18年)、初代・陸軍軍医総監を務めた松
 本順が、西洋医学における先端医療のひとつとして、「
 海水浴」を推奨し・・、
  照ヶ崎海岸に海水浴場が開設された。
  これが、我が国の海水浴場の発祥と言われている。
  また、1887年(明治20年)に、大磯駅が開業した。
  当初は平塚から国府津までの間に駅は必要ない、とい
 う計画だったが、松本順が当時の初代内閣総理大臣・伊
 藤博文に相談し、大磯駅が誕生した。
  この大磯駅開業によって、海水浴客は増え続け、政財
 界の重鎮たちの別荘が数多く建築された。
  また、保養地としての大磯の名が全国に広まった。
  (参考)海水浴発祥の地は他にもある。
      神奈川県だけでも、著名な海水浴場が、本牧、
     富岡、七里ケ浜、片瀬が挙げられるが・・、
      片瀬では、明治初期に、早くも、外国人が海
     水浴を行なっていたことが知られている。
1892年7月4日、山陽鉄道会社社長・松本重太郎が、下等運
 賃を、神戸駅~三原駅間で、最高1円とした遠距離逓減の
 運賃改正(中等は下等の2倍、上等は同3倍)について申請
 した。(7月8日に認可された)
1892年7月6日、鉄道庁に、線路取調委員を置き、委員規則、
 および、処務順序を定めた。
  線路取調委員は、全国の鉄道線路調査や、鉄道敷設法
 に掲げる線路突削、および、比較線の線路調査に従事し
 た。
1892年7月6日、アメリカのホームステッド・ストライキ(
 暴動・・銃撃戦・・死傷者発生)
  長い不況が続くアメリカ・・、
  カーネギー製鋼会社、ホームステッド製鋼工場におい
 て、組合を弾圧したことより、ペンシルバニア州ホーム
 ステッドで争議が起きた。
  労働組合に反感をいだいていた H.フリックは、同社
 の社長に就任すると、労働組合の破壊を決意して、賃金
 の引下げを計画した。
  そして、労働運動に対し、フリックは、工場にフェン
 スを巡らしロックアウトの強硬策を実施した。
  労働者側は工場の周りをガードし、地元警察も排除す
 るという状態。
  フリックは、さらに強硬手段に出て、ピンカートン探
 偵社という名の300人の私設警察=会社防衛隊を雇い、工
 場に配置し・・、
  また、スト破りの新しい労働者を雇って操業を再開し
 た。
  また、探偵社は、深夜に、工場の脇の川からボートで
 工場内に入ろうとした。
  労働者はそれを発見・・ここで、ボートの内外で、銃
 撃戦が始まった・・14時間にわたって行われ・・
  労働者側は、最後に燃え盛る列車をボートに向け突っ
 込ませた。
  また、ダイナマイトをボートに向け放り込み、ボート
 を爆破した・・ここで、探偵社側は降伏した。
  探偵社側3名、労働者側9名が死亡し、70人以上の死傷
 者となった。
  会社は、州知事に民兵の出動を要請し、ペンシルバニ
 ア州知事は、8000人の州兵(民兵)を出動させ・・
  軍の出動によって、労働者側は鎮圧され、労働組合は
 壊滅した。
  この後、フリックは、関連会社の労働組合を周到に解
 体へと追い込んている。
1892年7月7日、鉄道庁分課規程を改正した。
1892年7月13日 海軍造兵廠で、5000名スト。
  1889年、呉鎮守府設置。
   同じくして「造船部」設置、小野浜造船所を管轄す
   る。
  1897年、「仮設呉兵器製造所」は「呉海軍造兵廠」に
   改称、呉で初の軍艦「宮古」進水。
1892年7月20日、山陽鉄道会社線の尾道駅~三原駅(現:糸
 崎駅)間(9.1km)が開通した。
1892年7月21日、鉄道庁が、内務省から逓信省に管轄替えと
 なり逓信省鉄道庁となる。
1892年7月21日、鉄道庁長官に井上勝が就任した。
1892年7月21日、近藤勇の正妻・つね(56歳) が死去した。
  1837年(天保8年)、清水徳川家の家臣・松井八十五郎
 の長女として生まれた。
  1860年(万延元年)3月29日、天然理心流次期4代目で
 ある近藤勇と見合い結婚する。
  近藤は武蔵国多摩郡上石原村(現:東京都調布市)の
 百姓・宮川久次郎の三男で、
  1848年(嘉永元年)に、江戸牛込の天然理心流道場で
 ある試衛場(試衛館)の近藤周助に入門した。
  翌年・1849年(嘉永2年)10月19日に、周助の養子とな
 った。
  1862年(文久2年)に、長女・たまを出産した。
.
  (今日の言葉)
.
 題:アメリカも卑劣なリーマン・ショックを起こしたが、
   安易な方針転換をした中国もそこに居た・・、
.
707年、平城京への遷都の審議が始まった・・
  唐の都・長安をモデルにした平城京は、東西4キロ、南
 北約5キロのほか、東側に「外京」があって・・総面積は
 約2500ヘクタールだった。
  約10万人が暮らし・・、
  シルクロードの終着点として・・人や物が行き交う、
 国際色豊かな大都市として・・栄えた。
  だが、784年に・・、長岡京(京都府)へ遷都した後は、
 田畑や草木に埋もれた・・
  幕末に、調査されるまで・・人々から忘れ去れていた。
  この平城京への藤原京からの遷都は、文武天皇在世中
 の707年(慶雲4年)に審議が始まった・・
  708年(和銅元年)には、元明天皇により遷都の詔が出
 された。
  しかし、710年(和銅3年)3月10日 (旧暦)に遷都され
 た時には、内裏と大極殿、その他の官舎が整備された程
 度だった。
.
1775年5月26日、ジョージ・ワシントンを司令官とする大陸
 軍(独立を目指すアメリカ軍)が正式に発足し、統一し
 た指揮系統が作られた。
.
1820年、アメリカは、22州であったが、まだ、その半分は
 奴隷州であった。
  この後、アメリカは、何ら根拠のない「西漸説」で西
 部を奪っていくが、逆に奴隷州が増えていく状況となる。
.
1854年、卑劣な奴隷制推進法の「カンザス=ネブラスカ法」
 ができた。
  アメリカは、黒人の方々が、長い間、奴隷にされて来
 た卑劣な遅れた国だが、奴隷解放された後もキリスト教
 に洗脳された「有色人種蔑視観」は消え去ってはいなか
 った。
  今・現在も、アメリカでは、黒人の方々が差別され蔑
 視されているが、その様な差別社会であるが・・、
  ミズーリ協定の付帯条件で、今後、西部に新しく出来
 る州は、北緯36度30分の北側を奴隷禁止にして、その南
 は奴隷制を認めるとした。
  アメリカは、この時にも、今までの様に、まだまだ、
 西の地を奪うのだと卑劣にも今後の予定していた。
  それ故に、アメリカは、この様な法律条文(規則)を
 作った。
  しかし、綿花という利益率の良い美味しい作物・・、
  そして、利益率が、どんどん良くなる作物・・、
  その作物を利用した利益収奪システムには、「黒人の
 方々を奴隷にしておく」という事が『確実に必要』だっ
 た。
  しかしこれは、何も、南部だけが儲かるだけではなく、
 アメリカ北部の木綿工業も儲けていた・・そして、より
 儲けたかった。
  つまり、ミズーリ協定が、目の上のたん瘤状態だった・・
 ミズーリ協定の地理的制限を「止めたくなった」・・「
 止めたくなって来たアメリカだった」・・より儲け続け
 たいのである・・そこで、骨抜きの法律ができた・・そ
 れが・・
  1854年、カンザス=ネブラスカ法が出来た・・そして、
 その結果として、カンザス戦争(闘争)に至る・・
  (参考)カンザス戦争(闘争):南北戦争の前、自由
      州と奴隷州に接するカンザスで、南北両派の
      移民によって土地争いや、新政府の樹立や、
      奴隷問題をめぐって展開された争いで、この
      1854年の「カンザス=ネブラスカ法」以後、
      両派の争いはより激しくなって行った・・
       南北戦争が、奴隷解放か否かが原因と言う
      のは、アメリカ北部政権のプロパガンダ・・
      そして、南部を悪く言うという北部政権の嘘
      宣伝・・
  「新たに連邦に加入する諸州にて、奴隷制度になるか、
 否かは・・採否が決められる」という法律だった。
  つまり、確実に奴隷州を止めなければならないという
 ミズーリ協定の条件部分が「目障りとなった」のであっ
 た。
  黒人の方々を奴隷のままにしておくか否かは、「住民
 が決めるという民主主義」だから良いのだという屁理屈
 であった。
  ミズーリ協定を・・アメリカの連邦最高裁判所が、「
 判決で否定する」と・・、
  アメリカ大統領と伴にアメリカのすべてが「喜んだと
 いうアメリカ」においての法律であった。
  まったくバカげた『結論が分かっている』法律をアメ
 リカは作った。
  「住民の意思を大切にしているから良い法律なのだ」
 という、アメリカらしい「こすからい」、この当時、結
 果が決まっている・・自分勝手な理屈の法律だった。
  黒人の方々は、人権は認められていないし、選挙権も
 剥奪されている中で、「どこに民主主義があるのだ」と
 いう卑劣さもある・・また、差別社会のアメリカの中で
 の法律だった。
  そして、この卑劣な法律の推進者が、アメリカ北部の
 人間だった・・美味しい思いをしたいという北部人だっ
 た。
  アメリカ中で、一緒くたになって、南部も北部も、こ
 の様な事をやっていた。
  これで、事実上、ミズーリ協定が「葬り去られた」。
  『アメリカ北部に奴隷州が生まれる法律』だった。
  アメリカの国権の最高裁判所が、「ミズーリ協定は憲
 法違反だ」と判決したことを受けて、この様な事を、ア
 メリカは仕組んでやった。
  美味しい奴隷制を「なかなか手放さない」、美味しい
 奴隷制は「続けます」というアメリカだった。
.
1861年3月4日、アメリカのリンカーン大統領は、就任演説
 で、奴隷財産の『擁護論』を展開した。
  奴隷解放どころか・・奴隷制を認めるという擁護論理
 であった・・「奴隷という財産を守れ」という擁護論の
 演説をした。
  これを、アメリカは、「奴隷州に配慮した」と弁護し、
 「政治的配慮である」と言い訳をした。
  また、リンカーンは、「奴隷解放ではなく、連邦の統
 一という最高目的があった」などと・・色々な言い訳を
 した。
  それなら、そうだと、リンカーンの口から説明すれば
 よいものを・・?
  この様な、半分、屁理屈の様なリンカーンへの言い訳
 を聞けば聞くほど、リンカーンの心の中には、その様な
 「奴隷解放の意思は無いのだ」ということが明らかにな
 って来る。
  黒人の方々への配慮・思いやりなどまったくなかった。
  南北戦争のことを・・「南部の奴隷制度に耐えかねて
 南北戦争を起こした」と美しくアメリカはプロパガンダ
 し、また、リンカーンを弁護する。
  この当時のリンカーンへの風当たりは厳しかった。
  奴隷制度廃止論者のダグラスとリンカーンの論争・・、
  リンカーンの心の中には、キリスト教に影響された「
 有色人種蔑視観」があった。
  リンカーンは、子供の時に、目の前でアメリカ・イン
 ディアンにおじいさんが殺された。
  その事で、弁護士時代には、インディアンの土地の取
 り上げや、法的闘争に奔走していた。
  また、大統領になれば、死者が莫大に出るという厳寒
 期の長距離のインディアン居留地の移動を命じたり・・
  (インディアンの子供や老人、婦女子の方々に死者が
 大勢出た)
  また、移動しないインディアンに対して、酷い討伐を
 命じた・・殺戮・全滅を是認する「討伐を指示」を出し
 たりするリンカーンだった。
  1862年8月22日、奴隷制反対論者である「ニューヨーク・
 トリビューン」の主幹が、リンカーンへ『公開質問状』
 を出すくらいだった。
  この様な事態から、リンカーンは、「奴隷解放」の布
 告を出さざるを得ない、出す事を余儀なくされて行った。
  その様な心境にさせられて行った。
  アメリカ北部政権が祭り上げ、プロパガンダで、「奴
 隷解放の父」などと言っているが・・その称号は、返上
 すべき大統領だった。
  リンカーンは、南北戦争における軍へ、黒人の方々の
 「参加はまっぴら」という大統領だった。
  そうであるならば・・南北戦争において、白人・アメ
 リカ人の北部軍がしっかりしていたかと言えば、まった
 く腐敗していた。
  北部軍の軍首脳部の腐敗の影響によって、戦争準備が
 できていない状況で・・その準備不足で、南部軍にやら
 れっぱなしだった。
  北部軍は、相次いで、戦いに敗れ・・、
  開戦早々だというのに、「南部軍の旗をワシントンの
 国会議事堂に翻(ひるがえ)してみせる」という言葉が、
 南部軍から出るくらいだった。
.
1861年7月、南北戦争で、アメリカ北部軍が、ブルランで敗
 れ、早くも首都・ワシントンが陥落の危機にさらされた。
  リンカーンをトップとする北部軍の首脳部は、腐敗し
 ていて、戦争準備がなっていなかった。
  本当にアメリカを良くしようという意義が頭にあって
 開戦したのか?・・疑問が生じる状況だった。
.
1862年7月、アメリカのリンカーン大統領は、この時になっ
 て、やっと、南北戦争に、黒人の方々の参戦を認めた。
  それまで、リンカーンは、黒人の方々の軍隊編入をた
 めらっていた。
  リンカーンには、有色人種蔑視観があった。
  しかし、リンカーンのその様な思いとは別に、南北戦
 争は、リンカーン北部軍は、『完全な劣勢』に置かれて
 いた。
  黒人の方々は、リンカーン政府にいくら言っても埒(
 らち)が明かない状況に至って、北部軍の各将軍・・バ
 トラー将軍、シャーマン将軍、フレモンド将軍、ハンタ
 ー将軍などの下へ、直接、多くの黒人奴隷の方々は馳(
 は)せ参じた・・
  そして、戦争遂行のあらゆる部署に挺身した。
  その様な事態になって、やっと、リンカーン政権は、
 遅ればせながら、後追いで・・1862年7月、黒人の方々の
 軍隊編入を認めた。
  本当に、軽蔑すべきリンカーン大統領だった。
  そして、この後、あらゆる反動もあって、この黒人の
 方々の、目ざましい戦いが起きる・・そして、素晴らし
 い功績を残した。
  その1例が、サウスカロライナ州のワグナー要塞の攻撃
 だった。
  第54マサチューセッツ黒人連隊の果敢な働きは凄(す
 さ)まじかった。
  この連隊には、黒人奴隷解放運動家の大御所「フレデ
 リック・ダグラス」の二人の息子も加わっていた。
  黒人の方々は、それまで、白人・アメリカ人の虐(し
 いた)げを受けていた反動もあって、果敢に戦闘をした・・
  その為もあって、可哀想に、黒人の方々が戦死する率
 は、白人兵士より35パーセントも多く、黒人の方々は亡
 くなっっていた。
  戦死者数は4万人にも及んだ。
  この戦争には、18万6000人もの黒人兵士が、正式に北
 部軍の陸軍兵士として参戦していた。
  13万4000人が、奴隷州からの参戦だった。
  アメリカ海軍は、卑劣にも黒人の方々を拒否した。
  炊事係など3万人が参加しただけだった。
  給料面でも差別された。
  白人兵士の半分にもなるか、ならないかという差別状
 態だった。
  1863年7月のゲティスバーグの戦いと、ビックスバーグ
 の戦いが、北部軍勝利の転機となった。
  そして、シャーマン将軍のアトランタからサバナに向
 かうジョージア進撃の成功によって、北部軍の勝利は、
 最終的な、確定的なものとなった。
  1865年4月2日、南部連合の首都・リッチモンドが、北
 部軍の手に落ち・・
  その1週間後の1865年4月9日、南部軍のリー将軍は、ア
 ポマトックスにおいて、北部軍のグラント将軍に降伏し
 た。
  黒人の方々の功績は絶大だった。
  アメリカ北部軍は、黒人の方々の戦いによって救われ
 たのだった。
.
1863年1月1日、アメリカで、やっと、奴隷解放令が公布さ
 れた。
  しかし、リンカーンは、奴隷解放令が公布されようと
 している「この時点」になっても、黒人の方々を、アフ
 リカのどこかに植民させる(棄民する)ことが良いと考
 えていた。
  また、「奴隷のすべてを解放する様な事はしない」と
 考えていた。
  この様に、奴隷解放の足を引っ張るリンカーンの考え
 は、黒人の方々から「猛反発」を受けた。
  これに先立つ3か月前の1862年9月22日、奴隷解放令に
 先立つ「奴隷解放予備宣言」を公布するところまでこぎ
 つけていた。
  しかし、このリンカーンの「奴隷解放予備宣言」は、
 おかしな宣言だった。
  南北戦争が盛んに行われている現状において、リンカ
 ーンが考えていたのは、「反乱している州の奴隷を解放
 する」というものだった。
  つまり、反乱を「止めたっと宣言した州の奴隷は解放
 されない」という宣言だった。
  リンカーンは、「奴隷解放の父」とアメリカ北部の現
 政権がプロパガンダしているが・・「リンカーンは、そ
 の様な人間ではない」。
  リンカーンは、この様な段階になっても、奴隷の「即
 時、無条件、全面解放をしない」という大統領だった。
  即時、全面開放をためらう大統領だった。
  しかし、この様な状況の中で、黒人の方々は、残され
 た「わずかな解放の望み」をひたすら待ち望んだ。
  本当にアメリカは人権抑圧国家だ。
  黒人の方々への同情とともに、人権をもてあそぶ人権
 抑圧者・リンカーンへ怒りが湧く。
.
1865年、アメリカ合衆国憲法の「憲法修正第13条」が制定
 され・・『卑劣な奴隷制度を決めていたアメリカ合衆国
 憲法』が、やっと、修正された。
  アメリカは、1861年1月1日になって、「奴隷解放令」
 が、やっと、出たが・・しかし・・、
  奴隷解放令が出たからと言って、即時に、黒人奴隷の
 方々が、奴隷という卑劣な身分から解放されるという訳
 ではなかった。
  この後、黒人の方々は、血みどろの戦争を2年間もの
 間、耐え抜いて、戦い・・、
  黒人の方々は、自由の獲得闘争をして行って・・、
  やっと、1865年に至って、卑劣なアメリカ合衆国憲法
 の憲法修正第13条が提出され・・修正案を制定させるこ
 とができた。
  卑劣なアメリカは、黒人の方々に、この様な困難な時
 間を必要としなければ、この様な悪辣な経緯を経なけれ
 ば・・黒人の方々を「自由の身にして差し上げる」状況
 にはしなかった。
  そして、やっと、黒人の方々は、自由を得ることが出
 来た(・・いや・・この揺れ戻しが・・あります・・ま
 た、昔の奴隷制に戻る様な・・本当にしつこい、奴隷解
 放の歴史だったのです・・遅れたアメリカだったのです)
  リンカーンが、渋っていた黒人の方々の南北戦争の参
 戦を、リンカーンが、あまりにも卑劣に拒絶するので、
 黒人の方々は、独自に部隊を作って参戦してしまった。
  この様な行為をしなければ、黒人の方々は参戦できな
 かった。
  黒人の方々の戦いは素晴らしかった。
  目ざましい役割を黒人の方々は果たした。
  この働きは、アメリカ北部軍の勝利を、最終的なもの
 に導く原動力となった。
  際立って重要なものが、黒人の方々のこの貢献だった。
  アメリカ北部軍の勝利は、黒人の方々によって「もた
 らされた」と言える状況だった。
  今・現在のアメリカ北部政権は、『黒人の方々によっ
 てもたらされた』と言える。
  リンカーン記念堂に、この黒人の方々の戦功・働きを
 顕彰する記念碑を建立すべき・・、
  そして、毎年、記念行事を開催し、この貢献をした黒
 人の方々の戦士に「感謝の誠を捧げなければならない」。
  この様な黒人の方々の戦功があって、やっと、黒人の
 方々は、自由を獲得することができた。
  アメリカは、卑劣にも、ここまでしなければ、黒人の
 方々を自由の身にして差し上げられなかった。
  黒人の方々は、逃亡して参戦した。
  この様な逃亡奴隷の黒人の方々は、50万人も居た。
  絶大なる人々である。
  リンカーンが、「奴隷解放をしました」そして「黒人
 奴隷の方々が自由になりました」なんていう話では『無
 いのです』。
  黒人の方々は、この南北戦争を、「奴隷解放の戦い」
 と捉(とら)えていた・・自分たちが自由になれる戦い
 と捉えていた。
  リンカーン政権は、あちこちで参戦したいという黒人
 の方々を拒絶していた。
  参戦の準備を黒人の方々は行っていた・・その為の軍
 事訓練や軍事組織を作った。
  しかし、『この様な事まで禁止するリンカーン政権』
 だった。
  黒人の方々は言った・・、
  「私たちは、すでに用意ができています。
  白人の防衛者と同様に、私たちは、私たちの生命と財
 産と名誉をかけて、自由のために良き市民として、私た
 ちの政府を守る覚悟ができています。
  私たちは、同胞の皆さんに、この事を訴えたいのです。
  そして、私たちは、軍籍に身を置くことができるよう
 に、皆さんの法律を改めて戴くようにお願いしたいので
 す。
  私たち黒人の胸の中に燃え上がっている愛国的感情を
 思う存分に発揮できますように」・・この訴えも、リン
 カーンに届かず、無視されていた。
.
1902年2月4日、リンドバーグが生まれた(~1974年8月26日)
  チャールズ・オーガスタス・リンドバーグは、アメリ
 カ合衆国の飛行家で、ハーモン・トロフィー、名誉勲章、
 議会名誉黄金勲章の受賞者である。
  1927年には、「スピリット・オブ・セントルイス」と
 名づけた単葉単発単座のプロペラ機で・・、
  ニューヨーク~パリ間を飛び・・、
  大西洋単独無着陸飛行に初めて成功した。
  1931年には、北太平洋横断飛行にも成功している。
  1953年に、大西洋単独無着陸飛行について書いた「The
 Spirit of St. Louis"(『翼よ、あれがパリの灯だ』)
 を出版し、
  これにより、1954年のピュリッツァー賞を受賞した。
  同書は、1957年に、ビリー・ワイルダー監督の手で映
 画化されて有名になった(『翼よ! あれが巴里の灯だ』)
  また、リンドバークは・・、
  「日本軍と、アメリカ軍(連合軍)との戦死者・捕虜」
 について言及した。
  特に、アメリカ軍の残虐行為について糾弾した。
  リンドバーグは、日米開戦後、軍の技術顧問となり、
 南太平洋に赴任し、そのアメリカ軍の残虐行為を目撃し
 た。
  そして、日記に、次ぎの事柄を書き記した。
  以下、その一部の抜粋・・、
☆各地の太平洋戦線で、日本人捕虜の数が『欧州戦線に比
 して異常に少ない』のは・・、
  捕虜にしたければいくらでも捕虜に出来るが、
  アメリカ兵が捕虜を取りたがらないから、
  手を上げて降参して日本兵が投降して来ても、皆殺し
 した。
  その為、日本兵の捕虜が少なかった・・、
☆あるところでは、2000人ほど捕虜にしたが、本部に引き
 たてられたのは、たった100人か、200人だった(それは、
 日本人の捕虜のほとんどを殺戮したからだった)
  残りの連中には、ちょっとした出来事があった。
  それを知った戦友は投降したがらないだろう。
☆捕虜を取らないことを自慢する部隊がいた(降参した日
 本兵を、捕虜にする前に殺したから)
☆将校連は、尋問の為、捕虜を欲しがる。
  捕虜1名につき、シドニーへの2週間の休暇を出すと
 お触れが出た途端に、持て余すほどの捕虜が手に入った。
  懸賞を取り消すと一人も手に入らなくなった。
  つかまらなかったと嘯(うそぶ)くだけだった。
☆一旦、捕虜にしても、英語が分かる者は、尋問のために
 連行され、出来ない者は捕虜にされなかった。
  即ち、殺された。
☆捕虜を飛行機で運ぶ途中、機上から山中に突き落とし、
  ジャップは、途中でハラキリをやっちまったと報告し
 た。
☆ある日本軍の野戦病院を、ある部隊が通過したら生存者
 は一人もいなかった。
☆2年以上、実戦に参加した経験がない兵が、帰国前に、
 せめて一人くらい日本兵を殺したいと希望し、
 偵察任務に誘われたが、撃つべき日本兵を見つけられず、
 捕虜一人だけ得た。
  捕虜は、殺せないと嫌がるくだんの兵の面前で、軍曹
 がナイフで首を切り裂く(殺す)手本を示した。
☆ 『爆弾で、出来た穴の中に、皆、四肢バラバラの状態
 の日本兵の死体を投げ込み、その後で、トラック1台分
 の残飯や廃物を投げ込んだ』
☆捕虜にしたがらない理由は、殺す楽しみもさる事ながら、
  お土産を取るのが目的。
  金歯、軍刀はもとより、大腿骨を持ち帰り、それで、
 ペン・ホルダーとか、ペーパーナイフを造る。
  耳や鼻を切り取り、面白半分に見せびらかすか、乾燥
 させて持ちかえる。
  中には、頭蓋骨まで持ちかえる者もいた。
☆日本兵を動物以下に取扱い、それが、大目に見られてい
 る。
  我々は、文明のために戦っているのだと主張している
 が、
  太平洋戦線を見れば見るほど、(アメリカ人が)文明
 人を主張せねばならない理由がなくなるように思える。
  事実、この点に関する成績が、日本人のそれより遥か
 に高いという確信は持てない(日本人の方がよっぽど立
 派だ)・・、
  リンドバーグは、ドイツ降伏後、ナチスによる集団虐
  殺現場を見学した時の日記で・・、
  「どこかで見たような感じ、そう南太平洋だ・・と書
 いた。
  爆撃後の穴に、日本兵の遺体が腐りかけ、その上から
 残飯が投げ捨てられ、
  待機室やテントに、まだ生新しい日本兵の頭蓋骨が、
 飾り付けられているのを見た時だ。
  ドイツは、ユダヤ人の扱いで、人間性を汚したと主張
 する我々アメリカ人に、日本人の扱い方で同じようなこ
 とをしでかしている・・とリンドバーグは言った。
  リンドバーグは、オーストラリア軍が、輸送機から日
 本兵の捕虜を、飛行中に投げ捨てられている・・と書い
 てもいる(目撃した)。
  本:『War Journal of Charles Lindbergh』
  リンドバーグは、戦前、ドイツとも接触したため、ア
 メリカで、大バッシングを受けた。
  彼の名誉が回復するのは、30年後だった・・亡くなる
 直前だった。
  彼は、正義を求めて、真実を書いただけだった。
  これ等の事は、世界記憶遺産に登録し・・
  アメリカとオーストラリアの各地に銅像を立てよ!
.
2008年9月15日、リーマン・ショック
  これは、アメリカが起こした卑劣な世界的経済騒動だ
 った。
  2008年9月15日、アメリカ合衆国の投資銀行であるリー
 マン・ブラザーズ・ホールディングスが破綻した・・
  連邦破産法第11条の適用を、連邦裁判所に申請した。
  このことに端を発して、続発的に世界的金融危機が発
 生した。
  金が借りることが出来ない年収の低い人々にまで住宅
 を買わせ、バブル状態の経済の中で、その住宅が値上が
 りして行くことで担保させようと目論んだ・・
  こんな、裏付けのないタイトロープを渡る様な儲けの
 システムは、いつかは破綻するのは必定であったが、
  これを、アメリカ大統領(ブッシュ・子)が音頭を取
 って、国全体がやるような状況を作って、それで、やっ
 た・・
  案の定、いくら国が大きいと言っても行きつくところ
 の終着点に来た。
  しかし、ここでも、また、卑劣な事をアメリカはした。
  この様な卑劣な債権を「細切れにして」、表面的には
 見えない様にして、状態の悪い債券がある様には見えな
 い様にして(健全債権ばかりの様にして)、良質な債権
 に混ぜて世界中に売りさばいた。
  また、卑劣なのは、アメリカは、「格付け会社」なる
 ものを作った・・そして、その会社にその債券の格付け
 を「良く評価させた」。
  良い債券だというお墨付けを付けた。
  つまり、自分(アメリカ)の都合の悪い借金の肩代わ
 りを世界中にさせるという行為だった。
  この様な悪のシステムが「ばれれば(隠していたこと
 や、嘘などが明るみに出て露見する)」、一気に値崩れ
 するのは当たり前だった・・
  これが、リーマン・ショックだった。
  厖大(ぼうだい、非常に多量)な金、あるように見え
 ていた金が消えてなくなった・・蒸発した。
  あまりにも巨額で、不透明で、損失が拡大していく中
 で・・この対応で、世界中が、シッチャカメッチャカに
 なった。
  あちこちの企業が、金融機関が大損失を出した。
  この様な事が分かっていて、だから、ショックが起き
 ると分かっていた者・・その者だけが、「売り抜けて」
 大もうけした・・
  それは誰か?・・その様な悪も居た・・、
  さらに、この大ショックで、大暴落したその底で買っ
 た奴も大儲けした・・
  当然、事実が判明した時は、そのショックで、株価は、
 世界中で大暴落した。
  経済は冷え込んだ、消費も落ち込んだ、金融不安が蔓
 延した・・
  アメリカ・ドルは急落してドル安が進んだ・・
  アメリカ市場の依存度の高い企業は、大きなダメージ
 を受けた・・
  景気後退が広がって行った・・
  この後遺症は、長く世界を悩ました。
  中国の人民元は、対米ドルとの関係で、米ドル急落で、
 資金が急激に中国に流入し、過剰になるくらいだった。
  中国株価は急騰した・・生産はフル回転となった・・
 総需要が高まり・・世界の工場としての存在の中国は、
 大回転した。
  それまで、失業問題が深刻だった中国は、嘘のような
 状況となった。
  経営が立ち行かない企業が続出していたが、180度、変
 わってしまった。
  サブプライムローンをあまり保有していない中国は、
 影響が、損失が、ほとんど発生しなかった。
  アメリカやEUの景気落ち込みの反動で、中国の経済
 は大伸長した。
  中国政府も、補助金などの支援策を実施し、景気対策
 を行なった。
  中国は、舞い上がった。
  重大産業振興策、医療制度改革などを加速した。
  中国の資金は、やがて、不動産取引へも流れ込んで行
 った。
  中国は流れに乗った・・
  北京の不動産価格も上昇して行った・・急騰と言えた・・
  この様な状況から発した中国経済・・
  中国は、「世界一になるのも近い」と思えるようにな
 った。
  中国が経済力で世界一になるのに「25年かかる」と言
 われていたが、「あと10年しかかからない」と、中国は
 思い込んだ。
  この思い込みが中国の舵を、大きく回転し、向きを変
 えた。
  中国の錯覚は、「経済力と国力の関係を見誤った」。
  小国などに、「金を渡せば、相手は黙る」と中国は思
 った。
  急に、自由になる金を一杯持った中国の悲しさだった。
  金の力で、相手を従わせると安易に考えて、行なった。
  アメリカも卑劣なリーマン・ショックを起こしたが、
 安易な方針転換をした中国もそこに居た。
..
 (詳しくは、以下のブログへ。そして、宜しければ、
        このブログを世界へ転送してください)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009
または
  http://d.hatena.ne.jp/HACHI2009/archive
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